【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:100824 投稿日:2005年10月05日 20時07分27秒  パスワード
 お名前:弓丸
熊谷小次郎直家について

コメントの種類 :人物  パスワード

源平合戦に父直実と共に出陣した小次郎直家は16歳の時に戦死したと聞いた事があるんですが、実際は53歳で病死したとされています。
あまり詳しくないので、どんな活躍をしたか、どんな人物だったか、知っている方教えてください。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月06日 00時17分33秒 ) パスワード

熊谷小次郎直家(1169〜1221)

一の谷合戦で平山季重と先陣争いをしたことで有名ですね。


戦死したことになってますか?
負傷した事はどこかで読みましたが。
その後の活躍については「あづま鑑」に記載があります。


文治5年(1189年)7月19日 丁丑
  巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。この刻景時申して云く、城の四
  郎長茂は無双の勇士なり。囚人と雖も、この時召し具せられば何事か有らんやと。尤
  も然るべきの由仰せらる。仍ってその趣を長茂に相触る。長茂喜悦を成し御共に候す。
  但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗を給うべきの由これを申す。而る
  を仰せに依って私旗を用いをはんぬ。時に長茂傍輩に談りて云く、この旗を見て、逃
  亡の郎従等来たり従うべしと。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八
  十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十
  人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三
  郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉
  出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。
  鎌倉出御より御共の輩、
   
   武蔵の守義信   遠江の守義定  参河の守範頼     信濃の守遠光
   相模の守惟義   駿河の守廣綱  上総の介義兼     伊豆の守義範
   越後の守義資   豊後の守季光  北條の四郎      同小四郎
   同五郎      式部大夫親能  新田蔵人義兼     浅利の冠者遠義
   武田兵衛の尉有義 伊澤の五郎信光 加々美の次郎長清   同太郎長綱
   小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政   同七郎朝光      下河邊庄司行平
   吉見の次郎頼綱  南部の次郎光行 平賀の三郎朝信    三浦の介義澄
   同平六義村    佐原の十郎義連 和田の太郎義盛    同三郎宗實
   小山田の三郎重成 同四郎重朝   籐九郎盛長      足立右馬の允遠元
   土肥の次郎實平  同彌太郎遠平  岡崎の四郎義實    同先次郎惟平
   土屋の次郎義清  梶原平三景時  同源太左衛門の尉景季 同平次兵衛の尉景高
   同三郎景茂    同刑部の丞景友 同兵衛の尉定景    波多野の五郎義景
   中山の四郎重政  同五郎為重   渋谷の次郎高重    同四郎時国
   大友左近将監能直 河野の四郎通信 豊嶋権の守清光    葛西三郎清重
同十郎 江戸の太郎重長 同次郎親重 同四郎重通
同七郎重宗 山内の三郎経俊 大井の次郎實春 宇都宮左衛門の尉朝綱
同次郎業綱 八田右衛門の尉知家 同太郎朝重 主計の允行政
民部の丞盛時 豊田兵衛の尉義幹 大河戸の太郎廣行 佐貫の四郎廣綱
同五郎 同六郎廣義 佐野の太郎基綱 阿曽沼の次郎廣綱
   波多野の余三實方 小野寺の太郎道綱 工藤庄司景光    同次郎行光
   同三郎助光    狩野の五郎親光 常陸の次郎為重    同三郎資綱
   加藤太光員    同籐次景廉   佐々木の三郎盛綱   同五郎義清
   曽我の太郎助信  橘次公業    宇佐美の三郎祐茂   二宮の太郎朝忠
   天野右馬の允保高 同六郎則景   伊藤の三郎      同四郎成親
   工藤左衛門の尉祐綱 新田の四郎忠常 同六郎忠時     熊谷の小次郎直家  ← ここ
   堀の籐太     同籐次親家   伊澤左近将監家景   江右近次郎
   岡部の小次郎忠綱 吉香の小次郎  中野の小太郎助光   同五郎義成
   渋河の五郎兼保  春日の小次郎貞親 藤澤の次郎清近   飯富の源太宗季
   大見の平太家秀  沼田の太郎   糟屋の籐太有季    本間右馬の允義忠
   海老名の四郎義季 所の六郎朝光  横山権の守時廣    三尾谷の十郎
   平山左衛門の尉季重 師岡兵衛の尉重経 野三刑部の丞成綱 中條の籐次家長
   岡辺の六野太忠澄 小越右馬の允有弘 庄の三郎忠家    四方田の三郎弘長
   浅見の太郎實高  浅羽の五郎行長 小代の八郎行平    勅使河原の三郎有直
   成田の七郎助綱  高畠の大和太郎 塩谷の太郎家光    阿保の次郎實光
   宮六兼仗国平   河匂の三郎政成 同七郎政頼      中四郎是重
   一品房昌寛    常陸房昌明   尾藤太知平      金子の小次郎高範
[2]弓丸さんからのコメント(2005年10月06日 12時28分15秒 ) パスワード

暇つぶしのギャンブラーさんコメントありがとうございます。

すごいですね。
翻訳しないとちょっと分かりません(汗
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月06日 21時34分58秒 ) パスワード

奥州征伐に出掛けた時、総勢1000騎で出掛けた。
以下はその人々の名、ということです。
[4]弓丸さんからのコメント(2005年10月07日 13時21分57秒 ) パスワード

 奥州征伐にそんな大勢で行ってんですか。
その中に小次郎直家もいたんですねえ・・・。
 
 検索して見たんですが、承久の乱でも戦功を立てたららしいですね。
もしかしたら、お父さんと負けず劣らずの「勇猛」な武将だったのかもしれませんね。
 悲しい事に息子は戦死してしまったけど…。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月08日 03時33分20秒 ) パスワード

下記
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuma_k.html  より


熊谷直実の息子達(直家・実景・直勝)は承久の乱で活躍。
その後、奥州・安芸などの地頭職になり熊谷氏は全国版に。


直家は頼朝の奥州征伐に従い功をたて陸奥国本吉郡に所領を賜わる。

直家の嫡男は備中守直国で承久の乱で戦死。
その子の直時が安芸国安北郡三入庄の地頭職。

直家の次男直重は三河へ。

直家の第3子?直宗が直家の後を継ぐ。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月08日 04時21分04秒 ) パスワード

>悲しい事に息子は戦死してしまったけど…。


これは日本の武士道上はちょっと違う意味合いがあると思いますので書きます。

日本の武士道は「殿の馬前での討ち死」が名誉であり
これはすなわち恩賞に預かることであり
子孫の身分が主君から保証されることでありますから。


「一所懸命」は勿論「恩を売る」
こういう言葉ってこの時代にできたんじゃないかと思います。

主人の目の前で華々しく死ぬことは主人に恩を売ること。
こっそり人知れず死んでは無駄死になってしまう。
武士は主人の目の前で死にたかったと思いますよ〜


*執権北条氏が滅びたのは元寇の時の恩賞を与えられなかったから。
[7]弓丸さんからのコメント(2005年10月08日 23時08分54秒 ) パスワード

>熊谷直実の息子達(直家・実景・直勝)は承久の乱で活躍。
>その後、奥州・安芸などの地頭職になり熊谷氏は全国版に
父に代わって、息子達は懸命に武士としての勤めを果たしてたんですね。
それにしても、いきなり父が出家して急に後を継ぐはめになった直家の心中はいかばかりであったでしょうね…。心の準備が出来ずにいたんでしょうか…?
直家は直実と違って、慎重かつ論理的に物事を考える人だったんでしょうか。

>主人の目の前で華々しく死ぬことは主人に恩を売ること。
>こっそり人知れず死んでは無駄死になってしまう。
>武士は主人の目の前で死にたかったと思いますよ〜
主人の目の前で死ぬ事こそ名誉。
武士道って壮絶なものなんですねえ…。
病死した直家にとって不名誉な事なんでしょうか…。
やっぱり戦場で潔く死にたかったんだろうか?
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 04時20分06秒 ) パスワード

直家はどう思ってたでしょうね。
「オヤジ、熊谷庄になんぞこだわってないで他に目を移せよ」
と思ってたでしょうか?


当時平家が持ってた領地を鎌倉の御家人がどんどん貰ったので
土地バブル真っ最中だったんでしょうね。
更に奥州藤原氏の土地も鎌倉のものになった。

土地バブルに生きた直家と
先祖から託された小さな土地をキュウキュウと守る直実では
考え方が違ったでしょうね。

直家の時代はバブル真っ最中ですから父親の気持ちは分からなかったかもですね。



直実は過去にこだわる人だったんでしょうね。
性格的にちょっと問題のある人だったでしょう。
頑固・一徹
そういうところに頼朝も手を焼いていたのでしょう。


要領が悪過ぎますね。

でも要領の良かった久下の叔父さんの方は歴史に名が出るのは直実がらみですから
遺産相続で直実のように煮え湯を飲まされた日本人は多かったということなんでしょうね。

こうして久下の叔父さんはワルだったと900年に亘って声を大にして語ることの出来る直実は
以って瞑すべし
でしょうね。


直実と敦盛。
スゴイ対照的な性質ですよね。
直実・敦盛・久下の叔父さん・頼朝
この人達を直家はどういう目で見てたでしょうね。

直家自身は満足な人生だったと思いますよ。
[9]弓丸さんからのコメント(2005年10月09日 22時07分43秒 ) パスワード

>直実・敦盛・久下の叔父さん・頼朝
>この人達を直家はどういう目で見てたでしょうね
直実は子煩悩だったし、良き父、武士としての憧れだったのでしょうね。刀を握って戦う父の背中を見て育った訳ですし。「絶対親父みたいな、凄い武士になってやる!」って幼い頃はそう思っていたんでしょうか。
青年期は父親の駄目な所が目立ってきて、「過去に拘りすぎるオヤジをなんとかしないと・・・」とじれったく思っていたんでしょうか。

敦盛はこの世のものとは思えない綺麗な人形のような少年。頼りなくて、儚げな印象を受けたんでしょうか。幼少の頃に出会っていたら。
そして、武士と公家との狭間で振り回され、自由を奪われた可哀想な奴だ、と思っていたんだと思います。背中を押して、守ってやりたくなる存在だったのかも?

久下の叔父さんは…、胡散臭い奴だな…と思っていたりして?余り良く思っていなかったのは確かですよね。幼い頃、直実と久下の叔父さんとの話声を偶々聞いて、久下の叔父さんに苛められている親父の姿を時折見ていた為か、腹黒いジジイだと思っていたんでしょうか。

頼朝は、近寄りがたい存在だと思っていたのでしょうね(そのまんまかよ)
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 00時11分14秒 ) パスワード

>頼朝は、近寄りがたい存在だと思っていたのでしょうね(そのまんまかよ)


だんだん直家・敦盛・直実・直家・久下の叔父さんの人物像が出来てきましたね。

頼朝の人間像も出来るといいですね。
この頼朝が決定的に直実をぶちのめしたのですから
どんな人間だったという設定にするか
アタマの捻りどころですね(笑)
[11]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 03時36分07秒 ) パスワード

はい。まだ直家から見た頼朝像がまだ浮かんできていません(笑)
でも、直家の事を一通り調べてみて一つ、頼朝が直家を褒めた箇所があったんです。
それは、奥州征伐の時。
「本朝無双の勇士」と直家の武勇を褒め称えた年表がありました。
中々見当たらないんですよね…直家の活躍の場が…(溜息)
もしかしたら、直家は頼朝をリーダーとして十分頼れる人ではないかと思っていたんでしょうか。武士道一筋の熊谷一族の事をちゃんと理解し道標となってくれる大黒柱。女性関係も目立っていた事から「エロオヤジ」と最初は思ったいたんでしょうかね?
だけど、頼朝が朝廷に近づきすぎた事が原因で、色々問題が出てくる訳で。
その辺りは、頼朝の急死とどう繋げていくか。
そして、頼朝死後も大きな壁にぶち当たる訳です。
だって、権力闘争に巻き込まれていくんですし、熊谷一族だって気が気じゃなかったはず。
直家はその時どう判断し乗り越えたのか、そこも問題ですね。
私が思うに、直家が信頼出来そうだと思い始めたのが北条政子と北条時房。
政子は承久の乱で「男たちよ立て!」とばかりに、武士たちに士気を高め、重要な役割を果たした頼朝の妻。そして、時房は後年連署として鎌倉幕府を支えた実力者。(直家はこの時房に従って、承久の乱で活躍した訳だし)
この二人の接点も考えたいと思います。
一体、どんなドラマがあったのでしょうか…?。
[12]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 04時07分17秒 ) パスワード

直家は武家一筋のという武器で一族を養い、守り続けてきたんでしょうか。
自分は天下を取れる器じゃない。
ならば、日の当たらない場所で、地道に生きていくしかないと思い、なんとか知恵を絞って、子孫を正しい方向に導いていったんんではないかと。
彼も妬みという感情に振り回された事もあったと思います。
畠山重忠の存在もそうではないか、とも考えます。
年もそんなに変わらないし、(確か重忠のほうが5つくらい上だったかな?)
頭も良い、人徳もあるし、周りからの信頼も厚い。
16で大将に任じられた大物。
彼の理想像だったかも…と想像してみたりして。
でも、たどり着けない遠い存在で、到底敵わないと思って見たりもしたかもしれませんね。
最終的には自分は自分、他人は他人と割り切れたかもしれないです。
直家って余り感情をむき出しにして、噛み付くようなタイプじゃないのかも。
父の姿を見て、自制する事を覚えたのかもしれません。
[14]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 04時55分08秒 ) パスワード

敦盛と直家に関係に戻ります。

親戚同士の揉め事や、確執に嫌気がさしていた直家は、唯一癒せる場があったのだと思っていみました。
それが、敦盛の存在。
さり気無い優しさ、打算や黒さの無い真っ白な心が直家にとって心の安らぎだったのかも…って考えてみました。
対照的な二人だけど、お互い心の支えになっていたみたいな。

[15]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 05時01分09秒 ) パスワード

>さり気無い優しさ
さり気無いというよりは、飾り気の無い優しさ…のほうが良いかも。
[16]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 05時07分11秒 ) パスワード

そして、敦盛の供養云々…という直実に、最初は素晴らしい人だと思っていたが、実は裏があったと気付き憤りを感じたかもしれない。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 10時26分31秒 ) パスワード

随分深くなって来ましたね。にこっ


そうですね〜
直家は父と久下の叔父さんの争いを見てて
頼朝を考えると
この人より政子の方が実力がある
と思ったかも。

政子の大演説で感動して承久の乱で頑張り過ぎてしまったのかしら?


確かに直家には敦盛の存在がまぶしかったかもですね。
父直実とは180度違う欲の無さですものね。


>直家って余り感情をむき出しにして、噛み付くようなタイプじゃないのかも。
>父の姿を見て、自制する事を覚えたのかもしれません。

ですね〜


そうそう城山三郎という作家は小説を書く時に
カードにまず人物の名前を書いて、その性格などを書き込んで整理してたって聞いてます。

弓丸さんも登場人物をそうやって整理して作り上げていったらいいですね。
[19]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 14時35分28秒 ) パスワード

>カードにまず人物の名前を書いて、その性格などを書き込んで整理してたって聞いてます。

それ良いですね。
カードにして人物像をそれぞれの関係を繋げたりしたら、分かりやすいかも。
やってみます^^
[20]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 15時04分21秒 ) パスワード

>直家は父と久下の叔父さんの争いを見てて
>頼朝を考えると
>この人より政子の方が実力がある
>と思ったかも。
なるほど。
頼朝は時折、政子の言いなりになる事もあったから、政子の方が、良き理解者なのかも知れないと思ったいた…って訳か。
生まれも東国出身だし、影で鎌倉を支えた重要な人物だったわけですしね。
最終的には、政子が鎌倉幕府を支えていた訳だし、朝廷に近い血筋だった頼朝にとっては、やはり朝廷との関係から振り切れずにいたのかも?なんせ後継者だった頼家があれだったし・・・。
源氏に頼るよりも、北条氏についた方が、有利だと考えたのでしょうか。
そういう頼りない所もあったし…。
頼朝の落馬で死亡説は、東国武者の誰かが頼朝の馬に細工をして、暗殺を謀ったと一説があったので、その中に直家も居たりして?
いや、そうなったら政子の気持ちはどうなるの?って思ってしまうか・・。
密かに政子に恋心を抱いていたりして?あはは…でも、あり得なくは無いと・・・・いやあり得ない?年の差を考えると・・う〜ん…女王様的存在と考えていたのでしょうか。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 23時56分39秒 ) パスワード

坂東の人間だったら政子の逞しさ賢さには一目置いてたでしょうね。

一応平家を倒すのに頼朝を立てたけど
本心は頼朝はお飾りだったかも。

だけどそうすると坂東の弱小豪族の間で争いが始まる。
だから頼朝をアタマに結束した。

坂東の豪族達には実際の実力者は北条一族って暗黙の了解があったでしょうね。


政子は妻にするにはコワイけど、家を栄えさせるには理想の女性だったと思いますね。

そういう意味では直家なんかは政子の素晴らしさに気がついてたかもですね。
なんせ父親と久下の叔父さんの争いをずっと見てたのですから。
[22]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 13時59分22秒 ) パスワード

>坂東の人間だったら政子の逞しさ賢さには一目置いてたでしょうね。
>そういう意味では直家なんかは政子の素晴らしさに気がついてたかもですね。
>なんせ父親と久下の叔父さんの争いをずっと見てたのですから。

そういうゴタゴタな親戚問題の中で、真っ直ぐに己の人生を歩んできた直家は
とても頭の良い強い武士だったんだと思います。人を見る目もありそうだし。
精神的にも逞しい人だったんでしょね。
普通ならグレルと思いますよ〜。
私なんて絶対に家出している(笑)
直実はホントに幸せな人ですね。
立派な息子が居たんですから。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月11日 23時44分12秒 ) パスワード

そうですね。
熊谷の土地に固執しなかったというのが時代を見てると思いますね。
[24]弓丸さんからのコメント(2005年11月13日 12時10分23秒 ) パスワード

ギャンブラーさん!直実が初めて仏門に入りたいと願ったきっかけが、宇治川の戦い説もあるみたいですよ。

「源平盛衰記」によりますと、直実は義経に従い、木曽義仲との宇治川の戦いに参加しています。宇治の平等院の近く、宇治橋という所で木曽義仲に対し、熊谷親子があいともに、橋を渡って攻め立てていくわけです。
 その時、義仲は、一挙に攻め込まれないようにと、宇治橋の橋板を全部取り外し、ケタだけにしてしまいました。

 そこに熊谷直実は、息子の直家とともに攻め込み、橋を渡っていたのですが、その時、息子の直家が「年寄りは後から来い」こう言って、父親の直実をかばったのです。とは言っても、その時の直実は45歳ですから、年寄り扱いされてしゃくに障ったと思いますが、自分を庇ってくれた息子の優しさを骨身にしみたのだろうと思います。

 と同時に、お互いに父親であり、息子である同志がお互いハラハラしあったり、戦場で殺したり、殺されたりすることの惨たらしさ、武士というものの虚しさを、直実はその時合戦で痛感するのです。
その辺の事を源平盛衰記のは、
 −直実は是よりて、発心の思は有りけるとかやー
 つまり、宇治川の合戦でそういうことがあって、こんないやな思いをしなければならない武士はさらりとやめ、仏門に入りたいという気持ちを起していたというわけです。

 そして今度は平家との合戦のために、一の谷にやってきたら、16歳の少年・敦盛を殺さざるを得ない羽目になり
 −あわれ弓矢取る身ほど口惜しかりける者は無い。武芸の家に生まれずば、何とてかかる憂き目をば見るべきー

 と直実はますます<自分は武士をやめて、仏門に入りたい>と思いつめるのですが、直実が実際に仏門に入るのが、一の谷の合戦が終わり、八年経ってからの事。それまで、仏門に入らなかったのは、息子の直家やその家族の事が気がかりだっため、宇治川の合戦で、息子の直家が、親父を庇ってくれたとはいえ、まだ16,7歳で、一人立ちするのは、まだまだです。ましてや久下の叔父さんとの所領問題で泥沼状態なっていて、そんな息子と家族たちを放り捨てて自分だけ仏門に入るなど、とてもできる状態ではない。
それで、泣く泣く武士を続けていた、と思う訳です。
そういうことで<許されるなら一日も早く武士をやめたい>と思い続け、とういう八年間たって、息子もようやく二十四、五歳に成人した、というような事で、直実は念願の仏門に入った、という真相だったと思うのです。

 やっぱり、一の谷の合戦は、直実をして決定的な発心の動機であったと思うし、事実、熊谷次郎直実は、直情径行というか、一本気と言うか、本当にまじめな人だったようです。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapha.