[1] | 球磨川大好きさんからのコメント(2006年06月30日 00時18分45秒 ) | パスワード |
私の田舎では、平家の落人の里といわれる熊本県五木村が、近いのですが、この地域には、炭焼きに適した木材が多いために、他の地域からも炭焼きのために多くの人たちが、移住してきたのだと聞いたことがあります。だいぶ前に炭を生活の中で使わなくなったために、産業としては成り立たなくなったようです。
私の夫の先祖も平家の落人ですが、四国の山奥で800年間、炭焼きをしていたそうです。こちらの先祖は、紀州からの移住ですから、和歌山で炭焼きをやっていたことが、そのまま四国に落ちて行っても続いたということでしょうか。
[2] | heikeさんからのコメント(2006年07月11日 21時37分07秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
昔は炭焼きが産業でそのために移住してきた人もあるということですね。
あと紀州から炭焼きをしていたという平家の人は平家であったむかしから炭焼きをしてしていたということでしょうか。
平家の人はみな炭焼きができたんでしょうか。
それとも平家以外の人も昔は炭焼きができたんでしょうか?
[3] | 家来さんからのコメント(2007年01月21日 23時05分58秒 ) | パスワード |
私の故郷は紀州の山奥の隠れ里です。南北朝の頃山の向こうの落ち武者1世の村から家来4人で開拓に来たそうで、以前40軒あった頃、家紋は4種類でした。子供の頃冬の農閑期は炭焼きを手伝いました。秋の取入から春の田植えの時期まで他に仕事がないのです。紀州では炭の材料といえばどんぐりやクヌギなどの落葉樹が適していたみたいで、標高の高い山奥ほど炭焼きに向いていた訳ですね。山に暮らす農民にとっての数少ない現金収入の道だった訳です。平家だから炭焼きをしたのではなく住環境がそうさせたのです。奈良の十津川村などは年貢要らずの御赦免地のせいか、冬場は大勢の炭焼きが流れ込んだそうです。明治維新の功労で59箇村全村の長男が士族に列せられてます。ずれてしまってすみません。今思うと落ち武者部落は炭焼きにはもってこいの環境ですね。私など小学校の頃から学校から帰ると炭釜に暖まりに行きましたね。で、帰りは炭俵1表背負子で背負って帰るのです。よい思い出ばかりが思い出されますが、落ち武者1世の村は高齢化が進み今や風前の灯です。
[4] | 家来さんからのコメント(2007年01月21日 23時24分50秒 ) | パスワード |
そんな村でしたが村の旧家数軒は只の農民ではなく、秀吉軍に攻められてからも性懲りも無く刀を捨てず、徳川方の根来衆として数々の戦に出かけ、維新までは月2日、3時間掛けてお城へ通ったそうです。紀州って3時間も歩けば隠れ里に行けますものね。 またまたずれてしまってごめんなさい。
[5] | 家来さんからのコメント(2007年01月23日 12時34分32秒 ) | パスワード |
曽祖父が維新の頃介錯を仰せつかり、晩年までその話を辛そうに語ったそうですから、下級武士だったのでしょうね。
戦国時代には周辺の村の本家筋は根来党として、隠然たる総帥(平氏)の下、数々の戦に出かけ、近畿のみならず中国地方とも繋がっていた事が後に毛利家へ仕官していることからうかがえます。維盛卿が紀州の山中に潜居していた頃既に家来の情報活動により四国の落ち武者の存在を把握していますので、当然移住などの行き来も有り得たわけですね。分家は農民になっても本家や戦好きの者は侍の気概を持ち続けたのでしょうか。それでも付き2日だけの出仕なので冬場は炭焼きなどもしたかも知れませんね。
[6] | heikeさんからのコメント(2007年02月14日 20時52分45秒 ) | パスワード |
わたしの祖先、石川県の近隣では平家落人部落と言われていたそうですがあまり詳しい人がいなくてわからないのです。炭焼き釜のあともあったとか、えらい人もいたとか、浄土真宗を信仰して織田信長から逃げてきたとか…よくわからなくて。
でも祖父母を見ていると寡黙にこつこつと悠久の時を生きているような風貌が、同じように血を混ぜずに過ごしてきた天皇家の人などと似ている気がします。
[7] | heikeさんからのコメント(2007年07月22日 21時54分43秒 ) | パスワード |
蘇我氏が炭焼きと関係あるみたいです…よくわかりません。
近隣地域とは話し方も違っていたようです。
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