[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月06日 00時34分01秒 ) | パスワード |
出典は「あづま鑑」
文治5年(1189年)7月19日 丁丑
巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。この刻景時申して云く、城の四
郎長茂は無双の勇士なり。囚人と雖も、この時召し具せられば何事か有らんやと。尤
も然るべきの由仰せらる。仍ってその趣を長茂に相触る。長茂喜悦を成し御共に候す。
但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗を給うべきの由これを申す。而る
を仰せに依って私旗を用いをはんぬ。時に長茂傍輩に談りて云く、この旗を見て、逃
亡の郎従等来たり従うべしと。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八
十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十
人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三
郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉
出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。
鎌倉出御より御共の輩、
武蔵の守義信 遠江の守義定 参河の守範頼 信濃の守遠光
相模の守惟義 駿河の守廣綱 上総の介義兼 伊豆の守義範
越後の守義資 豊後の守季光 北條の四郎 同小四郎
同五郎 式部大夫親能 新田蔵人義兼 浅利の冠者遠義
武田兵衛の尉有義 伊澤の五郎信光 加々美の次郎長清 同太郎長綱
小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政 同七郎朝光 下河邊庄司行平
吉見の次郎頼綱 南部の次郎光行 平賀の三郎朝信 三浦の介義澄
同平六義村 佐原の十郎義連 和田の太郎義盛 同三郎宗實
小山田の三郎重成 同四郎重朝 籐九郎盛長 足立右馬の允遠元
土肥の次郎實平 同彌太郎遠平 岡崎の四郎義實 同先次郎惟平
土屋の次郎義清 梶原平三景時 同源太左衛門の尉景季 同平次兵衛の尉景高
同三郎景茂 同刑部の丞景友 同兵衛の尉定景 波多野の五郎義景
中山の四郎重政 同五郎為重 渋谷の次郎高重 同四郎時国
大友左近将監能直 河野の四郎通信 豊嶋権の守清光 葛西三郎清重
同十郎 江戸の太郎重長 同次郎親重 同四郎重通
同七郎重宗 山内の三郎経俊 大井の次郎實春 宇都宮左衛門の尉朝綱
同次郎業綱 八田右衛門の尉知家 同太郎朝重 主計の允行政
民部の丞盛時 豊田兵衛の尉義幹 大河戸の太郎廣行 佐貫の四郎廣綱
同五郎 同六郎廣義 佐野の太郎基綱 阿曽沼の次郎廣綱
波多野の余三實方 小野寺の太郎道綱 工藤庄司景光 同次郎行光
同三郎助光 狩野の五郎親光 常陸の次郎為重 同三郎資綱
加藤太光員 同籐次景廉 佐々木の三郎盛綱 同五郎義清
曽我の太郎助信 橘次公業 宇佐美の三郎祐茂 二宮の太郎朝忠
天野右馬の允保高 同六郎則景 伊藤の三郎 同四郎成親
工藤左衛門の尉祐綱 新田の四郎忠常 同六郎忠時 熊谷の小次郎直家
堀の籐太 同籐次親家 伊澤左近将監家景 江右近次郎
岡部の小次郎忠綱 吉香の小次郎 中野の小太郎助光 同五郎義成
渋河の五郎兼保 春日の小次郎貞親 藤澤の次郎清近 飯富の源太宗季
大見の平太家秀 沼田の太郎 糟屋の籐太有季 本間右馬の允義忠
海老名の四郎義季 所の六郎朝光 横山権の守時廣 三尾谷の十郎
平山左衛門の尉季重 師岡兵衛の尉重経 野三刑部の丞成綱 中條の籐次家長
岡辺の六野太忠澄 小越右馬の允有弘 庄の三郎忠家 四方田の三郎弘長
浅見の太郎實高 浅羽の五郎行長 小代の八郎行平 勅使河原の三郎有直
成田の七郎助綱 高畠の大和太郎 塩谷の太郎家光 阿保の次郎實光 ←ここ
宮六兼仗国平 河匂の三郎政成 同七郎政頼 中四郎是重
一品房昌寛 常陸房昌明 尾藤太知平 金子の小次郎高範
[2] | 小次郎さんからのコメント(2006年06月10日 20時03分36秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2010年08月20日 12時09分58秒
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月10日 23時21分38秒 ) | パスワード |
小次郎さん
情報をありがとうございました。
ぺこり
上記「阿保の次郎實光」がどういう人物だったかで
元からの武士なのか漁師なのか分かりますね。
漁師が頼朝から姓を頂いたというお話で
(なんで「あほう」なんて姓を?)と思いました。
謎
これからもよろしくお願い致しますね。
ぺこり
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月10日 23時25分17秒 ) | パスワード |
そうそう昔の知り合いに「安保」(あんぼさん)とおっしゃる方がいらっしゃいました。
それで
阿保の次郎實光 と 安保さんは御一族なのか?
阿保姓では、からかわれるから?笑
それで安保にしたのかしら?
それとも「安保」姓が頼朝から頂いた姓なのか
幅が広がりました。
[5] | 小次郎さんからのコメント(2006年06月11日 00時33分43秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2010年08月20日 12時10分13秒
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月11日 04時30分24秒 ) | パスワード |
埼玉県じゃ漁師にはなれない・・・(笑)
阿保氏の成田は成田さん(お不動さん)でしたか。新勝寺(こんな字で良いのかしら?)関係。
と、いうことは
平将門 vs 藤原秀郷側の成田さんですね。
[7] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年06月11日 12時56分55秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
上記東鑑(吾妻鏡)の阿保の前後の出自を見ると、
庄の三郎忠家 児玉党
四方田の三郎弘長 児玉党
浅見の太郎實高 猪俣党
浅羽の五郎行長 児玉党
小代の八郎行平 児玉党
勅使河原の三郎有直 丹党
成田の七郎助綱 藤原氏伊尹流(ほか秀郷流、私市党、横山党説もあり)
高畠の大和太郎 出自不詳
塩谷の太郎家光 児玉党
阿保の次郎實光 丹党
宮六兼仗国平 出自不詳
河匂の三郎政成 猪俣党
同七郎政頼 猪俣党
武蔵北部の武蔵七党所属のものが多い。
阿保は安保と通じて明確な区別はない。
阿保次郎實光は武蔵国賀美郡元安保邑(現・埼玉県児玉郡神川町大字元阿保)発祥。
阿保氏漁師説はヨタ話の類と思われる。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月11日 13時06分17秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑さん
ありがとうございました。
ぺこり
坂東の武士のお歴々ですね。
>成田の七郎助綱 藤原氏伊尹流(ほか秀郷流、私市党、横山党説もあり)
ここの家もいろいろ称しているようですねえ。
>阿保氏漁師説はヨタ話の類と思われる。
阿保氏一族はさぞかし面白くないでしょうね。
うちは昔っから名字のある武士だ、って。笑
これからもよろしく。
ぺこり
[9] | 小次郎さんからのコメント(2006年06月11日 13時20分00秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2010年08月20日 12時10分32秒
[10] | 田中愛造・さんからのコメント(2006年06月12日 02時05分34秒 ) | パスワード |
阿保と云えば先ず、薬子の変に連座し、のち、承和の変にも関係した阿保親王(在原行平・在原業平の父)792-842を思い出しますが、この名を見ても、三千傑氏の云われる通りヨタ話と言うのも意味が在ります。
阿保氏は安保や英保に通じ(アボ・アブ・アホ・アンボ)と呼ばれ、何れも古代豪族の流れを有する別流と考えます。
垂仁天皇ー息速別命ー宇礼葉別命ー志利雄別命ー木呂子王ー阿保須珍都斗王(阿保君)−建部意保賀斯(建部君)−曾俾ー日鷲ー阿佐古ー書首ー阿保深江(阿保君姓・伊賀郡大領)−黒麻呂(天武13賜阿保君姓・大領)−牛養(武蔵小掾)−阿保人上(天平宝字8賜建部朝臣姓・大学頭武蔵介)−大国(武蔵阿保庄)ー宗人(賀美郡擬少領)−只上(比企郡大領)−中宗(少領)・・
《建部意保賀斯の子》−古斯ー多賀良ー武比古ー忍山ー磐弓ー登理(上宮太子舎人)ー阿保広国(阿保公姓)−稗麻呂ー豊躬ー阿保稲男(天平宝字8賜阿保朝臣姓、従兄弟・阿保家麻呂)《稗麻呂の子》−稲麻呂(伊賀郡大領)−百樹(少領)−公足(擬大領)・・
此れ等は伊賀国伊賀郡の阿保郷(阿保庄)の流れ(右京皇別)又、同じ天皇からの流れだが小月山系も在る。
垂仁天皇ー祖別命ー古奈曾乃君ー加流波夜乃君ー小月山宇津志(小月山君、応神朝)−稲加斯ー左加斯ー意古ー志己夫ー赤兄(小智冠、推古朝)−身麻呂ー子麻呂(栗太評督)−真作(栗太郡大領・大舎人)−豊玉(大領)−飯麻呂(大領)−猪甘(大領)−魚福(擬大領)−豊緒(栗太郡主帳)−阿保今雄(貞観17改賜阿保朝臣・算博士右大史、弟・阿保有雄)・・
《魚福の子》−成良(栗太郡軍団・大毅)−阿保良真(貞観17改賜阿保朝臣・伊豆権目)−良継(大舎人頭)−良平(諸陵助)−良年(皇后宮少進)−善成(関白勾当)−中継(右兵衛少志)・・
《豊緒の子》−良持(石見権介)−視連(石見少目)−忠文(大蔵丞)−当見(大蔵太郎)・・
《豊緒の子》−元見(観学院勾当・兵衛志)−元恒(勾当・二条勾当・近江介主計助)−頼平(石見少掾)−致平(石見権守)・・
続く
[11] | 田中愛造さんからのコメント(2006年06月12日 17時00分17秒 ) | パスワード |
阿保今雄(小槻山君、左大史勘解由次官・主税頭)の子阿保経覧(算博士・主税頭)その子良経(右少史)の流れや、同じ今雄の子で阿保当平(算博士・主計助・左大史)より官務家として〔小槻・壬生・大宮・虫鹿・村田)等格家、明治に至る。
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王ー多治比古王ー多治比島(丹比公、天武13賜多治比真人姓、正二位左大臣)の流れを自称、姓氏家系の言い訳けは別として。本来、出雲臣武蔵国造族桧前舎人直裔丹党、武蔵国児玉郡安保邑より起こる。武蔵七党の系図に於いても、又、家範ー家隆ー家広ー家綱ー頼景ー家景ー家義ー家信ー武信ー峯信と在るが不自然で年代に無理が有る。
宇遅彦命ー豊耳命ー神奴小牟久(神奴君)−吾賀古ー弟彦ー大樹ー伊美岐ー長目ー椋垣ー田迷ー峯主ー大丹生丹生麿(大丹生直)−古佐非ー広椅ー宇胡閉(奉斎天野神)・・・家信(武蔵介)−武信ー峯信(桑原丹二大夫)−峯時(丹貫主)−峯房ー武経(秩父丹貫主)−武平(次郎大夫冠者)−基房(秩父黒丹五)−恒房(新里丹三大夫)−実光(安保刑部丞、阿保次郎)−実員(七左)ー泰実(三左衛門)−頼泰(三左)−経泰(左)−光泰(安保丹後守)−泰規(信濃守)−憲光(因幡守)−宗繁(信濃守)−憲祐(常陸権守)−氏泰(中務少輔)−某=泰広(信濃守)−泰忠(中務少輔)−晴泰(中務少輔)ー光泰(刑部丞)・・
この安保氏実に大族で、名のある人物の書き出しはネットでは無理があり流れだけに致します。一族安保と阿保の使い分けが有り此処では其れには触れません。
続く
[12] | 田中愛造さんからのコメント(2006年06月12日 21時54分36秒 ) | パスワード |
播磨飾磨郡伊和里に於いて伊和君の出、国造伊和恒郷(出雲国造系?)−恒雄(神主)・・安保末恒(鎌倉末期)−依元ー末真ー敦恒(大祝職)ー朝恒(大祝職)・・
神主家安保氏は南北朝期に其の力は衰え、安保氏の字を英保に改め社家として其の名を残す。然るに奈良時代、英保郷に英保首が居たらしい。戦国時代ここの阿保砦にいた英保氏は古代氏族かは定かで無いが、其の存在を播磨に残す。
因みに、備後出身の元広島藩士の安保清康男爵は、丹党を名乗りその曾孫も安保姓だが、清康の父君は林姓です。
阿保、安保、英保に至り、「阿呆」な苗字ではなく東日本では活躍した姓だと思います。余りクドイと嫌われますのでここらで留めおきます。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年06月12日 22時27分11秒 ) | パスワード |
田中愛造さま
すっごぉ〜い!
ありがとうございました。
>余りクドイと嫌われますのでここらで留めおきます。
嫌ったりしませんよ。笑
安保と阿保の使い分けもあるんですねえ。
ふ〜む・・・
[14] | 中村 健次さんからのコメント(2009年04月19日 02時07分16秒 ) | パスワード |
私の先祖の苗字は「新里」と言います。周防の大内氏に数代にわたって仕えていた。
毛利氏と陶氏との厳島合戦では毛利氏側につきました。
陰徳太平記では厳島(安芸の宮島)の囮城である宮尾城の城主 新里式部(のちの坪井和泉之守元政)です。
父親は 新里因幡之守 祖父は 新里若狭之守 義理の祖父は 温品氏(安芸武田氏の家臣)それ以前は新里伊豆之守となっています。
苗字を調べていると広島には「新里」という苗字がみつかりません。しかし「丹党」の中に「新里」を発見、考えてみると友人の先祖は毛利水軍の総指揮官 児玉周防之守 「児玉党」です。遠い時代ではありますが。関東地方と中国地方の交流が頻繁にあったのですね
私の先祖はいつごろ武蔵の国から安芸の国に赴任したのでしょうか。調べていただければ幸いです
[16] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年04月06日 00時02分53秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>私の先祖はいつごろ武蔵の国から安芸の国に赴任したのでしょうか
承久の乱(1221)以降です。
貞応2年(1223)新補地頭の得分を定める。
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、関東ほかの鎌倉幕府御家人が新補地頭として西国へ下向。
児玉党は経行・貞行・維親らの後裔が安芸国に下向。
恐らく丹党新里氏の西遷も同時期と思われる。
現在でも広島県広島市に新里氏は5軒ほど存在。
安芸児玉氏(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02130.htm#002 )
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