【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:100852 投稿日:2006年01月10日 17時49分45秒  パスワード
 お名前:小松輝盛
教えてください!
キーワード:小松家
コメントの種類 :質問  パスワード

 はじめまして☆僕は大河ドラマ「義経」の影響で再び自分の中の平家熱が高まっている者です。
 
 私の先祖のルーツは平氏であると思われ、祖父からは「お前の血の中の一滴は清盛公のものとおなじなのだ」と言われながら育てられたため、いつしかものすごく平家びいきになってました。
 先祖で分かっていることは、祖父の母が重盛公の流れである小松の本家から嫁いで来たということです。しかもその小松本家というのは現在は途絶えてしまっているらしく、本家を継ぐ方がいない時、私の祖父が継ぐ話も出たと聞いており、もしホントにそうなっていれば、形の上だけとは言え自分が小松の本流になっていたのにとちょっと今は残念に思っています。

 前おきが長くなってしまいましたが、私の不勉強のため、結局誰が重盛公のあと小松家を継いで来たかということがいまいちよく分かりません。維盛の子六代に子がなかったとすると、小松少将を称する有盛の流れなのでしょうか。それとも誰か他に小松家を継いだ人がいるのでしょうか。takahiroさんの小松重盛家に関するスレッドを拝見しましたが、初心の私には内容が詳しすぎてよくわかりませんでした...
 
 どなたかご回答くださる方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月10日 22時45分55秒 ) パスワード

小松さん

初めまして。

私には実際のところは全く分かりませんが
私的には鹿児島の小松帯刀さんの系統が今では(時代錯誤ですが)正統的じゃないかと思います。
つまり明治天皇に小松家の流れと認識されていた、ということからです。


つまり「小松輝盛氏」が日本の総理となり家系図を御所に奉納し天皇陛下と親しく同席できるようになり親王さまをお嫁さまに頂いたら押しも押されぬ「小松重盛公嫡流」と誰からも認められると思います。
これが「御家再興」ということじゃないかとワタクシは思っています。


この世界のしきたりはtakahiroさまがお詳しいでしょう。


>維盛の子六代に子がなかったとすると、

いなかったかも知れないし、いたかも知れないし、とワタクシは思います。
「いなかった」というのは全否定できないと思っています。
私の先祖でも数えの17で男の子の父親になってますからその前に女の子が生まれていたのかもです。
それで、六代に男子もしくは女子が生まれてたかも、ですよ。


昔の有力者って子供が50人ぐらいいてもおかしくないし
歴史に名前が残った人だけが子供というのはありえないし

そういえば「義経」の小松殿を演じた役者の奥様は小松氏の流れのようですよ。
役者さんが不思議な偶然だとおっしゃってました。



スケートの織田信成は織田信長の子孫と言われてますが
「言っちゃったもん勝ち、マスコミに騒がれちゃったもん勝ち」だと思いますよ。

戸籍上の姓が織田とか小松だったら説得力が増しますね。
日本はやっぱり父系社会ですものね。


と、素人のわたくしは思います。
[2]布袋竹さんからのコメント(2006年01月11日 11時44分56秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

takahiroさまを差し置いて先にここにお返事するのもなんですが・・
現在の小松家「帯刀」の流れは、清盛−重盛−維盛−高清−清重@
重盛の孫高清の子が、清盛の清と重盛の重をとり、清重と付けて初代
禰寝清重として、はじまったものとか・
禰寝ねじめは、鹿児島大隈地方の土地で、現在は根占と書きます。
また、高清は「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」などに出ており、
源頼朝には生存を認められたが、二代頼家将軍にによって殺害されたと・
その子清重は何人かの家人と大隈に着岸。
のちに、頼家から禰寝院の地頭職に建仁三年「1203年」任命された。
ただ、奥さんの建部清房の娘を娶って、源氏をはばかり、本姓建部と名乗ったり
「禰寝文書」などでは、藤原氏ではないかとも・
出自はいろいろな説が見られるようです。

[3]布袋竹さんからのコメント(2006年01月11日 12時21分06秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

時代が下り、その禰寝家は、のちに島津家の家来になり、今度は薩摩半島吉利に
配置換えとなる。24代清香の時に、禰寝「根占」の場所でないのに
いつまでも、ねじめではと、小松と改正。
これは、清香が自分の先祖を重盛「小松家」として信じて名乗ったのだろう・
あるいは、秘められた書物や違う系図や口伝でもあったのだろうか。
家紋も梶の葉に整備、先祖の墓などもきれいにしたといわれる。
このあと、幕末に肝付家から帯刀清廉が養子に入ることになる。

私の持っている「家系ではない」下村西村系図やその関連の
木下系図にも書かれているように、これらは小松重盛支流の子有盛の子孫と
takahiroさまからご教示して頂いた子孫も
この禰寝家の重臣として、根占に迎えられています。
このことからも、禰寝家は小松の嫡流なのかもしれません。
[4]布袋竹さんからのコメント(2006年01月11日 12時48分45秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/

小松輝盛さんの曾祖母は、この帯刀流れの小松家から
お嫁さんに来たのでしょうか、そうならば、高清からの流れですね。
以前も、和歌山の方で、別の重盛からの小松の流れがありましたし、・
曾おばあさんの住んでいたところで、どこからの小松の名前を継いで
来られたかが、想像できます。

本流が途絶えて、近い分家もなく、私の持っている家系のように、
系図だけでなく、世の中から消えてゆく家系もあるのですね。
でも、一滴でも、日本人のどこかに、血は残っていますね。
[5]布袋竹さんからのコメント(2006年01月11日 13時23分02秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

あとは、名前・家紋なども手がかりになりますね。
禰寝「小松」家は梶の葉、小松帯刀は抱き梶の葉

和歌山の小松家は浮線蝶紋や違い鷹の羽とか・

禰寝家からの小松家は通字「清」を使用とか・・
現在は名前も変なのに変わってますからね。

小松さまは、盛を頂いていますね。
先述の木下家の分家の長男は「重盛」です。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月11日 13時51分06秒 ) パスワード

布袋竹どの

感謝です。

(3)の「家紋も梶の葉に整備」の部分

もしかすると島津家をはばかって
家紋を揚羽蝶など平家そのままの紋を使用するのを遠慮したのでは?と思います。

このことは禰寝小松家の家系書に経緯が書かれているのでは?と思います。


名字も家紋も両方とも平家そのままでは主家に対して遠慮したのでは?と。


だいたいどこの藩でも主家に対しいろいろ遠慮しますものね。天皇家の中でも。
名前だって藩主のみ使用出来る漢字があったという制限があった。


昔はいろいろ憚ったのですよね。
それが「分限」ということ。差別語でいうと「分際」になりますか。


厳しい時代が何百年も続いて
明治維新で明治天皇から認められた人は薩摩か長州あたりでしょうから
薩摩の小松家の他に対抗できた小松家があったとしたら長州の小松家でしょうね。
ま、明治維新でダントツ小松家を名乗れたのは小松帯刀になりますね。


あとは消えるより仕方なかった。これが「遠慮」ということですね。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月12日 01時36分23秒 ) パスワード

布袋竹どの

>でも、一滴でも、日本人のどこかに、血は残っていますね。


今朝辺見えみりの記者会見を見てて(西郷輝彦ってウチの父にそっくり!)と改めて思いました。

西郷輝彦の若い時は100%思ったことがないのですが
NHK朝ドラの「わかば」の父役を見て(あれ?)と思ったのです。
なんかパーツがソックリみたいなイメージがあるんです。

今朝の記者会見の西郷輝彦の写真を見て(やっぱり父にソックリ!)と思いました。

似てるわけじゃないのに「血の繋がり」を感じるんですよ。
客観的に説明が出来ないのですけど。
ま、客観的に説明出来る部分としたら、西郷輝彦に平家の血が流れていたらの部分、でしょうか?


三重県出身の鈴鹿のTさんが父に何となくソックリなんです。
似てないけど「血の繋がり」を感じるんですね。
それで三重県出身だと聞いて(先祖が繋がってるんだなあ)と思いました。


薩摩とウチは関係無いと思ってましたが
江戸時代の鎖国制度というか移動の禁止でスッカリ昔の記憶を失っていた
ということですね。


日本人って遺伝子を詳しく調べたらみんな血で繋がってるんでしょうね。
改めてそう思いました。
[8]布袋竹さんからのコメント(2006年01月12日 12時05分22秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

西郷輝彦は谷山の出身とか・
懐良親王の御座所は谷山城
東京・世田谷の自宅の始末をしていたとき
そばを「せごどん」西郷輝彦が歩いていた。

我が家系は、曽祖父と父がそれぞれ養子に入ったのでちょっと複雑。
血の血統を調べていたら、いま入っている鹿児島・・・会のメンバー
二名と繋がっていることが判明。一人は当たり前・父の従兄弟の子。
もう一人もそう遠く離れていななくて、千葉で社会科の講師をしていた。
多摩の考古学の著述もあり、その場所は曽祖父養子先の出自の本拠地。

暇潰しの姫様
現在の西郷輝彦はカッコよいですから、お父上はさぞモテた・・
若いころより年代がきてからが、いいなーと思い出した人も多いですからね。

血はどこかで日本人の中で交わっていますね。
DNAに記憶されているのか、因縁なのか、あれっと思う
不思議な出来事も多いです。

小松輝盛さまも、早く自分のルーツが解ると良いですね。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月12日 14時17分35秒 ) パスワード

布袋竹どの


背筋がゾ〜でした。

>西郷輝彦は谷山の出身とか・
>懐良親王の御座所は谷山城
>東京・世田谷の自宅の始末をしていたとき
>そばを「せごどん」西郷輝彦が歩いていた。


懐良親王・宗良親王のお共をして我が先祖達は西と東に別れた。
その時から西郷どんの御先祖と父の先祖は相まみゆる事なく永遠に別れた。
でも当時の兄弟の血はなんとなく面影となって今も西と東で残っている。
確信になってきました。


>現在の西郷輝彦はカッコよいですから、お父上はさぞモテた・・

?まさかね。

でも鈴鹿のT氏はそりゃあ整った顔立ちなんですよ。ハンサム
西郷どんもいい顔してますよね。

表情に「信念」がありますよね。


>その場所は曽祖父養子先の出自の本拠地。

凄いところに帰結しましたね。
こういう形で御自分の分身に出会うとはねえ。
失われていた「自分」が時と所を超えて現れたという感じで懐かしくもあるけど不思議ですね。


>血はどこかで日本人の中で交わっていますね。
>DNAに記憶されているのか、因縁なのか、あれっと思う
>不思議な出来事も多いです。

おっしゃる通りです。
「偶然」とは片付けられないものを感じます。


そういう因子を持った若い男女が出逢ったらどうなるんでしょうね。
何百年もの間、遠く遠く離れていたのですから、
遺伝子の中の「愛」とか「悲しみ」とか
一杯そういう因子を持っていたのが
どういう形になって目覚めるんでしょうね?
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月15日 14時29分43秒 ) パスワード

布袋竹どの

別スレで谷山氏がお問い合わせになっていらっしゃいます。
以下コピー&ペイストです。
URLが消えてるので。

もし差し支えなかったら、難波家の御子孫でどなたかご存知の方教えて下さい。
私は谷山正夫と申します。鹿児島県知覧町の出身です。谷山家は九州南部伊作平氏の一子孫でありますが、私の祖父静夫は谷山家に養子で入りました。元の姓は難波と名乗っておりました。難波家先祖の地は大阪難波あたりで、島津忠久の九州戦に従い奉行として下向し知覧に住み着いたと言われます。これは何かの書物で見ただけで事実関係は不明です。ただ私の父が以前難波家は藤原氏だと言っていたのを覚えています。

私事でこの欄を使い大変恐縮ですが、宜しくお願い致します。
[11]小松輝盛さんからのコメント(2006年01月24日 23時29分42秒 ) パスワード

 暇つぶしのギャンブラー 様
 布袋竹 様

 大変遅くなりましたが、お返事ありがとうございました。
 
 しばらく見ないうちに皆様がたくさん書き込まれているのにびっくりしました。
 結局、維盛公にもよく見る系図には載っていない子供がたくさんいる可能性もあるということが理解できました。そしてやはり各地にも小松家を自称する方々の家が存在し、そのうちの一家が我が家であるのだろうなと思います。
 やはり、嫡流であるかどうかというのは別に血統の正統さに関わらず、「時の権力者」のお墨付きをいただけるかどうかということなんですね。
  
 ちなみに私の祖父、曾祖母とも広島県の能美島の出身であると聞いてます。西国にゆかりのある平家であったので何か関係があるのかと子供心にも考えていたのですが、本などで調べると布袋竹さんが言っておられたように和歌山の小松家の方が圧倒的によく出てきます。また鹿児島の「禰寝」小松家のことは初めて知り、とても勉強になりました。ありがとうございました。
[14]アミさんからのコメント(2006年09月28日 18時48分00秒 ) パスワード

スレチだと思いますが平家関係の人の名字には「鬼」がつくと聞いたのですが本当ですか?
私の祖母のもとの名字に「鬼」がついて祖母が母に祖先は平家と教えていたと今日きいて少し興味があるのでここにきました。
私の祖母は「百鬼」という名字で、聞いた話によると数字が小さいほど地位が上らしいです。

これってどうなんですかね?
あまり詳しくはしらないので詳しい方教えてくれませんか?
[15]小林雅成さんからのコメント(2006年09月28日 21時26分48秒 ) パスワード

【鬼】は金山師の事といわれているから平家にかぎったことではなくて、源氏でも藤原氏でも物部氏でもつく可能性はあり。

百の数字の方が平家所縁と考えたほうが無難ですね。
ナンバリングは平氏ではなくて熊野水軍ではないかなぁ?九鬼よりも五鬼の方が上なの?
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月29日 08時04分05秒 ) パスワード

>九鬼よりも五鬼の方が上なの?

私は「三鬼陽之介」が「九鬼の方が格上」と書いていらっしゃった事を記憶しています。
九鬼水軍のことを語ってたページです。


謙虚な人なのかな?
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月29日 09時21分25秒 ) パスワード

そう言えば昔「鬼頭判事事件」なんてのがありましたね。
三木首相がらみで。爆笑


尾張では「鬼頭・加藤は太閤さま以来の名門」と言うのですよ。

つまり
鬼頭は福島正則の旧姓でしょ。
加藤は清正。

この福島さんというのは清和源氏系だそうです。
鬼頭でも、この「市」の場合の鬼頭さんは清和源氏ということになるんですねえ。
鬼+藤なら藤原系でしょうけど。

「虎」の方は藤原系でしょうけど。


ここに「九鬼」だの「三鬼」だのとなると
九鬼さんはハッキリ熊野系でしょうし

三鬼陽之介さんは先祖は九鬼に負けてどーたらと書いてらっしゃいましたけど


平家以来の敵味方というのが引いてたのかな?
戦国時代末期、反信長で「九鬼vs三鬼の戦い」があったのかなあ?


九鬼も三鬼も
元は熊野系で
源平戦で九鬼は熊野+源氏方で、三鬼は平家にそのまま付いてた
それが織田信長を間に力関係が決定して九鬼は日本史に燦然と輝くことになった
という想像で良いのかな?
[18]家来さんからのコメント(2007年01月21日 11時33分43秒 ) パスワード

横滑りで申し訳ございません。小松様、浮線蝶を34代守ってこられた御本家がいらっしゃいます。若君は今風に申しますとジャニーズ系の美男子で、すこぶるご聡明でいらっしゃいます。余り詳しく申し上げられませんが、知る人ぞしる存在です。
[19]家来さんからのコメント(2007年01月21日 13時02分13秒 ) パスワード

日本の伝統を命がけで守ろうとなされてらっしゃる某宮妃のご親戚であられますので削除しなければならないかも知れませんが・・。
[20]布袋竹さんからのコメント(2007年02月13日 23時37分08秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

先日、根占に出かけて墓所を回ってきました。
ある系図に書かれている紋などを確かめる為でしたが・・

蝶紋と梶の葉を表紋と裏紋、逆に表が梶の葉で裏が蝶紋の墓がありました。
裏に彫られた文章から、禰寝家の初代や初めの頃からの分家で
それぞれ、名前が違うふたつの家でした。
このことから小松家「初めは禰寝家」の紋は蝶紋もあったと推定できます。
ギャンブラーさんが、主家に遠慮して・・まさにそれだと思います。

とすると、維盛からの系図通りとすれば、嫡流の可能性は大だと思われます。
もっとも、維盛の子供はほかにもいたと思われるので、そちらも小松家の流れで、おかしくないのではないかとも、・・・
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月14日 00時29分39秒 ) パスワード

>とすると、維盛からの系図通りとすれば、嫡流の可能性は大だと思われます。
>もっとも、維盛の子供はほかにもいたと思われるので、
>そちらも小松家の流れで、おかしくないのではないかとも、・・・


系図に載ってない子供もいるでしょうし、敢えて、載せなかった場合もありますしね。


>蝶紋と梶の葉を表紋と裏紋、逆に表が梶の葉で裏が蝶紋の墓がありました。

「家」というのは奥が深いですね。
「家紋」の重さも今の人間が想像する世界とはその厳しさがてんで違うんでしょうね。

でもやっぱりちゃんと「文字で」残しておくべきですね。
残せる家というのは「それなり」ということだったと思います。

「悲しみ」とかも読めますね。
[22]布袋竹さんからのコメント(2007年02月17日 11時48分32秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

本日雨風で、本土最南端の祭り、小松家にも関わりのある神社「鬼丸神社」のひとつにも寄る、八つの浦を通る祭りに出かけるのを中止した。
古い写真を整理していたら、禰寝家分家や・その嫡家である小松家のある吉利の場所「鹿児島県日置市」で次の墓碑を撮影していた。

『傳称高祖は宇多源氏佐々木四郎高綱を祖とし鎌倉幕府の命により平清重の後見役として七目木氏と共に大隅国佐多郷に従う 禰寝氏の吉利移封後も代々禰寝家小松家の重臣として仕えた大山家先祖代々之霊を合祀す』

禰寝家初代、禰寝清重「平清重」の後見として、鎌倉幕府からの命で隋いてきた家のこの墓碑からも、鹿児島小松家は平家の嫡流の流れが強く感じられますね。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月17日 12時45分45秒 ) パスワード

>「平清重」

凄いですね。
清盛公+重盛公から1字ずつ?



どいう人物か知らなかったので「平清重」を検索しました:

1.
平重盛を祖とし、鎌倉幕府も北条時政の頃、子孫の平清重がこの地に落ち延び生存を許されたという。
清重は禰寝姓を名乗ったが建部清房の女をめとってから建部姓を名乗ったそうであるが、
都合の悪い資料もありはっきりしたものではないようである。
http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/nejimesata.htm - 104k

2.
崎津村 - Wikipedia
弓浜半島中央部の内浜に位置し、南は中海に面する。
地名の由来は葭が多く生えていたことにちなむ。
天正年間平知盛の末裔を称する平清重の子孫(友森氏)が当地に転住し、
4 代目観蔵が高松村・河崎村までを開発したと伝えられ俗に『観蔵開き』という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%25B4%258E%25E6%25B4%25A5%25E6%259D%2591 - 44k

3.
文保2年(1318)3月15日平氏6代平清重が大隅国祢寝南俣院の地頭に任じられ、
その一行が上陸した処が郡部落の浜の尻浦と伝えられ、
清重はここに高木城を築き祢寝初代から4代まで高木城を居城としたことが古墓に跡されておる。
http://www.town.minamiosumi.lg.jp/minami03/form/2005-11.pdf

4.
初代平清重公が大隅国祢寝南俣院に13世紀地頭職に補され郡部落に上陸し、高木城に居城。
近津宮神社は郡小の前に鎮座、底津少童命外2柱を祭神とし、
古代郷 社御崎神社を移譲したものと考えられ2月19日7浦を経て仮宿され、←ーーー間もなくですね
田植え祭りが終わり還座
http://www.town.minamiosumi.lg.jp/minami03/form/2006-01.pdf

5.
日本法制史文献目録(1994年)
坂井 孝一, 大和国平野殿荘の悪党──下司平清重とその一類──, 人文論集(創価大)6. 酒井 紀美, 中世後期の在地社会──村落間交渉の視角から──, 日本史研究379. 坂田 聡, 南北朝内乱期の村落間相論と村の自力──葛川と久多荘の堺相論を素材に──
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jalha/bunken/bk1994_j.htm - 77k
[24]平家かぶれさんからのコメント(2007年02月19日 19時25分21秒 ) パスワード

平家落人部落伝承について、仁田尾氏の足跡について、どなたか、教えてください。私は知覧町の塩屋海岸で生まれました。塩屋の語源について、調べていたところが、平家系の人か、落人か分りませんが、ここの海岸でで、塩を焼いていたとのこと(永井熊彦氏)それで、「塩屋」になったのか。また、日置の塩屋海岸から廻船業たちが、知覧の塩屋に移住、そこを「今塩屋」と呼んだでいたという。
 塩屋から上流に奥深い「仁田尾部落」がある。十数年前に、平家落人の椎葉村に観光で行ったとき、仁田尾氏の家系はみたことごあるが、子供のころ、知覧の平家の落ち人部落であると聞いていました。遺品や証拠はないと思いますが、平家の仁田尾氏についてどなたか、お知らせくだされば、幸いです。
[25]坂木さんからのコメント(2007年05月12日 23時33分54秒 ) パスワード

小松様

鹿児島県日置市吉利の禰寝家、小松家の墓所(園林寺;オンリンジ)は、家臣全員の墓所も含めて、小松清直氏の所有になっています。

(1)平清重・・・(24)小松清香・・(29)小松帯刀(30)小松清直

小松帯刀の孫、小松ハナ氏は、大山綱志氏の仲介で竜野蕃主脇坂氏へ嫁いでおられます。

平成12年、小松帯刀の没後130年祭が日吉で挙行されましたが、34代夫人小松士寿子氏が東京から来られました。
[26]禰寝家の分家さんからのコメント(2008年01月18日 10時56分17秒 ) パスワード

小松家さんへ
あなたの祖父の母の姓が小松であるなら平清盛の血は一滴も流れていません。
なぜなら、小松の姓になる前19代禰寝福寿丸、20代禰寝重永は島津家久の子であるからです。この時点で禰寝家本家は平清盛の血筋は絶えています。
禰寝の姓から小松の姓に変わってからも島津家が養子を向かえています。
しかしながら小松家本家は平清盛の子孫で有る事は間違いは有りません。
ちなみに小松の姓は平重盛の小松内府から来ています。
余談ですが、大河ドラマ「篤姫」に出てくる小松帯刀の事についてみんなに知ってほしいと思います。
1,坂本竜馬の仲人をし、日本で始めての新婚旅行を計画した人
  竜馬がけがをした時も京都の小松邸で看病をしています。
2,薩長同盟を結んだ影の立役者(当時、西郷隆盛は下級武士で決定権はなかった)

[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月05日 01時47分59秒 ) パスワード

NHKの大河「篤姫」の中で(先週の「突然の縁組」の回です)


小松の先生が琉球で亡くなったから


斉彬公が(水戸さんとこんがらがりそう)
肝付の尚五郎さんに「小松家の養子に入るように」
とおっしゃってましたね。

その時に「小松家は桓武平氏以来の名門だ」と説明なさってましたね。


この他のことは布袋竹さま、takahiroさま、田中先生がよく御存知でいらっしゃいますから
やめておきます。笑
[29]小松です。さんからのコメント(2008年05月05日 01時48分08秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2012年07月15日 22時34分06秒
[30]小松です。さんからのコメント(2008年05月05日 02時24分59秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2008年05月14日 01時32分20秒
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月05日 08時30分34秒 ) パスワード

http://www.ktr.mlit.go.jp/yunishi/kuriyama/heike/top.htm

とりあえず「平家落人のしきたり」だそうです。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月05日 08時32分41秒 ) パスワード

http://books.livedoor.com/item4413040635.html

日本のお葬式のしきたりについて書かれているそうです。
安徳天皇の謎とか平家落人のしきたりとか?
[33]野崎城の禰寝さんからのコメント(2008年05月05日 16時02分18秒 ) パスワード
URL=http://www15.ocn.ne.jp/~keiraku/

はじめまして、野崎城の禰寝です。

私の母が、昔の住所でいう鹿児島県日置郡吉利町鬼丸の禰寝です。

とても、自分の祖先を誇りに思っている人でした。
ゴールデンウイークに、母が行っていた祖先の平重盛の孫六代さんが命を助けてもらった京都神護寺に私も行ってみようと思って、エピソードなどないかと、インターネットで調べていたら、この掲示板にたどりつきました。
禰寝のことが書かれていて、びっくりです。

そうそう、家紋は抱きかしわ、長男の名前には皆、清がついています。
桓武天皇からの家系図も見たことがあります。
子供の頃、夏休みに鬼丸の禰寝の屋敷の縁側でふかし芋をたべたり、楽しい思い出も残っています。


[34]さんからのコメント(2008年05月09日 00時25分45秒 ) パスワード
URL=http://www.urban.ne.jp/home/sochan/

横から入って申し訳ありません。[32]の暇ギャンさんご紹介の本を図書館から借りてみたのですが、[30]の小松さんの求めておられる“平家落人のしきたり”については残念ながらまったく乗って無かったです。

いやあ、わたしもちょっと興味があったんですけどねえ・・・。

ただ、伝説は長い歴史のなかで変遷していくのも常です。[31]の平家落人のしきたりも、かなり突っ込みどころ満載ですし、もしかすると「平氏」の流れを汲むどこかの武将一族が何時の時代かの戦に破れ隠れ住んでいたのが、時がたつにつれて「平家」の落人になっていったのかもしれません。また、平氏も平家もまったく関係のない落人だったのかもしれません。

こいのぼりというのは、江戸中期に庶民の間で始まったものらしいので、もともとは「こいのぼりがタブー」だったのではなく、違ったものであったのでしょう。ですから、本気で調べようと思ったらそのあたりから手をつける必要があります。

やはりこれは、民俗学の分野でしょうね。

ところで、ネットでこんなのを見つけました。
-----------------------------------------------------------------------------
熊本県上益城郡に内大臣峡という谷があって、内大臣川という川が流れてます。
先日通ったところ、小松重盛神社というのがあって、平重盛が壇ノ浦の合戦の後ここに落ち延びてきて暮らし、ここで死んだというのです。

この手の話は日本中にあるとは思いますが、平重盛って壇ノ浦よりはるか以前に死んでませんか? こういう突っ込みはタブーなんでしょうか。
せめて壇ノ浦で戦士した武将が逃げてきたという話なら分かるのですが、ずっと前に 病死した人物が・・・となると、どうしてそんな伝承になったのでしょうか?
--------------------------------------------------------------------------------

それから以前テレビでやってたんですが、四国のどこかの旧家だったと思います。屋島の戦から落ち延びた平家の武将の鎧が家宝として紹介されていたのですが、胴丸にでかでかと揚羽蝶がかいてあるのですが、明らかに「当世具足」でした。

[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月09日 04時22分23秒 ) パスワード

>平重盛が壇ノ浦の合戦の後ここに落ち延びてきて暮らし


せめて「平重盛の一族が」とか「平重盛の家の子が」とか付ければ納得しますが
「平重盛<<<が>>>壇ノ浦の合戦の後」というのはいただけませんね。



>屋島の戦から落ち延びた平家の武将の鎧が家宝として紹介されていたのですが、
>胴丸にでかでかと揚羽蝶がかいてあるのですが、明らかに「当世具足」でした。

笑っちゃいますね。
[36]小松です。さんからのコメント(2008年05月14日 01時20分13秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2012年07月15日 22時12分34秒
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年05月14日 03時59分14秒 ) パスワード

小松です。さん


>母方の実家の家紋は、抱き茗荷だそうで、

家紋は<事情で>しょっちゅう取り替えますから
家紋からはホントのところは分りませんから
お母さまから言い伝えられているお話をお聞きになってください。

もし南朝方だったという言い伝えがあったら
平家+南朝方
という可能性でお父さまと御縁があった
という可能性がものすごく高くなりますよ。



ムカシは家紋というのは使用がとても制限されて
勝手に替えられなかったのです。

でも生まれた順番とか
主人になった人が同じような紋だったとか
いろいろな事情で紋が変わりました。
拝領紋というのもありましたしね。


平家だからみんなが「揚羽蝶紋」使用というわけじゃないですしね。
平家一族や、それに連なる人々が「揚羽蝶紋のもとに」集まったというのはありますが。


今は家紋はだいたい1つしか使いませんけどね。
でも
お母さまが御結婚なさった時にお家に伝わる女性専用の紋で着物を作って持って来た
というのもありますし

紋の世界は深いですよ〜
[38]辻軍吉の孫さんからのコメント(2009年05月06日 13時34分51秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2009年05月14日 00時01分33秒
[39]元小松さんからのコメント(2011年12月17日 20時55分40秒 ) パスワード

はじめまして。旧姓、小松です。
織田剣崎神社に祀られいる、重盛と同じ、五瓜に唐花家紋です。
宮津の小松のほうです。
三段松の小松さんのほうではないです。
何故、江戸時代に入る前に、名乗れたのか、
何故、織田信長と同じ家紋なのか、何故、
津島神社と同じ家紋なのか、不思議です。
桓武天皇の奥様のほうと、津島神社、繋がりがあるのでは?と考えてしまいます。
ご先祖様は、多分、そばにいた人なんだろうなぁと考えてますが、
何故、小松重盛と同じ紋なんだろうか、
と、不思議です。
[40]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年12月18日 00時18分20秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

元小松さん へ
 
五瓜に唐花紋は祇園木瓜紋とも言われ、八坂神社、津島神社、剣神社など素戔嗚尊を祭神とする神社の神紋である。
織田氏も多くの小松氏も小松内大臣平重盛裔と伝えるから、素戔嗚尊(牛頭天王)信仰に因み家紋としたのかも知れませんね。
俗に平氏の家紋は揚羽蝶と言われるが、平重盛創建の浄教寺が浮線蝶を寺紋としていることから平氏の紋は浮線蝶ではないかと思われる。
[41]元小松さんからのコメント(2011年12月27日 13時45分59秒 ) パスワード

返答いただき、有り難いございます。
桓武天皇の、奥様では、なく、お母様でした。
もし、小さいころ、知っていたら、歴史の勉強に興味をもってと、思います。
高野新笠さんが、揚げ羽の家紋をもっていたと、ネットでみました。
小松重盛の、長男が、揚げ羽蝶とも。
ネット情報なので、わかりませんが、歴史ロマンですね。