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 投稿番号:100987 投稿日:2007年03月01日 06時43分41秒  パスワード
 お名前:半田
半田家について、
キーワード:縁!?
コメントの種類 :その他  パスワード

はじめまして。。はじめて投稿いたします。
滅多にこのようなコミュニケーションに書き込むことはないのですが見ていたらこの日子の島さんは、相当な所見性と的確な知識があると感じ入りまして今回書き込みたくなった次第にございます。
偶然かもしれませんけど・・僕は半田姓で大阪に在住してる者ですが、
まず父側の祖先が半田姓で家系は恐らく山陰・播磨辺りですが何故か先祖代々の墓地は<服部>緑地にあり祖父が好きだった相撲の力士名も服部(後に藤の川になったと聞きました・・)でして、今まで住んだ場所や働く場所も殆ど市町村区関係なく菅原・樋口が絡んでまして極めつけは、その服部の墓に刻んでる家紋が蝶なのです。。たまたまかも知れませんが、どうしても不思議と書き込まずにはいれなくなり投稿させてまらいましたm(_ _)m

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月01日 10時50分38秒 ) パスワード

半田さんへ
初めまして。

平熱のオカルト・パワーに引かれてかしら?



わたくし個人は「半田」姓は古代豪族の「伴」氏系か(例えば「大伴姓」か)と思ってましたが
「平」姓を隠すために「半」の字を使ったのでは?という方もいらっしゃって
半田姓は謎ですね。


日本の氏や姓や名字や苗字はゴチャゴチャになってるから
ま、それが日本人のファミリー・ネームの特徴ですから
御先祖さまがちゃんと書き残しておかなかった・伝えておかなかったその理由
もしかするとワザとだったかも知れませんし。


なんとなく
平家
南朝方
そんな感じがしますが
南朝方だったという言い伝えはありませんか?


もうすぐ春のお彼岸ですから
御親戚の方に集まって頂いて御先祖さまのことをお訊きになったらと思います。

必ずどなたか
御自分の出自に関心があっていろいろ知っているとか
そういう人を知っているとか
誰が系図を持ってるか知ってるとか
そういう方がいらっしゃるものですよ。


出来たら1945年あたりまでの戸籍謄本をコピーさせて貰えるといいですね。
それから明治の初めの戸籍謄本(除籍謄本と言うそうですが)が手に入るといいですね。


何か気になるとか、そういうのがあるというのは、
やっぱり血の中のDNAが反応して血湧き肉踊っているのでしょうから
御先祖がらみなんでしょうね。


家紋も長い年月の間にいろいろな物を使って来ているのですから、
そういう事を知ってる人がいらっしゃるといいですね。


お彼岸とお盆、それからお正月
そういう機会に一族が仲良くする機会が昔はあったのですけど
今は核家族で皆さんが一同に会するというのはしなくなってますね。

(だってお金が掛かると思ってしまいますしね。皆さんそれぞれ所帯を持てば経済状態も違いますし)


どなたかが率先して御先祖さまの記録をちゃんと残しておかないと
この先、全く分からなくなっていくでしょうね。
頑張ってくださいね。御子孫のためにも。
[2]半田さんからのコメント(2007年03月03日 03時03分54秒 ) パスワード

ありがとうございます! 祖父が生前、僕に話していた事と重なる点を書き込んでくれてます!! 1945年・・・つまり、その祖父である半田そうじろう氏が大阪第6戦部隊より終戦で帰還した時あたりの戸籍謄本等をあげてみてみます!
[3]田中さんからのコメント(2007年03月04日 01時30分40秒 ) パスワード

半田様

 半田氏は多種も多いが、菅原氏族の半田も有名で特に(鎧揚羽蝶)紋を使用しています。又、桓武平氏の半田もあり、余り不思議でも無いと思います。
 大阪でしたら東大阪荒本の府立中央図書館がお勧めです。寛政譜・江戸幕臣等らを見て下さい。
[4]半田さんからのコメント(2007年03月04日 06時30分13秒 ) パスワード

田中様・・ありがとうございます! 今月の5日から7日の間に荒本の府立中央図書館に行って寛政譜・江戸幕臣など観覧してきますm(_ _)m
[5]田中さんからのコメント(2007年03月04日 13時02分21秒 ) パスワード

半田様

 5日(月曜)8日(木曜)は休館日です。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月04日 15時27分53秒 ) パスワード

今年のお盆をメドに皆さんがお集まりになってはいかがでしょう。

春のお彼岸はちょっと時間が足りないので無理と思いますが
お盆の時に皆さんが集まれるよう
お祖父さまの戸籍謄本から御親戚の方にお手紙をお出しになったりしては?

(明治の初めの除籍謄本が手に入れば
そこの住所あたりの同姓の方を訪ねたり
遠い親戚を捜したり)


集まるに当ってお金がたくさんかかってはいけません。
出席者は参加費代わり手土産代わりに飲み物か食べ物を4人分持参する
それが条件のポットラック・パーティ方式にするのです。
だいたい予算は500円ぐらいで。

(お金がかかってはお付き合いが切れていきますからお金のかからない集まりにするんです)


そういう趣旨のお手紙を出したら良いのです。
お盆に会いましょう、って。
80歳以上の人達が話をしに集まってくれるとサイコーです。
この方たちが鬼籍に入られたらもう御先祖さまのお話は分からなくなります。


御先祖さまを敬愛なさいますと良いことがありますよ。
徳を積んだ方がいらっしゃると子孫7代まで助かるって言うじゃないですか。
除籍謄本から御先祖さまの苦しみや悲しみも読めるでしょうし。


今の内にそういう話を始めておきませんとね。
あなたが取り敢えず引っ張っていけば将来に繋がるでしょう。
御子孫も助かりましょうし。


東大阪には親戚がいます。
戦車部隊だったか砲兵隊だったか。
この伯父も80を超えて体調を崩しています。

80を超えますと急がないと間に合わないのですよ。
記憶もこんがらがりますしね。
[7]半田さんからのコメント(2007年03月04日 19時45分26秒 ) パスワード

暇つぶしのギャンブラー様・・前回と同様、丁寧なご説明たいへん有り難く存知ますm(_ _)m
しかし・・残念ながら、当方の直接の身内で高齢者は全員他界しております。
ですが、祖父&祖母に生後間もなく小学生になるまで育てられた僕は昔の話しや
その祖父母の両親や祖父母の話し等をよく聞きました故その話しの記憶を辿りながら追い求めて行く所存にございます。
当然、貴殿が僕の動機の後押ししてくださいました。。
結果どうあれ誠に感謝いたしております。。
必要ないかもですが判り次第、書き込み・報告致したく思います!
[8]半田さんからのコメント(2007年03月04日 19時49分58秒 ) パスワード

田中様・・承知いたしました・・7日に行ってきます(^^;)
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月05日 01時51分37秒 ) パスワード

そうですか
皆さん既にお亡くなりですか。
残念ですね。

そうしますと
おじ様おば様イトコさんあたりで何か聞いている方がいらっしゃると良いですね。


明治の初めに住んでた所が江戸時代あたりに住んでた所になりましょうから
そこのホンヤになる家が系図など持ってる可能性があると思いますから
それか
明治の初めに引越しているなら
その引越先が本来の先祖の地の可能性もありますでしょう。

山陰・播磨

菅原さん関係でしたら多分岡山はかなりの確率が高そうですしね。


取り敢えず「家族関係」から掘り起こしていかないとね。
戸籍謄本除籍謄本を取得する時には
「先祖のX00回忌の供養をすることになったので親戚と連絡が取りたいから」
という「先祖供養」という理由をお書きになった良いと思いますよ。

(嘘じゃないのだし)笑


住所が分かったら
「こういう事が分かってるけど、それ以上の事が知りたいので、何でもいいから知らせて欲しい」
と報告書を書いて返信用切手を貼った封筒を同封して送ったら良いのですよ。


わたくしは何度も命を落すような経験をしてきましたが、からくも、今でも5体満足でいます。
2002年には「いつもだったら」射殺されたか大怪我したという経験をしました。←銃撃戦が起きた
でも「大風」が吹いて、いつもとは違う状態になったので、いやな経験をしなくて済みました。
文字通り神風が吹きました。


こういうような運の良さを何度も経験しました。
きっと先祖に感謝してるからだろうな
先祖が徳を積んだから子孫の私が助けられているんだろうな
と思ってます。


先祖の事を調べるのに今とは違って資料が手に入らない時代でしたから
郵便で各教育委員会に史料請求しましたら
送ってくれたどころか
そういう専門の方をいろいろ紹介してもらえたりして
世の中の親切というのを経験しました。

こういうのも先祖が力を貸してくれたからと思っています。


半田さんが一生懸命半田家についてお調べなさると御先祖さまの供養になりますよ。
先祖が守ってくれてるとか見守ってくれてるとか、身近に分かるようになりますよ。
[10]半田さんからのコメント(2007年03月05日 17時32分45秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様・・大変に心強いお返事ありがとうございます!
今週の合間に早速、手続き致します! 僕の周りに先祖と言いましょうか・・自分が今、この世に在るという事の根源みたいな流れを知りたいと思ったり同感してくれる人が居ませんので尚更でありますm(_ _)m 
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 01時51分53秒 ) パスワード

>僕の周りに先祖と言いましょうか・・
>自分が今、この世に在るという事の根源みたいな流れを知りたいと思ったり

そうなんです。
我々が存在しているのは先祖がいたからです。

それも、その先祖を持っている、というのは偶然なんかじゃないのです。
      (だんだん「オーラの泉」風になっていっちゃいますが。。。笑)



>同感してくれる人が居ませんので尚更でありますm(_ _)m


そうですよ〜
なかなか同じ考えを持ってくれる人が家族にいないもんです。


我が家も父方はおじおば関係いとこ関係に誰もいないです。
父がちょっと関心を持ったことはあっても先祖から助けを得られなかったようで
「昔のことなんか分かるもんか」
というスタンスです。

親戚のみんなにコピーして郵送したけどシカトされました。

反応ゼロです。
自爆


でも母方はみんなが関心を持ってて、それぞれ主張があって、自分がどう思うか言うと大変!
異常過剰反応が戻って来ます。笑

母方は血の繋がらない人達が苗字を継いでくれていて
血の繋がってる人間はみんな夫の姓をついでいます。

こんなもんなんですよ、現実は。



ですからね
日本各地の「半田」という地名の役所に片っ端から手紙を書いて
どういう経緯から半田という名がついたのか
さらに
その場所の歴史も
役所の教育委員会歴史編纂課に問い合わせてはいかがでしょう?

日本は地名と苗字が密接に関係がありますから
こうやってブレインストーミングのように手当たり次第情報をかき集めると良いでしょう。


30年計画ぐらいで気長くコツコツ調べてください。

お祖父さまがお話なさったことはちゃんと調べて子孫に繋いでいって欲しいという呼びかけかもです。
そういう受容出来る人に誰かが吹き込むと思うのです。
半田さんにとって今が行動時期なのでしょう。


どういう形かは分からないけれど御先祖さまを敬愛なさいますと必ずパワーをいただけますよ。
[12]半田さんからのコメント(2007年03月06日 04時12分58秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様・・ご理解頂きまして、嬉しく思います!
おっしやる通りにございまして、この日本という国の市町村区などの地名と苗字は密接な関係である可能性が高いと何らかで知った事がキッカケで今に至りました。。
祖父母が僕に話していた事なども子孫に繋いでいって欲しいという思いの呼びかけ・・とも最近特に感じておりました!
さすがに30年計画は自信がございませんが・・(^^;)
根源がわかればそれでいい・・というだけでなく、その後もハッキリはしませんが自身の何かしら変わり目に見えない何らかの縁みたいなものとでも申しましょうか・・始まる予感も少し致します。。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 10時41分49秒 ) パスワード

もう始まってますね。笑
「この世には偶然なんてないんですよ〜」 by 「オーラの泉」あはは


例えば
愛知県の半田市
なんでココは半田なんだ〜?

ということで検索したらこんなんが出ました。
コレ以上でもコレ以下でもなかったんですよ。
本文が見つかりませんでした。



国立民族学博物館 友の会
源平の合戦に敗れ、逃れてきた平資盛一族が、地元の人との交流を深めるために催した 酒宴がその始まりと伝えられています。 ... 場 所:, 愛知県半田市. 講 師:, 曲田 浩和(日本福祉大学経済学部助教授) 高橋英次(展示文化研究所所長) ...
http://www.senri-f.or.jp/taiken/passed/index.html


何のお話なんでしょうか?

でもやっぱり平家がらみですよねえ。


だから
平資盛関係者が「平姓」では恐ろしいから「半」の字を使ったのかしら?
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 10時58分45秒 ) パスワード

この半田市という所は愛知県の知多半島にあって元は尾張国になると思います。

ここは平家の有力なエリアだったと思います。
たとえば源義朝(頼朝の父)に仕えていたのに殺害した長田父子は近くの野間の人です。
野間は知多市になるのかな?

ま、半田市や知多市や東浦あたりは近所ですし
海向こうの三河の知り合いもこの近くに住んでて源平時代は何とかで
紋が蝶だって聞いた記憶ですし
大きな戦いも近くであったと聞いた記憶です。

ゴメン
当時は関心が無かったのでちゃんと聞いてなかったのでうろ覚えです。
ま、こんなもんですよね、後で「しまった!ちゃんと聞いておけば良かった〜」となります。


ですから愛知県の半田関係だったら平家に大いに関係がありそうですから
半田市教育委員会から源平時代前後の情報が得られると良いですね。

それから上記の
曲田 浩和(日本福祉大学経済学部助教授)
高橋英次(展示文化研究所所長)先生方から
何らかの情報が得られると良いですね。


平資盛は平家の嫡流になります。
清盛の長男の重盛の子になります。

また清盛の家の代々仕えた家老の家は平家貞で
その嫡男が家老職を継いで平貞能と言います。
その弟が伊賀の家長という人でこの人の俗姓が服部です。←子孫は伊賀の服部家というか半蔵というか
また、この下の弟が家継といって俗姓が平田なのです。


こういうのを見て感動したとか涙がボロボロなんて出ませんか?


ですから平資盛に仕えてた家貞の関係者とか親戚とか
そういう人が半田市に関係があったのかなあ?なんてね。


もし南北朝時代に南朝方だったとお聞きでしたら99.99%以上「平家関係」だと確信します。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 11時20分18秒 ) パスワード

半田氏は平田家継関係者なのかしら?


以下
他スレッドより引っ張って来ました。


「平田家継のお城のあった明昌寺というお寺は、
大山田村平田にありますが、

もし行かれるのでしたら

名阪中瀬IC→R163→7km・・・コスモGSとアニーズの信号交差点から150mです。
コスモGSで道が聞けると思います。」


明昌寺の裏に石垣があって、それが平田家継の城跡の1部だそうです。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 11時21分50秒 ) パスワード

1184年7月19日に家継亡くなったようです。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 11時23分52秒 ) パスワード

わたくしは、この平田家継という人物に非常に泣けるんです。
字面を見るだけで泣けるし。

前世の父だった人なのかな?って思うのです。


それで半田さんにレスしてるのかもですね。
[18]田中さんからのコメント(2007年03月06日 17時21分27秒 ) パスワード

半田様
 暇潰しのギャンブラーさんが仰る通り、一番早いのは除籍簿の取り寄せ(明治初年以降)です。明治の早い時期に亡くなった先祖が記されており、この人は1820年頃の生れだろうし、没年所在地も判明致します。出身地の判明で半田氏の判断が可能です。都道府県別姓氏家紋では、岐阜・愛知・静岡・桓武平氏(立ち沢瀉)静岡・鎧蝶(菅原氏族)三重・橘氏族(橘)滋賀・菅原氏族(割り梅鉢)奈良・大和長柄氏族)京都・梅鉢(菅原氏族)違い鷹の羽(丹波姓日下部氏族)大阪・三つ柏(桓武平氏)和歌山・木瓜(桓武平氏)兵庫・違い鷹の羽(日下部氏族)広島・鎧蝶(菅原氏族)島根・橘(菅原氏族)山口・剣片喰(菅原氏族)香川・井桁(菅原氏族)愛媛・梅鉢(菅原氏族)高知・鎧蝶(菅原氏族)。是は各県代表紋であり、一概には云えません。
 姓氏家系大辞典には、半田越後(藤三?)の子孫〔幕臣〕や、その他多種も載っています。江戸幕臣や三百諸侯各臣又は各県姓氏大辞典も、面倒でも確認ください。
 地名としては多すぎるので、今回は検閲に至らない方が良いと思います。
[19]田中さんからのコメント(2007年03月06日 23時34分25秒 ) パスワード

追伸
 府立中央図書館・4f人文、エレベーター降りて左側。
[20]長太さんからのコメント(2008年09月25日 23時50分55秒 ) パスワード

最近拝見しました。
私も半田なので投稿しました。
播磨出身です。
19世紀以前から播磨にいたようですが、ずっと昔のことはよく分かりません。
さかのぼれば、他府県の同姓の方とひょっとしたら繋がっているのかもしれませんね。
[21]半田さんからのコメント(2009年06月03日 18時51分53秒 ) パスワード
URL=http://ameblo.jp/mokete/

はじめまして。

まだこのレスが稼動してるなら助かります。

自分の半田家はどこからやってきて、どこへいくのか

それをさぐりたく…

けど…時間が…

父の父の戸籍を取ってみます。

お返事もらえたら嬉しいです。
[22]長太さんからのコメント(2009年06月25日 23時52分39秒 ) パスワード

はじめまして。
返事が遅くなりました。

私は除籍謄本を取ったことがあり、
1810年ぐらいまでさかのぼれましたがそれ以上は・・・。
半田○大夫とか、昔らしい名前が出てきてどんな人だったんだろうって
興味が湧きましたよ。

ちなみに初期の書き込みを拝見しましたが、
当方の家紋は丸に三柏です。

[23]半田さんからのコメント(2009年08月01日 12時47分24秒 ) パスワード

長太さんへ。

色々と忙しくお返事を出せませんでした。

改めて戸籍を探してみるつもりです。

1800年代まで遡る事ができると凄く

楽しく思います。

頑張ってみます。

また何かあれば書き込みします。
[24]半田 旭さんからのコメント(2012年09月18日 20時21分59秒 ) パスワード

半田の苗字は少ないけど、東京で半田さんと会ったことはありませんでした。
出身は栃木県の鹿沼市ですけど、鹿沼市には半田姓は無かったような気がしますけど、同じ部落に4件と隣の部落に5件くらいありました。しかし、隣の市の宇都宮市には結構多くいましたよ。ちなみに家紋は下がり藤です。
[39]半田宗治郎さんからのコメント(2017年03月01日 04時41分59秒 ) パスワード
URL=http://fanblogs.jp/painpacker/

こんばんは。

なんと未だに、このページが残っているとは奇跡でしょうか?!

私は、10年前の今日…つまり2007年3月1日のam6:00台に書き込んだ者です。

あれから色々とありまして、書き込みそびれたまま10年の月日が流れました。

たまたま「半田氏 由来」で検索して、このページを発見しましたが…なんか嬉しかったので、ちょうど10年ぶりに書き込みます。

ここ何年かで再び「半田姓」について、個人的に調べていましたが…やっぱり祖父の戸籍謄本から追っていくしかなさそうです。

ですが、少しだけですが発見はありました。

まず先祖の墓石に刻まれている家紋が木瓜(もっこう)紋であったということと、それと多分…御先祖は現在の福井県か兵庫県の出かな?と直感で思うような史料を最近なんらかで見かけました。

これらを基に、まずは自分探しの旅?を再開したいと思います。
[40]半田 和男さんからのコメント(2017年08月23日 11時47分30秒 ) パスワード

はじめまして 

私の先祖は5百年くらい前に静岡の方から現在の群馬県邑楽町に住み
1545年ころ清岩寺というお寺を菩提寺として建立し現在まで
邑楽町に在住しています。
江戸時代時代は館林・秋元氏の家臣でした家紋は丸に蔦です。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月23日 15時36分19秒 ) パスワード

書き直し2回目



半田和男さま

初めまして。


ということは
1.
静岡がらみで群馬に移動?つまり南朝方?   
群馬なら当然南朝方でしょうから静岡に行ってますね。

2.
半田姓の前の名字が分かると良いですね。恐らく平家の平田姓を半田氏に変えた?

3.
平家の一門だった宇都宮氏がらみで秋元氏の家臣になった?
もともとが平家方の宇都宮氏と関係があったから?

4.
源平戦の時に宇都宮氏が本貫地に戻った後に平貞能は平家が滅亡したために宇都宮氏を頼って落ちて行って
子孫が南朝方として新田氏と共に静岡に行っていた?

5.
蔦紋は清盛の孫の=つまり知盛さまのお子さまの=知忠さまが=伊賀の北に住んだから名乗った姓が北氏で使用紋が蔦だから?

そうするとひょっとすると
半田姓の前は平田氏がらみ?


        平田氏の一族は本姓平で俗姓平田の四郎家継のご子孫?

        嫡兄は平貞能で、清盛家の家老で、この人は平家が滅亡してから宇都宮氏を頼って落ちて行った。

        弟が六郎で俗姓服部(伊賀の)家長の子孫?
        家長の主人が知盛さま。

        源氏の服部氏で蔦紋を使用している家があります。
        もともと源氏なのか?
        伊賀の服部氏は南朝方として後醍醐天皇により1338年に源姓を賜って源氏でもあります。

             普通伊賀系平家の服部氏は並び矢紋系が多いのですが。


蔦紋は徳川家が葵紋だから、似た蔦紋を使用している、ということもありますね。
徳川家は群馬の新田系ですから。



結論は
平家で南朝方だった?
南朝方で新田家と繋がりがあった?



江戸時代にhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E7%A4%BC%E6%9C%9D 秋元礼朝に仕えた?静岡にしっかり繋がりますね。

生誕
嘉永元年5月16日(1848年6月16日)

死没
明治16年(1883年)6月13日

改名
五十橘(幼名)→礼朝

墓所
東京都台東区谷中の天王寺
群馬県前橋市総社町総社の光厳寺

官位
従五位下、但馬守、従四位 贈正四位


上野館林藩主→館林藩知事

氏族
太田氏→秋元氏

父母
父:太田資始
母:良(上杉斉定の六女、側室の子とも)
養父:秋元志朝

兄弟
太田資功、内藤政挙、太田資美


正室:操(戸田忠温の十一女)


養子:興朝



秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。


生涯[編集]
嘉永元年(1848年)5月16日、遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の五男として生まれる。

                 静岡がらみで秋元氏に仕えた?
                 


安政6年(1859年)に館林藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に養父が禁門の変により幕府から隠居させられたため、家督を継ぐ。慶応2年(1866年)に奏者番に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金2万両を出して協力した。その功により明治2年(1869年)に賞典禄1万石を加増された。

明治2年(1869年)、版籍奉還により館林藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官。同年9月に隠居し、養子の興朝に家督を譲る。明治16年(1883年)6月13日に死去。享年36。

大正4年(1915年)、正四位を追贈された。


           グチャグチャ書いてごめんなさいね。
[44]半田 和男さんからのコメント(2017年08月24日 08時42分18秒 ) パスワード

  空の青海のあと さん

 はじめまして
沢山の貴重な情報をありがとうございます
誰からも要求されないので先祖の事を調べるのは
体力と忍耐が必要と推察いたします。
この度・貴方様のおかげでルーツを辿ることが
でき大変うれしく思っています。

余談になりますが群馬県太田市・只上(ただかり)は
将門の首だけが上がってとの伝説があります。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月25日 08時33分51秒 ) パスワード

明日あたり長々と書くと思います。


また群馬県立図書館や太田の図書館や役所に土地の歴史を編纂したものがありますし
旧藩の分限禄があるはずです。

もし東京にいらっしゃるなら国立図書館にも行ってみてください。


ご先祖さまの記録が見つかると良いですね。
では明日あたり。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月26日 11時42分42秒 ) パスワード

http://kaguraden.blog11.fc2.com/blog-entry-390.html

神社名:只上神社(ただかりじんじゃ)
祭 神:品陀和氣命 建御雷神 (参考:平将門公)

配 神:建御名方神 大穴牟遅神 大山昨神 豊城入日子命 菅原道真公 石筒男命 火産霊神 石筒女命 大物主命 天皃屋根命 大山祇命

鎮座地:群馬県太田市只上町1706


-只上神社 拝殿額由緒-
 建御雷神ハ明治十年同村鹿島社ヨリ合祭ス。

明治四十二年七月三十一日許可、本社境内社末社日吉社大山祇社及諏訪原ニ祭祀セル無格社諏訪神社字深町無格社日吉神社字八幡上ニ祭祀無格社菅原神社字清水無格社赤城神社ノ八社ヲ合併セリ。

境内末社日吉社及大山祇社ハ本社ニ同一祭神ナルヲ以テコレヲ合霊シ末社ヲ削除ス。


只上神社は地名が八幡前なのと譽田別命を祀っているので、以前は八幡の名称だったのかもしれない。




只上神社には平将門の伝説がある。
この群馬県太田市只上町は、平将門の侍女である桔梗の出身地とされる。




藤原秀郷に桔梗が内通したため平将門が討ち取られたのだが、不思議と只上の地に災いが起こるようになり、鎮魂のため平将門の胴体を分葬、「胴体の宮」と称すると言い伝えがある。

また、鶏足寺まで首を運ぶ際に怨霊が暴れだしたので胴体を祀ったという説もある。



只上神社から三本足の鶏が将門の土頸を蹴落とすとの霊夢を見た鶏足寺までの道中には、同じく将門伝説の残る大原神社が鎮座している。




また、栃木県足利市の平将門の手が飛んできたと伝説のある大手神社も只上神社から近い位置に鎮座している。

大手神社周辺では桔梗のすべてをきらい敵視する風習が残されていた。




将門伝説は各地に残されているが、中々興味深い地域であることは確かのようだ。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月26日 11時50分07秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/haguma27/masakado/kikyou.htm

桔梗伝説


 伝承による桔梗の評価については、だいたい2つのパターンがあるように思います。

     (1)桔梗は良い娘、将門にも可愛がられていた。弱点を敵に教えたのも不可抗力。
  →地元、下総地方がだいたいこんな感じ。ただし、好かれるケースと、嫌われるケースと両方ある。

      (2)桔梗は実は秀郷のスパイだった。
  →秩父地方(城峯山)の伝承がこのパターン。



以下、出典毎に概略を整理しました。


吉川英治「平の将門」

 野霜(土浦近辺)に住む具足師の伏見掾の娘。正妻として迎えるが、源扶/隆兄弟の恋敵となり、紛争のもととなった。結果、源氏は将門の返討ちにあって命を落とす。

  桔梗の最後は、苫船に暮らしている時に、良兼に襲われて、将門の子供とともに自害した、としている。



童門冬二「平将門」

 牧野の庄(千葉県佐原郡の東部)から迎えた2番目の妻。また、特に本件が源護一族との紛争原因とはしていない。また、苫船の一件では、殺されるのは正室の「君の前」と子供たちで、桔梗はさらに生き残る。

  将門の最後まで生きており、桔梗自身の最後の描写はない。


伝承(相馬)
茨城県北相馬郡藤代町の大日山古墳は平将門が第三の拠点として城館を構えたところです。

ここは、愛妾桔梗姫の朝日(旭)御殿が有ったところで、桔梗姫は毎朝日の出を拝み将門の武運を祈っていたが、将門の最後を知った桔梗姫は城下の沼に入水したそうです。桔梗姫が入水したところは、現在 『桔梗田』 といわれています。



伝承(取手)〜桔梗塚

 相馬日記に「米野井の桔梗が原といふは、将門が妾桔梗の御前といふが殺されける所にてその墳あり、今も桔梗はありながら花咲くことなきは、この御前がうらおによれるなりといへり」とある。

  竜禅寺に伝わる話では、桔梗姫は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子をもうけ、薙刀の名人であったが将門の戦勝を三仏堂に祈願しての帰路、この地で敵将藤原秀郷に討たれたと云う。

  また、一説には将門には常に七人の影武者がそばにいた。桔梗はだまされて本物は「こめかみ」が動くことを敵に教えたので将門はこめかみを討たれて討死した。その後秀郷は桔梗をも口塞ぎのためこ殺したと云う。


茨城県取手市
 平将門がここに”砦”を築いたことから、”取手”の地名が付いたとも言われる >= 桔 梗 塚



平の将門の地探訪

 関東一帯とくに下総国地方(茨城県の南西部と千葉県の北部)では、戦前は学校で平将門を "逆賊将門=極悪非道の反逆者" と習った子供達も家に帰れば 「平親皇さま」「将門さま」 と崇め尊ぶ生活に戻る信仰の対象として尊敬されてきました。

 いまでも将門の乱が起こった時、山城国神護寺護摩堂の不動明王を今の成田に移し、朝敵調伏の護摩を焚き、乱がおさまった翌年建てたのが成田山新勝寺という事で、将門の子孫とか家来の子孫の方々は関東の名刹成田山新勝寺にはお参りしないとの事です。

 また将門の"愛妾桔梗の前"の裏切りで討たれたので、花のキキョウを植えないとか、将門の紋所(九曜星)がキュウリの輪切りに似ているのでキュウリは輪切りにしないそうです。



平将門伝説(桔梗)
 
 成田山に将門征伐のため不動明王を安置し、降伏の祈願が行われたため、「成田山には今もって参詣しない」というものがあります。
 
 将門が戦の際に自分の人形を大量に作り並べて、自分はその中に紛れ込むということをしたのですが、桔梗姫という名の女性が敵方に息をしているのが将門だと教えるという、裏切りのため結局戦に破れてしまいました。

 そして桔梗姫は処刑され、それ以後「桔梗を植えてはいけない」という風習が出来ました。

 実際に植えても生えないそうです。(地質の関係か?)
 また、生活用具などに桔梗の模様を使わないという風習も残っているそうです。



千葉県香取郡 下総町
 桔梗の前 愛用の懐剣と手鏡が伝わる町



伝承(不明)

 将門が戦の際に自分の人形を大量に作り並べて、自分はその中に紛れ込むということをしたのですが、桔梗姫という名の女性が敵方に息をしているのが将門だと教えるという、裏切りのため結局戦に破れてしまいました。

そして桔梗姫は処刑され、それ以後「桔梗を植えてはいけない」という風習が出来ました。



伝承(秩父地方)

 城峯山に立てこもり最後の戦いを続ける将門のところに桔梗という名の美しい娘がいました。苦しい戦いの中で、桔梗に癒された将門はいつしか桔梗を愛するようになったのです。

  しかし桔梗は敵が送り込んだスパイでした。不審な敗北を続けていた将門は、遂に原因が桔梗であることを知り、怒った将門は『桔梗よ絶えろ!』と叫びながら彼女の首をはね、自刃して果てといいます。以来、将門の怒りによって城峯山は決して桔梗の咲かない山になったとか。


伝承(秩父地方)

 埼玉県秩父地方の吉田町あたりでは、古くからかんむり座のことを「くびかざり星」と言い慣わしてきたといいます。そして、この呼び名と共に次のような伝説が伝えられています。

  吉田地方にある城峯山というところで、平将門と藤原秀郷との合戦が行われたときのことです。戦に破れた平将門が洞穴に身を隠したところ、侍女の桔梗姫がそれを敵方に密告したのです。

  これに激怒した将門は、桔梗姫を一刀のもとに斬り捨てました。これを憐れんだ秀郷が姫の首飾りを取って天に投げあげたところ、それが星になって輝きはじめたのです。それが 「くびかざり星」、私たちのいうかんむり座だということです。



伝承(福島県須川)御鍋神社

 平将門の妻桔梗姫とその一族が、将門の没落後密かに逃れ、この地で再起を決意し、朝廷から賜った鍋(鼎)を御神体に祀って建てた神社があります。



疑問?

@将門を裏切ったのは愛妾の桔梗ではなく、正妻だった
A桔梗は藤原秀郷の妹だった


という伝説もあるそうです。


いろいろあるんですねぇ。
[48]半田 和男さんからのコメント(2017年08月26日 16時30分17秒 ) パスワード

 空の青海のあを さん こんにちは

あなたの知識の広さは空の青海のように限りがありませんね

しかしながら将門の伝説の多さに驚かされます

それだけ魅力ある人物だったと思います。

歴史の魅力に取りつかれている者として

あなたに敬意を表します。



[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月27日 03時53分14秒 ) パスワード

半田 和男さま


いえいえ
上記2つのレスはコピペです。


ワタクシ的には
平将門は我々のご先祖さま?の平貞盛とは従兄弟関係だったが
将門の父が亡くなって平貞盛の父やオジ達が将門父子の開墾した土地を横取りした
そのために平将門は・・・・後に新皇を称するようになった・・・

そして平貞盛は藤原秀郷の協力を得て将門を討つことになった

      この時、秀郷は将門からも誘いを受けていたが
      食事の席で将門が飯粒をポロポロ零すのを見てマナーの悪い将門に秀郷は味方をしない決意をした
      と聞いたことがあります。


そして将門の最期については
      NHKで春の嵐についての説明で
            最初北風で将門方には有利で矢がよく飛んだが
            突然南風に変わって将門方に不利になり
            将門の額に矢が当たった
      これは ダウンバースト  だったかな?


ま、天が貞盛秀郷方に味方したのは  タシカ  ということでしょう。

当時の人にはダウンバースト?なんて理解出来ないから天が将門の傲慢さを罰したと理解したのかも。

で、この初め有利だった将門の突然の死を合理的に解釈するのに  桔梗の前の裏切り  というハナシが作られたのかも。



この桔梗の前の話にしても
負けた将門側の女性は貞盛秀郷側の戦利品ですから
奴隷にされるわけで

ひょっとすると桔梗の前はその美しさにランクの高い人の愛人に収まったのかも。

ということで   桔梗の前は実は・・・  という伝説がデッチ上げられたのかも。


その後、将門の最期についてのハナシに尾鰭背鰭がついていろいろな話が作られていったのかな?と。


ま、事実は  将門は矢で死んだのでしょうね。

    額に当たった
    コメカミに当たった
    コメカミは将門の弱点だった
    将門の弱点を知っていたのは将門近くに仕えた人間
    それは女に違いない
    女の名は?
    桔梗だってよ

こんな感じで伝言ゲームのようにハナシが興味本位で変わっていったのじゃないかな?


この将門の死の真相は  矢に当たって死んだ  これだけ。


昔の戦いは遠くから矢を射合って・・・だんだん近づいて白兵戦になっていたと思うので
矢を射合って間もなく将門ほどの人物があっけなく死んじゃうなんて当時の人には信じられなかったんじゃないかな?


だからいろいろ捏造話が残っているんじゃないかなと。
それが当時の人には  合理的  な説明だったのでは?と。
   
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月27日 04時03分31秒 ) パスワード

実はもう20年も前のムカシですが

わたくしが前世に住んでいた市原の国分寺跡に行ったことがあります。
自分の記憶では国分寺の右側に住んでた=東側と思ってた=のですが
実は西側に住んでました。方向音痴なので。


で、その時にものすごい嵐になりました。


1000年もムカシの自分が将門の襲撃に恐怖したように
1997年のわたくしも恐怖を感じました。

たぶん将門を殺すことになったダウンバースト?が吹いたのかも。



そして秀郷のお墓に行ったことがあります。
この時は町の人にご挨拶をした時
     秀郷公にご挨拶に来ました、と言いました
突然雷鳴があって
     その挨拶、しかと受け取った、
と言われたような気がしました。



ま、関東はそういう土地なのかもね。ヨソモノなので良く分かりません。
[51]半田 和男さんからのコメント(2017年08月27日 09時13分08秒 ) パスワード

 空の青海のあを さん こんにちは

重ね重ね 貴殿の知識や情報あまりの多さに感服しています

私も将門に関する書物や小説を読んだり情報には聞き耳を
たてたりしました
あのダウンバーストなければ世の中は変わっていたのか
作家の妄想なのか?

隣町の佐野市では秀郷は神様のように崇められ藤郷まつりがあり
我が町には足利氏の屋敷跡は鑁阿寺として市民の人気があります
足利氏は650年の歴史があり古文書が残されているようです。
そのまた隣町には新田氏旗揚げの地が神社として残っています
当時としては150人位で旗揚げをし鎌倉を目指したそうです。
[52]半田 和男さんからのコメント(2017年08月27日 09時32分10秒 ) パスワード

空の青海のおを さん

平家を熱く語る なのに源氏の話をして
申し訳ありません

新田郡に徳川の郷という処がありますが
家康の祖父だったと思うのですが徳川郷から
嫁を娶り
其の後に松平から徳川を名乗り源氏と称した
そうですね。
[53]半田 和男さんからのコメント(2017年08月27日 09時36分04秒 ) パスワード

 空の青海のあお さん

追伸 徳川の郷には徳川家が建てた東照宮があります。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月27日 11時33分07秒 ) パスワード

半田 和男さま


戦時中の兵隊で足利出身の人は「足利」ということだけで理由無く殴られたと聞いたことがあります。

      逆に「くすのき」という名前関係者は重宝されたのかもですね。


これは明治天皇が皇室の正統は南朝方としたから
南朝の敵の大将の足利ゆかりの者は反逆者だと軍隊の新兵教育係のバカが勝手に解釈したから
でしょうね。


>徳川の郷には徳川家が建てた東照宮があります。

江戸時代、得川=得河=村出身の人は日本全国で丁寧な扱いを受けた
と聞いています。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F


徳川氏は、松平氏当主の徳川家康が創始した苗字で、

松平氏の伝承によると、
ルーツは三河国(愛知県)の庄屋である松平太郎左衛門信重に婿養子に入った、時宗の遊行僧と伝えられる徳阿弥である[2][3]。

彼は清和源氏系河内源氏義国流得川氏(徳川氏、世良田氏)の末裔で[2]、

浪人となり大浜称名寺[4]で開かれた連歌会での出会いが信重の養子に入るきっかけと伝えられる
(父祖の地上野国新田郡徳川郷の時宗寺院、徳川満徳寺は後に縁切寺とされた)。


還俗して松平親氏と名のったという[2][3]。

なお親氏を初代とする松平家9代(安祥松平家6代)の家康が興した親氏流松平氏嫡流である徳川将軍家(徳川宗家)のほかに
徳川姓を許されるのは、
家康直系の子孫(親藩)のうちでも
特に徳川御三家(尾張家・紀州家・水戸家)、御三卿(田安家・一橋家・清水家)
およびこれらの後嗣のみ(但し、一時期これら以外に館林徳川家、甲府徳川家、駿河徳川家も存在した)であり、

これらの家に養子として入る者も家康の男系の子孫たちであった。
[55]半田 和男さんからのコメント(2017年08月27日 14時43分33秒 ) パスワード

 空の青海のあを 様

徳川家の解説さすが非の打ちどころがありませんね

足利が逆賊
勝てば官軍という言葉があります
足利の庄を守ってきた人々は悲観的ではありません
足利氏27代当主(足利信吾氏)が当地を訪れて
足利氏邸宅跡に案内されて鑁阿寺の保存のすばらしさに
感銘を受けていました。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月27日 15時27分57秒 ) パスワード

半田 和男さま


>足利氏27代当主(足利信吾氏)が当地を訪れて足利氏邸宅跡に案内されて鑁阿寺の保存のすばらしさに感銘を受けていました。

でしょうね。
個人ではとてもとても大変どころじゃありませんから。
皆さん、悲鳴を挙げている、というところが本音ですから。



鑁阿寺は今でいう「重要文化財」なので
維持管理をきちんとする責任を伴うから
大変な努力をなさっていると思います。


うちのホンヤさん宅も重要文化財指定ですが
個人なので定期的に8桁の費用を出すのは大変だと思います。

   釘1本うつにも文化庁の許可がいるし。

   (重要文化財の指定を受けると、それはそれなりに、特典もあるけれど
    維持管理費が国から出る国宝指定とは違うから大変と思います)

とはいえ充分出るわけじゃなさそうで
国宝に指定されている旧成瀬氏宅(犬山城)は成瀬家が頑張ってましたが
ここ最近は  法人  にしてますね。
ここ十数年のことです。


日本中で古い建物などをお持ちのみなさんは頑張って維持管理をしているのでしょうね。
昔っから資金集めに奔走する大変な話は  勧進帳  という言葉で日本語に定着してますものね。
[57]半田 和男さんからのコメント(2017年08月27日 15時51分23秒 ) パスワード

 空の青海のあを 様

勧進帳
判官びいきのハートを熱くさせる文字ですね
後世の人が人情ものとしての作り話のような
気がします(個人的には勧進帳が好きです)
歴史って4パーセントの史実から想像を
膨らませる物のようですから想像力が
豊かな方お任せ致します。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月28日 10時45分06秒 ) パスワード

半田 和男さま


>後世の人が人情ものとしての作り話のような気がします
>歴史って4パーセントの史実から想像を膨らませる物のようですから

「ハナシ半分」とよく言いますが
事実は  4%  ぐらいかもですね。

あとの96%は  話し手と聞き手の主観が入って  どんどんハナシが膨らんで行くのかもですね。



勧進帳を持って御師さんなんかが日本全国を回って寄付を集めるハナシでも
御師さんの裏の仕事は情報収集だったでしょうし。こっちの方がお金になったかも。


歴史って
勝った方のハナシと負けた方のハナシ
両方きちんと語られる残るなんてアリエナイから
かなり事実とは違うんでしょうね。
[66]半田ですさんからのコメント(2021年02月03日 21時33分41秒 ) パスワード

半田さま

まだこの書き込みを見てくださっていて気が付いていただけたら奇跡かもですが

私も半田と申します笑

半田は長野の上田市の傍陽(ソエヒ)と言われています
始祖は半田弾正信久様ということになっています
名前は誉田→洗馬→半田と改名したみたいです
元は韓国から製鉄一族として渡ってきて長野の上田周辺が良質な鉄が出る場でそこに居着き、製鉄と金、馬の放牧で財をなしたようです。
戦国時代は武田方の武将です。
私の知る限り、建立した神社が1つ、お寺が2つが上田に存在しています。
それと群馬の渋川にも半田建立のお寺があります
半田家は3代続いて弾正だったようで製鉄一族で大豪族だったようです。
武田の騎馬隊の馬、武具は基本半田からで。
傍陽に弾正塚がありますので小さいですが一度参拝されてみてはいかがでしょうか?
塚の向かいに元半田本家があります。今は別の方が別荘のような感じで住まわれていらっしゃいます。
本家の方はお歳になられて町の方へ降り、家を建てて住まわれていらっしゃるそうです。
大阪の方ですと豊臣vs徳川の時の大阪の陣で真田と共に戦ったのでその方々がその地へ残っています。
恐らくそれがルーツではないでしょうか。
半田について調べて本になっていたりしています。
国会図書館にも「半田一族」という本が一冊存在します。
あとは亀山に多くいらっしゃる半田家の方々も同じ流れです。
亀山歴史博物館にも半田一族の古書が展示されています
もしよろしければ1度ご覧になられてはいかがでしょうか


[67]半田ですさんからのコメント(2021年05月13日 15時53分47秒 ) パスワード

初めまして
私,九州の半田と申します。

うちの本家のお寺は笹竜胆の紋で姓を多田と言います。
清和源氏 (多田満仲)の流れですね。
住職の話だと源平合戦の時平家を追って九州までやってきて住み着いたそうです。
で、うちの家紋ですが四ツ石畳紋です。
宮城の和賀氏(多田流れ)が嫡流には笹竜胆を庶流には石畳紋を使用していたようですね。
私の解釈ですが多田に仕えていたので名前を半分頂いて半田になったのかなと思っています
大まかにわかるのは建保6年1218年までのお寺の歴史ですね
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