[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年06月28日 23時27分41秒 ) | パスワード |
現在の熱田神宮は昔の規模のX分の1だとか聞いたことがあります。
そういえば「白鳥橋」なんて地名があったような。
源頼朝の母が熱田神宮の関係者の娘で頼朝の生地が神宮の近くにあると聞いたことがあります。
どこか忘れました。
昔の尾張は熱田が最南端でここから舟で伊勢(桑名など)に渡ったらしいです。
名古屋は熱田の南部は埋立地ということになりますか。
[2] | 今市屋平右衛門の子孫さんからのコメント(2005年06月29日 23時17分47秒 ) | パスワード |
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参考までに、上記の前の部分です。
かくて日数を送り給ふ程に、尊は御悩重くならせ給ひて、終に失せ給ひにけり。白鳥となりて南を指して飛び給ふ。岩戸姫は、尊の別れを悲しみて、悶え焦れ給へども、その甲斐なき事なれば、泣く泣く尾張国へ帰り給ひけり。尊に仕へる人々、別れを悲しみ奉りて、跡目に附きて行く程に、紀伊国名草郡に暫く落ち留まりけるが、この所を悪くや思しけん、東国に飛び返り、尾張国松子の島にぞ飛び行きける。白鳥にて飛び給ひし時は、長さ一丈の白幡二流と見えしなり。尾張国に飛び落ちぬ。その所をば白鳥塚(しらとりづか)と名附けたり。幡の落ちたる処をば幡屋(はたや)とて今にあり。
右兵衛佐頼朝は、末代源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年06月29日 23時54分19秒 ) | パスワード |
旗屋町というバス停もあったような記憶です。
熱田神宮の近く。
>長さ一丈の白幡二流
>右兵衛佐頼朝は、末代源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。
非常に面白いですね。
昔は頼朝の生まれた幡屋も熱田神宮の敷地内だったろうと思います。
戦国時代は織田信長が桶狭間の対今川戦に戦勝祈願をしたと聞いてます。
この時のお礼奉納の壁が一部今も残っています。
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