[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月03日 01時08分56秒 ) | パスワード |
以下コピー&ペイスト:
そうなんです。
海老名氏は、石橋山の合戦では平家方でした。
先を読む才能があったんでしょうね。
すぐに源氏方となり、御家人になっています。
頼朝の名を出さないのは、何かがあったんでしょう。
海老名郷は、國分寺を建てる時も聖武天皇に逆らって、「東大寺式」を「法隆寺式」で建てた。
瓦も当時のものではなく、白鳳時代の物が使用されている。
又、本尊は釈迦牟尼仏と決められているのに、相模國分寺は薬師仏を本尊とした。
等など・・・。
どうも海老名郷の人間は、お上の言うことを聞かない連中だったみたいですね。
そんな國分寺を頼朝が修復しているんですから、頼朝も案外反骨精神が好きだったかも。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月22日 21時51分31秒 ) | パスワード |
こんなレスを頂きました:
海老名から愛甲石田に行きました。
野球の愛甲選手は横浜高校出身でした。
元を辿れば、愛甲郡から出たんでしょうか。
愛甲氏は、相模川を挟んで海老名氏の領地と隣り合わせ。
頼朝が旗揚げした時、「おい俺たちは源平のどっちに付くべえか」なんて相談したかも。
頼朝関係の人物では、海老名氏・愛甲氏・渋谷氏・佐々木一族。
少し離れると、梶原氏・岡崎氏・大庭氏等など。
相模國のことだけあって、大勢の関係者がいましたね。
海老名市は国分寺の跡もあるし、楽しみはいっぱいあります。
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