[1] | 弓丸さんからのコメント(2005年11月11日 13時56分56秒 ) | パスワード |
小池義人著、滅びの美『敦盛』、講義より
熊谷直実が平敦盛を殺害し、その殺害の罪の意識におののいて仏門に入ったと平家物語に書いてあるのですが、あの伝説はウソだと言われてきました。熊谷直実の出家というのはあくまでも、領地争いに負けた腹いせだったんだと、「吾妻鏡」の方が正しいんで、平家物語に書いてあるのはウソだという事が言われてきたのです。つまり、「吾妻鏡」は歴史書だから信用できるけど、平家物語は本来文学だから、歴史史書としては信用できないとして冷たく扱われて来たのです。所が4〜5年から平家物語の専門家の立場から、出てくる熊谷や敦盛に関する話というのは、どうやら熊谷本人から聞いて書いたものらしく、つまり本人から直接インタビューして書き留められたものらしいと分かってまいりまして、平家物語の伝えがウソではなかったと見直されているのであります。
[2] | 弓丸さんからのコメント(2005年11月11日 14時16分38秒 ) | パスワード |
現在も平家物語原本の作者は不明らしいが、現在の所、信濃前司行長が盲目琵琶法師・生仏と協力して作ったという「徒然草」説と、葉室時長が歌人の源光行と協力を得て作ったという「醐醍雑しょう」の記事とか最有力視されているがいずれが正しいかは決めがたいといわれている。また、ある学者は両者を認め、行長、生仏が語り物系の原本を作り、時長、光行が読み物系の原本を作ったとして、同じ所に作者の異なる二種類の平家物語の原本があると主張している。
注目したいのが行長と時長。
この二人はいとこ同士で、しかも二人とも、源義経の室になった平時忠の娘ともいとこの関係にあった、ということである。
・・・そして義経の部将であった、熊谷直実は、義経没落後、頼朝に仕えたが建久三年(1193年)以後は出家して蓮生坊と称し、法然上人に師事して、承元二年(1208年)入寂するまで京都に住んでいた事は有名である。とすると、出家後の直実が京都に在洛した時期か、あるいはほどない時期に、平家物語の原本や異本が成立したという時期関係にも、注目しなければならない。しかもその平家物語の作者も同じ京都に住んでおり、おまけに、その部将として移動をともにした義経のことを良く知っているのである。
これらの人間関係や、時期関係を総合して考える時、吾妻鏡や玉葉などに敦盛説話が記録されていなくても、義経を通じて熊谷をも知り得る立場にあった平家物語の作者が、同じ時期に、同じ京都に住んでいた熊谷の事跡について、全くの架空の説話をでっち上げるなんて信じられない。そればかりではない。この理由の他に、特に従然草の所伝を重視すると、この考えはますます強化されるのである。
[3] | 弓丸さんからのコメント(2005年11月11日 15時03分16秒 ) | パスワード |
従然草によると、行長と生仏はともに、当時叡山に住んでいて、、慈円、和尚の保護を受けながらこの本を書いたということであり、しかも、作者の一人である生仏は、「東国のもの」で、「武士の事、弓馬の技は、武士に問い聞きて」書いた、という。
熊谷の師である法然上人は、その頃、念仏宗教を掲げる浄土宗の創始者として、広く世の希望をになう反面、宗教界では異端者として非難、憎悪の目を向けられていた。当時の宗教界に君臨して威勢を振るっていた叡山衆徒は、もともと法然がその修行時代を叡山で送っていただけに、彼を叡山に対する反逆者として、しばし圧迫を加えたり、法論を挑んだりしていた。そのことが、逆に法然の力が叡山をはじめ、既成仏教団も無視できないほどの大きな信望を集めた宗門人として世に認められた、ことを意味する。
一方、慈円はこの法然とほとんど同じ時代に生きた人であった。しかも彼は法然が念仏運動の根拠地の一つとした、東山の吉永に住んで修業にいそしみ、遂に4度までも天台座主の地位につき、叡山の代表者となった。このような経歴よ立場をもった慈円は吉水の住人として、また叡山の代表者としても、教界の革命児であり、法敵である法然に対して、少なからず関心を寄せずにはいられなかったはずである。その関心は、法然その人の思想はもとより、その身辺の動静や、その弟子たちについても、何ほどかの知識を持っていたに違いない。
とするならば、慈円の保護下にあった行長と生仏は慈円を通して、法然門下の俊秀であった蓮生坊の話を伝え聞いた、という事もありえる。
[4] | 弓丸さんからのコメント(2005年11月11日 16時02分53秒 ) | パスワード |
そればかりではなく、従然草によって東国生まれ、と伝えられる生仏は、同じ東国生まれで。しかも武士から仏門に入ったという珍しい経歴の持ち主である熊谷に対し、格別の関心を寄せたことが想像されるだけに、熊谷の戦歴についても、単なる風説を書き留めるという程度でなく、本人、もしくは心辺りの「武士に問い聞く」という確認の手立てをとり、そのうえ平家物語に熊谷説話を載せた、と思われるのである。
もちろん、このような私の推論は、行長や時長の書いた平家物語原本に収録されていたと、仮定した場合だけに通用すると言われるかもしれない。しかし、※前章の註に示したように、かりに原本にその記事がなかったとしても、原本作者の一人である源光行の単独著述だと推定されたり、平家物語の傍系原本ではないかといわれる源平闘争録に、この熊谷説話が知られていた事は、明らかである。とすれば、敦盛説話が原本に無くても、私の推論は同様に成り立ち得るのである。
これらの根拠によって、私は熊谷と敦盛の一騎打ちは、平家物語のフィクションでなく、史実であったと考える。
※源平闘争録
現存平家物語のなかで、原本に最も近い姿を示しているのではないかといわれている。学者によっては、原本作者の一人である源光行が単独でこの本をかいたと推定、また一方では正統な原本のほかに、傍系的な平家があったと仮定し、その傍系原本の一つがこの本ではないかという人もいる。このような推定説が唱えられるほど十二巻よりも明らかに古態を示しているとして定評があるのがこの本である。
この闘争録では、熊谷に討たれたのは、敦盛ではなく、平教盛の第三子の業盛であるとして、人名の混乱が見られる他、その業盛が持っていたのは「漢竹のヒチリキ」であったとし、一の谷における熊谷の出家譚と結び付けて伝えられている。
熊谷に討たれたのが敦盛でないとすると、本編の立場からゆゆしい問題となるが、闘争録以外の系統の属する異本の全てが敦盛の名を上げて、闘争録と同様の熊谷説話を伝えているばかりでなく、明らかに闘争録をを参照したと考えられる異本までもが、熊谷の相手を敦盛としていることから見て、闘争録だけが人名を誤ったものと考えても良いだろう。
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