[1] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年02月18日 14時59分55秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
明治初期戸数・人口表(明治7年)によれば、
山梨県(甲斐)の士族は1211名(男622名、女589名)。
武田滅亡後は平岩(甲府郡代)、羽柴、加藤、浅野、徳川、柳沢などの領主変遷があり、享保9年以降は天領(幕府直轄領)だったことから、士族の大部分は甲府勤番関係と思われる。
武田武士の多くは徳川旗本や他藩士に転じたり、帰農したものが多いようである。
また隣接国に移住して庄屋などに成ったものもある。
他県に比較して士族が極端に少ないことだけは確かである。
[2] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年02月18日 17時04分07秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑さんへ
女589名とは男622名の内の奥様のことですか。
良く分りました。ご教授有難うございます。
[4] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年06月03日 14時59分28秒 ) | パスワード |
原昭徳さんへ
久しぶりにこのWebを開いてみたところ原昭徳さんから本件に関しますコメントがありビックリしました。
原さんの本家筋の叔父様が甲府勤番同心だったのでしようか。もしそうであれば、日本の苗字七千傑さんから教えていただいたように山梨県の士族は他県に比べて本当に少ないので、ある意味貴重な存在でしたね。
江戸時代の頃だと思うのですが、徳川家が東京のはずれの八王子に来た時、それを警護する目的で組織された八王子千人同心という武士団がありました。
その千人同心の武士の一部は山梨県出身の士族もいたそうです。
私の子供の頃友人が八王子に住んでいました、その時自分の先祖は士族で山梨県出身だと言っていました。あのころ士族という身分を表す言葉を使う人は(特に子供で)あまりいないので大変記憶に残っていました。多分当時千人同心として山梨県の士族が八王子に派遣されてきたのではないかと思います。
原さん、色々情報教えていただきまして、有難うございます。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月06日 00時56分29秒 ) | パスワード |
谷山正夫さま
貴重な書き込みを小次郎さんより頂きましたので
タイトルをちょっといじらせて頂きますね。
ぺこり
[13] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年06月08日 22時33分41秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
参考までに:
明治初期戸数・人口表(明治7年)によれば、
奈良県(大和)の士族は23,390名(男11,576名、女11,814名)。
他に卒族は398名(男女計)。
従って奈良県が他県にに比較して士族が少ないわけでもない。
最大藩の大和郡山藩の藩士が2000名弱だが、奈良奉行(総石高50万1361石)と五条代官が置かれ幕府関係が駐在したほか、寺社関係の侍も多い。
[15] | 布袋竹・さんからのコメント(2006年06月08日 23時44分30秒 ) | パスワード |
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html |
谷山さん出身の鹿児島は人口の約三分の一が武士。
名前、出身からも士族に間違いないと思います。
この大侍人口を扶持するため、外城制度を作り、島津氏直属の武士以外を
地方に置き、屯田兵的な開墾収穫や地方の政治行政を司らされたのがこの制度です。
江戸終りに113もあったので、現在もかなりの外城の数が残っています。
知覧や出水、入来は国の伝統的建物群として、指定されています。
それ以外にも、外城の武家屋敷群は現在も人が住みながら、各地にあります。
[16] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月09日 01時35分31秒 ) | パスワード |
>鹿児島は人口の約三分の一が武士。
これまた凄い数ですねえ。驚きました。
江戸時代の各藩のポリシーの差ということですね。
土佐なんかは土着の人を苛酷に扱ったって聞きますから。
[18] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月09日 04時22分23秒 ) | パスワード |
小次郎さん
序列って実際のところは分かってませんでした。
ありがとうございます。
谷山さん
ちょっとタイトルをいじらせて頂きますね。
ぺこり
[22] | 布袋竹・さんからのコメント(2006年06月10日 21時27分37秒 ) | パスワード |
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html |
脱線しそうですが、元は谷山正夫さまのスレッドで、武士の血が・・と言うことで・・
薩摩の城下士と郷士、ともに明治は○○士族の拝命はありましたが、(○○は地域名・例知覧士族)
その差はおっしゃるように、かなりの開きがあったようです。
郷士は城下士からは「肥たんご(桶)侍」と言われ、仮に郷士を城下士が切ったとしても、紙切れ一枚差し出せば、問題なかったと言うような話もあったと。
ただ、知覧は島津家御一族ではありませんが、島津氏の氏族で、後年は島津を名乗っても良いという地位でした。
ほかにも、同じ郷でも、島津ご一門家「四家」や幕府の天領にあたる地頭の治めた郷や、一所地「私有地」の郷などあり、格式やプライドはそれぞれの郷によりいろいろありました。昭和の初めごろまでそれを引きずっていたところも・
島津氏「惟宗家」が入る前からの地頭や郡司など、平家の流れを引く豪族などもいたようですが、島津家に取り入れられたり、滅ぼされたり
室町以降の戦乱の世の中で、島津家自体はおろか「内紛」、それらの郡司・地頭も入り乱れて戦ったり、血縁を深めたり、それこそ雑多の血が入り混じっているはずです。
島津家・家臣の系図をたどれば、色んな血が見えます。
江戸末期の公武合体、島津と徳川などと同じような。
と言うことからも、ギャンブラーさまおっしゃる血の混じりが何代にも渡って、日本人は源氏・平家も入っているとにも繋がるのでしょうね。
[25] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年06月11日 07時45分44秒 ) | パスワード |
小次郎さん
小次郎さん、ご親切なアドバイス有難うございます。
大変心強く思いました。
[26] | 布袋竹・さんからのコメント(2006年06月11日 11時46分02秒 ) | パスワード |
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html |
谷山正夫さま
今、私は知覧まで車で20分ほどのところに住んでおり、知覧も何十回と足を運んでおり、観光地外の知覧の武家屋敷なども見ています。確かに、侘び寂びを取り入れた士族の家屋敷ですが、質素な造りではあります。壮大な自然の借景を取り入れた「参勤交代などで、江戸や京の庭師など招いて作られた」素晴らしいところですが、城下士と禄高はかなりのヒラキがあります。
郷士は領主から禄高何石かをもらっていましたが、その禄は現物でなく、それに相当する農耕地の支給を受け、これを耕作する知行制でした。私のいる郷では30石以上は数家、10石以上も30家ほど、郷のほとんどの残り300家は一石無い家もたくさんありました。確か20石以上は門構えを持ってよい家柄でした。一石無い家でも、カギ型に曲がった、一直線に入れない武家屋敷の体裁は作られています。
城下の足軽でさえ、一身賄い料三石六斗が支給されており、これは郷の禄高に換算すると約十石に相当したそうです。大部分の郷士が足軽以下の微禄であったわけです。知覧も門構え門柱から同じような禄だろうと思います。知覧の知行高帖を調べたなくてはいけないのですが、そんなには隔たりがないはずです。
県内の色んな郷「外城」の屋敷なども見てまわりましたが、郷士の生活は知覧のそれと大きくは変わってないようです。
城下の現在繁華街の千石町は、領主や地頭などの屋敷跡で、これらは桁違いですが・古地図などからも大きさ内容など推量できます。
ただ、士族のプライドの高さは知行高に反比例か、隣の島津一門家郷士「徳川に嫁いだ篤姫出身地」や喜入郷は、かなりの精神的なそれをもっているところでした。
武士は食わねど高楊枝を生で行っていたようです。
よその藩の武家屋敷なども、見られる機会には比較しますが、郷士高禄と比べてもその差は歴然としています。薩摩の禄高は他の藩の10倍の価値・十石なら百石の禄高だとおっしゃる人も・・「十分の一しかない」
三木靖先生は鹿児島短期大学の学長をされておいでのとき、生涯学習や南九州城郭談話会などで、山城の見学や講和など拝聴しました。
[30] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年06月13日 10時21分37秒 ) | パスワード |
小次郎さん
個人的理由で私のコメントの一部削除致しました。無礼をお許し願います。
でも小次郎さんには本当に感謝しております。
[33] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月16日 23時15分52秒 ) | パスワード |
小次郎さん
親切丁寧な書き込みをありがとうございました。
貴重な情報なので助かる人が沢山と思います。
ぺこり
[34] | アキノリさんからのコメント(2006年06月20日 20時51分31秒 ) | パスワード |
小次郎さん
有難う御座います。
本当に知りたいのは服部半蔵配下伊賀組のその後です。
自慢話ではないです。
伊賀衆の齋藤佐五衛門、原惣左衛門の名が記されています。伊賀衆は鉄砲組
御先手組です。
伊賀衆は服部氏一族であり、平山氏、富田氏、和田氏、齋藤氏等々
黒田荘名張蔵持付近の出自だったと思われます。
私の家にも家譜はあります。しかし8代前ですが...
おそらく次男三男だった子の御家人は甲府勤番で残ったと言う事実からはいらしていただきました。
あまり否定からはいるのは好きではありません。
家紋は代々亀甲花菱で柳沢家とよく似ています。
ぺこり
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