[3] | たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月07日 05時58分23秒 ) | パスワード |
Hikoさんへ
「日本の苗字七千傑」さんによりますと、
中原貞清ー頼成ー頼季ー平康頼 と続します。宜しいですか?
[4] | きむらさんからのコメント(2009年05月16日 04時48分26秒 ) | パスワード |
文治二年(1186年)閏七月二十二日(東鏡)源頼朝は平康頼を阿波国麻植保保司に任命する。康頼は徳島県麻植郡(現吉野川市)鴨島町森藤の春日免に保司庁を建て、六坊寺、鼓楼、鬼界山補陀らく寺、慈眼山玉林寺などを建てたが、後に長宗我部の兵火で消失し、玉林寺だけは再建された。康頼は七十五歳の高齢で没し、森藤に葬られ、京の双林寺に分骨された。二代目の清基は保司職を継承したが、承久の変に上皇方に加わったとして、保司を解任されたのを不服として、無実を鎌倉に訴えたが、小笠原長経の提出した証拠の中に、清基から佐々木経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判は敗れた。佐々木の六百の兵は殆ど帰らず。手紙なども敵兵に渡ったのかもしれない。三代目の俊職は浪人となり、京にでたが、承久の変の敗者には仕える主人も現れず、賊徒の輩と徒党を組み、伊具四郎を毒矢で射殺し、捕らえられた。首謀者の諏訪刑部左衛門は斬首となり、俊職と牧左衛門は祖父康頼が流された鬼界が島に流されて消息を絶った。俊職が流罪の身となると、おじの康利は一族をまとめて森藤を引き払い、昔、父の康頼が越前国足羽郡で六百貫の荘園を支配していた頃の、縁者を頼って彼の地へ移って行った。越前へおもむいた康利は、出家して探嶺院に入り、正嘉二年(1258年)四月九日に、七十五歳で死亡した。康利の子の康綱も出家して後を継ぎ、探嶺院を浄土真宗心光山常照寺と改め、権大僧都となり、同寺の開祖となった。暦応二年(1339年)正月十二日、九十歳の高齢で没している。しかし康綱の年齢を逆算すると、建長元年頃のうまれとなるので、父の康利は六十六歳に達しているため、康綱は子ではなく孫であろう。康綱には子がなく、本願寺の覚如上人の子を養子にして同寺を継がせた。
康頼が京から森藤の地に下向した時に、三人の家人を伴ったが、うち二人は平を名乗り一人は鶴田を名乗ったが、後に、平の一人は木村(木邑)の祖先、木村大明神となり、平の一人は田村(田室)の祖先、田村大明神となり、鶴田氏は康頼神社を建て主君を神として祀り代々祭司を務めた。
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