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 投稿番号:100937 投稿日:2006年08月01日 11時13分11秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
塚原卜伝の跡を訪ねて

コメントの種類 :史蹟  パスワード

友人が鹿嶋に行きました。
そのお話です。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月01日 11時15分53秒 ) パスワード

塚原卜伝の跡を訪ねて来ましたが普通の観光地と変わらなかった。


鹿島社は建物が小さいんです。そう・・・鶴ヶ岡八幡宮、寒川神社のほうが大きい。
でも、もともと神社ってそういうものかも。鎌倉のお寺も、本堂がちっぽけで驚く。

たぶん、昔の宗教施設って「広大な敷地」が「本領」だったんじゃないかな?  
鹿島社周辺も今では住宅地ですが、元は神社の領地だったでしょう。
大きい建物は 不要だったかも知れませんし。

鹿島は面白い地域で、鹿島社の神官たちが武士だったんです。
だいたいそれら が親戚同士なの。
鎌倉の御家人にも名を連ねています。
全国的に発展した家は少なく、
戦国末まで群小武士が割拠していて、
塚原卜伝の家は、そうした鹿島神官の家老 ぐらいの家なんです。

新撰組の芹沢鴨の実家も神職だそうなので、
塚原卜伝の血縁とまでは行かずとも、
往時の知り合いぐらいの家だったかも知れない。

平安以来の旧族がよく残ってた土地なんですよ。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 00時23分44秒 ) パスワード

続き


鹿島の武士はよく解らないんですよ。
全国的に発展したわけではなく、大大名の家来ぐらいの武士としてはある程度全国に散らばっているようですが(詐称も多い と思う)、戦国に至るまで鹿島地方に割拠してて、あまり大きな勢力にならなかった。


他の関東各地域と比べて、独立性が強い地域だったのかも知れませんね。
『曽我物語の真実』(だったかな? 吉川弘文館の本)には、頼朝時代にかな り弾圧されたのでは・・・? と書かれていましたが、推測の域を出ません。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 00時25分40秒 ) パスワード

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鎌倉御家人の中核は武蔵・相模の武士で、彼らが全国的に最も繁栄しました。

伊豆〜上野、は中小武士が多く(この点は鹿島も同じですが)、下野/常陸北部の大 豪族地域と区別されます。

神奈川〜埼玉の地図を見ると、まるで武家苗字の一覧表のようです。

で、関東西部の特徴は、上杉や後北条などの有力武家が地元の弱小武士の「上に載っかる」ような形で支配を確立していたことです。

後北条氏や上杉氏を、他の大名と同列に論じるのは無意味だと思います。
あれは「関東西部という特殊な地域に成立した、独特の権力」というのが私の見解。
関東 の特殊性あっての権力だったと。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 00時27分14秒 ) パスワード

続き


関東は近畿に似て、旧国を何分かするような大勢力が殆ど無かった。
だから三浦半島程度しか領有していなかった三浦氏でも、相模では最有力武士だった。

つまり、一国に武士が数十もあるような状況で、
その中から「一頭抜きん出た」有力国人が出なかった。
埼玉あたりは特にそうですね。


こうなった理由は、
近畿と同じで、生産力の高い富裕地域だったからこそ、さして広大な支配圏を形成せずとも権力が成立し得たのだと思います。

逆に、異様なほど広大な支配領域を確立した南部氏は、土地の低生産性を象徴してるんじゃないかな?
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 02時07分30秒 ) パスワード

続き


関東に実際来てみると分かりますが、
そうねぇ、尾張のような大平野、それと 海産物の豊富な海があるでしょ? で、昔から人が多い。
そういう土地だと、大領国 を形成しないでも、相互に経済関係を結んでいれば、十分権力を維持できる。
戦国に 至るまで、群小豪族割拠だった背景にはそれがある。


鹿島は、たぶん地理的「孤立」が大きいけど、わりと他の地域に侵犯されることが少なく、平安以来の割拠状態が維持できたのだと思います。

関東でも、他はわりと周辺との戦争・侵略があったのよ。
西のほうが特にそうね。
京都と変わらないぐらい戦争ばっかの歴史があった。
武士の改廃も激しかったんです。
東日本の「中原」ですよね。
こういう地域特性は、歴史を把握する上で重要と思います。


たぶんねー、そういう戦争多々って歴史があったからこそ、住民もケンカっ早 くなったのよ。
新撰組の天然理心流だって、半農半武士の剣術だったわけでしょ? 
半農半武士っても、貧しいわけじゃなく、火急に備えて「徳川おかかえ」の武力集団とされたわけで。
土地柄をよく反映しての事と思います。

ま、鹿島がわりと裕福な地方ってのもあるのでは? 
あっちは雪が降らないそうです。
海産物も多いし。
行って実見すると、「なるほど、ここは裕福だわ」と思える。
貧困地域って雰囲気は無い。

なぜ彼の地が剣術の聖地となったかは十分解明されていません。
でも、きっと土地柄を反映してるのでしょうね。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 04時48分05秒 ) パスワード

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昔の剣術って、実用もさることながら、「芸」って側面が強いんですよね。
だから、いい家や神社が継承してたことが非常に多い。

塚原卜伝の高弟に、伊勢の名門 公家大名・北畠具教(だっけ?)がいるのも、偶然ではない。足利将軍も卜伝の免許 皆伝を受けてますしね。

北畠氏は公家の名門であると同時に、足利一門に引けを取らない武芸の持ち主でもあった。
北畠氏は織田信長の最晩年に、やっと亡ぼされていますしね。
信長の二 三男も同氏の養子になってましたしね。

第一、剣術が必ずしも実戦的でなかったことは、当の剣豪自身が主張している (笑)。
戦国以前の剣術指南は必ず兵法ほかの学問も伝授している。
インテリ層なんですよね。

宮本武蔵が絵画・将棋に通じていたことは有名です。


歴史上の人物を考察するには、複合的・多角的な視点が不可欠ですね。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 11時36分59秒 ) パスワード

続き


昔の剣豪が、同時に学者で、最高の文化人だったことは再認識しておくと好い でしょうね。
要するに、武士は万能の人でなくては「不可」なのよね。
政治ができて、学識あって、和歌か漢詩ができ、武芸もできて・・・ではないと。
いろいろ出来ないと、 支配階級たり得ないもの。

個人的に思うことですが、剣豪は文化人になりやすかったのではないかな? 
剣豪って、ある程度の人になりますと、かなり広範囲を渡り歩くことになるでしょ?  
昔の人は本当に移動範囲が狭く、なかなか自由には出歩けなかった。

武士は基本的にお殿様の意のままだから、一番自由がないんだよね。
そんな中、遠国に行って勉強するって、よほどの秀才か剣豪ぐらいでしょ? 
そうすると、当然、武骨一辺倒の人よりは頭も良くて、剣の腕も立つ人が選ばれるでしょう。
そういう背景もあったんじゃないかな?

実際に、いろいろな文化に触れる機会が多いと、かなり違うでしょう。
関東七 流、京都八流、と俗伝されるように、剣術が一番さかんだったのは京都と関東ですからね。


宮本武蔵のいう「武士は人に優れていなければならない」とは、そういうこと だと思います。
何でもよく勉強して、万能の人になりなさい、という意味ではないかと。
数ある「芸」のうち、剣術はあくまで「その一つ」なんでしょうね。
何でもやる人たちだから(笑)。
武士=刀、ではないですよ、絶対に。
[8]総督さんからのコメント(2006年08月02日 23時05分57秒 ) パスワード

恐れ入ります、勉強になります。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月03日 00時52分30秒 ) パスワード

でしょう?
まだ22か23ぐらいの若い人なんですけど
発想が広くて柔らかくて感心させられます。

1つ1つ出掛けてチェックしに行く所もたいしたもんですし。
他との比較もしますしね。


若い人に刺激を受けたことを書き込んで
他の方にも刺激になっていましたら役に立ったなと満足に思います。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月03日 12時04分36秒 ) パスワード

続き



最近剣豪について面白い指摘を聞きました。

「日本で剣豪の地位が高かったのは、日本では剣豪が文化人と目されていたからではないか?」

いいとこ突いてるなぁ、と思いましたね。


日本の場合、武士がどうのこうの、と言うより、「文化」として認識されていた気がします。
剣術、槍術、弓術、鉄砲、学術・・・と、武士は時代に応じて何でもやらされましたからね。

全部「芸」なんでしょうね。で、芸を重んじる考えが大変に強かった、と。

各武術の総合体系が「兵法」なわけでしょ?一つだけではダメなんだよね。ゆえに博識が尊重される。


日本の武術家と比較すると面白いのは、やっぱり中国の武術家だと思います。
カンフーは「師匠と弟子」の世界なんですよね。
弟子が師匠の家に住み込みで、疑似家族を形成する。まさに職人と同じなんですよね。
師は面倒見のいい人格者で、弟 子は師に忠節を尽くす・・・という図式。

江戸時代(戦国以前は全く謎なので)の剣術家って、みんなそんな感じでしょ? 
師匠宅に弟子が押し掛けて、「一家」が文字どおりの「疑似家族」を成している。
弟子は序列に応じて「兄と弟」。
師は、中国では「師父」、日本では「先生」「お師匠様」と呼ばれる。

これ、 弟子以外もそう呼ぶ。
師=尊敬される存在、なわけ。
これは「芸」を重んじる風土ゆえではないか? 
と思いますね。
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