[1] | 小林雅成さんからのコメント(2006年02月23日 10時31分38秒 ) | パスワード |
大橋氏については、その家紋のデータが柏書房『都道府県別 姓氏家紋大事典』に45箇所掲載があります。富山ではご指摘の家紋でありませんでした。
ご参考までにお近くの大規模図書館で閲覧くださいませ。
小林雅成
よみうり文化センター 講師
朝日カルチャーセンター 講師
NHK文化センター 講師
[2] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年02月23日 19時46分36秒 ) | パスワード |
早速のご指南ありがとうございます。
近日中に閲覧しに参ります。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月24日 11時42分33秒 ) | パスワード |
全然分かりませんが
明治時代の初めの戸籍謄本(除籍謄本)を取得なさることをお薦めします。
当時どこに居たのかが分かると江戸時代にどこに住んでいたのかだいたい分かるのじゃないか
御先祖さまとの関係が分かるのじゃないか
と思います。
で、明治の初めに住んでた所の近くの大橋家も同じ紋なら一族の可能性が高いと思います。
また明治初めの御先祖さまの住んでた御近所のお寺をいくつか回って同じ紋の墓石を捜す、ですね。
冨山ですと
古くは平家との関係
戦国時代には尾張との関係
その他。
平家だから冨山に住みついたのか?
戦国時代に尾張の武将関係で引っ越したのか?
それから大橋さんでしたら
平家の嫡流の平貞能の流れがありますし(弟が服部姓です)
南北朝時代に尾張の津島神社の関係の大橋さんがいますし(当然服部氏と共に南朝方でした)
そこから戦国時代に冨山に移ったとも考えられますし。
普通南朝方だったとか北朝方だったとかそういう話は伝わると思いますが伝わってませんか?
伝わってなかったら
足利尊氏と新田義貞・楠木正成のどっちに心が惹かれるか
そういうのでもピンと来ませんか?
1番確かなのは
明治の初めの御先祖さまの住んでた近くに現在も引き続き住んでる大橋さんという方を見つけ
お近づきになって御先祖のお話をきいてみたら良いと思います。
証明する当時の戸籍が無いと今は個人情報がなんとかで怪しまれるでしょうけど。
「七宝に花菱紋」で有名なのは大蔵氏系の日向高鍋藩主秋月氏だそうですよ。
秋月家のいろいろお使いの紋の1つだそうです。
秋月氏はやまとなでしこのなでしこ紋も使ってて(他にもいろいろ使ってます)
旗本の藤原姓大橋氏もこのなでしこ紋を使ってるそうです。
美濃の斉藤道三の紋の1つがなでしこだそうでコッチは唐なでしこ紋だそうです。
藤原姓大橋氏と称してても平家との関係があった大橋氏かも知れません。
どこの家でも紋は複数使ってきたと思いますが
1つしか伝わってないとそれに捉われてしまいますから
紋から御先祖さまを捜すのは難しいと思います。
名字もいろいろ変遷してると思いますから過去にどんな名字を名乗っていたか分かると良いですね。
3月のお彼岸にでも一族の方と同席できると良いですね。
一族の中には必ずどなたか家系について詳しい方がいらっしゃると思いますよ。
一族の皆さんが揃う席で御先祖さまの話題や系図の話題を振ったらいろいろ情報が得られると思います。
戦後核家族化でみんなバラバラに住むようになって御先祖を大事にしなくなってるので
自分の出自が分からなくなってますが
今、大橋一登さんに御先祖さまから(もうこれが最後の機会)としてメッセージが来てるんじゃないか
と思います。
早くしないと皆さん鬼籍に入られますから、そうなりましたら先祖のことが全く分からなくなります。
今年にでも身体を使って御先祖さま捜しを開始なさってはいかがでしょう?
[4] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年02月26日 00時34分57秒 ) | パスワード |
なるほど・・・
色々とありがとうございます。
元々、私自身があまり親戚付き合いが無く(若い頃から海外で暮らしていた事もあり)
現在に至るまでも富山の大橋家どころか、富山にさえ行った事のない有様で、
(自分の親ですらほとんど逢わず、法事や墓参りと言うような行事も全く無し・・・)
もっと巨視的な日本史や古代史などには興味があっても、
「自分のルーツ」についてはほとんど考えた事がありませんでしたので、
突如興味が湧いたのも何かの縁かもしれませんね。
(或いは加齢による心境の変化か・・・)
いつか、時間に余裕が出来れば自分のルーツを訪ねる旅と言うのを叶えたいものですが、
(因みに私は、神戸在住です)
現在、親を通してなど、手っ取り早く「聞く」事が出来る手段内では、
我が家の家系なのか、皆寡黙な人が多く、特に自身についてあまり語る人が居なかった様で、
親も祖父の仕事も何だったのか詳しくは知らないと言うような・・・
(そういえば私も親の仕事が何だったのか詳しく知らず、また疑問に思ったり尋ねた事もありませんでしたが)
故に、祖父の上の代となると、既にほとんど誰も判らない様な状況です。
特に本家筋で、また家系を大事にされてるご家族はともかく、
核家族化が進んで以来、あまり親戚付き合いが無いような方々は、
学術調査の様に客観的な追跡にならざるを得ないと思うのですが、
皆様は元々どの様にしてそう言った知識を蓄えられたのでしょうか?
私はこれまで、せいぜい教科書に出てくる様な歴史に少し毛が生えた程度の一般書籍をたまに読む程度でしたので、
全く新しい世界に出会ったようで、とても興味をそそられます。
皆様はやはりご自身のルーツを追跡されたりされたのでしょうか?
その時の経験談などもお聞かせ願えたらと思います。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月26日 02時03分47秒 ) | パスワード |
まず、昔は戸籍謄本の初めに「身分」が書かれていたのですよ。日本人は始めに、身分ありき、ですね。
もし1970年代あたり迄の戸籍をお持ちでしたら御覧になってください。
「華族・士族・平民・新平民」という書き込みを隠す紙が貼った形跡がありましたよ。
3文字分では新平民というのがバレバレですからいくら身分差別が無くなったってコレでバレてました。
今の戸籍謄本は全く分からないようになってると思います。
更に帰化もバレたと思います。
昔は戸籍謄本を見ればみ〜んなバレたんですよ。
それで昔は結婚の時に戸籍謄本の交換をして身分を明らかにしてたんですよ。
戸籍謄本の交換をしなくても昔は役所に調べに行けばバレました。それで破談ってのがありました。
祖父の古い戸籍謄本を見たことがありましたが「士族」と書かれてました。
華族は華族の一族を示すある文字が特に書かれていましたよ。
アメリカでも元華族の京都系は大名系よりも優遇されているといろいろありますよ。
領事館の人から直接この耳に「公家ったって5流まであるんだぞ」と言われましたよ、ワタシ。
それから家の表札にも古い物を使ってる家のは「士族 なんの誰兵衛」と書かれてましたよ。
1980年代の半ばまで冨山のどこかの峠を守っていた旧士族の旧平家の武士(名字は平さん)が
やはりそういう表札を掲げてたので
全国でそういう事をしてたんだと驚きました。
江戸時代日本の人口の8割が農民でしたっけ?
ですから殆どの人が平民だったワケです。
でも平民にもいろいろ身分差があり
更に戦国時代や江戸時代に身分社会から叩き出された元武士の人達もいたわけです。
同じ一族でも平民もいれば士族もいましたしね。
勿論太古の昔には「逃散」とか呼ばれる人達がいましたから ← 日本史で習いましたよね
日本は昔の身分を隠そうにも隠せない国だったんですよ。
戦後60年、やっと身分差をとやかく言う人が減ったと思います。
今は他人の戸籍謄本の閲覧が難しくなってますし身分差の部分も読めなくなってますし。
でも御先祖さまの住んでた場所からやっぱり分かりますけどね。
○○市のXX町は△の人が住んでた所というのは古くから住んでる人は知ってますから。
奈良とか和歌山とか三重とか大阪とかその他、今でも大きな問題なんだと分かります。
本当に差別を無くしたいのなら「部落問題をなくそう!」なんて垂れ幕で宣伝すること無いのになあと
思いました。
人間はいくら平等だとお題目を唱えても能力には差があるんですから差別が生ます。
最近の日本は格差がひどくなってます。
御先祖さまがそういう事は一切気にしないようにとなさってきたのかも知れませんし
今になって先祖の事を忘れないで欲しいと語りかけて来ていらっしゃるのかも知れませんし
日本に天皇がいる限り出自や身分の過去の記憶は消せないと思います。
名字なんてとくにその名残りですし
家紋も。
名字とか家紋とかを否定する人は大なり小なりそれなりの人なんだろうなと思います。
同じ家族でも個人差がありますから
誰も何も言わなくなった時が日本が本当に平等の国になった時と思います。
そしてそれは「有り得ない」とわたくしは思っております。
[7] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年02月26日 16時42分50秒 ) | パスワード |
大橋さんへ
はじめまして。谷山と申します。
大橋さん、私も自分のルーツ探しに『心境の変化』で最近強く興味をもっている一人です。
私は鹿児島県の出身で5歳の頃母の地元である東京に転居してきました。私の父(大正7年生まれ)は今時めずらしい軍国主義者で、また自分が士族であることに大変誇りも持っていました。
子供の頃はよく武士としての生き方をよく聞かされました。反面それは人を差別することにもあたり、またそんな古い事を聞かされたって今の時代自分になんの得があるのだと反発しておりました。私が学生時代、地位が高く、偉い先祖をもっているらしい高崎という同級生にひどく差別されたりもしました。上には上がいるものだと思いしらされました。
私は学生時代には自由と平等の国アメリカにあこがれて留学し、典型的な親米派になりました。親友もデニスという米国人がいて、彼の結婚の時には司会もしました。
当時(昭和50年代頃)鹿児島の風土について、一方的な思い込みで古臭く、軍国的で、男尊女子というイメージを抱き、若い頃はそんな自分が鹿児島の出身であることを知られたくなくて伏せていたころがありました。しかし今になって考えてみると馬鹿馬鹿しい思い込みでした。私のアメリカ留学をすすめてくれたのは父でした。曾祖母も大正時代にアメリカ観光旅行をしたり、一族は誰よりも進取の気性をもっていました。
今の鹿児島の人はご先祖のことを聞いてもほとんどが知らない人ばかりでびっくりしてしまいます。
そんな私も現在子供がいません。これで私の家系は断絶してしまいます。父や母特に父は孫の顔が見れなくてがっかりしております。
本当に間違った先入観や、無知は罪だと思っております。
今まで私はずっとこのような自分の過去の生き方への悔恨の心境の中にありました。だからこそ余計私はせめてご先祖様のことをよく知り、供養する気持ちが湧いております。そしてせめて残された自分の人生を恥じない生き方を心掛けようと思っています。
[8] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年02月27日 16時11分13秒 ) | パスワード |
なるほど・・・
私も17ぐらいの頃からカナダで住み始め、
ちょうど多感な時期に様々な人種、文化が当たり前に混じり合う中に自分も異国から来た1個人として存在する〜と言う中で暮らして来た為、
「家」と言うものへの考え方について、自分が個人的に抱くものと、
外に出て客観的に「日本の文化」と言うものを捉えたものとでは大いに違うところが興味のきっかけとして始まっていたのかもしれません。
(特に移民の多い北米では、家族と言う制度は日本の様な「家系を継ぐ一族」と言う考えとはまた少し違って、
単に「一家を構成するメンバー」と言う感じなので、「祖父母には会った事も無い」と言う子供も珍しくありませんでした。
ファミリーネームが個人名よりも後に来て、個人名で呼ぶのが習わしの西洋文化と、
苗字が先に来て、苗字で呼び合うのが多い東洋文化にもその違いが表れていると思います)
「日本史」として表に出てくる有名な個人や家、文化とは違い、
「民俗学」において出てくる「ムラ」での共同社会や、その中での人々の営みを書籍などで触れ、
日本国内でも京阪神や東京など、都心部育ちの自分にとって、
あまり触れる機会の無い地方「田舎の風景」に残るものが、
書籍から得た知識と連動した時に、特に自分の祖先とは直結していなくても、
遠く昔に今の我々と同じ様に生活を営んでいた人々の息吹に想いを馳せてロマンを感じたものです。
「自分のルーツ探し」と言うものは、
その中で「今の自分のリアリティと一番強く結びつくもの」と言う位置づけなのかもしれません。
どんな身分だったのかとか、どういう家柄だとか〜と言うのは、
表層的にその時代その時代であったものだとは思いますが、
それよりも「かつてその人たちが確かに存在して、今の我々と変わる事なく、日々色んな事を感じ、考え、その一瞬一瞬を生きていた」
と言う実感を得る事こそが目的なのかもしれないなぁと感じます。
今、現在においても「日本史」と「世界史」が独立して存在する世界的にも珍しい我が国は、
古史古伝と記紀を分けて、また天皇家のルーツの考古学的検証がある領域から踏み入れない事からも、
「この国の歴史的概念は、未だひとつの宗教的概念の上に成り立っているのだ」と言う事を思い知らされます。
昨今の排他的に他国の文化や「信じるもの」を「盲信」の様に煽動する風潮を見ると、
嘆かわしいだけでなく、自身を弁えず他者を非難する様な愚かささえ感じるのですが、
かつてこの国が「国家」と言う大きな枠の括りの前に、
「ムラ」としての地域的共同体に属する中で、「この石の向こうは別の世界」などと言う概念が成立し、
「ムラの掟」と言うルールの中で生き、
外界へ出る事も極端に少ない中でも、その接続には文化的な違いから何かしらの禁忌が発生し、
その救済措置としての通過儀礼などが用意される・・・
と言う生活領域と必要な知識のバランスが取れていたと思うのですが、
戦後いきなり「個人と国家と世界」と言う極端な割り振りになり、
個人はせいぜい「家族」と言う最小単位のグループ内で社会の仕組みを学ばなければならない・・・
自立して個人として社会に出た途端、突然広がる無数の異文化との衝突に疲弊する〜
と言うのは昨今の引き蘢りなどの「個人世界内での完結を望む傾向」の一因の様な気がします。
冒頭の話で言う「家の考え方」について、
制度は同じながら、昔の日本と今の日本では随分違っているでしょうし、
その考え方は近年、やはり欧米化されているのかもしれません。
単に産まれて最初に属するグループであって、
先祖から脈々と命を受け継がれてきた「一族」ではないのでしょうね。
いつかは「家族」と言う制度も無くなるのかもしれません。
(昔も家父長制の武家と、女系の農村地域でもやはり違いはあったのでしょうが)
サンカなどを含めた「山の民」の話ですとか、
「この国には色んな文化、部族がかつては存在した」事を伺う書籍などを読むと、
現代こそがある意味で完全に天皇家を長とする部族に、国民の概念も含めて完全にこの国が平定されたと言えるかもしれません。
そう考えると、この国はこの千年以上もの間、それ程時が経過していない〜、
古代史として登場するあの頃と対して変わっていない様にも思えます。
だからこそ、今では失われてしまったもの、途絶えてしまったもの、
紛れて判らなくなってしまったもの〜への探究心が生まれたのかもしれません。
時間軸の縦糸、世界に広がる横糸で形成された今この現実世界にいる自分はほんの微小な一部に過ぎず、
広がる世界に向かって横糸を辿る事はしてきても、
縦糸を辿る事はあまりしてこなかったなと今にしてよく思います。
生きているうちに全てを知る事は不可能でしょうし、
また生きていく上で避けて通れないと言う様な事でも無いので、
完全に無視してしまっても良いのでしょうが、
時代時代にまつわる文化的、風俗的背景なども含めて、
この分野は興味をそそられるにはあまりに魅力的でもあります。
ここにいらっしゃる方は皆様多かれ少なかれそういう想いをお持ちだとは思うのですが、
身近にそういう事に興味を持つ人間が皆無な為、
なかなか突破口も無く、話も広がらずに、ついつい日々の生活に埋もれがちでした。
考えてみれば、今隣に居る人も、街角を行き交う人々にも、
それぞれに人生のドラマがあり、
出自のルーツがあり、そこにも途方も無く人生のドラマが広がっている事を考えると、
所詮、個人が認識している「今」も「歴史」も、
等しく膨大な集積情報の部分的な寄せ集めで構成されたものに過ぎないと実感します。
その構成の仕方、素材で構築される「今」も「歴史も」異なってしまう。
だからこそ私には私にとっての今、歴史、を改めて再構築すべき時なのかもしれませんね。
それを経て何か認識が変わるのかもしれません。
今後とも皆様のご鞭撻の程を宜しくお願い致します。
[9] | 小林雅成さんからのコメント(2006年02月28日 10時26分05秒 ) | パスワード |
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm |
大橋一登様
私の把握している岡山県内だけでも14種類の家紋を大橋家の人々は使用しております。ルーツのはっきりしている家もあれば?の家もあります。
辞書に載せるのはそのうちルーツの説明のつく部分だけでして古い文献にでてないようなケースは割愛されるのが現状です。
一言で言えば「マハー(偉大な部族)なるはナーガ(龍、蛇をシンボルとす)なる哉」で説明できます。平姓を伝えていれば、私の用語でペルージャと呼んでおります。
あるいは家紋からいえば、インキュベータといいまして、大橋氏よりあまた分かれうるといいます。
あまりいうとカルチャースクールでの企業秘密がなくなりますので、これくらいで。
なんや、この小林いうおっさんはサンスクリット語や英語を振り回して図書館で家紋研究家の書いている家紋の本にはでてこないことをいわはるなぁという印象があるとおもいます。そんなちょっと異色の家紋講座。神戸元町でうんちく垂れてます。3月講座は見学も出来ると思いますよ。
小林雅成
よみうり文化センター神戸校 講師
朝日カルチャーセンター 講師
NHK文化センター 講師
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月28日 12時27分42秒 ) | パスワード |
今やってる「功名ヶ辻」の信長の紋は
木瓜と永楽通宝?紋で
番組の終りの歴史探訪コーナーで信長奉納の太刀はアゲハチョウ紋だったと昨日の放送で紹介してました。
世間一般では「織田木瓜紋」が代表だと思いますが
蝶紋は平姓を称した時以来なのかなあ、と思います。
ホントはもっといろいろな紋を使ってたのかなと思います。
銭の紋は美濃をとってからかな?楽市楽座以降かな?と想像しています。
「天下布武」を志してたってことなのかな?と。
必要に応じて「スローガン」のようにいろいろな旗指物を使ってたんじゃないかと思います。
江戸時代になって世間が落ち着いてからはアレもコレも使わないようになったのでは?と。
特に力の無い層は。
[11] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年02月28日 23時00分25秒 ) | パスワード |
あれから色々と家紋一覧の書籍なども読んでみて疑問に思ったのですが、
そもそも家紋の選択と言うのは、何か基準があったのでしょうか?
全く別の地方、別の仮名で同様の紋と言うケースが多数有るのを見ると、
特定された家紋の柄が先にあって、それを選択していった様に思うのですが・・・
いつ頃、どの様に発生し、どう言った経緯で普及していったのかまだ把握していないのですが、
今で言う戸籍や住民票などの様に「家の識別」の為に、特定の機関から発行されたものなのか、
家紋デザイナーの様なものが居て、家紋ブームの様なものが発生し、
好みのものを選んで「家の紋」としていたのか、
後者なら、場合によっては家紋は家系を辿る手がかりとしては非常に希薄な材料になりますね。
岡山県の大橋と言うのは、倉敷の大橋家住宅などで有名な大橋氏の筋でしょうか?
考えてみれば、調べて行く内に、中部地方での大橋家の話に行き当たった事と、
富山との位置関係、倉敷の大橋家の起源などを考えて、
安易に倉敷の大橋家とは関係無さそうだと思い込んでいましたが、
無関係だとするだけの確証など何もありませんでした。
そう言えば、以前、島根や鳥取の方を旅した時にも、
どこかの城で大橋の鎧兜なるものを見た記憶がありますが、
その時も位置的に「うちとは無関係だろう」と勝手に思い込んでいましたが、
ある程度「筋」として特定出来る大橋家と言う家柄が、
全国でどれぐらい分布しているのかも知らず、
それぞれが同じ起源に集約されるのか、別の起源を持つものなのかも知る由も無いので、
やはり地道にフィールドワークをこなして辿っていかないと、
予断から推測や仮定でたぐり寄せて行っては、
実は全然繋ってなどいない所に決めつけてしまう危険が大いにありますね。
[12] | 小林雅成さんからのコメント(2006年03月01日 00時51分17秒 ) | パスワード |
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm |
大橋様
>そもそも家紋の選択と言うのは、何か基準があったのでしょうか?
日本にはトーテムは無いといわれているが、文化人類学的にいえばトーテムにあたると見ていいとおもう。戦国時代は、これを奪い合い、殺しあった。
もしあなたの先祖が対立する敵の家紋を染め抜いた幟を用意して戦国時代の合戦にのぞめば、敵に殺されるのではなくドサクサにまぎれて味方の槍で刺されるかもしれない。いいかげんにチョイスすると思われますか?
>全く別の地方、別の仮名で同様の紋と言うケースが多数有る
シンクロニシティー。共時性。私はあると思う。あるいは、古代よりルーツ詐称が多く、クガタチという儀式があったというから、それ以前があるのではないか?平家物語にでてくる瀬尾太郎の子孫の妹尾家で、七宝に花菱を使っていたりする。それを見て大橋様がいいかげんな使用法だと判断されるかどうか?
立場上、著書で表明は出来ないが、東南アジアで千葉氏族の家紋と同じマークがあったり、インド北西部の王族が使っていた紋章と新田氏族の紋章が同じだとか、アケメネス朝ペルシアの王族のマークが、某家紋そっくりだとか、中国の故宮博物館?の展示物に清和源氏小笠原氏族の家紋ににたのがあるとか。比較紋章学といいますが、まじめにやれば面白いでしょうね。古墳からでてくる古い鏡、古墳の壁画、家紋ににたのがあるんですわ。
京都は恐ろしいところで、旧家の蔵を壊していたらとんでもないものが出てきたりする。通説では家紋発祥は平安後期になっているが、もしかするとそれが覆るような史料が出てこないとは言い切れないのです。そやから私は家紋の起原は学者により色々説がありまんなぁ、ぐらいでお茶を濁す。
>「家の識別」の為に、特定の機関から発行されたもの
ないですわ。でも自発的に用いて2万5千種類を超えるのが出てくるのかとも思う。
>家紋デザイナーの様なものが居て、家紋ブームの様なものが発生し、
江戸時代元禄年間ぐらいがそれにあたるでしょうね。
>好みのものを選んで「家の紋」としていたのか、
と書いてあるでしょ?町人はテキトーに選んだと。私は町人を先祖とするものですから、町人は人以上に調べているつもりですが、このテキトー説をだした人の判断基準となった家紋のデータはいくらぐらいか?せいぜい数百では?
結論からいうと非常に理路整然としているのです。勿論、仮冒、母系ルーツや利害関係で称したなどを濾し取った上でのことですがね。家紋データベース、地名辞典、荘園データベースなどを多角的にフル活用するとでてくる出てくる。
今度、研究団体の機関誌にエッセイ風にかいたのを発表する。これを見れば、家紋がすごいのが判ってくる。
>岡山県の大橋と言うのは、倉敷の大橋家住宅などで有名な大橋氏の筋
一番有名どころですね。倉敷の中島屋大橋家は近江発祥の佐々木氏族だといっているようですね、本によっては藤原姓になったりと。
「マハー(偉大な部族)なるはナーガ(龍、蛇をシンボルとす)なる哉」といったでしょう。これは奇をてらったわけではなくて源平藤橘でうまく説明できずに悩んだ末にあみ出したフレーズです。
つまりサンスクリットで大橋の【大】をマハーといい、屋号の中島屋を中(ナカ、ナーガ)と分類したまでのことです。
>富山との位置関係、倉敷の大橋家の起源などを考えて、
富山から中部にいくのに飛騨の険しい山を越えますか?それとも中部からだと
関が原越えて近江に出て船で琵琶湖を北上し、若狭へでてさらに舟でいけば富山はすぐですよ。新幹線もJRも飛行機も無い時代ですよ。地図から近代的なものを全て取り去り、徒歩、舟、せいぜい駕籠で結ぶのですよ。
>ある程度「筋」として特定出来る大橋家と言う家柄が、
私の場合、ユダヤっぽいかどうかを小林家でみるときに判断材料にしてます。
源氏といったり、平氏といったり、藤原氏といったりしてますがその先ですね。
散文的になりました。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年03月01日 01時26分24秒 ) | パスワード |
一昨日だったか韓国語放送をたまたま見たら
オークションが開かれて「3本足の竜」の絵柄の壺が高値で売れた
というニュースをやってました。
ま、白磁の壺なんでしょうけど
3本足ねえ、ということで「3本足のカラス」を連想しました。
あの、サッカーじゃないほうで。
そしてNHKの「大化の改新」のドラマで
入鹿が3本足のカラスの絵柄の上着を着てるのを見てましたから
今のように「家紋」として定着したのは戦いが日常化した時代以降なんだろうな、と思いますが
元になるのは、古代にはあった、と。
宗教的にいうとダビデの星であり、古代エジプトのラー神の時代。それからメソポタミア。
要するに、人間が地面に落書きして以来、家紋の源はあった、ということでしょうね。
[14] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年03月01日 13時31分01秒 ) | パスワード |
私はこれまで家紋と言うものは何となく漠然と「家系を識別するもの」
〜言ってみれば名字の記号化の様に思っていたのですが、
機能面で考えてみれば名字があるのに、それと同じ機能として記号化する必要は無い訳で、
実際の発生には、現代遡って深く考察する程深い意味など無かったのでは無いか?とも思えます。
単純に「家」を識別する事と、
「家系」を識別する事では機能が違う訳ですし、
極端に例えるなら「親がこの紋を気に入って採用してたけど、俺は嫌いだからこっちの紋にする」
と言う様な代毎の変更があったとして・・・
それは「家系の識別」の機能は何ら持ち得なくなりますが、
「家の識別」としては機能を失っていないと言えます。
名字の記号化として「家系を識別するもの」として発生から代々受け継がれてきたものであれば、
現代に残る結果はあまりにも名字の系統とかけ離れ過ぎている様に感じます。
異姓同紋や同姓異紋、それらの地域のバラツキなどの入り乱れ方があまりにも雑然と過ぎている様に思うのですが、
何故そうなったのかを考えると、やはり「元来は必ずしも家系の記号として受け継がれていく機能を持つものではない」のだろうと考えざるを得ません。
実際の所は、ほとんどが「一度決定された家紋を、特に何の必要性や疑問を感じないまま系統してきた」と言うのを「遡って見渡した」時に、
「家系毎に受け継がれた記号」の様に見えてしまうだけではないのでしょうか?
歴史上に名が挙がる様な権力者など、家系の識別と家の識別が同様の影響力を持つ家柄では、
紋の持つ意味も結果的に同化してしまったのでしょうが、
元々の当時の人たちの認識として、「我が家の家紋」に「姓を受け継ぐ」事と同意と捉えていたのかは疑問です。
そもそも姓の発生自体が、バラツキのあるものであり、
理路整然と一斉に構築されて派生したもので無いのですから、
(氏姓制度の前後では全く様相が違いますし)
紋なども「民俗学的資料」としては意味があっても、
家系を辿る材料としてはあまり意味が無いと言うか、根本的に筋違いだった様な気もします。
それで辿れるのは「家紋はそういう機能を持つものだから」と言うよりは、
「たまたま結果的にそういう機能性を持ってその家では受け継がれてきた」事によるものではないでしょうか?
言ってみれば「代々受け継がれてきた家宝」と代わらない様に思います。
ある代では、それは全く無価値なゴミとして一代で始末され、
ある代では、前代の形見が家宝化する〜
などの様に、必ずしも自動的に受け継いでいくものではなかったのではないでしょうか?
単に私が勘違いをしていただけで、
皆様もともとそう言う認識だったのかもしれませんが、
現代でも姓は日常に存続していても、
紋など全く日常性を得ていない事を見ると、
当時から紋は世襲の正当性を誇示する必要性のあった一部の特権階級の間でしか機能していなかった、
或いは大した存在意義は無かったのだろうと思えます。
民俗学では「現代的価値観のままで解釈するから、同じ事実、資料を見ても、
当時の意味や機能とは全く異なった概念で捉えてしまっている事が多い」事によって、
誤った認識、史実を創り上げてしまう事がよくありますが、
それはどの時代においても、現代で生まれ育った人間が過去を考察する上では避けられない事であろうと思います。
所詮「過去」と言うのは情報の再構築であり、
構築の仕方、解釈の仕方によって、全く異なり得る訳ですから、
ある意味では、我々は各自で、何かしらの意味において「都合の良い過去」を選択しているに過ぎません。
現代と考えれば、行動範囲も著しく狭く、情報の流通もごく限られていた事を思えば、
現代人の想像する家紋の機能や意義と、
当時の人間のその必要性は全然かけ離れて然りでしょう。
そもそも家系を識別し、家系を遡ったり重んじたりする必要性がある家や個人が当時どれほど存在したかを考えれば、
現代に数多く残る家紋の多くは、その機能や意義を必要性を持って保持され残ったものと言うよりは、
やはり庶民が余裕のある時代に、通俗的に発生したものがほとんどであろうと考えるのが自然だと思いますが。
紋の機能や、それを大切に扱う必要性があったと考えられるのはごく僅かな家柄のみで、
当時ほとんどの日本人にはそんなものの必要性など発生しえなかったと思います。
葵の御紋に平伏す〜程のシンボルとなり得る家が沢山あったとは思えませんし、
また、それを知りうる教育や情報流通などが無かった時代には、
ほとんどの人にとって家紋など無意味でしょう・・・
その行動範囲を思えば「私は大橋家の人間だ」と主張する事で何らかの作用がある対象は、
すでにその人が大橋家の人間である事を知り得る範囲内の人間ぐらいのものだろうと思いますし、
「家を識別する」機能が姓以上に、或いは視覚的に判断出来る必要性も大して無かったと思います。
また「家系を識別する」事においても、
「先祖を敬う」と言う儒教思想は林羅山によって巧みに仏教に組み込まれて以降のものでしょうから、
(少なくとも純粋な仏教当時は輪廻天性が基本であり、神道では死者は神になり、その他ほとんどの民間では死者に対してはほとんどが定義化した意識すら無かったでしょうから、
「先祖」と言う概念は日本では割と近年のものであり、本来儒教のものである「位牌」が「仏具」として誤認されているのも近代的なものですし・・・)
現代の様に豊かな暮らしの中で「自分のルーツでも遡ってみたいな」と言う様な余裕のある時代などごく近年の事ですし、
世襲の正当性や親族内での結束のイコンとして以外、機能のしようも無かったと思いますし、
ほとんどの家はその必然性も生まれ得なかったでしょう。
それらの時代背景を踏まえると、家紋と家系は隣接しているけれど、
同じ分野ではないのだと実感しました。
[15] | 小林雅成さんからのコメント(2006年03月01日 20時01分58秒 ) | パスワード |
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm |
大橋様の素晴らしい論理展開いたみいります。
で、本論に戻りまして、最初の書き込みからおそらくは立派な系図をお作りになりたいとか、ご自分の代には
>ある代では、それは全く無価値なゴミとして一代で始末され、
>ある代では、前代の形見が家宝化する〜
どちらかをご希望されているとお見受けしました。日本で数少ない家紋コンサルタントとして大橋様のお力になれるとおもいます。
コンサルタント料は7桁も取らない良心的な仕事をやっております。
系図の専門家(数十万でやらせますので)もご紹介できますので、是非お話をお聞かせいただければと思います。
ご連絡いただければ、私の連絡先をお知らせいたします。最初の待ち合わせは神戸ベイシェラトンホテルでいかがでしょうか?
着手金は10万円現金で結構です。
ご返事を心からお待ちしております。ご注文いただければ、当日の予定全てキャンセルして大橋様の夢の実現にお力になる所存です。
[16] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年03月02日 22時59分04秒 ) | パスワード |
小林様
どの様に曲解すれば、その様に展開するのか判りませんが、
残念ながら系図の作成など全く興味もございませんし、
家紋も「糸口のひとつ」として持ち出しただけであり本題ではりません。
文面にある通りです。
私が興味があるのは過去に生きてきた人々の息吹と、
それを辿る方法論の「俯瞰」です。
その方法論のひとつを盲信する事もありません。
他の方をお当たり下さい。
[17] | 小林雅成さんからのコメント(2006年03月03日 09時42分03秒 ) | パスワード |
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm |
そうですか、お力になれずに残念です。
秦・スレッドとユダヤ・スレッドで顔出しておりますので、ご用があればいつでもお申し付けください。
[18] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年03月04日 13時11分03秒 ) | パスワード |
私は哲学と言へば表面的なことしか知りません。この分野に関しては特に逃げ腰になってしまいますが私の考える別の側面を端的に表現するため敢えて引用します。
形而上学とは存在を研究する哲学だと聞いています。プラトンの有名な洞窟の比喩のなかで、『洞窟のなかにいる囚人たちのように、人間は神の真理の火によって映される影をかなりはなれたところから眺めているだけなので、真実在とはことなるその単なる見かけを経験することしかできない』と言うような事が書かれています。
『実在とは、現世における人間の本質のことである。しかしそれは、その人間が色白なのか日焼けしているのかとか、また父親なのか息子なのかとか、影響を与える側なのか受ける側なのか、そういった偶然的な要素には関係しない』
これらの言葉を引用しますと、親子関係も偶然的な要素、もしかすると先祖との関係も偶然的な要素であると解釈できます。形而上学的、キリスト教的(神と人間)二元論では我々はこの世の事は、単に幻影を見たり、経験しているだけだということになってしまうのでしようか。
[19] | 大橋 一登さんからのコメント(2006年03月05日 00時52分32秒 ) | パスワード |
谷山様
物理学の中で「量子力学」と言う分野をご存知でしょうか?
詳細は割愛しますが「シュレディンガーの猫」の話などが有名です。
いわゆる「観測するまで対象は特定出来ない」「観測行為が観測対象に影響を与えてしまう」と言う話ですね。
転じて言い換えるなら、この世界は主体による主観認識で構成されたものであり、
言語によって共通認識を持とうとはしても、それは根本的に主体毎に異なるもの。
即ち「実存」そのものを客観的に証明する事は出来ません。
(それは「我思う故に我あり(この世で唯一確かなのは「今私がその事について考えている」と言う事だけだ〜と言う奴です)」の哲学ともシンクロ出来ます)
つまり、実在とは、現世における人間の本質のこと〜ではありませんし、
実在する「コト」「モノ」と言うのは、単なる「結果」の連鎖・集積であり、
偶然、必然、慨然、意味、無意味〜などは、それを対象として観測主体が自己都合に合わせて分類したものに過ぎません。
「個人的な解釈」と言う事ですね。
実在とは全く関係の無い事です。
親子関係を語るのに偶然も必然も持ち出す必要などなく、
単に「結果」に過ぎません。
先祖を辿ると言うのは単に「因果関係を辿る」とも置き換えられるでしょう。
そこに意味が存在するのではなく、
主体が「自分にとって」の意味づけをするに過ぎません。
ですから、偶然であろうと、幻影であろうと、
それは「その人だけの概念」と言えます。
「概念」と言うのは大雑把に自体を分類・理解するのには非常に有効ですが、
こと「実在」に対しては、その整理整頓の為に端折られた部分も等しく重要な情報な訳で、
理解しやすく「概念」として整理整頓された時点で実在情報とは言えません。
(例えば、5cmの定規と10cmの定規では、どちらも「定規」と言う概念で括れますが、
実在するものは5cmと3cmと言う長さの違いも個体識別としては重要な情報です。
同様に「長さの違い」と言うのもひとつの概念に過ぎません)
要するに、実在をありのまま認識する事は不可能だと踏まえた上で、
より実態に迫るには、ひとつの物事に対しても可能な限り多角的に捉えるしか無いと言う事でしょう。
その時の目的に応じて何かひとつの概念を主軸に置くと言うのも、
理解を早める上では非常に有効ですし、
かと言って、それで判断してしまうと肝心な事を見落としてしまう事にも繋がります。
何かに取りかかる上で、
ある程度目的を特定しておき、それに合わせて方法論も切り替えて行くのが、
限られた時間の中で取りかかる極意ではないかと思います。
その為には、対象だけではなく「物事の見方」「考え方」にもバリエーションが沢山ある事を知っておく事が大切なのでしょうね。
歴史というのは「実在しないもの」なので特に注意が必要でしょう。
所詮は寄せ集めた情報の構成に過ぎません。
解釈の仕方、考え方などの方法論の違いで、同じ情報でも全く様相が異なってしまいます。
我が家には犬がいますが、
例えば飼い主が疲れてソファにしなだれている所を、
飼い犬が顔を寄せてペロペロと嘗めて来た時、
「心配してくれてるの、優しいね」と捉える人と、
「疲れてるんだから、ソッとしておいてくれ」と捉える人とでは、
そこで起こった出来事は同じなのに、解釈がまるで異なります。
一方は「飼い主を気遣う優しい犬」
一方は「飼い主を気遣えない馬鹿犬」
ひとつの出来事に、全く逆の二つの事実。
現在に実在しない「歴史の真の姿」と言うのは、限られた情報を多角的に捉えて「汲み取る」しかありません。
しかし実在する現在を捉えきる事が不可能である以上に、実在した時と同じ情報を得る事も不可能ですから、
結果的に今も含め歴史と言うのは極めて個人的なものと言えます。
それを更に複数の人間で寄せ集めたものを最大公約数的に束ねたものが、
「歴史の事実」とされていても、やはり「漏れた情報」を無視されたものは「実在のものとは異なる」と言わざるを得ないでしょう。
歴史に限らず、この世の我々の認識は総じて「何かしらの情報に基づくフィクション」である事を超えません。
[20] | 大橋興生さんからのコメント(2007年03月13日 15時12分53秒 ) | パスワード |
織田信長の馬周り−秀吉の小姓ー加藤光泰の家老ー以下明治まで伊予大洲藩家老を務めた「大橋」の家紋は「違い井桁」です。加藤家に仕える以前の家紋は
「花車」と記してありますが、この「花車」の意味がまったくつかめませんでした。偶然にこのスレッドに中に「七宝花菱」の大橋、それも加賀藩とあり、もしかしてとキーをたたきました。
加賀藩大橋は甲府「加藤光泰」が没後(15万石から4万石黒野城へ転府)のおりに、加藤家に仕えた「大橋」と加藤家の後に甲府に入った浅野長政に仕え
後に「浪人」、それから前田利長に仕え「奉行」職になり明治まで「金沢」に
居られた?「大橋家」があります。(金沢図書舘)伊予と加賀の大橋は縁続き
となります。家紋が「花車」とあり、なんのことと思っておりました。
「七宝花菱」を「花車」と称したか、否か?ですが文字を追う楽しみがふえました。津島「大橋」は「家」の祖でるあることになります。
[21] | アカコッコさんからのコメント(2007年03月13日 15時36分15秒 ) | パスワード |
ご無沙汰しております。
多摩川にてお会いしてから、もう何年になりますかね?
あれからパソコンが壊れ、メールアドレスなど分からなくなり、大洲城の復元の画像など頂いたのに、連絡がつかずになってしまい失礼しております。
住所などはPCに入れとくと危険だと思い、教えて頂いた時点で消去しており、本当にご無沙汰です。今現在もアドレスは持っておりますが、設定はしておりませんので悪しからず。
あれからご研究も進まれた事と存知ますが、またどしどしコメントして下さい。
[22] | 大橋興生さんからのコメント(2007年04月02日 13時17分02秒 ) | パスワード |
URL=http://niinanakai.com |
兵庫島以来のご無沙汰でございます。
1)金沢の古文書館ではいろいろご指導いただきました。マイクロフイルムの システムが充実しておりました。ごっそり史料を持ち帰りました。
2)今年は、三原と米子へまいる計画ですが?
三原は「浅野家」へ養子にいった世代がありますのでぶらりとです。
米子は「中江藤樹」との関りで発見があればと思っています。
[23] | アカコッコさんからのコメント(2007年04月03日 15時36分20秒 ) | パスワード |
ほんとうにご無沙汰です。金沢の古文書館で史料をご覧になったそうで、羨ましいですね。私なんかURLで検索するのがやっとです。
以前、他スレに紹介したのですが。石川県立図書館では古文書がデジタル化されておりました。
其の中に加賀藩士の侍帳がありました。(慶長・元和・寛永:寛文等々)
『慶長10年利長様富山へ召連れし候人々』など初期の侍名があり時代ごとの何千石から何百石までの多数の記載があります。
前は閲覧できたのですが、この頃は繋がらなくなってしまいました。残念。
差し支えないのでしたら、加賀藩の大橋家についてご教授くださいませ。
[24] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 15時52分57秒 ) | パスワード |
加賀藩の侍帳
http://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html
これじゃ繋がりませんか?
[25] | アカコッコさんからのコメント(2007年04月03日 16時25分17秒 ) | パスワード |
これで良かったのですが、表紙のみで、頁がめくれないのですが。
私のマシンだけかな?
重宝していたのですが。
[27] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 18時41分34秒 ) | パスワード |
左のコラムの1番下です。
わたくしのディスプレイではズリズリずり下がらないと見えない位置に
寛文侍帳
細目次へ
1. 寛文元年侍帳
2. 寛文9年侍帳
3. 寛文11年侍帳
というのがあって「細目次へ」というのをクリックなさいますと以下のように出ています。
(これのことじゃなかったらごめんなさい)
寛文侍帳
細目次 1/3
・寛文侍帳
・寛文侍帳内題
1.寛文元年侍帳
・人持分
・小々姓
・中小姓
・小々姓
・小坊主衆
・小姓
・御馬廻組
・定番御馬廻
・射手
・異風
・御歩行
・医師
・小算用
2.寛文9年侍帳
・御人持組
・人持分
・御馬廻6組
・組外衆
・御射手衆
・御異風衆
・御歩行与
・定番御歩行
・御鷹匠与
・御算用者
3.寛文11年侍帳
・横山左衛門与力
次頁>
・人持分
本田安房
松平玄蕃
小幡右京
奥村源左衛門
多賀右近
松平治部
奥村三郎兵衛
渡辺八右衛門
吉田左近
窪田弥八郎
不破忠左衛門
長九郎左衛門
永原左京
堀与左衛門
不破彦三
奥村宇兵衛
永原大学
[28] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 18時47分05秒 ) | パスワード |
これでしたら、ごめんなさい。
わたくしのもこんなになってます。
Not Found
The requested URL /toshokan/dglib/samurai/doc/keityo/keityoPage2.htm was not found on this server.
Apache/1.3.37 Server at www.library.pref.ishikawa.lg.jp Port 80
[29] | アカコッコさんからのコメント(2007年04月04日 19時19分01秒 ) | パスワード |
はい、同じです。
執念を燃やしてトライしたら、寛文元年侍帳は全部閲覧出来ます。
それには大橋又兵衛・大橋長兵衛・大橋五郎右衛門等々のお名前が読とれます。
また、平田三郎右衛門・平田善四郎・平田弥右衛門・平田治左衛門等々のお名前もありました。
[31] | 大橋さんからのコメント(2012年07月06日 02時48分59秒 ) | パスワード |
URL=http://mixi.jp/show_diary_picture.pl?owner_id=3917859&id=1193107689&number=175 |
はじめまして、津島の大橋です。
4か月ほど前、父が他界し、
歴史の長い大橋家を背負っていきます!
1600年頃分家して
本家は50年ほど前に、子孫もなく、お亡くなりなり
私のトコが本家になりました。
悲しんでる暇なく、私は天王祭りの理事になり
今月末、天王祭りです。
父が愛した天王祭り私が受け継いでいきます。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月06日 06時59分14秒 ) | パスワード |
大橋さん
初めまして。
代替わりがありましたか。
お父さまの御冥福をお祈り致します。
暑くて湿度が高いこの時期に正装を着用しての神事
大変ですね。
でもエンエンと続いて来た行事ですから絶やすわけにはいかないですね。
頑張ってください。
津嶋神社と大橋家の繁栄をお祈り致します。
[34] | 津島の大橋さんからのコメント(2012年07月07日 01時26分35秒 ) | パスワード |
URL=http://www.city.tsushima.lg.jp/index.php?oid=1196&dtype=1013&pid=143 |
ありがとうございます。
正装を着用してると、暑いでしょ?暑いでしょ?と
言われますが、案外涼しいんですよ。
麻で編んだ着物は
協賛会や奉賛会で突然正装着る方は(綿)ハッキリ言って地獄です。
天王祭り
今年のリーフレットです。
http://www.city.tsushima.lg.jp/index.php?oid=1196&dtype=1013&pid=143
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月07日 07時09分07秒 ) | パスワード |
拝見して来ました。
なるほど
麻の裃なら、肌にサラサラで、暑くはないんですか。
綿は汗を吸って、確かに、肌にべっとりかもですね。
それに「川」ですし
川風で涼しいかもですね。
[45] | 大橋 興生さんからのコメント(2018年11月01日 18時21分48秒 ) | パスワード |
今日、只今2019年への扉が見えておのります。ぴたりと,途絶えてしましましたが、やっと、自身の「家」のことなどを文字にいたしたく、先のこと、時間のことを考えております。伊予大洲にあります60を越える「大橋」の墓石に刻まれた文字を追いながら、少々の夢にも思いをこめて、資料集めと昨今充実してきております諸当道府県にあります古文書などなどを見に参る所存です。
大橋 興生
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