[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 10時15分03秒 ) | パスワード |
年月日はうまく聞き取れなかったりして間違っているかも。
川中島の戦い
1553年〜1564年。
信州川中島で
風林火山の旗印のもと天下無双の騎馬軍団を率いる甲斐の武田信玄
vs
毘沙門天の旗印のもと奇想天外の戦術を繰り出す越後の上杉謙信
が5回戦ったが結局勝敗はつかなかった。
何故引き分けに終わったのか?
これまでの説は
両者の実力が伯仲してたから。
東工大の山室恭子教授の説
あれは真剣勝負ではなく
コブシを振り上げただけの勝負をつけない
パフォーマンスだった。
川中島という名称は場所が犀川と千曲川に挟まれた土地で島のように見えたから。
(固有名詞じゃなくて普通名詞だったのねえ)
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 10時27分01秒 ) | パスワード |
詳しくは自分でチェックしてね。
天文22年9月1日
第一回目川中島の戦い
武田信玄は21歳の時クーデターにより23万石の甲斐の国守になったものの
釜無川や笛吹川がたびたび氾濫を起こし餓死者が続出し国は疲弊した。
家臣や領民に土地を与えるために武力で獲得しようと信濃を狙った。
侵略すること火の如く、信濃北部まで勢力を拡大した。
上杉謙信もクーデターにより45万石の越後の国守になったものの
足元は収まっていなかった。
武田信玄の信濃侵略は川中島から謙信の居住する春日山城まで50kmと迫り
危機感を募らせていた。
こうして天文22年9月1日川中島の戦い第一回が勃発した。
上杉謙信は武田勢を信濃中央部まで押し戻した。
武田信玄が攻め戻した。
こうして引き分け両軍は川中島を挟んで睨み合った。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 10時49分15秒 ) | パスワード |
両者ともに戦さ上手で
上杉謙信は臨機応変に陣形をとり率先垂範型。
武田信玄は謀略知略を尽くして相手陣営を切り崩す型。
何故川中島で激突したのか?
甲斐は海がないので
(南に今川と北条がいたので)
北を狙った。
越後の謙信は信玄に奪われるわけにはいかなかった。
vs
新説のパフォーマンス説では「川中島の戦いは領土利権獲得が目的ではなかった」。
この説を支える2人の手紙:
信玄 → 謙信
「戦うことを思い留まってください。そうすれば戦いは終わります」
謙信 → 信玄
「このまま戦っては何事もうまくいかない」
∴この手紙から2人は雌雄を決しようとはしていなかった by 山室恭子東工大教授
2人とも領国向けには
謙信:「信玄の悪業をやめさせなくてはいけない」
信玄:「占いで必ず謙信に勝つと出た」
と言って2人は「敵を外に求め領国の基盤を固めるのに成功した」。
川中島の戦いで共に大きな成果を挙げ領国経営に成功。
「戦略というよりはパフォーマンスだった。
戦いというスローガンで国を纏めようとした。
川中島の戦いでこれまでなかった新しい形の戦争が行われた。
2人ともクーデターで政権を握ったので領国経営が大事だった。
謙信は兄から越後を手に入れたものの豪族達の反感を買っていた。
信玄も父から甲斐を手に入れ領国内の反乱に手を焼いていた。
こうして領国の安定が必要だったので反乱を回避するために足元を固める必要があった。
あ〜
打ってて混乱しちゃう。
信玄に謙信に信玄に謙信に・・・と・・・ダンタンしんげんけんしんが混乱
甲斐越後甲斐越後と打ってるとだんだん混乱。
アチャコチャで打ってなきゃ良いのですが。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 10時55分38秒 ) | パスワード |
第2回目
天文24年 1555年?
武田軍 旭山に布陣
上杉軍 横山に布陣
両軍の間に善光寺。善光寺は当時塩・麻・漆を商う大商業地だった。
信玄は善光寺を手中に納め利権を手にしようとしていた。
謙信は信玄の目論見を許せなかった。
激突。
信玄は鉄砲300丁上杉を攻撃。
謙信は陽動作戦で武田軍を挟み撃ちにしようとした。
しかし信玄は部下に抵抗を許さなかった。 なの?
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 10時58分23秒 ) | パスワード |
第3回目
弘治3年 1557年?
決着つかず。
信玄善光寺を甲斐に移す。
謙信怒る。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時09分45秒 ) | パスワード |
<第4回目が始まる経緯>
永禄2年6月 1559年?
上杉謙信
関東管領に。
国内では謙信に対する求心力が高まった。
上杉謙信が管領になったため北条氏康怒る。
上杉謙信に北条氏康を討つよう命令下る。謙信小田原城を包囲すれども落せず。
逆に越後に攻め入られそうになる。
vs
武田信玄 弘治3年 1557年?信濃守護になる。
1560年 今川義元が織田信長に桶狭間で討たれた。
それで信玄は南下のチャンス到来として駿河国を奪おうと狙う。
↓
武田信玄 ←友好関係→ 北条氏康
信玄は上杉攻めを北条氏康から要請される
VS
上杉謙信は武田信玄に攻められた信濃の豪族達から泣き付かれ信玄を討つよう頼まれる。
この時の謙信のスローガン:
「義以誅不義」
謙信は義をもって不義=信玄=を誅する
こうして4回目の戦いへ。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時19分20秒 ) | パスワード |
こうして信玄と謙信はしがらみから川中島の戦い第4ラウンドへ。
・善光寺は経済の中心だった。信玄がこの利権を欲しがった。
・謙信 vs 北条 が大変な事態になっていた。
・信玄にとってチャンス到来だった。
こうして永禄4年 1561年?8月16日第4回目の川中島の戦い開始。
上杉軍 妻女山に布陣 (1万3000の兵?)
↑
この間2kmで対峙
↓
武田軍 海津城に (2万の兵?)
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時23分56秒 ) | パスワード |
(ここからイヨイヨワケ分からなくなって行く・・・)
武田信玄
明日奇襲をかける
キツツキの戦法で軍を2つに分け相手を叩く
上杉謙信
武田が奇襲をかけて来るぞと見破る
その夜、謙信は下山させ
10日、川中島は深い朝霧が立ち込めていた。
朝6時、突然霧が晴れる。
上杉軍が整然と並んでた〜
武田軍ビックリ!
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時30分22秒 ) | パスワード |
(ココから更にワケ分からない・・・)
上杉謙信:車懸かり陣(くるまがかりのじん)
武田信玄:鶴翼の陣で応じるが上杉軍に突き崩される「謙信は今日を限りの決戦と見ゆる」
上杉謙信が単騎で武田信玄を襲う
ここにキツツキの戦法の片割れの武田軍が来て上杉軍挟まれる。
10時間の死闘の末、武田方死者 4600人 上杉方死者 3500人。 ???
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時45分34秒 ) | パスワード |
<9>は「なぜ決着がつかなかったか?」の従来の伯仲説。
以下はパフォーマンス説。
武田のキツツキ戦法は実際に行われたどうかは疑問とする。
というのは急斜面の山道を通って行くのに
・とても馬は通れず人は1列になってしか行けなかったのでこれは誤り。
・10kmの道を1万2000人が5〜6時間で歩いたとされるが無理。
∴ 記録に残る川中島の戦い第4回目は事実と異なるだろう。
本当は何が起きていたのか?
この時期、両軍の兵の80%が農民だったので、皆、稲刈りが心配だった。
海津城では撤収のために飯炊きで忙しかった。
謙信も帰ろうと両軍撤退を始めていた。
ところが霧の中、彼らは自分達がどこにいるのか両軍ともに分からなかった。
(実際のこの時期の視界は数mしかない)
霧が突然晴れたら・・・
川中島で両軍が思いもかけず遭遇し
それで戦闘に入った。
ここで一世一代のパフォーマンスがなされた。
それが信玄と謙信の一騎打ち。
信玄は「そのまま捨ておけ」と謙信を逃がした。
こうして川中島の戦い第4ラウンド終了のゴング。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時50分13秒 ) | パスワード |
川中島の戦い 第5回目。
永禄7年 1564年
両軍1ヶ月の睨み合いの後、兵を引く。
1568年9月織田信長上洛。
先を越された信玄と謙信は戦いを終わらせる。
つまらない局地戦をやってる間に信長は大局において勝利を収めていた。
漁夫の利という事か・・・
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 11時58分19秒 ) | パスワード |
つまり
御主君を敬愛する家臣の1人としては
いかに自分の主人が有能だったか
針小棒大に語り満艦飾でストーリーをでっちあげないことには
自分の生きた日々が空しいじゃないね。
なるほどねえ。
それでいかに川中島の戦いが凄かった
織田信長なんか田舎のポッと出じゃないか
それなのにナンであんなのが上洛を果たしたんだあ〜
ですね。
投票で
従来の実力伯仲ゆえに決着がつかなかった
側のエピローグを見たら
ココでやっと「パフォーマンス説」に頷いちゃいましたよ。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 12時02分30秒 ) | パスワード |
その後の信玄と謙信:
元亀3年12月22日
信玄三方ケ原の戦いで徳川家康を撃破。
その後病を得た信玄は死の床で勝頼に
「自分亡き後は謙信を頼るように」
と遺言。
「上杉謙信ハ義人也」
上杉謙信は義理に篤い男である。
こうして元亀4年 1573年 53歳にて信玄薨去。
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 12時06分08秒 ) | パスワード |
この報に接して謙信は茶碗をとり落とし涙を流して
「英雄人傑此信玄」
英雄人傑とはこの信玄のことを言うのだ
なんと惜しいことを。
謙信は天正5年9月23日 1577年?
手取川の戦いで織田信長軍を破る。
1578年謙信49歳で薨去。
[15] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月03日 12時13分11秒 ) | パスワード |
こうして書き込んで
今、思う事は、
織田信長
徳川家康
この偉大なる武将達の運の良さに比べて「我が殿は」という嘆きが聞こえて来そうです。
我が殿への敬愛を書き残したのが世に言う川中島の戦いを含む甲陽軍鑑ではなかったのか?と。
例えば「三国志」のような軍記物だったのでは?と。
それで車懸かりの陣だの鶴翼の陣だのが採用されたのでは?と。
男性好みの、男対男の生き様、そういうのが書かれたのが今に語られているのでは?と。
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