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 投稿番号:100897 投稿日:2006年04月30日 02時19分52秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
桑名藩士情報検索:その他加賀藩高槻藩

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

桑名藩士についての情報は桑名市中央図書館にて。

[1]アカコッコさんからのコメント(2006年05月05日 19時35分40秒 ) パスワード

ご案内有難うございました。

 連休中はどこも混雑なので検索しました。

 桑名市立中央図書館のHPは
  下記アドレスです。

 http://kcl.city.kuwana.mie.jp/annai_PFI.html

桑名市博物館所蔵品や桑名市立中央図書館デジタル化資料など多彩です。
所蔵品の方には鉢・碗・書画などが画像で見られ居ながらにして形や色調など満喫でき目の保養になります。
 
 デジタル化資料の方には、会津藩関係や御家譜・桑名志、桑名藩の『家中屋敷割(寛政四年)藩士の氏名等か閲覧できます。但し全部筆文字ですが、画面上の「虫眼鏡マーク」で拡大すれば結構判別でき、画面の上下・左右などで楽に読めます。

 『アクロバットリーダーのソフト』が無い人は最初の画面からインストールしてからご覧になれば問題なしです。

 大量の資料がデジタル化されており、全部閲覧するには大変だけど楽しみです。桑名市は偉いの一言です。
 有難うございます。

 他の市でも同様の企画が早く進行すればと期待しております。

[2]アカコッコさんからのコメント(2006年05月05日 19時37分47秒 ) パスワード

 云い忘れましたが。

 圧巻は「元御家人筋并御由緒有之家 仰御用相勤候家 附服部家略系」

 のなかに服部丹後・服部半蔵・服部家図・服部家系図抜粋など

 また「桑名藩家中御役順」にはそれぞれの役職に宛行われる役料などが克明に記載されております。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月05日 22時27分57秒 ) パスワード

アカコッコさん

フォローアップ
ありがとうございます。
スレッドを上げて良かった。
[5]アカコッコさんからのコメント(2006年05月13日 15時36分44秒 ) パスワード

 他の図書館について検索しました。

石川県立図書館ホームページは下記アドレスです。

 http://www.library.pref.ishikawa.jp/

やはり古文書がデジタル化されておりました。

  http://www.library.pref.ishikawa.jp/ipl/dglib/index.htm

其の中に加賀藩士の侍帳がありました。(慶長・元和・寛永:寛文等々)
 
『慶長10年利長様富山へ召連れし候人々』など初期の侍名があり時代ごとの何千石から何百石までの多数の記載があります。

上段に毛筆書、下段には活字化されておりスグレ物。



[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月13日 21時13分21秒 ) パスワード

おおっ!
ありがとうございます。

前田さまは今でもスゴイですねえ。
検索する者の味方ですね。

どこやらの大藩は該当者の子孫にしか教えてあげないよ式ですのに。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月15日 00時22分46秒 ) パスワード

アカコッコさん

金沢出身の友人より:
御先祖さまらしき人物を発見
という連絡を頂きました。


ありがとうございました。
[8]アカコッコさんからのコメント(2006年05月16日 07時17分56秒 ) パスワード

>金沢出身の友人より:御先祖さまらしき人物を発見という連絡を頂きました
 
良かったですね、毛筆書の先祖名を見出すことは感激ひとしおですね。
お役に立てて幸せです。

加賀藩の侍帳にはまあ良く此れだけの苗字があるかと言うほど記載があります、
百万石の家臣なら関が原時代の軍役でいうと万石あたり250人前後、戊辰戦争の頃仙台藩63万石が出陣したのが8000人で万石あたり150人ですので、百万石×250としても、・・・私には計算できないぐらいの多数であることが分かります。
 
そこで時代が落ち着いてきた寛文11年侍帳の登場人数を調べるとおよそ千五百余です。同じ苗字(多分同族)が重複しておりますが尾張から召し連れた人々に加え現地で新たに召抱えた人々も多数居られると推察されます。
 
松田さん服部さんのお名前もアチコチに。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月16日 07時57分21秒 ) パスワード

アカコッコさん

友人は「大変だった」と言ってましたよ。笑
でも名前を見つけられて
「金沢に行かなくっちゃ」
と旅行を考えているそうです。笑


実際に先祖の名前が見つけられるなんてラッキーですよね。
分かってても、実感として先祖を感じられるのですから、いいですよね。
[10]さんからのコメント(2006年05月19日 11時26分55秒 ) パスワード

何処のスレッドに書いて良いのか迷いましたが、アカコッコさんが出ていらっしゃるので、とりあえずこちらに。
桑名藩士と関係ないのですが、失礼します。m(__)m


アカコッコさん、どうもご無沙汰しています。

以前、私の父方の祖母の実家・山藤家(旧・摂津高槻藩士)の話をした時、
アカコッコさんのご親戚に山藤家へ嫁いだ方がいらっしゃると伺った記憶がありますので、一応ご報告を。

昨日、大阪府高槻市の教育委員会より、
しろあと歴史館特別展「永井家十三代と高槻藩」の図録を送って頂きました。
図録中の、高槻藩士の役職を記した史料(天保3年のもの:写真)の中に、
うちの先祖の名を見つけることができました。
・・・もう、一人で感動しまくってました(笑)。

「江戸御家老 山藤助之進」とはっきり読めます。
 ↑ 
高槻ではなく、江戸詰めの家老だったということですね。

他に、家臣の用いた馬印を図解で示した史料の写真もあり(おそらく江戸前期のもの)、
そちらには「用人」として「山藤求馬」の名も見られます。

アカコッコさんのご親戚と、うちの直接の関係は分かりませんが、
特に関西で「山藤(さんとう)」の名は珍しいようです。
やはり遠い親戚かも知れませんね。(^^)

山藤家が仕えていた高槻藩主・永井氏は三河出身で
(旧姓は長田。あの源義朝を尾張・内海で不意打ちして首取った人物の子孫です)
早くから徳川家に仕え、譜代大名として近畿に派遣されています。
始めは山城長岡藩で、その後高槻藩に移封されました。

以前書いたかも知れませんが、
山藤氏は藤原秀郷六男の末流といわれていて、秀郷と一緒に山城から下野に下向したということです。
今でも下野(栃木県)のすぐ隣、群馬県桐生市に山藤姓のお家がたくさんあります。

近畿周辺の山藤姓のお家を探したのですが、本当に少ないのですよ。
だからうちの先祖も以前桐生に居たのが、江戸初期に関東で永井氏に召抱えられて、近畿に移動したのかも。


暇潰しのギャンブラーさんのお友達の、

>「金沢に行かなくっちゃ」と旅行を考えている

という気持ちが良く分かります(笑)。
私も高槻に飛んでいきたい・・・特別展、今月いっぱいだし。
展示してある高槻城絵図(家臣の住居も詳しく記載。名前入り)を見て、
ご先祖様の家が何処にあったか確認したい・・・!

ええ、自由に動ける身分になったら、そのうちに・・・(泣)
[11]アカコッコさんからのコメント(2006年05月19日 12時38分48秒 ) パスワード

隈さん、ご無沙汰しております。

 隈さんがお元気で嬉しいです。山藤さんの情報有難う御座います。何かご縁を感じております。京都の山藤家とはあれから会う機会が無くて情報なしです。

 私の方は何とかやっております。六月には初内孫が誕生する予定で(80%男子との診断)これであと50年は家名存続かな?(笑い)。

 桑名図書館は懐かのjr・近鉄桑名駅から徒歩6分、国道1号線を渡りすぐらしいですが、弥富の服部家を訪れた元気(ファイト)はもういずこに。

 >もう、一人で感動しまくってました(笑)。
 >私も高槻に飛んでいきたい。という気持ちが良く分かります(笑)。

  ご先祖様の名前を見ただけでも感激するのは血が連綿と繋がっているからで(血のなせるワザです)、皆様も同感だと思います。

  華陽院殿で検索して頂けば私のHpが存続しております(あれから更新ナシ)。 御暇な折にも御笑覧ください。

 

 

 
[12]さちこさんからのコメント(2006年05月19日 13時04分16秒 ) パスワード

ギャンブラーさん、アカコッコさん。
ご無沙汰してます。
久しぶりに隈さんの投稿があったのでご挨拶にやってきました。

アカコッコさんにご紹介頂いた桑名藩の資料を活字化したものだと思うのですが以前長島の図書館で見つけました。

パラパラと見てたのですが、
これによると服部半蔵家が源姓になってたので何故だろと?

隈さん高槻ですか?
めぐりめぐってまた秦熱にたどり着いたりして(笑)



[13]さんからのコメント(2006年05月20日 12時11分46秒 ) パスワード

川口さん、お元気で何よりです。(^^)

結局私が自分の先祖の宣伝に現れたみたいになってしまってますが、
私も最近また、ご先祖様の「引力」を強く感じているようです。

高槻に要注目!だそうで(笑)。


さちこさん

> これによると服部半蔵家が源姓になってたので何故だろと?

高槻藩主の永井家も、平姓長田氏から大江姓永井氏に変えさせられましたからね・・・
家康が「家臣の先祖が、主君の先祖の宿敵じゃマズいから」って。
半蔵家も家康直臣だし、源姓に変えられたのかも。

ちょうど箱柳永田様(三河平氏・長田家)のスレッドが上がっていますね。

相変わらず来てるなぁ・・・平熱パワー(笑)

> めぐりめぐってまた秦熱にたどり着いたりして(笑)

そうなんですよ〜三嶋郡!(笑)さすが服部連発祥の地です。

それはそうと、上に書いた図録に出ている家臣の名を見ていて気付きましたが、
伊賀出身者と思しき人々が結構います。

服部、柘植、人見、高井・・・

うちのご先祖様が江戸詰めの家老だった時、高槻で家老職を務めたのは二人で、
そのうちの一人が柘植氏です。

・・・よく考えたら、永井家は家康の伊賀越えに付いていってたのですね。

http://www.ne.jp/asahi/ninja/kasa/igagoe/gakumon/ig-zuikou.htm

「永井直勝」が初代高槻藩主のお父上。彼の時、長田から永井に改姓してます。
他に同族と思しき「長田」さんもいますね。
高槻藩士の史料の方にも、長田氏の名が見られます。

しかも、家康嫡子の信勝が織田家に命じられて処刑された時、
服部半蔵は泣いて首を切るのを躊躇ったといいますが、
永井直勝の方も信勝の処刑後は徳川家を辞して、隠遁してたとか。
すぐに家康に呼び戻されたそうですが。

やはり二人は親しかったのかな?

っていうか、うちのご先祖様、伊賀出身者と知り合いだったのね。。。

微妙に桑名藩と繋がったかな?(^^;
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月20日 12時17分15秒 ) パスワード

さちこさん

お久です。
お元気そうでなによりです。



隈さん
タイトルに高槻藩も加えますね。
[15]さんからのコメント(2006年05月20日 12時34分52秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん

ありがとうございます。恐縮です。m(__)m
[16]アカコッコさんからのコメント(2006年05月20日 14時53分51秒 ) パスワード

わぁぃ〜 さちこさんのご登場。

 何年ぶりに同窓会に出て友人に会って感激したみたい。息災でなによりです。

 桑名図書館のデジタル化資料に

 『御当家 諸御役人方御差上先祖書之写并寺領之写』には八十名弱の先祖由緒書があり、左側には活字で、そこをタッチすれば夫々の家のご先祖様の毛筆での由緒書に飛ぶ・柘植さんのもありました。
[17]さちこさんからのコメント(2006年05月20日 23時57分44秒 ) パスワード

>わぁぃ〜 さちこさんのご登場。

アカコッコ殿。
私も色々懐かしいです。
初めて平熱でお会いしてもう何年でしょうか?

これからもよろしくお願いします。
本当に感謝してます。



>半蔵家も家康直臣だし、源姓に変えられたのかも。

そうですよね。
松平家は岡崎の伊賀八幡宮を氏神としてました。
松平家の初代が伊賀から岡崎に移したものとされてますが。。。
(深く突っ込みませんワ)←わかるやろ?

松平家と服部家は結構古くからの親戚かも?
服部家が平姓にすると松平家、徳川家が平家だったとばれるもんんね!

実は徳川家は平家だった!説はどうでしょうか?






[18]さんからのコメント(2006年05月22日 10時29分55秒 ) パスワード

> 実は徳川家は平家だった!説はどうでしょうか?

徳川家の方式で先祖を辿れば、源氏にも平氏にも行き着けそうですよね。(^^;
自分が都合の良い方を取ればいい、という訳ですね。
仕方ないから、家臣もそれに倣ったのでしょう。

調べてみてやっと気付きましたが、やはり江戸時代の高槻には《忍者の末裔》がかなりいたようですね。
昨日うちにある本を読み返したら、書いてありました。

************

(藤堂采女)元則・元住は伊賀全国の郷士(大半は忍者の子孫)をすべて調査・登録し、藤堂家に提供して「一朝有事」に備えた。
(中略)「伊賀付差出帳」は藩士の母衣(ほろ)組のほか、鉄砲組・忍之衆という項目まであるのが凄い。
江戸の隠密だけでなく、親藩にも忍者を提供する資料になったのではなかろうか。一例だが、摂津高槻藩永井家三万六千石の城下には伊賀町があり、家臣に柘植氏や服部氏もいた。
             〜「伊賀・甲賀忍びのすべて 新人物往来社」 より

************

特に初期の徳川家は朝廷との仲がうまくいってなかったこともあり、
畿内を監視しておく必要性を強く感じたようです。
伊賀者だけでなく、甲賀者も多いですね。
高槻藩士の姓の中に、甲賀五十三家の姓と一致するものがちらほら・・・

もっとも、永井家が高槻入りする前にこの国を治めたのが、
和田惟政・惟長親子や、高井右近だったせいもあるでしょうが。
(和田氏が甲賀出身なのは周知の通り。 高井右近の生まれは高槻の奥の豊能郡高井 ですが、先祖は甲賀高井出身では、との説有り)
二人はキリシタン大名でしたね。お陰で当時の高槻は、洗礼を受ける庶民が続出したとか。

さすが秦氏の集まる土地だなぁ・・・って、やっぱり話題が秦熱に戻ってきてる。(爆)
[19]箱柳永田さんからのコメント(2006年05月22日 23時45分33秒 ) パスワード

>徳川家の方式で先祖を辿れば、源氏にも平氏にも行き着けそうですよね
 > 実は徳川家は平家だった!説はどうでしょうか?

 この方式ですと、津嶋大橋家や川口さん、長田はまさしく南朝征夷大将軍の
末裔として源姓を名乗れますね(皆さん平氏に価値をおいてますが)

 桑名の中世 網野善彦著 において 
 益田庄(現桑名市の一部)を 藤原頼道に(長田)平致経が寄進してます
   
 余談です  
 母の姉が嫁いだ家は、知多師崎の衣川家(家康を伊勢から迎えた漁師の末裔と最近確認できました)です
(戦友に生きて帰ったら嫁にやると兄が勝手に決めたと伯母が言っていました)  偶然にしてもビックリするような縁です。
[20]さんからのコメント(2006年05月23日 12時49分18秒 ) パスワード

箱柳永田さん、こんにちは。

直接「お話」するのは初めまして、でしょうか?
別スレッドでお名前は拝見しております。

上に書いたように、私の先祖が高槻で永井家にお仕えしていたので、ご縁を感じています。(^^)

> この方式ですと、津嶋大橋家や川口さん、長田はまさしく南朝征夷大将軍の
> 末裔として源姓を名乗れますね(皆さん平氏に価値をおいてますが)

確かに、どちら側に価値を置くかで名乗る姓も変わってしまいますね。
よく「あの家は○○姓を名乗ってるけど、仮冒だ」などといいますが、
実際、全くの詐称は少ないのでは。
・・・ちょっと無理して傍系から辿っただけなのでしょうね(^^;

ただ、平熱常連の皆さんは名乗った姓に係わらず、
先祖を辿ると何故か平家・南朝・反信長方に行き着いてしまうようですけど。(^^;;

> 偶然にしてもビックリするような縁

そんな縁に引かれて、ここに集まって来られた方が多いですね。


ついでに私も余談です。
つい先日思い出したのですが、私が昔通っていた関西の某予備校に「永井先生」がいらっしゃいました。
確か、当時の友人が言っていました。
「先生のご先祖様って、お殿様だったらしいよ。」

・・・って事はもしかして、うちの先祖が仕えてたお殿様!?

当時は「へぇ〜」とだけ答えて、そのまま忘れてたけど。
今考えると、まさしくすごい偶然です(笑)。
[21]さちこさんからのコメント(2006年05月23日 23時45分26秒 ) パスワード

箱柳永田さん。

師崎に衣川家というのがあるのですか?

キヌガワと読んでいいのでしょうか?
私の母の妹がが衣川家に嫁いでるのです。
大阪の八尾市です。

私の母方の祖父は福井県の敦賀の寺の次男でした。
細川家で家紋は九曜紋です。

衣川というのは結構珍しい苗字だとおもいます。
八尾の衣川と師崎の衣川どういうご縁があったのでしょう?
本当に不思議なご縁です。びっくりです。

隈さん。

尾張平野は昔ほとんど海だったと他のスレッドで書いたことがあったのですが、


大阪も同じなのです。

http://blue.ap.teacup.com/wakkyken/354.html ←(見てね。見てね!)

勝手にリンクしていいのかな?
いけなかったらごめんなさい。

高槻は服部連塚関係だけでなく、
闘鶏山古墳(闘鶏と書いてツゲ読むのです)もあります。

服部家、柘植家と昔から何らかの関わりがあったと思います。

すぐ近くの寝屋川市には秦川勝の墓もあり秦氏と関連深いのは間違いないです。

この地形といううか立地条件、
長島、桑名によく似てるのです。

「もともと四天王寺は聖徳太子建立の、本邦最古の寺院であり、浄土教におけるメッカのような聖地だったのである。室町時代の大阪は『上町台地』という南北にかまぼこ状の台地があり、その西端は海岸線であったという。その上町台地の南の端の丘陵の上に四天王寺がそびえ立っていた。つまり、海路日本に到着したとき、大阪湾に入ってまず目に入ったのがこの堂々たる伽藍の屋根だったのである。いわば、ニューヨークにおける『自由の女神』のようなランドマークだったわけですね、四天王寺は。その台地が西に急峻な坂となって海に落ちたその海岸線が今日の松屋町筋(『まっちゃまちすじ』と読む)。そののち台地の北端に石山本願寺が出来て、ここに浄土信仰の二大カテドラルが台地の南北に峨々として屹立することになったのである」

四天王寺と石山本願寺を浄土信仰の二代カテドラルというのは、
面白い表現だと思います。
[22]さちこさんからのコメント(2006年05月24日 00時04分40秒 ) パスワード

徳川家平家説ですが、
伊賀服部家としては言ってやりたいこともあるということです。

ぼちぼちとね(笑)

現在の岡崎市も大阪や尾張と同じ条件です。
岡崎が海岸線だったとは現在は考えられないですが、
字の如く崎、半島の先だったのです。

[23]箱柳永田さんからのコメント(2006年05月24日 02時29分35秒 ) パスワード


 さちこさん
 >八尾の衣川と師崎の衣川(きぬがわ)どういうご縁があったのでしょう?
 その辺は調べないと判りませんが、私の記憶では家紋は 隅切りの四角の中に 三つ輪違い(少し変形)だったと思います。
 昔は(15,6年前)えびせんべいを製造販売していました。

 本願寺について//www.bigai.ne.jp/~miwa/miwa/kayakumino.html(三輪先生無 断ですみません) ここに、火薬製造のさきがけが本願寺であることが、書か  れています   
 火薬の純国産には 硝石が欠かせないが、出来ることが証明されています 
  私は、戦国時代の認識が、一変しました。
 
 隈さんへ
  >実際、全くの詐称は少ないのでは 
 母系社会から父系の社会への切り替えが長期(数百年)にわたり行き来しな がら父系に統一されたと思います、当然 有力(と思われる)方を名乗ると思 います、そこを考慮しないと 皆(天皇家を除く)仮冒になります。
 
[24]さんからのコメント(2006年05月26日 09時48分35秒 ) パスワード

> 母系社会から父系の社会への切り替えが長期(数百年)にわたり行き来しな 
> がら父系に統一されたと思います、

なるほど、元々日本が母系社会だったことを考えると、当然の流れですね。


> 尾張平野は昔ほとんど海だったと他のスレッドで書いたことがあったのですが、
> 大阪も同じなのです。

昔の大阪の海岸線を見て、思わず「日本沈没」の予告を連想してしまいました(笑)。

大体海岸線は時代が下るにつれて沖へ移動するのが自然でしょうけど、
備後(福山)の服部周辺も同様で、昔は「穴の海」と呼ばれていて、
今の平野部はほとんど海か沼地だったらしいですよ。
実際、服部村のすぐ近くまで船で行けたそうです。
現在の町の様子からは想像できません。

やはり、そういう交通の要所に配置されたのが服部氏だったということですね。


> 服部家、柘植家と昔から何らかの関わりがあったと思います。

かつては船便で連絡取り合っていたのでしょうね。


そうそう、桑名藩の服部半蔵家のことで、一つ。
バーバラ寺岡さんが、ご自分のご先祖様の事跡を綴った本、見ましたか?

「幕末の桑名 近代ニッポンの基礎を築いた桑名のサムライたち 桑名市教育委員会出版」

私はちらっと立ち読みしただけですが(^^;

寺岡家は旧桑名藩士だそうで、幕末の古写真も紹介されていました。
その中に、十三代服部半蔵正義氏が一緒に写ったものがありました。

へぇ、こんなお顔だったのね、としげしげ眺めてきました(笑)。
額が広くて、目鼻立ちは整ってましたよ。
[25]さちこさんからのコメント(2006年05月27日 22時22分01秒 ) パスワード

箱柳永田さん

>私は、戦国時代の認識が、一変しました。

ありがとうどざいます!
三輪先生とはお知り合いでか?

三輪先生の故郷、上石津は伊勢と美濃の境です。
長島一向一揆時代の長島城主の服部家の墓のある藤原町上相場とはお隣という感じです。

上相場には三輪さんが多いです。
家紋は抱き茗荷です。
元は同じ一族だったかもしれません。

上石津町←(今は大垣市になったかも)

ここは平家の落人伝説があります。
五箇山も平家の落人伝説があり火薬製造と平家という妙な繋がりがありますね。

平家落人伝説のある上石津時山に平家館というバンガローがあります。
このバンガローの案内図の写真があるので(ずっと下のほうです)見てください。
         ↓

http://www.ne.jp/asahi/kimagure/sanpo/yamaarukihen/mikuni-eboshi/mikuni-eboshi.htm

笑っていのか泣いていいのやら?




      




 
[26]さちこさんからのコメント(2006年05月27日 23時02分57秒 ) パスワード

隈さん。
高槻のことで話がずれるのですがというかいつもずれすぎ?

これ読んで下さい。


http://www.chunichi.co.jp/hold2006/essence2/060222T0943.shtml

「古代、伊勢と三河を直接結ぶ「海の道」があったらしいことが近年の研究で明らかになってきた。経路は不詳だが、このフェリー航路に近いルートも想定できるとする元国学院大教授で古代道路研究の第一人者、木下良(83)は「7世紀後半までには存在していた可能性が高い」という。

 東海道には、弥次喜多道中で知られる近世の「東海道」と、8世紀初頭、律令(りつりょう)制下で規定された七道の1つの「東海道」がある。だが、さらに以前に、自然発生的にできた「古東海道」とも言うべきルートがあり、畿内から伊勢湾西岸に出て、この「海の道」を通る道筋で東国へ通じていたとする考えが、専門家の間でも市民権を得てきているのである。

 東海の古代史をテーマに議論を続ける「春日井シンポジウム」で事務局を務める大下武(64)は、伊勢湾口を船で渡るルートは、既に6世紀ごろには存在した可能性を考える。伊勢と、海を隔てた東三河では、当時の古墳から、同じ副葬品の飾大刀(かざりたち)や畿内系の石室が帯状に多く出土しているのに、西三河や尾張には乏しいというのが理由の1つだ。

 さらに「畿内から東国へ行くのに、わざわざ遠回りして内陸部の尾張を通る必要はないのでは」と大下。というのも、古墳時代の海岸線は、現在は内陸部である岐阜県大垣市の南方や、愛知県津島市付近まで達し、湾奧がずっと深かったと推定されるからだ。

 歴史学者の故網野善彦は、かつて、春日井シンポで「現在のわれわれからは想像もつかない河と海に恵まれた地域」と語っている。濃尾平野は、近世以降、内陸的で豊かな農業地帯といったイメージでとらえられてきたが、もとはむしろ、もっと海や川が身近な「河海の世界」だったというのである。」

上記は二月頃の中日新聞の記事です。
伊勢の人間からすれば何を今更こんなことという感じもあります。
私の住む北勢からは名古屋は見えないけど、
知多半島、渥美半島は海岸に行くと見える。

中日新聞のこのシリーズ尾張氏のことや、
他にも面白いことがあるので時間があれば読んで下さい。

少し尾張中心なので伊勢人としては反論もありますが。


>幕末の桑名 近代ニッポンの基礎を築いた桑名のサムライたち 桑名市教育 委員会出版」

どこかで見ました。
でもこの本ではないかもしれません。
バーバラ寺岡さんが桑名藩士の御子孫で先祖が半蔵家と写ってる写真。
私はこの時どれが半蔵かわかりませんでした。
だからこの本とは違うのかな?

でもどこで見たのかな〜?
記憶がない。

幕末の桑名。
あまり知られてないけど激動の時代だったみたいですね。



   
[27]さんからのコメント(2006年05月31日 12時24分09秒 ) パスワード

さちこさん

海の道は「古代の高速道路」だった、といいますものね。

尾張氏の記事も読みました。
私としては「尾張氏が純粋な土着の豪族だった」というのはちょっと異論あり、かな
(笑)。
大和の高尾張出身かどうかも分からないけど。


ちなみにバーバラ寺岡さんの本の表紙はこちらです。

http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31693986

> 幕末の桑名。
> あまり知られてないけど激動の時代だったみたいですね。

高槻藩も譜代藩でしたから、倒幕にはかなり抵抗があったようです。

実は最近になってやっと「ラストサムライ」をレンタルDVDで見たのですが(笑)、
渡辺謙が演じる「武士の最期」を見て何だかしんみりしてしまいました。

幕末を私達の先祖は、どんな想いで迎えたんでしょうね・・・
[28]さちこさんからのコメント(2006年06月04日 23時13分20秒 ) パスワード


>ちなみにバーバラ寺岡さんの本の表紙はこちらです。

そうでした思い出しました。
中日新聞の記事で本の表紙を見たのです。
半蔵のことも書いてありましたが幕末の桑名藩士とだけしか注釈がありませんでした。

見てきましたというか長島の図書館にこの本見っけ!
半蔵の顔もしっかり確認。

>へぇ、こんなお顔だったのね、としげしげ眺めてきました(笑)。
 額が広くて、目鼻立ちは整ってましたよ

ふっふっ。。←(謎の笑い)

ビジュアル的というかぁ〜。
服流イケメンでは長島の服部家の勝!
証拠の写真はないけど(笑)


高槻辺りはは川の流れが集中しているのです。
これは長島が木曽川や長良川に挟まれ、
木曽、美濃の支流の川が集まってるのとよく似ているのです。

川が交通網だった。


何故秦氏が山城に拠点を持っていたか現在では不思議に思うのですが、
現在の淀川から伊賀方面へと続く川がある。

古代の海の東海道、
家康の伊賀越えルートと殆ど同じと考えてもいいみたいです。

[29]さんからのコメント(2006年06月06日 10時55分01秒 ) パスワード

> 服流イケメンでは長島の服部家の勝!
> 証拠の写真はないけど(笑)

え〜見たかったなぁ、写真が無くて残念!(笑)

> 高槻辺りはは川の流れが集中しているのです。
> これは長島が木曽川や長良川に挟まれ、
> 木曽、美濃の支流の川が集まってるのとよく似ているのです。

なるほど・・・
備後の服部も、規模は小さいものの同様の地形だったらしいですよ。
以下、地元図書館の資料からの抜粋です。

****** 

現在の府中市は、大化の改新(645年)により国府が設置され、当時は備後国の政治、経済、文化の中心であった。
したがって、その国府から朝廷に向かう街道が府中、新市、駅家、神辺、井原につながっていた。
けれどもそれ以前は、この一帯は、府中市の一部まで「穴の海」と呼ばれており、
現在の新市町、駅家町、神辺町の平野部の多くは海もしくは沼地であった。
その「穴の海」には芦田川、神谷川、有地川、服部川、加茂川、箱田川、高屋川などが注ぎ込み、
それらの川は、今の平野部までは葦や萩の生い茂る一帯を流下していた。

〜「服部百年史誌」より〜

******

「駅家町」というのがほぼ旧服部村に重なります。

やはり服部氏の配置された場所は、川の合流点が多かったというわけですね。
朝廷から海・河川の流通を任されていたということが分かります。

最近調べていて、服部村に「賀茂氏」の影が重なるのは何でかなぁと思っていましたが、それも納得。
川の合流点を祀るのは、賀茂氏の役目ですものね。(^^)


そうそう、忍者発祥の地は伊賀ではなくて、淀川河畔だという説があるらしいですよ。
継体天皇に仕えていた馬飼部が、天皇の行幸についていっては待機中に相手の情報を仕入れ、天皇のお耳に入れていたのだとか。
馬は4、5世紀になって半島から輸入されたので、飼育も手馴れた渡来人が行っていたようです。
昔、馬を飼うのは河畔が多くて、今でも河辺に「牧」の付く地名が多く残っています。
馬飼部は身分は低かったのですが、継体天皇は彼らを優遇したため、彼らも天皇のために献身したのだそうです。


ほんと、高槻ってなかなか面白い場所です。
調べていたらいろいろなことが見えてきます。

今、高槻から得られた情報を元に、服部氏のルーツについてあれこれ考えてます。

・・・私が思うに、物部氏系の阿刀連は、服部連に近いかも。

神服神社の南方に、阿久刀(あくと)神社というのがあります。
祭神については諸説ありますが、「阿刀連」の祭った神ともいわれています(住吉明神)。
すぐ傍を流れる芥川は、あくと→あくた、と訛ったものだとも。
また、高槻城は、近藤阿刀連忠範が築いた居館が始まりだそうです。

かつては祭の時に神服神社と阿久刀神社の間を神輿が渡ったそうで、双方の深い繋がりが窺えます。

それと、服部氏と賀茂氏の繋がりも結構重要かもしれないです。

賀茂氏と阿刀連に共通するのは、天皇や物部氏の「ナビゲーター」として働いたこと。
賀茂氏は「出雲系」として知られてるけど、あんまり出雲に限定して考えないほうがいいかも知れないと、最近思ってます。
[30]さちこさんからのコメント(2006年06月11日 18時16分48秒 ) パスワード

信長公記に長島のことがこう書かれてます。

「河内長島と申す者は隠れ無き節所なり。
 濃州より流れる川数多、岩手川、真木田川、くんぜ川、山口川、飛騨川、
 木曽川、養老滝、この他山々の谷水の流れ末にて落合大河となって、 
 長島の東北西五里三里の内幾重ともなく引廻し、
 南は海上漫々として・・・」

いくつもの川、万の川が海に集まってる。
まさしく「万川集海!」
何故忍術書が海?川?と不思議でしたがもしかしたらこれかも?

服部家の好む地形だから。

大阪湾と伊勢湾を結ぶ場合伊賀は分水嶺と言うか船便が利用しにくい。
伊賀が中継地となりますよね服部家が伊賀を拠点としたのはこのため?


>川の合流点を祀るのは、賀茂氏の役目ですものね。

京都の山城町と加茂町が合併して木津川市になったみたいですが。
木津川は八幡市で淀川と合流して高槻へ流れてますね。
なるほどよく出来てる。(笑)
木津川は伊賀から流れてる見たいですが服部川と繋がってるのかな?
一度調べてみます。

あっ!
鴨が家康しょってきた!



松平家発祥の地は三河の加茂郡松平郷。
徳阿弥と言う僧が松平家に婿入りしたと言うことですが。

賀茂神社と言えば葵紋。(二葉葵)
徳川家が何故葵紋にしたのかは不明ですが、
賀茂神社と関係あるカモということで。
実は徳川家は賀茂氏だった説もあるみたいですね。

まだ書き足りないですが今日は大河ドラマ本能寺の変なのでこのへんで。
舘ひろしさんの信長いいですね(笑)

舘さんは元はやはり四日市の出だそうです。
おばあさんのうち知ってる書きましたが、
あの辺りだとやはり阿倉川城主の一族ですね。
舘ひろしさんのご先祖信長に焼き殺されてますな。。。

だから気合入ってたりして。


[31]さんからのコメント(2006年06月13日 11時05分58秒 ) パスワード

>まさしく「万川集海!」

>服部家の好む地形だから。

こういう水資源が豊富な地形は、いろいろな産業を興すのに向いてるってことですね。

きれいな水の流れを利用して、絹織物生産(撚糸、染付け)とか、酒造りとか・・・
しかも、出来上がった製品はすぐに船便で送れる。

秦氏らしい着眼点だわ・・・(^^)

今、私の先祖調べの一環で「三嶋(嶋上)郡の清水氏」を調べてますが、
水資源の豊富な地域に住んだことからついた姓であることは確かでしょう。
実際、近隣の摂津富田には、豊富な水脈を利用して酒造業を営んだ清水家があり、
服部村との関連も気になるところです。


>木津川は伊賀から流れてる見たいですが服部川と繋がってるのかな?

一足お先に調べてみました〜
しっかり繋がってるだけでなく、盛んに利用されてたみたいですよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D_ (%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C)

木津川という名は昔、源流に近い伊賀の山々から大阪方面へ木材を流して運んだことからついたとか。
奈良時代創建の寺は伊賀の木材が盛んに使われたそうで、東大寺の例が有名。

江戸初期には伊賀上野藩主・藤堂高虎が塩の備蓄を命じて、はるばる瀬戸内の赤穂から塩を運ばせたらしい。
大阪の商人と契約して、船便で大阪湾から木津川を遡上して伊賀まで運んだのですって。

赤穂から伊賀って・・・やっぱり秦氏ネットワークだよ(^^;


>賀茂神社と言えば葵紋。(二葉葵)

あ〜そうだ、忘れてた。徳川家と賀茂神社は葵紋繋がり、でしたね。
それで服部半蔵と主従関係だったのか(笑)


>舘ひろしさんのご先祖信長に焼き殺されてますな。。。

・・・そうか、すごい因縁(汗)
[32]さんからのコメント(2006年06月13日 11時10分18秒 ) パスワード

あ、上のリンクがうまく入らなかった・・・

「ウィキペディア」の「木津川(京都府)」を参照して下さい。m(__)m
[33]さちこさんからのコメント(2006年06月30日 22時05分07秒 ) パスワード

隈さん。
書き込み遅くなってしまいました。

>一足お先に調べてみました〜
 しっかり繋がってるだけでなく、盛んに利用されてたみたいですよ。

ありがとうございました!
伊賀で川はイガいでした。

地図を見ていると色々妄想が広がりますね。

服部川がどこから流れているか調べたら平田家の大山田村を通って長野峠ですな。
長野峠を境に伊勢側は長野川になり現在の津市、安濃津から伊勢湾に流れてます。

この長野は源氏系の長野氏からとったものでしょうね。
壇ノ浦の戦いの後長野氏が支配していた地域ですから。
と言うことは以前は違う呼び方をしてたんですよね。
なんだったんだろう?

安濃津は清盛のお父さん忠盛の生誕地とされ平家発祥の地でもありますよね。

上に書いた伊賀から伊勢、三河への古代からの海のルートは、
服部川から安濃津へでて東国へが主要ルートだったのでは?
それを平家が支配したのでしょうね。

安濃津は津波で寂れていって桑名、白子等が主要な港になったとされますが、
津波より長野氏が原因かも?

平氏系でこのルートを利用出来なくなった服部家は東国へ向かうのに、
北伊勢、尾張ルートを使用した。
これで北伊勢、尾張に服部家が多いのかも知れません。

この長野川の下流に半田という地名もあります。
やはり秦氏もちらつきますね(笑)

松平家にゆかりのあるのは矢作川でしょう。
矢作川を上流に上っていくと矢作川と明智川に分かれてるのです。
というか明智川が矢作川に合流してるのですが。
この明智は勿論明智光秀の領地明智町から流れてるから。
何かドラマがありそうですね。
裏の大河ドラマ(笑)

以前近江八幡に行って水郷巡りをしました。
近江商人発祥の地ですが勿論秦氏とゆかりのあるところです。
よく似てるんですよ長島あたりと。
低地で葦原になっていてそこに水路が張り巡り航路になっているのです。

昔の淀川から山城、京都もきっとこんな感じかな。

そういえば久留米も同じような条件ですよね。


[34]さんからのコメント(2006年07月14日 12時22分48秒 ) パスワード

さちこさん、こちらもご無沙汰してました。

最近パソコンルームが暑くて、長居できない〜(@@;)
今日は観念して、クーラー入れてます。(笑)


>伊賀で川はイガいでした。

ね〜イガいでしょ(^^)
伊賀ってやっぱり凄い場所ですよね。
服部一族もダテにこの地を選んだわけじゃない。
山奥の田舎と侮る無かれ。各地から情報・物資の行き交う場所だったのです。


>低地で葦原になっていてそこに水路が張り巡り航路になっているのです。
>そういえば久留米も同じような条件ですよね。

昔の日本にはこういう場所、たくさんあったってことなんでしょうね。
今は埋め立てられてるからピンとこないけど。

筑後川といえば柳川の水郷巡りが有名だけど、中流域の久留米南部(三瀦郡)も水路が多いです。
三瀦=水沼ですものね。沼地だったことは明らか。
かつては有明海の海水がこの辺りまで入り込んでいた、とどこかのサイトにありました。
ここから朝鮮半島や、中国(呉)行きの船が出ていたらしいです。
平清盛が近くの神埼荘を重要視したのは、南宋貿易のためですから。
後に、より便利な博多を港として整備しましたけど。

隈家は高良山系の湧水が川になって集まる場所を祀って、
服部家は高槻・阿武山系の水の集まる場所を祀った。

・・・どっちも機織が盛ん(久留米といえば、久留米絣だし)。
ふ〜ん似てる。(^^)
[35]さちこさんからのコメント(2006年08月01日 14時08分12秒 ) パスワード

書き込み遅くなりがちでごめんなさい。

>え〜見たかったなぁ、写真が無くて残念!(笑)

ご要望におこたえし!

   服流イケメン
     ↓

http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060730/lcl_____mie_____000.shtml

一昨日中日新聞に掲載されてたもので、
もしかしたらインターネットにもと思って検索しました。

「どこがイケメンやネン!」って?

まあまあ。
私が服部家顔と言ってるのとは少し雰囲気が違うけど。
けっこう鼻筋が通ってるのが分かりますか?

ここの服部家とは同じ寺の檀家だけど服部家同士としては親戚関係ではないですが、
父の母方のいとこが嫁に行ってます。

つまり写真の服部さんのお母さんが伊藤さん。
トマトや海苔の羊羹、おまんじゅう。
きっと伊藤家の趣味よね。(笑)

ここの服部家の家紋は分からないのですが、
前に書いた丸に抱き茗荷の家紋の服部家のすぐ近くなので家紋も同じかも。
それなら丸に抱き茗荷の服部家の趣味?

シジミのポットパイ食べたらお味のほうも報告しますね。
もしこれがヒットしたら弥富の伊藤家が金魚持って日之出屋さんに行きそうで怖い。。。

話が脱線しましたが元の続きまた書きます。
何故今の時間に書き込みしてるかと言うと、
先日店にトラックが突っ込んできて現在工事中。
仕事にならないのです。

話を聞いたら突っ込んできた人のお母さんが長島の服部家の人。
トホホ・・・。
お寺は違うんですけどね。

怪我人がなかったのが不幸中の幸いでした。
[36]アカコッコさんからのコメント(2006年08月01日 14時50分30秒 ) パスワード

>先日店にトラックが突っ込んできて現在工事中。
  仕事にならないのです。

 暑さ厳しき折ハタ迷惑な出来事ですね。

 そう言えば今日図書館で『「秦王国」と後裔たち』−日本列島秦氏族史ーという本を借りてきました。

 その本に三重県には「秦」姓が多くすんでおり、四日市市・名張市合わせて十名近くも記載があり、興味尽きない本みたいです。これをマクラに昼寝でもと思っております。

 >怪我人がなかったのが不幸中の幸いでした。

 そうですね、新聞タネにならなくって良かったですね。

[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 02時13分03秒 ) パスワード

さちこさん

お久し振りです。

なのに大変なニュースじゃあないですか!
ま、御無事で良かったのですけど商売にならないじゃないねえ。


修理代や休業代
しっかり払ってもらいましょう。

とはいえ、向こうも同族ですか。
怒りも中途半端になってしまいますね。


とりあえず御無事でなによりでした!
[38]さんからのコメント(2006年08月04日 11時58分05秒 ) パスワード

さちこさん

お店が大災難にあったようで(!)お見舞い申し上げます。
大変かと思いますが、工事が終わったら心機一転、厄落とし(!!)ということで
またお仕事に頑張って下さい。

服流イケメン&伊藤氏のお写真、ありがとうございます(笑)。
なるほど鼻筋が通ってらっしゃいますね。

そういえば、私が名古屋時代に唯一知ってた「服部」さんも、鼻筋通って結構整ったお顔立ちでした。

ちなみにウチの親戚、母方の祖母(旧姓服部)の鼻筋はごく普通ですが、
私の父親は(娘が言うのもなんですが)なかなか立派な鉤鼻です。
(以前にも書いたような気がするけど。)

結構秦氏っぽい鼻だけど、関係ないのかな?と思っていたら、
父方先祖と摂津三嶋の服部村との繋がりが見えてきたりして、
「なるほど、そっちだったか〜」と感心しきりの今日この頃です(笑)。


アカコッコさん

>『「秦王国」と後裔たち』

気になる題名の本ですね。。。(笑)
読んでみたいけど、古い本なのですか?書店で取り寄せできないのでしょうかね。
こちらの図書館にもあれば良いのですが。

まあ、今買い溜めてる本(歴史関連ばっかり)を先に読まないと・・・
私があんまり本を買うと、主人が不満顔。(^^;
奥様仲間とお昼のランチに行ったりする事は滅多にない分、本だけは買わせて欲しい〜と思ったりします。
[39]アカコッコさんからのコメント(2006年08月08日 12時44分27秒 ) パスワード

隈さん、こんにちわ。

 『「秦王国」と後裔たち』は平成13年に歴史調査研究所 代表牧野登氏が企画し全国の史料を所蔵する、伝承の伝わる家、資金を持てる家は資金をと。数次にわたる現地調査、35号に及ぶ『秦氏通信』、基金等で刊行されたそうです。2000部限定・頌布費12,800円。お高ので図書館にあれば良いのですが。

 内容は人それぞれの評価があると思いますが、圧巻は全国秦姓分布図及び全国協力者一覧(秦姓のお名前・住所などの記載があり)、よく発表されたと思います。

>私があんまり本を買うと、主人が不満顔。(^^;
 
 本道楽ぐらいは大目にみてよね!!と笑って言ってあげれば(笑い)。


[40]さんからのコメント(2006年09月13日 16時52分13秒 ) パスワード

いつもレスが遅くてすみません。m(__)m


アカコッコさん

『「秦王国」と後裔たち』の情報、どうもありがとうございます。
・・・確かに、一般家庭の主婦が買うには高いですね。(TT)
この辺りの図書館にはないかな・・・
どうしても見たければ、他所の図書館から取り寄せを依頼するしかないかも、ですね。

>本道楽ぐらいは大目にみてよね!!と笑って言ってあげれば(笑い)。

ええ、実際そう言ってるのですけどね。(笑)
主人はあまり本を読むのが好きではないので、本道楽の気持ちは分からないらしいです。
まぁ、例えば旅行先で大書店に立ち寄った時、まとめ買いするのには目をつぶってくれてるので、贅沢は言いません。(^^;

ちなみに最近私が読んで影響を受けたのは、「四天王寺の鷹(谷川健一著)」。
物部氏・秦氏を知るうえで、参考になります。
先日ちょっと話題になりましたが、伊賀から東大寺への(木津川経由の)木材供給についても書かれています。

わたしはこれを読んで、大阪の四天王寺まで行ってしまいました。(爆)
ええ、無理やり家族を連れて。(^^;;
でも、八月の暑さの中、高槻まで足を伸ばすのはさすがに無理でした。(泣)

・・・これ以上は長くなるので、続きは秦熱に書いた方がいいかも知れませんね。(笑)

取りあえず、物部氏、秦氏に興味のある方はぜひ一読を。(^^)
[41]さんからのコメント(2006年09月14日 10時03分37秒 ) パスワード

あ、そういえば大阪の書店で「京都時代MAP・安土桃山編」というのを見つけ、面白そうなので買いました。
安土桃山時代の地図の上に、現代の地図をトレーシングペーパーに印刷したものを重ねて、
今と昔の違いを比較できる、という趣向。
それをパラパラ見ていたら、アカコッコさんのご先祖様のお名前が・・・
「??」と思ったら、それは伏見区の地図で、
豊臣秀吉が桃山城を建てた時に周りに配置された、家臣の屋敷が詳細に載せられたものでした。

ご近所には前田利家公のお屋敷もあります。
柘植氏のお屋敷跡地は今、サティになってる・・・
アカコッコさんのご先祖様のお屋敷跡地は、普通の住宅街になってます。
この本、結構面白いですよ。(^^)
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月14日 12時25分00秒 ) パスワード

隈さん

これイタダキね。
新しくスレッド立てさせて頂きます。
ぺこり
[43]ひでおさんからのコメント(2006年09月26日 15時17分20秒 ) パスワード

5月頃衣川家の話が出てましたね。私は師崎出身の衣川です。衣川の発祥は常滑市で常滑市発行文書が出ていますよ。師崎にあるえびせん工場は私の祖父の姉が嫁に行った山下家です。
[44]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 15時55分20秒 ) パスワード

http://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html

加賀藩の侍帳
詳しくは左のコラムをクリックして閲覧なさってください。
[45]Masa.Hattoriさんからのコメント(2007年06月13日 22時23分56秒 ) パスワード

はじめまして、Masa.Hattoriです。初めての投稿です。

私は、以前アップされました「切り竹矢筈紋の服部氏」の父親です。
あれから7年の歳月が経ちました。息子に触発されて、我が家のルーツや尾張藩史について調べています。
図書館での調査が中心ですが、インターネットでも色々の発見がありました。2、3ご紹介します。

<1>名古屋市博物館のサイトにおいて、今般、新しいデータがアップされています。「名古屋城下デジタル復元地図」です。
弘化4年・明治3年・現代の地図があります。
弘化・明治において藩士名をクリックすると禄高・役職・住所が表示されます。
姓・名等で検索ができ、氏名をクリックすると居住地の地図が表示されます。
また現代の地図と重ね合わせることが出来ます。
ただ現代の地図には、町名表示がなく、どのあたりか分かりずらいのが欠点です。

<2>愛知県図書館のホームページにはデジタル古絵図「愛知県図書館所蔵絵図の世界」があります。必見です。
国絵図、郡絵図、村絵図等あります。「城下重ね絵図」は、名古屋城下の絵図と現在の地図(町名表示あり)とを重ね合わせることが出来ます。

<3>書籍を見つけました。「尾張藩在郷名家録」2006年12月発刊。
>安政4年(1857)、同5年時点の在村有力者を集大成した貴重な文書の影印本。
>藩内11代官所別にその氏名と居住する村、苗字・帯刀・御目見などの待遇を記す。
>『尾張藩士録』の庶民版とも言うべき本です。
(東海地方の郷土史本専門店の「マイタウン」の出版目録より転載)

上記につき名古屋市の鶴舞中央図書館にて閲覧してきました。
荷之上の服部さんも記載されていました。津島には大橋さんの名がありました。
尚、前掲の『尾張藩士録』とは、嘉永五年時点の尾張藩士名をいろは順に記し、
俸禄、役職、居住地、家紋、菩提寺が明記されている「家中いろは寄」の復刻本です。

<参考>名古屋市博物館のサイトでは、尾張藩役職者一覧−−尾張藩士の系譜集「士林泝・」および「藩士名寄」より
集約した9000名の役職者の一覧−−がありました。これにより我家のご先祖様らしき人物を発見しております。

ただ、残念ながら博物館のサイトは2007年4月にリニューアルされ、そのとき当該一覧は、削除されてしまいました。
リニューアル当初は「ただ今、準備中」の表示がありましたが、今はその文言も削除されています。
当方はダウンロードしていましたので助かっています。今後の調査に大いに参考となる資料です。閲覧していただけず残念です。
[46]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月14日 01時20分56秒 ) パスワード

旧尾張から大阪に引っ越された優秀な服部さんのお父上さまでいらっしゃいますね。
はじめまして。


>集約した9000名の役職者の一覧

すごいですねえ。


たまに旧尾張藩関係者の名簿を公開するそうですので
   そのスレッドをどこかに立てましたが
機会がありましたら是非名古屋にもお立ち寄りください。
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月14日 10時08分57秒 ) パスワード

引っ張って来ました:

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100788.html



2005年の建国記念日の特別企画だったか
対象は1200件ほどですが
旧名古屋藩士の御子孫用に「お調べ所」が開催されたそうです。


尾張藩が藩士の家の記録を明確にするために作成・提出させた
江戸中期の「 士 木木 シ斥 シ回」しりんそかい
江戸後期の「 藩 士 名 寄 」
を元に作成したデータベースから

・当主の名前
・家禄
・役職履歴
・お目見えを初めて許された年などを調べることが出来たそうです。


ただし名字だけからでは検索できないのでちゃんとした御子孫が対象。
さらに当時の居宅を探す地図コーナーもあったそうです。
[48]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年06月14日 10時13分13秒 ) パスワード

他の読者に都合の良いように
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100788.html
にも掲載させていただきました。
ぺこり
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