[1] | 平山名無しさんからのコメント(2005年07月23日 14時31分07秒 ) | パスワード |
平山在住です。
平山氏は戦国の世も生き残り、江戸時代には松本藩の旗本をしていたと聞いた事があります。現在平山に残る石碑にもそう刻まれています。また、平山城址公園駅の図書館前には平山氏館の址があり、そこにはやはり先祖のゆかりの地に嘆いた子孫の方が建立した石碑が建っています。今度詳しく見てきます。
[2] | 平山名無しさんからのコメント(2005年07月23日 14時58分35秒 ) | パスワード |
平山季重の墓(東京都旧跡)によれば、台石は季重25世の孫松本藩士平山季良が建てたと刻んであります。
[3] | 秋風ピューさんからのコメント(2005年07月24日 22時01分46秒 ) | パスワード |
>平山名無しさん。
平山武者所季重の25世の子孫が松本藩士ということは12世紀後半に平山武者所季重、あるいは其の子供あたりが源平の勲功などによって現在の長野県あたりに所領を拝領したということなのでしょうか?
1代を25年で計算すれば625年になり、平山武者所季重が活躍した年代を約1200年として考えれば1825年になります。これは文政8年ごろとなりシーボルト事件の数年前となります。まあ、細かく1825年に確定しなくても大体このあたりでしょう。
日野平山には平山武者所季重が地頭職として拝領した土地などが伝わっているでしょうか?
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年07月25日 00時28分18秒 ) | パスワード |
日野市観光協会のHPを御覧になれば「平山季重フェスタ開催中」なんてのが出てます。
こちらで情報が得られると良いですね。
[5] | 秋風ピューさんからのコメント(2005年07月26日 18時55分18秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
今週にでも早速行ってみようかと思います。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年07月26日 23時27分24秒 ) | パスワード |
秋風ピューさん
是非是非パンフレットでも入手し、サワリの部分をお知らせを。
たくさんの方が見に行かれますように。
ひょっとすると幕末の新選組の皆さんは平山系の武士の末裔かもですね。
江戸時代に名字を持っていたのですから
小島さんとか宮川さんとか土方さんとか
江戸時代前はそれなりの家で江戸時代にも名主でかなりの力を維持してたんでしょうね。
最近我が家の遠い親戚にも新選組に加わってたという人物が新聞に出てました。
[7] | 秋風ピューさんからのコメント(2005年07月29日 23時46分17秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん
昨日早速日野市平山の平山季重フェスタへ行って参りました。
新宿より京王線に揺られること半時少し平山城址公園駅を降りたところに平山地区センター内にこじんまりとしたフェスタ会場がありました。
ちらりと覗いてみたところ日野市の職員らしき方と地域振興員らしい方の二人が雑談をしている他は客がいませんでした。
私が申し訳なさそうに入っていくと快く迎え入れてくれ、なにくれとなくパンフレットなどを手渡してくれました。(しかもなぜか2部づつ)
NHKの義経コーナーには松坂慶子さんが着たといわれる衣装が展示されげおりました。平山季重に関するパネル展示に関して説明してくださったのは、申し訳ありません、お名前を失念してしまいましたが、上記地域振興員のような方でした。この方は日野市の誇りである新撰組に関してのスペシャリストのような方で、私が平山季重のパネルにあった甑島小川氏系図に関して質問したときなどは質問に対する応答が巡り巡って新撰組の話題に落ち着いてしまうほど傾倒されているような方でした。
この続きは次回へ続きます。
[8] | 秋風ピューさんからのコメント(2005年07月30日 00時01分48秒 ) | パスワード |
日野市平山の平山季重フェスタの続き
フェスタ会場にあった甑島小川氏系図によると西党の平山季重の系譜は一般にネット上や図書館資料にあるような系図とは若干ことなっておりました。
それによると、まず普通の西党は日野氏族の裔ということでした。私は少なからず驚いてしまいました。だって図書館などで調べると必ずといっていいほど西党の平山氏は日奉氏族といわれているからです。このフェスタのパネルなども日奉西党という前提の基に作られているのに、甑島小川氏系図では日野氏族となっているのです。
それに、やはりどの文献にも平山季重の父親は平山(日奉)八郎直季となっているのに甑島小川氏系図での直季は、まったくの別系統でした。また季重の父親は上田三郎宗季の子で季綱となっておりました。
もし、平山季重に興味ある方はぜひとも平山季重フェスタへ行ってみるべきですね。この系譜を見るだけでも一見の価値ありです。
またまた、次回へ続く
[9] | 秋風ピューさんからのコメント(2005年07月30日 00時21分43秒 ) | パスワード |
日野市平山の平山季重フェスタの続き^2
その他、江戸時代の一勇斎国芳作の源平合戦一谷先陣争い図が展示してありました。これは江戸時代に刷られた木版画らしいのですが、現存していてしかも保存状態が素晴らしく良い状態でした。この版画の構図も面白くて、平山武者所季重と熊谷次郎直実、小次郎直家親子が一の谷西城戸へ攻撃を仕掛けた場面でした。平家方の越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛尉忠光などが躍動感溢れる戦いを表現していました。
熊谷小次郎直家は騎馬にて、次郎直実は徒歩でした。
そして平山武者所季重は目糟毛に跨り、青い母衣、青い二引両の旗指しての平山季重一世一代の晴れ舞台という感じでした。
しつこいでしょうか?またまた続きます。
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年07月30日 00時44分47秒 ) | パスワード |
秋風ピューさん
行かれてヤッパリ良かったですね〜
どんどん書いてくださいね。楽しみにしています。
[11] | 布袋竹さんからのコメント(2005年07月30日 21時18分54秒 ) | パスワード |
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/ |
秋風ピューさん
スレッド7、8に懐かしい名前・というか、
小川・・・は私の実父の名前で、祖父は小川・、曽祖父も小川・・・、
ゆえあり、父は別の姓になりましたが・祖父までは、甑島出身です。
●小川は、本姓日奉「古代に日奉部が置かれ、太陽神を奉る。
●武蔵二宮一帯を領していた小川太郎季能は、武蔵野守日野宰相宗頼の子孫
恩賞で甑島地頭として、嫡男小川小太郎季直が下向した・と聞いております。
次男家はそのまま当地に留まり、父の従兄弟と叔母がここを訪ねて、家紋が
同じのと、長男は甑島に下向したと、伝えられ「書かれて」いるとのことでした。
昨日、私の掲示板に父の母方の親戚という方が、下のアドレスを見たと言って
私の掲示板にカキコして、世の中狭い、と同時に、驚いています。
http://www.minc.ne.jp/~hotei/tabuse.html
暇潰しのギャンブラーさん、ここの常連さん
ここは偶然というのが、多いですネ。
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年07月31日 00時52分45秒 ) | パスワード |
布袋竹どの
やっぱり血で繋がっているんでしょうね。
ワタクシの幼稚園以来の親友も7・8で繋がりますから布袋竹どのとも繋がり
全くの他人のつもりが実は繋がっている。
偶然のつもりが必然なんですよね〜
[13] | 秋風ピューさんからのコメント(2005年09月09日 11時55分45秒 ) | パスワード |
日野市平山の平山季重フェスタの続き^3
書き込み遅くなりました。先日の日野市平山季重フェスタの帰り道に平山城址公園へ足を伸ばしてみました。平山城址公園駅の南側の丘陵地帯の中腹に宋印寺があり宗印寺の中には平山季重坐像がありました。小さな像で顔はぷっくりという感じでした。この像を見ていると源頼朝が「かおはふわふわとして稀有の任官なり」と評した意味が伝わってきます。
なんというか憎めない顔ですね。武者所として武勇に優れた平山季重は晩年剃髪して仏教に帰依したと伝わりますが、彼の晩年に何があったのでしょうか?
平山城址公園を散策して帰ってまいりましたが、本当に平山という土地は何か安らぎますね。穏やかな時間の流れとでも云いましょうか。
フェスタの後にいくつかの文献をあたってみたのですが、平山季重の子孫は日本の所々に散ったようですね。東京でも日野市平山以外に桧原村や福生市などにも平山季重の足跡が残っているそうです。
その他、千葉県多古町、栃木県那須、筑前福岡、対馬などに平山季重がらみがあるそうです。
これら、日本全国の平山季重について誰かご存知の方はおられますか?
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月09日 12時17分03秒 ) | パスワード |
未確認ですが
噂では叔父との所領争いから法然に帰依した?
安田元久著「武蔵の武士団」は参考になるでしょうか?
[15] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月09日 12時24分42秒 ) | パスワード |
日野市立図書館に平山氏+平山季重公に関する書類がたくさんあるようですよ。
1度ネットで検索なさってみてください。
もうなさってたらごめんなさいね。
頬がぷっくりして福福しい印象ですね。
善人という感じ。
[16] | 平家蟹さんからのコメント(2006年02月12日 22時20分26秒 ) | パスワード |
URL=http://www.officebusters.com/ |
今、やっている歌舞伎座、二月大歌舞伎の昼の部の「一谷ふたば軍記」という作品に平山季重が登場しますよ!!
今日見て来ました!!(悪者の役になっておりましたが。。。)
[17] | 石橋義承さんからのコメント(2006年02月26日 15時54分33秒 ) | パスワード |
はじめまして、石橋と申します。
1505年から私の曽祖父の代まで千葉県香取郡におり、同郡中村(現多古町)の平山氏と何度か姻戚関係があった関係で、平山氏についても調べています。
秋風ビューさんが>>13で言っておられる多古町の平山氏です。
『千葉県香取郡誌』によりますと、季重から15世の季助以降下総に住み、伊能忠敬の実家神保氏と姻戚関係にあり、忠敬(婿養子ですね)の妻の母も平山氏、忠敬の偉業も平山氏の支援があった由。
>甑島小川氏系図では日野氏族となっているのです。
日野氏って日野富子とかで有名な、あの公家の日野氏ですか?
甑島小川氏系図はどこで見れるでしょうかねぇ。
フェスタの存在すら知りませんでした。行ってみたかったです。
[18] | 秋風ピューさんからのコメント(2006年03月10日 00時06分55秒 ) | パスワード |
ご無沙汰しておりました。
私なりに調べたのですが6世紀後半敏達天皇時代に武蔵国に設置され土豪と化していたそうです。その後、平安時代後半に京の都で発生した花山法皇への不敬事件で武蔵に流刑となった藤原宗頼を迎え入れて藤原貴族との姻戚関係を持つに至った。
この藤原宗頼が藤原真夏流の日野資朝の裔だということでしょうか?だから日奉氏でもあり、一面では日野氏と言われる所以でありましう。
日野富子が藤原真夏流かどうかは、ちょっと図りかねますが恐らく遠からずというところではないでしょうか。
甑島小川氏系図の現物はフェスタの時に現地で見たのが最初ですが、現物はどこでしょうねえ?ネット上ならあるでしょうけど・・・。国立国会図書館などにあるのでしょうか?
[19] | 布袋竹さんからのコメント(2006年03月10日 11時44分30秒 ) | パスワード |
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html |
福生市がネットに載せていた一部です。
市の名前の由来
■地名は文化財
「福」という文字と「生」という文字を書いて「ふっさ」と読みますが、初見で読める方は残念ですがなかなかいません。難読地名の一つに数えられるわけです。・・・
■平安時代末期の福生村
「福生」という文字が歴史に登場するのは、11世紀後半です。鹿児島県甑島(こしきじま)の旧家に伝わった小川氏系図(福生周辺の土豪であったが、鎌倉時代に地頭として甑島に領地を与えられて移住する)によれば、寛治元年(1087)に武士団・西党に属する平山宗末という人物が福生村を源義家から与えられ、その後、12世紀半ばの保元3年(1158)には子孫の平山季重が保元の乱の恩賞として再び福生村を与えられたことが記されています。
このことから福生市域は、平安時代末期に西党(にしとう)平山氏によって開発が進められ、そして所有されていたことが想定されます。
系図の現物は分かりませんが、複製されたり、印刷されているものはいくつもあると思われます。フェスタで見たのは、開催者日野市にあるのでは?
[20] | 児島さんからのコメント(2006年08月11日 20時58分21秒 ) | パスワード |
URL=http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html |
平山季重の父親は平山(日奉)八郎直季とあるは、児島八郎盛宗で宗綱子息の養子
筑前福岡、対馬などに平山季重がらみがあるそうです。
平山李重ー本告季能櫛田宮の宮司職に補任されたのである
九州に転封した季能の子、小川季直は配下の武士団とともに
宝治元年(一二四七年)前後に甑島に入島し、文禄四年(一五九五年)に改易
武蔵野守日野宰相宗頼の子孫で武蔵野国二宮郷(現在の東京都秋川市)一帯を領していた小川太郎季能は、承久の乱において鎌倉方北条義時につき、宇治川の合戦などで武勲をたてた。小川季能はこの戦功により恩賞として肥後益城郡の七十町と薩摩国甑島の地頭職を授けられたといわれている。
九州に転封した季能の子、小川季直は配下の武士団とともに宝治元年(一二四七年)前後に甑島に入島
鹿児島県薩摩川内市里町里1684-2, 1221(承久3)年の承久の乱で功績をあげた
武将小川太郎季能の子、季直亀城跡
かんざきまちもとおり
神埼町本告牟田(莞牟田). 神埼町本告
牟田(鶴田). かんざきまちもとおりむたやまだ
本告氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/motooi.html
小野氏系図
成田成任ー成壽成南寺修行──家長藤次出羽守──
成田成任野三大夫ー成綱ー佐々木児島盛綱
小野成綱──佐々木盛綱 前下総守野五郎左衛門尉
小野成綱─兼綱 兵衛尉 号中條義勝法橋
成田成任ー成壽成南寺修行─家長藤次出羽守─家衡─時家─頼平─竹崎季長五郎
時資猪俣介三郎、野五郎武蔵大夫横山義隆三男─時範─忠兼野三貫首─清綱─清重人見三郎
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/data/keiz/yokoyama3.htm
系図
平貞季━正季━範季 ━ 季房 ━ 季宗 ━ 宗清 ━ 家清
[21] | 播磨屋さんからのコメント(2006年08月27日 10時34分00秒 ) | パスワード |
URL=http://www.harimaya.com/ |
平山武者所季重以後の平山氏の歴史について
このページは、以前から時折、読ませていただいていました。
平山氏に関しては、東京都立中央図書館の蔵書などで
家系図を中心にあれこれと調べていました。
これまで、調べたことをわたくしの運営するサイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_hirayama.html
にアップしてみました。
まだまだ、未完成なものですが平山氏の中世における歴史を
少しでも世の中に認知いただければと思っています。
ご意見、感想、お叱りなどをいただけたら嬉しく存じます。
平山氏の歴史に関しましては前記の中央図書館郷土資料室にある
桧原村史/檜原村史研究 などが大変参考になりました。
[22] | 秋風ピューさんからのコメント(2006年08月30日 22時43分53秒 ) | パスワード |
皆々様。
様々な情報ありがとうございます。非常に興味深く読ませていただきました。
播磨屋さまの家紋world、いつも拝見させていただいております。私が調べた情報として以下参照ください。
現在、千葉県多古町周辺の平山氏は播磨屋さんのページにもありました、平山長寿氏重と善九朗綱景の妹にあたる女子(鶴寿)が、氏重達の従兄弟にあたる季助の子(光義-青梅藤橋城主、季邦の兄弟ですね)との間に生まれた光高の系である。
平山光義と鶴寿は後北条氏が滅び行く時に戦乱を逃れて下総へ落ちていった。
この多古町平山氏の系が桓平族千葉氏との姻族となり後、幕臣となったと思われる。(^-^ 播磨屋さんの系図参照してください ^-^)
季徳___季隆___季助___季邦
l L光義
L政重___ 氏重 l
L 綱景 l___光高(千葉多古町)
L 女子 (鶴寿)
因みに季助の子、季邦が信州松本へ移り松本藩士平山氏とも言われています。
この松本藩士平山氏が現在の日野市平山にある季重公居館跡の碑を建立した松本藩士と繋がるでしょう。
[23] | 平山雄一郎さんからのコメント(2007年02月02日 03時33分49秒 ) | パスワード |
このページは、まだ存在するんですか?
はじめまして、平山雄一郎と申します。
私の伯父が、平山家のルーツを調べていて、平山姓を名乗るモノが
伊能忠敬の妻になったと聞いたことがあります…。
家系図を見せてもらったのですが、当時は興味がなくてわからなかったのです
が、季重の話を語っていた記憶があります。
何か参考になることがあればと思って投稿させて頂きました。
[24] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 14時10分04秒 ) | パスワード |
>伊能忠敬の妻
伊能忠敬は元は神保家の出で
若くして佐原のお金持ちの伊能家に婿に入って
ミチさんの後夫になったと記憶していますが
間宮林蔵の妻はアイヌだと聞いたので
ひょっとすると伊能忠敬は後添えを貰ったのでしょうか?
70代で亡くなってますから。
[25] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 14時24分48秒 ) | パスワード |
http://www2s.biglobe.ne.jp/~auto/nenpu.html
に彼の婚姻の履歴が載っていました。
1783年 38歳で 妻ミチ死亡
1786年 41歳で 内縁の妻
1790年 (彼女は26歳で死亡)
45歳で仙台藩医桑原家から妻を娶る
(彼女は5年後死亡)
1798年 53歳で 内縁の妻
こんな記録が載ってました。
[26] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 14時25分38秒 ) | パスワード |
25については不都合がありましたら削除致します。
ぺこり
[27] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 03時10分30秒 ) | パスワード |
今日のニュースで伊能図の模写が147枚見つかったと言ってます。
明治10年頃、海軍が模写したもので
海上保安庁?で見つかったなんて言ってます。
不思議なご縁。
[28] | 秋風ピューさんからのコメント(2007年03月13日 22時32分38秒 ) | パスワード |
伊能忠敬は九十九里の小関家に生まれて、17歳のときに伊能家へと婿養子となりましたが伊能家へと入るにあたり、平山季忠の斡旋により一度は多古町の平山家の養子となってから伊能家へと婿養子となったそうです。
平山家と伊能忠敬との繋がりという観点に立てば、(おそらく多古町の)平山家は伊能忠敬のパトロンだったのでしょう。
忠敬の測量隊であった平山郡蔵、平山宗平なども居たそうです。
特に上記平山郡蔵は、パトロン平山季忠の孫にあたり平山季恭=郡蔵(下総国香取郡の人)といったそうです。
海保で伊能図が見つかったニュースは新聞で読みました。昔の海軍水理部にあったものでしょう。戦後に海保が海軍水理部の建物を使っていたために、今回のように「海保から発見」ということになったのでは・・・?
[29] | 秋風ピューさんからのコメント(2007年03月13日 22時36分30秒 ) | パスワード |
測量隊員のもう一人、平山宗平は上記平山郡蔵の弟だそうです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/mapsuv200/200nin/200nin.htm
[30] | 鈴木宣美(スズキヨシミ)さんからのコメント(2007年09月09日 21時41分22秒 ) | パスワード |
私の母方の先祖の中より、香取郡中村?の壷岡城主・平山季邦の孫、平山有盈なる人物に嫁いでる者がいる関係で平山一族のことを調べています。とりあえず家に、西氏より始まって、播磨屋さんが出されている平山氏系図の中の最後に記載の人物・季邦以降の系図をまとめてあるのですが…まだ解明されていない点も数多くあります…。また、東京日野市の京王線平山城址公園駅前にある季重公居館跡の碑には江戸時代の剣豪・平山行蔵の名前も見えることから、この平山行蔵もこの平山氏と何か関わり合いがあるのではないでしょうか。そしてさらに、幕末の幕臣・若年寄平山図書頭敬忠は行蔵の養子説もあることからこの人物の関わり合いの調査もポイントではないでしょうか?bigimpact.suzuki@docomo.ne.jp
[31] | SJTさんからのコメント(2007年09月11日 12時45分17秒 ) | パスワード |
はじめまして。
いろいろな情報をありがたく読ませていただきました。
遠い遠い親戚にあたるかたがたも書き込みしてくださっているようで、嬉しくなります。
わたしの母方は、松本藩士だった平山家の子孫の家です。このため、松本平山家に関する情報を、昔から収集していました。
・松本での平山屋敷は、松本市開智3丁目、今の開智学校の近く、丸の内病院の駐車場にありました。例のサリン事件の現場の前にあたります。
・松本城内の戊辰戦争出兵に関する碑に、交際方平山杢佐衛門の名前がある(らしい。わたしは未見)
・松本平山家の墓所は松本市蟻ヶ崎4丁目の正燐寺にあります。一昨年にわたしが墓参りした時には、ちょっと藪に埋もれてたので掃除してきました(~_~;)
・松本平山家に繋がる者として、江戸時代初期の僧、観智国師存応がいます。ネット上にも情報は多いですが・・・八王子市由木(平山城址公園すぐ近く)生まれで、もとも江戸の小さな寺「増上寺」の住職でしたが、徳川家康の江戸入府の行列で偶然から家康と知己となり、その後家康は日参して仏の教えを乞うようになったと伝えられます。その後も家康の信任篤く、増上寺は江戸一の大寺として移転され、家康の葬儀での導師も務めました。朝廷からも「国師」の号を賜り、当時の浄土宗では重きをなしていたようです。
・観智国師存応は増上寺の管長を退いた後、台東区蔵前3の正覚寺、通称、榧(かや)寺を開きました。徳川家との縁で、かや寺正面には三つ葉葵の紋が掲げられ、東京転居後の松本平山家の墓所もここにあります。
・第五代松本市長平山泰も松本平山家から出ています。松本市長以前には、台湾の台北県知事、高雄県知事も務めていました。
・そのほかの松本平山家につながる者として、平山毅(東北大学工学部第三代学部長)、平山雄(元国立がんセンター疫学部長。世界で初めて「受動喫煙の害」を明らかにする)がいます。
[32] | SJTさんからのコメント(2007年09月11日 12時57分11秒 ) | パスワード |
続けての書き込み失礼いたします。
ご参考情報ですが、日野市立図書館の郷土資料セクションには、平山季重関連の資料が豊富にあります。
それからまったくの余談ですみませんが、わたくし現在は地理学の研究者をしています。なぜ?か赤ちゃんの頃は絵本よりも地図が好きで、それが高じて今では地理学の研究者になりました。
一昨年に初めて、母方実家の平山家に、伊能忠敬が遠くつながっていることに気づきました。小さい頃から幾度となく眺めた伊能図が、平山一族のさまざまな努力を経て作られたことを知り、不思議な縁を感じてます。
最後に一つすみません、どなたかご存知でしたら教えてください。
平山季重は平治の乱に敗れて都を脱出する源義朝に付き従っていたそうですが、その後、季重はどこまで義朝に同行していたのか分からずにいます。
自分は史跡めぐりが趣味なので、大垣市青墓の源朝長の墓や、知多の義朝の墓なども訪ねたのですが、季重もここまで来ていたのかな?と気になって仕方ありません。
どなたかご存知でしたらご教授お願いいたします。
[34] | 鈴木宣美(スズキヨシミ)さんからのコメント(2007年09月12日 11時16分29秒 ) | パスワード |
石橋様はじめまして。多古町の平山氏についてご教示下さいますとありがたく存じます。ちなみに、東京都あきるの市(旧五日市町)高尾・東京都日の出町平井・青森県五所川原市[弘前藩広田組代官所手代]・埼玉県江南町[深谷上杉氏家臣]・千葉県匝瑳市飯高・茨城県瓜連町にも平山氏の流れがあるようです。
bigimpuct@gmail.com
[35] | スズキヨシミさんからのコメント(2007年09月12日 13時44分04秒 ) | パスワード |
江戸時代の剣豪・平山行蔵、また、幕末の若年寄・平山図書頭敬忠(省斎)は西党平山氏と関係があるのでしょうか? どなたかおわかりになる方、ご教示下さい。
bigimpuct@gmail.com
[36] | SJTさんからのコメント(2007年09月12日 20時02分00秒 ) | パスワード |
こんにちは。
青森県五所川原市には、国の重文の平山家住宅が保存公開されてます。市の歴史民俗資料館に隣接してます。わたしは昨年訪ねましたが、立派なものでした。
時間がなくて当地の図書館などで調べものはできず、こちらの平山家が西党平山氏と関係があるのかは分かりませんでした。文献等でもまだわたしは確認したことはありません。この点ご存知でしょうか?
埼玉県江南町の熊谷大橋近くにも、こちらも国の重文の平山家住宅があります。こらちは、1590年の深谷城落城後、深谷上杉の家臣平山豊後守が土着し、その後名主を世襲したとのことです(山川出版社 新全国歴史散歩シリーズ:埼玉県の歴史散歩p29)。こちらはまだ訪ねたことはありません。
蛇足ですが、瀬戸内の瀬戸田の町にある平山郁夫美術館で、氏のおいたちに関する解説も見てきましたが、ご家族は瀬戸内で過ごしてきたようで、西党平山
氏との関係があるとは書いてありませんでした。こちらは関係ないのかな・・・?
[37] | スズキヨシミさんからのコメント(2007年09月13日 11時38分19秒 ) | パスワード |
SJTさん、こんにちは。先日メールをお送りしましたが、ご覧になられましたでしょうか? まだのようでしたら一度、ご覧になってご連絡下さい。ところで、青森県五所川原市の平山家は平山季重の末裔です。このことは、日本家系協会発行の「平山一族」(電話で注文しないと購入できない)という本で確認できます。祖は平山兵部良信(長慶天皇の近侍)だと記述されています。ちなみに、あの平山郁夫氏は無関係のようです。
[38] | スズキヨシミさんからのコメント(2007年09月13日 13時26分15秒 ) | パスワード |
SJTさん、続けて書き込みます。母方の先祖と平山氏の関わり合いをご紹介いたします。 平山季邦(下総壷岡城主・季重より十八代目の子孫)−季家−
季光(長男。それ以外の兄弟で次男から順に、有盈・友則・有純・日寛・満房・日然)。有盈(丸右衛門・清蔵。妻は日色玄蕃の娘。婚姻後、法需院と号した。日色玄蕃が母方の先祖)−有恒(半兵衛・丸右衛門。妻は斉藤隼人の娘)−有明(長男。吉兵衛・三十九歳の時法師。寛保元年一月二日、六十二歳の時没「恵正」)。有宗(有恒次男。吉兵衛・平重郎。妻は司小左衛門の娘・マツ)−有房−若松−子孫有。市兵衛(有恒の三男。亀之助。二十八歳の時法師・宝暦五年五月五日、六十一歳又は六十二歳の時没「是相」)。つまり、
平山季邦−季家−有盈−有恒−有宗−有房−若松−となります。従って、これ以降の系譜で何かご存知の方、あるいはご子孫の方連絡お待ちしております。
[39] | スズキヨシミさんからのコメント(2007年09月15日 10時29分43秒 ) | パスワード |
ところで、日本には○○一族会といった団体が沢山存在しますが、その一団体として、平山季重の末裔(季重以降の系統の平山諸氏との姻戚関係における外戚の末裔で西党平山一族へ深く関心がある者も認める)の方々で構成する「全国平山季重会」といった団体を結成できればと思うのですがいかがでしょうか? 私はまだ若年の身であるため、これに賛同の方で、幹事・会長・副会長・事務局長をお引き受けくださる方是非ご連絡下さい。ちょっと難しいかな?
[40] | SJTさんからのコメント(2007年09月20日 12時37分49秒 ) | パスワード |
こんにちは。
しばらく調査に出ておりましたので、お返事が遅くなりました。
青森県五所川原市の平山家も一族なのですか! 知りませんでした。けっこうあちこちに子孫はちらばっているのですね。
そういえば、平山一族が千葉や松本に散っていった時に、栃木県の那須地方にも向かった系統もあるそうなのですが、ついでがあったので一度行ってみました。
特に地元図書館などで何かを調査したというわけでもないのですが、そこここ「平山」さんがいるので、なんか面白かったです。もしも、役場で「平山さん!」とか大声出そうものなら、職員の半分くらいがこちらを振り向くのでは??なんて思ったりしました。そういえば関係ないかもですが、タレントの平山あやさんも那須出身と言ってましたね。。。
日本家系協会の「平山一族」という文献、初めて聞きました。貴重な情報をありがとうございます
[41] | SJTさんからのコメント(2007年09月20日 12時57分14秒 ) | パスワード |
「全国平山季重会」! いいですね。
別に平山季重うんぬんに関わらず、一般的な話として、先祖(そんな古い時代の人でなくても自分の親、祖父母などからも含めて)のことを子孫が知るということは、非常に良いことだと思っています。
極論的なたとえかもしれませんが、たとえば形式的な墓参りや法事なんかをするよりも、先祖をよく知り顕彰することのほうがよっぽど先祖孝行親孝行であると個人的には思うし、学術的にも価値のあることだと思っています。
各地の子孫の方たちなら、まだ世の知られていない(文献上などにも未登場の)話を知っている場合も多いでしょう。地元の歴史史家の中でも、すぐれた情報収集能力や知識をお持ちの方も多々いるもんだと、常日頃思っています。そのような方たちの知識や情報を、体系的に収集、発表、整理、検証する場があるというのは非常に意義があるように思います。私自身も大学の研究者としての知識経験を還元できそうな機会である気がします。
私自身、いろいろな団体のお役目を拝命してたり、研究調査で頻繁に旅に出ていたりとなかなか余裕がないので、今のところ率先して音頭をとって、何かをバリバリとできるわけではないのですが、できる範囲で協力できたらと思います。
この掲示板も最初に立てられてから時間が経っているので、現在どれほどの方が訪れているか分からないですが、、、まず最初の目標として、賛同者をもう少し募っていきたいですね。
[42] | スズキヨシミさんからのコメント(2008年01月09日 13時00分07秒 ) | パスワード |
慶応生まれ・幕臣平山家出身の天文学者・平山信は、西党平山季重の子孫なのでしょうか? ご存知の方がいましたらご教示お願いします。
bigimpuct@gmail.com
[43] | 東国研究家さんからのコメント(2008年12月20日 20時11分16秒 ) | パスワード |
平山氏は日奉宗頼の子孫五代末の上田三郎宗季の子である、季綱が
平山四郎季綱と名乗り、平山氏の祖となります。
四郎ということは、四男であることから太郎宗弘は小川氏を名乗り、
次男の重行氏は上田を継ぎ、その子が稲毛氏の祖となります。
三男についての記述はありませんので不明です。平山氏が多摩郡の
福生の所領を得たのが1187年で、これは1156年の保元の乱
の恩賞だと考えられています。この福生の領地を最初に有したのは
平山氏ではなく(平山宗末は誤認誤記)、一庁官の流れのある宗貞氏流れ
、高幡宗貞(西宗貞とも言う)の子であり、一番の末っ子であった
宗末氏であり、この宗末は中野の祖とも言われ、中野宗末(西宗末)
に与えられました。これは1087年の8月です。これは後三年の役の
恩賞と考えられています。この段階では平山の苗字を名乗る武士は存在
していません。前述の様に、平山苗は宗貞氏から数えて三代目後になります。
研究家の中では、多摩川対岸での実行支配のあった西党武士は中野氏(西氏)
と立川氏と提唱されています。
[44] | 東国研究家さんからのコメント(2008年12月20日 20時24分50秒 ) | パスワード |
スズキヨシミさま
もう少し調べてみないと何とも言えませんが、
平山氏の末裔には
松本藩の平山李長氏(平山李重氏の25代孫)が宗印寺境内の
五輪等を建立したものだそうです。ということは、平山氏の
DNAは松本藩にも生きていたということです。
また、江戸の増上寺(徳川家の菩提寺)の12世住職である
普光観知国師は李重氏から数えて8代目利重氏の子であります。
利重氏には重良氏と兄弟となっております。
こうして見ると平山氏の血脈はいろいろなところに散らばって
存在していることが伺えます。
[45] | 秋風ピューさんからのコメント(2008年12月22日 22時45分00秒 ) | パスワード |
東国研究家さん
こんにちは。平山氏(季重?)が多摩の福生を領したことは色々な文献にチラチラと出てまいりますが、その大元の出典が定かではありません。
保元物語・平治物語あたりでしょうか?
また頼朝の常陸佐竹氏討伐時 - 治承四年11月7日に(『吾妻鏡』に)
『軍兵の中、熊谷の次郎直實・平山武者所季重殊に勲功有り。所々に於いて先登に進む。先登し更に身命を顧みず、多く凶徒の首を獲る。仍ってその賞傍輩に抽んずべきの旨、直に仰せ下さると。』
との記載があります。その後、熊谷次郎直実は寿永元年6月5日に常陸遠征時の恩賞として長らく所領争いをしていた叔父の久下直光の押領を停止し、領掌すべきの由をもらい熊谷郷の所領を安堵してもらいます。
しかし、常陸にて熊谷直実と同様の勲功を立てたにも関らず吾妻鏡には平山季重への恩賞の話は出てきません。
おかしいですねえ。何かご存知ですか?
[46] | 東国研究家さんからのコメント(2008年12月22日 22時54分42秒 ) | パスワード |
秋風ビューさん>
今晩は・・・
吾妻鏡の記載された文が全てではありません。
平山氏への恩賞は西党の甑島系図に詳細に明記記載
されているところから確認しています。
熊谷郷は埼玉、福生は小川郷は多摩近郊であり、
詳細に記載していなかったことも考えられますね。
また、他の文献からも時間があるときに調べてみたいと
思います。
新編武蔵風土記についても、結構間違いが多いです。
[47] | 秋風ピューさんからのコメント(2008年12月22日 23時12分10秒 ) | パスワード |
東国研究家さん
私の大学の先生も保元物語・平治物語などの軍記物、あるいは吾妻鏡などの北条氏からの一方的な正史に対しては懐疑的な意見でした。先生は玉葉などの公家の日記の方が史料的価値が高いと常々云っていましたね。
ところで私の系は五島列島の福江島(五島福江藩)ですが福江藩の御用人平山氏であると聞いています。平山季重は源平戦いの結果、筑前原田庄の地頭職を賜ったそうですが2度目の元寇に際して(弘安の役ですね)幕府より対馬へ渡って防衛に当たるようにとの命令で筑前平山氏の一部は対馬へ渡ったらしいのです。(八王子か日野の図書館で読んだのですが文献名を失念してしまいました)
現在、対馬での平山氏は島一番の苗字ですから恐らく本当に対馬へ渡ったのだと思われます。私は対馬から五島列島への平山氏の流れについて長年調べておるのですが、これが全く判らないのです。
何かお知恵がありますでしょうか?
[48] | 東国研究家さんからのコメント(2008年12月23日 10時14分54秒 ) | パスワード |
秋風ビューさん>
国会図書館へは出向きましたか?
または、かなり渋いところを調査されている
ようですので、対馬へ出向いて神社仏閣を含めて
古文書を徹底的に洗い出さないと難しいかも知れないですね。
平山氏の菩提寺なども事前に調べておきたいものです。
対馬市役所にご相談されては如何でしょうか?
[49] | スズキヨシミさんからのコメント(2008年12月31日 10時37分06秒 ) | パスワード |
東国研究家様
スズキヨシミです。書き込みありがとうございます。書き込み下さった内容は既に判明済みでしたが、あらためて以下の件、ご調査いただけますと幸いです。
@ 幕臣・平山行蔵
A 幕臣で江戸幕末の若年寄・平山謙二郎省斎(養父は幕臣平山源太郎。従 ってこの平山源太郎の出自は西党流かという点)
B 旧幕臣家出身の天文学者・平山信
この三系統の出自は平山季重に関係あるのでしょうか? ご教示の程宜しくお願い申し上げます。
[50] | スズキヨシミさんからのコメント(2008年12月31日 10時52分54秒 ) | パスワード |
秋風ビュー様
はじめまして、スズキヨシミと申します。12月22日の書き込みを見て今気が付いたのですが、あなた様は平山姓なのですか? 筑前平山氏(夜須郡朝日山平山家)の末裔の方なのでしょうか?
[51] | 秋風ピューさんからのコメント(2009年01月01日 23時35分57秒 ) | パスワード |
ススキヨシ様
はい。ご指摘のとおり平山姓です。田舎は五島福江ですが筑前から流れてきたのかは不明です。前述したとおりに日野か八王子の図書館で平山氏が筑前から対馬へと渡った記述(弘安の役時)を見たことがありましたので対馬に渡った平山氏が巡り巡って五島列島へと流れ着いたのかと推察しておりました。
福江平山氏は島内でも一二を争う姓ですが筑前平山氏であるとは、少なくとも私は聞いていません。
[52] | スズキヨシミさんからのコメント(2009年01月02日 10時50分27秒 ) | パスワード |
秋風ビュー様
書き込みありがとうございます。先祖は福江藩の御用人の平山氏とのことですがその御用人の名前はわかりますでしょうか?
[53] | 東国研究家さんからのコメント(2009年01月04日 15時13分50秒 ) | パスワード |
スズキさま
わかりました。
時間があるときに調べてみます。
[54] | スズキヨシミさんからのコメント(2009年01月11日 16時20分36秒 ) | パスワード |
東国研究家様
平山季重の子には、重村・重友・季武の三人の子息たちがおりましたが、ヤフーなどのネット情報の中には栄西なる僧?もその一人というものがありますが、これは事実なのでしょうか? ご教示宜しくお願い致します。
[55] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年01月12日 11時26分59秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/ |
スズキヨシミ様
栄西の出自については諸説ありますが、現在では加陽貞遠の子という説が支持されています。
栄西に至る系譜については、下記URLをご参照下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01205a.htm
[57] | 京都の平山さんからのコメント(2009年02月16日 16時17分15秒 ) | パスワード |
私は京都生まれで、代々名前の一文字目に「善」(例えば、善太郎)が付きます。父親が京都の本家の確か八代目だと記憶致しております。当家も当然分家も家紋は西党平山氏と同じです。一族の菩提寺は、京都東山にある有名な永観堂の配下の光明院です。当然、浄土宗です。京都の平山氏について、ご存知な方、おられましたならば、少しの事でも結構でございますので、何卒ご教授お願い申し上げます。
[58] | スズキヨシミさんからのコメント(2009年02月27日 11時45分55秒 ) | パスワード |
京都の平山さん
先祖が平山季重であるとかいう話しを聞いたこととかはありましたか?
[59] | 京都の平山さんからのコメント(2009年03月02日 18時46分37秒 ) | パスワード |
ススキさん
有難うございます。残念ながら、先祖が平山季重であるという話は聞いておりません。
京都の平山
[60] | スズキヨシミさんからのコメント(2009年03月25日 23時47分46秒 ) | パスワード |
ところで、平山姓の方で名前に「季」の字が使われている方々は、平山季重と何か関わり合いがあるのでしょうかね?
[63] | とらちゃんさんからのコメント(2009年08月22日 21時21分36秒 ) | パスワード |
こんにちは。
偶然この掲示板を見つけました。
#31のSJT様が松本平山氏の縁者との書き込みを目にいたしました。
私の母系を辿ると、SJT様のご先祖様同様幕末に北馬場に居を構えた中川という者がおります。
戸田松平家中は家格の浮き沈みが激しく、同時期にご近所だったかは判りかねますが不思議な縁です。
そこで、お願いがあります。
松本市県2-5-3 の丹波塚 http://takara.city.matsumoto.nagano.jp/city/135.html に渡辺信妻平山氏弥生媛之墓が誰のお参りも受けずに佇んでおりますので、正鱗寺へ墓参の際にはこちらにもお参り下さい。
お墓は、県ヶ丘高校側の長屋門から入り、石垣で囲われた松平康長の廟所を右手に、左手に辻新次の揮毫になる菅谷司馬の墓、西郷氏、戸田氏、林氏、松林氏、志賀九郎次之墓、を左手に見て直進、菅谷氏墓手前の友成恒久墓と浅野勝茂墓、中村氏墓の間に生えた木を目安に左折し、アパートとの境にあるブロック塀を目指して進み、突き当たり塀沿い右手に見える丹党安保氏の五輪塔の傍らにございます。
宜しくお願い申し上げます。
[64] | SJTさんからのコメント(2009年10月14日 17時21分03秒 ) | パスワード |
とらちゃん様はじめ掲示板上の皆様
ご無沙汰しております。以前に書き込みしておりました、松本平山家末裔のSJTです。
私は以前、この掲示板の直接のブックマークを作って使っていたのですが、いつの頃にかURLが変わってしまったらしく、ブックマーク先がなくなってしまっていたので、この掲示板自体が消滅したものとてっきり勘違いしておりました。
スズキヨシミさんから直接、とらちゃん様の書き込みがある件をお教えいただき、久しぶりに訪ねてきた次第です。
とらちゃん様のお教えくださった情報、もちろん全く初耳でした。貴重な情報をどうもありがとうございました。
いつか必ず訪ねようと思います。
[65] | 京都の平山さんからのコメント(2009年10月24日 05時42分22秒 ) | パスワード |
斎藤平山氏の家紋と当家の家紋は同じなのですが、この家紋のいわれをご存知の方はお教えください。
[66] | 秋風ピューさんからのコメント(2009年11月09日 23時44分04秒 ) | パスワード |
>京都の平山さん
斉藤平山氏の家紋って何ですか?
[67] | 大阪の平山さんからのコメント(2010年01月08日 12時02分37秒 ) | パスワード |
こんにちは。はじめまして。
全国に散らばる平山さんについての掲示板を見つけ、びっくりしました。
そこで、祖父が残した家系についての書類やカセットテープを引っ張り出してみました。後は、祖父から聞いた私のつたない記憶をお知らせします。
我が家の家紋は『左三つ巴』(土方歳三さんちと一緒です)
宗教宗派は『浄土宗』
我が家は水戸在住の折、「下河辺」姓を名乗っておりましたが、
主君、佐竹義宣公の逆鱗に触れ家名断絶を機に、母方姓「平山」をもって
再興した家です。
※下河辺家は下河辺行平の末孫で、白川結城氏(本家は小山氏)
その後、佐竹のお国替えで秋田藩藩士となりました。
祖父の記述による過去帳には、秋田に残る平山家の菩提寺は
秋田市南にある『誓願寺』とあります。
曾祖父の代(明治25年)に北海道開拓団として北海道に渡った為、
秋田に知る人はいませんが、平山氏は、母系といえども
秋田にも散ったのですね。
そんな訳で、皆様のように詳しく知っていることはないのですが、
現在、平山姓を名乗っている私としては、
あまり、大阪では同じ名前の人に出会うことがないので、
面白く、掲示板を拝見しました。
[68] | SJTさんからのコメント(2010年03月14日 01時25分03秒 ) | パスワード |
ちょっと久しぶりに、こちらに舞い戻ってきました。
大阪の平山さん、こんにちは。
最近ちょっと時間がなかなかとれないので、正確な文献情報の出所とかを今提示できないのが申し訳ないのですが、そういえば茨城県、特に水戸市北方の瓜連町(今は那珂市)にも平山家の末裔が移っていったとの話があったのを覚えています。
戦国末期に、東京の多摩から、長野県松本、千葉、栃木県那須とともに、茨城県の瓜連にも移住していった、とそのような流れの話だったと記憶してます。
大阪の平山さんのご先祖の平山家にも、ひょっとしてご関係のあることかもしれませんね。
[69] | 茨城の平山さんからのコメント(2010年12月30日 16時02分13秒 ) | パスワード |
はじめまして。茨城の平山です。
話に出てきている那須や瓜連からそう遠くない大子町が出自です。
大子は季重が戦った金砂城の戦いの現場からもそう遠くは離れていないので、季重と自分の先祖との関連性がないものか興味があります。
ただ、調べようにも何から調べてよいものか?悶々としております。
[74] | 幾島さんからのコメント(2014年05月27日 22時48分09秒 ) | パスワード |
五所川原の者ですが、
五所川原じゃ平山さんだけで町ひとつ作れるほど平山さんが多く居ます。
大庄屋としか聞いたことがないですが、さらに遡ると江戸の武士にたどり着くjんですね。
東北なんて比較的江戸から近い仙台でも「道の奥」なんて言われてて、いちばん遠い津軽五所川原にまで新幹線も高速道路も自動車も飛行機も無い時代なのによくここまでたどり着けました。
途中の栃木のみならず伊達とかにもまれに平山さんがいたのでおそらく代々少しずつ北へ北へ拡がっていったんですね。
[76] | 大阪林さんからのコメント(2015年04月07日 23時04分21秒 ) | パスワード |
初めて投稿します。実は私の高齢の母も五所川原出身の平山姓でした。どなたかの投稿に有りました、五所川原市にある大庄屋の旧平山家住宅の主であった平山為之助、親戚の平山伍助の縁者にあたります。但し、五所川原市の平山為之助の家は藩政初期から平山家日記なるものを代々書き継いでおり、貴重な郷土資料になっていますが、江戸初期以前のことは判らないようです。数十年前の郷土史のパンフレットには平山家が平山季重の遠い子孫だと記録されていたのを覚えています。或は本当なのかもしれませんが系図などは全く有りません。また、五所川原に平山姓の方が多いのは、明治維新で苗字が農民にも許されたとき、多くの人が有力者の平山氏の名前をもらったからだと、五所川原在住の叔母に聞いたことがあります。いずれにせよ、青森県五所川原の平山一族は、江戸初期にはすでに、かなり有力な農民であったことだけは確かなようですが、鎌倉時代までさかのぼれる資料は無いようです。
[77] | スズキヨシミさんからのコメント(2015年04月25日 23時35分18秒 ) | パスワード |
大阪林さんはじめまして。母方先祖が平山季重末裔・千葉県多古町の豪族平山家と縁戚関係があることから、約20年前より西党平山一族研究に邁進しつづけてまいりました。一応、おおまかな五所川原平山家の家系図が完成しておりますのでお送りいたしたいと思いますが、いかがでしょうか。これを機会に五所川原平山家の動向の全貌解明に至ることができるのなら幸いです。
[78] | 大阪林さんからのコメント(2015年04月28日 17時51分52秒 ) | パスワード |
青森県五所川原市の旧平山氏は、大きく平為(平山為之助)、平吾(平山吾助)、平波(平山波三郎)の三家があり、いずれも津軽地方では、明治期には県下有数の地主として存在していましたが、かなり以前に別れたらしく、直接の血縁関係は無いようです。いずれも、戦後の農地解放で、それまでの広大な小作地をすべて失い、没落しました。住居はいずれも、現在の五所川原市内の南部、旧北津軽郡栄村にありましたが、今は平為(平山為之助)の住居のみが、重要文化財として、五所川原市により旧平山家住宅として、管理されています(一応観光名所みたいです)。子孫は、土地を失った後は、種々の商売を試みたようですが、現在栄えている家は有りません。また、いずれの子孫も今は青森市内に移って行ったようです。なお、墓所はいまだ五所川原市内にあるはずです。平波の家だけは山林地主として地所を多く所有していたため、農地解放の打撃が少なく、財産は戦後もかなり保有し続けたと聞いていますが、大きな居宅も今は取り壊されています。詳しい系図の申し出は有難いのですが、今となっては、いずれの平山家も、離散、没落し、嫡流の方も何処に居られるのか存じません。お申し出のみは有難く頂戴いたしたいと存じます。
[79] | 大阪林さんからのコメント(2015年04月28日 18時24分26秒 ) | パスワード |
書き忘れましたが、昭和初期からの女性の文芸評論家の嚆矢として知られる(あまり有名じゃないようですが)板垣直子は、旧姓を平山といい、平山吾助の子孫、平山兼吉の次女(但し後妻の娘です)平山なを、が本名です。日本女子大を卒業後、東京大学最初の女性聴講生になった人でもあります。川端康成などとも交流があったようですが、早稲田大学の西洋美術史の教授、板垣鷹穂と結婚して板垣直子の筆名でかなり著作をしています(殆ど戦前の出版ですが)。新婚のころは毎年夏になると青森の五所川原の実家へ避暑に来たようです。あまり知られていない評論家ですが、平山氏の子孫の一人でもありますので、付け加えました。いまでも、古書店をネットであたれば著作は比較的容易に入手できます。
漱石と鴎外についても詳しく書いていますので、ご興味のある方はご入手可能です。
[80] | スズキヨシミさんからのコメント(2015年04月29日 00時24分12秒 ) | パスワード |
大阪林さんのお母様の系統は、平為・平吾・平浪のどの系統でしょうか? また、板垣直子は平山兼吉の次女だそうですが、長女の名前ご存知ですか?
[82] | 大阪林さんからのコメント(2015年04月29日 16時55分37秒 ) | パスワード |
平吾の家は、旧北津軽郡栄村字千鳥に、平山為之助の家とほぼ並んで建っていましたが、今は全く跡を留めていません。元々は平山為之助の鼻祖、初代平山半左エ門から別れた分家だったようです。平山兼吉には4人の子があり、長男万之助は、長らく戦後も、五所川原市の平吾の邸宅の一部に住んでいましたが、やがて青森市内の子供の家に移ったとのことです。長女の名前は残念ながら憶えていません。昭和30年代には、すでに相当高齢だったと記憶しています。津軽地方の資産家によくあった例で、長女は婿養子を取り、平山の名前を継いでいるのは確かです。一時期、昭和末から平成初めころまで、五所川原市内の柏原(かしわばら)で商売をしていました。現在も有る、又上(またじょう)佐々木呉服店の左隣でした。わたくしの母は、平山兼吉の末子の娘にあたります(板垣直子の姪です)。ご参考になりましたでしょうか。
[83] | スズキヨシミさんからのコメント(2015年05月07日 23時33分55秒 ) | パスワード |
大変参考になります! 書き込みありがとう存じます。ちなみに平山兼吉氏の次男(大阪林さんのお祖父様)のお名前、さらにその娘様(大阪林さんのお母様)のお名前支障なければお教えいただいてもよろしいでしょうか?
[84] | スズキヨシミさんからのコメント(2015年05月14日 08時56分53秒 ) | パスワード |
平山雄一郎さん、あなた様はひょっとして、千葉県多古町の平山さんでしょうか?
[85] | 平山まごさんからのコメント(2015年07月11日 01時45分18秒 ) | パスワード |
私の祖母が多古町の平山でした。
伊能忠敬と関係があった、とか聞いていました。
その他は全く知らないので、こちらのスレを知りビックリしてます。
先祖の平山のどなたかが着用していた鎧兜があります。
みなさまからの情報お待ちしてます。
[86] | スズキヨシミさんからのコメント(2015年07月23日 23時58分55秒 ) | パスワード |
平山まごさん、はじめまして。母方先祖が平山季重末裔・千葉県多古町の豪族平山家と縁戚関係があることから、約20年前より西党平山一族研究に邁進しつづけてまいりました。系図もあります。江戸初期の母方の先祖の次女が平山丸右衛門家に嫁ぎました。平山丸右衛門家についてご存知でしょうか?
[87] | スズキヨシミさんからのコメント(2015年07月24日 09時27分07秒 ) | パスワード |
多古町の平山家の系譜は次のようになります。 平山季邦(下総壷岡城主・季重より十八代目の子孫)−季家−季光(長男。それ以外の兄弟で次男から順に、有盈・友則・有純・日寛・満房・日然)。子孫を残した、季光・有盈(丸右衛門)・友則・有純・満房の五家は豪族「平山五軒党」と称されていたようです。
[88] | 埼玉 ひらやまさんからのコメント(2016年06月18日 18時33分39秒 ) | パスワード |
はじめまして、わたくしも 平山 姓です。
我が家のルーツは、前橋松平(結城系)藩藩士の出自で、亡くなった祖父からは平山季重の末裔(根拠不明)と聞かされておりました。
我が家の家系は以下の通りです。勤三までが前橋藩士でした。
平山謹右ヱ門−−謹兵衛−−勤三−−< >−−< >−−< >−−本人
前橋松平家記録を見ると、幕末には少なくとも4家以上の平山を名乗る家があったようで、我が家の先祖の名も記載されておりました。
しかしながら、前橋藩の分限帳等を見ると、平山の姓は見られず、いずれも下級藩士(100石以下 卒クラス)であったと思われます。
同記録では、前橋松平家が姫路から前橋移封時の寛延2年(1749年)に平山惣内(直接の先祖か不明)なるものが、新組から組入りしたような記述がありましたので、
もともと譜代ではなかったのではと考えています。(古文書の解読は素人なので解釈間違っているかもしれません)
我が家の伝承では、先祖が酒の失敗できつい咎めを受けた話があり、それが同記録にも記載されておりました。
その際、家老の多賀谷左近の妾?になっていた姉の懇願で、危うく大罪を免れたと言い伝えられております。
また、同記録を見ると、たびたび平山の人たちが多賀谷家老の指示で、役についているように伺え、平山家と”多賀谷氏”、そして”結城氏”の宿縁を感じています。
結城氏の系図にも平山を名乗った人物もおり、このスレでも先祖が結城との関わりがあったような記述も見られました。
平山家と結城(松平)氏や多賀谷氏との関わりや、先祖(平山家)がどのように結城松平に流れてきたのか知りたく、
もし何か存知あげている方がおられましたら、多少にかかわらずご教示いただければ幸いです。
[89] | 五所平さんからのコメント(2016年07月22日 22時39分52秒 ) | パスワード |
はじめまして。
突然ですが最近このwebを発見しました。
2015年ごろ話題になっていた五所川原の平山(平為)にかかわりのあるものです。
平山季重と関係があるとの話ですが、どのように解明されたのかが知りたいところです。
以前、親が話していたのは郷土の歴史家が調べたが、結局よくわからなかったと話していた記憶があるものですから。
ご存知の方おられましたら、教えてくだされば幸いです。
[90] | スズキヨシミさんからのコメント(2016年08月05日 22時21分16秒 ) | パスワード |
はじめまして。
日本家系協会発行の「平山一族」という書物に、そうした記述があります。ちなみに当方は季重末裔・千葉県多古町の平山家の縁者です。
[91] | 青森の平山さんからのコメント(2016年08月14日 03時13分48秒 ) | パスワード |
初めての投稿です。平山 性のものです。この掲示板を大変興味深く読ませていただいています。
青森県弘前市の大字で平山という地がありまして(旧中津軽郡東目屋村の一部)、父方がそこの出身です。このエリアも平山性がとても多いのですが、弘前市平山は五所川原市の平山家と何らかの関係があるのでしょうか?
私の家系は下記の通りです。
平山弥八郎 ― 三次郎 ― 寅助 ― 曾祖父 ― 祖父 ― 父 ― 私
自分なりに調べてみたのですが、いまいちはっきりとしたことがわからなかったので、ご存知の方おられましたら、教えてくだされば幸いです。
[92] | 五所平さんからのコメント(2016年08月14日 18時58分18秒 ) | パスワード |
スズキヨシミ 様
お返事ありがとうございます。
私が気になったのは、旧版の平山一族には記載がなかったのに、新しい平山一族には唐突に記述があるのを不思議に思ったからです。(最近国会図書館で確かめました)
まあ、余り詮索しても楽しいことはないですね。
ただ学術的な発表があったのかなと思いまして投稿させていただきました。
なお、平為のお孫さんは、皆様ご高齢です。
姓は変わりましたが五所川原にてご活躍されている血族もいらっしゃいます。
私は、平為の曾孫に当たります。
知っている範囲ですが曾孫には医者や、会社経営、農家、テレビ関係などの多種の職業につかれています。いずれも五所川原ではありませんが。
私は東京住まいですが、上記の従兄弟伯父とは細々と連絡を取っています。
以上、ご報告でした。
いつか、平山季重フェスタに行ってみます。
[93] | スズキヨシミさんからのコメント(2016年08月18日 18時26分25秒 ) | パスワード |
五所平さん
当方は母方先祖が平山季重末裔・千葉県多古町の豪族平山家と縁戚関係があることから、約20年前より西党平山一族研究に邁進しつづけてまいりました。この一族は五所川原・多古等、大きく15支流に分かれている名家です。
平成24年に季重末裔の信州松本藩士平山家ご子孫2名、私を含め多古平山家関係2名の4名で平山一族研究会を立ち上げましたが、これを機会に是非当会にご入会いただきたく思いますが、いかがでございましょう? ただ具体的には全員平山姓ではなく母系平山[隠れ平山会]であるのが実状です。これは家系と言えば父系を調べるのが主流ですが、それではあまりにも単純かつ味気なさすぎるという考えによるものです。しかし平山姓の方もちろん大歓迎です。
[95] | 五所平さんからのコメント(2016年09月06日 21時09分22秒 ) | パスワード |
スズキヨシミ 様
平山一族研究会のお誘いありがとうございます。
私は、たぶん平為の嫡男の系譜ではありません。
また、まだ仕事にも注力せねばならず、
今回のお誘いは辞退いたします。
更なる情報としては、遠戚には
著名な作家もおりましたことを付け加えて
報告を終了したいと思います。
このwebは今後も見に来るつもりです。
ありがとうございました。
[96] | 港区の平山さんからのコメント(2017年01月12日 00時06分03秒 ) | パスワード |
初めまして。母方の旧姓が平山です。母方の祖父の妹にあたる103歳の大叔母から、最近になって祖父の祖父の名前が亀之助だと聞き、調べているうちにここに辿り着きました。とても興味深いです。今日は全ての書き込みを読み切れませんでしたが、改めて勉強させていただきます。よろしくお願い致します。
[97] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年01月13日 09時31分30秒 ) | パスワード |
港区の平山さん、初めまして。季重末裔・千葉県多古町の豪族・平山氏に連なる者です。平山亀之助というお方はどちら出身のお方なのでしょうか? また、この方に平山成之助という息子さん、いらっしゃいませんか?
[98] | 港区の平山さんからのコメント(2017年01月13日 10時20分22秒 ) | パスワード |
スズキヨシミ様
はじめまして。クリスマスに大叔母から亀之助さんの名前を聞いて、ググってこちらのページ http://keibatugaku.seesaa.net/article/425316771.html を見つけました。確かに成之助さん、いらっしゃいますね。
大叔母曰く、祖父と大叔母のお父さん(亀之助さんの息子)は秀介さんというらしいんですが、こちらのページの系譜には登場しません。記録から漏れているのか分かりませんが・・・しかし、私の母に尋ねたところ、森永製菓の常務に嫁いだ佐和子さんなどは確かに親戚にいたようなので、私の曽祖父は秀介さんであり、亀之助さんの系譜で間違いないようです。
亀之助さんは、千葉のどこかの街で町長をしていたそうです。その後秀介さんの代で四谷に移り、私の祖父の羊介の代で白金台に移りました。祖父は医者と議員を兼業していましたが、秀介さんも亀之助さんも同じく、代々議員や町長などの仕事に就いていたようです。
[99] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年01月13日 12時16分35秒 ) | パスワード |
秀介さんというお方、亀之助氏の何番目のご子息かわかりますか? 系図があるのですが、こちらも漏れたのかどうかはわかりませんが、亀之助さんのご子息は、成之助氏・季満氏・敏子氏・昌光氏・季興氏の5名のお名前しか載っておりません。昔の人はペンネームの使い分けをされる方が多数見られます。亀之助さんには季則(すえのり)という名前・実名?があるようです。
[100] | 港区の平山さんからのコメント(2017年01月13日 14時54分32秒 ) | パスワード |
秀介さん、今度聞いてみますね。
ちなみに大叔母は『達子』と書いてミチコという名前なんですが、これは伊能忠敬の最初の妻のミチさんの字をいただいたそうです。
[101] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年01月13日 23時39分50秒 ) | パスワード |
港区の平山さん、こんばんわ。家系図で確認したところ、達子さんというお方、確かにいらっしゃいました! 季満(医師)という人の娘さんらしいです。なので季満(すえみつ)という人が秀介さんのことではないかと思われます。達子さんには実の兄弟に為典氏という人がおり、それ以外が異母兄弟のようです。その他の兄弟姉妹は博子氏、季明氏、彪三氏がおり、季明氏が医師兼議員(芝区会議員)であったようです。従って、あなた様のご祖父の羊介様は季明氏と同一人物と見て間違いないようですね。
[102] | 港区の平山さんからのコメント(2017年01月14日 15時57分55秒 ) | パスワード |
スズキ様
確かにタメノリ叔父さん、いました!祖父は都議会議員だったので、ほぼ間違いないと思います。貴重な情報、ありがとうございますm(_ _)m このような形で、家系図に記された名前と実際の名前が異なるケースもあるんですね。勉強になりました。
父方母方共に私と従兄弟含め子供が居なく、40手前で我が家に新たな生命が宿ったことが分かり、これでやっと平山の血も繋ぐことが出来るなーと安堵していた時に、ちょうど大叔母からご先祖様の話を聞き、何か不思議なご縁を感じていた矢先だったので、とても嬉しいです。両親や大叔母に会った時、また曽祖父たちの話を聞き出してみますね。ありがとうございました。
[103] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年01月16日 18時57分17秒 ) | パスワード |
港区の平山さん、こんばんわ。余談ですが、平成24年に季重末裔の信州松本藩士平山家ご子孫2名、私を含め多古平山家関係2名の4名で平山一族研究会を立ち上げましたが、これを機会に是非当会にご入会いただきたく思いますが、いかがでございましょう? ただ具体的には全員平山姓ではなく母系平山[隠れ平山会]であるのが実状です。これは家系と言えば父系を調べるのが主流ですが、それではあまりにも単純かつ味気なさすぎるという考えによるものです。しかし平山姓の方もちろん大歓迎です。いかがでしょうか?
[104] | ヒラヤマ一世ヒラヤマ カズヨさんからのコメント(2017年07月16日 00時34分06秒 ) | パスワード |
平山家に関係する皆様こんにちは。
船橋市在住の平山と申します。
偶然にこの掲示板を発見し、ワクワクしながら書き込みをしています、
8代目平山平助の三男 茂三郎長男哲蔵が私の祖父になります。平山為之助と哲蔵はいとこ同士ということになります。
先日、五所川原の親戚にあいさつに行ったときに平山半左エ門の話になり系図を説明してもらいこの年(69歳)になって、ご先祖様に興味が出てきました。
今後共、この掲示板を楽しみに読ませていただきますのでよろしくお願いいたします。
[105] | 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月16日 04時56分25秒 ) | パスワード |
ヒラヤマ一世ヒラヤマ カズヨさん
初めまして。
一瞬 ヒまラや一世、ヒまラヤ カズヨさん と読んでしまいました。
恥
なんでヒマラヤの王族が?と思っちゃいました。
いやいや、ヒマラヤには王族は住んでないだろうに、あ、あれはネパールか、ん?。ネパールは廃止になったんだっけ?
ああ、ブータンか、と。
いえいえ、真面目に書きます、世間は狭いですね。
[106] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年07月20日 09時39分49秒 ) | パスワード |
ヒラヤマ カズヨさん、はじめまして。当方は平山季重末裔・千葉県多古町の豪族・平山氏に関係する者です。哲蔵氏のお孫様ということは、お父さまは歌人として知られた平山貞之助さんではないですか? また、一豊さんってご存知ですか? それと、五所川原の平山家は一応、平山季重末裔と言われてはいますが、平山季重から平山半左ヱ門までは詳細不明が実のところのようですが、実際はどうなのでしょうか?す
[107] | 平山一世さんからのコメント(2017年07月23日 23時21分05秒 ) | パスワード |
鈴木様
初めまして。
平山家ご先祖様については興味が出始めただけで、これから勉強しなければなりません。
先月、父の墓参りのついでに五所川原市湊の重要文化財になった平山家住宅と、菩提寺に行ってきました。
さて、平山貞之助は私の伯父でその長男一豊はいとこになります。
私は三男の平山国四郎の長男。一世と申します。
それから、平山武者所季重→平山小伝司良信→平山清十郎→平山半左エ門(初代)とつながっているようです。
もう少し詳しく調べたいと思っています。
よろしくお願いいたします。
平山一世(ヒラヤマカズヨ)
[108] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年07月24日 11時56分07秒 ) | パスワード |
平山一世様 当方のこれまでの調べでは、平山季重が1220年生。平山兵部(小伝司)良信が1300〜1400年前半頃の人。平山清十郎が1600年頃在住の人。これが妥当であるとするならば、平山季重から平山兵部良信の間、少なくとも6〜7代存在し、平山良信から清十郎までの間は少なくとも、10〜12代は存在していると見てよいのではないかと思われます。私、平山季重を祖とする平山一族調査に邁進すること実に27年。そこを何としても解明したいところですね。
鈴木宣美(スズキヨシミ)
[109] | 平山一世さんからのコメント(2017年07月29日 17時17分00秒 ) | パスワード |
鈴木宜美様
ご連絡をありがとうございます。
平山清十郎が1600年頃の人と調査されたのですね。
五所川原の平山日記による五所川原の初代平山半左エ門が1664年に五所川原湊村庄屋になっていますから、そのあたりで名前の変化などから何かあったのかな、ということになりそうですね。
それにしても27年も頑張って調査されているとのこと、素晴らしいですね。
今後の掲示板を楽しみにしています。
平山一世
[110] | スズキヨシミさんからのコメント(2017年08月18日 16時16分05秒 ) | パスワード |
平山一世様
埼玉県熊谷市江南町樋春に、五所川原と同様に平山家住宅があります。これも同族ですが、系譜の詳細は不明です。ただ、以前から考えていたのですが同じ平山家住宅と言うからには、先祖がかなり近い関係なのではと思えてなりません。どう思われますか?
[111] | スズキ ヨシミさんからのコメント(2018年01月31日 15時31分56秒 ) | パスワード |
港区の平山さん こんにちは。直接平山家の話しとは関係ありませんが、親戚の平山佐和子さんは森永製菓常務の松崎氏に嫁ぎましたが、この家は現内閣総理大臣・安倍晋三氏の奥様・昭恵氏の実家と同家であるという話し、ご存知ですか?
[112] | ブログ 経済参謀さんからのコメント(2018年02月10日 07時18分49秒 ) | パスワード |
織田信長氏の弟の、 織田長利氏は、 平山氏から、嫁を得て、 子供らを成しており、 長利氏が、討ち死にした後には、 その子供らは、 その母の実家の平山氏へ合流し、 平山を名乗るようになり、 加賀の前田氏により、 所領を没収されて追放され、 浄土宗の長安寺を頼って、 北の、奥州は、 気仙郡の大船渡へ至り、 その子孫の平山氏らは、 今は、 数百家を数えるに至っており、 私も、その平山氏の1人です。
務録 ブロク ≒ ブログ 、らにて、 健康系や、 政治経済系と歴史系の論説記事らを発信しています。 ブログ 経済参謀 。
[113] | 福島の平山さんからのコメント(2018年02月12日 10時35分31秒 ) | パスワード |
初めまして。
福島出身の平山です。
皆様のように家系図を遡って調べたことがないのですが、自分の先祖が一体どこの誰なのか興味を持ち、掲示板をのぞいてみました。
祖父の代から会津です。それ以前は中通りの矢吹?と聞いたことがあります。
家系図もなく、本当かわかりませんが、祖先は伊達家に仕えていたとのことです。ただ、私の家の家紋は伊達家の竹に雀の仙台笹に似ていて、稲穂に雀です。
どのような家系なのでしょう?また、皆様のように詳細を調べるにはどうすればよいでしょうか?
[114] | スズキ ヨシミさんからのコメント(2018年02月12日 17時43分47秒 ) | パスワード |
福島の平山さん初めまして。当方は母方先祖(女系)が平山季重子孫千葉県多古町平山家に連なる者です。家系の調べ方はまず、平山家の父・祖父・曾祖父と順々に遡って本籍地の市役所・役場にて戸籍謄本(亡くなっている人は除籍謄本)を取得していけば、だいたい5〜6代前くらいは遡ることができ、どこから来た平山家かわかるものと思われます。尚、千葉県多古町平山家の分家に福島県桑折町へ分家していった一族もいるのでもしかしたらつながるかもしれません。ただし、この家系は伊達家に仕えた云々という話しはありません。
[115] | 児島宮歴研会さんからのコメント(2019年05月22日 09時36分46秒 ) | パスワード |
URL=http://https://9009.teacup.com/cojimagu/bbs/672 |
朝倉郡夜須の朝日の、日奉り族、この一族が、平山季重、家宗家の隠れていた、歴史の謎が、児島宮歴研会により。、解き明かされ、日本の歴史の、隠れていた、というより、解明されなかった、一面が、宗家末裔の児島宮に、来訪して、平山家系の話、をしていく、中に、ふと、心あたりが、日奉り族の、解明であった。
神の御引き合わせが、話して、いく中に、新たな一面が、隠れていた。
大変驚いた、日本の歴史の、藤原氏、の中心人物、の宇都宮氏、武蔵の国、(埼玉)の、解明されて、いなかった歴史、遺跡、解明に、光が、指した、、藤原、いや、それだけ、ではない、日奉り族と、され、火に、関わりと、されていたのが、平山祖の宗頼の、武蔵七党に、関わる、考古学遺跡、の解明が、今、新たな橘、と、なった。
歴史上の、藤原氏が、もう一面、浮かび上がったのである。
紀氏(秦氏)と、天皇の融合の、起こりに、といえば、古代の大分の宇佐神社と平安、鎌倉の、藤原坊門家、天皇の姻戚に、関わっていた、紀氏(秦氏)といえば? 神宮皇后(ひみこ)と武内宿祢(秦氏)が、九州の宇佐、大分地方と、中国隋の使者によって、記載されている、夜須は天神、華夏人の国とであると。
紀氏(秦氏)とは、中国歴史で、周の国の、時、斉国が、夏王朝の裔とあり、越国のもう一方の国で、秦により、滅ぼされて、秦に、組込まれて、、夏王朝裔と周国一国和氏(斉国)の、消えた、歴史と、繋がっていたのである。
この秘密が、宇佐神社(日奉り族発祥)ことが、周の国の、時の、斉国の事であった。
ここが、藤原氏発祥で、あった事が、わかった。藤原氏と鎌足と宇合(藤原祖)であった。
ここに、天智天皇の子が、宇合(藤原祖)で、あった。藤原氏の祖は、ここで、周の国の、時、斉国の事であった。相似していた、二つの、華夏対藤原、紀、八田権主、日奉族との、相似、関係が、明らかになった。
日奉族の秘密が、、火ではなく、太陽、神信仰、を語っていたのである。
藤原氏は、女方であり、平安天皇、には、妻は藤原氏となっていた。天皇が、古代の中国の越と斎国が、同じ、裔だったのである。
天神天皇と、日奉族、后は、ここで、融合していたのであった。
関白祖は藤原良美であるが、東寺長者道乗が、藤原とあるのが、根底が、双方、融合に、あったのである。
平山祖の宗頼の、日奉族武蔵七党に、関わる、考古学遺跡、の解明が、今、新たな橘、と、なった。
宗頼は、藤原氏であり、藤原関白宗園 と紀正隆の娘を、妃としている、そして、宗綱がうまれ、八郎盛宗が生まれた、が、八郎盛宗は藤原盛宗であり、別名、平山八郎直季の事でもあった、と、解明。平山八郎直季の子が、平山季重とある。これは、双方の名を、使っていた、事になっていた。
[116] | 平山の起こりさんからのコメント(2019年05月22日 09時59分09秒 ) | パスワード |
URL=http://kankoyasu.web.fc2.com/ |
平山の起こりについては、中国浙江省の、河姆渡遺跡に
あり、この七代が、天神神の御凝りとなっている。
日本の紀元前年号の起こりは、越国の祖である、越王無予に、平山県の、発祥がみえる。
全国の平山の、方は、日本では、ここにあります。それが、天神八十七世の、宗家となって、いるので、一度、児島宮に、訪れては、如何ですか。
平山のすべて、が知りたい人は、児島宮が、伊勢神宮、熊野神宮の総本家へ、お問い合わせ、ください。
平山の総本家は、天神、日奉族、藤原氏の総本家、平山天神へ、0946-42-2055
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