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 投稿番号:100911 投稿日:2006年06月03日 20時31分53秒  パスワード
 お名前:妹川
佐大夫宗信について

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

いつもこのサイトを楽しみに拝見しております。
ところで、「姓氏家系大辞典」に、「佐大夫宗信は、佐伯氏で、「源平盛衰記」に記載があり。」とありますが、この佐大夫宗信が何者か分かりません。膨大な量の源平盛衰記のどこに記載があるのか、源氏方なのか、平氏方なのか、本貫地はどこか、源平合戦後はどうなったのか、など史料等を見つけ出す事が出来ませんでした。厳島神社の神官の佐伯氏かとも考えましたが・・・。突然このような質問をして申し訳ございません。どうぞ、ご教示方よろしくお願いいたします。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 00時31分34秒 ) パスワード

平家物語巻4にあります。

今井四郎どのからの書き込みに先んじての書き込みお許しを:

第三十三句 信連合戦
宮は五月十五夜の雲間の月を詠ぜさせ給ふところに、「三位入道の使」とて、いそがしげにて消息持ちて参りたり。

 →→→ 宮の御乳人、六条の佐大夫宗信、これを取りて御前に参り、わなわなと読みあげたり。

「君の御謀叛、すでにあらはれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺へ入らせ給へ。入道も子どもひき具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。 宮は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける。


 →→→ 佐大夫宗信、直垂に玉襷あげて、からかさを持ちて御供つかまつる。鶴丸といふ童、袋にもの入れていただきたり。青侍の、女を迎へて行く様にもてなしたてまつる。 高倉の西の小門より出でさせ給ひて、高倉をのぼりに落ちさせ給ふ。


こんな感じで出ています。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 00時39分10秒 ) パスワード

→→→ 宮の御乳人、六条の佐大夫宗信、これを取りて御前に参り、わなわなと読みあげたり。

ここですが
わたくしの持ってる文庫本では

宮の御乳母子、六条の亮大夫宗信、これを取りて御前に参り開いて見るに、
「君の御謀叛すでに顕れさせ給ひて、土佐の畑へ遷し参らすべしとて、官人どもが・・・」
以下略

と書かれています。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 00時41分17秒 ) パスワード

佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門 佐家保子息也。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 00時53分58秒 ) パスワード

では該当「源平盛衰記」より。
重ね重ね今井四郎どの無断転載ごめんなさい。ぺこり
分かり易いように →→→ をつけておきました。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十三

新院自厳島還御事

治承四年四月七日、新院自厳島還御、以其次太政入道の御座ける福原へ御幸有て、八日被勧賞行。左少将資盛四位従上、丹波守清邦、五位上下也。今日福原を出させ御座て、寺江と云所に御留あり。

以下ちょっと略

P0320
前に、宮を取奉て、土佐の畑へ流し奉るべしとぞ被定ける。上卿には三条大納言実房、職事には蔵人左少弁行隆、別当平大納言時忠卿仰を蒙て、検非違使源大夫判官兼綱、出羽判官光長、博士判官兼成等を召て、以仁王を土佐の畑へ移奉べきよし仰含。官人の中に兼綱と云は、源三位入道の子息也。親父の入道が勧と云事をば、平家未知けり。急告んと思て、入道の本へ角と云。浅ましと云も理に過たり。即宮へ此由を申入けり。宮は五月の空の五月雨の、雲間の月を詠つゝ、御心を澄しうそぶいて、


何の行末も思召知らぬ折節に、入道の状ありとて、長兵衛尉信連取次て、

 →→→佐大夫宗信に奉る。披見れば、御謀叛の披露有て、官人兼綱、光長、兼成等御所に参り候、急ぎ御所を出させ給て、如意越に三井寺へ入せ給へ、入道も軈馳参候べしと申入たりければ、宗信こはいかゞせんと思て、御所に参り、わなゝく/\忍音に読上たり。


宮聞召あへず、御心も心ならずあきれ迷せ給ひ、こはいかゞ有べき、よき様に相計へ宗信と仰けれども、只振わなゝきたる計にて、申遣したる事なし。信連を御前に召て、然々の御事あり、計へとぞ仰ける。

此信連と云は、年来の侍にも非ず、此御所(有朋上P437)に候ける事は、本妻は日吉社の神子也けり。宮御所に候ける青女房に思付て、二心なく通ける折節候会たりける也。年来の者也とても、打解させ給ふべきに非ず、況かりそめの信連なれば、御慎み有べきにてこそ在けれども、俄事也ける上、信連心際さか/\しかりければ、かく仰けるにこそ。信連は蒙仰、痛く御騒あるべからず、別の御事候はじとて、局町に走入、女房の薄衣一面、笠取出して、宮を女房の形
P0321
に仕立進せて、

 →→→佐大夫宗信にけしかける直衣小袴きせ奉、黒丸と云御中間に、表差したる袋持せて、御所を出し進する。俄忍の御事に、ゆゝしく計申たりけり。去ば余所目には、青侍体の者が、女を迎て行ぞと見えける。三井寺へと志、東山を差てぞ落させ給ける。


 →→→佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也。五月の空のくせなれば、雲井の月もおぼろにて、行さきも又幽也。三条高倉を上に出過させ給けるに、ひろらかなる溝あり。宮安々と超させ給たり。大路通る人立留てあやしげにて、はしたなく越たる女房かなとぞ、つぶやきける。佐大夫これを聞て、弥膝振心迷て歩れず、取敢ざりし事なれば、御所中などは取したゝむるに及ばず。希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被思召、御笛御琵琶御遊の具足、源氏、狭衣、古今、(有朋上P438)万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被思召けるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召て、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様にては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献之、宮御涙を流させ給ひ、よにも御嬉しげに被思召たり。信連二条川原にて申けるは、日来は何の所〔の〕浦までも御伴と存じ
P0322
候しかども、只今官人等が御所に参向はんずるに、物一言申者もなからざらん事、無下に口惜く覚侍。信連はいかになかりける歟、又臆病して逃けるかなど、平家の申沙汰せんも遺恨なるべし。弓箭取者の習、仮にも名こそ惜候へとて、暇を申ければ、宮は誠に申処さることなれども、汝に離れては痛く便なかるべし。野の末山の奥までも参らん事こそ本意なれと被仰下けれども、信連はいづくに〔て〕も、命は君に進せ侍るべし。なからん跡までも君の御為我ため、よき名をこそ残したく候へと、強て申しければ、力不及重て仰ける(有朋上P439)は、我とてもいつまでと思召ば、再び御覧ぜん事有難し、来世にこそ行会してと被仰もあへず、御涙を流させ給ければ、信連も消入様には覚けれども、角心弱ては叶ふまじと思切、涙を推て帰にけり。御所中走廻て、見苦き物ども取したゝめて後、青狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻著て、烏帽子の尻、盆の窪に押入て、狩衣の小袂より手を出し、衛府の太刀の身をば心得て造りたりけるを佩て、くらきこともなき剛者也ければ、唯一人中門の内にたゝずみてぞ、今か今かと待たりける。



詳しくは源平盛衰記に行ってください。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 00時55分43秒 ) パスワード

ここです。


http://j-texts.com/seisui/gs013.html


今井四郎どのには大変お世話になっております。
妹川さまも感謝は今井氏にどうぞ。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 01時16分10秒 ) パスワード

佐伯氏なんですか?その辺りは分かりません。

あとは田中先生や7000傑氏やその他有志の方がフォローしてくださいますので
待ってください。


わたくし的には
佐伯氏は古代豪族。
弘法大師さまが本名「佐伯真魚」さえきのまな  ですね。

平安時代ですとやっぱり厳島神社の佐伯景弘になりますか。
うちの遠い親戚の神主さんがやっぱり佐伯氏でした。
とすると藤原系?


よく分かりません。
[8]妹川さんからのコメント(2006年06月04日 05時45分57秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様、今井四郎様大変お世話になっております。この度は、有難うございました。
ところで、暇潰しのギャンブラー様からご教示いただいた内容によれば、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保の子供であるようですが、そうすると佐大夫宗信の「佐」は、左衛門佐(すけ)家保の子供である佐(すけ)大夫宗信と呼ぶことになるのでしょうか。別のサイトには、「亮(すけ)大夫宗信」とありました。
「姓氏家系大辞典」には、(さ)項目に、
「佐(さ)は、佐伯氏の略ならん。又源平盛衰記に佐大夫宗信あり。「近江守になり。郡輔とぞ云いける。」と見ゆ。」
とあります。この佐伯氏の佐大夫宗信と、暇潰しのギャンブラー様からご教示いただいた佐大夫宗信とは、同一人物と見てもよいのでしょうか。
[9]takahiroさんからのコメント(2006年06月04日 08時40分46秒 ) パスワード

ギャンブラー様 お久しぶりです。
妹川様、はじめまして。

「左衛門佐家保」についてですが、この人物はおそらく藤原家成の父、藤原家保の事ではないでしょうか。

尊卑分脈では、藤原家保の七男が宗保(従四位下左衛門佐号八郎大夫)、その子が宗信(改邦輔)、その子が宗季と続いています。

源平盛衰記の
『佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也』
とは、正確には、
『佐大夫宗信と云は、六条宰相家保卿の孫、左衛門佐宗保子息也』
が正しいのではないでしょうか。

尊卑分脈に「佐大夫宗信」の官位官職は記載されていませんが、おそらくこの「佐大夫」とは「五位左衛門佐」から呼称されているのではとも推測されます。
[10]妹川さんからのコメント(2006年06月04日 11時52分26秒 ) パスワード

takahiro様、この度は、大変お世話になりました。
宗信は、藤原氏なのですね。思い切って、お尋ねしてよかったです。
今後とも、このサイトを楽しみに拝見したいと思います。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 12時23分26秒 ) パスワード

takahiroさま

さすが!
助かりました。

官位のことなどtakahiroさまぐらいしか分からないのでは?と
わたくし達には門外ですものね。
[12]妹川さんからのコメント(2006年06月04日 13時12分53秒 ) パスワード

takahiroさま
官位のことがお詳しいとのことで、大変失礼ですが、思い切ってお尋ねしてよろしいでしょうか。
武士の名乗りの排業に「佐」が付いていることがありますが(例えば佐太郎)、私は、藤太郎が藤原氏を指すことがあるように、排業の上に付いている「佐」は、佐伯氏を指すものと思っておりました。しかし、「五位左衛門佐」から呼称されていることもあるのでしょうか。例えば、左衛門佐の子供の佐太郎ということもあるのでしょうか。
全然、このサイトと関係のない事をお尋ねして申し訳ございません。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 15時03分05秒 ) パスワード

排業?

排行のこと?
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 15時16分47秒 ) パスワード

排行のことでしたら「まぎらわしい」としか言えないと思います。
それが定説だったように記憶しています。


NHKのアナウンサーかしら?
伊藤源太という(なに?この人の親)と思ってしまう
非常にヤヤコシイお名前の方がいらっしゃいますよね。

普通源太は源家の長男という意味ですけど
梶原家も息子を源太なんて名づけてますよね。

我が家の叔父も源氏じゃないのに「源治郎」というのがいます。笑


それから「親が佐だったから長男に佐太郎」というのはありますし


「佐伯姓だから」そこの長子で「佐太郎」というのもあったのでしょうね。


小太郎というのは長男が夭逝して次の子につけたなんて聞いてましたが
親が太郎だったから、その子、ということで小太郎と名づけたというのもアリ
なんて聞きました。


日本は名字も名前も名乗りもテキトーに勝手につける国民性なんですよね。
それに当時は漢字もテキトーに使ってましたし。

さらに書き写す段階でも変わってしまいますし。


専門家でないと困る質問と思います。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 15時35分24秒 ) パスワード

もしかして妹川さんは、この「佐大夫宗信」の御子孫ですか?

佐大夫宗信についての詳しいことは以仁王関連の研究書で調べていくより方法はないのでは?と思います

もし御子孫でしたら、
本家になる御家に伝わる家書しか参考にならないと思いますよ。


takahiroさまの
>「左衛門佐家保」についてですが、この人物はおそらく藤原家成の父、藤原家保の事ではないでしょうか

というのが1番妥当な答えと思います。


他には田中先生の御臨幸に期待する、ですね。
それか7000傑氏、ですね。
[16]妹川さんからのコメント(2006年06月04日 15時46分26秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
大変失礼をいたしました。
残念ながら、佐大夫宗信の子孫ではありません。平家に興味がある一国民です。平家と関係がある厳島神社の佐伯氏の事を調べていましたら、姓氏家系辞典に佐大夫宗信の記載があり、厳島神社の佐伯氏と関係があるのか調べようと思いましたが、なかなか分からず、思い切ってこのサイトにお尋ねしたしだいです。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 15時52分02秒 ) パスワード

ハイコウのことが出てたので気になるので1筆:


伯(孟)・仲・叔・季の順ですよね。
このことですよね、ハイコウは?

ハイギョウでしたら全く知らないのでごめんなさい、ワタクシの勘違いです。

ハイコウのことは漢文の授業で習ったあたりなので、あの程度の知識しかないです。



そうすると「佐伯」の「佐」と「伯」の使用が矛盾するのでは?と思うのです。


「五位左衛門佐」の「佐」の場合は「スケ」と読むと思うのですが。助とか輔とかの類。
[18]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年06月04日 16時11分16秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

本邦姓氏学の泰斗である太田亮博士の著書「姓氏家系大辞典」にも誤りや誤植と思われる箇所が存在します。
これもその一つではないでしょうか?
 
「尊卑分脈」の「藤原氏末茂孫」条に、
末茂─総継─直道─連茂─佐忠─時明─頼任─隆経─顕季─家保─宗保─宗信(改邦輔)─宗季。
「姓氏家系大辞典」の「佐」条に、
又源平盛衰記に佐大夫宗信あり。「近江守になり郡輔とぞ云ける。」と見ゆ。
 
「姓氏家系大辞典」の郡輔は誤記と思われ、邦輔と同一人物です。
また宗信の母は藤原氏京家の中宮亮藤原仲実の娘であり、「源平盛衰記」の佐大夫宗信も左大夫宗信の誤記と考えます。
しかし左藤と佐藤が存在する様に、一概に誤記とは言えない面もあります。
亮大夫宗信の表記は外家の祖父の官職の中宮亮からでしょう。
従って父母ともに藤原姓で「姓氏家系大辞典」の佐伯氏説は誤りと考えます。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 16時55分24秒 ) パスワード

吾妻鑑1192年 (建久3年 壬子)


7月26日 丙申
  勅使廰官肥後の介中原景良・同康定等参着す。征夷大将軍の除書を持参する所なり。
  両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡の廟庭に列び立ち、使者を以て除書を進すべき
  の由これを申す。三浦の義澄を遣わさる。義澄、比企左衛門の尉能員・和田の三郎宗
  實並びに郎従十人(各々甲冑)を相具し、宮寺に詣で彼の状を請け取る。景良等名字
  を問うの処に、介の除書未だ到らざるの間、三浦の次郎の由名謁りをはんぬ。則ち帰
  参す。幕下(御束帯)予め西廊に出御す。義澄除書を捧持し、膝行してこれを進す。
  千万人の中に義澄この役に応ず。面目絶妙なり。亡父義明命を将軍に献りをはんぬ。
  その勲功髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せらる。
  除書に云く、
    左少史三善仲康           内舎人橘の實俊
    中宮権の少進平の知家        宮内少丞藤原の定頼
    大膳の進源の兼光          大和の守大中臣宣長
    河内の守小槻廣房(左大史の任を辞す)尾張の守藤原忠明(元伯耆の守)
    遠江の守藤原朝房(元陸奥)     近江の守平の棟範
    陸奥の守源の師信          伯耆の守藤原宗信(元遠江) ←←←←
    加賀の守源の雅家          若狭の守藤原保家(元安房)
    石見の守藤原経成          長門の守藤原信定
    対馬の守源の高行          左近将監源の俊實
    左衛門の少志惟宗景弘        右馬の允宮道式俊
      建久三年七月十二日
   征夷使
     大将軍源の頼朝
   従五位下源の信友
  左衛門の督(通親)参陣、参議兼忠卿これを書く。将軍の事、本より御意に懸けらる
  ると雖も、今にこれを達せしめ給わず。而るに法皇崩御の後、朝政の初度に、殊に沙
  汰有って任ぜらるるの間、故に以て勅使に及ぶと。また知家が沙汰として、武蔵の守
  の亭を点じ、勅使を招き経営すと。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月04日 17時03分10秒 ) パスワード

恥ずかしいので書き直しです:


[16]妹川さん

でしたら 尚更 takahiroさまが1番ここではお詳しいことになりますね・・・・


佐伯景弘は古代の佐伯直の子孫で更に平景弘とも称しますねえ。
(平家の軍事部門を担当してた藤原忠清一族も「平」を称してましたから同じですね)


織田信長の家は神主で、だから藤原姓かと思いましたが後に平姓を称していますね。
これは征夷大将軍は源平どっちかじゃないといけないそうで。

秀吉も明智を討ってから織田信長の後継者として「平姓」を賜ってますね。
その後、藤原姓を経て朝廷から豊臣姓を賜ってますね。



佐伯姓に戻りますと佐伯は古代の氏姓制度の古い古い姓ですよね。
連とか宿禰とか直とか。
佐伯部なんてありましたよね。

その景弘が清盛と結んで平姓を称した。「安芸守」にも就任してますしね。



標題に戻って「佐大夫宗信」について
「佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也」
とありますから「藤原氏」ですね。


ですから

>源氏方なのか、平氏方なのか、

これについては「反平家方」ですね。以仁王の乳母(の夫か子)ですから。
ですから「源氏方」。


>本願地はどこか?

七千傑さんが「近江」とお書きですね。


>源平合戦後はどうなったのか

吾妻鑑に「伯耆の守藤原宗信(元遠江)」となってますね。



>「姓氏家系大辞典」に、「佐大夫宗信は、佐伯氏

よく分かりませんが、
親は藤原貴族なのに子は古代豪族の佐伯氏?
これって変じゃないですか?

彼が親から独立して「佐伯」を名乗ったなら、本姓藤原・俗姓佐伯となります。
この場合は古代豪族の佐伯氏の名を使っただけですよね。
それか厳島神社の佐伯氏出身の母親か妻が佐伯氏。
可能性は広がります。


七千傑さんが両親ともに藤原姓とお書きですから、それで良いと思います。
が、昔は身分の洗浄が行われましたから、母が藤原氏の養女になったり融子になった
というのも考えられますね。



源平盛衰記は現代のルポルタージュみたいなもので
面白おかしく書かれているんです。
週刊誌ネタみたいなものですね。
だから資料としては2流以下です。



私の親戚の佐伯氏とは関係無いようでちょっとガッカリしました。


さきほどアップしてから確かめたら時間差で日本の苗字七千傑さんの書き込みがありました。
感謝です。近江守でしたか。

takahiroさま および 日本の苗字七千傑さんの御蔭でかなりハッキリしてきましたね。

あとは田中先生にも書き込んでいただけるといいですね。


他の方もよろしく!
いろいろな情報をお願いします。

これで今夜は枕を高くして眠れます。午前1時をちょっと過ぎたところです。
[23]妹川さんからのコメント(2006年06月04日 17時04分43秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
さすが、なるほどと思いました。悩みが一挙に解決した感じです。本当に有難うございました。「姓氏家系大辞典」にも誤りや誤植があるのですね。

暇潰しのギャンブラー様
お忙しいにもかかわらず、大変お世話になりました。素人調査ではなかなか真実が見えてきませんが、今回の御教示のおかげをもちまして、よく分かりました。
[24]takahiroさんからのコメント(2006年06月05日 02時27分58秒 ) パスワード

妹川様

 今朝は外出前に投稿しましたので、その後質問を受けながら返信できませんでした。ギャンブラー様、日本の苗字七千傑様のその後の御投稿により妹川様の疑問点はほぼ解明されたようですね。

 以下、重複しますが少々補記します。

 『新潮日本古典集成・平家物語(上)』によると、「六条の佐大夫宗信」の脚注に以下のようにあります。

 <藤原氏六条流。左衛門佐宗保の子。中御門中納言家成の甥に当る。以仁王の生母成子とはまたいとこ。その縁で母(藤原仲実女)が以仁王乳母となっていたのであろう。のち以仁王薨後、邦輔と改名。…>

 
*最後に「六条の佐大夫宗信」の出自である家保流藤原家と平家一門の関係について少々記します。

 佐大夫宗信の父宗保は、中御門中納言家成の弟に当り、この家成の娘が平重盛の正室。その子が平清経、有盛、師盛、忠房。

 家成の子、隆季の嫡男・隆房は平清盛の娘を正室とし、隆衡をなし、この流れが後の四条家。

 家成の子成親の娘のうち二人は各々、平維盛、清経の正室となり、また成親の嫡男・成経は、平教盛の娘を正室とす。

 家成、宗保の父、藤原家保の正室は藤原隆宗娘であり、この隆宗の子宗兼が平忠盛の正室・藤原宗子の父に当り、宗子(後の池禅尼)は後、家盛、頼盛をなす。

 

 
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月05日 07時50分42秒 ) パスワード

takahiroさま

>でしたら 尚更 takahiroさまが1番ここではお詳しいことになりますね・・・・

さすが、面目躍如の「丁寧で親切」な書き込みでございますね。
一族が平家に連なる藤原家というのが良く分かりますね。


→→→宮の御乳人、六条の佐大夫宗信、これを取りて御前に参り、わなわなと読みあげたり。

何故「わなわなと読みあげた」のか宗信の立場が良く分かりますね。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月05日 08時14分55秒 ) パスワード

以仁王は後白河天皇のお子様とはいえ生母の身分が摂関家出身ではなかったので
それで冷遇されていた。
   自分の財産である土地を召し上げられたり
   皇位後継者指名レースからも外され(安徳天皇が皇太子になり3歳で即位)
平家に対して不満があった。


宗信はそういう以仁王に仕えていた。


源三位頼政がやはり平家に対して不満を持っていたので以仁王と頼政が謀叛を企てた。
しかし漏れた。
追っ手が来た。
信連が以仁王に女装させ逃がした。

信連は捕らえられ死罪になるところを許され伯耆国に流された。
後に源氏の世に能登国を賜ったそうです。


以仁王は追いつかれて射られ落馬し首をとられた。

乳母子の宗信は池に飛び込んで浮き草で顔を覆って以仁王が戸板に乗せられた運ばれるのを
こっそり見ていたそうです。
この池は平安時代「贄野の池」と呼ばれる景勝地だったそうです。今はないそうです。
[27]今井四郎さんからのコメント(2006年06月05日 13時24分02秒 ) パスワード
URL=http://www.cometweb.ne.jp/~asa/

「贄野の池」の場面は非常に有名です。

*広本系

長門本(国書刊行会蔵本)より

佐大
夫宗信は、馬よわくて、宮の御ともにもえ参りつか
ず、さがりたりけるが、後には敵すでにせめかかり
たり、せん方なくて、二井の池の南のはたの水の中
に入て、草にて顔をかくして、わななきふせりける
が、軍兵どものけかぶとになりて、道あらそひて、
P292
いくらともなく馳行ありさま、おそろしなどはいふ
ばかりなし、宮はさりとも今は木津川を渡らせたま
ひて、なら坂などへはかからせ給ひぬらんと思ひけ
るに、浄衣きたる死人の首もなきを、たごしにのせ
てかきて通りけるを見れば、宮の御むくろなり、御
笛を御腰にささせ給へり、はや討れさせたまひけり
と見参らせければ、やがてめもくれ、心も消えはて
て、いだきつき参らせばやと思ひけれども、さすが
走りも出られず、その時は命はよくをしかりけるも
のかなと身ながら覚えける、御笛は御秘蔵のさえだ
なりけり、此笛を我死にたらば、必棺に入れよとま
で仰られけるとぞ、のちには人々かたりける、佐大
夫は、夜に入て池の中よりはひ出でて、はうはう京
へ帰りにけり、かひなき命ばかり生きて、五十まで
よるかたもなかりけるが、正治元年に改名して伊賀
守になりて邦輔とぞ申ける、此宗信は、六条宰相宗
保の孫、左衛門佐宗光の子なり、

延慶本より

さだいふは馬よはくて、宮のおんともにも
P1781
参りつかず。うしろにかたきはせかかりければ、ちからおよばずして、馬をすてて、にえののいけの南のはたの水の中に入て、草にておもてをかくして、わななきふせりければ、ぐんびやうどものけかぶとにて、われさきにとはせゆく。おそろしさ、なのめならず。「宮はさりとも、今はこつがはをばわたりて、ならざかへもかからせたまひぬらむ」とおもひける程に、じやうえきたるしにんのくびもなきを、かきて通りけるをみれば、宮の御むくろ也。おんふえおんこしにさされたり。はやうたれさせたまひにけりとみまゐらせけるに、はひいでて、いだきつきまいらせばやとは思へども、さすがに走りもいでら
P1782
れず。命はよくをしきものかなとぞおぼえける。御笛はごひさうのさえだなり。「『このふえをば、わがしにたらむ時は、必ずひつぎにいれよ』とまでおほせられける」とぞ、佐大夫はのちに人に語りける。佐大夫は夜に入て、いけの中よりはひいでて、はふはふ京へ帰りのぼりにけり。せんかたもなかりけるが、しやうぢぐわんねんにかいみやうして、いがのかみになりて、くにすけとぞなのりける。

*語り物系

百二十句本(国会図書館本) 巻第四より
 宮の御乳母子に六条の佐大夫宗信は、ならびなき臆病者なりける
が、馬は弱し、敵はつづく、せんかたなさに、馬より飛びおり、新
羅が池に飛び入りて、目ばかりわづかにさし出だしてふるひゐたれ
ば、しばらくありて、敵、みな首ども取つて帰る。その中に、浄衣
着たる人の首もなきを、蔀に乗せて舁いて通るを、「たれやらん」
と思ひて、恐ろしながらのぞいて見れば、わが主の宮にてぞましま
しける。「われ死なば、御棺に入れよ」と仰せられし小枝ときこえ
し笛も、いまだ御腰にぞさされたる。「走り出でて、とりつきまゐ
らせばや」とは思へども、恐ろしければかなはず。ただ水の底にて
ぞ泣きゐたる。敵みな過ぎてのち、池よりあがつて、濡れたるもの
P1359
ども絞り着て、泣く泣く京へむかひてぞのぼりける。

平家物語 城方本(八坂本)巻第四より

なかにもみやのおめのとご、六
でうのすけのたいふむねのぶは、てんがだい一のだいおくびやうしやなりければ、みやはうたれさせたまひしかども、じがいをもせずうち
じにをもせで、むまにまかせておちゆくほどに、むまはよわしかたきはちかづく、かなはじとやおもひけん、にいのが
いけにとびいつてもひきかづき、めわづかにみいだしてぞゐたりける。いけのはたをうちすぎうちすぎしけるかたきのなかに、はるか
にひきさがつて、五百きばかりうちとほりけるかたきのなかをみけるに、じやうえきたまへるひとのくびもなきを、しとみの
もとにかいてとほる。あれはいかにとみたてまつるに、これぞわがしうのみやにてわたらせたまひける。われしなばご
くわんにいれよとおほせなりしこえだときこえしおんふえも、いまだおんこしにぞさされたる。やがてはしりもいでて、とりつき
P204
たてまつらばやとはおもひけれども、それもさすがおそろしければ、ただみづのそこにて、かはづとともにぞなきゐたる。
かたきみなうちとほりてのち、いけよりあがり、ぬれたるものどもしぼりきて、ゆふべにおよんでみやこへいる。にくま
ぬものこそなかりけれ。

広本系は、「命はよくをしきものかなとぞおぼえける。・・・とぞ、佐大夫はのちに人に語りける。」と、宗信自信の懺悔談ですが、語り物系の多くは、「臆病者」、「にくまぬものこそなかりけれ。」と批判しています。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月05日 14時18分47秒 ) パスワード

今井四郎どの
ありがとうございます。


>正治元年に改名して伊賀守になりて邦輔とぞ申ける、
>此宗信は、六条宰相宗保の孫、左衛門佐宗光の子なり、


昔の人の名前はころころ変わりますし、混乱しますね。


>語り物系の多くは、「臆病者」、「にくまぬものこそなかりけれ。」と批判しています。

でも出自が貴族ですから。
[29]田中愛造・多聞さんからのコメント(2006年06月10日 02時18分12秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様 
 只今、クルンテープより10日振りで帰りました。
 最近は平熱日照りでしたが、多くの諸氏各位の名が拝見出来、活気が戻り何よりです。takahiro氏・日本の苗字七千傑氏・今井四郎氏の懇切丁寧な御明言には畏れ入って居ります。
 鎌足より16代宗信(邦輔)に関しては、11代頼任(右衛門佐)15代宗保(左衛門佐)が佐を名乗っており、他は、宗保が兄の宗房だけですね。「尊卑文脈・系図纂要・宮廷公家系図・他」平家との関係には可也浸蝕が見られますね。
[30]田中愛造・多聞さんからのコメント(2006年06月10日 02時27分04秒 ) パスワード

訂正
 宗保が兄の家房でした。コートーナクラップ?
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月10日 02時54分40秒 ) パスワード

おやおやタイにいらっしゃってましたか。
暑かったでしょうね。

もうちょっとタイに長居してらっしゃってたら
天皇御夫妻と同時期にタイにいらっしゃることになったんじゃないでしょうか?


お元気そうでなによりでした。
[32]妹川さんからのコメント(2006年06月10日 19時48分36秒 ) パスワード

お礼を申し上げるのが遅くなりました。今回は、各方面の先生方にご教示いただき、本当に有難うございました。お陰で、疑問が解消できました。やはり、専門に研究なさっている方にお尋ねしてよかったと思いました。
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