[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 09時32分04秒 ) | パスワード |
またもや書き直しでございます(ぺこり)
>私の名は漢字で「戢」と書きます。
>口に耳、
>そして才に点
「才に点」じゃなくて「ホコ」なんです → 「戈」
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 09時43分04秒 ) | パスワード |
「戢」はもの凄く激しい言葉だと思います。
例えば「優」という字も
普通の日本人は「やさしい」と読み、柔らかさや上品さやなよなよした感じを持ちますが
その言葉の意味は物凄い激しさを隠しています。
「全てにまさる」
それが「優」ということ。
つまり「劣っていることを許さない!」
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 09時50分02秒 ) | パスワード |
戢の漢字の意味するところは「もの凄い激しさ」と思います。
戢:しゅう;おさめる;戦いを止める;武器(戈)を集める(こんなあたりの意味だと思います)
日月戢重暉:太陽と月の輝きを両方とも息の根を止めるようにおさめる
くそじょうまんぞく いようろうじっぽう にちがつしゅうじゅうき てんこうおんぷげん
功祚成満足 威曜朗十方 日月戢重暉 天光隠不現
(功祚満足することを成じて 威曜十方に朗らかなり 日月重暉を戢め 天光も隠れて現ぜず)
福徳を完全に満たし
その威厳ある輝きを十方にまでいきわたらせ
そのまえには太陽と月の輝きさえ降伏し、
天界の光さえも隠れて消えてしまう。
真理とは太陽の光も月の光も打ち負かし、天の光さえその前に膝まづく絶対的な力を有する
かな?
「戢」の字の本来の意味は「ほこをおさめる;戦いを止める」から来ているのではないでしょうか?
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 09時52分29秒 ) | パスワード |
ひょっとするとお父上さまは物凄く激しい気性の男性だったのではないでしょうか?
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 09時54分37秒 ) | パスワード |
そして戢さまに対してもの凄い強さ激しさを期待なさっていらっしゃったのではないのかしら?
そんな風に思いました。
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 10時11分02秒 ) | パスワード |
サーモンのお寿司を食べてきました。
その時に「iいやいや、戢さまのお誕生日によっては逆の意味かも!」と思いました。
つまり終戦後でしたら 戢=戈を集めてしまう の意味になり 平和祈願 になります。
こんな事を大好きなサーモンの握りを頂きながら思いました。笑
[13] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月14日 22時59分18秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさんへ
朝のコヒーもそこそこに「平熱」を開けると、ギャンブラーさんのコメントが未だ眠気の覚めない眼に飛び込んできました。このリアクションの早さは流石がと感服しております。先ずは有難う御座いました。
夜半の突風でキッチンの窓ガラスが割れて取り替えの手配。もう今日中にやってくれるそう。ドン・キホテー的感覚のスペイン人も最近は競争原理に目覚めてきたのか、商人たちも結構まともな対応をする様になりました。ガラス屋さんが来る前に昼食の用意をしなければと買い物に行ったり食事を作ったりと大忙し。家内はまだ役所勤めですから、家の事は定年引退の私の仕事。居間の壁も塗らなきゃならないし、夜は約束事があるし、とても書き込む余裕は見つかりません。
きょうはバレンタインーデー。これって世界共通の日なんですか。私からの一輪のバラが妻を待っています。花束より一輪がいいではありませんか。
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月15日 01時23分15秒 ) | パスワード |
はい、こちらも(こちらは今日が)バレンタイン・デイで
我が家は昨日夫が1日前倒しでお寿司を2折り買って来てくれました。
サーモンと穴子で
サーモンは昨日夕飯で頂き
穴子は今日頂きます。
若い頃は2折りぐらいペロンと食べちゃいましたが
今は「食後血糖値」がドカーンと上がるので ←自分でどんな食事が血糖値を上げるか調べました
お寿司は1日1食1折りに制限しています。
鮪は日本人の好きなブルー・フィン・ツナが最近は手に入らなくなってて
色はきれいなルビー色のツナのお寿司になります。
ところがこれが不味くって・・・
山葵+醤油にドボドボに漬けても味の出ないツナです。
花は昔は切花の時は逆さ吊りにしてドライフラワーにしていましたが
埃が溜まるので止めです。猫も襲うし。笑
今は、花は、根っ子のある物だけ買って、花が終わると庭に植えてます。
昨日はポインセチァを庭に植えました。
これは菊と同じで日照時間が少なくなると花が咲くんだそうです。
赤くさせるためにはダンボール箱を1ヶ月被せるんだそうです。
でないと緑色になってしまうそうです。
この1ヶ月がポイントで失敗すると翌年「がんばれ〜」なんですって。
ま、素人では無理だそうです。
昨年から「藤」を幼苗から育てているのですが
去年の11月〜1月の寒波で多分枯れてます。
トレリスを2つ買ったので大きくなった苗を今年は買うかなと思ってます。
それか
バラか迷ってます。
[15] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月15日 07時31分09秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん
広く深く調べてくださって感謝の極みです。
>「才に点」じゃなくて「ホコ」なんです → 「戈」
戈を「ほこ」と読むことは知っています。例えば、武道の「武」は戈を止めるという意味ですね。ただ、漢字への変換キーを打った時、戈の字は出なかったので何才の才に点と分かり易く申したのですがハンドライティングすれば良かったのですね。それはそうと、前回の欄で「春嶽」を「春獄」と入字ミスしていたので訂正してお詫びします。
>戢:しゅう;おさめる;戦いを止める;武器(戈)を集める(こんなあたりの意味だと思います)
戈は「ほこがまえ」というのだそうでが、これがついている漢字は戦うという意味が多いわけですね。昔、広辞林で調べた時、「戢兵」という文字があって何のことなのか分かりませんでしたが。
>ひょっとするとお父上さまは物凄く激しい気性の男性だったのではないでしょうか?
父は剛毅不屈で小事に拘らず、外見を飾らず抱擁力が大きく、世話好きで何人からも敬愛され人望が篤い人でした。柔道八段、文武両道をゆく東洋的豪傑漢でしたね。躾には厳しく徹底的なスパルタ教育でした。柔道は三人兄弟のうちで私だけやらされましたからね。貴方の仰ることが的に当たっている様な気もします。
私は父が戢の文字の一般的な意味を好んで子に命名したのではなく、もつと宗教的思考をこの文字に見取ったのではないかと思うのですね。子供の時分ですが、私の名前に関して「下劣なことを口にしたり、聞く耳をもつ様な人間になってはいかん」という様な意味の事を平易な言葉で言われた記憶があるのです。父が「戢」の字に拘ったのは、口と耳を戒める、即ち、罵詈雑言を口にしたり、耳にするような生き様をする低俗な人間になってはいけない、もう一歩進めば、仏の御教え(口)を聞ける耳を持つ人となれということではなかったかと思うのです。生かされている仏恩に感謝しなさい、素直な人となりなさい、よく子供たちを諭した言葉でした。
宗教家の父にとって戢の戈は智徳(口、耳)を己れの戈とせよという意味でもあると同時に謂わざる、聴かざるというが如く、耳口を戒めて生きよという様な意味もあったのだと思うのですが。
[16] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月15日 07時49分34秒 ) | パスワード |
>戢の戈は智徳(口、耳)を己れの戈とせよという意味でもあると同時に
>謂わざる、聴かざるというが如く、
>耳口を戒めて生きよという様な意味もあったのだと思うのですが。
おお、なるほどね。「戒める」ですか。
その方が分かり易いですね。
>漢字への変換キーを打った時、戈の字は出なかった
ワタクシのも変換出来ないです。「矛」「鉾」「鋒」しかありません。
「戈」はもの凄い古代からの武器を意味する漢字だったんでしょうね。
木造武器のことですから。
「我」という漢字の意味も「己」の意味の前に「戈」で突き刺して殺すという意味なんですってね。
ビックリしました。
続く
[17] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月15日 08時06分41秒 ) | パスワード |
>もう一歩進めば、仏の御教え(口)を聞ける耳を持つ人となれ
なるほどねえ。
お父さまの学の深さが分かりますね。
>文武両道をゆく東洋的豪傑漢
ですね。
>耳口を戒めて生きよ
厳しさが伝わってきますね。
驚きました。
[18] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月15日 23時10分45秒 ) | パスワード |
そうでしたね、きのうは世界共通の日でしたね。もうこれはボケ現象。
お寿司の話し、イヤー食べたいですね。でもスシはスシでも食べるなら故里、北海道はシャケのいずしですね、何といっても。この町にも3軒位寿司屋らしきものがありますが、日本人の板前さんではないので、寿司となると敬遠してしまいます。インターネットや衛星テレビで故国も随分と近くに感ぜられる様になりましたが、食の方はまだ故国を満喫できる状況ではありません。日本料理店も日本食品店もありませんしね。それでも、きのうのバレンタインデーには姪が送ってくれた粉を使って初めてお好み焼きを作ったんですよ。イカやエビもいれてね。結構上手くいったと思ったのに家内は一寸つまんだだけでしたね。食生活とか食文化とかの違いというのはハンパなものではありませんよ。
私も此処に住んでいる年月が日本にいた時よりずぅと長いのに和食のよさが忘れられないのですから不思議なものです。
[19] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 02時28分35秒 ) | パスワード |
>きのうは世界共通の日でしたね。
バレンタイン・デイも国によって異なりますからいろいろバリエーションがありますね。
国によっては着るものを男女共に赤と白に限るとか
韓国は女性から男性にチョコを上げて、あとで男性が女性にお返しをして、この両方に当らなかった男女は黒い服を着てお互いにプレゼントを贈り合うらしいですよ。
アメリカは国中がカードやチョコや花をプレゼントし合う日になってますね。
特に学校関係と職場ですね。
>日本人の板前さんではないので、寿司となると敬遠してしまいます。
わたくしもビックリしましたが
韓国人のお寿司は御飯が酢飯じゃないんですよ。
普通の白い御飯を海苔で巻いただけ、そんな感じで、中に入れる物は「香の物」あたり。
日本で言うと「鉄火の酢抜き巻」かしら?
韓国はキムチを添えますから、それで御飯に酢を混ぜる必要がないようですよ。
>お好み焼き
うちの夫と義兄も、お好み焼きの臭いに、内心(ゲ〜)と叫んでます(笑)
あのキャベツの臭いがアメリカ人は気持ち悪いようです。俵萌子のお嬢さんがそう指摘してました。
(夫の家系はドイツ系も半分入っているのでキャベツの酢漬けは食べられそうなのにダメです)
1番奇妙に見ているのが「かつおぶし」が湯気でユラユラ揺れる風景で「生きてる!生きてる!」と大騒ぎします。
イタリア人でしたらピッツァがありますし、メキシコ人でしたらタコスがありますから
この人達ならお好み焼きは食べられるかもですね。謎
そちらは海の近くですから海の物は皆さん大丈夫のように思いますが
やっぱり日本の物はダメなんでしょうかねえ?
よく言われることが「日本の食べ物は味が無い」。それで世界的には点数が低い。
中華は「平均点が高い」から誰でも食べられる、って。←醤油と油と砂糖の味付けだけ、と悪口も言われますが。
結婚した頃に義母から「日本食はどうやって料理するのか?」と訊かれ
「なんでも醤油でクタクタ煮るんだ」と答えましたら期待されませんでした。笑
夫の親戚からも「何にも食べる物は持って来なくていいから、来てくれるだけでいい」なんていわれてました。
親戚付き合いが楽で済みました。笑
ま、イギリス系+ドイツ系の家庭ですから、食べる物に冒険したくない人達ですから、
出された物を「おいしい、おいしい」と言って食べて
後片付けをやってあげれば喜んでくれてました。
とはいえ近所のフランスからの留学生の女の子達を招待したり招待された時でも
(べつにフランスたって、どうってことない)
って思いました。笑
フランス料理も宮廷料理やミシュラン星レストランは凄いのでしょうけど
家庭料理はドッコイドッコイじゃないのかな?と。
中華料理も満漢全席(?宮廷料理)は凄いんでしょうけど
中国人の家庭の料理もやっぱり「家庭の味」でした。
それで世界中にある日本料理というのもそれぞれの民族風味付けの日本料理であって
日本人には???というような奇妙なお寿司だったり照り焼きだったり。
中国人の知り合いに言われました。
「アンタんとこはダンナさんが日本料理が好きなの?」
って。
「いえ、夫は日本料理は全然食べなくて、自分で好きなように食べてる」
と答えましたら
「ということは、アンタのダンナさんは、アンタが好きで結婚したってことだね」
いるんですって、中華をただで毎日食べたいから中国人と結婚するアメリカ男が。笑
[20] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月16日 08時28分06秒 ) | パスワード |
洪笑。面白いお話、とても愉快でした。
どうもハナシが「平熱」から外れていってる感じですが、こうしてリラクックスしてコメントを交換出来るのは久し振りです。ギャンブラーさんはもうとっても書き慣れているという感じで、その自然体が羨ましいです。私、イヤ、ほんとうは「僕」と呼ぶ方が好きなのでそうします。僕はパソコンを始めてまだ一年と少し。こうしてプログ(というのですね)に投稿するのも初体験(スレッドっていうんですね)。自分の書いたものが載っているのを見て半信半疑だったのですよ。元来の器械音痴で外来語が多い説明書は集中力がなくなって理解が出来ないのです。ともかくIT用語が分からなくて途方に暮れますが挑戦、挑戦です。
さて、話を元に戻して、もう少し名前の事を続けさせて下さい。
先年亡くなった姉は「女へんに窈」と書いて「ようこ」と読む名前でした。この漢字ってなにか意味があるのでしょうかね。
僕の兄弟、甥たちの名は父が名付け親ですが、みんな一文字。仁、哲、淳、敬、伸という風にです。姓も名も一文字でユニークですよね。もっとも、僕は時々中国人の名前に間違えられますよ。
父や彼の父親、兄弟の名前が好きですね。祖父は通方(みちかた、つうほう)、長男が通之(みちゆき、つうし)、次男通正(みちただ、つうしょう)、三男の父は通尊(みちたか、つうそん)、四男通軌(つうき)でみんな
僧侶。はじめの読みは少年時代の名ですね。祖母は事路(ことじ)、これもいい、洒落ているとは思いませんか。
祖父の通方は福井常照寺の三男でしたが、同じ福井の浄教寺へ養子に入り「平」から「瓜生」に姓が変ります。浄教寺村は佐々木小次郎の生地で、瓜生氏は嵯峨源氏の出、南北の頃からの名家。吉野朝の勤皇一家、瓜生保、義鑑、源琳、照重の兄弟が出ました。父はこの寺で生まれ、瓜生通尊と名乗りましたが、その後、わけあつては祖父一家は旧姓に戻ります。
でも凄いですよね。鎌倉後期から寺の坊主が家業なのですから。七百年やっているんです。僕の兄貴は亡くなって、今は甥が寺を継ぎ、彼の13歳の息子が本山で得度しましたからやがては継ぐことになるのですね。スペインで延々と続くのは王室ぐらいなものですから、日本の歴史というのは凄いなと思いますよ。
[21] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 10時30分05秒 ) | パスワード |
「女窈」
初めて見ました。
お父さまはお姉さまに
多分「しとやかなしとやかな」絶対的にしとやかな女性像を求めていらっしゃったのかも
ですね。
窈というのは「深さ」を示す漢字で
意味は「奥深さ」「かすかなさま」「美しさ」「しとやかなさま」を表す漢字と思います。
「よい」とか「あでやか」そういう意味もあるそうですから
女性用の名前に使われると聞きましたけど
それに女扁を付けて、そういう女性になって欲しいという願いが込められているのかしら?
[22] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 10時36分02秒 ) | パスワード |
窈
同僚で yao さんとおっしゃる中国女性がいらっしゃいましたけど
静かな淑やかな女性でした。
漢字そのままでした。
[23] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 10時43分38秒 ) | パスワード |
窈の意味は 「奥深い・奥ゆかしい・美人」だそうです???
[24] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 11時16分49秒 ) | パスワード |
>浄教寺村は佐々木小次郎の生地
ということは朝倉氏館のあった場所の近くにもなるんですねえ。驚
わたくしの母方も通字が「通」になります。
でも江戸時代は幕府を憚って「道」の字を使ってましたが。
織田信長が死ぬ2ヶ月前の4月に、堺の浜にて討ち死にしましたが
この先祖は教如上人だかに帰依して(顕如上人?字が草書?なのか読めないのです 恥)
それで討ち死にしました。
この時の400年忌だったか本願寺で何やら行事が催されたと聞きました。
ということで
たいらのしゅうさまとワタクシは
教如上人と朝倉義景と福井とも・・・重ね重ねの関係かもですね(驚)
[25] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月17日 02時28分51秒 ) | パスワード |
姉の名前にはそんな意味があったのですか。知りませんでしたね、全然。
優しくてお人よしで美人で。学生の頃、寮のメシが不味くてよく姉宅へメンドウをみて貰いに転がり込んでいたものでした。僕が一番迷惑掛けて甘えた姉でしたね。その名前にふさわしい人でした。
父の一族は何と言うか、型に嵌らないというか、尋常でない人ばかりでした。父のエピソード沢山あるのですが、地方巡業の相撲取りを街角で待っての辻投げ、学校をさぼって檀家の料理屋で料理を習っていたので、京都の平安中学へ転校させられたり、終戦直後、酒に酔った進駐軍の兵士がマントに帽子姿の父が珍しかったのか先輩から貰った大事な帽子を彼等にとられ、怒った父が得意の柔道で橋下の雪の上に5,6人なげてしまつた。駆けつけたMPの隊長はたった今、商工会議所で柔道の手ほどきをしてやった人で、結局、大事には至らなかったことなど。随分とワルだったんですね。帽子はあの名門、北畠家の先輩からプレゼントされたものでした。
その父は、武道、園芸、農作、彫刻、書道、料理、弁論、整骨、地方自治、教育、簡易裁判員、民生委員など、あらゆることに秀でて、多くの役職を任じていました。まぁ、地方の一名士の域に留まりましたが、僕には凄い人物でした。父に明治の人間の大きさをみましたね。
本家の先代は寺を継ぐのがイヤで娘に婿養子をとって跡を任せ、自分は都会に出て、事業家として成功した人でした。晩年は僧籍に戻りましたが彼も型に嵌まるのが嫌いなタイプだったのですね。
僕が宇野重吉の劇団に属していたという話しになったんです。すると本家の従姉は驚いて「おじいさまは(先々代)宇野さんをオイお前と呼んでいた仲で東京から戻るといつも寺にきていましたよ」だって。宇野さんが僕を住職の甥と知っていたら、もっと役をくれたかも。この先々代は畏れ多い本山のお上(門主)を嫌って堂々とそれを態度に表していたというから、傑物ですね。康頼の末裔此処にありです。
[26] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月17日 05時40分31秒 ) | パスワード |
>康頼の末裔此処にありです。
皆さまなかなか興味深い人物像でいらっしゃいますね。
人間の幅が大きいというのは魅力ですね。
とはいえ
外から拝見している分にはステキな男性像なんですが
一緒に生活や行動を共にするには並みの女性ではついていけないでしょうね。笑
覚悟が出来ていないと。
つくづく思いますが
人間は何かが秀でているとか
いろいろな能力があるといいですね。
大多数の普通の人は中途半端ですものね。
お父さまは極めてしまうところがやっぱり「徹底」とか「絶対」の人物だったのでしょうね。
いらっしゃいますよね、そういうマルチ優等生の人。
わたくしには「コワイ」ですが。
例えば作家の立原正秋という男性は美に対する絶対的な目を持っていて
本物でなきゃいけない
そういう人ですからコワイです。あまえられないし、ごまかせないですから。
でも、そういう家庭に育ちますと、また違う人物に育つのかもですね。
自分には厳しく許さなくても、人には同じようには求めない、とか?
>宇野重吉
つい数日前にNHKの「あの人に会いたい」で宇野重吉がゲストでした。
それで福井出身だということを知りました。
この宇野重吉という人は歴史的な人物で例えると一休さんに似てるんじゃないか
と空想しています。風貌だけですが。
[27] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月17日 07時03分42秒 ) | パスワード |
父のような親を持つと妻も子供たちも大変ですよ、仰る通りです。
両親は汽車の中で知り合っての恋愛結婚。あの時代にね。
檀家の長老たちが母の両親に神道から仏教へ彼女の信仰を変えてもらう様に 頼み込んだと言います。母も余程の決心があったのでしょうね。
越前朝倉は加賀から押し寄せてくる一向一揆をその地を追放された高田専修寺派と地元の三門徒派と共に戦います。浄土真宗は十派といわれ、越前はそのうち四本山が集まる念仏王国。如導の専照寺、横越の証誠寺、鯖江の誠照寺、味真野の毫摂寺がこれです。朝倉の敵は三門徒派寺院の敵でした。常照寺や浄教寺も讃門徒派ですから(正確には出雲路派)本願寺派と戦火を交えるのですね。
その後、信長が本願寺を攻めた時、専照寺を味方にし、柴田勝家も保護したので、越前四本山が繁盛しましたが秀吉ー勝家との戦いに巻き込まれ、零落の道を辿っていきます。
[28] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月17日 07時56分32秒 ) | パスワード |
開基が康頼の末とつたえる福井の寺に康頼が鹿ヶ谷事件で捕まったあと、母に宛てた遺言状というものが伝えられていますのでご紹介します。xx印は解読不可能な箇所です。
1.六波羅入道
荒荒敷
いかり
法皇を
鳥羽殿へ
をし籠愁
申事
返返口惜
次第候
今夜数の?
人々は
皆国々へ
遠流の
よし
聞え候
2.俊寛
成経
愚僧
三人
薩摩潟と
やらへ
まかり候
よし
油殿 ?
より
つたへられ候
二度帰山
候事
おもひとと
まらせ ?
給候へ
あらなつ
かしの
老母や
これを形見に
3.つかはし
給候へ
したため
まいらせ候
あなかしこ
平判官
康頼
xx院入道
オリジナルは縦書きで、2,1,3の順で記されています。
[29] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月17日 08時18分18秒 ) | パスワード |
あらら・・・
恋愛結婚でしたか。
当時は大反対の嵐だったのでしょうね。
神道と仏教の違いも今とは違って当時は大変な違いだったでしょうし。
越前の宗教戦争は政治の矢表に立って大変な争いがあったのですねえ。
後世に影響を及ぼしたのでしょうね。
我が家は母方父方ともに浄土真宗で西本願寺で
お寺やってる親戚が大阪や三重にもありますが
でもNYの親戚はどういうわけか禅宗で
多分進学や留学した関係でそっちにずれて行ったのでしょうけど
わたくしは宗教的に「天真爛漫」でいましたから
最近某宗教の争いを知り驚いています。
自分の世界が浄土真宗で西本願寺だけだった時代より広く世間を見られるようになったかも。
で、学校はカトリックで、夫は違うキリスト教で、
世界は自分の知ってたより広かったと思いました。
福井の友人も浄土真宗で当然だと思ってましたが
ひょっとするとワタクシの知らない背景を持った浄土真宗だったのかもですね。
勉強しなくっちゃ!
[30] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月17日 11時18分16秒 ) | パスワード |
貴重な資料をありがとうございました。ぺこり
「 xx院入道 」この方のお名前が分かりましたら
もっとこの書状の意味の深さが分かりましょうね。
「入道」ですから男性で、中年以上の年代のかたでしょうね。
この人に我が母へ伝えて欲しい
という形をとっているのでしょうね。
ということは御親戚筋の御老人でしょうね。
母方の伯父さまか、お従兄弟さんか、
どなたかそんなお立場の方でしょうね。
> 油殿 ?
どなたでしょうね?昔は漢字を適当に使ってますから分かり難いですね。
1.
友人か知り合いか?
それか
2.
この方はきっと平家方の警察か裁判所かの「検非違使」で
特定するのは簡単でしょうね。
鹿ヶ谷事件をじっくり読めば名前が分かるでしょうね。
800年以上の時を超えて、黒子姿で関係者が浮かんできますね。
[31] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月18日 03時19分54秒 ) | パスワード |
原文の漢字が「油」と読むのかどうか自信はありません。
「油」だとしたら、油小路に居を構えていた武士ではないでしょうか。
「池殿」と読めない事もありませんが、頼盛と康頼は不仲の間柄であったという資料があります。
この遺言状なるものの真贋性も分かりませんしね。
腑に落ちない部分もあります。
>俊寛、成経、愚僧三人
あの当時、親か主人でなければ名前を呼ぶ習慣はなく(諱)、官位を呼んだと言いますから、丹波少将、法勝寺僧都のように記すべきではないかと愚考しますが。
>法皇を鳥羽殿へ
この事件では清盛は重盛の諫言に応じて法皇を鳥羽殿に幽閉してはいない筈で
す。
康頼著の「宝物集」の原本があって、筆蹟が照合できれば本人のものか否か分かるのでしょうが、例えこれがホンモノであっても、歴史的価値のあるものではないと思いますね。もし、後世書かれたものだとしたら何故なのか、そのほうを考える方が意味があると思います。
[32] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月18日 08時47分56秒 ) | パスワード |
>「油」だとしたら、油小路に居を構えていた武士ではないでしょうか。
京都には土地鑑が無いので
「油小路」= 伊東甲子太郎暗殺事件=を連想してしまいました。笑
でもそのうちに平安時代末期の京都マップが発刊されるかも知れません。
そうしましたらどなたか特定出来るかもですね。
>「池殿」と読めない事もありませんが、頼盛と康頼は不仲の間柄であったという資料があります。
そうなんですか。
この当時からたいらのしゅうさまのお宅は謎々がお好きだったのかも。笑
>あの当時、親か主人でなければ名前を呼ぶ習慣はなく(諱)、官位を呼んだと言いますから、
>丹波少将、法勝寺僧都のように記すべきではないかと愚考しますが。
内々の手紙なので名前を書いたのかも知れず
謎が謎を呼びますね。
御子孫が否定なさってはいけません(笑)
>この事件では清盛は重盛の諫言に応じて法皇を鳥羽殿に幽閉してはいない筈です。
「幽閉してやる!と清盛が息巻いているという段階の噂」を語っているのかも知れず
流罪になる前の慌しさの中で、そう書いたのかも、でございますよ。
自分が流罪になるのですから、法皇だって無事では済まされないだろうと皆さんが話していたのかも。
本物でしたら、貴重な資料になると思います。
当時の事件処理の慌しさで流言蜚語が飛び交ってたでしょうから
清盛は本音では法皇を厳罰に処したかった
という1つの証になるかも知れません。
御先祖さまがあの事件に連座して捕まって流罪になった
それだけで凄いことですから
御子孫の中だけでもこの遺言状は本物である
(または後世にどなたかが書き写したのかも知れず)
と確信なさるのが1番と思います。
昔はコピー機があったワケではなく
どうしても手で書き写すことになりますから
その時に書き写した人の思いが入ってそうなったのかも知れず
(ですから昔のお話っていろいろな「なんとか本」という形が生じますね。)
>もし、後世書かれたものだとしたら何故なのか、そのほうを考える方が意味があると思います。
はい、そうですね。
きっとお身内の方でしょうね。
現物を見せて頂いて、自分で記録に書き留めたのかも。
想像が広がりますね。
[33] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月19日 04時31分42秒 ) | パスワード |
>内々の手紙なので名前を書いたのかも知れず
謎が謎を呼びますね。
>「幽閉してやる!と清盛が息巻いているという段階の噂」を語っているのかも知れず
流罪になる前の慌しさの中で、そう書いたのかも、でございますよ。
そうですね、そんな見方もありますね。
>この当時からたいらのしゅうさまのお宅は謎々がお好きだったのかも。笑
「宝物集」の権威でいられる山田昭全博士の研究論文から一部分転載させて貰います。
もう一つ極めて興味深い資料に「清獬眼抄」がある。従来誰にもかえりみられなかったが、康頼の風貌を推知する上で逸することができない。安元元年十一月二十日未剋に、東寺僧正禎喜の壇所から火災が起こった。折からの風にあおられて火は内裏にも延焼する勢いである。衛士たちがかけつける。延焼防止のため禁裏周辺の民家をとりこわす命令が出た。
原本漢文は省略
左兵衛尉則清宿所というのは油小路二条の南の西側にあった西行の宿所だったということであるが、その宿所の破却を康頼が担当することになった。ところが取り壊しの最中抵抗があって、石つぶてを投げてきた。康頼の郎党はこれに備え抜刀したらしく刀を抜いたまま退出しょうとしたところ、見回りにきた平頼盛の一行と遭遇する。頼盛一行は何か犯罪行為があったと誤認したのであろう、康頼の郎党を逮捕した。その際平有頼の息子、太郎が康頼郎党に組みつき、頭部に刃傷を受けた。それがきっかけとなって、大規模な乱闘に発展した
けれども火災は鎮火したというのである。忽忽の間とはいえ、乱闘広博に及んだというところに康頼の血気盛んな風貌を推測することができよう。中略
それにしても、康頼が西行の宅を壊したというのは面白い。このとき西行は五十八歳で、この事件後伊勢に住むようになったという。対捍し、飛礫を投げつけたのは誰だったのであろうか。伊藤氏は、当時そこには西行の弟が住んでおり、尼となった西行の妻が娘を連れていただろうと推測しておられる。ちなみに、(宝物集」には西行の歌をたった二首引くのみで、本文中に彼についての言及はまったく見えないのである。以下略。
康頼の末、此処にありの意味がご理解されましたでしょうか。今様にたけ、歌人としてもなかなか優れていた為、脆弱な文人タイプを想像しがちですが、なかなかどうして、康頼はこんな生臭い男の面もみせています。
漢文省略
[34] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 09時19分14秒 ) | パスワード |
わ〜!
すごぉ〜い!
貴重な、予想外の、資料でございますね。
堂上平氏でしたら粗暴なことはしないだろうと普通は思いますが
なかなかどうして
実像は想像を超えるようですね。
数年前、尾張藩出身で大阪に引越されて御自身は東大にいらっしゃった服部さんとおっしゃる青年が
尾張藩の御先祖さまの屋敷を知りたいということで
結局は東大に資料があって場所が分かったと書き込んでいらっしゃいました。
それで東大ならたいらのしゅうさまの御先祖さまの資料があるのでは?
と書こうかと思案してましたが
上記のように珍しい資料をお持ちで
そうなんですよねえ
世間には知られていない貴重な資料というのが実は存在するんですよね。
御子孫だからこそ、知り得た、ということでしょうね。
お裾分けに預かって恐縮です。ぺこり
[35] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 09時39分28秒 ) | パスワード |
>左兵衛尉則清宿所というのは油小路二条の南の西側にあった西行の宿所だった
この「左兵衛尉則清」って誰かとちょっと検索してみました。
西行(1118年(元永元年) - 1190年3月23日(文治6年2月16日))
父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。
俗名佐藤 義清(さとう のりきよ)
「のりきよ」なんですが他にも「憲清」と表記するそうです。
西行宅を、弟が守ってて、西行の妻子が住んでたらしい、ということですね。
西行の気性の激しさはよく知られていますから、西行の弟も凄かったかも(笑)
面白いですね。
歴史の中で過去になった人間像が生き生きと蘇るのですから。
[36] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 09時59分12秒 ) | パスワード |
ちょっと引っ張ってきました:
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html
元永元年(1118)、生まれる。
俗名は佐藤義清(のりきよ)。
父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。
弟に仲清がいる(『尊卑分脈』では兄とある)。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/kotennko08.htm
かくて、ここかしこ修行して歩くほどに、はかなくて二、三年になりぬ。
ことのたよりありて、
京の方へめぐり来たりけるついでに、
ありしこの弟が家を過ぎけるに、きと思ひ出でて、
さても、ありし子は五つばかりにはなりぬらむ、
いかやうにか生ひなりたるらむと、
おぼつかなく覚えて、
かくとは言はねど、門のほとりにて見入れけるをりふし、
この娘、いとあやしげなる帷姿にて、下衆の子供に交りて、土にをりて、立蔀の際にて遊ぶ。
髪はゆふゆふと肩のほどにおびて、
かたちもすぐれ、たのもしき様なるを、
それよと見るに、
きと胸つぶれて、この子のわが方を見おこせて、
「いざなむ。聖のある、恐ろしきに」とて、内へ入りにけり。
弟になってますね。
佐藤家は北面の武士の家柄ですから弟も気性が激しくて当たり前ですね。
特に当時は気性の荒いことで知られた後白河さんの時代ですし。
捨てた娘も数えで5歳になって、近所のガキと一緒に泥まみれになって遊んでて
でもなかなかの美形になっていて、
これは将来良い家柄に嫁に行けるぞ、と楽しみに思っていたら
「へんちくりんな乞食坊主! コワ〜!」
と言って中に入って行ってしまった
な〜んて、ふふふ、父と娘、なかなかの勝負でございますね。
[37] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 10時43分59秒 ) | パスワード |
平時忠
安元元年(1175年)
11月12日:検非違使別当・右衛門督両官職兼任
火事の少し前ですね。
こんなの見つけました。
油小路というのが見つかりました。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike02.html
平家物語を読むための邸宅案内
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html
平安京条坊復元図
[38] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 10時49分15秒 ) | パスワード |
平康頼は検非違使もしてたと書かれてました。
やはりヤワな貴族だったわけじゃないですね。
[39] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 16時16分50秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/kimkaz_labo/sa.htm
これによりますと西行法師の「のりきよ」は「範清」の漢字も使っていたそうです。
いろいろ調べたところ4つ目として「範清」が出てきました。
多分「義清」は源氏との関係から「義」の字を使うようになったんじゃないかしら?
ここのところが確信に変わる証拠が見つかれば良いのですが。
意外とこの西行という人物は結構計算高かったりしますから。
案外頼朝から「義」の字を貰ったのじゃないかな?と邪推しています。
計算高いなと思ったのは上記の<36>からと
上記の娘が冷泉家だったか?と縁があって
嫁に出したつもりでいたら
使用人にされてしまったとかで怒って娘を引き取った
なんてどこかに書いてありましたから。
それから木曾殿に対しても冷たい態度ですから(藤原定家も木曾殿に冷たいし)
世間は立派な人だと称えていますけど
わたくしには(そうお?)です。
木曾殿のことは皆さん悪口がお好きですけどホントの所はどうだったのかな?と空想しております。
[40] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月19日 22時08分11秒 ) | パスワード |
西行と康頼。皮肉な事にこの二人の石碑が仲良く並んで京都東山双林寺の境内にあります。始めはこの二人の二塔のみであつたが、江戸中期ごろになって頓阿の塔が設けられ、いずれも好事家によってつくられた供養塔で、真の墓ではないといいますが、当初は康頼と頓阿の墓が此処にあったという説もあるようです。境内に「西行庵」がある様に、世捨て人が心の拠り所をこの寺に求めたのでありましょう。
康頼は此処に山荘をもち、帰洛後隠棲し宝物集は晩年そこで著されたと言いますね。
「康頼入道は東山双林寺にわが山荘ありければ、それに落ち着いて先おもひ続けり
ふる里の軒の板間に苔蒸して おもひしほどに漏らす月かな
やがてそこに篭居して うつりし昔を思ひ続け、宝物集といふ物語を書けるとぞ聞えこえし」 平家物語巻三 少将都帰
[41] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月20日 00時37分31秒 ) | パスワード |
>ふる里の軒の板間に苔蒸して おもひしほどに漏らす月かな
「苔蒸して」は{苔むして」の出字ミスです。
「宝物集」原本は宮内庁にあると聞きましたが、一般人でも観覧できるのでしょうかね。
どなたか僕の本家「越前・福井、真宗常照寺(ジョウショウジ)・出雲路派毫摂寺〈イズモジハゴウショウジ)」の寺伝沿革等を調べていただけませんでしょうか。
一番古い記事は元亀三年の大谷本願寺通紀にその名が見えるほか、「越前名跡考」1815年 や「福井県足羽郡誌」に寺伝が載っています。「大日本寺院総覧」等の資料は外国在住の為、閲覧不可能であります。ご協力をお願いいたします。
[42] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月20日 07時38分04秒 ) | パスワード |
山田教授の平康頼伝記研究から転載を続させて頂きます。
「清獬眼抄」は下記の記事を「後清録記」というものから引用している。
「清獬眼抄」にはもう一つ、安元三年四月二十八日の京都大火のとき、康頼等が活動した模様を記している。このとき、康頼は資行、信房、基広らとともに内裡に向かうが、延焼を見届けただけで退出を余儀なくされる。そのとき額の間(清涼殿の天皇御座に続く部屋)を出る出ないで御清録記の筆者にとがめられる。
額の間を出てはならぬと故実については未詳であるが、とにかく予(後清録記の筆者)にとどめられて、いったん出かかったのを中止して、一行は他の部屋を打ち開いて出ようとした。ところがもはやそれは不可能だったので、やむなく額の間から外へ出たというのである。
左衛門尉康頼がこうした火急の場に登場するのは役目がら当然であったかもしれぬ。しかし、今様の歌い手であり、「宝物集」の筆者であったという文人肌の康頼に、火の粉をくぐらねばならぬような危険な任務を遂行した時期があったことをしらせる点でこの資料は興味深い。しかも先の頼盛との乱闘事件と重ね合わせてみると、そこにはかなりたくましい行動力をもった衛門府官人康頼像が浮かび上がってくるのである。
康頼一行は、清涼殿から避難するとき、馬に乗ったようである。この点も後清録記の筆者は故実に反しているとして非難している。緊急のときでもいちいち故実に制約されねばならなかった当時の宮廷人を、滑稽だと言い切るのは今日的見方にすぎるであろう。額の間の通過をいったん制止させた後清録記の筆者は、翌日右衛門督平時忠を通じて、院よりその行為をほめられ、「面目之至、不知所謝而巳」と記している。
続
[43] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月20日 10時01分27秒 ) | パスワード |
「宮内庁書陵部所蔵資料一般利用規則」というのがありますから
チェックしてください。
わたくしのPCではPDF文書は読めないので
どういうのか分からないです。
でも宮内庁にあるんでしたら国会図書館にはコピーはないのでしょうか?
宮内庁関係でしたら後醍醐天皇さん関連のことをお使いになって
御挨拶なさって訊いたら良いですよ。
[44] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月20日 10時05分05秒 ) | パスワード |
それから東大助教授の本郷和人先生(たしかこんな感じのお名前だったと思います)
あたりに御助力願う、とか。
[45] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月20日 10時55分27秒 ) | パスワード |
安元3年4月の大火は京都の町の3分の1を消失したんだったかしら?
鴨長明もこの火事について書いてたように記憶しております。
[46] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月20日 22時28分05秒 ) | パスワード |
ギャンブラーさん、どうも有難う。
「宝物集」原本h例え現存しても閲覧する事は無いと思います。健康の事情で日本への旅は難しいのです。
「常照寺」のことは、龍谷大学のように仏教学部があるところに検索をおねがいしてみます。
>安元3年4月の大火は京都の町の3分の1を消失したんだったかしら?
鴨長明もこの火事について書いてたように記憶しております。
そうですね。この大火は「玉葉」や「方丈記」にも記録されていますね。
前回の続き。
面白いのは、火事場での康頼らの服装について記しれいることである。
漢文省略
「くくりを上ぐ」というのは指貫の裾に通してあるくくりひもをしぼって結び上げ、裾が足に引っかからないようにすることである。「浅沓(あさぐつ)」というのは、桐をくり抜いて、外にうるいを塗り、内側に布を張った沓。これに対し「毛沓」は毛皮で作った沓でふつう武士がこれをはいた。行動に最も便なるためにはくくりを上げて毛沓をはく事であろう。康頼は故実にうるさい後清録記の筆者に問い合わせて、はじめ結んでいなかったくくりひもを結び、いちばん合理的ないでたちとなった。もっとも毛沓をはいていることを非難されてはいるが。後清録記の筆者に問い合わせたのは、故実にうといことの自覚と故実を尊重しようとする態度のあらわれであろうか。しかし結果的には康頼らは因習を乗り越えて最も合理的な服装になったと言い得る。細かいことだが、この辺にも康頼の抜け目なさが感じられないではない。
(中略)
康頼が額の間を通り抜けようとしたり、乗馬して避難したりしたのは有職故実にうとかったことを暗示しており、またくくりの上げ下げについて故実家に問いただしたことは、有識故実を頭から無視するのではなく、そういうものを一応わきまえて、実際に活用しようとする姿勢があったことをも暗示していると思う。すなわち衛門府官人としての康頼は、一方に、自ら火急の場におどりでて、実際行動を遂行する武人的風貌を示すとともに、他方では有識故実にも関心を示し、一応これを尊重し摂取しようとする文人的素質も持っていたと言える様である。
[47] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月21日 00時24分39秒 ) | パスワード |
そうでしたか・・・
健康上の問題をお持ちでいらっしゃいましたか。
マドリッドに出るのも大変なのに、そこからセントレアなり成田や関空に行くというのも
もの凄い時間が掛かりますから
大変なんですよね・・・・
本郷先生も助教授になられて、今は雲の上の存在になってしまいましたけど、
日本の中世については本郷先生はこれから東大大学院の教官として
いずれ確固たる権威におなり(もう、なってるのかな)ですから
早目に外交チャンネルを通しておくと良いと思いますが。
宮内庁のことは引越す前に元華族のおばさまやおじさま方達からいろいろ聞きましたが
(冷泉のおじいちゃまから「5位の局」を貰っておきなさいよなどとアドバイスも頂いたのですが)
皆さん、どんどん鬼籍に入られて
やっぱりアドバイスって価値があったのだなあと今更思います。
>康頼は故実にうるさい後清録記の筆者に問い合わせ
これって、自分は知ってても、儀式というか礼儀というか、一応「そこから」アドバイスを頂く、というのが「日本の雲の上の世界」なのですよねえ。
久し振りにそういう世界のしきたりを思い出しました。笑
[48] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月21日 00時37分34秒 ) | パスワード |
康頼という人物が髣髴としますね。
やっぱり頭が良いのでしょうね。
脳の使い方を知っていらっしゃる。
一体どういう家柄の人だったのでしょうね?
中原基兼
中原親能
このあたりと従兄弟関係か遠い親戚かな?と想像しているのですが
特に基兼とは。
頭の良い人の行動と頭の良いとは言えない人の行動を見ていると
康頼の頭の良さというのは参考になります。
基兼を調べていったら康頼がもっと分かるのかもです。
[49] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月21日 17時47分13秒 ) | パスワード |
「浅沓」なるものは実家(寺)にありましたね。平安朝の貴族が使っていたやつですね。黒い漆が塗ってあって。子供の頃、足に引っ掛けて歩いてみた事がありますがまともには歩けるものではありませんでいた。昔はすこぶる不便なものを履いていたのですね。
「五位の局」とは、ギャンブラーさんの家系はもと堂上だったのですね。世が世であれば、ですね。
康頼の玄孫如導の父、平俊職は宮廷人で四位に叙されていたとあります。その後は僕の家は坊主稼業ですから宮廷とは関係ありませんが、開基の1296年(1333年ー鎌倉幕府滅)から15代までの1697年(1687年ー生類憐れみの令、1702年ー忠臣蔵仇討ち)、歴代の住持は朝廷より「上人号」、門蹟京都青蓮院から僧侶としては最高位官がくせいに近い「権大僧都法印」に叙されているのですからタイシタものだと思います。
再三話題にしているカナダに住む従姉は彼女の母方の関係から昭和天皇の侍従長であったI氏と親戚だそうです。世話になって住んでいた東京青山のビルは
殆んどが明治、大正、昭和にわたる皇室関係の縁故者が集まっていた所だそうです。
[50] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月22日 00時37分41秒 ) | パスワード |
>一体どういう家柄の人だったのでしょうね?
さあ、それが分かれば僕の先祖探訪もラストコースを迎えるのですがねえ。
康頼の父、頼季は信濃権守で歌人であったらしく、「本朝世紀」によると右少史に任ぜられたのと記事があるのみで、信濃史料には権守としてのこの人物の名前はなく、母の出自なども全く不詳だそうです。
中原氏は古くは清原氏と並ぶ学問の家柄で、康頼がもしその血を承けているとするなら、彼が「宝物集」のような大著を編む素地をもともと持っていたと考えられるわけです。
しかし、少年の頃、中原康頼の名ですでに宮廷に勤めていた彼が「平」と姓を
変えたのはどうしてでしょう。
康頼は平家の養子となったのか、それともやんごとなき事情で父と別れ、平姓の母や祖父母に育てられたのか。「平家物語」で康頼が年老いた母を想う心は尋常ではないのは、彼の母は女手ひとつで彼を苦労して育て上げたのではないか。養子にいったとすれば、この母とはどの親を指すのか。産んでくれた母か、育ててくれた母のことなのか。
こんな疑問に応え様としているのが、まだ明らかにされていない「平家物語」の作者を追って二十数年来研究を続けていられるN女史です。
彼女は既成の諸説を離れ、全く新しい見地から「平家ー」の作者は木曾義仲の養父中原兼遠の兄中原兼保(海野行親)と其の子覚明(西仏)であると確信するに至ったのです。勿論、それなりの根拠を挙げてはおりますが、まことに以って大胆な説と謂わざるを得ません。
また、康頼の父とは義仲の養父中原兼遠であるとも推測されており、そうなれば、康頼は巴御前の異母兄妹であり、僧覚明、中原親能、鎌倉幕府政所長官の大江広元のいとこという関係になるとN女史は自論を展開します。
彼女の論文の一部がwebに発表されておりますので、興味をそそられる方は
ご覧ください。説得力は充分です。
nantosei.hp.infoseek.co.jp
北の旅人 番外 中原兼遠
[51] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月22日 01時28分58秒 ) | パスワード |
>中原親能
学問的にはこちらの血統かな?と想像しますし(笑)
鹿ヶ谷事件からすると
中原基兼かな?
頼朝との関係からしても基兼かな?
と、ここら辺りの人物が鍵になっているのかな?と思います。
昔の家族関係って、血筋関係は実の親子でも母の出自でいろいろ隠されたりしますし
養子や融子がありますし
仮の親子関係もありますし
後世に伝わる名前だけからはなんとも言えませんよねえ。
史料でも確実に事実を伝えているわけじゃないですし。
ライフワークでございますね。
死んだらホントのところが分かりましょう。
それまでに御先祖さまのことは調べておかなくては。
[52] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月23日 04時58分14秒 ) | パスワード |
「日本の苗字七千傑」さんの増補された康頼の項に子の一人として神子の名が記されています。この人物は神子栄尊禅師(しんし、又はじんしえいそんと呼ぶ)のことです。
もう、7,8年になりますが大正大学の山田昭全教授から康頼の子孫に「神子栄尊」なる高僧がいたという伝承があることを伺いました。
栄尊は筑後国三潴荘の住人藤吉種継の娘千代姫と特赦を受けて喜界ヶ島から帰洛の途にあった平康頼の間に生まれたという伝承があります。栄尊は長じて渡宋し、無準に学び帰国。1245年臨済宗妙心寺派夜明山朝日寺を創建、没年は1272年、78歳。
この言い伝えにケチをつけ様とは更々に思いませんが、例によって腑に落ちない点があります。
没年と年齢から逆算すれば栄尊は1194年に生まれたことになります。
康頼たちの帰洛が治承三年、すなわち1179年の春と「平家物語」にありますから、両者の間には15年もの開きがあって不自然。
「平家ー」によれば、康頼らは島を出てその年の11月ごろまでに肥前国鹿瀬庄に着き、翌春上洛せよという門脇宰相の伝言を受けて鹿瀬庄で越年する(「お産」)。翌治承三年正月下旬、成経と康頼はそこをたって船で備前の児島に着く。ここで二人して成親の墓を弔い、三月十六日鳥羽着、七条河原まで行動を共にしたあと、ふたりはそれぞれの落ち着く先におもむいた(「少将都帰」)とあります。
つまり、康頼らが鹿児島から内陸を縦断して筑前に立ち寄った足跡はなく、当然千代姫との一夜限りの恋はあり得なかったのではないでしょうか。
それでは、栄尊とはいったい誰なのでしょうか。
[53] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月23日 09時22分55秒 ) | パスワード |
nantosei.hp.infoseek.co.jp
北の旅人 番外 中原兼遠
>実は義経の軍の中に覚明の一族につながる人物が2人参戦していた。
>1人は副将軍の田代冠者信綱、
>もう1人は頼朝の目付役として従っていた藤原親能である。
この人物は上記中原親能と同一人物です。
中原家がもっと詳しく掴めると良いのですが。
中原親能:
1143〜1209
鎌倉前期の御家人。
明法博士広季の子。
1説には参議藤原光能の子で外祖父広季の養子。
幼児期相模国で養育された。
流人時代の頼朝と接した。
その後京都で下級官人とばるが源平争乱が始まると鎌倉に下って頼朝に仕えた。
頼朝に重用され平家追討や奥州合戦にも従軍し武士的な面を見せている。
略
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