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 投稿番号:100920 投稿日:2006年06月12日 07時00分20秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
「徳川さん宅の常識」(訂正)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

昨年11月に薨去なさった旧尾張藩主だった徳川義宣氏の著書
「徳川さんの常識」

読まれた方はどんな「常識」だったか書き込んでくださいませんか?

[1]アカコッコさんからのコメント(2006年06月12日 19時01分28秒 ) パスワード

 正確には「徳川さん宅(ち)の常識」という題名です。宣伝文句から。
 
 徳川義宣氏は尾張徳川家第21代当主(堀田家から20代義知氏の養子に)が、平成の世の常識に語り遺したもの。漢字用語の乱れにカンシャクを起こし、名門ゆえの一般常識との食い違いに右往左往…。現代のお殿様の辛口ユーモアに、抱腹絶倒、目からウロコの一冊。

 堀田の殿様は昔から・・・が多いみたい(笑)


 鷹司信熙様、徳川圀禎様、徳川祥子様(尾張藩分家徳川義恕の娘)からの父への書簡が有りますが殿様、お姫様とはいえ別段変わった内容ではなく一般常識範囲内の挨拶文です。鷹司信熙様のものは達筆な毛筆書ですのでちょっと内容が掴めないのですが。

 今日ではサッカーがあるので、引越しでドコかにしまい忘れており探すにも落ち着かないの、日本が勝てば明日にも書き込みます。

[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月12日 20時45分55秒 ) パスワード

アカコッコさん
早速ありがとうございました。

では明日ゆっくりお願い致します。
ぺこり

題名は訂正します。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月12日 20時46分55秒 ) パスワード

もうお1人からこんなですよと知らせて頂きました:


「徳川さんの常識」という本ですね。
正式には、「徳川さん宅(ち)の常識」という題名です。

いえ、中身は知りません。
話題にはなって、しっかり宣伝しているのは知っていましたが。

『尾張徳川家第21代当主の徳川義宣氏が、平成の世の常識に語り遺したもの。
漢字用語の乱れに癇癪を起こし、名門ゆえの一般常識との食い違いに右往左往…。
現代のお殿様の辛口ユーモアに、抱腹絶倒、目からウロコの・・・』

以上が、この本への解説で徳川 義宣氏の辛口エッセイと記してありました。
以下の目次で、大よその中身が分かるんじゃないですか?

目次
1.評定・入水・分別・着服
2.鮭五尺
3.家業
4.トクガハ・イヘヤス・ヨシノブ考
5.祖父母・父母を瞥見
6.祖父徳川義親と徳川美術館
7.前会長徳川義知を偲んで
8.化物屋敷とテーダ松
9.新発見!!東福門院入内図屏風
10.沖縄は日本の故郷
11.天皇・皇后両陛下をお迎へして
12.“わかる”と“感じる”
13.抹茶茶碗に似てますね
14.一つの茶碗
15.松永耳庵翁
16.オリンピック
17.野球・相撲・ラグビー・サッカー
18.勿体哲学
[4]アカコッコさんからのコメント(2006年06月13日 14時53分38秒 ) パスワード

徳川義宣氏とは下総堀田家正恒氏の六男(正祥)として誕生、尾張徳川義知氏の娘三千子さんと婚姻し21代当主となる。

1.評定・入水・分別・着服

勤務評定(キンムヒョーティ)、小田原評定(オダワラヒョージョウ)があるが、
 ヒョージョウ以外に読み方があるとは考えつかなかった。

入水:学校の水泳予定表に○○入水予定です。とある親御さんは縁起でもない。入水(ジュスイ)とは楽しい水遊びを意味する言葉となるらしい。

分別:このごろゴミの分け方に書かれているが、(ブンベツ)本来は分別(フンベツ)で現代はフンベツは無用になったのか。

着服: 「CT検査の当日は、着服しやすい服装で来院してください」。着服は一字づつ文字道理解せば「服を着る」で辞書を牽くとなるほどいくつかの語義の一番最後に「着物を着ること。着衣」とある、どの辞書だって、一番真っ先に「他人のものを誤魔化して密かに自分のものにすること。窃盗」と云った語義が載せられているとはずと思う。

 そうですねこの頃当たり前みたいに使っている言葉が本来の意味と違ったことに使われている。考えさせられる文章でした。(A5のサイズで10頁に亘って詳しく書かれておりますが、端折ってまとめました。)
[5]太郎さんからのコメント(2006年06月13日 16時36分40秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 16時37分47秒
[6]太郎さんからのコメント(2006年06月13日 16時38分30秒 ) パスワード

面白そうな本ですね。
そういえば、徳川家康公は「嫁の選び方」について、面白いことを仰せだったような気が・・・
「嫁はいい家からもらうな」(公家とかからもらうな)みたいなことを。
どこで読んだのだったかなあ。
そういったことも、「徳川さんちの常識」として受け継がれているのでしょうか。

[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月13日 20時53分20秒 ) パスワード

アカコッコさん

ありがとうございました。
お時間が許しましたら、引き続きお願いいたします。
面白いですね。

目からウロコですね。



太郎さん

家康は最初の奥さんが今川の親戚で
「家」の良い妻のわがままとかプライドに苦労したんでしょうね。
それで「嫁は庭から貰え」と。身分の低い家という意味です。

それに百姓出の方が健康ですからね。
そういう健康な女性に子を産ませるべきというのがあったんじゃないかしら?
[8]太郎さんからのコメント(2006年06月13日 21時48分48秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月14日 05時44分46秒
[9]太郎さんからのコメント(2006年06月14日 05時47分41秒 ) パスワード

深く考えさせられる言葉ですね☆
[10]アカコッコさんからのコメント(2006年06月15日 07時09分01秒 ) パスワード

太郎さん、お久しぶりです。次世代を担う若者に日本の将来が掛かっておりますから。色んな面(嫁さんも含めて)で考えて貰いたいですね。

2.鮭五尺

  尾張徳川家には古文書が数多く所蔵されておりますが、その中に鮭五尺・鮭十尺とか書かれて送り状とか挨拶文がある。1尺は約30cmとすると約1メートル50センチに十尺だと3メートル近くなる。
江戸時代にはすごく大きな鮭がいたものか。それとも『白髪三千丈』の大袈裟な表現方法かと思うが、こんな大きな鮭じゃ美味しそうにも思えず、修辞法としても拙劣な極みだろう。
「尺はこの場合長さの単位ではない。辞典などを牽くと「隻」の借字で魚などを数える時の用い語」である。
他の例を見ると秀吉から、他の書状には「鰹十連」や「鮒一折」、「鯛十枚」などがあるが。
鯛は平べったいから「枚」と数えるじゃないだろうか。もっとも、平べったいからと云って平目や鰈(かれい)が「枚」と数えるとは聞いたことも見たこともない。

 美術史などを勉強に来ているアメリカの女性で、日本語はペラペラどころか、かなも漢字も、変体かなや崩し字まで読んでしまう人との会話。
「おスシ大好きですが、魚は一匹とか一尾などと数えますね。牛や馬は一匹とか1頭、鳥は一羽ですが、兎も一羽、箪笥や長持は一棹、掛物は一幅、巻物は一巻、屏風は一隻でペアだと一双、数詞は難しくまだ苦手なんです」

私的感想:
 外国人で此れだけ日本語を喋れれば現代の若者より日本語を理解していると思えますが。

 この文章を読んでまた考えさせられ、また勉強になり私の常識も高まれば良いなと思いつつ次項に。

  なお[1]の徳川圀禎様は常陸水戸徳川家、圀順氏の次男で、弟二人は常陸宍戸松平家、常陸守山松平家。どこの徳川さんかと気になっていたものですから。




[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月15日 08時40分45秒 ) パスワード

アカコッコさん
ありがとうございます。


>鮭五尺・鮭十尺

なるほど・・・
「匹」
なら意味が通りますね。


>常陸宍戸松平家、常陸守山松平家

土地鑑も無いのでお初でした。
[12]アカコッコさんからのコメント(2006年06月16日 07時55分22秒 ) パスワード

家業

幼な友達の一人、Aが家業を継いでこの秋そのお披露目をすることになった。

同級生の半数三十人ぐらいは『古い家柄』古いと云ったって大名なんか毛利・南部・真田と云った戦国大名に、松平・増山や私の生家の堀田など江戸大名だから、たかだか五百年から三百年、代数にしたって、十数代ぐらい、もっとも島津・相楽などは鎌倉時代まで遡れるから、かれこれ八百年、代数も三十数代か。

お公家さんの方は九條を初め、廣橋・東久世・八条・櫛笥(くしげ)などみんな藤原氏で、遡れば飛鳥時代の大織冠鎌足公ってことになって、千三百年ぐらい。

そのほか千家(せんげ)と云う出雲大社の社家の子孫も二人いて、これは大国主命(
おおくにぬしのみこと)が先祖だそうだから、遡れば神代の昔。日本列島つまり大八洲(おほやしま)には天皇家より早く住みついていた。
 
家業の方は大名も公家も明治維新で百二十年前に廃業しているから、今さら継ぎようがない,
 
Aの家はちょっと特別の家業?に属している。家業は神話時代から起算すると二千六百五十年。Aはその第百二十五代目に当たる。
 

 
 サラリーマンの同級生は、みんな定年で楽隠居とはいかないまでも、第二の人生に入っていると云うのに。

 感想:みんな色々な歴史を持つ家柄の同級生で、歴史を教える先生は大変だったろうと、つくづく思います。

 このような社会があったとは聞いていましたが、A氏の事をこのように語れるのは徳川さんだからかな?。

 このタイトルの本で関心(興味を引かれた)があった部分でした。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月16日 09時00分23秒 ) パスワード

ありがとうございます。ぺこり


A氏とは今上陛下ですね。


>そのほか千家(せんげ)と云う出雲大社の社家の子孫も二人いて、
>これは大国主命(おおくにぬしのみこと)が先祖だそうだから、遡れば神代の昔。
>日本列島つまり大八洲(おほやしま)には天皇家より早く住みついていた。

千家達彦(みちひこ)さんだったかしら?
現在御存命でしたら80代半ばでしょうから
この方の弟さんかお従弟さんになるのかしら?

天皇家より古いんですねえ。


天皇家より古いもう1家は姫路の明珍さんかなと思います。
ここの御宅も神代の時代からだそうで
御主人は上品な優しそうな方であらっしゃいました。
家系図のコピーだったか活字になったのを拝見して(へえ〜)でした。
20年ぐらい前の話なので、縄文時代からの家があるとは聞いてたけど、日本にはそういう家がけっこう存続してるんでしょうね。
尾張の国の名の元になった尾張さんとこも父の話では20年あたり前には存続してましたし。


>私の生家の堀田など江戸大名だから、たかだか五百年から三百年、代数にしたって、十数代ぐらい

堀田家って南朝方ですから、(多分同一の御家)、500年よりもっと古いと思うけど
立派なお家の方はさすがに謙遜でいらっしゃるんですね。
>「堀田など江戸大名だから」
こういう控え目にお話になるんですから・・・・


ということは橋本明さんとも御学友ということなのかしら?20年ほど前御近所だったのです。
スイスからいらっしゃってた頃です。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月16日 09時09分36秒 ) パスワード

>このタイトルの本で関心(興味を引かれた)があった部分でした。


アカコッコさんの御宅とも古い古い御関係だったんですねえ。(しみじみ)


御葬儀は護国寺桂昌殿だったそうですよ。
(わたくしなんかは  えぇ〜っ! と驚きですが当然だったということなんでしょうね)
御長男は義崇氏だそうです。
[15]アカコッコさんからのコメント(2006年06月17日 07時43分43秒 ) パスワード


>御長男は義崇氏だそうです。

 『あとがき』にはその徳川義崇氏が執筆されており、「徳川さん宅(ち)の常識」の刊行決定の知らせは病床の父の元に届けられたそうです。
 執筆を自ら希望し、刊行決定の知らせに随分喜ばれたそうです。



祖父母・父母を瞥見

 尾張徳川19代義親、もと越前福井藩主松平慶永(春嶽)の五男。履歴書でも数冊、事跡に至っては単行本ぐらいの量がある。

 昭和六年の三月事件の黒幕となったり、終戦後直ちに世界恒久平和研究所を組織、日本社会党を発足したり、名古屋市長選挙に出馬して落選したり、床屋さんの団体に乞われて「トラがり」の殿様として名誉会長になったり、日本奇術協会の会長になり手品をやったり、聾唖者・精神薄弱者・肢体不自由者の教育と福祉に五十年も尽くしたり、右翼なのか左翼なんだか、無節操なんだか、いい気なもんなのか、学者なんだか俗ブツなんだか、レッテルの貼り様がない。

 越前松平家から尾張徳川家に養子の入った祖父は、佐倉堀田家から養子に入った私に『養子教育』してくれた様です。
「僕の代はいいとしても、息子の代にはどうなるかわからない。ましてまだ生まれていない孫なんて、どんな「出来損ない」が出てくるかわからない。

 そんな気持ちがあったから
 息子でも孫でも勝手に売ることが出来ない様に、公益法人を興してみんな寄附してしまへ。そうすりゃもう私有財産じゃなくなるから僕も貧乏になるけど、家の名誉と歴史は残るからね。

 でも寄附しただけじゃダメ、その保存がしっかりできなければダメだし、しまっておくだけでもダメ世の中の役に役立てなければダメ。
中略 美術館は東京に建てた方が研究所と併設できるし、見にくる人も多いだろうし、建てる側から見りゃ万事好都合だったんだが、やはり尾張徳川家は尾張・名古屋、そして家臣団初めその他の人たちがあればこその家だったし、まとその道具だったわけだから、やはり祖父の地の人々に還元すべきだと考えて名古屋に建てることにしたんだよ」。

 「ところが、他の大名華族の連中からは、『君があんなことするものだから、うちの国許(くにもと)の連中から公開しろとか、売ったのはけしからんとか云われて大迷惑してるんだ』と大分恨まれてね」祖父は苦笑していました。

 感想:私みたいな3ナイ(金ない・名誉ナイ・教養ナイ)の俗人には無い苦労がイッパイあり、そんな悩みなら味わってみたいもんです。

[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月17日 14時23分16秒 ) パスワード

アカコッコさん
ありがとうございます。


>昭和六年の三月事件の黒幕となったり

はあ〜

2・26事件の先駆けの事件ですか。
この2・26事件の時は某宮さまが黒幕なんて言われてますね。
この宮さまはかつがれただけなのか、首謀者なのか、真相は闇の中ですけど。
そう言えばライブドア事件の時の贋メールのように、2・26事件の時も変な手紙が存在したとか。


>やはり尾張徳川家は尾張・名古屋、そして家臣団初めその他の人たちがあればこその家だったし

戦後華族制度が無くなった時
宮家は宮内庁から派遣された役人が取り仕切っていたので、
この役人達はお払い箱になったから宮家の皆さんは忽ちにして大変だったそうです。

でも大名系は地元の家臣達がちゃんと面倒を見てくれたから大いに助かったそうです。
(前田家の美意子さんの弟さん=御当主=のお話。  確か弟さんと思います)


お名前は忘れましたが
なんとかの宮さまは身分を剥奪された後、
就職なさって自転車に乗って通勤なさってました。


>「ところが、他の大名華族の連中からは、『君があんなことするものだから、うちの国許(くにもと)
>の連中から公開しろとか、売ったのはけしからんとか云われて大迷惑してるんだ』と大分恨まれてね

この部分非常に納得しました。笑


凄い時代があって、現代に至る御苦労があるのですねえ。

確か皇室でも昭和天皇が崩御なさって
国に寄付という形で財産整理をなさっていらっしゃいますものねえ。


そうそう犬山の成瀬さんとこも今は市に任せていらっしゃるようですよ。
息子さんが=若殿の正祐さまが=管理の窓口になって。
個人ではとても管理できませんものね。


ルーマニアのドラキュラ伯爵のお城も子孫に返還されたものの
戦後接収されてから50数年の維持管理費だけで50億円・・・と聞いたのかしら?


難しい問題ですよね。
国宝だ重文だということで相続税は免除されても維持管理など出来ませんから。
[18]アカコッコさんからのコメント(2006年06月18日 22時01分29秒 ) パスワード

徳川宗春公について「大河ドラマ吉宗」では、宗春は紀州家出身の将軍吉宗への対抗意識が、尾張家の家督を承ける前から強く、法令による締め付けに反抗したり、破天荒ぶりが面白可笑しく描かれていましたが。
 
宗春の施政や暮らしぶり、その基となった宗春の思想はなかなか興味深く、決して吉宗の政冶に対する単なる反抗や、反対のための反対ではなく、宗春には宗春の学問や信念に基いた思想があったのである。

身贔屓半分、宗春が隠居させられなければ名君として首尾全うできたとは、やっぱり考え難い。

むしろ施政僅か十年足らず、その施政の破綻が庶民の生活圧迫となる前に隠居させられてしまったことは、宗春にとっても幸ひだったのかも知れない。

ともかく名古屋では放蕩三昧のバカ殿様と云った見方は殆どされていない。
名古屋を江戸と上方の間に在って東からも西からも一目置かれる都市として、経済的文化的に発展する基を築いたのは宗春だと目されていて、なかなか評判がよく人気が高い。
 
もうスグにサッカーが始まるので!!・・・ 祈る勝利・にっぽん。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月19日 02時04分48秒 ) パスワード

>ともかく名古屋では放蕩三昧のバカ殿様と云った見方は殆どされていない。

これはそうですね。
悪口を聞いたことはないです。


綱吉のバブル経済がバーストして
吉宗の時代にはとっくに日本経済=「米」=経済は破綻してました

日本中が締め付けをやってるのに名古屋は解放政策だった
それで役者が名古屋にわんさかやってきた
吉宗には宗春が憎かったでしょうね。


過去を振り返れば
荘園制度が行き詰まって新しい経済観念の重商主義の清盛が出た
ところが
江戸幕府は経済の行き詰まりを奢侈禁止で乗り切ろう、そういう考えが根強いですね。
吉宗後も江戸時代って何度も締め付けが行われましたね。


尾張の宗春はサービス業に力を入れた
でも失敗に終わった。


どっちにしろ日本経済は終わってたんですから
何をしてもうまくいかなかった。
今も同じで。


ま、その後100数十年、江戸幕府がもったというのも、また不思議ですね。
鎖国やってたからでしょうね。


外国船がやって来て開国しなくちゃならなくなって
そして徳川政権は倒れるべくして倒れた。


尾張の徳川宗春という君主は平均的日本人とは違った人物だった。
吉宗は非常に日本的な将軍だった。ま、日本人には吉宗の方が名君でしょうね。


バブルがバーストして。。。なのに名古屋は独自路線を歩む。。。
歴史は繰り返しますね。


日本が引き分けで、まあまあ、良かったですね。
[20]アカコッコさんからのコメント(2006年06月20日 07時19分46秒 ) パスワード

うん〜残念、引き分けでしたね、あとは頑張るしかない。

祖母:米子YONEKO

 尾張徳川十八代義禮の長女として東京で生まれた。おさない時は義理の祖母にあたる慶勝夫人(丹羽氏出自、貞徳院)に育てられた。明治四十二年義親と結婚、同四十四年に長男五郎太(義知)の出生に始まり次郎太(夭折)、絹子(大炊御門経輝氏夫人)、春子(西郷吉之助氏に嫁して離婚)、義龍(大給家養子)、百合子(佐竹義栄氏夫人)と三男三女を儲けた。


深窓育ちのお姫様(ひいさま)なんだから、どんなキレイな言葉で慎ましやかで、なんて思ったら、これとんでもない。小気味いいほどの伝法ぶりである。下町のべらんめでもない、オツに澄ました山の手言葉とはほど遠い。学校は御茶ノ水だそうで、そのせいか、『学習院の方々とお話していると、お口がきれいで、わたしなんざあ、くたびれっちまふ』と云っていた。

今後は絶対に世に現はれるはずのない「なんとか文化財」に指定しておきたい様なバアさんだった。


 感想:深窓育ちのお姫様が3男3女を儲けるなんて、たいそう尾張徳川家の存続に思い入れが強かったなと思いますね。現代の若い女性(奥様)の鑑にしたいですね?。


私事ながらこのスレが立ち上がってから我が家にも変化(重大イベント)がありました。

 長男夫婦に6月14日に第1子で男子誕生。これもご先祖さまのお陰かと感謝感謝の毎日 これで、男系のDNAが繋がる(笑)。
親でもないのに毎日、病院に通っており、顔を見るたびに安心、微笑みがでます。

 
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月20日 07時52分04秒 ) パスワード

>長男夫婦に6月14日に第1子で男子誕生。

おめでとうございます。
あとで占いやっておきます。笑


アカコッコさん宅の何代目になるんでしょうね。
アッチで○○○代目
コッチで△△△代目
向こうでXX代目
そのまた向こうで**代目

でかした!お嫁さん!これで御先祖さまからのDNAが後世に伝えられる!
ですね。


古い古い御家は続けられるというだけで希少価値ですものね。


>慶勝夫人(丹羽氏出自、貞徳院)

丹羽さまなんて名古屋のホント地元の尾張出身者ですね。
ついつい源平時代・南北朝時代を考えてしまいます。


>五郎太

これは尾張徳川家の御嫡男の伝統的なお名前ですね。
久し振りに思い出しました。


>春子(西郷吉之助氏に嫁して離婚)

有名人と結婚なさってたんですねえ。


>義龍(大給家養子)

大給松平家ですか。
思わぬ御家に養子に行ってらっしゃったですねえ。


>百合子(佐竹義栄氏夫人)

ロスにいた時に御近所に佐竹のお姫様がいらっしゃいましたよ。80代ですけど。
アメリカでもすごい資産家です。
尾張家から佐竹にいらっしゃってたとは知らなかったので、残念っ!

旧華族の方はよその御宅の悪口は絶対に言わない言えないとおっしゃるけど
本当にみなさん、み〜んな、御親戚なんですねえ。


>親でもないのに毎日、病院に通っており、顔を見るたびに安心、微笑みがでます。

孫って自分の子供より可愛いって聞きますよ。
本当に飽きませんよね。

[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月20日 07時58分38秒 ) パスワード

西郷吉之助氏って西郷さんのお孫さんで侯爵で貴族院議員で
戦後も政治家ですからアカコッコさんは御存知でいらっしゃいますよね。
この人のお嫁さんが尾張徳川家からだったとは考えたこともなかったです。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月20日 08時18分09秒 ) パスワード

アカコッコさん

3通送ろうとしたところ戻ってきてしまいました。笑

ここにちょっと書いて置きますね。


外見は背の高いスラッとした上品な青年におなりのようですよ。
またとても良い星をお持ちです。
性格も良く生活に困らない一生を送るようです。


ただ・・・
もてるから・・・
恋愛で結婚が早いかもですね。
大学卒業と同時に結婚しちゃいそう・・・・
[24]太郎さんからのコメント(2006年06月20日 12時04分13秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月20日 19時33分38秒
[25]田中愛造さんからのコメント(2006年06月20日 15時53分18秒 ) パスワード

アカコッコ様
 御目出度う御座います(^^)。我が家は一人娘が外に出て外孫です(><);跡継ぎ無く残念!孫娘もくれないと冷たい返事、時代ですね。

暇潰しのギャンブラー様
 島津32代目当主修久氏の夫人は、西郷伊津子さまですね。
島津斎彬=忠義ー忠重ー忠秀−修久
西郷隆盛ー午次郎ー隆一ー伊津子
[26]太郎さんからのコメント(2006年06月20日 19時35分24秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月21日 22時40分44秒
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月20日 23時14分31秒 ) パスワード

>島津32代目当主修久氏の夫人は、西郷伊津子さまですね。

田中愛造さま

時代が変わりましたね。
島津家久光公系と西郷家子孫が結婚するなんて
わたくしには考えられませんでした。


鹿児島もねじれ現象が起きていますから
こういうことがあるんでしょうね。

ロスで親しかった久光系の姫君が
西郷さんの奥様がうちに見えたことがあって(た?←彼女の母上のお話かも)
あの有名な西郷さんの奥様という感じじゃなくてどーたらとおっしゃってました。

ま、西郷さんは地元の英雄ですから、それに日本国民にも英雄ですから
最近は可能なんでしょうけど、
やっぱり信じられないです。


そうそう「種子島家」の某氏のことも彼女から聞きました。
種子島家から島津系のどこやらへ養子に入った方は御養母さまに遠慮して
玄関に入るにも「お母さまからどうぞ」「いえ、あなたさまが御当主さまですからお先にどうぞ」
と玄関先で延々どちらが先に中に入るか譲り合うとおっしゃってました。


種子島家御出身の女性はロスで学者をなさっていましたけど
この女性とはわたくし達は交際が無かったです。


上記の佐竹の姫君のお屋敷は覗きたい人が多くて
「お手伝いに来てくださる方がたくさんいらっしゃるのはありがたいけど・・・」
     (お掃除したお水を流しに捨てるのがイヤ)
なんておっしゃってました。

それで島津久光系の姫君が「トイレに流してくれれば良いのにねえ」と。


日本にいた頃はおつきの人が何人もいて、
そういうシモジモの行動の現場を目にしなくても良かったのでしょう。


そうそう最近日本の友人が「おつきの人」の数のことを知らせてきたのですが
誰それさんとこは外出の時に5人ついて来たけれど
○○さんとこは3人だった
なんて言ってました。


20数年ぐらい前に元朝鮮王妃の方子さまでしたっけ?
ロスで何度もお見かけしましたが
やはり5人ぐらいおつきの人が取り囲んでいました。(ちゃんと数えなかったのが残念)
その集団は光り輝いてましたよ。

この朝鮮王朝最後の王妃さまは戦後暫く東京の上記の島津久光系姫君の御実家になる家に厄介になってたそうです。
[29]田中愛造さんからのコメント(2006年06月21日 02時32分46秒 ) パスワード

 まだ居られます。西郷隆盛の長男菊次郎(二代目京都市長)の四男隆泰さんは、日置島津家の登志子姫と結婚して居ります。世が世であれば殿様と家来筋だが、今の時代ではねじれが正統か?公爵家と侯爵家の違いと考えるのが正当なのか、隆泰さんの子隆文さんは鹿児島では偉い人だが、修久氏と同席し歓談している。親戚とは云え主家の当主である、修久氏は本当の偉い人なのだろう。
 西郷従道の娘桜子(岩倉具張夫人)不二子(古河虎之助夫人)此方も侯爵家だが、岩倉家は公家公爵、古河家は財閥男爵、主従関係は無く気兼ねもなかろうと思うが、公家のしきたりも武家には可也厄介な作法もあり、従道の次男従徳(陸軍大佐・侯爵)の次男従純と五男従靖(早世)の二人が古河虎之助養子に入っている。因みに虎之助の親は陸奥宗光の次男潤吉(古河市兵衛の養子)とまさに絡み合っている。
[30]アカコッコさんからのコメント(2006年06月21日 05時21分47秒 ) パスワード

お暇さん、田中愛蔵様、お祝いのお言葉有難う御座います。

お暇さんメルアドは××でお手数をお掛けしスミマセンです。
 占いをどうもありがとうございます。あまりに良いのでかえって心配(落語に赤ちゃんを誉めるというのがありますが)。私みたいに「鳴かず飛ばず」で平々凡々(可もなく不可もなく)で人生をオクッテくれれば十分だと思います。
 
島津さんが登場しておりましたので、島津日赤社長の島津忠広さんの夫人がまだ女学生だったころご学友と列車で旅行にお出掛けの時、座席確保にオヤジと新宿駅に早朝から行ったことが思い出されます。
 
島津忠広さんとの結婚式には島津久永氏と同貴子夫人もみえた、二人の島津夫人は、挨拶をかわされたが貴子夫人は先輩らしく、はにかむ新婦になにかと声をかけていた。(その当時のサンデー毎日の記事より)
 
西郷さんが登場したおりましたが、もう30数年前になりますが、西郷従道さんの書状(たぶん毛筆)を印刷したことがあり、従道さんのお名前がその時記憶に残りました。たぶん関係者のご依頼だたったと思われますが。

 皆さんの博識には到底及びませんが。
[31]アカコッコさんからのコメント(2006年06月21日 05時26分25秒 ) パスワード

義知 Yoshitomo

 義親と米子の間に誕生。幼名五郎太。暁星中学を出てからイギリスに留学、と云うとオックスフォードかケンブリッジで勉強に励んだか?いやいや船が気に入って新しい汽船がやってくると、それに乗り込んでヨロッパ大陸との間を往復するのを、一番の楽しみにしていたさうだ。
 
 素人楽団を組織して、自らは指揮者就任。またイギリスで覚えた英語力を買われて戦争が始まるとオヤジの義親とシンガポールへ、帰ってからは大森の俘虜収容所の世話役、世話焼きが性に合っているんだろう、戦後はずっと日本赤十字社に勤め、日英協会の世話焼き続き。皇族さん宮様方のお相手役。
 
 義親や米子のゼネレーションとは違いがあるのは当然だが、さりとて、これまた今後わが国に再び現れるとは思われない「よき時代の忘れ形見」の典型なんだろう。

[32]アカコッコさんからのコメント(2006年06月21日 05時33分00秒 ) パスワード

 正子 Masako

正子は松平恒雄と信子の次女として上海で誕生。

オヤジが外交官だったので、イギリス、アメリカと転々として育ち、日本では殆ど教育を受けなかったから、今でも日本語は幼児語の段階をでず。甚だ危なっかしい。

当然にして古い家の仕来りも仕組みも習慣も知らないまま、義知のところへ嫁いで来てしまった。

 姑の米子は嫁教育なんて全く念頭にないし、舅の義親も何も知らない嫁を面白がって放っといたから、これまた当然にして尾張徳川家の御歴代御相伝のなんとかなんて吹っ飛んでしまって、御家大いに革まってしまった。

感想:執筆のご本人も歴代当主および奥方様もそれぞれにユニークな個性をお持ちで、一般家庭ならとっくに崩壊・破綻しているかも。
 
 尾張徳川家四代の正装されたりっぱな御写真も掲載されておられますが、お写真ではそのユニークさは分からない。
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月21日 06時10分09秒 ) パスワード

田中愛造さま

またまた思わぬ情報をありがとうございました。

>世が世であれば殿様と家来筋だが、今の時代ではねじれが正統か?

「明治元勲」ですから、西郷家と島津家の御結婚も当然ありえるのでしょうね。
明治維新とは凄い革命だったのですねえ。

でも、大久保家にはやはり許してはいらっしゃらないのかしら?


>不二子(古河虎之助夫人)

ここで古河財閥のお名前が出て来るとは思わなかったです。


>まさに絡み合っている。

まさに、まさに。


人間を語るには立体的に見ないといけませんね。
縦・横・奥行き
そこに流れる時代。

うっかり下世話なヨソのお宅の噂など出来ませんね。
[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月21日 06時33分12秒 ) パスワード

アカコッコさん

またまたユニークなお話を披露くださってありがとうございます。
ぺこり

ロスの徳川家の青年はNY生まれで英語育ちなので日本語は幼稚語の域を出ません
お名前は画数が多いので御自分のお名前もきちんと書けないでしょう。
そんな感じです。

正子さまも漢字より Masako さまと書いた方が合ってますね。


>姑の米子は嫁教育なんて全く念頭にないし、舅の義親も何も知らない嫁を面白がって放っといた

はあ〜(しみじみ)
嫁の個性を尊重出来た、というのがさすが、余裕ですね。


>西郷従道さんの書状(たぶん毛筆)を印刷した

愛知県の犬山の明治村に西郷従道邸が移築されてますね。
アメリカ的で(南部になるのかしら)好きな建物です。

さきほど昼寝から覚めましたが上記の島津久光系の姫君の夢を見ておりました。
島津家関連の方達です。「大久保だけは許さん!」と久光・忠義親子がおっしゃってて。

ここに西郷従道の名が出てたので心臓が止まりそうに驚きました。
アカコッコさんの書き込み中に8000kmの距離を明治の元勲達が飛んでいらっしゃったみたい。


上海の事は記憶にないのですが
上記の徳川家の青年が海外に転居なさった徳川家の人々のことをいろいろお話くださったのですけど

世界は狭い・・・・

もっとしっかりお話を伺っておけば良かった・・・・
NYの徳川家のことは記憶しているのですが。
さらにNYの方は島津の姫君から松方家関係でいろいろお話を伺ってましたから。
[35]田中愛造さんからのコメント(2006年06月21日 14時50分51秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
 >大久保家にはやはり許しては・・
 矢張り時代ですね。島津王国と西郷を政府の力で叩いた謂わば逆臣大久保利通、其の子孫、誰あろう大久保利謙先生は、主家島津修久と西郷伊津子の実は媒酌人ですね。gapを感じさせないのが昨今なのか?ご先祖の遺恨は一世紀持た無いのか。小生の家の家訓は間違いなのか?どんな家でも口にしてはいけない言伝えや葛藤が存在しますが、下々には見えない不思議が鎮座する。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月21日 15時26分07秒 ) パスワード

>下々には見えない不思議が鎮座する。

本当にシモジモには分からない人間関係ですね。


>大久保利謙先生は、主家島津修久と西郷伊津子の実は媒酌人

有り得たのですねえ。驚


>ご先祖の遺恨は一世紀持た無いのか。

久光公はどうお思いなのでしょうね、草葉の蔭で・・・
「大久保にはまたしてもやられたよ」と苦笑いなさっていらっしゃるのでしょうかねえ?


>どんな家でも口にしてはいけない言伝えや葛藤が存在します

はい、いろいろ秘密を聞きました。


>口にしてはいけない言伝えや葛藤<
を乗り越えて、名家は存続する、というのを経験してきました。


伊達家の孫姫でもみごとな女性でいらっしゃいます。
彼女は差別感覚はゼロでした。


徳川家達公の孫になる女性もシモジモの好奇の目にうまく耐えていらっしゃいました。
「品格」とはこういうものなのかと勉強させて頂きました。

彼女のお子さまの幼稚舎からの御友達がミッチー・サハラで(数年前に亡くなりましたが)
サンタモニカのちょっと南のベニスという若者に人気の海辺の町の
「カサブランカ」というナイトクラブで唄ってました。

ミッチー・サハラの母上もそのような家の出なのかも知れません。
数年前ミッチー・サハラと連鶴?の折り方を披露なさっていらっしゃいました。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月21日 15時36分29秒 ) パスワード

ミッチー・サハラさんは本名酒井道枝さんとおっしゃるそうで
2000年の秋53歳で亡くなったのだそうです。
[38]田中愛造さんからのコメント(2006年06月21日 21時32分49秒 ) パスワード

ミッチーさんの、屈託の無い生き様、自分らしく生きた短い人生に悔いは無く羨ましい限りですね。ジャズてそんな響きが感じられます(日本艶歌)?リズムに違いは有りますが、心で歌い魂を呼び起こす。if i had A hammer 軽快な音楽です。                  
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月22日 00時01分34秒 ) パスワード

書き直し3度目?(恥)


田中愛造さまはミッチー・サハラって御存知でしたか。

わたくしは上記の徳川家達公の孫姫の息子さんが
「ミッチーとは幼稚舎から一緒にランドセルを背負って通った仲で
彼女は金曜の夜カサブランカで歌ってるから聴きに行ってあげて」
とおっしゃってたのを知ってるぐらいで

仕事で毎日カサブランカの前を通りましたが
(ミッチー・サハラって何者?)
でした。

10年ぐらい前、ミッチー・サハラさんがお母さまと連鶴を折ってらっしゃる時の会話が全くの日本語だったのでビックリしました。


戦後数年後に幼稚舎から慶応に行かせられる御家ですから
フツーの家庭の子女じゃあないですよね。
酒井家でしたらあの酒井家?

家達公の孫姫は「姉は上杉に嫁いでいて、もう1人はXX家で」なんておっしゃってましたが
(へえ〜、上杉家なんだ)と感心してたので「XX家」については聞き流してしまったのです。
よく聞くお名前でしたから。

ひょっとすると酒井家だったのかしら?
そうするとミッチー・サハラとは親戚になりますか。


サンディエゴで教授父娘が射殺された事件の夫人は公家の三條家の御出身ということですから
へえ〜
なんて空想してるウチに話が先に進みますから・・・なかなか記憶に残りません。



上記の島津久光公系の姫君がおっしゃるには
「うちは久光系」と遠慮がちにおっしゃってました。
いつも確実に念を押していらっしゃいましたのよ。何度も。

ちょっと意味不明でした。

その頃は斉彬公との関係についてピンと来てない若さでしたから
「おゆらさん系ですか」
なんて不躾な言い方をしていましたが

外の者には分からない島津家ならではの家庭の秘密というのがあったのでしょうね。


昨日は昼寝をしてズッシリ身体が重くなりました。

彼女から牛X氏のこととかアモウ氏とかタカラベ氏とか山本ゴンベイさんとかそこのお嬢さんの事
(特に結婚の時のお話)

特にじゃじゃ馬だった(元伯爵?夫人)で
キューバのカストロのファンだった長女?さんの事
確か3人ぐらいお嬢さんがいて
葉山の別荘は天皇家の別荘を見下ろす位置にあってどーたら
ゴンベイさんとこと彼女の家の別荘が背中合わせだったのかしら?

いろいろ夢の中で彼女の昔話を思い出していました。
でも昔々聞いたことなのでいろいろこんがらがってます。


「金縛り」という現象があるなら、それだったのかしら?
グッタリ疲れましたよ。
それで昼寝をし直しました。笑


あのお話はゴンベイさんの孫娘達のお話だったのかしら?と今は思います。
現在80代〜90代あたりのお年寄り達の若い頃のお話ですから。
ゴンベイさんの孫娘達のお話になりますね。


長女孫?さんの結婚の時の持参金?結納金?について
(1本?)
いや・・・と首を振って・・・
(5本!)
なんて無言の指の仕草でのやりとりがあったと彼女から聞きました。

(1本と5本は逆だったかも)


何十年も前に聞いたお話なのでコチラもこんがらがっていて
嫁入り道具に絶対持ってはいかない物の話も出ました。
マキコさんとかイネコさんとかそんなお名前を記憶しております。


でも島津家やその取り巻きの旧華族の御家のお話も
土地鑑の無いわたくしが聞いては
トンチンカンに理解してるようです。

彼女のおっしゃり方の「ゴンベイさんとこのお嬢さん」は「権兵衛の孫娘達」という意味だったのでしょうから。
ま、旧華族の皆さん達のおしゃべりの輪の中では暗黙の了解があってのお話だったのでしょうね。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月22日 00時35分33秒 ) パスワード

アカコッコさんお書きの<20>の米子さまの
>深窓育ちのお姫様(ひいさま)なんだから、どんなキレイな言葉で慎ましやかで、なんて思ったら、これとんでもない。小気味いいほどの伝法ぶりである。下町のべらんめでもない、オツに澄ました山の手言葉とはほど遠い。学校は御茶ノ水だそうで、そのせいか、『学習院の方々とお話していると、お口がきれいで、わたしなんざあ、くたびれっちまふ』と云っていた。


わたくしの知り合いの島津の姫君も学校が学習院ですからお言葉が非常に美しいのですが
御本人はそうはおっしゃらないのです。
「元が九州の出身だから」
いつもそうおっしゃるのです。


家庭教師が「おおたのめしゅうどの娘」だったそうで(太田召人氏の娘さん?)と思いましたが
「御歌の召人」の娘というのは随分経ってから分かりました。(ああ、御歌会始・・・)恥

このおおたのめしゅうどの娘から「お嬢様、お言葉が・・・」とよく叱られたとおっしゃってました。


戦争中は旧華族の夫人達も町内会の集まりがあり
(ちょっと話題に出た)藤堂家の若奥様は普通の華族言葉だったけど
XX家の奥様はもう1段丁寧なお言葉遣いだった
とおっしゃってました。

そういう風に聞かされては XX家の奥様のような御言葉遣いにしなくてはねえ (笑)


日本がバブル時代で
ジェット・セッターともてはやされた某氏の夫人がお仲間に加わって
あるお正月にかるた会(百人一首のかるた会)をすることになり

そうしましたら公家系旧華族の某夫人が「お言葉の乱れた方が・・・」とおっしゃって

それで皆さん(げ〜、自分の事、いわれちゃった〜)と思いましたよ。冷や汗


でも伊達の孫姫が「あら、わたくしの事ね、じゃ、御遠慮致しますわ」とおっしゃって
皆、パーティのお目当てはこの伊達の孫姫にお会いすることだったので
目玉が出ないと言い出して・・・


もし当時米子さまの「わたしなんざあ、くたびれっちまふ」を知ってましたら
言ってやったのにい〜


言葉遣いは学習院出身の旧(武家系)華族の皆さんも・・・実は・・・だったのです。
[44]総督さんからのコメント(2006年06月22日 01時51分18秒 ) パスワード

何処のへんまで本気で聞くんですか、良く分かりませんね。
[45]アカコッコさんからのコメント(2006年06月22日 07時43分13秒 ) パスワード

田中愛造さんお名前の「造」の字を間違えまして大変失礼申上げます。ご容赦の程。

>何処のへんまで本気で聞くんですか、良く分かりませんね。
 
総督さんと同じスレでは初めてで、私も港区芝のうまれ、白金・高輪はテリトリーでしたで親近感を覚えます。

違った世界のお話ですね、だが事実、お暇さんのお陰でその世界が垣間見られます。良い勉強になります。

話題を変えて、[18]のところで徳川宗春公に関することを展開しましたが、後で思い出したのですが。

以前弥富の服部家を訪れた時頂いた小冊子:重要文化財『服部家住宅』に宗春公の次ぎのお殿様宗勝公について書かれた文があるので書き込みます。
 
服部家の第四代弥兵衛定元と尾張徳川家第九代宗勝公とは深いつながりがあります。

それは、宝永二年(1705年)六月二日に宗勝公(幼名・万弥様)がご誕生になってから、十歳で江戸へ下向になられるまで、定元の妹く乃がご養育にあたったからです。とあり、尾張徳川家と服部家がゆかりが深く、多くの拝領品が所蔵されています。

 これらのことについて、元禄年間に藩撰「尾張風土記」を編纂した真野時綱は、つぎのように記しています。

『今より何代の昔にや、やんごとなき御あたりに、御因縁有りて、其の若君を御養育し奉り、厚き御恵みを蒙り、また種々の御物を給わりて、家に秘蔵しけるが、そのゆくへよく憚りて略す。實に稀なる家なり』と。



[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月22日 10時44分34秒 ) パスワード

アカコッコさん

ありがとうございました。
凄い書き込みですね。

これ以上は
    <<今より何代の昔にや、やんごとなき御あたりに、御因縁有り>>
    <<そのゆ(く?)へよく憚りて略す。實に稀なる家なり>>
わたくしも踏み込んではいけませんね。笑


>服部家の第四代弥兵衛定元と尾張徳川家第九代宗勝公とは深いつながりがあります。

は、ありますね。笑

尾張藩主宗春公が上様(将軍吉宗)の命により蟄居させられた席は
服部家当主在席の上
この命を申しつけられたのですから。

で、
宗勝公が尾張藩主(わたくしの記憶では7代目じゃなかったかと刷り込まれています)になりました


ま、行間を読んでくれ、って事ですね。笑


父にとり服部家ホンヤは雲の上の存在ですからワタクシなんぞがグダグダ書いては叱られてしまいます
昔はこうやって「分を弁えろ」という表現がありまして今でもホンヤさんに対しては続いています。


子供の時に伯母から言われた言葉がありまして
「あそこの家のお嬢様が白足袋ならこちらは黒足袋で」
自分の立場を弁えろ、って。


だからこそホンヤさんも差別なく周りの人間を扱ってくださっているんでしょうし
回りも「ホンヤさん」「ホンヤさん」って慕ってきたんでしょうし。


こういう感覚って時代が変わってだんだん壊れていくんだろうなって思いますね。


上記に佐竹の姫のお屋敷の話を書きましたけど
興味本位で覗きたい人が沢山いて
お手伝いと称して入り込む人達に(親切で来てくれてる)とお姫さまは思ってらっしゃるけど

実態は雑巾の絞り方も知らない、「塗り物」の扱い方も知らない、「茶碗」の価値も知らない

日本人だから佐竹家が大名だったということは知ってても、
日本人としての価値観は持ち合わせてない人が入り込んで
お姫さまとシモジモの「間に立つ人」はそれを見てオロオロ青くなっている。


島津の姫君の御宅の持仏でも伝来の仏さまのいくつかの1つをアメリカに持って来ていらっしゃって
大切な物だから扱いは丁寧にしてあげて欲しいのに

さすがに3−4年ぐらい前はわたくしに「メイドさんがお掃除してくれるのは有り難いのだけど」と
愚痴っていらっしゃいました。


島津の姫君に宮本武蔵の描いた絵を2点見せて頂いたことがありますが

わたくしなんぞは自分の手で触れるなんてとても出来なかったけど・・・
彼女は「どうぞお手に取って御覧になって」とおっしゃるけどそんな事とても出来なかったです。


殿様やお姫さまは「いいのよ、ちゃんと手に(お茶碗を)取って御覧になって」とおっしゃるけれど
戦国時代あたりの宝物をわたくしなんぞが
    (いろいろな大名の間を、何百年もの間、渡った品ですものね)
と遠慮してしまうのはやっぱり自分の立場が分かってるから・・・


「いいのよ、戦災で殆ど焼けてしまって、これぐらいしか残らなかったのだからしっかり愛でて頂戴」
殿様やお姫さまは鷹揚でいらっしゃる。


アカコッコさんの御蔭でロス時代の懐かしい日々をしみじみ思い出します。
すっかり忘れておりましたから。
わたくしにも優雅な時間を過ごした過去があった、と。



>元禄年間に藩撰「尾張風土記」を編纂した真野時綱

あ〜
またまた懐かしいお名前が出てますね。

自分の血のDNAの中にしっかり過去の御先祖さまの記憶が眠ってたのが目覚めましたよ。



>真野時綱

真野さまといえば
堀田家・大橋家・服部家の古い古い盟友。


時空を超えますね・・・涙なくして真野さまのお名前を拝見できませんでした。血ですね(笑)
[50]田中愛造さんからのコメント(2006年06月22日 14時41分06秒 ) パスワード

 総督さんの云われる通り、何処まで行くのかと小生も心配がありました。と申しますのも、此れを続けると何れは、小泉家まで行くのではと苦慮しつつ・・現職宰相家の北韓問題に迄ネットに流すのはご遠慮すべきと、思い巡らし。
 さて、権兵衛さんの娘。イネ子(財部彪夫人)すゑ子(山路一善夫人)みね子(山本盛正夫人)浪子(上村従義夫人・西郷従道三男)登美子(松方乙彦夫人)。孫娘は千代子(元、大倉喜六郎夫人)登茂子(朝吹四郎夫人)喜美子(元、加藤泰同夫人)ですね。

 此の侭いくと徳川さんの常識まで戻りそうですので、留め置きます。本当は小生の一番気になる事が一つあります。徳川慶喜を中心に、尾張慶勝・一橋茂栄・桑名定敬・会津容保四兄弟、水戸家徳川か高須家松平の血か、実にお顔が長い。相して見ると各大名家にも多い。気にしない様にします。
[51]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月22日 14時42分31秒 ) パスワード

アカコッコさん

世間は本当に狭いですね。

このスレッドで真野さまのお名前まで出るに及んで
堀田家・大橋家・服部家のエニシがしっかり出てしまいましたものね。
御先祖さまが「ウチの名前も出してくれ〜」とおっしゃってたみたい。笑
アカコッコさんがここに書いて下さるのも固いエニシで結ばれているからなんですね。


ということで
>私も港区芝のうまれ、白金・高輪はテリトリーでした
でしたら高松宮邸の辺りもウロウロなさったのでしょうね。

実はロス時代に親しくしてた男性(ふふふ)が高松宮邸の御近所さんで
   我が家が高松宮だけでなく他の宮家とのかかわりもあったということから
彼はなんと千家の先代とお友達だったのです。


千家の先代はしょっちゅうアメリカにいらっしゃるんですが


    (それで南部藩の家老の姫との関わりもあり
     さらにXX家の孫姫は400回忌に御招待され御香も1片頂いていらっしゃったのですよ
     あの御香に決まってますが恐れ多くてここには書けないですが)


で、千家の先代ですが

アメリカ人の茶道も楽しんで下さって
中にはウエスタンのそれこそ砂漠のしつらえで牛の角つき頭蓋骨の飾りでお手前を楽しむという
まことに心のお寛い方でいらっしゃいます。


雲の上のお方という存在はシモジモの先入観を超えます。


「楽しんでくださる」のですよ。シモジモのもてなしを。


(そんなの侘助あたりを飾るのが当たり前でしょ)なんてそういうのは
アメリカでは逆につまらないとお思いになるんだろうなと思いました。

利休が誰やらの所へ訪ねて行って、利休をもてなすのにわざわざ何やらが取り寄せてあったのを知って
興ざめだ
と帰ってしまったという逸話を思い出しました。

あ〜
なるほどなあ
と。

アメリカの、テキサスで、アメリカ人のカウボーイがお茶を立てるのに
牛の角つき頭蓋骨もなかなか面白いじゃないか、と。
先代の英語は本物の英語なんだとそちらにも感心してしまいました。

インターナショナルでいらっしゃいます。


袱紗捌きの段階で落伍した私なんて、先代さんを早くに知っていたら、立ち直れたのに
と思いました。
[52]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月22日 14時53分57秒 ) パスワード

田中愛造さま

>権兵衛さんの娘。
>イネ子(財部彪夫人)        お話を聞いて曖昧ながら財部家とイネ子さんがバラバラでした
>すゑ子(山路一善夫人)
>みね子(山本盛正夫人)
>浪子(上村従義夫人・西郷従道三男)
>登美子(松方乙彦夫人)。      松方家のことは何度もお聞きしました


>孫娘は千代子(元、大倉喜六郎夫人)登茂子(朝吹四郎夫人)喜美子(元、加藤泰同夫人)ですね。


牧野伯爵家と御結婚になった女性はゴンベイさんの関係じゃなかったようですね?
やっぱりこんがらがってる・・・
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月22日 15時57分37秒 ) パスワード

そういえば
松方家で思い出しました。

わたくしの恩師のなんとかが松方家と御親戚になり
宮内庁長官だった田嶋さんとも関係があって
恩師の母上は佐倉の堀田家関係です。


この恩師からは今でも非常に親しく御教授頂いてるのですが(今でも勉強しろと叱られてます)
切れないエニシで結ばれている
とおっしゃってました。


恩師は教え子からノーベル賞受賞者が出るのを心待ちにしているような立派な大学の教授で
わたくしのような出来の悪いのとは接点はありえなかったのですが
出来てしまった
というのがエニシなのでしょうね。


島津久光系の旧華族の姫君とも前から知ってはいたのですが
親しくいろいろなお話をしてくださったのは
橋本明さんの関係からで
御存知無いのですか?あの橋本さんは(当時)皇太子さまの御学友の橋本明様でいらっしゃいますよ
とお話してからなのです。

「わたくしは実はトキワマツ(?)の近くに住んでたことがある」と彼女がおっしゃって。


で、彼女の御親戚の (みんな親戚になっちゃいますね) 松方さんのお話を恩師にしたら
恩師が・・・実は・・・とおっしゃって
そこから・・・実は・・・と尾張と堀田家のお話をして


アカコッコさんとも繋がったのは偶然じゃないのですよね、必然だったのです。
どこやらのスレッドで竜の家の事を書きましたがそれでなくとも九州にも父方でも繋がってましたし


日本人は8代も遡ったらみんな親戚と夫の甥が京大に行ってた時に聞いてきた話を聞いた時は信じられなかったのですが、み〜んなどこかで繋がってるのですよね、知らないだけで。
[54]アカコッコさんからのコメント(2006年06月22日 16時59分37秒 ) パスワード

 ハイー強いエニシに引っ張られて『平熱』にきたのが四年前それからズット居っぱなしたいしたお役にたたないけれども(笑)

 >でしたら高松宮邸の辺りもウロウロなさったのでしょうね。
 


 ウロウロなんて、高松中学校はその高松宮邸の広大なお庭を港区が・・・。そこに校舎を建て。
 
 [名を仰ぐ高松宮様の住まわれていた土地の一部を使用させていただき、57年前に開校。昭和24年11月2日高松宮様自らがデザインされた校旗をご下賜]


 初めのころは大きな瓢箪池があり、亀やザリガニなどいっぱい、ストーブの薪が足らなくなると椎の枯れ枝をあつめタキギに、昼食のデザートには山の「木イチゴ」をほうばり自然がいっぱいの良い時代でした。

 それとホンヤさん邸を訪れた時、高松宮様がお泊りになった部屋を見せていただき、これもエニシかとビックリしたのを覚えております。

 ロス:母に来た手紙がありました。遠い親戚で日付は1967年、住所が同じロスで、755 WALL STですがお暇さんとは時代が違いますね。これはエニシが弱すぎますね(笑)
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月23日 05時04分15秒 ) パスワード

はあ〜
敷地の中に学校ができてしまうんですか。
広大なお屋敷だったのですねえ。


そうそう徳川家達公の孫姫が
「お屋敷はどれぐらいの大きさだったんですか?」
という某シモジモのあからさまな質問に困っていらっしゃいましたっけ。

お屋敷と言っても
江戸に御屋敷をあちこちに構えていた家のお姫さまに「何坪だったの?」という調子の質問はねえ

またそういう質問に「自分の育った屋敷は何万坪だった」なんて
お姫さまともあろう人が答えるワケないのにねえ。


ロスの80代のおじさまは(←千家の先代さんのお友達は)

良い住宅環境に住み良い学校に行かなくては、と話してました。
それで東京の御屋敷は高松宮邸の御近所でお子さんの学校も「御学友」という言葉の使える学校。
彼のアメリカの家は米谷ふみ子さんのお宅の御近所です。
もう少し書けばレーガン大統領の(昔の)家の御近所です。


もしかしますとアカコッコさんはこのおじさまのお嬢様を御存知かもですね。笑



1967年は・・・ちょっと・・・遠いですね。
1970年代ならなんとか(笑)

1967年当時
島津の姫君は(この書き方では島津本家みたいですから詐称になって叱られそう)
アメリカにいらっしゃってました。
1967年当時息子さんがUCLAの学生さんでした。
その前はヨーロッパにもお住まいでアメリカ東部(ボストン)にも住んでいたとおっしゃってました


1960年代は日本がまだ貧しくてフツーのレベルの人はアメリカには来れなかったのです。
1973年迄?外貨持ち出し規制があってハワイに着いた途端にドルが底をついてしまった時代です
福原義春氏でも1960年代は悲惨なアメリカ生活を余儀なくされてました。
  NYにいた頃は福原氏の(重役さんに)お世話になりました。
当時日本人でアメリカにいらっしゃったということは余程の裕福な御身分の方に限りますから
もしかしますと皆さんお知り合いかもですね。

物凄く小さな日本人社会ですから。


バブル以降、さみだれの如く、日本人が増えました。玉石混交になりました。笑


そうそう、上記に藤堂家の若奥様のことをちょっと書きましたのは
わたくしの子供時代に仲の悪かったのが(笑)藤堂家の家老の子孫だったのです。
藤堂家といえば我が家は仲良くあるべきでしたから

島津の彼女が
「藤堂さんの若奥様なら戦争中に隣組で御一緒に訓示?訓練?を受けたわよ」
とおっしゃって
彼女にそそのかされて藤堂家の家老の家に御挨拶したりしました。


どこかで太郎さんのスレッドにひこ山の霊験あらたかさについて書いたと思いますが
これも島津経由の鍋島だか柳川(立花)だかの姫君の御紹介の受け売りでした。笑


こうして書いていますと
昔「樺山さん」とおっしゃる方とお知り合いだったのを思い出しますが
この方の御家も気楽に「樺山さん」なんて書いては失礼な御身分だというのを最近知りまして
      爵位持ちだそうです・・・(汗)
樺山さんの御友達の御家が細川さんだそうで、お殿様の・・・・元首相の・・・


小泉さんには到達しませんが細川さんまでは届きましたか?笑 >田中愛造さま


母が源氏方だったので平家は軟弱なんて言われて育ってましたから
平家なんてイヤだなあ
源氏の方がいいなあ
と思ってましたけど御先祖さまはありがたいものです。


平家のパワーって凄いというのを実感しております。
[57]アカコッコさんからのコメント(2006年06月24日 05時12分45秒 ) パスワード

新発見!!東福門院入内図屏風

 「・・・が店にあって売りたいさうです」「いえ、店では何の図かも気がついていない、というかわからないでいるそうですが、東福門院入内図に間違いがないと思います」佐藤学藝部長の報告です。一見して百パーセント間違いない、しかもなかなかの上作で傷みも少なく絵具も上質で保存状態も優良です。
 
東福門院とは二代将軍徳川秀忠の第五女で母は浅井長政の三女於江の方(於江与・達子とも)慶長十二年十月四日に生まれ和子と、元和六年、十四歳で後水尾天皇のもとに従三位の女御として入台、濁音を嫌ふ宮中の習慣に従って御名は以後マサコと訓む様に改められ元和九年興子内親王(女一宮、のち、明正天皇)が誕生になり、翌年中宮に、寛永六年後水尾天皇が俄かに譲位され、興子内親王が七歳で皇位を継承されたのに伴い、院号「東福門院」の宣下を受けた。

東福門院入内図は三井文庫所蔵の四曲一双屏風が有名で、林原美術館所蔵の「洛中洛外図」六曲一双屏風の左隻には二條城から内裏の方へ向う貴人の一行が描かき込まれており、葵紋をつけた油単がけの長棹を担いでいる人たちがいるので、東福門院入内風景ではないかと見られますが。

以前彦根の井伊家に「東福門院入内図」六曲一双屏風が所蔵されていましたが、おしいことに大正十二年の関東大地震で焼失してしまいました。
 
新発見の屏風は「岩佐又兵衛筆」と伝承されそうな肉筆浮世絵の画風です。
この屏風にとって一番相応しい既存の収蔵品もろともに最もよく活かされることになる。

そう考えて思い切って購入しました。屏風も喜んでいてくれると思います。

 感想:以上が六曲一双屏風の「東福門院入内図」の購入のいきさつですが、「東福門院入内」と云う武家政権にとって、徳川家にとってきわめて重大な意味を持つ歴史画ですね。

東福門院入内には諸道具は580にも及んだという。入内の行列は、京都二条城を出て御所へ
行列は数千人、先頭が御所に到着しても最後尾は二条城を出ていなかったといわれる。 


こうした動きに後水尾帝は若い頃からほぼ生涯を通じて抵抗している。

武家の娘を女御に迎えることは、平清盛の娘・徳子以来のことで屈辱でもあったと言われている。

[58]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月24日 08時06分15秒 ) パスワード

わあ〜っ
ありがとうございます。


>東福門院入内図屏風

これは購入したんですか・・・・
それは知らなかったです。


東福門院和子は「濁音ではいけない」ということで「まさこ」と呼び替えたのですか。
こういうのって嫌がらせだったのでしょうね。
和宮なんてシモジモは遠慮なく「かずのみや」って読んでますけど。

ま、それで宮中が和子を受け入れるなら、ということで幕府は妥協したのでしょうね。


つまらないイチャモンをつけるものですね。
[59]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月24日 08時27分10秒 ) パスワード

この「まさこさま」は
7人もお子様を後水尾天皇との間に生んでいらっしゃるんですよね。

2皇子5皇女。
でも2皇子1皇女は夭逝。
なんとなく暗殺されたのかしら?との疑いが臭いそうですね。


当時の女性としては71歳と長生きなさって
幕府からお化粧料をしっかり頂いているんですから
それから彼女は物凄い量の着物を作っているという噂を聞いたことがあります。
(とはいえ当時は感謝を示すのに着物を与えたのですから当たり前だったのかも)


仲の悪い夫婦だったのかという噂と7人の子をなした仲というのは両立しないですよね。
ということは
後水尾天皇と和子は仲の良い御夫婦だったようですよね。

でも宮中の人間にすれば皇子の存在は許せなかったのでしょうね。
それで毒を盛ったのかしら?


でも天皇家の内部事情については聖域ですから
この問題に踏み込む人はいなかったのかしら?
[60]箱柳永田さんからのコメント(2006年06月25日 01時40分06秒 ) パスワード


>でも天皇家の内部事情については聖域ですから
この問題に踏み込む人はいなかったのかしら?

 <花と炎の帝> 小説家名 隆慶一郎(脚本家名 池田一朗)
 後水尾天皇と和子が主役の小説です
この本に面白く(彼の小説は全巻読破 少し割り引いて下さい)書かれています

 事実からの距離は判りませんが、その時代、前後、多数の小説を読み、
自分なりの世界を構築するのが、一番近道かと思います。
 勿論、作者の出生地、環境等も考慮するのを、お忘れなく。
[62]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月25日 07時43分27秒 ) パスワード

>勿論、作者の出生地、環境等も考慮するのを、お忘れなく。


そうですよね、まず、女性と男性の考え方にも差がありますから。
それから出身がどこかでも違いますから。


作者は後水尾天皇の真意はどうだったと言ってるのでしょう?


普通、嫌いな女は遠ざける、というのが凡人ですが。


徳川将軍はどっちか言えばこっちかな?と思います。
彼自身 and/or 大奥の女性達が京都からの女性を疎外したのでは?

だって京都出身の正妻に生まれた男子って殆どいないのでは?
6代将軍は正妻煕子とは仲の良い夫婦だったそうですけど将軍になる前ですし子供はいないですよね
他の将軍の御成りは側室の方に行ってしまった、って印象ですし。


後水尾天皇と和子が7人も子を成したということから仲が悪かったなんて思えないのですけどね
7人も生むといったら10年はべったり愛し合ってたと思いますから


後水尾天皇は和子が入内する前に愛人に子供を生ませていて、その子は殺されたって話ですよね


和子の生んだ2皇子の死は天皇さんの差し金だったんでしょうか?
    周りの人間が天皇に内緒で毒を盛るとは思うのですけど。

で、結局は皇女を内親王にして天皇にさせて、自分が院政を握れば良い、に至ったのかしら?


こういう空想って楽しいですね。


太陽暦によるお2人の一生(新暦でないとピンと来ないから)
徳川和子様:1607年11月23日〜1678年8月02日
後水尾天皇:1596年06月29日〜1680年9月12日

和子様入内は1620年6月18日で女御に。1624年中宮に。
紫衣事件は1629年
明正天皇は1624年1月9日生まれで
1629年旧暦10月29日内親王宣下で旧暦11月8日パパが「天皇はや〜めた!」と宣言。
1630年旧暦9月12日即位。

9歳半も年上の天皇に嫁いだのですねえ。


よく分かりませんが女性からの視点として

1629年の秋には和子も「もう生むのはイヤ」と言い出してたのかしら?
それで親王に譲位することにしたのかしら?

だって、子供を次々に生むと、子宮が下がって来て、
下がって来ると、くいっくいっと中に押し込むんだ、という話を聞いたことがあります。
咳なんかしたりすると、ピョコンと下がるのかしら?


だからねえ、男性の考えることと、女性の考えることって、差があるかも。笑
[63]田中愛造さんからのコメント(2006年06月27日 15時20分53秒 ) パスワード

 雑用取り紛れ、無返信深謝。

 台湾総督を務め陞爵された樺山家は伯爵ですね、資紀ー愛輔ー丑二−紀一と続く。

 後水尾天皇は、子作り第三位。一位景行天皇66人、ニ位嵯峨天皇54人、三位後水尾天皇44人、因みに徳川家斉60人。単なる好き者だったか、或いは幕府の軋轢に依る反発反目の意の表れか?何れにしもよく産んだものです。(数字は概算です)
 
 細川家に於いては、10代斎護の子勇姫は松平春嶽に嫁ぎ、11代韶邦の室一条峯子姫、12代護久(侯爵)13代護成(侯爵)14代護立は池田博子を迎え、15代護貞は近衛文麿の子温子と結婚、その子明子(表千家千宗左夫人)護煕(総理大臣)忠・(近衛文隆養子・三笠宮家と結婚)。相関的には三笠宮家・近衛家・徳川家・島津家・松平家・千家(表・裏)・鳥取家・麻生家と何処までも続く、又麻生家を遡ると太郎氏夫人は鈴木善幸総理の子千賀子さん、麻生太賀吉氏夫人は吉田茂総理の子和子さん、総理の夫人「牧野伸顕の子雪子さん、牧野は大久保利通の子。
 次の選挙で総理を狙う阿部・福田・麻生・平沼各氏、皆其の流れ。如何変るのか日本の明日は・・。元総理細川氏子息の護光さんと陶芸に熱中、(殿、チト手慰みは程に致し、お国にお目を)と云いたいものです。陶芸家のほうは西郷さんの曾孫、隆文・等、兄弟にお任しあれ。
[66]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月28日 00時35分40秒 ) パスワード

業務連絡
64・65は

書込2006年06月27日 15時30分59秒
削除2006年06月27日 15時32分00秒

書込2006年06月27日 15時42分55秒
削除2006年06月27日 15時43分30秒

になってたのできれいに消しておきました。
これも数日したらきれいに消しておきます。
[67]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月28日 00時46分28秒 ) パスワード

>後水尾天皇は、子作り第三位。一位景行天皇66人、ニ位嵯峨天皇54人、三位後水尾天皇44人

すごいですねえ。
こんなにお子さんがいてはお金がかかって大変だったでしょう。
今は2人でも大変な時代なのに。笑


でも、健康な男子で、お相手の女性が違えば、44人ぐらいの数の子供を持つのは簡単でしょう。
ま、7人も生んだ女性なんて、体型もガタガタでしょうし
(あ、体型は、貴族の着物は武家の着付けとは違ってボッテリと着る式なので、体型は出ませんね)

7人も子を成していたら
双方
もうお互いに(うんざり)だったのかしら?
あはは


この御夫婦はどう関係になって行ったのでしょうね?

彼は「内親王に譲位するからそれでいいだろう」だったのかしら?
彼女は「他の女の生んだ子供に譲位されるよりわが子を天皇にすればいいかな?」だったのかしら?

このやり取り、永井路子あたりが書いてくれると良いけど、
彼女は独身だったのかな?子を産んだことのない女性には分かり兼ねるかも。
[68]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月28日 01時19分08秒 ) パスワード

>陞爵

難しい漢字ですねえ。
「陞=のぼる」
という意味なんですよねえ。

爵位に陞った、そういう意味なんですよね?


わたくしの知ってた樺山さんという方は政治関係者が取り巻いてました。
当時父方の親戚の者が結構高位の政治家でしたから、それで樺山さんを知ってたのです。

彼本人はいたって「オトコ」という印象の人物でした(とはいえ、こちらはまだ子供でしたが)
ごっつい、感じ。政治家というより軍人みたいな感じでした。


その後、わたくしに鹿児島の、さる御方と縁談なんぞがあって
え〜っ?鹿児島?男尊女卑じゃないの?やだ〜!
という展開になりまして不躾にも断りましたが

更にその後
鹿児島の女性と親しくなって
物凄い頑張り屋という事を知って、余りのレベルの違いに、断って良かった、と思いました。

彼女達からはいろいろ教えて頂きました。
わたくしが心を入れ替えた過去は鹿児島女性との体験によります。
生き方が真剣勝負だったんですもの。


さる御方との御縁も、今、思うと、平家がらみでした。
島津藩の武家に嫁ぐところでした。
こういうのも平家パワーなんでしょうね。


細川家もすごいお歴々ですねえ。

>明子=表千家千宗左夫人

実はわたくしは「表」だったのです。

それで「裏」の目6つに取り囲まれて、
袱紗捌きをモタモタやってたら、
6つの目から叱責の矢がビュンビュン飛んで自信をすっかり無くしました。


>牧野伸顕の子雪子さん

ユキコさんですか・・・

わたくしの記憶はこんがらがってるけれど、ホント、みんな繋がってしまいますね。


竹下さん・金丸さん・小沢さん
    ここも繋がってますものね。
小沢さんは自民を飛び出さなかったら今回の総裁レースの最有力者だったでしょう。
河野洋平のように頭下げて戻ればいいのにと思いますが出来ない理由があるんでしょうね。


このスレッド、ホント、いずれ将来の総理大臣に至りますね。笑
[70]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月28日 13時11分55秒 ) パスワード

最近東京で起きた有名美容外科医のお嬢さんの誘拐事件。
ま、無事に解放されて良かったのですが・・・・


時給100万円で月収1億強、年収12億強の家庭のお嬢さんが1人で外出?
さらに公共交通機関を利用?

信じられなかったです。


名古屋あたりのちょっとした家庭の人が外出する時
XXさんは○人のおつきの人と外出するけど
△△さんは*人だった
なんて悪口になると上記(28かな?)に書きましたけど

年収12億もの家庭のお嬢さんが1人で外出?


皇室のお車は5000万円だそうですけど、1台が
年収12億の家庭が公共交通機関を娘に使わせる?


なんか不思議な事件でした。


うちのコミュニティにも美容整形の医者が住んでるんですけどね
ここも不思議なんですよ。

うちのコミュニティは結婚した夫婦が最初に買うか最後に買うレベルで
高給取りの美容整形外科医が住むような家じゃないのです。

1軒に3台しかガレージがない家のコミュニティなんですけど
(うちは1台分を日本的の間に改造しました)←日本間もどきレベルって事です
あの美容外科医の家はフェラーリにS55AMGのベンツにジャグア〜の3台が入ってます。
多分SUV車も持ってるのでしょうけど、これはどんなのか知らないです。

普通アメリカの家って年収の3倍って言われてます。
銀行が3倍までしか貸してくれないから。
それで普通年収の2.5倍借りるのが確実返済って言われてます。


美容整形外科医が入居して来た時、売りに出てた価格は8000万円でした。
だから美容整形外科医が買うレベルの家じゃないのです。
ま、近々売って出てくようですけどね。2年ぐらい住んでるのかしら?

この家のオーナーである医者は一見若いけど40代かも知れない。バリバリに整形してる。
夜中に帰宅するところを何度も見てるし
朝は5時頃わたくしがウオーキングしてる時に出て行くし
だから本当に長時間働いてるのは確かなんですよ。


日本の美容整形外科医も不思議だけどアメリカの美容整形外科医も不思議です。

娘が誘拐されてお金払えと言われて400万−500万円と交渉したとか
3億出せと言われて3000万円ならと値切ったとか
というニュースを聞くと

あの御近所の美容整形外科医もそうなんだろうか?なんてついつい連想しちゃいます。



12億と言ったら1万石あたりの大名の石高に相当?
わたくしの同級生でもちょっとした家庭は学校が終わる頃に車が迎えに来てましたから
不思議な事件だなあと・・・
[71]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月28日 18時18分39秒 ) パスワード

うちの奥方も首都近郊でのイですが、なかなか現実は厳しいみたいですよ。子供の学校への車での送り向かいは、安全上?だろうか、自分の住んでるところでは普通みたいですよ。AMGではないような気がしたが、E320アバンなんとかいう奥方の車でいちお小学生の子供を送迎。
[72]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月29日 01時32分45秒 ) パスワード

車の話題が出ましたから書きます(笑)


アメリカの自動車業界で訴訟合戦をしているそうでございますよ。
それがネーミングで。

最近は車を区別するのにアルファベットや数字を使いますけど
BMWでしたら M5V10 とか
ベンツでしたら S55AMG とか MLのなんとかとか。

車のイメージアップに用いるこのアルファベットと数字で訴訟合戦が起きているのですって。


ウオールストリート・ジャーナルによりますと

ホンダの高級部門のアキュラのSUVのMDX(我が家も1年乗りました。素晴しい車!)
vs
リンカーンの MKX。


BMWはM3とかM5とかのシリーズがありますが
VS
ニッサンのインフィニティの M45


ニッサンのインフィニティの Q45
vs
アウディの Q7


アメリカではアルファベット26文字のうち22文字が使われているそうです。


最も高級感のあるのが X
SやZも多いそうです。

X の使用は ジャグア〜 から始まったのかしら?笑


逆に使われないのは
O(オー) ゼロと混同するから
P     POOR とか PLAIN を連想させるから安っぽい
U
Y


また BやFやNも人気が無い文字なんですって。


車の好きな夫が申しますには
ニッサンの前に使用してた「ダットサン」というネーミングは非常に安っぽい音なんですって。
それで今ではニッサンと呼びますからイメージが良くなった、と。
トヨタもアメリカ人の耳には安っぽい名前なんですって。
それは「TOYOTA」が TOY (おもちゃ)という文字が入ってますから
トヨタの車には乗りたくない、と。


(でも、トヨタのMR2は素晴らしい車だったと認めています)


そうそう B が安っぽいと言われるのは 昔 ダットサンB210 とか呼ばれる車がありました。
サニーかしら?
私も「ダットサンのB210」ってビンボーな男の子が乗ってるイメージがあります。



Nは 「ノー」にも通じるし、昔「ノヴァ」という「走らない車」と揶揄されてた車がありますしね。
でもアキュラのNSXは年をとったら乗りたい車でした。
もう生産しないらしいですけど。
[73]田中愛造さんからのコメント(2006年07月04日 02時42分27秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
 車の話が出て(走らない車)??止まって仕舞いましたね。
 小生は、若い頃は裏でした。
 茶道のmannersには厳格な作法があり、小生も苦手な内の一つです。
 30年ほど前の事ですが、小生の師、吉川卓爾氏と京都本願寺飛雲閣に於いて、連枝の方より茶席に案内され、其の席では皆さん正座でした。私は(茶の味わいを深める意に於いて)胡座をかき安座で戴きました。吉川先生曰く、流石田中先生のご子息だ、昔の武士に似た立振舞いには感心したと、お褒め頂いたが、今に想えば、私の振舞を牽制し(礼を正せ)と言ったのかも知れません。其の後、ご門主の部屋に通うされお言葉を頂戴致したのだが、其の場では流石に正座を崩す事が無かったのを思い出します。
 吉川先生の書の中で「昔、当時新聞記者であった司馬遼太郎さんが御門主の取材の席で、(私の先祖も一向一揆衆に加わって居たのですと言うと、御門主は、其れはご苦労様でした)と答えられたそうです。
 四百何年も前の事を、さり気なく昨日のようにおつしゃられた御門主に、歴史は生きていると実感したとか」厳格な茶席の作法を、どの様に解釈すれば良いかは多種多様ですが、気軽にお茶を戴くのが(茶の湯の和みと考え)どの様な席でも遠慮しない性分ですが、心得としては礼節は重んじるが正しいと思います。
[74]GuessWhoさんからのコメント(2006年07月06日 13時12分44秒 ) パスワード

いやはや、車の話はすいません。実はそう詳しくないわけで。茶の、お話ならいける。
戦国期、秀吉の「中国攻め」で毛利氏は秀吉と直面する一方、西方、九州では大友氏が毛利氏に直接直面し、薩摩島津氏とも直面する大友氏は天正十三年(1585)、家宝の頼朝由来の「骨ばみ丸」と引き換えに秀吉に応援を求め、謁見するのである。いわゆる「九州征伐」である。
同十四年四月、大阪城に登城した大友宗麟(五十六歳)は秀吉(五十歳)に謁し、茶の利休居士と共に「黄金の茶室」での接待を受けるのだが、謁見の一部始終を国許の年寄、古壮丹後入道、葛西周防入道、斉藤紀伊入道の3人に伝えている(大友文書)。以下、同文書を基に。

登城を許されると、幅九間の座敷三間が襖が開けはなたれて大広間となっており、秀吉はその最上の間の主居に座を占め、その脇に秀吉の舎弟秀長、そして宇喜田秀家ね細川兵部入道幽斎、長谷川秀一、宇喜田忠家が順次居並んでいた。次の間に大友宗麟は座を与えられ、彼の次に前田利家、安国寺恵珪、前田玄以、利休居士と座を占めた。

秀吉の着衣についてみると、肌には紅の小袖を、その上に唐綾の白小袖を重ね、袴を身に着けていた。袴の地の色はよくわからなかったが、紫や玉虫色の模様が描かれていた。足袋は赤地の金爛に練縫のものであった。

一同皆脇差を外し、そこで酒・菓子、茶の接待に与った。この後、秀吉から茶室に案内された。茶室は三畳ほどの狭いものであったが、天井・壁の他、障子の骨に至るまで全て黄金で光っていた。室内の茶器は、これまたほとんど黄金でできていた。

秀吉は宗麟に好意を感じたものと見え、彼に「宗滴は茶は好きか」と尋ねた。宗麟が答えるより早く、利休がひきとって好きである由を述べると「さらば一服たて、休庵へ参せん」として秀吉は見事な手さばきで茶を立てて宗麟に与えた。彼はその半分程を飲み、残る半分を召し連れていた数名に分け与えた。

くつろいだ空気となり、秀吉は雑談や戯言(ざれごと)などをこぼした。宗麟に友情さえ感じた秀吉は次いで天守閣を案内しようと言い出した。・・・
[75]アカコッコさんからのコメント(2006年07月06日 18時52分51秒 ) パスワード

 お茶の話題が続いてますので表題のお人の話。

抹茶茶碗に似てますね。
 
 
「お茶は“表”でいらっしゃいますかそれとも“お裏”ですか。よくこんな質問を受ける。「いいえ、不調法です」「まあ、そんな、ご謙遜を」「いや、本当です」それでもしつこく食い下がられたときは、「強いてとおっしゃられるなら“奥流”です」と・・・

江戸時代でも“表御殿”に対するのは“奥御殿”であり、私の幼時獲得概念でも“表”に対するのは“奥”つまり“私事”であって“裏”ではなかったから、その洒落のつもりなんだが滅多に通じない。

と言って袱紗捌きがどうの、“裏”ではどうの“表”ではどうのと云った“お点前”や“お作法”を憶える気は起こらないし、第一、畳の上に座るのは大の苦手だから、細かな点前の規則だの流派だのの生まれる前、茶席でも正座でもなく立膝でよかった頃までの“お茶”を守備範囲とすることにしている。

 感想:さすが物事に拘らないお殿様ですな
[76]GuessWhoさんからのコメント(2006年07月07日 14時38分08秒 ) パスワード

茶の話からはちょっと離れますが、前から気になっていたが、こちらのサイトは家系図のお話が多いですが、自身の固有の御先祖というのは江戸時代中期あたりまででせいぜい。8代もさかのぼれば・・・と申されておりますが、1代前で2人、2代前で4人、・・・とくれば、13代前あたりで一万人を突破、22ー3代前あたりで1千万人を突破。大体500年前位で戦国時代となるから、戦国時代あたりまで御先祖をさかのぼると以降、爆発的に増えてしまう。源平時代だと、さらに400年さかのぼるから、果たしてかなり古い先祖がどうのというのは意味があるのだろうか?

最近の本で、非常にさめた目で見る生物学者R.ドーキンスがその著書「利己的な遺伝子」で曰く、「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」。失礼、ロケットという乗り物では第二段jettisonに問題がありましたような。独立記念日めあて?それとも鎌倉時代の元寇のように気象的な影響を気にする現代の元寇は台風3号(神風)を前に?
[77]田中愛造さんからのコメント(2006年07月08日 03時21分40秒 ) パスワード

Guess Who様
 小生はそうは思わないです。
 物理・科学的理論はさて置き、現存する皇室は125代76世と云われて居りますが、是を換算すると約500該になります。然しながら「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」だろうか、この乗物の車輪が一つ欠けると現代に辿り着かない。言換えれば、500該の一人でも欠けるとGuess Whoさんや小生も存在しない事になります。自分だけの力で生きて来たのでなく、ご先祖に生かされて居ると考えれば、自ずと先祖の有難さや其の使命重さを実践すべきで、生きる価値が違ってきます。非科学的ではあるが、日本人の生き方かも知れません。私達が何処から来て何処え行くのか、ソクラテスの言葉に似た文言に問題が多いと思うが、先祖崇拝の思想は日本の古い教えでもあります。おこがましいくありますが、平熱論議に含む、悩める子羊の小生達の先祖探しを致しております。
[78]GuessWhoさんからのコメント(2006年07月08日 08時06分52秒 ) パスワード

いやはや、失礼。先祖物を御真剣に考えられているのには頭が下がります。あと、ここ掲示板では書き込んだ文だけなので、真意が伝わるかどうか、どうぞ、ナーバスにならぬようお読みください。

「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」というのは私の言葉ではないので同意するものではありません。ただそういった見方もできるとは考えています。私はテクノロジーに基づいた考え方をするようにしているし、そういった考え方を好む。たまに独善的といわれる事もあるし反発も多い。もちろん、御先祖の有難さを軽く見ている者でもありません。

先祖探しについては現代では商売でやられるかたもいるようなので、邪魔をするつもりは無いし、決して否定はしていない。大いにやっていただきたい、が、若干、やり方に問題があると考えている。科学的立場、事実に基づきたい。

因みに先祖に対する考え方としては、上にも言いましたように第1フィリアル F1、第2フィリアル F2と来ると10代前あたりまでが固有の御先祖、10−20代前はその地域固有共通の先祖、20代前以降は国内のかたなら日本人皆共通の先祖という見方になるのではないかと考えています。人の外観、特徴といったものは、よっぽど近い者でもない限り、「姓名」によるのではなく、どちらかというと地域による(私は生物系の者でないので、主張に若干問題あるかもしれない、なかなか難しい訳です)。

先祖崇拝の思想系についても書きたかったが、長くなったのでここで一旦停めます。
[79]GuessWhoさんからのコメント(2006年07月08日 08時35分20秒 ) パスワード

先祖崇拝については日本古来のものというよりも、私はこれは外来との雑種的な思想にあるのではないかと思っています。先祖崇拝は外国のかたもするはずであり、してきたはずであり、ただ、この主張を書くと長ーい。あまりに長い。

「私はテクノロジーに基づいた考え方をするようにしている」というのは自分で書いて、少しニュアンスが間違えてしまったと読み直し訂正。テクノロジーは好むという事に。
[80]GuessWhoさんからのコメント(2006年07月08日 10時53分34秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2008年10月26日 06時57分17秒
[81]田中愛造さんからのコメント(2006年07月08日 18時32分00秒 ) パスワード

 私こそ失礼な言葉でした。
 余り真剣では有りません、只の系図バカです。
 私にはナーバスと云った言葉は存在致しません、御気を使って頂き有難く思います。真意は其の人の受け留め方に依り変るでしょうね、人は千差万別で、私などは双子の兄ですが弟とは全く違った容貌で、性格・生き方・背の高さ迄違います。
 科学技術を好まれるとの事、成る程私とは異なる思考をお持ちで、相寄れば面白く描けますね。
 世界の国々にも形が違うが、先祖崇拝思想や輪廻転生が良く見られます、土地・環境・主義思想に依って大きく様変わりしますし、又、日本人自体、北方系或いは南方系のルーツを辿れば自ずと見えてくるのも否定出来ません。仰る通り、長い〜長い〜問題点です。
 子孫と先祖の(気)・・に関しては、朱子学理念(性即理)理気二元論や万物霊を申し上げると、ナショナリズムに迄行きそうで止めます。過去に平熱で書きましたがコメント削除致しました、何故なら天皇論(践祚のしくみ)先祖霊の魂の遷し方迄書き、畏れ多く自戒に帰しました次第です。又本題から異なる方向に・・
 Guess Whoさんは天児屋根命のご子孫とか、天子様とは時として同じ流れの家柄で、何度も日本を変えて来た一族ですね。
 此れからも宜敷くご教導の程。
[82]GuessWhoさんからのコメント(2006年07月09日 09時50分10秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2008年10月26日 06時58分32秒
[83]田中愛造さんからのコメント(2006年07月11日 02時37分20秒 ) パスワード

 夏祭りシーズンになると、大阪府下全域の調整に入り、我家の猫(ガンジー)に手を貸せと言いたい心境です。 
 さて、Guess Who様の明言通り、共通と考えるのが妥当でしょう。
 日本の家系図体系はリーダーの正当性に意味し、朱子学の発祥である南宋以後貴族社会の崩壊があった中国と違い、我国では昭和の御世まで貴族構成が成された由縁であり、一系正統を重んじたと思います。男系社会を主にした日本や朝鮮の系図を見ても、本来アジアは母系主体のはずが、社会構造の形成により正当化する仕組を表す必要があったと考えます。
 大化の改新は其の要素として明治維新の大改革にも見られます、大和朝廷と渡来帰化人の勢力は物心両面文武に至り、其れを如実に表しています。
 古事記・日本書紀と云った古い代表書物も、(其の後、幕府と島津に依って琉球の歴史が改竄され、闇に葬られた)のと同じで、大化以前の皇統年代も曖昧で大臣馬子の仕業とされ、皇統本紀(特に神話)でさえ無理な年代にし見る影も無い。
 
 俗に貴族或は武家の末路として流刑にされし人々の系統は、非人呼ばわりされ多くの差別社会に組込まれたのも事実にある。
 秦一族に関して云える事は、すでに秦熱で書かれている如く、皇室自体にも言える問題で、自論ではありますがイスラエルの民に迄発展致します。多くの日本人はユダヤの血受継ぐものと・・(是を語れば長く、又今の私に口に出来ない事情もあります)
 暇潰しのギャンブラー様が語られている(究極の選択・・2006.6〔95〕)では、ジャマイカ黒人女性の話に、5代前スコットランド人の血が混じり貴族の子孫だったと、大変裕福な華族だったのでジャマイカ女性は財産の受取る資格が有ると??
 科学的に解析すれば細胞内ミトコンドリア遺伝子の距離に如何様に解釈するかは専門に託すとして、日本の家系図での追求は、其処まで至らないのが実情と考えます。
[84]田中愛造さんからのコメント(2006年07月11日 02時45分17秒 ) パスワード

是正  裕福な家族の間違いです。誤字深謝。
[88]アカコッコさんからのコメント(2007年10月19日 10時20分51秒 ) パスワード

徳川さんの常識がどんなものか確かめに『大徳川展』に行ってきました。

上野東京国立博物館(10・10〜12・2迄)

【将軍の威光】・【格式の美】・【姫君のみやび】という三のテーマ構成で、将軍家・尾張・紀伊・水戸の徳川一門のゆかりの作品や太平の世に開花した美術・工芸の粋、また各地の東照宮に伝えられてきた美術・歴史資料など等々を一堂に結集展示とのこと。

どこの展示会でも大勢の人々が見学に来るように、今回も沢山の男女がみえておりました。

例によって、見学の方はそこそこにして、売店において、「大徳川展図録」をウン千円で買い求め、家でゆっくりと読んでいるところです。

パンフを見ると、会期中3回に分けて、作品の展示替があると記載があり、どれが、どの期間に展示されるか、いきなり行ってしまいました。

残念、本当は水戸黄門様の例の『印籠』が見たかった。今回の展示に入っていたのか、ザット見たので見落としたか?。
[89]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月19日 11時02分44秒 ) パスワード

アカコッコさん

ステキですねえ〜
ゆっくりお読みになってくださいね。


こちらはロスで武具展をやっています。
入場料無料!
でも行けないのでガッカリです。


>会期中3回に分けて、作品の展示替があると記載があり

3回行けると良いですね〜
羨まし〜い!
[90]アカコッコさんからのコメント(2007年10月22日 07時41分40秒 ) パスワード

>3回行けると良いですね〜
 
そう思ったのですが、図録にはその3回分の出品が網羅されておりますので、あまり通わなくてもよさそうです。けれど出来れば、もう一回は空いた時を選んでゆっくり見学しに行こうかな。

「大徳川展図録の体裁はA4判310pで後ろの20pは英文での目録でした。良い紙を使用しているので、背の厚さ2cm以上でたいそう重く感じられます。

巻頭には主催者のご挨拶、続いて徳川恒孝氏(徳川宗家・財団法人徳川記念財団 理事長)、徳川義崇(尾張徳川家・財団法人徳川黎明会 会長)、徳川斉正(水戸徳川家・財団法人水府明徳会 会長)三氏の開催にあたってのお言葉。

 [15] より
>御長男は義崇氏だそうです。
『あとがき』にはその徳川義崇氏が執筆されており、「徳川さん宅(ち)の常識」の刊行決定の知らせは病床の父の元に届けられたそうです。
 執筆を自ら希望し、刊行決定の知らせに随分喜ばれたそうです。

今回徳川義崇氏の文章の記述に曽祖父義親氏が生活に窮した旧大名家が先祖伝来の宝物や道具を次々に手放し散逸していく中、大名文化を後世に遺すために全国の旧大名家に先駆けて、財団法人を創設、尾張家伝来の汁宝のほとんどをその財団に寄付したそうです。[15]にも書き込みました。
 
話は変わりますが、此間ある会員名簿(昭和35年度版)を見ておりましたら、徳川義親氏のお名前が、さらにか行には私の父の名前も記されておりました。

会員でもあり、末尾の頁には世話人名簿の方にも父の名が。

比べるにはおこがましいが、かたや徳川義崇氏のお家では曽祖父で、うちは父でしたので世代交代の時期が大分ズレているのをつくづく感じました。

ハッキリ言うと うちは時代遅れか(笑)。
[91]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月22日 08時38分40秒 ) パスワード

>此間ある会員名簿(昭和35年度版)を見ておりましたら、
>徳川義親氏のお名前が、
>さらにか行には私の父の名前も記されておりました。
>会員でもあり、末尾の頁には世話人名簿の方にも父の名が。


うわあ〜!
背筋がゾクゾクするような御縁であらっしゃいますね。

義崇氏と、御連絡がつきますように。


時空を超えてのエニシですねえ。
将来御子孫に御縁組があるかも知れませんね。

是非とも2回目をなさってください。


受付の方に御尊父様と義親氏のところをコピーなさってお渡しなさってはいかがでございましょう。
もしかしますとアカコッコさんのことを義崇氏に御連絡なさってくださるかも。

家康公ゆかりなんですもの。

受付のかたもまさか「ただのアルバイト」には思えませんから。


良いお知らせが届きますように!
[92]アカコッコさんからのコメント(2007年10月23日 07時40分13秒 ) パスワード

>義崇氏と、御連絡がつきますように

そんな大それた事は、義崇家は尾張藩主のお家柄、うちは貧乏旗本の成れの果てで住む世界が違います。でもズットうちは養子が入っていないので、血統的には家康公(華陽院殿)には近いかも?(笑)。

遠方でお出掛けになれない人にurlのご紹介。
『大徳川展』

  http://www.daitokugawa.com/

「展示解説」には出品目録(1章・2章・3章)があります。
 チョットご覧になって、目のこやしにしてください。

それでもモット 見たい方は会場に是非お出掛け下さい。

[93]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月23日 09時16分49秒 ) パスワード

>そんな大それた事は、義崇家は尾張藩主のお家柄

御尊父様と義親氏はきっとお知り合いまたはお友達でいらっしゃったでしょうし

尾張藩は1代おきに御養子さんをお迎えだってホンヤさんから直接お聞きしましたから
次のかたにバトンタッチなさいますでしょうし。


アメリカにお住まいの徳川家の御曹司は気さくな青年でしたよ。
すごい大柄でした。1m85ぐらいかしら?
ダンベルもって御旅行なさってて、さすが将軍家!鍛えてらっしゃいました。


義崇氏もきっときさくな方だと思いますよ。
[94]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月23日 09時35分27秒 ) パスワード

先日放送になった会津の容保公の肌身離さず首にかけていらっしゃった孝明天皇の御親筆。


この公開もやっぱり高須兄弟のよしみからでしょうね。


高須家とホンヤさんのことを考えてたらアカコッコさんからの書き込みがあって
なんという偶然!
ということで、結構、昔のよしみで義崇氏と御縁が改めてできそうですが。


元は堀田家のご出身ですもの
アカコッコさんと堀田家の方でも「昔のよしみ」がおありでしょうし
意外と世間は狭いと思いますよ。


そう言えば
ロスに徳川家達公の御子孫の女性がいらっしゃいました。多分90代あたり
お姉さま達がU家とどこやらにS家に?嫁いだとお話だったような記憶。
(聞いたのは20年前)

幕末って攘夷問題がありましたからヤヤこしいですね。
でもあのオバサマもきさくな方でいらっしゃいましたよ。


みなさん気さくな方達で意外でした。
[95]アカコッコさんからのコメント(2007年10月24日 10時24分34秒 ) パスワード

 >御尊父様と義親氏はきっとお知り合いまたはお友達でいらっしゃったでしょうし

そうであったら良いですね。

チョット調べてみました義親氏は昭和51年(1976)89歳でご逝去されておられ、35年(1960)当寺は73歳、父は37年64歳で没なので、当時62才であり、家来筋では対等ではお話はできないと思います。会員の一員としての面識があったとことは想像できます。

徳川元子著作『遠いうた―徳川伯爵夫人の七十五年』 (文春文庫) (文庫)

徳川宗英著作『徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話』 (文春文庫) (文庫)

深窓の徳川家のお家の人達が自らの生活や先祖様のことを語る時代になったのでしょうか。
うちなどは窓を開ければ、座敷から台所まですぐに見通せます(笑)


徳川元子様は以前勤務していた会社に年賀状の印刷など自ら頼みにいらしておられましたが、やはり気さくなひとで、昔のお雛様みたいな上品で面長なお顔立ちでした。

やはりこうして考えてみると、世間は狭い、色々の場面で遭遇していた訳になりますね。

[96]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月24日 12時26分22秒 ) パスワード

>世間は狭い、色々の場面で遭遇していた訳になりますね。

本当に!

ただ、遠慮があると申しますか、
>家来筋では対等ではお話はできないと思います
ついつい身を律してしまうと申しますか

ホンヤさんは「今は位階だの身分の差はないのだから」なんておっしゃってくれまして

こういうところが「実力のある家の人」はきさくで大きいなと思いました。


>会員の一員としての面識があったとことは想像できます。

できますね。


義崇氏のお父さまの2回忌がまもなくですよね。
昨年の11月でしたよね。
お参りできると良いですね。
[97]アカコッコさんからのコメント(2007年10月26日 14時11分13秒 ) パスワード

徳川元子著作『遠いうた―徳川伯爵夫人の七十五年』 (文春文庫) (文庫)
早速求めに行ってまいりました。

それと一緒にお世話の本『へんな細菌すごい細菌−ココまで進んだ細菌利用』中西貴之著も買いました。

公爵家・男爵・子爵家は宗家・御三家、その分家、伯爵家は御三卿のお家柄と思っておりましたら、その通リでした。

徳川さんの本の末尾には徳川・戸田・島津・大河内系図が。

元子様は戸田家からの徳川家達成氏にお嫁入り、達成氏の父達孝氏の妻は島津家からのお輿入れ、元子様の実父戸田氏秀氏は大河内家から戸田家にご養子でした。

田安家十一代宗英氏の弟さん宗広氏の職場はお得意様でお顔をお見掛けしたことがあります。

>やはりこうして考えてみると、世間は狭い、色々の場面で遭遇していた訳になりますね。

[98]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月26日 23時00分18秒 ) パスワード

>>やはりこうして考えてみると、世間は狭い、色々の場面で遭遇していた訳になりますね。

で、ございますねえ。


>田安家十一代宗英氏の弟さん宗広氏の職場はお得意様でお顔をお見掛けしたことがあります。

今でも続いているんですねえ。

でもやっぱり「徳川姓」を名乗りたかったでしょうね。

明治の時に「徳川」に戻すことも出来たのでしょうけど
それをしなかったというのが
吉宗の「次男の家」の「アイデンティティ」ということなんでしょうね。


やっぱり日本人は「家」とか「家格」とか「名」に縛られてしまいますね。
アカコッコさんの場合は特に縛られましょうね。

わたくしのような「馬の骨」ですと「ミーハー」できますが。


品性の問題ですね。恥
[99]アカコッコさんからのコメント(2007年10月27日 09時17分33秒 ) パスワード

チョット言葉が足らずでした。

徳川元子様の子供達が宗英氏、宗広氏です。

田安徳川家十一代を宗英氏が継いでおります。元子様と宗広氏にお会いしたのは別の会社に勤務してた時で年月日も違い場所も異なっており、まさかお身内であることなど想像だにもしておりませんでした。
 偶然か、必然か?こんなこともあるのですね。

>ただ、遠慮があると申しますか、
>家来筋では対等ではお話はできないと思います
>ついつい身を律してしまうと申しますか

そうですね、うちなんか長年の宮仕えでDNAに刷り込まれているみたいで、徳川家だけでなく、長くお家を繋いでいる人を尊敬してしまいます。

文中には義親氏のことがマタマタ登場。文中より

『義父達孝は宗武から九代目の当主で、華族令が発せられた時、伯爵の称号を与えられました。その兄家達公爵は十五代将軍慶喜のあと将軍家の養子になりましたが、義父の誕生日と先祖宗武の命日には必ず実家を訪ねて来て食事を摂るのが習わしでした。

田安家からは白河の松平の次男定信(楽翁)が、越前の松平家へ宗武の曽孫に当る慶永(春嶽)が養子に行って居り、その名は歴史上でも有名ですが、尾張、一橋などの家へもたくさん養子を出しているので、虎狩りで名高かった尾張の義親公爵が、その生前、「徳川家といっても、田安家の出のひとばっかりだね。」と言われていたのを記憶しています。

この義親も田安家から越前の松平家へ養子に行った慶永(春嶽)の九男でしたし、十五代将軍慶喜は水戸徳川斉昭の三男ですが、一橋の徳川家に養子に入り、その義父になった慶寿も田安家のひとでしたからそんなことをいったのでしょう』
[100]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月27日 14時48分22秒 ) パスワード

興味深いお話をありがとうございます。


>「徳川家といっても、田安家の出のひとばっかりだね。」

そうなんですか。
元々田安家の人は優秀な人が多いのかもですね。


徳川家の一族の中も「養子」で、なんとか「徳川家」を存続させているんでしょうね。


それにしましても本当に「実は!」「実は!」の驚きがありますね。
世間は狭いですね。
特に東京は。
[101]最初で最後のかきこみさんからのコメント(2011年04月26日 03時41分30秒 ) パスワード

>>入水(ジュスイ)とは楽しい水遊びを意味する言葉となるらしい。

!!!!!!!


ということは、九州、奄美方面に逃げ延びた平氏の人たちは、
昔の文章で、入水 とあり、解説には 飛び込み自害とされているが、
それは、入水(ジュスイ)とは楽しい水遊びを意味する言葉となるらしい。
入水(ジュスイ)=楽しいこと

つまり、飛び込んで逃げ延びたってことなんでしょうか。

そうなのかもしれません。

 昔の戦争慣れした人たちでしょう?

 忍者だっていたんだし、泳ぎくらい達者だったかも。

[102]最初で最後のかきこみさんからのコメント(2011年04月26日 04時51分14秒 ) パスワード

家紋のことしか考えてなかったので、なんだかここを読むと、敷居が高い気がしますが。
けれど、思ったことがあり。

>1973年迄?外貨持ち出し規制があってハワイに着いた途端にドルが底をついてしまった時代です
福原義春氏でも1960年代は悲惨なアメリカ生活を余儀なくされてました。

 そうなんですか。

 そのころ、私は吉祥寺で小学生をやっていました。

 それで、父は会社に勤めていたわけですが、

 海外に3ヶ月、会社から出張に行ってました。

 1974年以降だったんでしょうかね。
   
  けれど、会社そのものに勤めている人たち(社宅だった)

  のお父さんたちですが、海外から家族ごと転勤で戻ってきたとか

 (でもブラジルでしたっけね)

  ま、会社が大きかったので、そういう人がちらほらいました。

  私は、幸か不幸か家紋はともかく、全くの庶民なわけですが、

  私の感覚としては、その頃も、その後私がイギリスに短期でいった頃の
  
  80年代も、

  そして、ひたすら旅行をしまくった2000年以降も

  あまり感覚的な差を感じませんでした。


  その、ドル感ってものですね。

  今は、円がやたらと高くなりましたが、

  私がアメリカにいるせいなんでしょうか。


   と思うこともあります。


   私が行くところ、安くなるんでしょうか。

   庶民はつまらないですねえ。


   神パワーみたいなのが、私の周囲にはないのかもねえ。


   ところで、徳川の家の常識の話しは面白く読ませていただきました。

   私は、アンタイ天皇ではありませんが

   実は、とくに興味もないただの人であり、

   けれどその島津がらみの噂話的なというか、実話でしょうが、

   それは、ちょっと正直もううんざりかな、感があります。


   彼らも、普通の生活がありますのでね。

   まあ、プライバシーがあるかなあ、と思います。


   ご自身が本で書いている分には、まあ感想が出て当たり前でしょうけれどね。


    こう言ってはあれですけれど、

    たしかに不思議なパワーにとりつかれたように、

    3日前からこのスレッドに突然やってきた、通りがかりのものであり、

    家紋が丸に揚羽蝶だということが検索の理由でした。


     確かに不思議なことってあると思うのですが、


    私には正直、おつきの人あたりの話しや、そういう貴族的な話しは

    よくわかりません。


     商売やですけれど、祖母はそういう時代の人だから

    貴族じゃないけれど、やっぱり使用人的な人がそばにいないとダメですし、

   (今でも)当然お給料払ってますし、

    人種違いますが、夫もかなり自立したとはいえ(私の母のようですが)

    やっぱりそういう影響が生活に残っています。(我が家は貴族ではありません)

    夫の親戚にはヨーロッパの貴族の家に出入りする人の身分なんか持っている

    家の方々がいます。

    あの長いウイッグをつけて今でもそういう会合が、ロイヤルファミリーを
    中心としてあるんだそうです。

    昔の名残ですね。


     私は、丸に揚羽関係でここにやってきましたが、

    母のほうは、多分家老とかそんな感じ系だったらしく、

    いずれにしても、家系図がないし、本家じゃない。

    だから本当に好き勝手やってきた家です。

    ですから、暇つぶしさんが、名前のわりにかなりお高い感じなので、

     場違いを感じます。


    ただの感系ではなかったようで。ご無礼いたしました。


    ま、私の書き込みでお気を悪くされませんように。


     島津家の噂話は、母の日常会話などにも出てきていたので、

    それで庶民である我が家もお嬢様学校に子どもは入れたいとか、

   私は、なんだったか東京の某女学院みたいなところを受験しましたが、

   当然落ちました。(笑)

   なんたって当時高校中退っていうと、差別されましたからね。

    地方転勤後、なじめずに、というか体も悪く手術などしており、

    それでだったんですがね。

    差別しない名も無い地方の学校に行きましたが、

    それはそれで、発見がいろいろあり、

    今にして思うと、この家紋探しにつながってくる姓名を持っていた

    学友もいました。

    更に、今思うと、彼女はその平家落人村(熊本球磨)の出身であり、

    彼女は性格が都会からきた私に対して、やさしかったのですが、

    不思議パワー全開で私が子どものころ作った造語とか、

    そんなことを口走る不思議な人でした。


      あの頃は、UFOもオレンジなものを見ましたけれどね。

    金峰山にドライブしたとき、後部座席で見かけたのです。


     彼女も結婚して名字が変わりましたが、田代って人でしたっけね。

   この系図たどりを3日でするまでは、落人のことも、ただの昔話、

   伝説は嘘だと当時は思っていたし、本当でもピンと来なかったわけですが。


    ところで、夫の親戚のそのヨーロッパの伯爵みたいなくらいを

   持っているお家ですが、

    きっぷのいい、男まさりみたいな、言葉も乱暴で(笑)


    夫もそうですが、

    私と気があいすぎます。(笑)


    我が家はアメリカでちょっと問題でしょうが、

    声が大きく、議論しあいながら話す、議論がかみあわないと

    けなし合いなどになっています。

    身分のことを日本でここまでまざまざと見せつけられる世界ってのが

    あることをこのスレッドでまた学びましたが、

    まあ、ねじれっていうのは、身分違いのことを言っているのでしょうが、


    系図をたどると、元は全部ねじれまくってるとみました。

    外国から来た秦氏もこうじ屋さんだったわけでしょう?

    あ、私の話しは、皇族系貴族系とは比べ物にもなりませんが、

    結構不思議な話しが多いので、

    自分のところで続き書きます。


     お邪魔いたしました。


   でもひまつぶしさん、あなの過去の周辺はちょっと格好いいですね。

   本当にそう思いました。


    なかなか、その他大勢では経験できるものじゃありません。

  それから夫と私は、お互いの家柄を知っていたり、財産を

   知っていたりして結婚しているわけでもなく、

   最近の夫の稼ぎなどは、私の以前の稼ぎと同じくらいだし、

   また、私はもっと稼いでいた時期もあり、夫もそうであり、

   他人とは、適当なもので、その時にみた数字や額、大きさ、

   そんなもので人の関係をいろいろ詮索しがちですが、(日本人でもアメリカ人でも、

   誰でもそう)


    人のつながりなんて、簡単なもので、

   気があったから。

   UFOみたから。

   歴史を語るのが好きだから。

   魚が好きだから。


     そして我が家も、どっちが貧乏であるか、けなし合いの喧嘩をすることもあり。


   でも私がこんなこと書いたって、だれも興味無いから(笑)

   徳川家や島津家とは違い、話題にはなりません。

   

    
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