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 投稿番号:100827 投稿日:2005年10月07日 23時41分28秒  パスワード
 お名前:次佐衛門
按察使局について
キーワード:按察使局
コメントの種類 :人物  パスワード

 平熱の皆様、初めまして。
 按察使局についてお尋ねします。
 1.按察局と按察使局の区別はあるのでしょうか。
 2.この名を複数の人が同時に称することが有るのでしょうか。
 3.吾妻鑑にある、先帝安徳を抱き入水するも生虜となった按察使局は、同時に
  生け捕りになった法印能円の女、後に源通具の妻となり、土御門帝の乳母となっ   た按察使局と同一人物でしょうか。
  若し同じ人でしたら、彼女の生涯、特に晩年を教えていただけませんか。

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[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年10月11日 00時26分11秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

按察使局(あるいは按察局)は宮廷女官の上臈の呼称として存在する。
従って複数の按察使局が居た可能性が高いと考える。
建春門院(平滋子)の側近に仕えた按察局とすれば、権大納言按察使藤原公通の娘である。
平家物語では、二位殿(平時子)が安徳帝を抱き入水、按察局も入水するが救助される。
吾妻鏡では、按察局が安徳帝を抱き入水。
 
他に異伝として「真木家略系譜」によると、
大和石上神社祠官の女が、平時子に仕えて伊勢と称し、平徳子の入内に従い按察使局を称する。
壇ノ浦滅亡後、按察使局は逃れて筑後川の鷺野原に草庵を結び水天宮を祀る。
平知盛の二男知時の四男を肥後五箇庄から迎えて養嗣とする。
幕末の志士真木和泉守保臣は後裔と伝える。
 
久留米水天宮は全国水天宮の総本宮である。
http://www.yado.co.jp/tiiki/kurume/suitengu/suitengu.htm
[2]次佐衛門さんからのコメント(2005年10月12日 07時55分33秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん、有難うございました。
随分前のことになりますが、水天宮の由緒を見て、安徳天皇、建礼門院は理解できますが、なぜお祖母さんまで祀られるのか不思議に思った事があります。
それと按察使局がこの地まで逃れ来て(どうも世間の人は平家関係の人物は逃げ隠れするものと決めてかかっているようです)となっていますが、なぜ久留米
に、ここは筑紫平野のド真中、隠れ潜むには一番不適な場所です。
隈さんがお書きになっている、
「按徳天皇久留米潜幸説」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100085.html
を、2年程前知り驚きました。
更に吾妻鑑の中に、「按察使局が先帝を抱き入水するも生虜となる」と有るのを知って驚きました。
この按察局が水天宮由緒にある按察局と同一人物であれば、この局は、逃れ来たのではなく、ある時期にある意思を持って久留米に来たと想像できるからです。
(ただ日本の苗字七千傑さんがお書きになっている様に別人の可能性が高いようですが)
以下 私の想像する物語を書きます。ご意見、ご批判をお願いします。
(少々文才に欠けますので、個条書きにします。)
  1. 安徳天皇一行は壇ノ浦の後、ある時点で所在を突き止められる。
    鎌倉方は、安徳帝は清盛の孫では有るものの、女系であるし、平家に心寄せ る者が帝を擁して勢力挽回を図らない限り危険な人物ではない。
    朝廷、鎌倉方としては既に御鳥羽帝の即位も有るので、公式には先帝は崩 御または行方不明としたかった。また京都にお戻ししても混乱のもとになるだ けでこのまま静かに人々の記憶から消えていただくのが最上だった。 
    鎌倉方は、身分を明かさない、不要な人物との接触を禁ずる等の条件付で、 一行を監視のもとに置いた。
    (上に書いたようにこの辺りは隠れるには不適であるが、監視するには容易な 地形である。)
    隈さんの「久留米潜幸説」にある鳥栖市下野(しもの)立石家残る文書は門 外不出とされていたようだがこれも鎌倉方の口止めが理由ではないだろうか。
    時の経過と共に、監視も緩くなり、{潜幸説」にあるように、行動の自由も 広がっていった。

  2、建礼+門院の許へは、安徳帝、や二位尼の消息は届いていたと想像できる。
    (小説ではこんな場合必ず密かに連絡を取る人物が出て来る)
 1、が成り立てば、朝廷あたりから非公式に情報が届いていた可能性は高い。
    後白河法皇の大原御幸も、安徳帝の無事と所在地を伝えるのが目的であった か。(これは飛躍しすぎか)
    姿を見ることは出来ないが、建礼門院にとっては時々もたらされる消息から 帝の成長のご様子を想像することが生きるよすがとなっていた。
    先帝の許へも、当然建礼門院の情報伝えられ、生きている間は決してお会い できない母君の姿を偲びながら、りりしく成長していった。

  3、そのうち建礼門院の許へ、二位尼の死、そして安徳帝の死の知らせがもたらさ れる。
    共に過ごしたのはわずか8年(今の子供では小学校入学くらいでしょうか)、 運命とは言え自分の子として生まれ来たばかリに辛い生涯を送った
    安徳帝の、それも自分に先立つ死、建礼門院のお心、いかばかりであったろ うか。
    その後、自分の生涯の終わりを感じ始めた建礼門院は按察局に自分の死後の ことを託す。
    「彼の地では、地の人たちがささやかではあるが、母と我が子の墓を祀って くれているとの事、按察局殿、私が死んだら一緒に葬って、供養をお願い出 来まいか。
     彼の地とは、筑後久留米の鷺野です。」   





[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年10月12日 22時29分18秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

久留米水天宮の創祀伝承はあくまでも伝説の域を出ないが、
氏族研究の泰斗である太田亮博士の説によれば、大和東遷前の物部氏族根拠地は筑後にして高良大社は宗祀と推定されている。
また高良大社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓から構成されている。
按察使局(大和石上神社祠官の女)は物部姓の出自であり、壇ノ浦滅亡後に同族の本貫地である筑後久留米を目指したことは自然の成り行きである。
高良庄が長講堂領でもあり、正一位の社格を持つ高良大社を背景とするこの地域には鎌倉幕府も圧力をかけることは避けたものと思われる。
公式には壇ノ浦滅亡後に平家勢力は全滅したことにして、平家残党は黙認したのが真相と考える。
むしろその後の幕府は、平家追討より義経追討や幕府内の潜在大勢力掃討が凄まじかったことは歴史が伝えている。
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