[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月16日 10時00分15秒 ) | パスワード |
御先祖さまの謎解きが出来ると良いですね。
その御相伴に預かれて、楽しみにしております。
[2] | 林原英祐さんからのコメント(2006年11月16日 16時19分01秒 ) | パスワード |
1)そもそも?北条義時という御方は???
初めから、皆に求められて存在した「北条の柱」的な方とはどうしても思えません。(北条時政と言う人は良し悪しは別にして、現場肌の叩き上げ的な人で、、、そのような人は何時の世にも存在感のあるものです。)
しかし、北条義時は物理的にも、時政の嫡男ではありませんでしたし、立派な『宗時』という兄がいました。
「宗時」は1180年の石橋山の頼朝旗挙げの合戦で名誉の戦死をしています。義時はこの兄(宗時)の存在感に一生コンプレックスを抱いて生きたと私は思っています。
さて、「義時」が政治の表舞台に登場する「くだり、、」に紹介されている話は、、、
1182年(寿永元年)、政子が頼家出産でバタバタしている最中に、いつもの頼朝の「愛人騒動(亀の前)」があり、政子の怒り(いつもの)の間に挟まれた舅の「時政」は、怒って、伊豆に帰ってしまった。
まさに、その時が「北条義時」の政治社会への登場であったと言われています。
「北条義時」は「頼朝」と姉「政子」の夫婦間の調停が「特技」の「官房長官」だと私は思っています。
頼朝の絶大の信頼関係を確立したとされています。
何時の世にも、この役は必要なのでしょうか?
しかし、一度でも「社会」に揉まれた生活を経験さてた方は、このような役割(それも進んで、、、)を買われた人を沢山みてこられていると思いますが、共通した性格を持っておられます。
@ 何かコンプレックスに支配されているのですが、認めて貰いたい欲求が人一倍強い性格である。
A 同じこと(男女のお世話)を何度もする。(柳に下のドジョウ)
B 陰湿な性格で、根に持つ!が口は堅い!
C 自分は「殿」の一番大切な秘密事項を「お助け」しているのだから、一番信頼された存在だと過信する。(相手は、たかが「下の世話」程度、、)
D 末路は共通して、、哀れ、、自分(男女間)の家庭崩壊、又、良い死に方はできない。(古人曰く!)
E 他にも、いろいろありますが、(後略)
この話のはじめに「義時」の役割を明確に定義しましたのは、小生の話は所詮状況証拠の羅列によるもの以外には「たいした話」では無いと言うことであります。
本日の「謎解きコード」は義時は「頼朝の複数の調停」に関わっている!!
と言うことであります。
参考までに、、歴史的に有名なこの種の官房長官は後に出る、江戸時代徳川綱吉の官房長官『柳沢吉保』を想像して頂ければわかり易いと思います。
それでは、、、
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月17日 01時54分27秒 ) | パスワード |
林原さま
ふふふ
人物解剖に、もう、面白くってお腹をよじって笑ってしまいました。
今放送されている「功名が辻」でしたら石田三成ですね。
まさに当て嵌まりますね。
ではでは、以後の書き込みを楽しみにしております。
阿波の局と比企家の関係および林原さまとの関係が楽しみになってきましたよ。
人間の闇の部分、内面がこれでもか!これでもか!と書き込まれるのにワクワクします。笑
[4] | 林原英祐さんからのコメント(2006年11月23日 15時31分04秒 ) | パスワード |
しばらくのご無沙汰です。
すっかり秋らしい季節になりました。
もみじの紅葉が最高です。
続きを書きます。
2)この義時への疑問はどこから来たか?
建久3年(1192年)は鎌倉時代(幕府)を象徴する年として、あらゆる人々(学生)が暗記しています。厳密には、7月12日の頼朝に対する「征夷大将軍」の宣下があったことを指します。 、
それより1か月先、8月9日に「頼朝の次男千幡(実朝)」が生まれた時から始まります。 ことの起源を辿れば、その4か月前(実際は10か月間なのですが…)の4月2日に、政子懐妊し、この日着帯が行われた旨の記事が「吾妻鏡」に残されています。
そのような、状況背景の中で、今回の私の「拘りの物語」がはじまるのです。
『建久3年(1192)9月25日、北条義時、幕府に仕えていた女官:姫前(比企朝宗の娘)と結婚した。』と書かれてあります。
その記事には「尾ひれ」があって…拘りがひどすぎると言う意味
*有力御家人比企朝宗(比企尼系)の娘で「容顔はなはだ美麗」な、
*将軍「頼朝」お気に入りの「権威無双の女房」で、、…ここまでは良いとして、
*義時はこの女を見初め、何度の恋文を送ったが全く無視され続けていた。
*頼朝の本音は多分、妻の政子の許可と口添えで…と言いたいのでしょが、、
*頼朝は義時から、『決して、離別しない!』旨の起請文(祈請文とも)を取って、
*頼朝が『姫前』に言い含めて義時にめとらせた。というストーリーであります。
*又、幕府の女官(頼朝の側近)に恋文などを送ると斬首される例さえあった。と
わたしは以前にも書きましたが、このエピソード(頼朝の美談)を全く信じていません。
わたしの『イヤらしい想像』で翻訳しますと、、、
頼朝の女癖の悪さは定評があります…勿論、鎌倉時代は皆さんが描かれる江戸時代の「大奥」のような仕組はまだ出来上がっていませんから、男(頼朝)論理で『源氏の種』の保存は複雑なテーマでありました。(最近の男系男子相続は大変なのです)
あまり頼朝の品格を云々するのはテーマではありません。
しかし、ここでは『北条政子』の『嫉妬心の強さ』が極度のヒステリー症状を引き起こした再三の事件が知られていますから、『吾妻鏡』の表現がここまで「念入り」に出来上がっているのです。後の豊臣秀吉や徳川家康が聞いたら笑うと思います。
話を戻して、「イヤらしい翻訳」ですが、
*頼朝の浮気(本人は本気)は、ご落胤説の真偽は別にしまして、『政子』の懐妊年表が主軸を占めていると私は考えています。(それぐらい、頼朝は政子の大騒ぎにヘキヘキして…)
*「政子の4大出産」(10か月間の政子懐妊期間が頼朝浮気期間)
お相手は全て「官女」 養 親 『ご落胤』?
@『大姫』(1177)…官女「丹後内侍(比企尼の嫡女)」惟宗広信(島津忠久)
A『頼家』(1182)…「亀の前」騒動…北条時政が怒って伊豆に帰ってしまった
(裏)時政が怒ったのは…官女「阿波局(北条時政の娘)」?北条義時(北条泰時)
B『乙姫』(1185)…官女「大進局(伊達時長の娘)」 大江景国(貞暁法印)
C『実朝』(1192)…官女「姫の前(比企朝宗の娘)」 北条義時(北条朝時)
推理の結論じみたことを先に述べましたが、、これはあくまで『今回のダビンチコード』でありまして、ここから「鎌倉時代:頼朝…時政…政子…義時…時房…北条時代」を解明してみたいのです。
その前に、『頼朝と北条義時の美談』を翻訳しますと、、
「大姫」の懐妊時点での「丹後内侍(島津忠久…住吉神社の島津雨話)」から4度目の集大成のような「良く出来た」脚本です。頼朝も義時もこの種の「策謀」にはズバ抜けた才能を持っていました。
800年間「大和民族」を騙したのですから、、、
*『頼朝(主語)』は官女:姫の前に、いつもの理由(政子懐妊)で手を付けていました。
*「姫の前」懐妊判明は政子着帯(4月)と義時結婚(9月)の間のことでしょう。
*それから、ずっと「頼朝」の考えは練りに練られた形で仕上がっていきました。
*時政には『亀の前事件』の時に苦い気持ちを味合わされている。相談に乗って貰えなかった。ので「義時」を主役に考えていた。(亀の前以降、女性問題は全て義時に相談)
*『古女頂き(尊いお方のお手付き…懐妊後も)』を画策した。そして義時に説得した。
*「生まれて来る子供…朝時」のことを含め、頼朝…姫の前…義時の間で『覚書』がどうしても必要であると「頼朝」は注意深い人間ですから拘った。
*普通(一般的)の話として、部下(臣下)の婚姻に書類(契約書)がどうしても必要とは考えられない。
この『起請文(祈請文)』は北条義時の『姫の前(古女頂き)』母子の将来についての約束(覚書)だったのです。
北条朝時を名越(北条本家)に位置付けたのです。
頼朝が死去してから、筋書きはどんどん変わっていくのですが、
少なくともこの段階では、後の述べますが、1982年の北条時政(一般に亀の前事件)騒動…実際は北条泰時(源氏と北条の結晶)の万全の旗本体制の確立が中心的な課題(頼朝の、、)、そしてそれを担う『北条義時』(鎌倉の参謀)が中心にあったのです。
北条家の中で、兄『泰時』に弟『朝時』は絶対に頭を上げない!これが密約だったのです!勿論、その後の『政村』等は問題外の話です。
それでは、続きは又、、、
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年11月24日 02時14分15秒 ) | パスワード |
なるほど
頼朝が出てきましたか。
笑
>『頼朝』は官女:姫の前に、いつもの理由(政子懐妊)で手を付けていました。
奥さんが妊娠中に浮気する男性は結構いるようですね、現代でも。
>幕府の女官(頼朝の側近)に恋文などを送ると斬首される例さえあった。と
古代でも公に仕える女性にちょっかい出すと大罪だったそうですものね。
面白くなってきました。
笑
[6] | 林原英祐さんからのコメント(2007年02月09日 23時44分31秒 ) | パスワード |
少し、間があきましたから、、、
前回の「頼朝」の政子懐妊期間に浮気癖(4回全て、、)説を平易な口語調で解説しますと、、、
● 頼朝は政子が長女「大姫」を懐妊した頃に、手近にいる比企尼の娘「丹後内侍」に手をつけ、島津忠久(薩摩島津家の祖)を産ませています。その時は,惟宗広信(京都)に 丹後内侍を預けています。(関西で出産したことで、雨の日に住吉神社の石の上での出産挿話が薩摩藩に残っている)
● 政子が長男「頼家」を懐妊したときは、もっとも手近な毎日生活をともにしている、政子の妹(阿波局ー北条保子)に手を付け、後の三代執権となる北条泰時を最も信任厚い北条義時に預けています。
同時期に起こった「亀の前騒動」は北条時政が頼朝と対座して、伊豆に帰ってしまったなど、作られた話のように思えてならない。(わざわざ吾妻鏡に記事としてのせているなど少し怪しいと思う)
● 政子が次女「乙姫」を懐妊したときにも、手近な官女「大進局」に手を付け、貞暁法印を懐妊させ、大江景国に預けている。(この貞暁は後に、政子が頼朝の血を求めて頭を下げに行った話しがある)
● 最後の「実朝」を懐妊したときは、やはり官女「姫の前(比企朝宗の娘)」に手を付け、後の北条朝時がお腹にいる状態で北条義時に起請文付きで、預けている。(これもわざわざ義時との純愛物語を800年後の今日まで残している)
再度、この4つの「浮気落胤説」を整理したのは、北条泰時が「頼朝」の実子であることを頭の隅に置いてほしいからです。
まさか、北条政子の双子のように仲の良かった妹「保子(阿波局)」が頼朝の妾であった等は誰も信じない話でありますが、
しかし書物には「泰時」の母は「阿波局」と明確に明記されています。
解説に北条時政の子供に「阿波局」と言う娘がいましたが、別人であろう。と書いてあります。
「義時」の妹とは言わずに「時政」の子供に、、、とあるのは、義時と阿波局が夫婦(兄妹)でこの両親の間に「泰時」が生まれたと言う話は成り立たないことを意識しての話のように思えます。
結果的に北条時政はこのことが原因で、頼朝が許せない!と怒って伊豆に帰ってしまう事件が吾妻鏡にのせられている。
私は頼朝が政子の妹に手をつけて、「泰時」を身籠ってから義時を呼んで説得した話であると決め付けています。
そのヒントは、昭和53年のNHKの大河ドラマ「草燃ゆる」の中で、「お姉さん!お姉さん!」と岩下志麻(北条政子)を追いかけ続ける真野響子(北条保子)の好演が頭に残っていたからです。
あの冷たい岩下志麻から解放された瞬間に「頼朝」が走る「相手」は血の通った可愛い真野響子(北条保子)だと思ったからです。
男女の関係はそんな単純なものです。(特に鎌倉時代は今よりももっと開放的であったと聞きます)
さて、本題に移ります。
3)北条泰時の秘密
鎌倉時代の歴史は『吾妻鏡』が残されたことで「年月日」記述が鮮明になり、驚くほど細かい歴史が勉強できます。
『吾妻鏡』が北条家歴史書の傾向が強く、一方で評判が良くない部分があるのは事実ですが、後世の我々にとって、歴史を身近なものにしてもらえた点は率直に喜びたいと思います。
さて、その『吾妻鏡』の中に、北条泰時は『512か条』の記事が登場するとどこかで目にしたことがあります。
三代執権の地位にあった「北条泰時」が北条の歴史書「吾妻鏡」にそれぐらいは登場するのは当然であって何等不自然ではありません。
ところが、その『泰時』が何月何日に生まれ、、、どのような状態でこの世を去ったかが、記述漏れになっています。
そんなことは余りにも不自然ではありませんか?
私が、ことさら『泰時』と言う人に強い興味と拘りをもったのはこの点が引っ掛かったからでございます。
特に出生に問題があり、 気を遣った痕跡が感じられます。意識的に抹消しなければならない理由があるのではと推理してしまいます。(母、阿波局。の表現は簡単過ぎます!)
『泰時』が初めて、「吾妻鏡」に顔を出すのは確か建久3年(1192)5月11歳の時で、御家人「多賀重行」が散歩中の泰時に下馬の礼をとらず、頼朝から所領を没収されたという記事でああります。 (この時も泰時が多賀重行の非礼を庇ったとされています!)
史実によれば、泰時は寿永2年(1183)の生まれで、祖父「時政」は46歳、父「義時」21歳のこと、7月に平家が安徳天皇を奉じて都落ちし木曽義仲が入京した慌ただしい年の出来事であります。
(参考までに頼朝が37歳の……)
建久5年(1194)2月、泰時は「金剛」の童名で元服し、頼朝の『頼』の字を与えられ『頼時(北条頼時)』として華々しいデビューを飾るのである。が、、、
この鎌倉殿(頼朝)から頂戴した名誉ある『頼時』の名が何時から消えた(改名)かが定かでないのも少し不自然であります。
『泰時』を伝える「話」はたくさん残っているのですが、、、
*1201年9月(19歳)の将軍「頼家」が政務を忘れ蹴鞠に熱中するのを「諫め」将軍の怒りにふれ、伊豆江間に謹慎した記事がある。(その時も、伊豆の農民達に愛されたと評判まで添えられている。)
*1211年9月(29歳)で修理亮に任官し31歳で「実朝」の学問所番の筆頭に選ばれている。(学問及び和歌に秀でていた!…)
*武将としては、建保元年(1213…31歳)の『和田義盛の乱』と承久元年(1219…36歳)の『承久の乱』の武勇が残されている。
しかし、私がここでどうしても述べなければならない「泰時」の「拘りのエピソード」は3つあります。
まず@は「朝時」に関わるエピソードで、1231年9月(泰時…49歳)に名越亭(朝時の館)に賊が侵入した時、幕府の評定を中断して駆け付けた話、、、朝時は以後「泰時」に足を向けなかったと言われています。(この話は誇張話に思えてならない!)
『和田義盛の乱』であの歴史上有名な三男『朝比奈義秀(猛将)』と一騎打ちをして人々の称賛を獲た実弟「朝時」の武勇が目立ち過ぎて、「泰時」を引き立てるための誇張話だと考えます。
そして、その頃から密かに「朝時」排斥が進められています。
その後の「朝時(名越)」と「泰時(武州)」との格付けは、一言で言えば……『姫の前との起請文』と『北条頼時』(烏帽子親)の重さであります。
「源頼朝」との位置取りにかかった戦いであったと思います。
私の嫌らしい『ご落胤』推理によれば、「泰時」の母である『阿波局』(北条保子)と、、、
「朝時」の母である『姫の前』(比企朝宗の娘)との戦いでありまして、『北条』と『比企』の対角線上にあり、究極的には『実朝』派の「泰時」と『頼家』派の「朝時」の対立軸でありました。
ここで、奇妙な襷がけの関係に気付きませんか、、、
『実朝』は北条朝時と同い年で『頼家』は北条泰時と同い年です。
本来なら、頼家の泰時、実朝の朝時がお側衆の常識であったにもかかわらず、、、
生まれが「腹違い兄弟」であることへの拘りがこのような襷がけ(対角線)を生み出したとしたら、
本人とは別の取り巻き達の企てであったと考えられます。
A番目に、六波羅で、『義時』が急死したとの報告を受けた泰時の挙動について、、、
急遽、六波羅から鎌倉へ『時房(相州)』と『泰時(武州)』は取って返すのですが、その帰路について、泰時は鎌倉の近くまで着てから、すぐには鎌倉に入らずに、後から京都を出発した時房の到着を待って鎌倉に入っています。
この不自然さがいまだに謎とされています。
『時房』に『政子』との間で「泰時」の3代執権を事前協議をさせています。
この時の歴史的に重要な調整役に相州時房(あの五郎)が当たるのですが、、、北条五郎時房(相州)は幼少の頃は『金吾将軍(頼家)』の側近で「比企一族」に一番近い北条側の人でありました。
ところが頼家亡き後はいっぺんして『義時』の側近として、『実朝』派に乗り換えをしています。『八方美人』の「北条時房」が目に浮かんできます。
私の嫌らしい想像では、『北条政子』に対する「五郎」の説得(殺し文句)は「泰時」が実は「北条保子(政子の妹)」の実子であり、
「義時」が「頼朝」から『北条家の得宗』を泰時(頼時)に継がせる約束(起請文があったかは?)になっている。との話をしたのだと考えられます。
北条一族の最長老である「北条時房」の大博打が成功した裏には、既に鎌倉殿(頼朝)も無く、頼りにしていた兄義時にも先立たれ、すっかり弱気になっていた「政子」の心理を見事に捕らえた「五郎」の根回しでありました。
政子も頼朝生前は「浮気虫の嫉妬」に狂い続けましたが、頼朝死後は哀れな程、源氏の血(頼朝の種)を追い求めて鎌倉殿を捜し続けています。
政子も世間の風評とは少し違った「自信の無い」「淋しがりや」の女性であったと思える節がありました。
彼女が最後まで源氏の血に拘りを持ち続けたことが同じ北条一族の人達にも理解出来なかったとされています。
B番目には、北条泰時の『母(阿波局)?』
『長男(時氏)…28歳没』
『次男(時実)…16歳殺害』
『孫(経時)…23歳没』
等、周辺に立ち込める『暗雲』の環境が気になります。
この辺りは何冊もの『小説の材料』に事欠かない複雑な内容で、一言では割り切れない内容でありますが、、
私なりの一言コメントで言いますと、、
その後「北条政子」がこの世を去った時の表現として、、
その瞬間に『泰時が鎌倉の統率力を失った!』との一文がありますが、全てを表している表現だと考えます。
余談になりますが、私の『泰時』評は、どこかの「党首」で長州の良血を祖父に持ち、父も良血故に首相のチャンスを失い、父の過ちは二度と繰り返さないとの誓いで首相の座に昇り付くなり、初めての仕事が「郵政民営化の反対分子(離党)」の『復党騒動』で賑わせている。
この人とダブって仕方がありません。
「泰時も人を庇う話や、復党バナシの多い人です!」
「あんまり実力や統率力の無い人であったのではと…」考えてしまいます。
「五郎時房」や「北条重時」や「北条政村」や「大江広元」に『手の汚れる仕事』をさせて、
自分は「人を庇う!}タイプの人だったのだと思います。
そのような遺伝子が、私が『頼朝落胤…北条泰時(北条保子…政子の妹)』に拘る理由なのです。 二代目の方とか、御曹司とか、は『徳』を重視して庇う方が多いと…昔からお決まりですから、
「泰時」(影の鎌倉殿)がいなければ、『北条朝時(光時)…名越』による「親王(朝廷)将軍」と北条執権政治で治まっていたような気がします。
政子が拘る頼朝の血と北条一族を優先することが「泰時」を通じて具体化したことで、「鎌倉」に呪いの歴史が準備されたのです。
全てが、五郎時房)と「極楽寺北条重時」と「北条政村」など参謀によって画策されたストーリーだったのです。
ああそうそう、もう一人の「大物」を忘れていました。
『三浦義村』、この人も「五郎」に負けない策士です。
この人も伊賀事件のあと「泰時」と「時房」に庇われて許されています!
歴史は繰り返される!といいますから?
現代の『泰時』さんもくれぐれもお大事にしてくださいね。
以上のような、とりとめの無い状況証拠の羅列により、私は、『北条泰時(武州)』の存在が歴史の大きな鍵になっていると考えるわけです。
ついでに述べますと、『伊賀氏』の事件は「北条義時」も本心で「伊賀局」に北条政村の執権に賛成していたと想像しています。
実質的な「北条義時」の唯一の正室(愛妻)は『伊賀局』だったのではと考えています。
泰時の母(阿波局」は義時、政子の実の妹であり、おおよそ妻と呼ぶ人ではありません。
『姫の前』は「頼朝」からの『古女頂き』で「押しかけ女房」です。
自分の意思で初めて妻帯したのは、伊賀局が最初であったと思っています。
だから『北条政村』への思いは「伊賀局」と同様一途なものがあったと考えます。
又当時の習慣として、党首(義時)が死亡した時、未亡人{妹(いもと読む)}は絶大の権限で財産、後継者に発言力があったとされる歴史学者も沢山いらっしゃるからです。
伊賀局は当時の習慣からはもっとも正当な立場にあったわけで、「反乱分子」のように扱われるのは理不尽な取り扱いです。
涙の「聖子」ちゃんに聞いてみてください!「泰時」さん
復党ですよ!政村執権しかありませんから、、、、
続きは又書きます。
少し疲れてきました。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月10日 01時20分25秒 ) | パスワード |
引っ張って来ました:あやしいですね(笑)
5月9日 [北條九代記]
前の武州所労に依って出家す。法名観阿房上聖と号す。信濃法印道禅御戒師たり。
5月11日 [北條九代記]
朝時出家。
5月13日 甲午 晴 [平戸記]
鶏鳴の間下人来たり告げて云く、下辺物騒、武士騒動すと。子細を尋ね問うの処、関
東前の武州泰時、去る月二十七日より所労有り。減に依って今月五日沐浴す。而るに
六日より増気し出家の暇を申す。将軍これを許さると。この子細去る夜子の刻ばかり
飛脚到来す。その後騒動す。この暁飛脚重ねて到来す。暇を申すと雖も病い頗る減を
得ると。然れども相模の守重時馳せ下るべしと。仍って出立の上下物騒すてえり。
(略)陣頭に於いて堀川大納言に相逢う(只今退出)。関東の事を語る。大略聞く如
きなり。但し重時下向の事抑留せらるると。(略)今夕重時遂に関東に下向しをはん
ぬと。禁裏の仰せに拘わらずか。時盛猶下向すべきの由風聞す。不審の事なり。京中
守護の者有るべからざるか如何。
5月14日 乙未 日夜降雨 [平戸記]
伝聞、両国司夜前子の刻出京す。遂に以て下向しをはんぬ。
[百錬抄]
天王寺別当辞し申せらると。園城寺欝陶の事、関東甘心せず。仍って暫く寺務を寺家
に付けらると。
5月16日 丁酉 晴 [平戸記]
伝聞、両国司下向の途中に於いて使者また到来す。去る九日泰時朝臣遂に出家すと。
その後無為すと。然れども更に猶下向しをはんぬと。彼の使者上洛し、夜前一條殿に
参り、子細を申すの由風聞すと雖も、僻事と。
5月17日 戊戌 [平戸記]
殿下に参る。四條大納言・吉田中納言・大蔵卿・新宰相等参会す。彼是云く、泰時朝
臣出家の時、彼の従類五十人ばかり同じく出家す。翌十日夜に入り遠江の守朝時(泰
時朝臣舎弟)また出家すと。兄弟日来疎遠と雖も、而るに忽ちこの事有り。子細尤も
不審、世以て驚く。旁々これ等の子細、将軍より未だ申されずと。ただ飛脚途中に行
き逢い、彼の使い入京しその説有り。如何。
5月18日 己亥 朝間甚雨 [平戸記]
伝聞、泰時朝臣入道の間の事、将軍より未だ一條殿に申されずと。仍って事々不審と。
5月20日 辛丑 微雨 [平戸記]
殿下より召し有り。然に雑熱所労の事に依って、今日ばかりは相誡むべきの由、申せ
しめをはんぬ。而るに去る夜夜半物騒の事有りと。これ関東合戦の企て有り。事すで
に発覚するの由、その聞こえ有り。これに依って禁裏の辺物騒の由、その告げ有り。
仍って殿下に馳参す。後聞、この事指せる正説無しと。尤も不審の事なり。
5月22日 癸卯 朝より降雨 [平戸記]
関東の事正説未だ聞かず。
5月26日 丁未 終日降雨 [平戸記]
関東の事等今に正説無し如何。縁に触れ飛脚有りと雖も、将軍より未だ左右を申され
ずと。彼の泰時入道の安否また聞かず。尤も不審の事なり。今夕将軍の御使一條殿に
参る。彼の所労の事一切申さるるの旨無しと。後聞、前の兵庫の頭定員私状を進して
云く、彼の所労猶不快の由と。また将軍御所守護の者康綱有りと。各々甲冑を帯びる
の由、彼の使者人に語ると。この儀御用心の至りか。不審々々。
5月27日 戊申 朝間甚雨 [平戸記]
殿下に参る。東使参ると雖も、件の安否一切これを申されず。ただ他事を申さると。
頗る不審の事かの由、仰せらるる所なり。
5月28日 己酉 [平戸記]
大蔵卿入来閑談時を移す。語る次いでに、今朝或る人に謁す。その説に云く、入道殿
より遣わさるる所の御使、伊勢前司行範途中より使いを進して云く、関東下知を加え、
皆関々を守護するの間通り得ず。三ヶ日問答すと雖も、猶達し得ず。これをして如何。
仰せに随うべしと。この事太だ不審なり。また将軍御所守護の事実説と。
5月30日 辛亥 [平戸記]
東使者夕一條殿に参ると。泰時法師また赤痢を煩う。依って医師(基成朝臣息氏成と)
を望み申せしむと。然れども最密事、彼の所労と云うは本病なり。仍って医師を望み
申すと雖も、人実否を存ずべきに非ず。実は将軍病を煩わしめ給うと。外聞を憚りそ
の由を申されずと。ただ実事本病に於いて泰時法師の所望の由を称すか。密談太だ怖
畏有るべきの躰なり。この事内裏守護人實量密々案内を申せしむと。
6月4日 乙卯 朝間甚雨 [平戸記]
将軍の御使去る夜一條殿に参着す。東辺無為の由談る所なり(後聞、この説作り事と)。
6月15日 [北條九代記]
入道前の武蔵の守正四位下平朝臣泰時卒す(六十)。新善光寺の智導上人知識として
念仏を勧め奉る。
6月19日 庚午 [百錬抄]
深更に及び、関東の飛脚上洛す。泰時朝臣去る十五日事切りをはんぬと。遺跡に於い
ては、嫡孫左近大夫将監経時相違無しと。天下三十日穢なり。
6月20日 辛未 晴 [平戸記]
丑の刻ばかり、雑色男走り来たり告げて云く、今夜子の刻ばかり、東脚(下條兵衛の
尉を号す)六波羅に到着すと。前の武州泰時入道去る十五日夜すでに命を殞とすと。
彼の辺騒動すてえり。その後旁々相尋ね、事すでに一定と。夜曙の後殿下に馳参す。
即ち出御、仰せられて云く、去る十日殊に減気食事を勧む。十一日よりまた更発し、
十二日また発る。十五日未の刻より増気し、前後不覚、温気火の如く、人以てその傍
らに寄せ付けず。亥の刻辛苦悩乱、その侭絶えをはんぬると。定員この由を申すと。
将軍御札南都に進しをはんぬるの由、行範この夜半ばかり参り申す所なり。顕徳院の
御霊顕現し、説うべからざる事等有りと。恐るべきの由仰せらる。
6月26日 丁丑 晴 [平戸記]
今日、殿下御物語に云く、顕徳院謚号改めらるべし。後鳥羽を号し奉るべしと。この
事前の内府申し行うか。この事を案ずるに、我が朝例無きか。漢朝に至りては、一両
度相存ずるの由、大府卿これを申す。また御改名の儀太だその心を得ず。何故と。冥
慮に叶わざればまた如何。
6月27日 戊寅 晴 [平戸記]
炎旱旬を渉る。御祈りの為水天供七檀を行わるべきの由、沙汰有りと。神泉先ず掃除
と。
6月28日 己卯 晴 [平戸記]
関東の辺の事、すでに風聞の説多し。尤も不審々々。
7月4日 [北條九代記]
将軍の若君誕生す。御母は御台所、中納言家行卿女。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月10日 01時37分14秒 ) | パスワード |
う〜む・・・
すっごぉ〜い
永井路子の、姉(政子)が妹の見た夢を買ったというお話。
だから元々妹にしたら「頼朝さまは私のもの」という意識があったかも。
頼朝は京から来たイケメンですから。
>政子が次女「乙姫」を懐妊したときにも、手近な官女「大進局」に手を付け、貞暁法印を懐妊させ、
>大江景国に預けている。
>この貞暁は後に、政子が頼朝の血を求めて頭を下げに行った話しがある
そうなんですか。これは知らなかったです。
>『泰時』が何月何日に生まれ、、、どのような状態でこの世を去ったかが、記述漏れになっています。
>そんなことは余りにも不自然ではありませんか?
泰時は寿永2年生まれ(1183年)ということになっていますね。
死亡については仁治3年1242年4月下旬に病気になって入道して翌々月6月15日に60歳で死んだ。
このあたりが泰時の死因でしょうか?
↓
夜曙の後殿下に馳参す。
即ち出御、仰せられて云く、去る十日殊に減気食事を勧む。十一日よりまた更発し、
十二日また発る。十五日未の刻より増気し、前後不覚、温気火の如く、人以てその傍
らに寄せ付けず。亥の刻辛苦悩乱、その侭絶えをはんぬると。
6月28日 己卯 晴 [平戸記]
関東の辺の事、すでに風聞の説多し。尤も不審々々。
続き、よろしくです。笑
[12] | 林原英祐さんからのコメント(2007年02月11日 16時38分23秒 ) | パスワード |
コメントありがとうございます。
服部先生がいつも読んで下さるので嬉しいです。
少しずつ、変になっていきますが、末永くよろしくお願いします。
又、続きを書きますから、、、
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月12日 02時17分49秒 ) | パスワード |
>少しずつ、変になっていきますが
いえいえ
仕方無いのですよ。
だって鎌倉側はワザと書かないでいる部分があるんですから。
敢えてどうでも良いことは長々と書いて大切な真実は明かさない。
そこを後世の人が少ない事実の断片を集めて明かそうとするのですから四苦八苦ですよ。
やっぱり「勘」なんだと思いますよ「アレ?」と思った瞬間が大切だと思います。
脳を使うというのは非常に良いので苦しんでください。笑
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