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 投稿番号:100840 投稿日:2005年11月12日 12時07分34秒  パスワード
 お名前:烏夜口帝
経盛一家その2

コメントの種類 :その他  パスワード

すみません。前スレが又見られなくなりましたので、スレ立ててしまいました。

[1]烏夜口帝さんからのコメント(2005年11月12日 12時16分02秒 ) パスワード

弓丸様 私が大昔立てたスレで、[経正は長男か]というのがあります。そこに広盛のことも多少書いたと思うので、宜しければそちらを探してご覧になってみて下さいませ。 いちいち見られなくなる度スレを立てるのは、管理人様はじめ、平熱に遊びにいらっしゃる皆様のご迷惑となってしまいますから、この辺で失礼致します。何でしたら、当方までメールを下さいませ。
[2]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 12時56分47秒 ) パスワード

了解しました。
お手数をお掛けして申し訳ありません。
[3]烏夜[口帝]さんからのコメント(2005年11月20日 11時33分34秒 ) パスワード

過去スレで経正の琵琶の流儀について、結論を出さないままにしてしまったので、改めて考察したいと思います。琵琶は藤原貞敏が唐より持ち帰ったのに始まり、名手によってその技が受け継がれてきましたが、博雅の子信明の2人の弟子・宇多源氏の資通と賢円から2派に分かれます。資通の弟子で宇多源氏の桂大納言経信を祖とするのが秘密主義の桂流。賢円の娘婿・院禅を祖とする西流。桂流は経信、その子基綱、その子時俊と信綱、治部卿尼(信綱女・盛子)らが代々の当主。経信の直系以外は門弟になれず、師通、良祐、能登尼(良祐女)、師長ら数名しかいません。
[4]烏夜[口帝]さんからのコメント(2005年11月20日 11時50分08秒 ) パスワード

最秘曲『啄木』伝授を灌頂と称し、血脈に名が載りますが、宇多源氏以外桂流史上、公には5人しかいません。ただ、後白河院の命で血脈は整えられ、不都合のある人(例えば平家の経正)は載せなかったため、名が漏れている人が基綱系の門弟にいるそうです。一方の西流は弟子はいくらでもとり、大流行でした。院禅、その子長慶、その子孝博と続き、孝定(孝博の娘と藤原成隆の子、つまり平教盛いとこ)が孝博の養子として家業を継ぎ、その子孝道、その子孫と続きます。孝博は桂流の信綱と義兄弟で、一緒に育ち、信綱は孝博から西流も伝授されています。
[5]烏夜[口帝]さんからのコメント(2005年11月20日 12時05分36秒 ) パスワード

孝博は仁和寺に住まいを与えられ、僧や稚児達に琵琶や箏を教えていました。西流当主家は箏も家業です。当時は覚法法親王の時代でしたが、若き覚性法親王もいました。声明の大家の覚性は、その譜に箏譜を用いたということですから、仁和寺の僧達が皆箏譜に最も親しんでいたという証拠でしょう。又、殿・御前という琵琶について二条天皇からの質問にスラスラ答えたという覚性ですが、実は孝博は琵琶も製造し、この2面は孝博作だったのです。覚性は孝博の弟子か否かは不明ながらも、親しかったのでしょう。経正最初の師は、仁和寺の孝博弟子と考えられます。
[6]烏夜[口帝]さんからのコメント(2005年11月20日 12時16分50秒 ) パスワード

孝博はその後、箏最秘曲「千金調子」伝授をめぐって事件を起こし、仁和寺を追放され、もう一つの職場の摂関家も追い出されます。が、しばらく後に摂関家の許しは出て、師長の師となります。師長は桂流も学びたいと思い、孝博の紹介で信綱の弟子となります。師長は経盛のいとこで、夜逃げした時助けられたりと、経盛とは親しかったのか、経正も影響を受けたでしょう。その紹介か否か不明ながらも、経正は後に桂流に移り、能登尼に認められ、後継者となるわけです。
[7]烏夜啼さんからのコメント(2005年11月28日 20時54分16秒 ) パスワード

琵琶桂流の基綱系の門弟には、直弟子、孫弟子を含めて、
血脈から名のもれた人が幾人もいるそうです。
文机談によれば、輔仁親王、その子・花園左大臣有仁ももれ、
良祐・能登尼系にももれた人があり、
他にもいるらしいとのことです。
公には宇多源氏以外の桂流灌頂者は5人ということになっていますが、
実際はもっといたということになります。
[8]烏夜啼さんからのコメント(2005年11月28日 21時15分45秒 ) パスワード

三昧阿闍梨良祐は、天台密教を極め、
三昧流を立てた高僧でした。
宿曜経を操り、宿曜師でもあったとか。
筝にも長け、秦筝相承血脈にも名があります。
琵琶は桂の基綱に師事して奥義を極め、
啄木を許され、
血脈にその名を刻まれました。

能登尼はその娘とか。
晩年の子だっのでしょう。
良祐、さらに基綱に師事して、
やはり啄木を許されて、
血脈に記されます。
愛用の破鐘という琵琶は、
大変音色のすばらしい名器で、
鎌倉時代になってからも、大変珍重されました。
経正を婿とり、後継者として育てました。
[9]烏夜啼さんからのコメント(2005年12月22日 14時17分04秒 ) パスワード

琵琶血脈に、行宴の名があります。
桂流の信綱の門弟です。
宇多源氏以外で桂流の「啄木」を伝授された5人の中に含まれています。
この行宴、実は「出観集」にその贈答歌があり、覚性法親王と面識があったことになります。
仁和寺の僧かどうかは未確認ですが、覚性法親王の知り合いだったことは確かですね。
実は、「出観集」には、よく源俊重・頼経親子が登場します。
俊重は堀河朝の楽所の楽人で、俊頼の子です。
楽人である上に、俊頼の子、俊恵の兄弟だったのです。
しかも、桂流の基綱の甥であり、信綱とはいとこです。
覚性法親王の周辺には、歌林苑主催者と、
桂流当主家の宇多源氏が近仕していたことになります。
覚性法親王の寵童であった経正が、
後年歌林苑会衆となっているのも、能登尼の後継者であるのも、
この関係からかもしれませんね。
もしかしたら、稚児時代から、行宴の影響を受け、
桂流もかじっていたかも、です。
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