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 投稿番号:100988 投稿日:2007年03月05日 18時24分32秒  パスワード
 お名前:アカコッコ
愚管抄と平家物語の関係
キーワード:愚管抄・慈円著
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード


 愚管抄は平安・鎌倉時代における、信用のおける史料と言われております。

 慈円が『愚管抄』を執筆したときに平家物語を参照し、その文章をそのまま、もしくは少し直して愚管抄の本文としたといわれており。
 平家物語の記事を前提としてそれに応じた文章を作ったと推定される部分さえあって、平家物語を参照しなければ、その文意が明確にならないこと、平家物語所見の記事を虚構として指摘していることなどである。

 平家物語とくに「延慶本」から引用されておるところが多いと言われている。
このように愚管抄と平家物語が密接であることが、判明すると、平家物語の作者は慈円の援助を受けた信濃前司行長であり、成立の時期は「後鳥羽院の御時」すなわち承久の乱前という徒然草の所伝があるが。

 「愚管抄」・日本古典文学大系(昭和42年:岩波書店発行)より。

[1]アカコッコさんからのコメント(2007年03月05日 18時31分17秒 ) パスワード

 『愚管抄』・平家物語にも鹿谷の件について記述があります。


 平家物語にも色々ありますが、下記の平家物語から。

 平家物語(新潮日本古典集成)底本は百二十句本には。

 東山のふもと鹿の谷という所は、うしろは三井寺につづきて、ゆゆしき城郭にてぞありける。これに俊寛僧都の山荘あり。

 つねはその所に寄りあひ寄りあひ、平家をほろぼすべきはかりごとぞめぐらしける。あるとき法皇も御幸なる。故清少納言信西の子息静憲法印も御供申す。
 
 中略・・・・・・大納言(成親)たちかえりて、「へいじすでに倒れ候ひぬ」と申さければ、法皇、ゑつぼにいらせおはしまして、「者ども、参りて猿楽つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼つと出でて、「あまりにへいじのおほく候ふに、もち酔ひて候」と申すあります。

 ◎・・・注釈には俊寛の山荘で謀叛の相談があった、そのため俊寛はのち鬼界が島で許されず死ぬことになる。平家物語はそう語るのだが『愚管抄』によるとそれは実は静憲の山荘であったという。

 静憲も俊寛の前に法勝寺執行だったので、鹿谷に法勝寺領があったのかもと思うが分からない。平家物語の中で静憲は院と清盛との橋渡し的な要人で、彼が関係し提供したらしい話題が少なくない。

 鹿谷謀議のこの話にも、彼の傍観的な視線がはたらいている。そもそもが静憲の語る鹿谷の物語だったとすれば、山荘の主が俊寛にされるのも納得できそうである。
[2]アカコッコさんからのコメント(2007年03月05日 18時37分34秒 ) パスワード

『愚管抄』には。少しの引用では良く分からないので前文から始めます。

 『カクテ建春門院ハ安元二年七月八日瘡ヤミテウセ給ヒヌ。ソノノチ院中アレ行ヤウニテ過ル程ニ、院ノ男ノオボヘニテ、成親トテ信頼ガ時アヤウカリシ人、流サレタリシモ、サヤウノ時ノ師仲マデ、内侍所、又カノコイトリタリシ小鈎ナド持テ参リツヽ、カヘリテ忠アル申シカバ、皆カヤウノ物ハメシカヘサレニケル。コノ成親ヲコトニナヽメナラズ御寵アリケル。

 信西ガ時ノ師光・成景ハ、西光・西景トテコトニメシツカヒケル、康頼ナド
云サルガウクルイ物ナドニギニギトメシツカヒテ、又法勝寺執行俊寛ト云者、僧都ニナシタビナドシテ有ケルガ、アマリニ平家ノ世ノマヽナルヲウラヤムカニクムカ、叡慮ヲイカニ見ケルニカノシテ、東山邊ニ鹿谷ト云所ニ静賢法印トテ、法勝寺ノ前執行、信西ガ子ノ法師アリケルハ、蓮華王院ノ執行ニテ深クメシツカイケル。萬ノ事思ヒ知テ引イリツヽ、マコトノ人ニテアリケレバ、コレヲ又院モ平相国ヲ用テ、物ナド云アハセケルガ、イサヽカ山荘ヲ造リタルケル所へ、御幸ノナリナリシケル、コノ閑所ニテ御幸ノ次ニ、成親・西光・俊寛ナドアツマリテ、ヤウヤウノ議ヲシケルト云事ノ聞コエケル。コレハ一定ノ説ハ知ネドモ、・・・・・・

 多田行綱の裏切りにて露見し西光は斬られ、成親は佐渡へ、御白河法皇も幽閉されること二年に及び、

 平重盛が「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」と父清盛を諌めたのはこの時である。

 その後大赦を行ったのは建礼門院出産につき、安産祈願のためであるが俊寛だけは首謀者とみなされ許されなかった。

[3]アカコッコさんからのコメント(2007年03月07日 12時16分21秒 ) パスワード

第九十九句 池の大納言関東下り

寿永三年四月一日、鎌倉前の右兵衛佐頼朝、称四位下に叙す。中略・・・

 そのころ池の大納言頼盛、関東より、「下らるべき」よし申されければ、大納言関東へこそ下られけれ。その侍に弥平兵衛宗清といふ者あり。

 しきりに暇申して、とどまるあひだ、大納言、「なにとて、なんぢは、はるかの旅におもむくに見送らじとするぞ」とのたまへば、弥平兵衛申しけるは、「さん候。戦場へだにおもむき給はば、まつ先駆くべく候ふが、参らずとも苦しうも候ふまじ。

 君こそかうてわたらせ給へども、西国におはします公達の御事存知候へば、あまりにいとほしく思ひまゐらせ候」

『愚管抄』には:

 義仲京中ニイリテクビラントセシハジメニ、頼盛大納言ハ頼朝ガリクダリニケリ・・・
とあります。

 頼盛は寿永二年十月十八日に京都を逐電して鎌倉に下向したが、義仲がかれを捕らえようとしたことがその動機であった、愚管抄だけが伝えている。

 「東鏡」はこの部分は欠け、平家物語の延慶本では池大納言関東へ下給事が元暦元年五月三日とするのを初めとして、他の緒本も同様に元暦元年五月とし、事実と一致しない。
 頼朝との会見記事も、頼盛が宗清を伴わなかったことが残念がったことを延慶本は強調している。

 愚管抄のこの部分の記事は玉葉、寿永二年十一月二・六日の記事と基本が一致している。
[4]アカコッコさんからのコメント(2007年03月07日 12時36分01秒 ) パスワード

 なんでこの百二十句本の『平家物語』が好きかと云えば宗清の事が詳しく記述があるからです。(B5で4頁ぐらい 弥平兵衛宗清述懐の記述があるからです。)
        身贔屓ですみません(笑い)

◎  宗清が配流の頼朝を篠原(近江の国野洲郡)まで送ったことは、「平治物語」金刀比羅本に見える。

◎  弥平兵衛宗清は、『平治物語』に頼朝逮捕から、身柄預かり助命に奔走する一連の話題が詳しいが、平家物語での登場はここのみである。
 武勇というより情義兼ねた紳士的武士像が近世演劇にまで伝承されてゆく。
その意地に眉をひそめたような頼朝の言葉や、大小名の「賢人だて」という批判は源氏本位の露骨さが面白い。


◎  この話題の紹介自体が彼の譜代の平家魂を賞讃しているわけだが、他本「心ある侍どもはこれを聞きてみな涙を流しける」のごときと較べると、緒本間にも倫理性に種々の立場の反映があるというべきであろう。

[5]アカコッコさんからのコメント(2007年03月08日 18時28分12秒 ) パスワード

宗清の述懐など発表する場所がないので、こちらに載せさせて頂きます。

『平家物語』・百二十句本(新潮日本古典集成・昭和54年4月10日発行)より。

[3]の文の続き

 兵衛佐殿を宗清が預かり申して候ひしとき、随分つねはなさけありて、奉志をしたてまつりしこと、よも御忘れ候はじ、故池殿の死罪を申しなだめさせ給ひて、伊豆の国へながされ給ひしとき、仰せに(池尼の)て、近江の篠原までうち送りたてまつりしこと、つねはのたまひ出だされ候ふなる。

下り候はば、さだめて饗応し、引出物せられ候はんずらん。
さりながらこの世はいくばくならず。西国にわたらせ給ふ公達、また侍どもが返り承らんこと、恥ずかしくおぼえ候」と申せば、大納言、「何とて、さらば都にとどまりしとき、さは申さざるぞ」とのたまえば、「君のかうてわたらせ給ふを『悪しし』と申すにはあらず。

兵衛佐もかひなき命生き給ひてこそ、かかる世にも逢はれ候へ」としきりに暇申してとどまるあひだ、大納言、力および給はで、四月二十日関東へこそ下られけれ。

兵衛佐、大納言に対面し給ひて、「何とて宗清は来たり候はぬやらん」とのたまへば、「宗清は、今度はいたはること候ひて、下り候はず」とのたまへば、兵衛佐殿、よにも本意なげにて、「むかし彼がもとに預けられ候ひしとき、なさけある奉心の候ひしこと、いつ忘るべきともおぼえ候はず。『さだめて御供に下り候はんずらん』と恋しく心待ち候ひしに、あはれ、この者は意趣の候ふにこそ」とのたまひけり。

『平治物語』の(頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事)にも宗清の言動が少しばかり書かれております。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月09日 11時56分10秒 ) パスワード

今井四郎どののところよりぱくって来ました(すみません)
それで所々下にアップします。


1.頼朝が捕らえられて宗清に預けられた所まで

二月九日、義朝の三男前右兵衛佐頼朝、尾張守の手より生捕て、六波羅につき給ふ。同次男中宮大夫進朝長の頸をも奉らる。その故は、彼尾張守の家人、弥平兵衛宗清尾州より上洛しけるが、不破の関のあなた、関が原といふ所にて、なまめいたる小冠者、宗清が大勢におそれて、薮の陰へ立しのびければ、あやしみてさがすほどに、かくれ所なくしてとらはれ給ふに、宗清みれば、兵衛佐殿也しかば、よろこぶ事かぎりなし。やがて具足し奉(っ)てのぼるほどに、あふはかの大炊がもとにぞ宿しける。いさゝかきくかへり事ありければ、何となく後苑にいでゝ見まはすに、あたらしく壇つきたる所に、そとばを一本たてたり。則其下をほらせければ、おさなき人の頸とむくろとをさしあはせてうづみたり。是を取て事の子細をたづぬれば、力なく大炊ありのまゝにぞ申ける。宗清喜て、同じく持参しける也。よ(っ)て頼朝をば、先宗清にぞあづけをきける。



2.頼朝が宗清に預けられてから 

兵衛佐は宗清がもとにおはしければ、尾張守より丹波藤三国弘といふ小侍一人付られけり。すでに今日明日誅せられ給ふべしときこえしかば、宗清、「御命たすからんとは思食候はずや。」と申ければ、佐殿、「去ぬる保元におほくの伯父親類をうしなひ、今度の合戦ゆへ、父うたれ兄弟皆うせぬれば、僧法師にも成て、父祖の後世をとぶらはゞやと思へば、命はおしきぞとよ。」との給へば、宗清もあはれにおぼえて、「尾張守の母、他の禅尼と申は、清盛のためには継母にておはしませども、おもく執し給へば、彼方などに付て申させ給はゞ、もし御命はたすかりおはします事も候べき物を。彼尼は、わかくより慈悲ふかき人にて御わたり候。そのうへ一日参て候時、をのがもとに頼朝があ(ん)なるは、いかなるものぞととはせ給ひしかば、御年のほどより事の外おとなしやかに候、其姿右馬助殿にいたく似まいら(っ)させ給て候と申しかば、世にゆかしげに思食たる御気色にてこそ候しか。」とかたり申ければ、「それも誰人か申てたぶべき。」との給へば、「さもおぼしめし候はゞ、叶はぬ迄もそれがし申て見候はん。」とて、池殿へまいり、「何者が申て候やらん、上の大慈悲者にておはしますとて、哀頼朝が命を申たすけさせ給へかし、父の後世とぶらはんと申され候しが、いたはしく候。然べき様に御はからひも候へかし。」と申せば、「そも頼朝に、尼を慈悲者とは誰かしらせける。いさとよ、故形部卿の時はおほくの者を申ゆるしゝか共、当時はいかゞ侍らん。さても右馬助にいたく似たるらむ無慙さよ。家盛だにあらば、鳥に成て雲をしのぎ、魚に成て水にもいり、誠に来世にてもあふべくは、只今死してもゆかんと思ふぞとよ。さて、いつきらるべきにさだまりたるぞ。」との給へば、「十三日とこそきこえ候へ。」と申せば、「かなはぬまでも申てこそみめ。」とて、小松殿、其時の勲功に、伊与守になり給しが、正月より左馬頭に転じ給へるを呼び奉て、「頼朝が尼に付て、命を申たすけよ、父の後世とはん、と申なるが、余りに不便にさぶらふ。よきやうに申てたべ。ことに家盛がおさなおひにすこしもたがはずときけば、なつかしうこそ侍れ。右馬助は、それの御為にも伯父ぞかし。頼朝を申たすけて、家盛が形見に尼にみせ給へ。」との給ければ、重盛参て、父に此よし申されけり。 清盛きいて、「池殿の御事は、故殿のわたらせ給ふと思ひ奉れば、いかなるあまさかさまの仰なりとも、たがへじとこそ存ずれ共、此事はゆゝしき重事也。伏見中納言・越後中将などがやうなる者をば、何十人助をいたりとも大事あるまじ。大底弓矢とる者の子孫は、それには異なるべきうへ、義朝などが子どもは、おさなく共子細あるべき物を。ことに頼朝は官加階も兄にこゆるは、ゆゝしき所があるにや。父も見かとめ侍ればこそ、重代の中にも取分秘蔵の物具などあたへけめ。かた<”助けをきがたき物を。」とて、以外の気色なり。 左馬頭帰り参て、かなひがたき題目なる由申されければ、池殿泪をながして、「あはれ、こひしきむかしかな。忠盛の時ならば、是ほどにかろくは思はれ奉らじ。一門の源氏皆ほろび侍り。あのおさなき者ひとりたすけをかれたりとも、何ばかりの事か侍らん。さきの世に頼朝に助られける故やらん、きくよりいたはしくふびんに侍ぞとよ。御身ををろそかとはおもひ奉らねども、一は使がらと申事の侍れば。」などまめやかに打くどきて、「猶かなはずしてつゐにうしなはれば、尼がかひなき命いきても何かせん。其うへ右馬助がおも影に似たりときくより、いつしか家盛が事思はれて、はたとむねふたがり、湯水も心よくのまれねば、をのづからひさしかるべしともおぼえ侍らず。哀尼が命をいかさんとおぼしめさば、兵衛佐をたすけ給へかし。」となげき給へば、重盛も迷惑せられけるが、涙ををさへて、「さ候はゞ今一度御定の趣を申てこそ見候はめ。同尾張殿をもそへ申され候へ。もろともに仰のよしくはしくかたり侍らん。」とて、頼盛と共にかさねて此よしを申されければ、清盛もさすが石木ならねば、案じわづらはれけるに、重盛、「女姓のいはけなき御心におもひしづみて、申させ給ふ事を、さのみはいかゞ仰候べき。然るべき御はからひも候はずは、御うらみふかく侍べし。あの頼朝一人誅せられ候とも、つきん御果報の長久なるべきにあらず。当家の運すゑにならば、諸国の源氏いづれか敵ならざらん。又たすけをかれたりとも、栄雄後輩に及べくは、何の恐か候べき。」と、理をつくして申されければ、まづ十三日をば延られて、慥の返事はなかりけり。然れば、けふきらるゝ、あすうしなはるゝなどきこえしかども、其日も延ければ、兵衛佐、これはひとへに氏神八幡大菩薩の御助なりと、弥心中に祈念ふかくぞおはしける。かく一日も命いきたらば、念仏をも申経をもよみて、父の後世をとぶらはんとて、卒都婆をつくらむとし給へ共、人、刀をゆるし奉らねば、丹波藤三をかたら(う)て、小刀并に木のきれを乞給へば、国弘、「何事の御手すさみぞや。頭殿を始まいらせて、御兄弟おほくうせさせ給ふに、御経をもあそばさで。」と申せば、兵衛佐、「天下に物おもふ者、われにまさる人あらじとこそ思へ。去年の三月に母にをくれ、今年の正月に父うたれ給。義平・朝長にもわかれ奉る。されば此人々の菩提をもとはんと思ひて、そとばをなりともつくらばやと思ふ故也。就中、故頭殿の六七日もけふあす也。四十九日も近づけば、ことなる供仏施僧の儀こそ叶はずとも、それをせめての志にせんと思へば、刀をたづぬる也。」との給ければ、国弘も哀におぼえて、弥平兵衛に此よしをかたれば、宗清感じ奉て、ちいさき卒都婆百本作て奉る。みづからも造立書写して、或僧にあつらへて、かたのごとく供養の義をぞとげられける。池殿かやうの事どもをきゝ給ひて、弥いたはしく思食ければ、やう<に申されて流罪にぞさだまりける。 其時人申けるは、「大草香親王の御子眉輸王は、七歳のとき、父の敵、継父安康天皇を害し奉り、栗屋川次郎貞任が子千代童子は、十二のとし甲冑を帯し、父と一所に討死す。頼朝はすでに十四歳ぞかし。父うたれぬときかば、自害をもせで、尼公に属して、かひなき命いきんと欺くこそ無下なれ。」と申せば、又或人、「いや<おそろし。義朝不義の謀叛にくみして、運命をうしなふ事はさる事なれども、つら<事の心を思ふに、保元の忠節抜郡なれ共、恩賞これをろそかにして、大かたの清盛にはをとれり。よ(っ)て勲功のうすき事をうらみて、おこす所の叛逆なれば、君の御政のたゞしからざりしよりおこす所なれ共、下として上をしのぐがゆへに、身をほろぼし畢。然りといへども、大忠の余薫は家にとゞまれり。これをも(っ)て氏族の中に、必門葉をさかやかす輩あるべき也。頼朝おさなしといへども、父が子なれば、かやうの事を心にこめてや命をおしむらん。いかなる名将勇士も命あ(っ)ての事なり。されば越王の会稽の恥をきよめしも、命をま(っ)たうせしゆへ也。 たとへば呉国に越王勾践、呉王夫差とて、両国の王、互に国を合せんとあらそふが故に、呉は越の宿世の敵なり。よ(っ)て越王十一年二月上旬に、臣范蠡に向(っ)て、『夫差はこれ我父租の敵也。討ずして年を送る事、人のあざけりをとる所也。今我向(っ)て呉をせむべし。汝はわれにかは(っ)て国をおさめよ。』との給ふに、范蠡が申さく、『越は十万騎、呉は廿萬騎なり。小をも(っ)て大に敵せず。又春夏は陽の刻にて、忠賞をおこなひ、秋冬は陰の時にて刑罰を専とす。今年春の始也、征罰を致すべからず。隣国に賢人あるは敵国のうれへといへり。いはんや彼臣伍子胥は智ふかうして人をなづけ、慮とをうして主をいさむ。是三の不可なり。』といさめければ、勾践かさねていはく、『礼にいはく、父のあたには共に天をいたゞかず。軍の勝負必勢の多少によらず。時の運にしたがひ、時のはかりことにある者也。是汝が武略のたらざるゆへ也。もし時をも(っ)て勝負をはからば、天下の人みな時をしる。誰かいくさにかたざらん。これ汝が智慮のあさき所也。伍子胥があらんほどは、うつこと叶はじといはば、かれと我と死生しりがたし。いつをか期すべき。汝が愚三也。』とて、つひに呉に向ふ所に、越王うちまけて会稽山に引こもるといへども、かなひがたきがゆへに、降人と成て、面縛せられ、呉の姑蘇城に入て、手かせあしかせ入られて、獄中にくるしみ給ひけるに、范蠡きゝて、肺肝をくだきけるあまりに、あじかに魚をいれて、商人のまねをして、姑蘇城に至て、一喉の魚を獄中になげ入けるに、腹の中に一句を納たり。其ことばにいはく、『西伯囚二姜里一、重耳奔二于雉一、皆以為二覇王一。莫二死於許一レ敵。』勾践此一句をみて、弥命をおもんじ、石林をなめて本国にかへる時、行路に蟇のおどり出来るを下馬して拝す。国の人これをあやしみけるを知て、范蠡むかへにまいりけるが、『此君はいさめる者を賞じ給ふぞ。』と申ければ、近国の勇士つきしたが(う)て、つゐに呉王をほろぼして、国をあはせ畢ぬ。されば俗のことわざには、『石淋の味をなめて、会稽の恥をきよむ』といへり。頼朝も命ま(っ)たくはと思へば、尼公にもつき、入道にもいへ、たすかるこそ肝要なれ。」とぞ申ける。
[7]アカコッコさんからのコメント(2007年03月09日 12時50分05秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、有難うございます。

 延慶本の文章を探そうと今井殿のURLを見たのですが、何しろ膨大で長い文章なので探せず(努力がたりない)ハッキリ云うと根気が続かない(笑い)。

 百二十句本からの引用でそれもちょっとづつの文章で意味を読み取れなくて、御蔭さまで全体の意味が読み取れるようになりました。

 感謝申し上げます。今井殿にも感謝・感謝。

 そのうちに愚管抄と吾妻鏡の関係も考えております。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月10日 03時01分45秒 ) パスワード

>そのうちに愚管抄と吾妻鏡の関係も考えております。

よろしくお願い致します。


今井四郎どのには本当に感謝でございますよね。


<6>のように
『平治物語』の(頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事)にも宗清の言動が少しばかり書かれております、と御紹介くださいますと(どこだ?どこだ?)と捜しに行くのが楽で助かります。物凄い量ですから全部見るには疲れてしまいますが箇所が特定されますと、ああ、こういうことなの?と見付け易いです。

アカコッコさんのご努力に感謝いたします。
ぺこり
[9]アカコッコさんからのコメント(2007年03月12日 11時50分12秒 ) パスワード

『愚管抄』
又時忠ガ高倉院ノ生レサセ給ヒケル時、イモウトノ小辨ノ殿ウミマイラセケルニ、ユヽシキ過言ヲシタリケルヨシ披露シテ、前ノ年解官セラレニケリ。
 カヤウノ事ドモヽユキアイテ、資賢・時忠ハ應保二年六月廿三日ニ流サレニケル。

高倉天皇誕生の時に平時忠らがしたという失言は、源平盛衰記によると、次のごときものであった。

 「応保元年九月十五日ニハ左馬権頭平頼盛、右少弁時忠解官セラレケリ。是ハ高倉院ノ宮ニテオハシケルヲ、太子ニ立奉ラント謀ケル故ナリ。
 又上皇(後白河」政務ヲ聞召ルベカラザルノ由清盛卿申行ケリ。君ノ威忽ニ廃レ臣ノ驕速ニイチジルシ。同日除目ニ信範〈出羽守平知盛子〉ヲ以ッテ右少弁ニ任ゼラレ時忠ヲ以ッテ五位ノ蔵人ニ補セラルベキノ由。

 これは源平盛衰記以外にない記事であるが、その記述のうちには事実でないことがあり、どこまで信頼し得るか問題である。
 
 しかし時忠が生まれたばかりの皇子の立太子を望んで失言したことは事実であろう。

 『愚管抄』にこの記事が書かれているという事は慈円は平家物語と「源平盛衰記」も参照したのか思うが、延慶本の原本を除いて、流布本や「源平盛衰記」は、
 はるかに後世の作(南北朝頃の成立)であるからそれは無理ではなかろうか。
[10]アカコッコさんからのコメント(2007年03月20日 12時34分31秒 ) パスワード

高倉院ハ先立テ正月十四日ニウセ給ヒニキ。
小略・・・入道ウセテ後、寿永二年七月マデハ三年ガ程スギケルニ、先ヅ北陸道ノ源氏スヽミテ近江国ニミチケリ。コレヨリサキ越前ノ方ヘ家ノ子ドモヤリタリケレド、散々ザンニ追カエサレテヤミニケリ。トナミ山ノイクサトゾ云フ。

カヽリケル程ニ七月廿四日ノ夜、事火急ニナリテ、六ハラへ行幸ナシテ、一家ノ者ドモアツマリテ、山シナガタメニ大納言頼盛ヲヤリケレバ再三辭シケリ。

頼盛ハ、「治承三年冬ノ比アシザマナル事ドモ聞ヱシカバ、ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル由故入道殿ニ申テキ、遷都ノコロ奏聞シ候キ。今ハ如此事ニハ不可に供奉ス」ト云ケレド、内大臣宗盛不用也。セメフセラレケレバ、ナマジイニ山シナヘムカイテケリ。

山シナガタメニ大納言頼盛(愚管抄の補注によれば)
頼盛が山科防御に派遣されたのは、吉記によると七月二十二日夜である。

 「午刻許、平中納言〈知盛〉・三位中将〈重衝〉等向勢共着甲冑両人勢及二千騎云々。又夜按察大納言〈頼盛〉下向、今夜各宿山科辺云々」。
 これによると平氏一家が会合したのは、七月二十二日であったに相違ない。頼盛は当初拒否したが、結局出陣したことは、平家物語には全然所見しない。

 頼盛が治承三年十一月十五日の政変で清盛から重大な嫌疑を受けていたことは、十六日に解官され、続いて十一月二十二日にその所領全部が収公された(玉葉)と伝えられたことで知られる。
 頼盛は翌四年正月三日に朝廷出仕を許された(補任).頼盛がいつ清盛に対して軍事に関係しないと誓ったかは不明であるが、治承四年五月十五日に発覚した以仁王の謀反では、十六日の王逮捕に頼盛は活躍しており(玉葉)、二十一日には円城寺攻撃の大将の一人として頼盛もあげられている。
 
 福原遷都の時は頼盛の家が高倉上皇の御所となっている(玉葉)。
[11]アカコッコさんからのコメント(2007年03月22日 13時01分20秒 ) パスワード

平家一門都落ち(池の大納言心がはりの事)

池の大納言頼盛は、池殿に火をかけ、落ちられけるが、なにとか思はれけん、手勢三百余騎引きあうて、赤旗みな切り捨て、鳥羽の北の門より都へ引きぞ返されける。越中の前司盛俊これを見て、大臣殿(宗盛)に申しけるは、「池殿とどまらせ給ふに、侍どもあまたつきたてまつつてとどまり候。大納言殿まではおそれに候。侍どもに矢一つ射かけ候はばや」と申せば、大臣殿、「そのこと、さなくともありなん。年来の重恩を忘れて、このありさまを見果てぬぬ奴ばら、とかう言ふに及ばず」とぞのたまひける。

『愚管抄』には

内大臣宗盛一族サナガラ鳥羽ノ方ヘ落テ、船ニノリテ四国ノ方ヘムカイケリ。六ハラノ家ニ火カケテ焼ケレバ、京中ニ物トリト名付タル者イデキテ、火ノ中ヘアラソイ入テ物トリケリ。ソノ中ニ頼盛ガ山シナニアルニモツゲザリケリ。カクト聞テ先子ノ兵衛佐為盛ヲ使ニシテ鳥羽ニヲヒツキテ、「「イカニ」ト云ケレバ、返事ヲダニモヱセズ、心モウセテミエケレバ、ハセカヘリテソノ由云ケレバ、ヤガテ追様ニ落ケレバ、心ノ内ハトマラント思ヒケリ。又コノ中ニ三位中将資盛ハソノコロ院ノオボヱシテサカリニ候ケレバ、御気色ウカヾハント思ケリ。コノ二人鳥羽ヨリ打カヘリ法住寺殿ニ入リ居ケレバ、又京中地ヲカヘシテアリケルガ、山ヘ二人ナガラ事由ヲ申タリケレバ、頼盛ニハ、「サ聞食ツ、日此ヨリサ思食キ、忍テ八條院邊ニ候ヘ」ト後返事承リニケリ。
[12]アカコッコさんからのコメント(2007年04月06日 12時45分39秒 ) パスワード

―義仲平家和睦ならず―

そのころ「木曽追罰のために東国より討手上る」よし聞こえしかば、木曽は西国へ早馬たてて、「平家の人々、いそぎ都へ上り給へ。ひとつになって東国を攻めん」とぞ申したる。平家の人々これを聞き、よろこびあはれけり。平大納言時忠、新中納言知盛申されけるは、「さればとて、いまさらに木曽にかたらはれ、都へ帰りのぼり給はんことしかるべしともおぼえず候。十善の帝王、かたじけなくも三種の神器を帯してわたらせ給へば、ただ兜をぬぎ、弓をはづして降人に参り給へ」と申されければ、大臣殿、この様を都へのたまひのぼせたりけれども、それを木曽もちひたてまつらず。

『愚管抄』には

カヤウニテスグル程ニ、コノ義仲ハ頼朝ヲ敵ニ思ヒケリ。平氏ハ西海ニテ京ヘカヘリイラント思ヒタリ。コノ平氏ト義仲ト云カハシテ、一ニナリテ関東ノ頼朝ヲセメント云事出キテ、ツヽヤキサヽヤキナドシケル程ニ、是モ一定モナシナドニテアリケルニ、院ニ候北面下・友康・公友ナド云者、ヒタ立ニ武士ヲ立テ、頼朝コソ猶本體トヒシト思テ、物ガラモサコソキコヘケレバ、ソレヲヲモハヘテ頼朝ガ打ノボランコトヲマチテ、又義仲何ゴトカハト思ケルニテ、法住寺殿院御所ヲ城ニシマハシテヒシトアフレ、源氏山々寺々ノ者ヲモヨホシテ、山ノ座主明雲参リテ、山ノ悪僧グシテヒシトカタメテ候ケルニ、義仲ハ又今ハ思ヒキリテ、山田・樋口・楯・根ノ井ト云四人ノ郎従アリケリ、我勢ヲチナンズ、落ヌサキニトヤ思ヒケン。

◎ 義仲と頼朝との関係は挙兵当初から悪かったが、決定的に悪化したのは、
入京直後に行われた朝廷の恩賞が頼朝を第一とし義仲を第二としたことが原因であった(玉葉)。
[13]アカコッコさんからのコメント(2007年04月17日 12時23分47秒 ) パスワード

平 家貞の記述があるところ(1)。

サテ内々コノ(事)シカルベキ人々相議定シテ、「清盛熊野ヨリ帰テナニトナクテアレバ、一定義朝モ信頼モケフケフト思フ様共オホカラン。
用心ノ堅固ニテハ物ノタカクナルモアヤムル事ナリ。スコシ心ヲノベテコソヨカラメ」ニテ、「清盛ガ名簿(ナヅキ)ヲ信頼ガリヤルベキ、ソノヨシ子細ヲ云ヘ」トテヤリケレバ、清盛ハタヾ、「イカニモイカニモカヤウノ事ハ、人々ノ御ハカラヒニ候」ト云ケレバ、内大臣公教ノ君ゾマサシクソノ名簿ヲバカキタリケル。

ソレヲ一ノ郎等家定(家貞)ニ持セテ云ヤリケルヤウハ、「カヤウニテ候ヘバ、何トナク御心オカレ候ラン。
サナシトテオロカニナルベキニハ候ハネド、イカニモイカニモ御ハカラヒ御気色をばタガヘマイラセ候マジキニ候。ソノシルシニハオソレナガラメイボヲマイラセ候ナリ」(愚管抄)

(信頼信西を亡ぼさるる議の事)「平治物語」

かやうにしたゝめ轉して、ひまをいつやと伺ほどに、平治元年十二月四日、大宰大貳清盛は子息重盛相具して年籠と志し、熊野へ参詣せられけり。中略・・・

(六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事)

清盛、「熊野参詣をとげべきか、是より帰るべきか。」との給へば、左衛門佐重盛申されけるは、「熊野御参詣候も、現當安穏の御祈祷の御為にてこそ候へ。
敵を後に置きながら御参詣如何。」と申されければ、「敵に向て帰洛せんずるに、鎧の一領もなくては如何せんずる」との給ける處に、
筑後守家貞、長櫃を五十合おもげににかゝせて出来る。
かゝるはれに長持を持たせずして、長櫃のかゝせやう然べかたずと人申けるに、爰にて五十領の鎧五十腰の矢を取り出して奉る。「弓はいかむ」との給へば、大きな竹の節をつきて弓を入れさせたり。母衣まで用意ぞしたりける。

家貞は重目結の直垂に洗革の鎧着て、太刀脇にはさみ、「大将軍に仕るゝにはかうこそ候へ」と申ける。侍共理にやとぞかんじける。


[14]アカコッコさんからのコメント(2007年04月17日 12時28分01秒 ) パスワード



平 家貞の記述があるところ(2)。

(殿上の闇討)・「平家物語」

参内のはじめより、大きなる鞘巻きを束帯の下にさし、灯のほのぐらきかたに向かってこの刀をぬき出だし、鬢にひきあてけるが、よそよりは氷などのやうに見えたり。
諸人目をぞすましける。
そのうへ忠盛の郎等、もとは一門たりし平の木工助貞光が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞といふ者あり、木賊色の狩衣の下に、萌黄縅の腹巻を着て、弦袋つけたる太刀わきばさみ、殿上の小庭にかしこまってぞ侍ひける。

貫主以下あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴のつなの辺に、布衣の者の侍ふは何者ぞ。まかり出でよ。狼藉なり」と、

六位をもつて言はせられたりければ、家貞かしこまって、「相伝の主備前守殿今宵闇討にせられ給ふべきよし、つたへ承って、そのならんやうを見んとて、かくて侍ふ。えこそまかり出づまじう候へ」とて、かしこまって侍ひければ、これをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討はなかりけり。

◎ 清盛の熊野詣出発の年月日は平治物語以外に徴すべき史料がない。

◎ 家貞の人物像がどの書にも好人物に描かれており、嬉しいですね。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月18日 01時35分51秒 ) パスワード

>◎ 家貞の人物像がどの書にも好人物に描かれており、嬉しいですね。

はい。


平家の上げ潮時には「ぬかりがない」ですね。

最盛期を迎える=手抜かりがあちこちで頻発しだして
やがて衰退していくということなんでしょうね。
[16]アカコッコさんからのコメント(2007年04月25日 08時17分02秒 ) パスワード

平 家長の記述があるところ(1)。

熊谷直実が平敦盛の最後を家長宛の牒状の文。

直実謹んで申す。不慮にこの君に参会したてまつり、・・・・中略・・・この君の御素意を仰ぎたてまつるのところに「ただ御命を直実にくだし賜はりて、御菩提を弔ひたてまつるべき」よし、しきりに仰せ下さるるのあひだはからず落涙をおさへながら、御首を賜はり候ひををはん。うらめしきかな、いたましきかな、この君と直実、怨縁を結びたてまつり、嘆かしきかな、悲しきかな、宿縁はなはだ深うして、怨敵の害をなしたてまつる。しかりといへども、これ逆縁にあらずや。なんぞたがひに生死のきづなを切り、ひとつ蓮の身とならざらんや。かへって順縁に至らんや。しかるときんば、閉居の地を占め、よろしく彼の御菩提を弔ひたてまつるべきものなり。直実が申状、真否さだめて後聞にその隠れなからんや。この旨をもって、しかるべき様に申し、御披露あるべく候。
 
誠惶誠恐、謹言(せいくわうせいきょう つつしんでもうす)
  寿永三年二月八日    丹治直実
 進上 伊賀平内左衛門尉殿

◎ 進上:貴人への書簡の宛名の形式で、貴人には直接宛てず側近の侍者に宛てて、取次ぎを依頼する形をとるのである。

◎「丹治」は丹の党の姓。熊谷宇治は私市党に属するというが、丹の党とする説もあり。もっとも私市・丹治は同族関係であった。

◎「伊賀平内左衛門尉」は平家重臣の一人家長(服部を姓とするという)平知盛の乳人子で、壇ノ浦合戦に殉ずる。
直実は武蔵守であった知盛に使えていたので、家長に書状を宛てるのも納得できる。

[17]アカコッコさんからのコメント(2007年04月25日 08時21分13秒 ) パスワード


返牒にいはく、

今月七日、摂州一の谷において討たるる敦盛が首、並びに遺物たしかに送り賜はり候ひをはん。

そもそも花洛の故郷を出で、西海の波の上にただよひしよりこのかた、運命尽くることを思ふに、はじめておどろくにあらず。
また戦場に臨むうへ、なんぞふたたび帰らんことを思はんや。・・・中略・・・貴恩の高きこと、須弥山すこぶる低し、芳志の深きこと、滄凕海かへって浅し。
進んでむくはんとすれば、過去遠々たり、退いて報ぜんとすれば、未来永永たり、万端多しといへども筆紙に尽くしがたし。しかしながらこれを察せよ。
恐々、謹言。

寿永三年二月十四日
     修理大夫経盛
 熊谷の次郎殿 返報 

◎ 敦盛の父親経盛への牒状だったのが分かる。
 両者の間に交換された書状は底本及び広本系に載るが、もとより真実かどうか、しかし不確かな話題を以って平家物語の虚構と言ってしまうこともできない。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月25日 08時44分32秒 ) パスワード

>もとより真実かどうか
>しかし不確かな話題を以って平家物語の虚構と言ってしまうこともできない。



美し過ぎますものねえ。

でもやっぱり優雅ですね。
直実も都で平家に仕えていたのですから
こういう礼儀を尽くしたというのが分かる気がしますね。
[19]アカコッコさんからのコメント(2007年04月26日 14時12分56秒 ) パスワード

平家長の記述があるところ(2)

巻十一 早鞆

新中納言(知盛)これを見て、伊賀の平内左衛門家長を召して、「今は見るべきことは見はてつ。ありともなにかせん」とのたまえば、平内左衛門、「日ごろの約束ちがひたてまつるまじ」とて、寄って、鎧二領着せたてまつりまゐらせ、わが身も二領着、手を取り組み、海にぞ入りにける。

平生「一所に」とちぎりし侍ども二十余人、みな手を取り組み、海へぞ入りける。

◎「今は見るべきことは見はてつ」と言って悠揚と海に入った知盛の眼は何を見はてたのだろうか。
「運命尽きぬれば力およばず」と言いつつ最後の戦に臨んだ。阿波の民部の裏切りも見抜いていた。
教経の豪快な入水を遂げたとき、知盛は壇ノ浦戦の結末を、平家の滅亡の全容を、さらに平家一門の栄枯盛衰の歴史の一切の経過を、見果てたのだろうか。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月27日 02時48分36秒 ) パスワード

背筋がゾクゾクしました。

この家長という人物は、年齢的に、家貞の子の家長の息子ではないのかしら?と思います。


>平生「一所に」とちぎりし侍ども二十余人、みな手を取り組み、海へぞ入りける。

主従の美しい関係が読めますね。


義経の最期には哀しさを感じますが
知盛さまの最期には美しさを感じます。哀しさを超えてる。


>教経の豪快な入水を遂げたとき、知盛は

晴れやかな顔をして見たんじゃないかな?とかね。
「ああ、もう、これで良い」って。


>知盛は壇ノ浦戦の結末を、平家の滅亡の全容を、さらに平家一門の栄枯盛衰の歴史の一切の経過を、見果てたのだろうか。


幕の閉じ方が美しいと感動を残しますね。
[21]アカコッコさんからのコメント(2007年04月29日 14時36分21秒 ) パスワード

平貞能の記述があるところ(1)

貞能はそこ此処で活躍しているので、多くの記述があります。私はナナメ読みしているので、見落としもあるかもしれませんが完全なる身贔屓で展開しております。
 
「平治物語」(待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事)より

さるほどに六波羅には公卿僉議ありて、清盛をめさりけり。
かちんのひたゝれに黒糸をどしの腹巻に、左右の篭手をさし、おりえぼし引立、大床にかしこまる。・・・中略・・・
主上わたらせ給へば、清盛は六波羅の固めにとゞまる。
大内へ向かう人々には、大将軍左衛門佐重盛・三河守頼盛・淡路守教盛、侍には筑後守家貞・右衛門尉貞能・主馬判官盛国・子息左衛門尉ン盛俊・與三左衛門尉景泰・新藤左衛門家泰・灘波二郎經遠・同三郎經房・妹尾太郎兼康・伊藤武者景綱・楯太郎直泰・同十郎眞景を始て都合其勢三千余騎、・・・


「平家物語」:多田の蔵人返り忠

入道、筑後守貞能を召して、「やや、貞能。京中に謀叛の者みちみちたり。一向当家の身のうへにあんなるぞ。「一門の人々呼びあつめよ。侍ども召せ」とのたまへば、馳せまはって披露す。
馳せあつまる人々には、右大将宗盛、三位の中将知盛、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓矢を帯して馳せあつまる夜中に西八条に兵六七千騎もあらんとぞ見えし。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月29日 22時53分14秒 ) パスワード

貞能は(にっこり)
力の入れ方が変わってきますでしょうね。



この人物は家貞の正妻の子だったのかも、ですね。
良い家の出身の奥さんの子だったのか?
そして
貞能の妻で、良い家の出身だった女性から生まれた流れの御子孫でしたら
同じ貞能の子孫でも「堂上平氏」を称したかも知れませんね。

それかどこかで藤原家としっかりした婚姻関係を結んで違う方向に歩んだかも。


貞能が都落ちに同行しなかった
その意味が分かると
非常に面白いですね。

頼盛が同行しなかったというのは良くも悪くも「頼朝がらみ」で纏められるでしょうけど
貞能はどうしてだったんでしょうね?
娘が宇都宮と婚姻関係にあったのか?宇都宮とは主従関係以上のものがあったように想像します。
[23]アカコッコさんからのコメント(2007年05月01日 10時27分03秒 ) パスワード

 >貞能は(にっこり)
家貞・家長・貞能は結構良い場面で登場していて、平家物語を引き締めているみたいですね。

平貞能の記述があるところ(2)

小教訓: さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあって車に乗り、嫡子権亮少将(維盛)、車のしり輪に乗せたてまつり、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやうげにぞおはしける。

車よりおり給ふところに、筑後守貞能つつと参り、「など、これほどの御大事に、軍兵をば召し具せられ候はずや」と申しければ、小松殿『大事』とは天下の大事こそ言へ、わたくしを『大事』と言う様やある」とのたまえば兵仗帯したる者ども、みなぞろぞろ退きてぞ見えける。

「大納言(成親)をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうへに、蛛手結うたるところあり。

「ここやらん」とて、あけらたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。
大臣(重盛)「いかにや」とのたまえば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄にて罪人が地蔵菩薩を見たてまつるらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。
[24]アカコッコさんからのコメント(2007年05月02日 13時37分45秒 ) パスワード

平貞能の記述があるところ(3)

大教訓: 入道相国、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞をうらみたてまつらばや」とぞ申されける。

すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸縅の腹巻、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ、その気色まことにあたりをはらって、ゆゆしうぞ見えける。筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地の直垂に緋縅の鎧着て、御前にかしこまってぞ侍ひける。

・・・中略・・・西八条に数千騎ありつる兵ども、「小松殿にさわぎ事あり」と聞こえければ、入道相国にかうとも申さず、ざざめきつれて、小松殿へぞ参りける。
西八条には、青女房、筆取りなんどぞ侍ひける。弓やにたづさはるほどの者、一人も漏るるはなかりけり。

入道相国、大きにおどろき給ひて、筑後守貞能を召して、「内府がなにと思うてこれらを呼びとるやらん。これにて言ひつる様に、浄海がもとに討手なんどをもや向けんずらん」とのたまへば、「人も人にこそより候へ。いかでかさること候ふべき。のたまひつることも、いまさだめて御後悔ぞ候ふらん」と申せば、入道「いやいや、内府に仲違うてはかなふまじ」とて、腹巻を脱ぎおき、素絹の衣に袈裟うちかけ、法皇に向かひまゐらせんずることも、はや思ひとどまり、狂ひさめたる気色にて、いと心もおこらぬそら念誦してこそおはしけれ。
[25]アカコッコさんからのコメント(2007年05月04日 07時47分04秒 ) パスワード

平貞能の記述があるところ(4)

(金渡し医師問答)より

大臣(重盛)下向のとき、岩田川を渡らせ給ひけるに、嫡子権亮少将維盛以下の公達、浄衣のしたに薄色の衣を着給ひたりけるが、夏のことなりければ、なにとなう河水にたはぶれ給ふほどに、浄衣のぬれて、衣にうつりたるが、ひとへに色のごとく見えければ、筑後守貞能、これを見とがめたてまつりて、「あの浄衣、よに忌はしげに見えさせ給ひ候。召し替へらるべうや候ふらん」申しければ、大臣(おとど)「さては、わが所願、すでに成就しにけり。あへてその浄衣あらたむべからず」とて、岩田川より、別してよろこびの奉幣を熊野へぞたてられける。人「あやし」と思へども、その心を得ず。
しかるにこの公達、程なく、まことの色を着給ひけるこそ不思議なれ。大臣下校ののち、いくばくの日数を経ずして、病ひつき給ひしかば、・・・中略・・・

そのあした、嫡子権亮少将、院へ参らんと出でたたれたりけるに、大臣呼び給ひて、「御辺は人の子にすぐれて見え給ふ、貞能はなきか。少将に酒すすめよかし」とのたまへば、筑後守貞能うけたまはって、御酌に参る。大臣、「この盃をまず少将にこそ取らせたけれども、親よりさきにはよも飲み給はじ」とて、三度うけて、そののち少将にぞさされける。少将も三度うけ給ふとき、「いかに貞能、少将に引出物せよ」とのたまえば、貞能うけたまはって、錦の袋にいれたる御太刀を一振取り出す。

少将、「当家に伝はれる小烏という太刀やらん」と思ひて、よにうれしげに見給ふところに、さはなくして、大臣葬のとき用ひる無紋の太刀にてぞありける。少将、もってのほかに気色あしげに見えられければ、大臣涙をはらはらと流いて、「いかに少将、それは貞能がひが事にはあらず。

そのゆゑは、大臣葬のとき用いる無紋の太刀といふなり、この日ごろ、入道のいかにもなり給はば、重盛帯いて供せんと思ひつれど、いまは重盛、入道殿に先立たん。されば御辺に賜ぶなり」とのたまえば、少将これをうけたまはって、涙にむせび、うつ伏して、その日は出仕もし給はず。そののち、大臣熊野へ参り、下向して、いくばくの日数を経ずして、病ひついて失せ給ひけるにこそ、「げにも」と思ひ知られけれ。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年05月04日 09時03分37秒 ) パスワード

不思議な話ですね。

貞能は不吉に思った。

でも重盛は自らの死を知っていた。


知らぬは維盛のみ。
自分があの時、あんな薄色の衣を着ていなけりゃ良かった、と後悔したでしょうね。


この逸話からも
重盛の立派な人物像と小松家に誠心誠意仕える貞能とちょっと間に合わない維盛像が見られますね。
[27]アカコッコさんからのコメント(2007年05月05日 10時59分49秒 ) パスワード

平貞能の記述があるところ(5)

「城の太郎頓死」

さるほどに、越後の住人、城の太郎資長、当国の守に任ずる重恩のかたじけなさに、木曽追討のため、その勢三万余騎、六月十五日門出して、十六日の卯の刻にうちたたんとしける夜半ばかりに、にはかに大風吹き、大雨降り、なるかみおびたたしく鳴って、空はれてのち、雲居に大きなる声のしはがれたるをもって、「南閻浮提第一の金銅十六丈の廬遮那仏、焼きほろぼしたてまつる平家の方人する城の太郎、これにあり、召し取れや」と三声さけびてぞとほりける。
・・・中略・・・あくる卯の刻に城を出でて、十余町を行きたりけるに、「黒雲一むら立ち来って、資長がうえにおほふ」と見えければ、うち臥すこと三時ばかりして、つひに死ににけり。

このよし飛脚をたてて都へ申しければ、平家の人々大きにさわがれけり。

同じく七月十四日改元ありて、「養和」と号す。筑後守貞能、筑前、肥後両国を賜わって、鎮西の謀叛たひらげんために、西国へ発向す。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年05月05日 11時15分22秒 ) パスワード

http://coffeejp.com/bbs/archiver/?tid-38378.html

中国人向けの平家物語のようです。


ここにこういうのがあると教えてくれる人がいましたのでお裾分けです。
(にっこり)


医師問答(いしもんどう)
 小松の大臣(内大臣重盛)が熊野に参詣することがあった。一晩中祈ったことは「父の入道相国は、私が至らぬ為に諫言に従わない。栄華が父一代限りで終わるのなら、重盛の命を縮めて来世の苦しみを助けてください。」
 熊野から帰って何日もたたぬうち、重盛は病気になった。熊野権現が願いを聞き入れてくれたに違いないと治療もしない。心配した入道相国は、越中守盛俊を使者にして治療を受けるようにすすめたが、その返事は諫言であった。
 治承三年七月二十八日 小松殿出家。法名浄連。八月一日死去。四十三歳。



無文(むもん)
 小松大臣にはこんなことがあった。
 嫡子権亮少将維盛に、葬儀に使う無文の太刀を与えたことがあった。前もって悟っておられたのだろうか。



嗄声(しわがれごえ)

 城太郎助長、木曾追討に治承五年六月十五日門出、十六日午前六時発立しようとした。 前十五日の夜中、大きなしゃがれ声が「仏を焼いた平家の味方を召し捕れ」ひびいた。かまわず十六日出立しようとしたが、助長は頓死してしまった。
 同年七月十四日改元 養和に。
[29]アカコッコさんからのコメント(2007年05月05日 11時41分34秒 ) パスワード

http://coffeejp.com/bbs/archiver/?tid-38378.html

>中国人向けの平家物語のようです。


>ここにこういうのがあると教えてくれる人がいましたのでお裾分けです。
>(にっこり)
 
 お裾分け有難うございます。にっこり、にっこり。

 判りやすくて良いですね。嗄声(しわがれごえ)

『夏』の字があるので「かせい」と読むのかと思ったら、
 「させい」という医学用語でした。勉強になりました。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年05月05日 22時08分02秒 ) パスワード

本当に分かり易いですね。

古文 → 現代文
これで当たらず遠からず自信無く読んで

さらに外国語ではどう読んでるのか?
というのを知るとボンヤリしてたのがハッキリして面白いですね。



「雲居に大きなる声のしはがれたるをもって」が「嗄声」というサブタイトルに利用されて恐ろしさというのがド〜ンと来ますね。


タイトルのつけ方がうまいですよね。
感心しました。
[31]アカコッコさんからのコメント(2007年05月08日 07時12分55秒 ) パスワード

平貞能の記述があるところ(6)

「法皇鞍馬落ち」

同じき(七月)二十日、肥後守貞能、鎮西の謀叛たひらげ、菊池、原田、松浦党を先として、三千余騎をあひ具し、都へ参りけり。西国ばかりは、わづかにたひらげたれども、東国、北国の源氏いかにもしづまらず。

同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかえしたるごとくに騒ぎあへり。・・・小略・・・美濃の源氏に佐渡の右衛門尉重貞というふ者あり、これは一年保元の合戦に、八郎為朝がいくさに負けて落ちゆきけるを搦め参ゐらせたりし勲功に、衛門尉になりたり。
八郎搦め取るとて、源氏どもに憎まれて、去年平家をへつらひけるが、夜半ばかりに馳せ参って、「木曽すでに近江の国に乱れ入る。その勢5万余騎、東坂本にみちみちて、人をも通さず。郎等に楯の六郎親忠、木曽の大夫覚明、六千余騎天台山に攻めのぼり、総持寺を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」と申したりけるゆゑとかや。同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛、建礼門院の六波羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「この世の中のありさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそおぼえて候へ。

されば、『院(後白河)をも、内(安徳)をも、取りまゐらせて、西国の方へ行幸をも、御幸をもなしまゐらせて見ばや』とこそ思ひなして候へ」と申させ給へば、女院、「ともかくもただ大臣殿のはかりごとにこそ」と仰せける。
 
 大臣殿も直衣の袖しぼるばかりにて、泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる遠涙、ところ狭いでぞ見えさせ給ひける。
 
 法皇は、「平家の取りまゐらせて、西国の方へ落ち行くべし」といふことを内々聞こし召してやありけん』右馬頭資時ばかりに御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひて、鞍馬のかたへ御行なる。人これを知らざりけり。
 
[32]アカコッコさんからのコメント(2007年05月08日 07時19分15秒 ) パスワード

平貞能の記述があるところ(7)

「平家一門都落ち」

筑後守貞能は、「川尻に源氏どもがむかうたり」と聞いて、「蹴散らさん」とて、五百余騎発向したりけるが、ひが事なれば帰り上るほどに、道にて行幸に参りあひたてまつり、大臣殿(宗盛)の御前にて、馬よりおり、弓わきばさみ、かしこまって申しけるは、「これは、いづくへ御わたり候ふやらん。西国へ落ちさせ給ひたらば、助からせおはすべきか。落人とて、かしこ、ここにて討ちとめられさせ給はんことこそ、口惜しくおぼえ候へ。
ただ都にてともかくもならせ給はで」と申せば、大臣殿、「貞能はいまだ知らぬか。『源氏すでに天台山に攻め登って、総持院を城郭として、山法師みな与力して、今都に入る』といふに、せめて、おのおの身ばかりならばいかにもせん。女院、二位殿に憂き目を見せたてまつらんも、心苦しければ、『ひとまどもや』と思うぞかし」とのたまえば、肥後守、「さらば、貞能、いとま賜び候へ」とて、手勢三百余騎、引き分かって、都へ帰り入り、西八条の焼けあとに大幕ひかせ、一夜宿したりけれども、返し入り給ふ平家一人もましまさざりければ、さすが心細くや思ひけん。

「源氏の馬のひづめにかけじ」とて、小松殿の墓掘りおこし、あたりの土賀茂川に流させ、骨をば高野へ送り、「世の中たのもしからず」と思ひければ、思ひきりて、勢をば小松の三位の中将殿の御方へ奉り、われは乗替一騎具して、宇都宮左衛門朝綱にうち連れて、平家と後あはせに東国へこそ落ち行きけれ。

◎ 貞能と小松寺:貞能は事実はこの後一門を追って西下し、四国屋島に城郭・御所を構える頃には離脱し出家した(「玉葉」寿永二・閏十○・ニ。)
[33]アカコッコさんからのコメント(2007年05月08日 07時23分43秒 ) パスワード

◎ 『吾妻鏡』元暦二年)7月7日 戊子
  
前の筑後の守貞能は平家の一族、故入道大相国専一の腹心の者なり。
而るに西海合戦敗れざる以前に逐電し、行方を知らざるの処、去る比忽然として宇都宮左衛門尉朝綱が許に来たる。平氏の運命縮まるの刻、その時を知り、出家を遂げ、彼の與同の難を遁れをはんぬ。今に於いては、山林に隠居し往生の素懐を果たすべきなり。但し山林と雖も、関東の免許を蒙らずんばこれを求め難し。早くこの身を申し預かるべきの由懇望すと。朝綱則ち事の由を啓すの処、平氏近親の家人なり。降人たるの條、還ってその疑い無きに非ずの由御気色有り。随って許否の仰せ無し。而るに朝綱強いて申請して云く、平家に属き在京するの時、義兵を挙げ給う事を聞き、参向せんと欲するの刻、前の内府これを免さず。爰に貞能、朝綱並びに重能・有重等を申し宥めるの間、各々身を全うし御方に参り、怨敵を攻めをはんぬ。これ啻に私の芳志を思うのみならず、上に於いてまた功有る者かな。後日もし彼の入道反逆を企てる事有らば、永く朝綱が子孫を断たしめ給うべしと。仍って今日宥めの御沙汰有り。朝綱に召し預けらるる所なり。

◎ 貞能と小松寺

栃木県塩原の妙雲寺・茨城県常北町の小松寺・宮城定義の西方寺はその後の貞能が重盛の持仏を納めた寺といわれている。俗に小松寺として一括して呼ぶが、重盛近習の建立(亀山氏千代川)、重盛が荘園に建立(愛知県味岡・岐阜県西田原・広島県鞆その他)の小松寺も多い。

平家と小松寺という伝説上の課題は大きいが、貞能もそこに重要な役を担っているのである。
[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年05月08日 07時44分44秒 ) パスワード

あらら
ちょっと「平家物語」とは時差があったのですねえ。


◎ 貞能と小松寺:貞能は事実はこの後一門を追って西下し、四国屋島に城郭・御所を構える頃には離脱し出家した(「玉葉」寿永二・閏十○・ニ。)


◎ 『吾妻鏡』元暦二年)7月7日 戊子
西海合戦敗れざる以前に逐電し、行方を知らざるの処、去る比忽然として宇都宮左衛門尉朝綱が許に来たる。



この時に九州に行ってたのかもですか?



愛知県味岡
どこかのスレにありましたね。
小牧の味岡。
重盛どのの荘園があったのですか。

やっぱり納得しました(笑)
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