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 投稿番号:100832 投稿日:2005年10月25日 13時19分09秒  パスワード
 お名前:弓丸
経盛親子について
キーワード:経盛
コメントの種類 :その他  パスワード

色々と過去のスレッドで経盛と経正について拝見させていただきましたが、なかなか難しい事ばかりで、素人の私には理解できません。
というわけで、経盛親子について分かりやすくご説明下さいますよう、ご指導頂きたいと思います。

[3]弓丸さんからのコメント(2005年10月25日 13時44分18秒 ) パスワード

初のスレ立てたのですが、ちょっと度が過ぎましたので、控えめにコメントさせていただきます。


過去スレの「敦盛はなぜ無官だったのか」で色々教えていただいた中で、小説作りに興味を沸いて、敦盛の肉親である経盛一家について、史実でも、個人的な意見でもかまいませんので、皆様のアドバイスを頂きたいと思います。

敦盛は笛の名手でありながら、管弦の宴とかに参加するような描写が余り見られないので、疑問に思ったのですが、経盛はほんとに敦盛を我が子として愛していたでしょうか?
長兄の経正は父に連れられていたらしいのですが。

もう一人の兄経俊も含めて、敦盛は父親に愛されていたのかホントに疑問です。

1,2は誤字が多かったので、削除しました。

[4]弓丸さんからのコメント(2005年10月25日 14時49分35秒 ) パスワード

私個人の意見では、経俊と敦盛は「歌人」として才能が無かった為、歌会など参加することが出来無かった為…と単純に考えました。

経俊に関しては、資料が少ないので、勝手な空想になるんですが、管弦、和歌などより、スポーツマンタイプ?なのでは・・と思いまして。
漫画などにも適当にそういう設定で登場する経俊を見た覚えがあります。
題名は分かりませんが。
一の谷の合戦、生田の森の陣にて、散々に敵将を打ち戦ったが戦死したという。ならば経俊は武に優れた人物なのでは?と。
親父殿も武将としての才能もあったらしいし。

敦盛は、笛の才能を発揮したけど、歌人としての才能は乏しかったのではないかと。笛の名手だからって、歌人としても優れるってことは無いのでないでしょうか。みたいな・・。(自身なし)


親子としての交流も余り見られないので、イメージが膨らみませんね。
敦盛に関しては、親父殿は、わけあって公に出したくない理由があったのでないかと・・・・・でも、どうして敦盛は笛の名手だと、他の人は知っていたのでしょうか?やっぱり管弦の宴に出席して演奏でもしたのかな??

経俊は、無骨者だったから、賭弓などに興じていたとか?
[5]弓丸さんからのコメント(2005年10月25日 15時02分32秒 ) パスワード

経正→琵琶の名手にて歌人としても優れた人物。
経俊→風雅などには興味なしの無骨者。
敦盛→笛の名手だが、書や歌は苦手。

こうしてみると、個性的な兄弟ではあるけど、一致する話題が無いから、親子の会話が白けてしまいそうな・・?
経正と経盛は会話が弾みそうだね…。
なんだか経俊と敦盛は蚊帳の外状態みたい。
日常会話イメージが出てこないわ・・・。

愛されているか・・・というと、風雅に関して鈍感な二人(敦盛はどうなのか分からないけど)を親父殿は余り愛情を注いでないようにも感じる。
差別するような父親なのかも?
[6]弓丸さんからのコメント(2005年11月02日 13時28分30秒 ) パスワード

しばらく考えてみたけど、やっぱり経盛は敦盛と経俊らを愛してないっていう訳じゃないかも。
経盛は、とても情の脆い人で、まだ幼かった熊谷直実の助命を父の忠盛に願い出たって話から、絶対にありえないでしょう。
私の考えすぎでした。

という事は、表舞台に出てくる機会が無かっただけなのかも知れません。
詳しい事は良く分かりませんが。

末っ子だった敦盛には、甘い父親だったかも。
余りに可愛すぎて、手元から離したくないほどの可愛がりぶりで、元服しても離さないように、技と無官にしたみたいな妄想が膨らんできました。
くだらない妄想でした…(やだな〜)
[7]烏夜啼さんからのコメント(2005年11月10日 10時56分28秒 ) パスワード

皆様、ご無沙汰しております。烏夜啼でございます。

弓丸様、はじめまして。



まず、はじめに、経盛には幾人かの子がありました。
経正と広盛というほぼ同年と思われる子がありました。
それと女子が一人。
この3人は何れも才子で、若くして歌人としての才能を開花させております。
格地の
歌合に若年ながらも参加して、活躍していました。
殊にも経正は当時のトップ36に入っています。
そして、琵琶ははじめ西流当主孝博の孫弟子となり、その後桂流に転じて能登尼という現在ならば間違いなく人間国宝み指定されたであろう人の後継者となります。

経盛には他に経兼という子がいたようですし、養子も幾人かいたようですが、
広盛はじめ皆短命で、都落の頃まで存命していたのは、経正と経俊と敦盛くらいだったようです。
経俊も敦盛も兄弟の下の方だったこと、また、平家の中でも経盛家は出世の望みのない家だったことから、経俊も敦盛もあまり活躍できなかったのだと思いますよ。
経盛は経正と広盛をとてもかわいがっていたことが覗えますから、
子煩悩な人だったと思います。
敦盛もかわいがっていたでしょう、きっと。
[8]弓丸さんからのコメント(2005年11月10日 13時37分51秒 ) パスワード

烏夜啼様、始めまして。m(__)m

貴重なアドバイスありがとうございます。

広盛と女子・・ですか。
知らない名前が出ましたね。
3人はほぼ同い年ということは、結構、敦盛とは年が離れている訳ですね。

一つ気になる所があるんですが。
平家の中で、出世の望みがない家だったので、活躍の場がなかったと言う事は、経盛は、高倉母の健春門院の殿上初めとか、後白河法皇五十賀等の晴れの儀式をことごとく欠席したと聞いたのですが、望みの無い家だった為に、出席できなかったという事になるのしょうか?
それとも、経盛本人が欠席して、出なかったのでしょうか?
どう思います?

[9]弓丸さんからのコメント(2005年11月10日 14時04分06秒 ) パスワード

経盛は二条天皇と、個人的にも親交が深かったらしいのです。
「経盛本万葉集は実は、もともと二条天皇がお持ちだった万葉集を天皇のおゆるしを得て経盛が書写したもの」だったそうですよ。

経盛は二条天皇崩御後、さかんに歌合を行い、政治的に二条派が押さえつけられていく不満を歌にまぎらわせていたとも思えるのですが....谷山茂先生の『平家の歌人たち』には、経盛が中心になった平家歌壇は後に九条兼実が中心になった九条家歌壇にくらべ、開放的でかなり自由であったと述べられていたそうです。

私自身もそう思ったんですが、二条派という立場を貫きたかったが為に、後白河法皇のおもねる事をしなかったのでは…。経盛は意外と頑固な人格だったのではないかと…。

出世も弟たちより遅れて出世したらしいし。

それとは関係なしに、家柄から(経盛の母が源氏だったことから)出世できなかったというのでしょうか?

[10]弓丸さんからのコメント(2005年11月10日 14時50分13秒 ) パスワード

スミマセン、話題がずれてしまいました。

経盛と敦盛との年齢差を考えると、「息子」とうより「孫」のような存在だったかも知れませんね。

経正との年齢差は二十歳ほど違うわけだし・・・。
あまり表に出ることが無くても、和歌のやりとりとか、遊び気分で兄たちとやっていたのかもしれません。
でも、やっぱり和歌の才能は、敦盛にはなかったので、歌合とか参加させなかったのでしょうかね?
笛の腕前は父に買われていたみたいだけど…、小枝(青葉?)の笛を貰いうけているということは、経盛は決して敦盛を愛していない訳じゃないのね。
[11]夏月さんからのコメント(2005年11月11日 06時44分29秒 ) パスワード



弓丸様、お久しぶりです。
以前の『敦盛はなぜ〜』のスレにおじゃまさせていただいた
夏月です。

あの時は、時間がなかったために、ろくに推敲もせず、脱字、
誤字だらけの駄文を投稿してしまいました。申し訳ありません。
あと、えらそうに書きなぐっておりますが、私は専門の研究家
でもなく、多分に私の妄想も入っておりますので、、、、

私の妄想がかえって、弓丸様を混乱させてしまったのではと思い、
ちょっと追加させてもらいます。
経盛一家に関しては、史料が少ないこともあって、はっきり
いってよくわからないことが多いです。
私が二条に近かったのではと書いたのも、万葉集の件の他に
二条に非常に近かった、仁和寺の覚性法親王に経正がかつて
仕えていたこと、
(二条は皇太子になる前は仁和寺に入れられており、そのため
即位後、父との対立の中で、法親王は毎日のように内裏に出かけては、
二条を励ましていたといったような記述が愚管抄にあるそうです。)
二条の寵妃だった、多子に仕えていること、
経盛家歌合には、源通能、藤原重家兄弟いった二条の近臣たちが多く出席していること、
(ただし、平親宗のように後白河の近臣もいるので、いちがいにはいえないのかも)
二条の子六条の即位時の六位蔵人に次男の経兼が抜てきされていること、
などから、妄想したのにすぎませんから。同じ史料を読んでも、
個人によって考え方が違うので、私と違う考え方をされている方も
きっといらっしゃると思います。その後の後白河との関係に関しては
はっきりいって、私の大妄想です。あまり信用しないでください。(笑)

無官大夫といえば、経盛自身が32才までそうだったので、私はむしろ
こちらの方が、なぜなんだろうと不思議に思います。
母の身分が低かったと、よく書いてありますが、経盛母は六条右大臣
源顕房の孫娘であり、白河中宮賢子の姪にあたります。(もっとも母
といえば、教盛殿の方がすごいですが、、、なんせ関白の孫娘!)
御堂関白道長の末裔でもあり、家柄という点では中関白家の末裔である
池禅尼よりもいいです。ただし、父の源信雅は兄弟の中でただ一人
公卿になれなかったという不遇な人で、寵臣として名高い藤原家成を
従兄弟にもつ池禅尼に、政治力において劣っていたというべきでしょうか。
経盛母の周囲には勅撰歌人が多く、この村上源氏の血は経盛やその子たち
にも大きな影響をあたえていると思います。
あと、もしかしたら美貌のほうも、、、信雅一家は美男の家系で
有名だったらしいですから。その頃書かれた『富家語』という書物の
中に『故信雅朝臣は面は美しく、、、』と書かれているそうです。

付け加えるならば、経盛の出世が遅れているのは、母の家柄や、政治的なもの
ももちろんあったと思いますが、本人の資質も関係したのかもしれません。
宮廷の行事とか、あんまり特意ではなかったようですから。宮中の守護とか
で記録に現れる方が多かったような気がします。

家集の中には、二人の子供の任官を喜ぶ歌が残されており、私もこの人は
子煩悩な人だったと思います。歌が読めないからといって、子供を差別する
ような人ではなかったと思いますが、どうなんでしょう。
ただし、当時は嫡子とそうでない子には歴然とした区別があり、そういった
意味で、嫡子の経正とその他の子供には差別があったと思います。
あと、経俊はともかく、敦盛は平家物語の年齢が正しいのであれば、
和歌の才能うんぬんよりも、歌壇デビューするにはあまりにも幼なすぎた
とおもいます。

蛇足ですが、実は昔昔、私は大学の図書館で敦盛が実は無官では
なかった史料を見た記憶があります。
今回、ちょっと碓認しましたが、山槐記の除目部るい承安四年の項に
      若狭守    平敦盛
と碓かにありました。
承安四年といえばまだ6才頃なので、?と思うのが普通だと思うのですが、
あの藤原定家も5才で叙爵されて、6才で国司に任命されていたと思うので
可能性がないわけではないと思います。もしそうだとしたら、定家もそう
なのですが、敦盛も父の年をとってから生まれた子であり、成人した時には、
父はすでに故人となっている可能性が大きかったと思われます。できるだけ
早く親の目の黒いうちにてこ入れを、と考えてのことでしょうか。
自分が死んだ後のことまで案じていた愛児が、自分より先に死ぬことに
なろうとは思いもかけなかったでしょうね。(私の妄想ですが)
経盛に関しては、一の谷で子供たちをすべて失なったあとの歌が全く
残されていません。(平家物語の一部の本には熊谷との書状が載せられて
いますが。)行盛や忠快(教盛子)の歌が伝わっているのに、どうしてでしょう。
もし残っていたなら、父としての経盛の人間性がより理解できたのではと思います。









経盛一家に関しては、
の駄文を投稿してしまいました。
[12]弓丸さんからのコメント(2005年11月11日 11時28分19秒 ) パスワード

夏月様お久しぶりです。

私は個人的な発想でも構わないといっておきながら、史実に拘っていました。
なんて言おうとも、経盛に出世の見込みが無かったというのは拭い切れないのに、無理にいい方向に考えようとして・・・。
経盛は地味な存在だったことは認めざるを得ませんね。
だからといって、嫌いにはなりません。(笑)
いいんです、妄想、空想だって良いじゃないですか。
史実どおりじゃなくても、全然構いません。
ただ、経盛一家の歴史を知らなくては、小説は書けませんので、少しは歴史に関しては知る必要があります。(例えば経盛の嫡男、経正が覚性法親王に童として仕えていたとか、平治の乱でどのように経盛は活躍してたとか)
そういう基本的な歴史が分からなければ、物語は成立しませんしね。
私も歴史に関しては、ど素人なので全然気になさらないで下さい。
気になりましたら、どんどん書き込んで構いませんので。
[13]夏月さんからのコメント(2005年11月11日 17時08分38秒 ) パスワード



すいません。今みてみると、またおかしな字になっていました。
若狭守   平 敦盛     が正しいです。
ただし、これは、山槐記の誤謬である可能性も非常に高いです。
尊卑分脈には記載されていませんし。
一応、こういう史料もありますということで、、、、
[14]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 05時28分31秒 ) パスワード

夏月様 全然おかしな字じゃないですよ〜私の字の方が百倍おかしいですから(笑)

若狭守   平 敦盛のことですが、調べてみた所、兄の経俊は治承二年従五位下・伊賀守、翌年若狭守となっております。
もしかしたら、その辺の誤爆だったのではないか・・と思います。「任じられた時期も近いし)
あ〜でも、一旦敦盛が若狭守に任じられたけど、期間が短く、兄に引き継いだっていう考えてもいいかもしれませんね。

信雅一家は美男の家系とは、なるほど敦盛が美少年だった確かな証拠(?)じゃないですか(笑)
きっとお父上と兄上達も、容貌が綺麗だったんでしょうねぇ。(すみません変な妄想が・・)

宮廷の行事とか、あんまり特意でなかったとは・・・歌人としては優秀なのに宮廷の行事は不得意というのはおかしいなあ。
色々な歌会とか開いているのに、宮廷関係は不得意ということは、歌会と宮廷行事はまた別の関係?っていうことでしょうか?(よくわからない)
[15]夏月さんからのコメント(2005年11月18日 19時37分00秒 ) パスワード

弓丸様

忙しくて、運のいい週末しかこの掲示板におじゃますること
しかできなくて、失礼しています。

若狭守の件は、お兄ちゃんより先に、任官されるのはおかしいので
やはり間違いでしょうか。

宮廷の行事を良く知っている事は、良き公卿の必須条件でした。いわゆる
有職故実というものでしょうか。平家一門はもともと、軍事貴族だったので
こういうものに不得手だったようです。もっともなかには、教盛殿のように、
公家日記の中で活躍している人もいますが。経盛は平家政権の末期に参議に
なりますが、宮中の行事に慣れていなくて非難されたようなことが、『吉記』
にしるされています。

弓丸様は、忠度殿の『かからじと〜』をご存知なのですか。忠度集はお読み
になったことがあるのでしょうか。だったら、是非『経盛集』ないし
『経正集』を読んでみてはどうですか。どちらも『国歌大観』に載って
います。CD-ROMもあります。大きな図書館だったら絶対にあると思い
ます。(もう読んでおられたら申しわけありません。)
経盛や経正が出席した歌合もありますので。経盛という人がどんな人だったのか
想像するには、やはりその歌を知るのが一番だと思います。交遊関係もわかり
ますし。
敦盛の冬梅で思い出しましたが、経盛邸には、みごとな梅の木があった
そうで、その梅をめぐる、経盛と頼政の話しが『十訓抄』にあるそうです。
興味があれば、お読みになってはどうでしょう。ちなみに頼政は経盛家歌合
の常連で、経正の歌合にも出席しています。
あと、もっとお知りたければ、専門の論文をお読みになってはどうでしょうか。
史学的な論文はないかもしれませんが、国文学の論文はいくつかあると思います。
国文学研究資料館では所蔵する論文の目録をインターネット上で公開しています。
検索して、おもしろそうな論文があれば、もよりの図書館ないし直接、複写を
申しこむことができると思います。

私も鳥夜啼様のスレを読ませていただきました。平家の中でも超マイナーなこの
一家のことをこんなに詳しく調べておられる方がおられるとは。特に私は音楽関係
は全然なので、とても勉強になりました。

どんどん書き込んでといわれましたが、時間がなく、いつもためこんで長い文章に
なって申しわけありません。これから、忙しくなるのであまりおじゃまできないと
思います。弓丸様のお役にたてたのかどうかわかりませんが、頑張ってくださいね。

[16]弓丸さんからのコメント(2005年11月18日 23時08分55秒 ) パスワード

夏月さん

沢山のアドバイス、とても助かりました。
参考にさせていただきます。

ありがとうございました。m(__)m
[17]烏夜啼さんからのコメント(2005年11月28日 20時37分45秒 ) パスワード

夏月様


コメントを頂いていたのに、お返事申し上げず、失礼致しました。

私が、大昔に書きましたスレは、結局、
経正の琵琶の流儀等、結論を出さぬままにしてしまいましたから、
お読み頂いても、あまりご参考にはならないと
思います。
わざわざお読み頂いたとは、恐縮でございます。

夏月様は和歌や日記に精通していらっしゃって、凄いですね。
尊敬してしまいます。


ところで、経盛は清輔と親しく、
二条天皇の万葉集は、確か清輔が
献上したものだったと記憶しているのですが、
いまいち自信がありません。
清輔が献上したのは注釈本でしたっけ?

それから、経盛家の梅というのは、白梅のことですよね?
経盛集にある大宮・多子との
贈答歌の紅梅のことではありませんよね?

[18]夏月さんからのコメント(2005年12月02日 08時29分18秒 ) パスワード


鳥夜啼様
 初めまして。わざわざコメントをお返ししていただき、ありがとうございます。
お返事が遅れ申しわけありません。パソコンはもうお買いになったのでしょうか。
また再び、経正の琵琶に関するお話を伺うことができてうれしいです。

 ただ、申し上げておきますが、私の知識などとるに足らないものでして、鳥夜啼様の
御質問にも満足にお答えできないものと存じます。

二条天皇の万葉集についてですが、
承安元年(1171)、藤原清輔の弟、重家が経盛が所持していた万葉集を書写
したことが記録に残っています(万葉集仙覚本奥書より)。奥書によると、この
経盛本万葉集は二条院御本を書写したものであり、清輔が加点(万葉仮名に訓点を
つけたということでしょうか)したものだったそうです。ただ、私には、この二条院御本
が清輔によって献上されたものなのかどうかについては、はっきりとはわかりません。
その可能性は高いと思われますが。重家が書写した万葉集は、善本として六条家の
人々に大切に秘蔵されたようです。
 清輔が献上したことではっきりしているのは、確か古今集だったと思います。

経盛家の梅についてですが、
実は、私、十訓抄の話をちゃんと読んでいないのです。はるか大昔に、予備校の
講習のテキストに載っていたのを覚えていただけなのです。十訓抄だったのか、
古今著聞集だったのかも忘れており、一応、十訓抄にあることは碓認したのですが、
本文はきちんと読んでいません。自分がちゃんと読んでいないものを、人に勧める
このいいかげんさ。申しわけありません。今度、きちんと読んでみようと思います。
というわけで、白梅なのか紅梅なのかわかりません。申しわけありません。
[19]夏月さんからのコメント(2005年12月02日 19時37分50秒 ) パスワード


鳥夜啼様
 日記についてですが、私それほど精通しているわけではなく、以前
弓丸様のスレの敦盛の任官について、昔読んだ論文がどうしても見つける
ことができず、しかたなく資料をあさっていただけです。やってみると
おもしろくなって、全然関係ないところまで読んでしまいましたが。
仕事と家事の合間にちびちび読んでいたのですが、しろうと知識で、自分かってに
解釈していたので、やはり間違っていたところがあったようです。
 以前『経盛は宮廷行事に慣れていなくて非難された』と書いてしまいましたが、
これは寿永元年大嘗会御禊侍従定において、定文を経盛が書いた時の『吉記』の
記述『依闕如披責催云々』を『足らないところがあって責められた』という風に
解釈してしまったことからです。定文には複雑な決まりがあり、こういったことに
慣れていない六波羅平氏の人々は苦手としていたらしく、高倉天皇の御著袴定の
時、教盛が書くことについて九条兼実が『大丈夫か』と碓認したり、承安5年白馬節会
の時は九条兼実は『頼盛は適任ではない』として帰らせて、別の人に書かせています。
先日、偶然に中山定親の『達幸故実しょう』を読んで、間違いに気付きました。
史料大成『山槐記』には寿永元年九月の記事は欠如しているのですが、この「達幸故実しょう」
には元になった記事が残っており、それによると『依〜』は『やる人がいなかったので
大任をまかされた』という風に解釈するほうがいいようです。吉田経房が書くように院宣
が出ていたのに病気で参陣できず、同日後白河院賀茂御幸があり、何人かの公卿が
そちらに行ってしまったためでしょうか。とのかく定文を書くのは初めてだったにも
かかわらず、経盛は無事に大任をはたしたらしく、私が以前書いたこととは正反対の
ことであったようです。経盛自身、中山忠親(山槐記作者)に『参議になって以来、
陣において定文を書くことが夢だった。その願いがかなった』というような事を
言っています。弓丸様には、間違ったことをお教えしてしまい、本当に申しわけなく、
反省しています。

あと広盛に関して気になることがあるのですが、
山槐記には、長寛3年(1165)6月3日、六条天皇践祚にさいして、任官
された六位蔵人の記録が残っており、経盛次男経兼の名も見えます。六位蔵人
には序列があり、普通その順番通り叙爵され、二臈の藤原定長は同年七月、
四臈の藤原顕家は八月叙爵されており、五臈の経兼は当然その後と思われます。
ところで、月詣集には広盛が六位蔵人時代におなじ蔵人の藤原定長に送った
歌が残されています。以前のスレで鳥夜啼様がおっしゃっておられたように
経兼=広盛ではないのでしょうか。
[20]弓丸さんからのコメント(2005年12月02日 20時51分31秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年12月02日 20時52分17秒
[21]弓丸さんからのコメント(2005年12月02日 20時54分33秒 ) パスワード

夏月様こんばんは

話に入り込んでしまいますが、やはり、経盛はきちんと公務を務めていたのですね。鳥夜啼様がおっしゃっていたのですが、中宮庁焼失事件や山門強訴に出動を命じられても、逃亡して、清盛に庇ってもらってたり、色々とお騒がせな事もあったけど、自分の経盛のイメージが間違っていなかっただけで、ほっとしました。

(レス20は誤字が多かったので削除しました)
[22]夏月さんからのコメント(2005年12月03日 11時34分01秒 ) パスワード


弓丸様
 お久しぶりです。しばらく来られていないので創作の方にでも
専念されておられるのかなと思ったりしていました。
 このことだけで、きちんと公務を務めていたといえるのかどうかは
わかりませんが、このあと少なくとも2回(新年穀奉幣定、季御読経定)
定文を書いているみたいです。
 
 人物に対するイメージは人それぞれだと思うので、弓丸様が思って
おられるイメージを大切に、そのまま進められていっていいのではないでしょうか。
 
[23]弓丸さんからのコメント(2005年12月03日 14時00分47秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年12月03日 14時02分44秒
[24]弓丸さんからのコメント(2005年12月03日 14時02分30秒 ) パスワード

夏月様、ご無沙汰しておりました。

お忙しいとの事で、レスをしばらく控えていたのです。
創作は経盛一家の家族風景など、経盛の人物設定を考えておりました。
経盛の仕事風景や普段の彼の姿を色々思案しておりましたが、中々掴む事が出来ずに苦戦しています。
でも、失敗談が多かったみたいなので、歌会などに遊びに興じて仕事を疎かにしていたのではないかと、ちょっとイメージが違う方向に行ってしまったので、どう処理するべきか悩んでいました。
でも、少し経盛像が掴めた気がします。きちんとやっていたのか分からないだけでも、「きちんと仕事やっていたような」事が見つかっただけでも、遊び呆けていなかったことが分かって良かったです。(マグレだとしても)
全てこなす事が出来ないのは、百も承知なので、完璧な人物にはしませんから大丈夫です。
[25]弓丸さんからのコメント(2005年12月03日 14時22分02秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年12月03日 14時24分25秒
[26]弓丸さんからのコメント(2005年12月03日 14時24分11秒 ) パスワード

亀レスですが・・・。

>敦盛の冬梅で思い出しましたが、経盛邸には、みごとな梅の木があった
>そうで、その梅をめぐる、経盛と頼政の話しが『十訓抄』にあるそうです
もし、経盛邸にそれほど梅の木があったのなら、敦盛がその梅の木を愛でることがあったのでしょうね。そんな姿を想像して「冬梅」を喩えたのでしょう。

>忠度の和歌
あの歌は、偶々ネットで経正の歌集の一部が載せられていて、そのサイトに忠度の和歌も載っていたのを見つけたものです。とても衝動的な歌だったので、強く印象を受けてしまいました。「そこまで想われると、ストーカーと疑われるのではないか?」と。
[27]烏夜啼さんからのコメント(2005年12月07日 22時43分11秒 ) パスワード

夏月様

ご丁寧なコメント、恐れ入ります。

大変間抜けな質問なのですが、
広盛が六位蔵人の時の月詣集の歌のことです。
あの時の定長って、
吉田経房の弟のことですよね?
それとも寂蓮?

うーむ、やっぱり広盛が経兼とお思いになりました??
そうそう、私、過去スレに書き忘れていたのですが、
広盛は刑部大輔の時、従五位下の守だったのですね。
経正は左馬権頭でしたが、淡路守だし正五位下、で、行、
経正がもともと嫡子だったんですね。


二条天皇の万葉集のことは、私もよくわかっておりませんで、
なんだかお騒がせしてしまって、申し訳ありません。


経盛の梅は私も調べてみます。
経正の「かをとめてー」「うゑおきしー」の歌は白梅でしょうから、
経盛宅には紅梅もあり、軒端には白梅もあったのでしょう。
[28]烏夜啼さんからのコメント(2005年12月07日 23時08分45秒 ) パスワード

経盛宅の梅といえば、吉川英治の「新平家物語」に、とても面白い話があったことを思い出しました。
あの小説には、経盛宅に見事な梅の古木が登場します。
ただし、屋島の陣屋・・・
書くと長くなるので、やめておきますが、
経正と敦盛の兄弟愛、経正の人柄をあらわす重要アイテムですねー。
一の谷の後、再び屋島に戻ってきた経盛が、その梅を子息たちの形見だと思って大事にしていたのに、嵐でなぎ倒されたというのが泣けます。
そこへ、内裏も壊れたので、だだっ広い経盛宅を仮の内裏にしたい、と時忠が
訪ねてくるのですが、このときの二人のやりとりも泣けます。
直後、幼い帝が無邪気に楽しく遊びながらやってくる、というのも、
なんだかホロリとさせられてしまいます。




[29]烏夜啼さんからのコメント(2005年12月07日 23時19分10秒 ) パスワード

弓丸様
夏月様


実は私、来週ソロ・リサイタルの仕事がございまして、
今、別宅にこもって特訓中です。
今日は別の仕事のために東京へ戻ってきました。
それで書き込みもできたわけでございます。
が、明日から再びおこもりします。
いよいよ本番ですので、しばらく書き込めません。
書き逃げ失礼致します。
では。
[30]夏月さんからのコメント(2005年12月15日 01時33分45秒 ) パスワード

弓丸様
 いつもレスが遅くなって申しわけありません。いまさらと、お思いに
なるかもしれませんが、前回書き込まれたことで、少し思うことがあり
ますので、よろしいでしょうか。

>失敗談が多かった
これって、以前書き込まれた中宮庁焼失事件や山門強訴(成親のじゃな
くって、白山事件のほうですよね)のことでしょうか?
中宮庁焼失事件はともかく(一応火事の知らせを受けて急いで参内した
みたいですが)、1177年の山門強訴の件は、後白河院の近臣が引き
おこした事件が発端となっており、叡山と争いたくない清盛の、近臣を
守ろうとする後白河院への政治的圧力が背景にあった可能性もあるのでは
ないかとも思うのですが、どうなんでしょう。
経盛は頼盛や教盛と違って、後白河院別当になっておらず(きちんと調べ
はいないので、間違っているかもしれませんが)院への奉仕の度合いが少ない
ような気はします。

>歌会などになどに遊び興じて
藤原俊成が父忠盛の歌をみせてくれるように頼んだ時、忠盛の歌とともに
送った歌が、経盛集の中にあります。

 家の風 吹くともみえぬ このもとに 書きおく言の葉を散らすかな

忠盛は晩年和歌に熱中し、歌会も何度も開いていたようですが、経盛も
その歌会に参加させてもらっていたことが家集から伺えます。おそらく
それが経盛の歌壇デビューであったと思われます。
経盛と清輔、重家ら六条家の関係も、さかのぼれば父忠盛と彼等の父顕輔
の関係があったゆえとも思われます。
忠盛は経盛の官位については、他の兄弟と違ってあまり気を配っていない
ように見えるのですが、和歌に関しては、経盛は父の薫陶の元に励んで
いたようです。
侍品という低い身分から、公家社会にかっことした地位を得るために
和歌というものが重要な役割を持っていたことはいうまでもないこと
ですが、父の忠盛は、他の兄弟と違うことを経盛に期待していたのかも
しれません。うまく言い表せませんが、経盛にとって和歌とは単なる
『遊び』以上のものがあったのではないでしょうか。

ちなみに『忠盛集』は、忠盛の死後経盛によって編集された説が有力
です。
[31]夏月さんからのコメント(2005年12月15日 02時45分45秒 ) パスワード

鳥夜啼様
 広盛が送った歌の相手の藤原定長は、吉田経房の弟のほうです。
ちなみに太皇太后宮亮経盛家歌合の藤原定長は寂蓮の方です。
寂蓮はこの歌合で歌壇デビューしたらしいことを、昔読んだ記憶があります。

広盛のことですが、
米沢女子大学の佐々木記一先生がそのご論文『桓武平氏正盛流系図補輯』
の中で、やはり広盛、経兼同一人物説を唱えておられました。
ただ、延慶本や四部合戦本に広盛が北陸追討に加わっているように書かれて
いることはどうなんでしょう。鳥夜啼様がおっしゃるように官位のことからも、
それよりも前に早世していると考えるのが妥当だと思うのですが。
蛇足ですが、このご論文は、忠正以外に忠盛の兄弟がいたことや、
宇都宮蓮生(頼綱)の母方の祖父、新院蔵人長盛を保元の乱でン死した忠正
の嫡男長盛であると推定されたり、とてもおもしろいものでした。

十訓抄の方ですが、
先日読んでみました。ただし、本当に短い文で、残念ながら白梅なのか紅梅なのかは
わかりませんでした。話のほうは、古歌の『わが宿の梅の〜思いの外に君がきませる』
を経盛の従者がしらなかったために、経盛と頼政がとんちんかんな応対をしてしまった
という話でした。二条三位と書かれいたので、これは二条邸のほうでしょうか。




[32]弓丸さんからのコメント(2005年12月16日 15時45分56秒 ) パスワード

夏月様

>(成親のじゃなくって、白山事件のほうですよね)
成親の件で失敗談ってなんでしょうか?
初耳です。
[33]夏月さんからのコメント(2005年12月17日 00時57分05秒 ) パスワード


弓丸様
 すみません。ちょっとわかりにくい書き方をしてしまいました。
1169年の藤原成親解官をめぐるものと、1177年と、当時山門強訴は2回あり、
『逃げ出して、清盛に庇ってもらった』と書かれていたので、1177年のほうかな
と思ったのですが。
 ちなみに1169年のほうも、経盛は源頼政といっしょに内裏を守護しています。
ただし、重盛、宗盛、頼盛の平家主力部隊は院御所を守護し、内裏は手薄だったらしく、
僧兵達に内裏を蹂躙されてしまいました。この時、おそらく10代後半か20代前半だった
と思われる経正も借り出されて、源重定(?)といっしょに修明門を守っています。
[34]弓丸さんからのコメント(2005年12月17日 01時26分51秒 ) パスワード

夏月様

山門強訴は2回あったんですか。
実は鳥夜啼様から聞いた事なので、詳しい事は聞かなかったんです。
「逃げ出して、清盛に庇ってもらった」1177年の山門強訴の事、もう少し詳しく教えて頂けないでしょうか?なぜ経盛は逃げ出してしまったのか。
[35]弓丸さんからのコメント(2005年12月17日 11時24分24秒 ) パスワード

夏月様が言っていた「若狭守 平敦盛」というのが、調べてみて山槐記にありました。

1174年 1月21日 平敦盛を若狭守に中原盛直を越前権介に任じる

同年 9月17日 久永御厨が若狭在庁時永を訴えたことにつき,若狭国司平敦盛が陳状を提出 〔吉記〕

その後 師盛が若狭守に任じられて(1178年1月18日)、次に兄の経俊が任じられています(1179年11月19日)。

1179年 1月6日 宮誕生50日の祝で中宮女房衝重六十前のうち三十前は越前守平通盛の所課(知行国主は平敦盛).粉物長櫃10合は若狭守平師盛が調進(知行国主は藤原兼継)〔山槐記〕

若狭守に任じられたのは、5年ほど勤めた事になるのでしょうか。
その後に知行国主になっているそうです。
[36]弓丸さんからのコメント(2005年12月17日 13時37分52秒 ) パスワード

これは福井県史年表の中から書き記されていたものです。
詳しい事はよくわかりませんが・・。
[37]烏夜啼さんからのコメント(2005年12月22日 14時38分19秒 ) パスワード

夏月様

定長のこと、ありがとうございました。

広盛については、そういう論文があるのですか、面白そうですね。
広盛がちゃんと生きていたら、きっとその後も
各地の歌合に出席したでしょうし、広田社歌合以降の歌人としての
活躍がないのは、やはり不審です。
寿永百首家集もないし、
やはり早世したのではないでしょうか。

梅は二条室町ですか、わざわざお調べ頂いて、お手数をおかけしました。



実は私、リサイタルが終わって、ダウンしてしまい、
ずっと寝ておりました。
よほどプレッシャーだったようです。
体調をすっかり壊してしまいまして、
年末だというのに医者通いです・・・
情けない・・・・・・
と、いうわけて、
もう寝ます。
またまた書き逃げ失礼致します。
[40]takahiroさんからのコメント(2005年12月22日 15時44分24秒 ) パスワード

(誤字による削除申し訳ございません。)

 皆様はじめまして、烏夜啼様、お久しぶりです。

 今、名の挙がっております刑部大輔広盛(前名経兼)についてですが、前出の佐々木記一氏の論考によると、寿永二年五月十二日から十三日へかけての倶利伽羅峠の戦いにおいて、やはり落命早世しているようです。

<延慶本平家物語・三末・為木曽追悼軍兵向北国事>より

「四月十七日、木曾義仲を追討の為に官兵等北国へ発向して、次東国にせめ入て、兵衛佐頼朝を追討すべき由聞えけり、大将軍には権亮三位中将維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、三河守知度朝臣、但馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時朝臣、刑部大夫広盛、侍大将には越中前司盛俊、同子息越中判官盛綱、同次郎兵衛盛次、上総守忠清、同子息五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、飛騨守景家、同子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、受領検非違使、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人、大略数を尽す」

 上記・寿永二年四月十七日の記述において、追悼軍の将として『刑部大夫広盛』の名が見えます。

 次に、<四部合戦状本・平家物語・七・倶利伽羅落>より

「(寿永二年五月十三日)大将参河守知度、讃岐守経時(維時)、刑部大夫度盛(広盛)、以下、侍飛騨判官景高、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、靱負尉、兵衛尉、諸司、検非違使、有官輩百六十人、宗者共二千余人、倶利伽羅谷失」

 ここにおきまして刑部大夫度盛(広盛)は戦死者の一人として挙げられています。

 ここで「度盛」と見えるのは、「広盛・廣盛」の「廣」が「度」に訛伝しているようであり、倶利伽羅谷戦死者・刑部大夫度盛とは、刑部大夫広盛として捉え妥当であると思われます。

 また、源平盛衰記におきまして、倶利伽羅峠の戦死者として、平知度と平為盛の二名に関する記述がありますが、ここにおける本来の戦死者は、元は平知度と平廣盛の二名に関する戦死の記述であったのではないかとも推測されます。

 諸々の資料(当時の貴族の日記)によると、平為盛は倶利伽羅峠の戦の後にもその生存の事績が書き留められています。

○『愚管抄』寿永二年七月二十四日
○『山槐記』元暦元年九月十八日
○『吾妻鏡』建保六年六月二十一日、二十七日、七月五日

 (『山槐記』元暦元年九月十八日における除目においては、為盛は「従四位下」に叙されており、在京の貴族としての姿が記録に残されています。)

 よって、

「刑部大輔広盛(前名経兼)は寿永二年四月十七日に追悼軍の将として北陸に出向、翌月五月十三日に倶利伽羅峠の戦におき平知度とともに落命」

 として捉えてもよいようにも思えます。

 後半生、歌人としての名がその事績に挙がってこない謎はそのまま残りますが。 

[41]takahiroさんからのコメント(2005年12月22日 16時16分43秒 ) パスワード

追記

 なお、尊卑分脈等において兄弟として記されている刑部大輔広盛と刑部大輔経兼については、実は同一人物であり、初名が経兼であり改名して広盛を名乗るとの論証もまた先の佐々木紀一氏の論考においてなされています。

 前出ですが、

○『国語国文 第64巻・第12号(736号)』
○『国語国文 第65巻・第 1号(737号)』

 において、佐々木紀一氏著「桓武平氏正盛流系図補填(上・下)」は読むことができます。


 
[42]夏月さんからのコメント(2005年12月23日 03時22分37秒 ) パスワード

弓丸様
 御質問されていたのに、コメントが遅くなり申しわけありません。
御質問の『なぜ逃げたのか』ですが、きちんとお答えできないと思います。
この時の経盛の行動を『逃げた』ととって良いのかどうか、実は私自身わからないもの
ですので......
この事件は、簡単に言えば、後白河の近臣である西光法師の息子、加賀国目代藤原師経が
白山宮の神人と騒動をおこし、それに対し延暦寺(白山宮は延暦寺の末社)が師経ならび
に兄の加賀国司師高の配流を求めたものです。後の鹿が谷の変の発端となるものであり、
その歴史的背景は、後白河院政の研究本や清盛関係の本に必ず著述されていると思います。
比較的図書館等で手に入りやすく、経盛の行動について少々書かれているものとして
 五味文彦『平清盛』吉川弘文館
 元木泰雄『平清盛の闘い』角川書店
などをお読みになるのが一番かもしれません。
ただ、経盛に関係するところで、微妙な違いがあるかもしれません。
五味先生本では、4月14日の強訴の噂に際し経盛は内侍所を守護したが、再度19日にも
強訴の噂があり、経盛に院宣がでるも、経盛は清盛の元におり請文を進めず、清盛の意向と
いうことで、源頼政が六波羅の清盛の元に派遣されたと書かれていたと思います。(昔読んだ
記憶で書いているので、間違いがあるかもしれません。)
元木先生本では、簡単に、経盛が内侍所の警護を拒否したため、源頼政が代わって警護したと
書かれていました。多分、玉葉の4月19日条の頼政の『参向』の解釈の違いだと思うのですが。
古典的名著ともいえる、安田元久『平家の群像』では、清盛が経盛をかばったように書いて
ありますが、私自身は、むしろ経盛は叡山と争いたくない清盛の意向に沿ったのではと思う
のですが、どうなんでしょう。元木先生のご本の中にも、経盛は兄清盛に忠実だったと書いて
ありますし....
[43]夏月さんからのコメント(2005年12月23日 04時23分53秒 ) パスワード

弓丸様 
福井県史年表のことですが、
治承3年(1179)1月の東宮御五十日の越前と若狭の知行国主は間違いだと
思います。元の史料である増補史料大成『山槐記』の1月6日条に
 越前守通盛朝臣、件国平宰相教盛知行
 若狭守師盛朝臣、件国大宮権大夫経盛知行
と書いてあります。
 教と敦の字は似ているので、そのために間違えたのでしょうか。
ただ、越前国は当時は重盛が知行国主であり、その死後、後白河に取り上げられ、治承の
クーデターの後、教盛に与えられたと思うので、山槐記の記述も正しいのかどうか.....
 敦盛の若狭守任官に関しては、はっきりとはわからないです。他の史料で裏付けができれば
確実だと思いますが。なにしろ歴史的史料で敦盛の名前が存在するのは、吾妻鏡の一ノ谷戦死
者の項目だけらしいそうなので......
 でも、歴史的制約がない分、自由にその人物像を創造できるのかもしれませんね。
 
 年末になりバタバタしていますので、しばらくレスできないかもしれません。
           それでは、また。失礼します。
[44]夏月さんからのコメント(2005年12月23日 05時03分23秒 ) パスワード

鳥夜啼様
 お体の調子がお悪いのに、わざわざコメントいただき申しわけありません。
どうぞ、ゆっくりお休みくださいませ。
 こんな時にと、思うのですが、少し質問させていただいてもよろしいでしょうか。
 まず青山のことですが、本当に平家物語に書かれているように、玄象と並ぶ唐渡りの
名器なのでしょうか。平家と左記にしかその名前が記述されておらず(私がしらないだけ
なのかもしれませんが)、他の資料にないのが不思議です。
 能登尼の娘とは、延慶本に出てくる経正の正室、鳥飼中納言惟実の娘のことでしょうか。
 後、延慶本には経盛も笛の名手で、後白河の御前で秘曲の荒序を吹いたとか、都落ちの際、
弟子が福原までついてきて秘曲を伝授したとかの話があるのですが、これも史料的に裏付け
できるのでしょうか。
 お暇な時でよろしいので、宣しくお願いいたします。
 
[45]夏月さんからのコメント(2005年12月23日 05時28分49秒 ) パスワード


今、大変な間違いに気が付きました。
『桓武平氏正盛流〜』の著者は佐々木記一先生ではなく、Takahiro様がお書き
になっているように佐々木紀一先生です。真夜中に頭が朦朧としながら書いた
とはいえ、お名前を間違えるとは。
きちんとお書きいただいたTakahiro様、ありがとうございます。
[46]弓丸さんからのコメント(2005年12月23日 11時52分03秒 ) パスワード

夏月様
お忙しい中の返事恐れ入ります。

敦盛の若狭守の件、謎が解けて良かったです。
吾妻鏡で戦死者の中に記されている事意外、詳しい事は書かれてないのは
もどかしいです。やはり自分の想像で敦盛をイメージするしかありませんよね。
知章や業盛でさえ、詳しく書かれていないのですから。(多分)

経盛の事も勉強になりました。
色々話したいのですが、難しい事ばかりで、頭の整理が出来ていません。
基本的なものから、勉強した方が話も理解できるでしょうが。

経盛一家について皆様に教えてもらっているのに関わらず、何も理解出来
ていなくて申し訳ありません。
歴史小説を作り上げるのは、本当に難しいです。
史実に基づいて書く必要ないと思っていたのですが、やはり歴史の背景は
ちゃんと勉強するべきですね。
[47]弓丸さんからのコメント(2005年12月23日 11時59分43秒 ) パスワード

あくまでも経盛一家を知りたいと思ったのは、敦盛の家族の背景を知りたいがためだったので、これほど奥深いものだとは知りませんでした。
間単に理解しようとしても無理というもの。

初めて知った広盛や、嫡男の経正など、きちんと歴史に残っている兄弟を見ると、敦盛はどのような環境で育っていったか、また考えさせられます。
最初に考えた敦盛像が経正とダブってしまたので、これはちょっといけないな・・・と思ってしまって。
少しでも敦盛について史料が欲しいです。
[48]弓丸さんからのコメント(2005年12月23日 12時12分53秒 ) パスワード

敦盛が生まれる前の経盛一家の背景は簡単に纏める事にして、彼が4,5歳だった頃から本格的に一家背景を描けばそれで少しは形になるでしょうか?
[49]夏月さんからのコメント(2006年01月07日 03時03分21秒 ) パスワード


弓丸様
明けましておめでとうございます。

結局、あまりお役にたてなかったばかりか、いらないことをくだくだ
書いて、かえって混乱なさったでしょうか。
経盛一家について、史実に基づいて詳しく書くのは難しいかもしれません。
なにしろ史料が少ないので.....
以前、弓丸様が暇潰しのギャンブラー様といろいろ考察されていたこと、おもしろかった
ですよ。小説なので、なにもかも史実通りにする必要はないと思いますが。
あと、大事なのは、弓丸様が小説を通して何をお書きになりたいのかということだと思います。
暇潰しのギャンブラー様がおっしゃっておられたように、あせらずゆっくりと構想
を練られたらどうでしょう。
また、直接関係するかは別として、気になった人物をどんどん調べてみるのはどうですか。
以前書かれた平忠度ですが、史実でも忠度は経盛一家と大変親しかったらしく、経盛集
によると、一緒に花見にいったり、経盛が五節の舞姫を献上した時は、経正と一緒に
舞姫の童女に付き添ったりしています。守覚法親王の仁和寺歌会の会衆にもなって
いますが、おそらく経盛親子がさそったのではないでしょうか。
忠度という人は、以前鳥夜啼様が書かれていたように、一時期史料から消えてしまう
という失脚(?)という時期があったらしく、研究者の方もよくわからないとしながらも、
この不遇時代に歌の力をぐっとつけたのか、短い歌壇活動にもかかわらず、平家を代表
する歌人になりました。忠度の歌は語感の美しい歌が多く、私も好きです。
[50]夏月さんからのコメント(2006年01月07日 03時25分49秒 ) パスワード

知章に関してはわかりませんが、業盛に関しては少し史料があります。
月詣集に業盛の歌が一首のっています。

 花にそむ心ばかりをしるべにて
         いく木のもとにたびねしつらん

業盛は平家物語では蔵人大夫と称されていますが(これは鳥夜啼様がおっしゃって
おられたように、実は無官大夫とあまり変わりはありません。)、能登守に任官
していた史料もあるんですね。(たぶん定長卿記だったと思いますが。)
能登守といえば教経なんですけど.....
敦盛のことといい、このへんはよくわかりません。
[51]弓丸さんからのコメント(2006年01月07日 11時04分38秒 ) パスワード

夏月様 明けましておめでとうございますm(__)m

いえいえ、歴史の奥深さにちょっと眩暈がしてただけですので、気になさらないで下さい。
ギャンブラーさんと話し合っていた頃は、ただ遊び気分で考察していたものだったのですので、何も考えず「あーじゃないか、こーじゃないか」と色々空想していました。だけど、歴史小説を書こうかと本格的になったみたら、頭の中が真っ白になっちゃって、どうすればいいか解らなくなってしまった訳です。
夏月様にそう言ってくれて、ちょっと肩の荷が下りたような気がします。
「なぜ敦盛は無官だったのか」のスレを作った時を振り返って、また、原点に戻って考察してみます。
また、分からない事があったら書き込みしますのでよろしくお願いします。
[52]烏夜啼さんからのコメント(2006年01月10日 13時21分38秒 ) パスワード

皆様、ご無沙汰しております。

takahiro様、お久しぶりです。
なんだか、とてもお懐かしいです。

広盛のこと、いろいろとお教え頂きまして、ありがとうございます。

体調を崩しまして、わざわざコメントを頂いていたのにお返事できず、
失礼致しました。


広盛はけっこう後まで生存していたかもしれないわけですか。
ちょっと驚きです。
和歌の道はどうしてしまったのでしょうね?
ちょっと不思議な広盛に興味津々です。

これからも、いろいろご指導下さいませ。
[53]烏夜啼さんからのコメント(2006年01月10日 14時10分49秒 ) パスワード

夏月様
ご無沙汰して、申し訳ございませんでした。

なおまだ不調ですが、大分治りました。
入院しないですみそうです。
今月末に、また本番があるので、もう寝込んでもいられません。
そろそろ練習しませんと・・・
ソロでフルのコンサートではなく、20分しか演奏しませんが、
前衛的な曲なので、
暗譜がヤバイ・・・
またしばらくお籠もりして練習します。
再びしばらく書き込めなくなります。
申し訳ございません。


さて、青山のことですが、
一般に玄象と対をなす琵琶は牧馬といわれています。
青山が確かに仁和寺にあり、経正が所有していたことは間違いなく、
模造品もありますから、音色が優れていた楽器であったことは確かなのでしょうね。
しかし、平家物語がいう
玄象とともに貞敏によってもたらされたというのは、牧馬なのです。

能登尼の娘は伊実の娘かどうかはわかりません。
歌人の小侍従は伊実の妻であったとか。
彼女は経盛と親密ですから、
もし、伊実の娘が小侍従腹ならば、
小侍従と経盛の関係から、
互いの子を結婚させたのかもしれませんね。
ただ、伊実の娘(髑髏尼)のことは、重衡の妻と混同されていますから、
経正が伊実の娘と本当に結婚していたのかどうだか・・・
平家物語の妄想の可能性もあります。
ちなみに、伊通は鞨鼓の大家で、打楽器界に君臨する人でした。
伊実も楽の技を受け継いでいます。
経正の妻妾として史実上確認できるのは、能登尼の娘と『経正集』の人達だけです。

経盛の笛については、楽書から裏付けすることはできません。
誰に師事したのだか、名手なのだか・・・
可能性としては有房が考えられますが・・・
有房って異常に経正をかわいがっている印象があり、
経正には笛や琵琶のアドバイスをしたんじゃないか、と思いますが、どうなんでしょ???
[54]夏月さんからのコメント(2006年01月16日 18時41分53秒 ) パスワード


弓丸様
 正直なところ、私も今まで経盛一家について、詳しく調べたことはなく、敦盛に
関しては、むしろ弓丸様の方がお詳しいのではないかと思います。弓丸様のスレに
参加させていただいたおかげで、改めて調べてわかったことや、教えていただいた
ことが、たくさんありました。ありがとうございました。
 経盛に関しては、今まで自分が想像していた人とは、少し違うのかも....私もちょっと
分からなくなりました。(笑)検証不足と自分の思いこみで、いいかげんなことを
書いてしまったのではないかと危惧しています。いろいろ文献を調べたり、他の方
の書かれたことも参考にして下さいね。
 私も原点にたちかえり、この機会にいろいろ文献を調べてみようかなと思っています。
  
[55]夏月さんからのコメント(2006年01月16日 20時15分48秒 ) パスワード

鳥夜啼様
 おかげんのお悪いなか、わざわざ質問にお答えくださり、申しわけありません。
本当にありがとうございました。
 
 青山の由来は、やはり平家物語に書かれているのとは、少し違っていたのですね。
破鐘の方は鎌倉時代まで伝えられたということは、経正の死後、能登尼の系統を伝えた
人がいたのでしょうか。
 以前、お書になっていた行宴ですが、おそらく仁和寺の僧であったと思われます。
いくつかの秘法を守覚に伝授したと伝えられ、また、その名を記した守覚の表白も
存在するそうです。1174年、守覚が導師となって執り行われた八条女院の常磐
御堂供養にも、その名が見えます。(吉記、承安四年二月二十三日条)
 そういえば、平家物語の経正都落に行慶という僧がでてきますが、一字違いで、
ちょっと似ていますね。

 伊実の女のことは、はっきりしないのですか。能登尼が基綱にも師事したということは、
基綱の没年を考えると、能登尼の女とは経正よりかなり年上だったのでしょうか。
 確かに、髑髏尼は、経正妻と重衡の愛人内裏女房とで錯綜していますよね。輔子が伊実
の女にされていたり。どうしてなんでしょう。
 重衡といえば、なにげに経正と同じ職場であったことが多いですよね。左馬頭、権頭
コンビを6年ぐらい続けていますし、基通の家司もいっしょに務めていますね。重衡は
確か但馬権守でもあったような。かといって、仲がよかったという記録もなく、なにせ
経正殿は重衡郎党陵轢事件をおこしていますから.....

経盛の笛のことは、やはり確かな史料はないのですか。
 敦盛の笛のこともありますし、伝説は伝説として残しておいた方がロマン
があるかもしれませんね。
 有房は有仁の猶子だったので、琵琶も上手だったかもしれませんね。ところで安元御賀
で有房といっしょに笙に笛を吹いた平師盛は重盛の息子ですか。
 それにしてもなぜ、平家で音楽といえば経盛一家ばかりが強調されるのでしょう(小松
一家をさしおいて)。大音楽家師長の血縁だからでしょうか。
 師長といえば、最近、例の家出事件には政治的背景があったのではないかとういう説を
研究者の方が発表されたようです。経盛の白河亭は、父忠盛から伝領したものであり、
その後この屋敷こそが、盛子の白河殿になったとか。師長がこの経盛邸に入ったのは、
盛子と師長を再婚させて、基房に代える意図があったとか。 (樋口健太郎氏
『藤原師長の政治史的位置ー頼長流の復権と貴族社会』古代文化57巻10号)
 そういえば、経盛は基実の死後、供養に参加しているのですが、なんらかの関係があった
のでしょうか。


 長々と書いてしまいましたが、最後に、
 コンサートの御成功を心からお祈り申しあげます。


 
[56]弓丸さんからのコメント(2006年01月17日 12時38分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年01月17日 12時40分31秒
[57]烏夜啼さんからのコメント(2006年01月18日 14時21分36秒 ) パスワード

夏月様

いろいろと素晴らしいコメントをありがとうございました。

玄象と牧馬のことですが・・・
実は貞敏が唐より持ち帰った2面の琵琶とは、
古い文献には名がないのですよ。
ただ、宮中に玄象という天下一の名器があり、それと双璧をなす名器に牧馬がありました。
いつしかこの2面こそ貞敏のもち帰ったものと考えるようになったようで、鎌倉時代辺りの文献から、見ることができます。
ですから本当に玄象と牧馬が貞敏によってもたらされたのかどうかは
実は不明なのです。
しかし、玄象が天下一の名器であったこと、
それに匹敵するのは牧馬だったことは事実です。


行宴は仁和寺の僧でしたか。
では、経正の師だったかもしれませんね。
西流も桂流も子供の時から学んでいたのでしょう。
行慶は葉室光頼の子とされていますね。
『経正集』に光雅との贈答歌があり、
親しかったようですが、この人も光頼の子ですね。

能登尼の父良祐はいつの生まれかわからないのですが、
もしかすると1030頃かもしれず、
能登尼は1100かどうがんばっても1110頃の生まれでしょう。
経正の家庭は十中八九姉さん女房ですね、きっと。

笙の血脈と笛の血脈には、有仁の後継として有房があります。
楽というものはあながち秘すものではなく、
御遊などで公家が演奏する都合があったので、
笛にせよ琵琶にせよ、ある程度弾ければ伝授されたのです。
御遊、御賀等で演奏した公家は、もちろんその道に自慢の人でしたが、
必ずしも血脈に記されるべき名手であったわけではありません。
楽は秘すものではありませんが、秘楽といって
楽の中でも秘すものがありました。
笛では皇帝、団乱旋、荒序で、最秘は師子でした。
琵琶は秘すものが多く、秘楽、催馬楽、掻合、手(楽が管絃・舞楽等の合奏なのに対して、独奏のもの)などが秘され、
これらの上に曲、つまり上原石上流泉、太常博士楊真操、石上流泉があり、
最秘曲に啄木があって、
全部許されて血脈入りとなります。
琵琶の啄木にあたるのが笛の師子です。
小松一家の人は笛に長け、重盛も
維盛も御遊等で笛を吹きましたが、秘楽まで許される程ではなかったと
思います。
ただ、維盛は神楽、資盛は筝を極めました。
資盛の師は師長です。
師長は維盛・清経と相婿ですね。
師長の後妻成子は姪にあたる成経女を養女にしています。
師長は経盛と血縁ですが、小松一家と親しかったのです。
小松一家が音楽通なのはそのためではないでしょうか。
[58]夏月さんからのコメント(2006年01月25日 12時20分16秒 ) パスワード

鳥夜啼様
 お忙しい中、コメントいただきまして、ありがとうございました。
お暇な時にでも読んでいただければと、気楽に書き込んでしまいましたが、
なんだか、お仕事のおじゃまをしたみたいで本当に申しわけありません。
 秘曲や小松一家のことなど、よくわかりました。
 大家笛血脈は、私も、ちらっと見てみましたが、清和源氏の人たち(義家や義光)
ものっているのですね。それに対して、有名な藤原実国や高倉院の名がないとは?!
[60]せせらぎさんからのコメント(2011年07月14日 15時49分51秒 ) パスワード

突然の横入り失礼します。
はじめまして、せせらぎと申します。
いつも外から拝見させていただいておりました。

私は15年以上平家物語にはまっており、今回こちらにたどりついたのも検索をかけた結果、一番興味を魅かれたからです。

拝見していて一つ気になったのでお伺いしたいのですが、55で夏月様がおっしゃっている「重衡郎党陵轢事件」とはどのようなものなのですか?
色々と調べてみたのですが分からず、思い切って今回こちらで聞いてみた所存です。
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