[1] | 小林@雑用中さんからのコメント(2006年04月20日 18時02分40秒 ) | パスワード |
原田日向様
現在までに岡山県内だけで私の調べた範囲で、原田氏は37種類の家紋を使用しています。
つまり、バラバラです(^^)
ご指摘の茶の実紋は現在までには岡山県内で発見できてません。無論、無いとの断定もできかねるぐらい多様です。
久米郡の原田(現在の美咲町)は南朝関係の家が密集してますので、同じように後醍醐天皇から紋をいただいたという話は聞きますね。
[2] | 原田日向さんからのコメント(2006年04月20日 19時54分05秒 ) | パスワード |
小林様 ありがとうございます。
忠高の系図の下りで小林様は「よく知られた系図」という表現をしていますが、どのくらいよく知られたものなのですか?
うちの祖父によると、家系図は祖父が子どもの頃にはあったそうです。
[3] | 小林@仕事中さんからのコメント(2006年04月20日 20時21分47秒 ) | パスワード |
原田日向様
>小林様は「よく知られた系図」という表現をしていますが
?????????
発言の記憶は無し(^^;)
原田さんの家の昔にあった家系図も存知ませんよ、そんなの知ってたら超能力者ですわ(爆笑)私は、その当時この世に存在しとりまへん。
該当事項を検索すると、以下の記事が出ております。発言者はときおさんですわ。
↓↓
>ときおさんからのコメント(2004年02月07日 02時02分11秒 )
>Yoshida-K様
>小林雅成様
(前部を省略)
>知られている系図では、「桓武天皇の七代胤上総介平
だれかときおさんを呼んで〜な!
[4] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年04月21日 00時14分37秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
原田日向様
家紋研究家の千鹿野茂氏の調査に拠れば、「山形に茶の実」紋は西原氏(岡山県玉野市営霊園)が使用とのこと。
美作菅家党原田氏の出自は諸説があるが、
上総介平忠常の五男忠高が肥前国高来郡原田に住して原田を称するに始まる。
後裔の興方が美作に流謫、後赦され美作国久米郡原田邑に住し光興の代に菅原忠廉(忠門)が養子として嗣ぎ菅原姓に改姓。
と言ったところが支持されている。
原田の地名は全国的に多く、恐らくは大蔵姓原田氏の移住により地名遷移したことも自然の成り行きで、表面上は源平藤橘菅系原田氏も何らかの姻戚関係があるものと考える。
貴殿がこの家系の後裔とも考えられるが、断定は困難である。
参考:姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )の菅原氏
[5] | 原田日向さんからのコメント(2006年04月22日 09時35分54秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑様
ありがとうございます。早速、千鹿野茂氏の著書を見てみます。
現在、うちは「原」姓なのですが、江戸時代に分家していった家は
「原」に何かしらの字を付けて分家しています。岡山の西原氏というのも
関心をそそります。ありがとうございました。
[6] | 小林@明日も出張さんからのコメント(2006年04月23日 13時14分33秒 ) | パスワード |
原田日向さん
そうでしたか!桓武平氏千葉氏系統の原さんですか。それなら千葉氏の関連書籍に載っているでしょう。ナゼわざわざ原田氏から探ってはるのでしょうか?はて?
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月27日 13時21分39秒 ) | パスワード |
タイトル
変更しておきました。
また希望が発生しましたら(笑)ここに書いておいてください。
尚、上記2つのレスは消しておきますね。
[11] | ミッサンさんからのコメント(2007年02月04日 17時11分53秒 ) | パスワード |
原田日向様
初めまして、ご参考なれば幸ですが、、、原田系図判読文の読み下しによれ
ば、桓武天皇ノ五代後、正五位上ノ官職、上総ノ助平ノ忠常ノ五男初メテ原田次郎忠高
ト号ス、天喜五年(1057年)二月肥後の原田ヲ出テ京ニ上リ同三月下旬勅ヲ請ケ従五位下
ノ官職肥後ノ守ニ任ス、同十月兵ヲ進メテ奥州ニ下ル源義家に加ハッテ、安部定任等ト挑戦
(後略) 後醍醐帝との関りは、頼興一男 頼忠(略)元亨元年(1321年)
二月京ニ上ル後醍醐天皇の味方ニツキ八月二八笠木(笠置)山ニ籠ル(後略)と有りま
す。
文禄年間(1592〜1596)に広島に移り住まわれたとの事。この頃原田には
次ぎの事件が有りました。(1591年秀吉、朝鮮出兵命じる)
作陽誌ヲ参考ニ記しますと、忠佐 朝鮮ノ役ニ家奴酔ウテ相闘撃シ行隊騒ガス、
秀吉怒リ作州ニ放還セシム忠佐志ヲ失シ世ヲオワルマデ再ビ出ズ元和七年(1621年)九月
卒ス西幸村ニ葬ル 忠佐ノ子父ノ遺命ニ依リ出家願誉ト称シ誕生寺ニ住持ス三河守貞佐
ノ家司池上十右エ門ノ妻ハ貞佐ノ娘、十右エ門末ハ農ト成リ此ノ村ニ在リ系譜(原田)ヲ伝ウ
余談ですが、原田の墓表在記帳に、久米郡北条郡大井西村大字坪井上に1600
年代の墓より在ります。以上、朝鮮の役の不祥事があつて広島に移られたか?
[12] | ミッサンさんからのコメント(2007年02月18日 20時28分30秒 ) | パスワード |
原田日向守様
ご参考になるやと思い追記します。四代興方 最後の文に、
判 読 文 読 下 し
作州葛虫庄給同年 葛虫庄ヲ給ル同年(保延五年1139年)
十一月狐山家作葛虫住又 十一月ニ狐山葛虫ニ住ム
言稲荷山是也永治元年 稲荷山ト云ウノハ是山デアル永治元年(1141年)
二月死弟沖春日向守 二月死ス、弟ノ沖春日向守ハ
曽肥前ニ住ス 曽(カッテ)肥前ノ国ニ住ンデイタ
原田日向守様は原田沖春日向守では? 以上です
[13] | ku-maさんからのコメント(2007年07月04日 10時57分42秒 ) | パスワード |
URL=http://toyonaka.cocolog-nifty.com/blog/cat11690662/index.html |
豊中市曽根西町にも原田城跡があります 今 市が登録文化財として管理していますが、市民で「原田城跡歴史と文化の会」という会をたちあげました。原田は織田信長の出城になりましたが、現在は土塁が残るのみ、そこに昭和13年の建物が残されています。どう保存するかが今後の課題ですが・・・・・
つい 原田姓をみつけるとおとづれてしまいます。
↓
http://toyonaka.cocolog-nifty.com/blog/cat11690662/index.html
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