[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月12日 00時09分53秒 ) | パスワード |
まず、全く分かりませんが、大坂住吉屋と関係があるのかな?と直感では思いました。
わたくしからのアドバイスでしたら
御自分の戸籍謄本を元に順々に明治の初めの最初の戸籍(除籍謄本)まで取って下さい。
そうしますと明治の初めに御先祖さまがどこにお住まいだったか分かります。
たいてい江戸時代に住んでた所と思います。
それから移動傾向とか共通項が分かってきます。
明治の初めにどこに住んでたか。
その御近所の宮本さん・泉さんが現在でもお住まいでしたら
なんとかお近づきになり「実は・・・」と話します。
これは時間を掛けませんと今は大変な事になりますから気を付けてください。
的が絞れたら県や市や町の教育委員会の歴史編纂所から資料を取り寄せます。
大きな図書館には置いてるそうですよ。
宮本武蔵は本名は
父方が平田
母方が新免で
「新免」で出て来るのが多いと思いますよ。
出身地は岡山とか兵庫とかいろいろ説があります。
わたくしの想像では元は伊予の河野の出身で南朝方で明治維新後に武士をやめて海運業に転身なさったのでは?と思います。
家紋は難しいですよ。事情があって橘紋になったというのはその御家しか分からないのが多いと思います
とにかく明治の初めの御先祖さまと当時の本籍地を捜すことから始めないと。
御家には南朝方だったという伝承はありませんか?
それから浄土真宗(一向宗)だったという過去はないですか?
明治の初めの御先祖さまが分かったら、その本家というか宗家が分かると良いですね。
[2] | 隈さんからのコメント(2006年04月12日 10時39分24秒 ) | パスワード |
突然ですが、お邪魔します。m(_ _)m
しんばさん、始めまして。ギャンブラーさん、お久しぶりです(^^)/
「讃岐、宮本家」で検索したら、こんなお家がありましたので一応ご紹介します。
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/mymt.htm
しんばさんのお家との繋がりは分かりませんが、水軍ということで、
関係あるかも知れないですね。
ちなみに、この宮本家が仕えていたという菊地家は、九州の南朝方の代表格です。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月12日 12時51分00秒 ) | パスワード |
隈さん
お久し振りでございます。
さすがですね。
やはり塩飽島あたりの町役場の教育委員会から資料を取り寄せられそうですね。
>ちなみに、この宮本家が仕えていたという菊地家は、九州の南朝方の代表格です。
でしたら矢張り南朝方かもですね。
そうすると村上水軍・河野水軍・菊池
この辺りを調べたら出てきそうですね。
志度か塩飽か
そのあたりの宮本家は橘紋だったら解決ですね。
それにお寺さんも限られましょうからお墓の紋も調べ易いでしょうね。
[4] | しんばさんからのコメント(2006年04月12日 13時03分24秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
早速のお返事あるがとうございます
私の家だけ 関東に出てきてしまってるんで四国までいかないと
無理かなと? 思ってました
やはり昔 浄土真宗だったそうです
河野出身の武士の可能性とても 高いですね
こんなに早く解ってとても 嬉しいです。戸籍謄本をとって
調べてみます。感謝いたします。有難うございましたm(^^)m
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月12日 13時03分56秒 ) | パスワード |
菊池家に仕えた宮本家が大友に滅ぼされて塩飽に来たと書いてありましたから
そうすると本籍(笑)は熊本になりますか。
そうしますと御先祖さまのどなたかが熊本に行ってたなんて戸籍謄本に出てれば
熊本での目星がちょっとはつくかも知れないですね。
それから熊本の教育委員会から菊池氏の資料が手に入れば
熊本での宮本家のことがかなり分かりますね。
ということは宮本武蔵とは直接関係はないですね。
宮本武蔵が熊本に行ったのは江戸時代ですから。
17歳ぐらいの時に関が原の戦いだったかしら?
戦国時代の前半あたりに菊池氏はとっくに滅びてますから。
菊池氏の情報が手に入れば南朝方だった前が分かりますね。
平家方だったのか源氏方だったのか。
菊池自体は治承4年には平家方に属してましたから
ま、平家方だったんじゃないかしら?
日本人って結構地縁血縁そんな感じで馬の骨(敵)とはあんまり組まないんじゃないのかな?と。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月12日 13時27分02秒 ) | パスワード |
しんばさん
隈さんの御蔭でスゴイ飛躍ができましたね。
さすが隈さん目のつけ何処がスゴイ。
やはり浄土真宗でしたか。
ということは反織田信長だった、ですね。
そうすると戦国時代の末には四国で反信長+反秀吉
つまり明智光秀方だった、かな?
伊予の河野家あたりの関係ですね。
さらに毛利方。
整理すると
平安時代末期は平家?このあたりで(この時代には)菊池家と関係があった?
鎌倉時代末期は南朝方?
戦国時代は反織田信長?
その後徳川幕府の庇護の下にあった?
塩飽衆で調べたらかなりの事が分かりますから
ここから遡って調べたら良いですよ。
[8] | しんばさんからのコメント(2006年04月12日 14時18分35秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様 隈様
本当に有難うございます!!
高齢で病床の父に話したら 涙を流して喜んでおりました(^^)
久しぶりの笑顔みれました 嬉しいです
塩飽衆ですね〜 調べてみます
心から 感謝いたします
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月12日 21時55分24秒 ) | パスワード |
>高齢で病床の父に話したら 涙を流して喜んでおりました(^^)
お大事に!
介護は大変ですが親孝行は出来る時にしておくものですから
優しくしてあげてください。
大坂住吉屋は明治以降確かに海運業をしてまして
昭和の初めまでは大阪を中心にあちこちに営業所がありました。
丸亀にもありました。
昭和の初めに海難事故があって責任を取って船主が船と共に沈んだり
昭和の大戦争で衰退した、そうお父さまにお知らせしてあげてください。
川之江の藤原氏、丸亀の河野氏と高畑氏、こういう所と親戚というのは戸籍謄本には書かれていないのかしら?
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月12日 22時03分06秒 ) | パスワード |
家紋ですが
家紋はいろいろな事情で替えたりします。
昔は1つの家でいろいろな家紋を持っていました。
でも今はたいてい1つか2つしか使わないと思います。
それで塩飽の宮本家と家紋が違っててもガッカリする必要は無いです。
同じでしたら「確かに」といえますが
違ってても「ガッカリ」することはないんです。
捜していれば御先祖さまが助けてくださいますよ。
どんどん情報が集まってきます。
お盆とかお正月に遠い御親戚を招待して(別にお金を掛ける必要は無いのです)
皆で御先祖さま談義をすれば、どなたかが何かお話になります。
例えば
家紋がなぜ橘紋になったのか?
○○時代はXX家に仕えていた
そんなお話から
**の△△が系図を持ってるなんて話も飛び出して来ますよ。
今年のお盆にでも戸籍謄本を頼りに遠い御親戚にお手紙を出してはいかがでしょう?
良いきっかけとなります。
[11] | しんばさんからのコメント(2006年04月13日 03時17分17秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
祖父のやってた 住吉丸も昭和の始め頃 閉めたようです
父は大正14年生まれですが 小学校に入る頃までは 船上で生活しており
おそらく船やを閉めて山口県に家をたてたのだと 思います
戦争に行っていたんで(もちろん海軍です^^)父には 事情が良く解らなかったのかも知れませんね
塩飽 宮本家 家紋で検索したものに、渾大防(高田氏)の下に宮本氏と書いてあります 塩飽の宮本家の出の娘さんが奥さんになったようです。
高田氏の家紋は丸に三階菱 なのですが 屋号は橘とあります
私の家の家紋と関係あるんでしょか?
とても的がしぼれてきました
なんだかワクワクします
明日父に 大阪住吉屋の事話してみます
きっと目をキラキラさせて 聞くと思います☆彡
長い休みが取れたら 四国まで行ってみようと思います
その前に謄本ですね(^o^)/
ありがとうございました
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月13日 04時08分56秒 ) | パスワード |
しんばさん
よく分からないですが共通項目がいろいろありますね。
大坂住吉屋が海難事故で大変な損害を出し武士らしく?船長らしく?責任を取って死んだ事と
お祖父さまが船をやめたことと関係があるのか?
山口県というのも戦国時代からの毛利家・秀吉がらみのお話がありますから
山口県というのが共通しますし。長門国関係の場所でしたらもっと奇遇ですし。
塩飽衆というのは幕府がらみでしたから咸臨丸でアメリカに行ってますしね。
特殊な身分を保証された人達でしたから日本史上に出て来ますし。
>高田氏の家紋は丸に三階菱 なのですが
私の知ってる紋は三階菱の変形なのですがドキッとしました。
でも「橘屋」のことは知らないです。
いろいろヒントは集まりましたね。
大筋が分かってきましたからあとは証拠集めですね(笑)
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月13日 08時07分04秒 ) | パスワード |
追加です:
記憶の片隅に「高橋組」という海運業者が戦後?名古屋港にあったらしいのを思い出しました。
その頃には大坂住吉屋は消えていたと思います。
でも「橘屋」との関係は分かりません。
状況として四国関係なのかなあ?というのは思いますけど。
菊池氏については
播磨屋さんの http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kikuti_k.html を参照してください。
>はじめのころ、菊池氏の本拠は菊池郡菊池村深川にあったが、
>のちに隈府に城を移した。
>源平の争乱期、肥後権守隆直が平家の横暴に対し挙兵、
>しかし平家の大軍に攻められ屈服、
>一族の多くはその後の壇の浦の合戦に平家と運命をともにした。
とあります。
古い戸籍謄本に熊本へ転居してる人がいらっしゃれば塩飽に移ってからも繋がりが続いてたのでしょうし
いなかったら切れてたということでしょう。
戸籍謄本を読んでいると御先祖さまの動向が読めますから涙なくしては読めなくなりますよ。
早く手に入ると良いですね。
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月13日 08時26分57秒 ) | パスワード |
佐伯ですが
佐伯御出身のお祖母さまが御結婚なさったのは
やっぱりキイワードは「河野氏」「村上水軍」「塩飽」かなあと空想しています。
大分県には昔、河野氏が土地を持っていて
大分の河野さんは「こうの」じゃなくて「かわの」とおっしゃるんです。
河野=川野=かわの=こうの
同じなんです。
平家物語の中でも河野四郎通信は川野とも書かれています。
昔、河野家の何かを調べてた時に佐伯に連絡を取ったことを思い出しました。
河野氏も菊池氏も元寇では鎌倉幕府の命を受けて頑張りました。
その後の南朝方でも一緒でしたし。(河野氏は一族の中で南北に分かれて戦いました)
戦国時代には河野氏は秀吉に滅ぼされ菊池氏はもっと前に大友氏に滅ぼされた。
そういう昔の何重にも掛けられた御縁で御結婚なさる条件は揃ってたと思います。
それでキイワードは河野氏・村上水軍・塩飽かな?と。
昔は今とは違って馬の骨(敵)とは縁組をしなかったのですよ。
もし昔のユカリを知らなくて結婚してたとしても
お祖父さまとお祖母さまは出会った瞬間
血の中のDNAがその場で血沸き肉踊って一目惚れしたりしたと思うのです。
決して赤の他人が結婚したのではなくて結ばれるべき宿命にあったと思いますよ。
[15] | 隈さんからのコメント(2006年04月14日 10時00分55秒 ) | パスワード |
姓は違いますが、塩飽水軍に橘紋使用のお家がありましたので、追加します。
「まなべさんちのルーツ:参考資料」より;←ちなみに真鍋氏は、平家方です。
http://y-manabe-web.hp.infoseek.co.jp/bunken/bunken01.htm
岡山県の項に、「真鍋、塩飽水軍旗頭」とあります。
これ、小林先生がお書きになった本ですね。
先生の原稿が一段落ついたら、この辺りの橘紋についてお伺いしてみると良いかも。(^^)
ただ、ここのHPにも書かれていますが、同じ地域の同族でも家紋は様々のようですから、
家紋はあまりルーツを辿る参考にならないのかも知れませんね。
やはりギャンブラーさんのおっしゃるように、それぞれの家の事情で家紋を変えるようですから。
塩飽諸島周辺は、一般的に橘紋の使用が多いらしいです。
> 大分県には昔、河野氏が土地を持っていて
> 大分の河野さんは「こうの」じゃなくて「かわの」とおっしゃるんです。
そうそう、ウチの周辺は「河野」さんも「川野」さんもおられます。
「川野」さんは「かわの」でいいのですが、
「河野」さんは「こうの」と「かわの」が半々ですから、初めて書面で名前を確認する時には必ず
「『かわの』さんですか、『こうの』さんですか?」
と本人に確認しなくてはなりません。
山口県も水軍系の名前が多いです。「河野」とか「村上」とか「松浦」とか。
(周防大島にも、村上水軍の城がありました。)
しかも、大型トラックにそれらの名前を見かけることも多いです。(^^)
先祖代々続けてきた海運業から、陸運に鞍替えしたのでしょうね。
瀬戸内水軍は頻繁に大分方面と行き来していたらしいですね。
佐伯は昔から、遠距離の船が到着する港として賑わっていたようです。
さらに、江戸時代には来留島氏(村上水軍の一派)が豊後・森藩主になっています。
やっぱり、水軍繋がりのご縁ではないでしょうか。
しかし、本当に平熱は平家・南朝方のご子孫を引き寄せてきますねぇ。(^^)
[16] | しんばさんからのコメント(2006年04月14日 10時59分03秒 ) | パスワード |
色々とたくさん参考になる事教えていただいて、有難うございます。おかげさまで、たいぶ的がしぼれました(^^)いよいよ、戸籍謄本を取りに行こうと思ってます!! 普通の取り方で明治始めの最初の戸籍(除籍謄本)まで取れるんでしょうか?今住んでる市役所でいいんでしょうか?本当に無知なもので 取り方を詳しく教えていただけますか?父の名のほうが良いのでしょうか?使い道とか何とかけば良いと 思われますか?おしえて下さい宜しくお願いいたします。
[17] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月14日 12時13分18秒 ) | パスワード |
まず取得理由は「先祖供養のため」というのをわたくしは使ってました。
800回忌とかね。笑
先祖供養一括のためとかなんとか理由を考えてください。
塩飽衆だった一族の供養をしたいとおっしゃれば志度町役場はオーケーと思いますよ。
まず父上・祖父上の戸籍謄本を取ります。本籍地が同じなら1通で済みますよね。
地元は取りに行けますが
場所が違う時は郵送になると思います。
その場合はその役所にどういう手続きが必要か電話かメールで問い合わせると良いですよ。
手数料だの代金は切手で良い所とかダメな所とかあると思います。
1人1人(祖父上と父上は一緒の本籍なのかしら?)取らなきゃいけないと思いますが
1人取ってはまたその上の代を取るという形で私は時間が掛かりました。
我が家の場合は本籍地があちこちしてましたので現地まで出掛けました。
明治の初めの先祖の除籍謄本まで取得するには大変でした。
明治の初めの御先祖さまは5〜6代分ですものね。
ゆっくりやれば良いですよ。
志度町でまとめて取得できたら良いのですけど
とりあえず父上の戸籍謄本の取得からですね。
親子関係さえ証明出来れば父上や祖父上のは取得出来ると思います。
どなたかが除籍謄本はその内に取得できなくなるなんて書いてました。
取れると良いですね。
とにかく志度町役場に電話なりで連絡を取ってみてください。
[18] | しんばさんからのコメント(2006年04月14日 12時23分21秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
早速のお返事有難うございます
とても 助かりました
有難く、参考にさせていただきますm(__)m
[19] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月14日 13時15分44秒 ) | パスワード |
しんばさん
志度町役場で明治の初めの御先祖さままで全員取れたら良いですね。
そういう取り方のコツを教えて頂けると良いですね。
[20] | 小林@講座用意中さんからのコメント(2006年04月14日 18時24分23秒 ) | パスワード |
やっと出版社に原稿送った。長かった。
来週は三日余分に出張決まったから出っ放し(笑)
さて、宮本さんですが、もともと姓は藤原でいいと思う。だから宮本武蔵とは関連ないと思います。
菊池関連で名前がでてくるのでしたら元々九州なのでしょう。南朝が滅んでどこに活路を見出したかによって移動したところが違ったのだと思います。
現代でもそうですが、勤めている会社が倒産したら、地元に残って再就職先を見つけるか、他の景気のいい地域(現代でいうと名古屋近辺か)を目指すと思います。たまたまそれが、宮本さんのご先祖様の場合は当時瀬戸内海だったということですわ。
塩飽水軍で橘紋だと特に問題ないと思いますよ。
[21] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月14日 23時59分34秒 ) | パスワード |
織田信長が石山寺と対峙し
織田軍が九鬼水軍に鉄甲船を作らせてやっと対抗しようとした頃
河野水軍や毛利方は調子良かったでしょう。
織田なんかに負けないという揺ぎ無い自信があったでしょう。
つくなら勝てる方ですしね。
菊池が大友に滅ぼされた時は河野氏はまだ名門だったでしょう。
その後河野氏が滅びて塩飽水軍として江戸幕府に重宝されていくのは
志度町役場の塩飽水軍史を読めば書かれているかもですね。
[22] | 田中愛造さんからのコメント(2006年04月15日 02時50分52秒 ) | パスワード |
やっと系統は理解出来ましたが、讃岐に最も多いとされる橘紋が繋がりません。
先に記されてる、隈さんの塩飽が謎を解明致しております。小林先生の本では、岡山・兵庫各県では、橘紋の宮本氏も見受けられるものの日本家紋大総覧にも記されていませんでした。
景行天皇ー日本武尊ー武卯王ー爾弥摩命ー奈鬼爾麻命ー竃玉多利太別命ー日向王ー綾多祁(綾君)−依志ー意止之古ー奴手古ー大人堅石(阿野郡大領)−大山麿ー円麻侶ー麿石ー綾菅万呂(綾朝臣姓賜)−乙足ー粟麿ー百行(押領使)−行能(羽束冠者)ー定時(判官代・押領使)−貞清(羽束権大夫・押領使)−行隆(権介・押領使)−貞宣(羽床大夫・綾大領)−女子(藤原家成妾)−藤原章隆(羽床庄司・周防守・藤太郎《讃岐藤家》)−資高(羽床藤大夫)−資光(新居藤大夫)−信資(藤三郎)−資村(香西左近将監)===<香西氏略>===(宮本・高原両氏出る)。
685年天武14年綾君に朝臣の姓を賜う
1184年文治元年寿永4年屋島合戦・新居藤大夫資光、羽床藤次郎重次等讃岐武士源氏
に従う
1246年寛元4年塩飽水軍の当国御家人香西藤左衛門尉家資は幕府の命をうけ海賊追捕
を行い「吾妻鏡」香西略系図「香西記」によると忠資が北条時頼から讃岐諸島の警
衛を命じられ、子弟を直島・塩飽島に配したという。子孫の宮本氏に海賊衆は統括
され、島の長として宮本・吉田・妹尾・渡辺氏がいた「南海通記」。
[23] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月15日 03時48分38秒 ) | パスワード |
田中愛造さまの書き込みを参考に下記情報を引っ張ってきました:
無断転載ごめんなさい。
不都合がございましたら削除いたします(ぺこり)
http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1219.htm
四国が本州に迫った、瀬戸内海備讃瀬戸。瀬戸内海の喉頸を思わせる海域に28の島々が点在する。おもな島は、本島、広島、牛島、手島(以上丸亀市)、櫃石島、与島(坂出市)、高見島(多度津町)で、塩飽七島と呼ばれている。
塩飽の島々は、古くは塩飽海賊衆の根拠地であった。また、室町期には細川氏の支配下に入り、戦国期にはその部将香西元成の下に宮本氏、吉田氏などが船将として活躍した。
塩飽諸島を統治する年寄役は、宮本家、入江家、吉田家、真木家の四家で世襲した。宮本家、入江家は、関が原の戦いに塩飽水軍を率いて参戦し、のちに、徳川家康から領地の朱印状を受けた。
詳しくは上記URLを参照なさってくださいね。
関が原で功があったのですね。
それで徳川幕府の庇護を受けることができたのですねえ。
[24] | 田中愛造さんからのコメント(2006年04月15日 14時34分13秒 ) | パスワード |
姓氏家系
・・・八十一世安徳天皇・讃岐の屋島に皇居し給う時、左馬頭行盛をして此の海表を保たしめ、備前の児島に城廊を構えて、東兵の通路を絶つ。其の後武家の世に成りて、鎌倉将軍家、北条時頼執事に方りて、備讃の間に海賊あり、四州の行客の煩をなす。讃岐国香河郡司藤の左衛門家資・兵船を促し、香西の浦宮下の宅に勢揃いして、手島比々瀬戸二口より押出し、京の上臈にて船軍し、終に降参せしめ、百余人を虜にして、京六波羅に献じ、鎌倉殿に達す。北条執事感賞し給いて、讃州諸島の警衛を命じ給う。家資即ち諸島に兵士を遣して守らしめ、直島・塩飽島に我が子男を居置えて、諸島を保守し、海表の非常を警衛す。是れ宮本氏、高原氏の祖也。又宮本とは家資の居宅・宮の下なる故に、宮本と称号する也。京都将軍家に至りて、塩飽諸島の人等、細川管領家に属して徭役を勤めしむ。其の比、大内政弘・将軍家の命を受けて、大明国の勘合を領し、商販の船を渡して交易を利せしむ。宮本佐渡・是に随従して、大明国、朝鮮国に渡海し、貨利を得て家を豊かにし、子孫を安寧にす。天文弘治の比、能島村上衆に語合い、大明国に入りて合戦し、武勇を異朝の記籍に遺す。近世・太閤秀吉公九州征伐の時、塩飽島、直島の住人等、西海の案内者として召出され。宮本、吉田、妹尾、直島の高原等をして、舟師を掌しむ。云々と。
[25] | 田中愛造さんからのコメント(2006年04月15日 17時20分52秒 ) | パスワード |
『塩飽の島びとたち』医博・米本 仁氏は云う。
最もいい船を持ち、目は何時も遠い海に注いでいた塩飽の加子たち・・海賊大将軍・宮本佐渡守、その子の助左衛門、妹尾、渡辺などが主なリーダーであったらしい。彼らは北畠師清に従い、あるいは大内政弘、義興らの指揮の下に、ときに勘合貿易を行ない、ときには掠奪を欲しいままにして莫大な利益を挙げ・・戦国時代になって中国、四国の諸雄が互いにその勢力を伸張しょうとするときには、必ず塩飽の水軍が利用された。細川管領の部将・香西元成は天文十八年(1549)二月、塩飽の年寄・宮本、吉田らを船大将として兵を摂津に進め、中ノ島で三好長慶と戦い、さらに天亀二年(1571)五月、香西宗心が児島に兵を進めたときには、吉田、宮本、瀬尾、渡辺などが船大将となって、日比、渋川、下津井の三か所へ上陸している。・・
天正十九年(1590)から慶長三年にかけても、塩飽船方は朝鮮征伐のときにも大いに活躍した。秀吉より塩飽年寄宮本佐渡守に宛てた朱印状によると、塩飽七島から水主650人と船舶32隻を出動させて、釜山方面への水先案内たらしめている。
関ヶ原合戦直前宮本伝太夫、大阪に出向き西国諸大名情報収集に務め関東側を有利に進めた。尚、幕末の咸臨丸での乗組員35人は塩飽出身者で、鉄砲方宮本角之丞(角治・角太郎)も在り。
[26] | しんばさんからのコメント(2006年04月17日 18時16分10秒 ) | パスワード |
書き込みして下さった皆様
全く 無知だった私に いろいろと教えて頂いて だいぶルーツが見えてきました
(^o^) 関東育ちだった私が 山口県までは 知っていたのですが、四国や九州にかかわりが あるとは 私にっとって、とても嬉しいことです。少々気が強いのも 血筋かな??なんて考えております。感謝でいっぱいです。有難うございました。m(--)m
[27] | つんつくさんからのコメント(2010年06月24日 19時45分34秒 ) | パスワード |
祖父の代から嫡流で無くなってますが、塩飽本島宮本家の者です。
偶然このページを見つけました。
もしかしたら、しんばさんと遠い親戚かもしれませんね。
そう考えると、これも何かのご縁かもしれませんね!
[28] | しんばさんからのコメント(2013年01月19日 09時35分16秒 ) | パスワード |
こんにちわ 遅くなってしまってすみません
遠い親戚だったら 素敵ですね
夢が広がります
塩飽に いってみたくなりました
ありがとうございます
[34] | 通りすがりさんからのコメント(2014年02月27日 14時13分00秒 ) | パスワード |
日光の宮本です。
大沢に先祖代々の墓を持ちます。
近くの神社に石碑が建っておりまして
「藤原の命を受けこの地の開拓に3人の地頭を置く」とあります。
そのひとりが宮本です。
開墾、商、管理の三つだと表記されています。
宮本は管理担当の命を受けました。
他の二家もいまだに健在ですよ。
その方達とは屋号でお呼びするのが習わしです。
開墾の子孫は農家が多いです
商の子孫が経営する店が幾つかあります。
宮本は先生と公務員が多いようです。
宮本の墓は一番古い墓石が310年くらい前ですから東照宮建立からしばらく後の事でしょうね。
東照宮の神馬の管理をしていた記録を子供の頃見た記憶があります。
私は本家で6代前から東京に居を移してしていますが
分家は今も墓の前におります。
10年ほど前に分家と過去帳(同じ寺ですから)を付き合わせてみましたが
10代以上遡っても合致しませんでした(15代前までありました)
10代以上前は男が空白だったり、妻が単に「女」とだけの表記もありましたね。
過去を訪ねるのは私には楽しい作業でした。
父も祖父も興味なかったようですし(共に故人)
伝聞では「湯西川に逃げた平家を追ってきた」と聞かされましたが文献はありません。
ルーツを辿れる事を祈っております。
[35] | シュラシュシュシュさんからのコメント(2016年02月24日 00時24分08秒 ) | パスワード |
つんつく様 宇多津の津之郷の宮本氏や宇夫階神社宮司の宮本氏、更には坂出の宮本氏とのご関係などお教えいただければ幸いです。宮本亜門は坂出の宮本氏出身だそうで、2月26日金曜日のファミリーヒストリーに登場するそうです。楽しみですねえ。
[36] | 匿名係さんからのコメント(2016年03月07日 15時38分58秒 ) | パスワード |
宮本亜門のご先祖は崇徳上皇の侍士3人の宮本さんの1人だったそうですね。
宮=上皇=の元に仕える から 宮本を名乗ったとか。
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