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 投稿番号:100967 投稿日:2006年11月25日 06時12分40秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
日本人の肉食:天武の禁止vs諭吉のスゝメ

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

今朝のNHK[歴史に好奇心]の「西洋料理と日本人」は面白かったです。

忘れないウチにメモを残して置きます。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時13分37秒 ) パスワード

日本の肉食文化は鹿や猪などの山に棲む動物だった。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時15分40秒 ) パスワード

飛鳥時代突然に肉食が禁じられた。


673年
天武天皇即位により
仏教思想で国を纏めていくために
「殺生禁断令」発令。

牛・馬・犬・猿・鶏の殺生を禁ず。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時20分20秒 ) パスワード

以後450年間繰り返し殺生禁断令が出された。

しかし牛乳や乳製品は一部の貴族が引き続き食べていた。

出土した奈良時代の木簡によると
「蘇(そ)」
薬として食べていた。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時21分10秒 ) パスワード

武士の出現により
牛や馬は大切な労働力として大切にされた。

これによって食用となることが無くなっていった。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時21分56秒 ) パスワード

江戸時代
庶民は魚や野菜が中心で肉を食べることはなかった。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時32分57秒 ) パスワード

1000年以上肉食から離れていた日本人が肉に接したのはペリー来航以来。

ペリーは70人の幕府の役人を肉で接待した。
この時、牛や羊の肉をパリ仕込のコックが調理した。

おそらく
ペリーは塩漬けの肉を出したのだろう。
(塩漬けか?香草漬けか?樽漬けか?そういう保存肉だったろう)


だって船で来たんですものね(笑)


おそらく
調理法は塩漬け肉を一旦茹でてジックリ焼いたのだろう。
(茹でたのは塩気や表面のぬめりをとるために)
塩漬けになっていたのだから「旨味」は今のステーキ肉よりずっとあったのだろう。
塩漬け肉は熟成しているので旨味が増しているのだそうです。へ〜

例えばフランス料理に塩漬けポークというのがあるが
塩漬けの方が旨味が引き出されるのだそうです。

ということは
当時の人の方が今の人より旨味の多いステーキを食べていたことになる。


塩漬け肉はハム化してて旨味が詰まっていて
ジックリ焼いても縮みが少なく
噛むだけで肉の旨味がパッと口の中で広がる感じなんだそうです。
最後まで脂身と旨味が絡みあっておいしいのだそうです。


ペリーの晩餐で出されたステーキの圧倒的巨大さに
「このステーキの前にひれ伏せ!」
とばかりに交渉がペリー側に有利に運んだのではないか?
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時38分37秒 ) パスワード

1654年3月31日
ペリー
日米和親条約締結に成功。


これで「水・食料・燃料の供給」を幕府に求めたが

アメリカ側の肉が欲しいという要求に幕府は拒否:
「牛は日本の人々の渡世のために役立っているので
恩を感じて日本人は牛の肉は食べない。
他の国で調達してくれ」


ペリーの後の米国総領事タウンゼント・ハリスは牛乳が欲しいと言って幕府に拒否された:

幕府:   「牛乳は食用でないので渡せない」
ハリス:  「では自分で絞るので母牛をくれ」
幕府:   「牛は運送に第一のものなので渡せない」


その後も外国人は牛肉や牛乳が手に入らず苦労した。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時47分55秒 ) パスワード

明治時代
1868年明治維新。

明治政府は西洋の列強に追いつこうと西洋化を推し進めるために
文明開化および富国強兵を欠かせないとした。(なんか日本語がおかしい・・・)
特に日本兵の体格向上に肉食は欠かせないと判断。


明治2年
築地に牛馬会社を設立

この会社の宣伝文に福沢諭吉が肉食のスゝメを書いた。

「肉食の説」
肉食を穢れたるものの如く云ひなし妄にこれを嫌ふ者多し。
畢竟人の天性を知らず。
人身の窮理を弁へざる無学文盲の空論なり」


福沢諭吉は大坂の塾に行ってた頃から肉食をしてたそうです。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 06時51分27秒 ) パスワード

明治政府は肉食を推し進めるため新聞で国民に「肉食解禁キャンペーン」を張った。


明治4年の新聞:
明治天皇が牛乳を毎日飲んでいる


明治5年の新聞:
明治天皇が肉食をした


明治5年2月18日
肉食に反対する者10名が皇居に乱入し4名射殺さる。(げ〜)
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 07時03分12秒 ) パスワード

牛鍋:明治時代の庶民が口にした肉食

明治4年
仮名垣魯文「安愚楽鍋」あぐらなべを発表。
牛鍋屋の「安愚楽鍋」に来る客を面白おかしく描いた。

「牛鍋食はねば開花不進奴」=牛鍋食べねばひらけぬヤツ=牛鍋食べなきゃ時代遅れ


明治時代の牛鍋:
材料
   ・薄切り肉
   ・長葱(5分切り)
   ・山椒(臭み消し)
   ・味噌(水で溶いたのだろう)
作り方
   ・鍋を熱する
   ・溶いた味噌を入れ
   ・葱を煮
   ・肉をさっと焼いて   ← レアであるところに注目!
   ・山椒をかける


レアが美味しいというのは日本人が最初に気がついたのだろう、ですって。
外国人は生で食べるというのには抵抗があるのに対し
日本人は刺身の習慣があるから牛肉のレアの食べ方を発見したのだろう、って。

うちの夫はいつも「ミディアム」。レアはダメ。ウエルダンもダメ。それでミディアムで妥協。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 07時05分08秒 ) パスワード

明治元年当初
客は怖い物見たさで牛鍋屋に来ていた。
つまり「イカモノ食い」。

「俺は牛の肉を食った」と強がった。

当時牛鍋は1人前500円ぐらいだった。
庶民でも食べられる値段だった。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 07時09分27秒 ) パスワード

明治21年
東京の中心部に牧場が125もあり肉や牛肉の生産をしていた。

牛乳業者の番付表に
東の大関に挙げられた築地入舟8丁目?の「耕牧舎」こうぼくしゃ
これは芥川龍之介の父が経営してたそうです。(へ〜)

芥川は牛乳で育ったそうです。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 07時10分29秒 ) パスワード

日本人の肉食は
1000年禁じられていたのに
100年で牛肉食が浸透。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 07時11分35秒 ) パスワード

次回はフランス料理が高級品として思われるようになったのは外交上フレンチを導入したから
というお話です。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 09時15分10秒 ) パスワード

<10>の
「牛鍋食はねば開花不進奴」=牛鍋食べねばひらけぬヤツ=牛鍋食べなきゃ時代遅れ

「牛鍋食はねば開化不進奴」=牛鍋食べねばひらけぬヤツ=牛鍋食べなきゃ時代遅れ
です。

変換失敗。ゴメン
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月25日 09時21分29秒 ) パスワード

だけど「殺生禁止」なんて言っておきながら「魚」はいいなんてね。

中国のように何でも食べるというのも分かり易くていいけど
4つ足はテーブルを除いて何でも食べちゃうというのもゲ〜

インドのように「土の中に出来る作物」には虫がついてて
それは自分の先祖の化身かも知れないから食べてはいけないという
ハード・コアのベジタリアンもちょっと・・・困る。

人間って勝手。
ワタシは鯨も好きだけど夫には内緒。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 02時39分07秒 ) パスワード

今日は「なぜ日本ではフランス料理が高級とされるのか?」という話題でした。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 02時49分04秒 ) パスワード

答えは
どの料理で相手をおもてなしするか?
ということからだった。


当時の明治政府は西洋の良い物を選択して吸収しようとした。
江戸幕府が結んだ不平等条約の数々を改正するには西洋に追いつくことが必要だったので
手っ取り早く西洋で最高の制度や文化を取り入れた。
このため明治4年岩倉具視以下を2年に渡って欧米に送った。


憲法はドイツから、産業はイギリスから、料理はフランスから学んだ。

当時の日本の不平等条約には
領事裁判権(外国人を日本の法では裁けなかった。日本の裁判制度は野蛮とされた)や
関税自主権もなかった。


当時ヨーロッパでは宮廷外交がなされていて
これはフランスを中心とした外交の時代だった。
対外的にフランス料理が用いられていた。
そこでフランス料理が外交に最適となった。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 02時59分27秒 ) パスワード

明治時代の天皇主催の御餐会(晩餐会)に
           明治8年5月28日のメニューを見ると
22種のフルコースで牛・羊・鳩・七面鳥などの肉をふんだんに使った豪華な献立だったことが分かる。


例えば
*ショーフロウ:雛鳥・牡蠣・オマール海老の冷菜

  味より目で見る料理だった。
  見た目の豪華さで客を驚かせた。

  ベシャメールソースに「ゼラチン」を入れて艶を出した。

  ホワイトソースの作り方:
  バターを溶かし、小麦粉を入れ1〜2分炒め、
  牛乳を少しずつなじませながら(  ← ここがポイント)
  それからゼラチンを入れてとろみを出した。


*鳩のファルシー(これは本来は中東料理じゃないの?鳩なんて。それにファルシーなんていかにも)

  鳩肉の中に豚の挽肉とトリュフをふんだんに入れて糸で縛ってしっかり焼く。
  カバーブって感じだけど「豚」というところはアラブじゃなくフランス化してるってことか。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時01分52秒 ) パスワード

この晩餐に出された料理からすると
食事については既に西洋に追い付いたというのを示すのに役立った。

こういうのが不平等条約の改正などに役立った。
確かに日本の裁判制度は野蛮だった。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時02分50秒 ) パスワード

日本は西洋の列強とまだ肩を並べるには至らなかったが料理では追い付いた。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時15分51秒 ) パスワード

次は「外交に使われたフランス料理」について。


主なる人物は19世紀初頭のフランスの外務大臣のタレーラン。
1814年ナポレオンが敗れフランスは分割の危機にあったウイーン会議で
タレーランはフランス料理とシャンパンで各国を懐柔し会議を伸ばすことに成功し
フランスは分割を免れることに成功した。

俗に言う「会議は踊る」のお食事編ですね。


タレーランのパリの屋敷は宮殿並みの豪邸で
ここでもてなしをしたりした。

ここは後世他国の公邸になり外交と政治の舞台にも使われている。

これ以来外交でフランス料理がいろいろな国で外交上のもてなし料理になった。
日本はコレを真似した。


料理も公館も外交の道具の1つ。
ここから明治16年に鹿鳴館が出来ることになった。
鹿鳴館は7年で使命を終えたがフランス料理は引き続き用いられた。


*タレーランのパリの屋敷は元外交官の苅田吉夫氏の話によれば
<階段>の素晴らしい宮殿のようなお屋敷だったそうです。
 当時はポーランドの公館だったそうです。

 洋館の特徴は<階段>だから。
 洋館には<階段部屋>というのがあって客が来ると主人はおもむろに階段に現れ
 挨拶する。
 西洋にはそういう習慣がある。我が家も「階段」で家を選びました。笑
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時20分01秒 ) パスワード

当時の日本はナマモノを食べるということで西洋先進国にはゲテモノ喰いレベルに思われていた。
今の欧米人はナマモノにそんなに抵抗はないけれど
当時は日本料理は見向きもされなかった。


近代外交はヨーロッパ中心。
その元は宮廷外交。
そして料理はフレンチ。

これを日本は取り入れた。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時25分29秒 ) パスワード

次は「現代の料理外交」について。


昔はフランス料理全盛期。

戦後はアメリカが突出して台頭。
アメリカはビジネスライクなやり方でヨーロッパのやり方や宮廷外交方式は参考にしなかった。

更に戦後いろいろな国が独立し多様化した。


外交のファッションであった
ホワイトタイ(燕尾服)やブラックタイ(タキシード)という服装も過去のものとなった。


現代ではフレンチと自国料理の2本立てのもてなしになった。
日本の場合は フレンチ OR 和食 になった。
各国もその傾向。
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時31分32秒 ) パスワード

エピソードとして

フランスのミッテランは和食ファンで
ある政治の密談に(笑)和食でおもてなしします
という話に乗ってきた。

普通なら世界には100以上も国があるのだから
ミッテランほどの人は公館になど「原則として」訪問しないが
ミッテランは「和食」ということでやってきた。

また面白いのは
別にその席で和食の話をするのではなく
「ジックリ」
政治の話をしたということ。


もしミッテランが和食が好きでなかったら
ミッテランは日本になどハナも引っ掛けなかったろう。


「もし日本料理がなかったら」というところが「新しい」世界外交の動きになっている
という意味。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月02日 03時33分43秒 ) パスワード

本日のまとめ

フランス料理は明治の日本が西洋と互していくための料理だった。


来週のお知らせ

明治の中頃には日本の上流社会に広まった。
庶民には相変わらず手の届かない高峰の花だったが庶民には「洋食」が生まれた。
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時09分39秒 ) パスワード

今日は「洋食誕生」の背景について、でした。


洋食は西洋料理より
安くて手軽で米に合う
もおで日本人の暮らしに入り込んだ。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時14分40秒 ) パスワード

なんか日本語がおかしい(笑)

洋食は
安くて手軽で米に合う
ので日本人の暮らしに入り込んだ。

です。


先週までの復習:

ペリー来航
開国
明治政府
西洋と対等になるため外交するための手段として西洋料理を取り入れた
明治8年には西洋料理の技術を習得した。
西洋料理は明治中期には上流社会の正式な席のお料理になった。

東京・横浜・神戸などの港町に西洋料理を出す店が現れた。

その後日本人のための日本人による西洋料理が広まっていった。
しかし当時の人々は料理に驚きマナーに苦労した。
[29]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時15分58秒 ) パスワード

西洋料理は値段もマナーも庶民には手の届かない存在だった。

ここで安くて手軽で米に合う「洋食」が生まれていった。

元になったのは「イギリス料理」。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時21分32秒 ) パスワード

洋食の誕生と船の関係について:


明治になって日本は海外の港に定期航路を開いた。
明治8年上海航路を開き貿易
明治23年ボンベイ航路
その後明治29年アメリカ
さらにヨーロッパやオーストラリアにも航路を開いた。
ホノルル・シアトル・アデレード・マルセイユ・ロンドンなど。


当時の乗客の大半は西洋人で船の食事は西洋料理だった。
22品目のフルコースだった。

船会社ではホテルからコックを雇ったり
自前の料理学校でコックを育てたりした。


時代が下がるにつれ日本人客も増え
客船のシェフが日本人客の口に合うよう工夫して洋食が生まれていった。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時25分24秒 ) パスワード

航海は時間が長いので飽きずに退屈しないように
<バラエティ>豊かな食事が考えられた。


日本人客が多くなるとパンでも御飯でも合う食事が考えられた。
日本人客には毎日毎日西洋料理というのは苦痛でたまにはお米が食べたかった。
やがて
見た目西洋料理、味和風、というのが考えられた。


∴洋食は米に合う西洋料理として「船」から生まれた。

そして日本人客にはお米を主体にしたメニューが考えられた。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時27分59秒 ) パスワード

日本人乗客に提供する食事を考えたシェフが船を降り
陸に上がって
独立し開店することになった。

更に日本人の口に合うよう改良し
料理を1品料理として提供し
「洋食」として日本人に受け入れられ「洋食」として人気を博し定着していった。
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時32分22秒 ) パスワード

船で生まれた洋食で1番人気は「カレーライス」だった。


明治時代のカレーは
余った肉を下茹でし、香りが出るまで炒め、煮込み独特の風味を出し
余った野菜をじっくり炒めては足して
常に常備されていた。


常備食となったカレーは今のとは異なり
「イギリス人がインドのカレーなどのスパイスを組み合わせて作ったもので」
複合的なスパイスだった。


手軽に作れ、常備され、御飯に合うカレーは大正時代最も人気の洋食だった。
[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時34分35秒 ) パスワード

もう1つのカレーは「スリランカ・カレー」で
モルディブ・フィッシュという鰹に似た魚を使った魚風味のカレーで
これは船の上だけのカレーで日本では広まらなかった。


魚のカレーより肉のカレーの方がおいしいってことでしょうね。笑
私も鮪カレーよりビーフカレーの方がいいな。
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時36分37秒 ) パスワード

家庭に広がる洋食:


復習
西洋料理から洋食が生まれ
これは家庭でも作られるようになり
和洋折衷精神で
家庭で作る西洋料理へと定着していった。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時39分48秒 ) パスワード

明治20年料理学校で洋食を教えた

女学校でも教えるようになった。

上流家庭でも作るようになった。

明治後期料理の本が出版された。
洋食を作る道具も一般に紹介された。

明治36年村井弦斎の「食道楽」がベストセラーになった。



それまで1人ずつのお膳からテーブルを囲んでみなで一緒に食べるようになった。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時42分33秒 ) パスワード

大正12年9月1日の関東大震災で飛躍的に洋食が広まるようになった。
地震の被害を受けた東京や横浜で建物や暮らしの西洋化が進んだ。


昭和になって更に西洋化が進んだ。
日本全国に洋食店が増えた。
阪急百貨店でレストランがお目見えし洋食が人気を博した。



こうして日本の食事として定着していった。
[38]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月09日 03時45分33秒 ) パスワード

まとめ


文明開化
西洋と対抗するために西洋料理を採用(肉食文化が日本へ)
洋食へ


西洋料理を自分達のものになるまで消化し
新しい食べ方を工夫し
日本の食文化を豊かにした。
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