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 投稿番号:100779 投稿日:2005年05月23日 12時55分43秒  パスワード
 お名前:takahiro
小松重盛家と池頼盛家について
キーワード:平重盛 平頼盛 小松家 池家
コメントの種類 :人物  パスワード

 小松重盛家と池頼盛家について、日向薩摩に継承された「平氏下村系図」を中心に、以下考察を続けていきたいと思います。

[1]takahiroさんからのコメント(2005年05月23日 13時06分34秒 ) パスワード

まずは、直接「平氏下村系図」とは関係しませんが、小松家末裔・勢観房源智上人を見ることから始めたいと思います。


先週18日、旧丹波国桑田郡千代川の通称・小松寺(金華山霊光慈眼院小松寺)へ行きました。この寺は平重盛公の孫にあたる勢観房源智上人の開山と伝えられています。

勢観房源智とは、平重盛の子、師盛の子であるとされています。

ここで少し、『勢観房源智』梶村昇著(東方出版)を元に、源智上人の出自についてみていきたいと思います。

上記著第1章「出生の秘密」には、源智上人の出自に関する説は数説存在するとの事、それぞれの説が詳細に挙げられています。

ここでは簡略に見ていきますが、

1、平師盛末裔説(尊卑分脈、尊卑分脈脱漏、法然上人伝集・四十八巻伝、浄土鎮流祖伝、浄土伝灯総系譜、知恩寺歴志略に拠る)
2、平敦盛末裔説(知恩院寺伝、謡曲・生田敦盛に拠る)
3、平通盛末裔説(正源明義集、翼賛、同随聞記、浄土三国仏祖伝集に拠る)
4、平資盛末裔説(授手印決答聞書に拠る)
5、平重衡末裔説(伝通記糅鈔に拠る)

とそれぞれの説が詳述されており、そして、次のように結ばれています。

『源智の父を追って、思わず長い話になってしまったが、結局のところ、誰が父であったかはっきりしなかった。確かに師盛説が一番有力ではあるが、それとても確証があるわけではない。平家の出身であるということさえ断定できるものはなかった。これは要するに、源智が徹底的にみずからの出自を秘匿しようとしたということであろう。いや、源智でさえ、そのことを自分で知ったのは後年のことであったであろう。また彼の出自を承知の上で、源智を取り巻いていた人々も、ひたすら隠していたのではないか。<中略>要するに、彼の出自を承知していた人々も、それを知ってから後の源智も、みんなひたすらこのことが洩れないように心をくだいたということであろう。逆説的に言えば、それほど隠そうとしたということ、そのことが、とりもなおさず、彼が平家の出身であることを、もっとも証明しているということであろうか。私もあれこれ思っているうちに、こうして彼の出自を詮索するよりは、秘匿しようとした源智の心中を、そのまま思いやることの方が、より源智を知ることになるのではなかろうかと思ったりしたことであった。』

上記、『これは要するに、源智が徹底的にみずからの出自を秘匿しようとしたということであろう』との著述がありますが、これは源智上人の出自に関してでありますが、平頼盛末裔を名乗る「平氏下村系図」におきましても、当系図のうち惣領家筋に継承された系図、添文を精読しますと、出自に関する根本的な秘匿を下村家は八百年を経て現在まで秘し続けてきたのではないかと思える一文につき当たりました。

以下、「平氏下村系図」についてみていきます。
[2]takahiroさんからのコメント(2005年05月24日 01時41分45秒 ) パスワード

「平氏下村系図」は、<系図添文>、<系図本篇>の二部の構成から成っており、まず<系図本篇>から見ると、

◎桓武天皇から平家一門へ、そして頼盛から仲盛へと系譜の記述が続き、


○仲盛の子:若狭守盛為(盛重)

『平家相傳守刀並法華経所持也 文治四年戌申賜日向國臼杵郡之内財部村』


そして、若狭守盛為(盛重)の子として下記の三子の名が記されます。

○三河守盛順 (号財部)

○治部少輔盛朝(号池上)

○伊予介重兼 (号下村)


そして(池上家は盛朝一代にて記述が途切れますが、)財部家、下村家は江戸末期までその系譜が存続します。


なお下村家は、上記伊予介重兼の子の代におき、

○長子・孫三郎重氏は下村家を継ぎ、所領、並びに法華経を相伝

○次子・左馬頭重治は木下家を興し、平家相傳守刀を相伝


*上記の下村家、木下家の分家の経緯は、木下家側の系図には次のように記されています。

『父重兼病床招我日可与兄重氏所領並平氏守法華経汝与之賜相伝宝刀重氏聞此事父死去則変遺緒将奪捕之故密住所隅州根占移住矣』


一方、下村家側の系図には、

『重治 左馬頭号木下 隅州小弥寝移』と簡略に記されています。


また、財部家については、前記、

『平家相傳守刀並法華経所持也 文治四年戌申賜日向國臼杵郡之内財部村』

との記述の内、下向地の地名「財部」を名字としていますが、「平家相傳守刀並法華経」との<家宝>はともに相伝しておらず、おそらく財部の所領のみを相伝したのかと推測します。
[3]takahiroさんからのコメント(2005年05月24日 02時45分35秒 ) パスワード

先に<系図本篇>の部を見てまいりましたが、この<系図本篇>の前には、<平氏下村系図添文>として、以下の記述並びに家紋の図が附されています。


◎平氏下村系図添文

一、惣領之幕事
  紋梶之丸中有字書
  紋五端懸居

一、幕縄之事
  惣領者左ニ打ヘシ
  庶子者右ニ打ヘシ
  庶子幕紋違梶中有字書
  紋三端懸居

一、旗並竿備等有口伝

一、本名小松支流者可鑑系図

 建武二年八月吉日 下村氏重頼


ここにおいて、幕紋並びに幕縄についてのただし書き、また、旗並びに竿についての口伝への示唆、そして次の一文、


【一、本名小松支流者可鑑系図】


おそらくこの一文は、

『一、本名は小松家の支流なり。系図を鑑みるべし。』

と訳すと思われるのですが、つまり、下村家とは、系図上は頼盛子息仲盛末裔を名乗っていますが、下村嫡流家の系図のみには、真実の出自を隠し記載していたようなのです。

(次男家の系譜、平氏木下系図においては、

 一、旗並竿備等有口伝
 一、本名小松支流者可鑑系図

 の二文は記載されていませんでした。)


おそらく、鎌倉初期、下村(木下)・財部家祖は、実は小松支流であるが、鎌倉を警戒して名乗れず、唯一鎌倉に許された頼盛末裔を系図上では名乗った、あるいは、実際に頼盛家と猶子または養子関係を結び、日向の頼盛遺領に入っていたようなのです。


『一、本名は小松家の支流なり。系図を鑑みるべし。』

小松家の支流、即ち、維盛、資盛、清経、有盛、忠房、師盛、等、いずれかの流れの系譜なり。系図を照らし合せ考察すべし。

重盛の子息は、当の平氏下村系図によると、維盛、資盛、清経、有盛の4名が記載。

系図を参照した上での小松家支流とは、資盛、清経、有盛の3名。(維盛は小松本流)


さらに、先に見たように、その家を表す<幕紋>として、

『惣領之幕事 紋梶之丸中有字書紋五端懸居』

この<幕紋>には筆書きの図も添えられているのですが、現在の呼称で述べると、抱き梶葉の二枚の梶の葉の間に「有」の字が置かれた幕紋の図が描かれています。

出雲系の神社においては、「神有月」に掛けて、<亀甲に有の字>を神紋に定めている神社もございますが、文字を紋に入れる場合、その家に由緒のある文字を入れるケースも認められるとのこと、

『一、本名は小松家の支流なり。系図を鑑みるべし。』

との一文と照合するなら、下村家の幕紋の<抱梶に「有」の字>の「有」は、小松重盛子息「平有盛」の「有」ではないかと、あたかも謎掛けのようでありますが、推測しました。


また財部家は、十四世紀に、日向に下向した伊東家に室を出しており、これは、伊東家が十二世紀末には小松家の家臣であったことからの由縁かとも推測されます。


表面上は頼盛末裔を名乗りながら、<添文>という形において、真実の出自は小松家の支流であることを先の世へ伝えようと、下村家の祖が系図に隠した謎掛けを、平家滅亡後八百年を経て、今この現在に目にできた事は、何という奇遇であろうと、きわめて感慨深く感じます。


また、先に

『おそらく、鎌倉初期、下村(木下)・財部家祖は、実は小松支流であるが、鎌倉を警戒して本名を名乗れず、唯一鎌倉に許された頼盛末裔を系図上では名乗った、あるいは、実際に頼盛家と猶子または養子縁組を結び、日向の頼盛遺領に入っていたようなのです。』

として記しましたが、元来、重盛小松家と頼盛池家は、池禅尼・藤原宗子及び善勝寺流藤原家を通し、血縁の上でも親近性の高い関係にありました。


以下、引続き、重盛小松家と頼盛池家について見ていきたいと思います。


(なお、ここにおいて紹介しています「平氏下村系図」並びに「平氏木下系図」については、『平家物語を熱く語る』上においても卓見を披露なされているHN布袋竹様から提供頂きました。)

[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月24日 03時51分01秒 ) パスワード

takahiroさま


◎平氏下村系図添文

一、惣領之幕事
  紋梶之丸中有字書
  紋五端懸居

一、幕縄之事
  惣領者左ニ打ヘシ
  庶子者右ニ打ヘシ
  庶子幕紋違梶中有字書
  紋三端懸居

お疲れさまでございました。
やっと入力終了でございますね。

貴重な「梶+有の文字紋」の記録とうとう日の目を見ましたね。


布袋竹さまも貴重な資料を門外公開に同意くださいまして感謝でございます。
こういう貴重な家書の公開は一族の方よりの反発も起きて当たり前。

800年に亘る平家の皆様の想い
慰められますように!
[5]takahiroさんからのコメント(2005年05月24日 03時51分06秒 ) パスワード

以前も少し話題に挙がりました「平氏と梶紋」について、少々記します。

◎平維盛末裔を伝える小松(弥寝)家
 「抱き鬼梶の葉」

◎小松家支流末裔を伝える下村(木下、財部)家
 「抱き梶の葉に有の字」<惣領家>
 「違梶丸」<庶子家>

◎下村系図と同系統の系図を伝える鬼丸家
 「丸之内菊」<惣領家>
 「梶丸」<庶子家>

◎堂上平氏西洞院家の庶流家
 「揚羽蝶」(本紋)
 「立ち梶の葉」(副紋)


梶紋の発祥は諏訪大社の梶紋に求められると推測されるのですが、平頼盛の所領の一に諏訪大社が認められますが、ミシャグチ神を祭祀する信州諏訪の地とは、頼盛個人というより、<広義の平氏>一族と同系統の由縁ある地であると推測され、その由縁により、平氏末裔を名乗る家に梶紋が多く用いられているのではと推測されます。


また、布袋竹様から提供頂いた下村家の系図の流れとは文録四年に分かれた別家下村家の末裔のお家の方からお聞きした話では、

『明治二年比叡山山王権現を改め近江国滋賀郡坂本村に鎮座宮幣大社日吉の神霊を奉祀し根占の横別府に神社を建て氏子と共に祭事を行っております。』

とのこと、ここで登場します坂元の日吉大社へは私も昨年参詣しましたが、その際、印象に残ったのは、「樹下宮」の存在。

下村家一族、「木下」家との関連を今後もう少し調べてみようと思います。
[6]takahiroさんからのコメント(2005年05月24日 03時57分30秒 ) パスワード

ギャンブラー様

 いつもながら温かいお言葉をありがとうございます。
 今後もう少し、小松家と池家について考察を進めようと考えております。
 どうぞ今後とも御助言お願い申し上げます。

 また、この場を借りまして、貴重な資料を閲覧する機会を与えて頂きました布袋竹様へあらためてお礼申し上げます。
 誠にありがとうございました。
[8]布袋竹さんからのコメント(2005年05月24日 15時46分08秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

takahiroさま、
おやっとさぁ ごわんそ
こいでかごんまにきやった祖先も、うれしかちおもっちょいやっと
あたいもかんげもんで・ごわんどん、平家はがっつい不思議ばっかいごわしたなー
あいがとごわした。

ご覧になってるギヤンブラーさま、みなさまに
「梶之中丸有字書」紋
百聞は一見・ということで、ここに貼ってみようと。確か画像以前載せられたはずと・
出てなかったので、アドレスだけ貼ります。スレッド汚してごめんなさい
http://yokensaka.com/bbs/Up_Board/img/1606.jpg
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月24日 15時57分45秒 ) パスワード

布袋竹さま

[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月24日 16時02分45秒 ) パスワード

金箔が押してあったんでしょうかねえ?
2重円という形にしてあるのも謎々の内なんでしょうかねえ?
御先祖さまの紋に託した心の裡というのは何だったのでしょうね?
[11]布袋竹さんからのコメント(2005年05月24日 16時11分38秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

ギャンブラーさま
うわぁー、でちょい、がっついあいがとごわした。
いめじえすあーるしーじゃ、なかったようですね。

でも、ほんとに平家はオカルトチックで、不思議なことがたくさんありました。
takahiroさまも、私も何か目に見えない小松家からの働きかけがあるのではないか
との勘ぐりもしたいほどでした・
学術的なものは、takahiroさまにおまかせして、私は、オカルト専門で
別スレッドにでも
[12]布袋竹さんからのコメント(2005年05月24日 16時24分03秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

説明足りず、すみません。
これは、木下家本家の墓の紋の現物撮影ですので・
墓碑は結構墓石屋さんが、いい加減に彫っているのではないかと思います。
ほかにもべつの家紋で丸が二重丸になっているのが多かったです。
ただ、ちゃんと墓に刻まれて、有の文字がありますよ」の見本のつもりで・
添文には、2重でなく、一重の丸になっています。いずれあとでtakahiroさまが
ご説明していただけると思います。
[13]takahiroさんからのコメント(2005年05月24日 17時02分09秒 ) パスワード

ギャンブラー様、布袋竹様、誠に有難うございます。

布袋竹様、鹿児島のお言葉、すべて理解できていないかも知れませんが、とても温かいものを感じ、感激しました。こちらこそ有難うございます。


「梶之丸中有字書紋」について、私はこれまで(今回公開して頂いた墓碑を含め)、

1、平氏下村系図添文に記載されている筆書きの図像
2、平氏木下系図添文に記載されている筆書きの図像
3、平氏木下家本家墓碑の画像

の3種類を見ることができていますが、

1は梶の葉2枚を(真横から描いて)円形に向い合せ、中に「有」の文字

2は梶の葉2枚を(正面から描いて)円形に向い合せ、中に「有」の文字 そして、1重の円で囲む

1は、葉を真横から描いていることにより、梶の葉の中心の芯が、自然と外円を形成しており、2は1の複写であると思われるのですが、葉を正面から描いたことで、この外の円を別個の円にて描かれています。

3は、その外側の円の線を太く彫ったので、両横の円の線が2重に見えているのでしょうか。

おそらく、オリジナルは1であり、それが訛伝して2へ、そしてさらに彫る段階でずれて3の墓碑へと訛伝したのではと思えます。

昔は、現在のようにコピー技術がありませんので、筆書きによる複写の為、図像等は特に訛伝が起こりやすかったのだと思います。


墓碑の「有」の字、とても綺麗に出ていますね。


この「有」の文字と、添文の【一、本名小松支流者可鑑系図】から、平氏下村家は小松家の平有盛の末裔を秘匿し続けて来たのではではないかとの論考を上記、記しましたが、公に名乗った頼盛末裔との称、また下向先が頼盛遺領であること、また、下村・木下家は通字(諱)は『重』であり、財部家は『頼』であり、これは血筋の<重盛>の『重』、そして養家先の<頼盛>の『頼』ではないかとの推測、これらひとつひとつを、徐々にはなると思いますが、小松家と池家の関係を見ていくことにより、考察を進めたいと思います。


>学術的なものは、takahiroさまにおまかせして、私は、オカルト専門で別スレッドにでも

私の記述はまったく学術的というようなものではありません。
布袋竹も当スレッドにて、小松家と池家について、どうぞ御意見お聞かせ下さい。

[14]takahiroさんからのコメント(2005年05月24日 17時12分19秒 ) パスワード

上記、

『おそらく、オリジナルは1であり、それが訛伝して2へ、そしてさらに彫る段階でずれて3の墓碑へと訛伝したのではと思えます。』

と記しましたが、或いは、1から2は訛伝ではなく、下村家と木下家の差異を表すために、故意に<真横からの梶の葉の抱き梶>を、<正面からの梶の葉の抱き梶>へと変更したのかもしれないですね。

家紋の変遷というものも非常に興味深く思えます。
[15]布袋竹さんからのコメント(2005年05月24日 23時11分25秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

私も下村家と木下家は梶の形の違いを表したと思います。
下村系図と木下系図の筆書きの違いは歴然としています。
梶の葉 真横と正面と向き、それにより入る有の字の位置の違い

下村家は嫡家も庶子もどちらにも有の字が入ります。
  〔庶子幕紋違梶中有字書〕
木下家は庶子になると、有の文字は入らず梶の違紋だけです。

また、takahiroさまが書かれたスレッド〔5〕
>とのこと、ここで登場します坂元の日吉大社へは私も昨年参詣しましたが、その際、>印象に残ったのは、「樹下宮」の存在。

木下は「きのした」でなく、「きした」と読みます。で、「樹下宮」に注目されたこと
やはり、すばらしいなーと、着眼点がすごいなと思います。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月25日 03時50分13秒 ) パスワード

家紋の変遷やバリエーションは

時代や経済力などで芸術的に洗練されていきますから
現代の人から見て「こうなんだ」と決め付けるのはまずいですね。
特に江戸幕府時代の記録で語ってしまいますから。


センスのある人が加わるといじりますし
石屋さんの段階で彫る時でもそうですね〜
それから分家する時にもいじるでしょうし。


平家の末裔で梶に有の字紋をお使いの方が参加なさって
「うちはこういう風になっています」
なんてレスがつくと良いですね。


木下は一般的な「きのした」じゃなくて「きした」でしたか。
地域限定の珍しい姓なんですねえ。


梶の葉を紋に取り入れたというのもそれなりの理由があったって分かりますね。

紋の模様からだけでは想像の出来ない家の個別の歴史やアイデンティティが隠されているんですね。
大事にしなくてはいけませんね。
[17]takahiroさんからのコメント(2005年05月25日 14時46分09秒 ) パスワード

<梶紋>関連について、他スレッドへの田中愛造様の御投稿を勝手ながらこちらへも転載させて頂きます。

『さて、ネット(三重県城郭一覧)では、阿山郡阿山町西湯舟には岩田氏城が、士豪岩田氏の居城と載せられていますね。又、近藤安太郎氏の系図研究によると、阿拝郡河合荘に平頼盛の従士平信兼の子孫が土着して川合氏を称し、同族から(岩島・木津・磯矢・岩田・伊室)の諸氏を出した。とあります。土地柄各氏が身を寄せているのを見ると、存在の符号が一致いたし相違い無かろうと思われます。ただ、残念なことにこれ等一連の川合一族の家紋は殆どが、丸に立ち梶の葉である事です。 』



また、少し家紋の名称について調べましたが、下記が正式な名称のようです。

◎平氏下村嫡家:「割梶の葉に有の字」
◎平氏木下嫡家:「丸に抱梶の葉に有の字」


また玄松子氏の神紋に関するサイトを拝見しますと、

http://www.genbu.net/sinmon/index.htm

「文字紋」については以下の記載がありました。

『文字をそのまま、あるいは書体を変え図案化し、紋章として定着させたものである。その文字は尚武・信仰・瑞祥・記念などによる。「一」、「一・二」、「一番」、「八・九」、「十」などの数字は他の九個の文字よりたやすく識別出来る。「亞」、「兒」、「有・無」、「大」、「大一」、「大中」、「大万大吉」、「山」、「卍」、「吉」、「丸」、「加」、「丹」、「上」、「利」、「松」、「王」、「井」、「鳩」、「藤」等々の文字は縁起のよいもの、勝利を念願したもの、吉兆の意義などをもち、苗字の一部をとったものもあり、故事来歴も含まれている。−参考文献 日本「家紋由来」総覧−』


「有」の文字、普通に考えれば「有・無」「神有月」「有りて有るもの」、即ち「梶の葉」とともに信仰・瑞祥面からの選択であると考えられるのですが、「本名小松支流者可鑑系図」との添文記載から、小松家支流「平有盛」を関連付け、故事来歴を表すことこそがその真意ではないかとも推察していますが、或いはその両者の意を含めているのか、平氏下村家祖の真意を忖度してしまいます。

[13]において敬称が抜けておりました。失礼致しました。
[18]takahiroさんからのコメント(2005年05月25日 14時54分45秒 ) パスワード

また、スレッド「大蔵系原田氏家紋:平系+菅系原田氏+塙氏」より[35] 立梶の葉様からの御投稿もこちらに参照させて頂きます。  

『高棟王流の公家平家諸流は、たしかに揚羽蝶や丸に揚羽蝶の家紋を現在も使用しています。西洞院家の庶流になる当家では、理由はよくわかりませんが、立梶の葉というのでしょうか、その紋も揚羽蝶と併用しております。 <立梶の葉様御投稿>』

*なお、先の田中愛造様の御投稿は「三河国服部家紋:伊賀国岩田氏・川合氏」[41]からの参照です。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月26日 00時40分10秒 ) パスワード

>西洞院家の庶流になる当家では、理由はよくわかりませんが、
>立梶の葉というのでしょうか、その紋も揚羽蝶と併用しております。


家紋から 西洞院家=バリバリの平家系 というのが納得でございますねえ。
[21]takahiroさんからのコメント(2005年05月26日 18時07分40秒 ) パスワード

少しづつ見て行きたいと思いますが、まずは、下村家祖の日向下向について。

平氏下村系図では、

○仲盛の子、若狭守盛為

『平家相傳守刀並法華経所持也 文治四年戌申賜日向國臼杵郡之内財部村』

として、壇ノ浦の平家滅亡の元暦二年(1185)から四年後の文治四年(1188)の記述から、日向下向の記述が始まっています。


下村家祖の日向下向について、大きく二つのパターンが推察されると思われます。

1、小松殿の子息(有盛?)が実は源平の合戦にて死去しておらず、文治四年まで身を潜め、日向・頼盛遺領へ下向。

2、小松殿の子息(有盛?)は平家物語、或いは当時の史料が説くように源平の合戦にて死去してしまったが、京都に残した子孫(或いは母子)は鎌倉の平孫探索を逃れ、京都近郊にて潜伏、そして文治四年、日向・頼盛遺領へ下向。


ここでは2のパターンの可能性について、少々当時の記録を見ていきたいと思います。

◇元暦二年三月の平家壇ノ浦滅亡後、京都に進駐していたのは源義経の(意を汲む)配下であったが、しかしながら義経はさほど平孫狩りに熱意を見せなかった。平孫およびその関係者の潜伏に危機感を持った頼朝は、同年十一月末に至り、北条時政およびその配下の兵を、義経と入れ替え入京させる。


『吾妻鏡』元暦2年、8月14日改元 文治元年

12月1日 庚戌

『平氏の一族、誅戮・配流の二罪に相漏れるの輩、多く以て京都に在り。また前の中将時實、去る夏配流の宣下に含むと雖も、配所に向わず。今度義経に同意し西海に赴くの由風聞す。仍ってこれかれ早くこれを尋ね取り、在京の御家人に召し預くべきの由、今日北條殿(去る月二十五日入洛)に仰せ遣わさると。』

12月17日 丙寅

『小松内府の息丹後侍従忠房、後藤兵衛の尉基清これを預かる。また北條殿関東の仰せに任せ、屋島前の内府の息童二人・越前三位通盛卿の息一人これを捜し出さる。遍照寺の奥、大覺寺の北菖蒲沢に於いて、権の亮三位中将惟盛卿の嫡男(字六代)を虜え、乗輿せしめ野地に向かわるの処、神護寺の文覺上人、師弟の昵み有りと称し、北條殿に申請して云く、須く子細を鎌倉に啓すべし。その左右を待つの程、宥め置かるべしと。前の土佐の守宗實(小松内府息)は左府の猶子なり。これまた二品に申され、暫く免許すべきの由仰せ遣わさる。これに依って両人はこれを閣かる。屋島内府の息等に於いては梟首すと。 』


即ちこの平孫狩りにおいて、平宗盛の子息二人(能宗・副将丸と後一人)、平通盛子息一人(通衡?)、平重盛子息一人(忠房)、平維盛子息一人(六代丸)の五名の平家一門の子息が探索の目を逃れ得ず、宗盛、通盛の子息は斬死を蒙り、小松殿系の子息二人はその身柄を一時預かりに処されています(後、この小松殿系の子息二人とも許されることはありませんでした。)


私の先に推測しました2のパターンとは、この平孫探索を文治四年まで無事潜伏した小松家の関係者が、日向・頼盛遺領へ下向し、「本名小松支流者可鑑系図」との添文をもつ系譜を残したのではないかとの推測です。(一方で、1のパターンの可能性も小さくはないとは思いますが。)


当時の平孫狩りの苛烈さを伺わせる史料として、また『源平盛衰記』から次の二つの記述を挙げておきます。


◎巻第四十六・尋害平家小児附闕官恩賞人々事より

『同年十二月十七日侍従忠房、前左兵衛尉実元が預たりけるを、野路辺にて斬首。又小児五人内、二人は前内大臣の息、一人は通盛卿男、二人は維盛卿子也。同彼所にして誅殺す。何もとり/゛\に貌有様よし有て見えければ、武士共剣刀の宛所も不覚ければ、とみに不斬して程へけるに、此少き人共、或殺さるべしと知て泣悲むもあり、又思分ずして母をよばひ、乳母を慕て泣悶るもあり。彼を見此を見るに、無慙にもかはゆくも覚えければ、兵ども涙をぞ流ける。』


◎巻第四十七・北条上洛尋平孫附髑髏尼御前事

『平家は一門広かりしかば、彼等が子孫定て京中に多く有らん、尋捜て可誅と、源二位北条時政に被仰含ければ、時政上洛して、平家の子孫尋得たらん者は、訴訟も勧賞も可依謂と披露しければ、案内知りたるも不知も賞に預からんとて、上下男女伺求ければ、多く尋ね出しけるこそ人の心うたてけれ。実の平氏の子ならぬ者も、多く被召捕けるとぞ聞えし。痛少をば水に沈め土に埋、少成人したるをば指殺し突殺し、母の悲み乳母の歎、可類方なかりけり。北条も子孫多く有ける上、遉岩木ならぬ身なれば、加様に無情振舞けるもいみじとは不思、随世習心憂く思ける。』

[23]小林雅成さんからのコメント(2005年05月27日 14時57分27秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

ギャンブラー様

[9]の家紋は太輪に抱き梶の葉に有の字でいいと思います。2重ではありません。ほそくて抱き芋柏のようにも見えるのは、有の字をはさむための墓石屋さんの苦肉の策かと。

九州は、熊本、佐賀、福岡と家紋調査でまわりましたが、墓石にほってある法名、戒名、家紋など多くがキンキラ金色です。この地方独得だと思います。

梶は水軍関係者で信仰が厚かったからだとおもいますよ、お諏訪様は農業の神かつ軍事の神でもありますから。

小林雅成(表紋:丸に立ち梶の葉)
[24]工藤さんからのコメント(2005年05月27日 18時44分06秒 ) パスワード

takahiroさん、はじめまして、日向出身の工藤と申します。

「財部家は、十四世紀に、日向に下向した伊東家に室を出しており、これは、伊東家が十二世紀末には小松家の家臣であったことからの由縁かとも推測されます。」

財部家が、十四世紀に、伊東家に室を出したことは、私は詳しくはありませんが、日向・伊東家と小松家の関係は、日向・伊東家の祖・工藤祐経は京都・小松殿平重盛に見参し、大宮御所に伺候し平重盛を烏帽子親として元服した。また重盛公・小松殿での女官「冷泉殿の御局」(千葉介常胤の娘)と伊東家の祖・祐経がなれそめになり、共に当時の伊東家の領地・伊豆へ戻れるよう、重盛公が配慮し、伊東祐時の母となったと「日向記」にあるそうです。
[25]takahiroさんからのコメント(2005年05月28日 06時07分27秒 ) パスワード

小林雅成様

>梶は水軍関係者で信仰が厚かったからだとおもいますよ、お諏訪様は農業の神かつ軍事の神でもありますから。

 諏訪の神は農業また軍事の神であるとのこと、また軍事から、水軍関係者にも由縁深い神であるとの事、つい諏訪というと山間の地を想像してししまっていたのですが、今回、梶の葉と水軍(元来、平家の主力)との関係を御示唆頂き、非常に新鮮さを感じ、また勉強になりました。ありがとうございました。どうぞ今後とも御教示下さい。


工藤様

 貴重な御意見ありがとうございます。

 伊東家と財部家の関係につきましては、私も今後「日向記」を基に見ていきたいと思っておりました。

 平氏財部におきましては、財部祖三河守盛順から、その子治部少輔頼光、その子三河守頼明と続き、この頼明の娘が「伊東祐安室」と記されています。

 一方、伊東家の史書「日向記」をみると、その第三巻にて、

『祐重没後、家督は嫡男六郎祐安継玉ふ、其此院の御庄日向國國富庄二十一ケ郷と云は、赤井河より南に十一ケ郷、河より北に十ケ郷也、…倍木三十町…、』

 として、その二十一ケ郷の内に「倍木三十町」の記述が見え、さらに、この「倍木」の知行宛てがい者として「倍木は財部殿」との記述がみえます。

 上記、「其此院の御庄日向國國富庄」とは、元平頼盛領であり、「倍木」とはその内で、現在の新富町日置のこと、また平氏財部氏の下向地「財部」とは、現在の高鍋町一帯の旧名称で、上記倍木・現新富町日置のすぐ北隣。

 倍木を含む日向国国富庄を継いだ伊東祐安、そしてその祐安に倍木の知行者である平氏財部氏が室を出す関係にあることは自然であると捉えてもよいと思われます。

 またこの日向記に登場する倍木知行者・財部氏とは、土持財部氏ではないかとも推測し調べましたが、土持財部氏は平氏財部氏とはまた完全に別個の系図を伝えており、そこに重なりは見えず、平氏財部系図の方に「平氏財部頼明の娘:伊東祐安室」との記述が明確に見えることから、この日向記に登場する倍木知行者・財部氏とは、平氏財部氏であると捉えてもよいと思われます。

 今回、小松家と伊東家の「なれそめ」の記述の御紹介、誠に有難うございました。工藤様とは、やはり伊東一族のお方なのでしょうか、どうぞ今後とも御意見頂ければ嬉しく思います。   
[26]工藤さんからのコメント(2005年05月31日 01時50分24秒 ) パスワード

伊東祐安の室に出しているならば、薩摩・島津家と縁戚ですね。つまり、応永十年(1342)に祐安の娘を島津家八代・島津久豊の室として出しています。
詳細は、http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/satumaito.html
[27]takahiroさんからのコメント(2005年06月03日 11時54分26秒 ) パスワード

工藤様

 島津・伊東家の縁戚関係に関する資料を御紹介頂き誠に有難うございます。

 とても参考になりました。

 どうぞ今後とも平家一門と伊東家の関連について御教示下さい。
[29]takahiroさんからのコメント(2005年06月03日 12時01分53秒 ) パスワード

『一、本名小松支流者可鑑系図』(平氏下村系図)との一文に出会い、小松家末裔の日向下向に関する論考をここまで一気に書き進めて参りましたが、一度、ここで、一息を入れさせていただきます。

[22]におきまして、小松殿子息の各々の最期について述べかけましたが、これは、「小松の公達の最期」(佐々木紀一著)という論考を詳細に見ていこうと考えておりました。

上記著においては、通説には納まり切れない小松家子息のそれぞれ「最期」について論考されていますので、大きな図書館でしたら所蔵されていると思いますので、興味のある方は先に御参照下さい。

*「小松の公達の最期/佐々木紀一著」(國語國文 第六十七巻第一号/通巻七六一号所収)
[30]工藤さんからのコメント(2005年06月03日 18時18分02秒 ) パスワード

takahiroさん
平頼盛以外に小松家・重盛公の後胤をお探しなら、次の「勢州軍記」のくだりがありますよ。おそらく、ご存知だと思いますが。

「勢州軍記」序
http://members.at.infoseek.co.jp/shugaku/home/gunki1.htm

抜粋

関の一党の事

北伊勢関の一党は六波羅太政大臣 平清盛公の後胤、幕紋は上羽蝶である。先祖の小松内大臣重盛公が天下を見ていたとき、次男小松新三位中将資盛卿13歳世に言う乗合事件(訳者註:摂政との路上での揉め事)によって父が大いに怒り、鈴鹿郡久我荘に流した。資盛は配所で6年過ごした。元来伊勢・伊賀は平家累代の領地であるので住人平家一族諸侍はこれをもてはやした。その間に子が一人誕生した。後に盛国と名乗るという。資盛18歳の時都に帰り文治元年壇ノ浦で滅亡した。寿永3年伊勢・伊賀の平氏の叛乱の後、盛国はこの地に隠れ住んだ。源頼朝が天下を取った後北条遠江守時政が上洛して平家一党を滅ぼした。ただし頼朝は小松家の恩に報いようとしてその子孫を助けた。盛国は北条家に預けられたという。建仁4年再度の平家の謀反の後に、盛国の嫡子関の左近将監実忠、初めて鈴鹿郡関谷を賜って関家を号した。北条家の与力となって鎌倉に住んだ。

その弟の三郎左衛門尉盛綱は北条家の執事である。その後に北条が天下を治めたとき盛綱ははじめて管領に任じられ権威を振るった。北条家内管領長崎氏の祖である。故に関家の子孫は長崎一族として東国に住んでいたという。しかし元弘3年北条滅亡の折実忠六世の孫関四郎は伊勢に上って関谷に住んだ。もともと主君であったので武士は皆もてはやした。足利将軍に仕えて守護方についた。子が多くいた。嫡子を持って神戸に住まわせた。法名を伯巖という。次男を国府に置いた。三男は関の家督を継いだ。四男は鹿伏兎においた。五男は峯に置いた。その他は各所に住まわせた。その後仁木が謀反すると子らは皆忠節を尽くした。将軍を奉じ鈴鹿河曲両郡を所領とし子孫は栄えた。関の三家督は鈴鹿郡亀山の関家はその一人である。故に関家の総領である。河曲郡神戸家はその二人である。鈴鹿郡峯家はその三人である。みな足利家の侍である。ともに領地24郷、武士600内騎兵100足軽400合計1000の大将である。同じく関の五大将は鈴鹿郡国府家はその四人である。同郡鹿伏兎家はその5人である。それぞれ足利家の侍であり領地12郷そのうち国府家の一郷は奄芸郡白子である。鹿伏兎家の一郷は朝明郡富田である。武士300人うち騎兵50足軽200都合500の大将である。子の他与力ら合わせて1000人、関勢は都合5000人である。

[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年06月03日 23時32分22秒 ) パスワード

工藤さん

「勢州軍記」の御紹介をありがとうございました。


>赤堀家、これは俵藤太の後胤である。

赤堀家は南朝方のお仲間です。
結局は藤原忠清の一族で良いのでしょうね。
[32]takahiroさんからのコメント(2005年06月04日 00時29分01秒 ) パスワード

工藤様、ギャンブラー様、有難うございます。

工藤様

私は確かに平頼盛の子孫を探究していますが、しかしながら、その根本の部分では、「なぜ頼盛は一門に従わず京都に残ったのか」という、この問題を常に考え続けていました。頼盛は京都に残り、鎌倉へも挨拶に行き、そして旧領を安堵されています。しかしながら、旧領・頼盛池大納言領は、その大半を継いだ次世代光盛の代でほとんどが他家へ流出しています。ではなぜ裏切者の汚名まで被り頼盛は旧領を鎌倉より安堵してもらったのか。以下はすべて私の推測ですが、頼盛の旧領安堵とは、平家一門の一部首脳における、「一門滅亡後の平家残党の安息地確保」という性格をも有していなかったか、宗盛、知盛、時忠、そして頼盛という一門首脳における大局からの戦略の一部ではなかったか、とも推測できるのではないかと思えるのです。おそらくこのような推測は私一人のもので、全くの見当違いなものかもしれません。ただ、頼盛遺領に、公称頼盛末裔でありながら、実は小松殿末裔の一族が下向していたのではないかとの「平氏下村系図」という史料に、HN布袋竹様のお陰で出会え、そのような事から、ここまで論考を続けて参りました。(勿論、当スレッドを立てた第一義は、「平氏下村系図」の紹介ではあります。)これまで、頼盛の子孫について、幾つかのスレッドにて、延々と論考して参りました。その中には真実の頼盛末裔の系譜も多いと私は捉えているのですが、しかしながら、上記記しましたように、平孫狩りの苛烈な中、生き延びるために、鎌倉から唯一許されていた頼盛・関連地に隠遁し、頼盛末裔を称した平家一族も少なくはなかったのではないかとも、推測するに至っています。


では、ここでしばらく間を置かせていただきます。
[33]工藤さんからのコメント(2005年06月07日 07時18分31秒 ) パスワード

・・・・
頼盛の旧領安堵とは、平家一門の一部首脳における、「一門滅亡後の平家残党の安息地確保」という性格をも有していなかったか、
・・・・

これについては私は以前、あるかたの面白い説を読んだことがありますよ。知っているとは思いますが。
私は専門家ではないので推測等は控えますが、つまり、平清盛を後白川上皇のご落胤と考え(むしろこれが定説とのことですが)、源平の争いを、「源頼朝と棟梁とした関東桓武平氏御家人たち 対 後白川上皇に操られる上方白川平氏」の対決と捉える説らしいです。その説では頼朝は、西日本を頼盛を中心とした平氏に自由にまかせ、東日本を頼朝方が統治しようと、平頼盛と源頼朝が「密約」を交わしてたなんてありますね。頼朝にとってはあくまで敵は後白川上皇であって、平氏自体ではなく、しかし、上皇は討てないから、上皇の操り人形のように動く平氏や、弟・源義経を討たざるを得なくなったとする説のようです。
神奈川新聞に載ってたらしいです。下に参照しときます。ちょっと長いです。
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/AB-KANA-J.htm
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/AB-KANA-J2.htm
[34]takahiroさんからのコメント(2005年06月07日 12時57分43秒 ) パスワード

工藤様

祖父江一郎氏による神奈川新聞連載の大変興味深い論考をご紹介いただき誠に有難うございます。

今は外からなのでざっと目を通せたのみですが、平頼盛と源頼朝の密約は確かに存在し得たと私も考えるのですが、ただ、祖父江氏の論考で気になるのは、祖父江氏は頼朝の「平孫狩り」についてはどのように考えておられるのであろうかという点です。頼朝には平家を滅ぼす意志はなく、頼朝の意を汲めなかった義経が、意に反して平家を滅亡させてしまった、故に頼朝は義経を許せなかったと、祖父江氏の論考では読み取れるように思えるのですが、では頼朝における文治元年12月から翌年3月にかけての北条時政を介した苛烈な「平孫狩り」はどのように解けばよいのか、あるいはこれも源平盛衰記という<物語>の文学的誇張なのか、その辺りが一読して気にかかりました。まだざっと目を通したのみですの、また時間をとって精読してみたいと思います。

興味深い論考の御紹介を有難うございました。

[35]工藤さんからのコメント(2005年06月07日 17時59分57秒 ) パスワード

ん、落ち着いて読んでもらえばわかると思いますが、子孫のことを考えるという点で、ちょっとちがう。
つまり、大河ドラマでの今の場面でもそうですが、京から出て行く失意の平家は、子孫を頼盛に入れるとかそんな詳細なことまではこの段階ではイマイチ疑問。考えているとすれば、なんとかして、体勢を立て直すとか、負けを覚悟していたとしても、だれかが生き残ることを念じると考えるのが普通ですよね。だれかが生き残ると言う事の一つの詳細として、子孫を頼盛に入れるとかとなりますけどね。まだそこまではどうかな。

先の参照したS氏の説を仮定すると、「宗盛、知盛、時忠、そして頼盛という一門首脳における大局からの戦略の一部」というよりも、その首脳は頼盛の出自・存在に関しての「特異性」というものを元々知っていただけじゃないでしょうかね。つまり、首脳の戦略として子孫を頼盛に入れるといった立ち入ったことまでではなく、元々その首脳たちは「頼盛は生き残る可能性が高い」ということを知っていただけと。(頼朝と頼盛が密約を交わした事までは知っていたかわかりませんが。) 戦略があるとしたら、あくまで頼朝と頼盛側の「戦略」であって、壇ノ浦の後に落人がそういった「戦略」であったことを感づくか知るかして、隠れて生きるにしても厳しすぎるため、頼盛へ入って討伐の対象となることを遁れたんじゃないでしょうか。北条時政は故意に、そういったいわくのある子供をかくまって、後に「利用」するのを好んだみたいですよ。
源氏軍のほうは、「源氏」といっても、ほとんど、関東下向の桓武平氏系がほとんどですよ。北条、千葉、和田、三浦、畠山、梶原・・みんなこれ平姓ですよ、大将の源頼朝、義経、範頼以外は。それも、追われていた平氏首脳は知っていたんじゃないのかな。
でも自分の考えがそうだと思うなら、それをつらぬいたほうがいいですよ。私が横からよけいな事をいいすぎるかな。^^
[36]TAKAHIROさんからのコメント(2005年06月07日 22時46分31秒 ) パスワード

つい平頼盛のこととなると、頼盛中心の論考をしてしまい、もっと客観的にならねばと反省します。頭を冷やしていただいて助かります。

大河ドラマ、6月頭の時点でもう都落ちの寸前まで話が進んでいるのですね。時間帯の都合上、まだ1話も見ることができていないのですが、見ていないと皆様の話についていけないかも知れませんね。


[33]にて紹介していただいた論考および[35]における工藤様の論考、大きく参考になりました。ありがとうございます。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年06月08日 16時54分50秒 ) パスワード

takahiroさま

>もっと客観的にならねばと反省します。

いえいえ
逆でございますよ。

みなが同じ情報から同じ結論を導き出していましたら文明も文化も学問も芸術も何も発展しません。
誰も何も言えなくなります。
この平熱も必要なくなります。

懐疑が芽生える。
そこから「自分はどう思うか?」
そして証拠を見つけようと万巻の書にあたってみる。
それをなさっていらっしゃるのがtakahiroさま。

貴重なお時間を割いて膨大な書き込みをしてくださり資料にありつけないワタクシのような者は助かります。


ヒトの意見は参考程度で良いのです。

みな盲が象に触って語るように
源平戦で敗れた平家の気持ちだって勝った源氏の気持ちだって
ホントウのところなど21世紀の人間には難解。
でも藤原貴族系のtakahiroさまには御自分の御先祖さまのことですから想いが違う。
そのエネルギーで膨大な書き込みが可能なのでしょう。


池の禅尼が頼朝をどう思ったか?
そこを自分はどう思うか?

池の禅尼ゆかりのtakahiroさまが血と想いで理解なさる書き込みこそ興味深く
takahiroさまのDNAに刷り込まれた御先祖さまの過去の記憶をすこしずつ解明なさる過程には
ヨソ者のワタクシなどはとても近寄れないものがございます。


池の禅尼は藤原氏の人間。
そして頼朝の母も元は貴族出身の流れの家の娘。

池の禅尼が頼朝の命を助けたのは若くして亡くした息子に似てたから?
これが本当だったら
結局は池の禅尼は藤原氏の血で繋がった自分にゆかりの人間である頼朝を助けたということ。


特に昔は「母」で繋がるところに意味がありました。


頼朝も「母」で繋がる頼盛を助けたという事だったのかも。(母では繋がらない義経は切り易かった?)


takahiroさまの書き込みでわたくし自身が考えたこともなかった面から池の禅尼を考え頼朝を考えました。


でも本当のところは分かりません。
北条時政は曽我兄弟を利用して頼朝を暗殺しようとしたという黒い噂もありますから
人の心の中などさっぱり分かりません。
現代の職場でも親切顔して裏切る人がいますから想像はしますが。


takahiroさまの書き込みから池の禅尼の存在の重さをヒシヒシと感じます。
池の禅尼と頼朝の母のつながりが解けましたら非常に面白くなります。

残念ながら当人達の証言でなく回りの話だけしか伝わってませんから
盲が象を触ったような話しかありません。
そこを膨大な資料から解明なさろうとしていらしゃいますtakahiroさま。


時政の残酷な平孫狩りに頼朝は(そこまでやれとは望んでなかったぞよ)と苦笑いしたかも。
または政子が「1人も許すな」と父にハッパをかけて命じたのかも。


いろいろ想像するのは現代人の楽しみでもありますが
平孫狩りをされた御子孫には想いはまた別。
御自分の中の血の叫びですものね。

そのエネルギーがやっぱり当事者と外野の違いなんだと思います。
[42]takahiroさんからのコメント(2005年06月12日 00時41分18秒 ) パスワード

工藤様

 温かいお言葉、かえすがえす誠に有難うございます。

 ただ、私に関しては、(先から述べていますように)また公私ともどもに余裕ができましたなら、再び論考に参加させていただきたく思います。


 伊東家の視点から見た小松家、或いは頼盛家に関する論考、大変興味深いです。よろしければ新たなスレッドを設けられ、研究内容を「平家物語を熱く語る」読者の皆様へ御披露下さい。

(あるいは引続きこのスレッドをお使い下さい。布袋竹様、現在お忙しのか…、また御投稿いただけると思いますので。)

(私も機会をみてロムしております。)
[43]布袋竹さんからのコメント(2005年06月12日 09時20分57秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

ちらっちらっと、拝見は しております。
先月末に上京して、廃止になる川崎航路のフェリーで東京の釣り友と宮崎に戻り、その後薩摩の案内人で、彼のガイドお守・昨日まで屋久島に出かけておりました。釣りだけ人間なので船と釣り、ほかの事には全く興味が無い人間のお守で、平家伝説地も縄文杉も見向きもされず、勿体無い旅をしております。来週はトカラの予定ですが、出かけられれば彼と別行動を取りたいものですが・・

それよりもいてもたってもいられない気分で・と言うのも、あの木下家に刀があるような話が・・
「山川文学」に谷迫氏が取材書かれた、代々伝わってきた平家伝来の宝刀の米軍武器接収による喪失
それなのか、あるいは別のもの・たぶん、江戸時代頃のただの刀「木下家は名頭・士族」
我が家も何十本も提出したけれど、マキ割りに使用していた脇差「小刀」やかろうじて
原型をとどめている錆びたそれは数本残っています。

木下家に800年から伝わってきたものは、はっきり本家から無くなったとのことですが
「抜き丸」とか「小烏丸」あるいは頼朝拝領の刀だったらと考えると、返す返すも残念ですが
両刃の剣やあるいは太刀で銘入りなら・・と
気難しい長老のようで、なかなかチャンスがありません。
[46]布袋竹さんからのコメント(2005年06月21日 21時33分12秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

工藤さま
政治哲学から見た源平・幕末の動乱など
別の見方も、なるほど・いろいろあるのですね。
おおいに参考になります。ありがとうございます。

takahiro様は、話が行き詰まっているのではなく、
公私とも、また大変お忙しくなったようです。
まだまだ、たくさんの話があるのですが、プライベイトに深く関る話や、
「添え文、系図は大切に隠匿して、他人には見せてはならない・平氏の
 流れを満世にくむ子孫である」等の添え文などから、いろいろ考えて
いらっしゃるのもあるかと推測します。

このスレッドは、実は私の持っている系図中心の話で、そのほかに、その兄弟の
系図も、偶然コピーですが、これも手にはいりました。
ほかに、同じ流れのある系図から、takahiro様が疑問に持たれていたのが
一、本名小松支流者可鑑系図
から、確証を掴んだのではないかと思われている訳です。
私はこの系図を持っていても、なにも見えてこなかったのですが
takahiro様はすぐにピンとこられた様です。

ただ、takahiro様も私も、何かに取りつかれたように、あるいは操り人形のように
小松家か平家の後押しがあるかのように、動かされたというか、色んな不思議があり
こんな結論にたどりついたような感じです。
もちろん、takahiro様は色んな資料を調べたり、文献を探したりして研究されていますが、
私は、ただオカルトチックに犬棒に当たっただけですが・・
[47]工藤さんからのコメント(2005年06月29日 18時40分27秒 ) パスワード

布袋竹さん、了解しました。
ここは「平家物語を熱く語る」というサイトですが、系図の話しが多いようですね。もちろん、自身のご先祖の事が気になるのはいいかと思われます。私事ですが、あまり、ご先祖を系図上でたどっても、自然ではない亡くなりかたをしていたりすることが多く、自分ではたどりたくなくなったなという気持ちも出てきています。もちろん、あくまで、先祖を弔うためであって、先祖の当時の因縁を持ち出してきてどおのという風にならぬよう、気をつけています。(源平合戦の話しも、先祖を弔うためのものです。)

訂正・北条氏の出自ですが、平氏かどうかは私は判断できないので、ここでは棚上げにしときます。


 先の話で、藤原通憲の思想的仮定をしましたが、これはあくまで「仮定」です。問題は、

「なぜ北条時政がしつように平氏落人討伐を行ったか」

ですが、これを考えていきましょう。次の鎌倉幕府の移り変わりを説明されてるサイトによると
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/bakufuorg/change1.html
鎌倉殿の壇ノ浦後の組織として、平氏落人討伐のために総追捕使(そうついぶし)を官組織として置いたのだが、追討は表向きのことで実際には朝廷や西国に対する影響力を持つために作られた仕組みというのが妥当かと考えられます。したがって、時政がしつように行ったのも、治世のための官組織に基づく幕府の影響力拡大が裏の顔として出てくるように考えてます。

あと個人的に思うのですが、当時の北条時政にしろ政子にしろ鎌倉御家人たちにしろ、領民のための長である政治家だから、個人的な恨みやエゴによる治世というよりも、多数の領民のために、残酷な処置に到ったと考える方法も持っています。これは私が近いからと考えられるかもしれませんが、この領民の為というペースを持っていないと、単なるエゴで政治を動かす「犯罪者?」に近い人物でしかなくなってしまいますからね。当時は社会的インフラ・法律という基盤が貧弱な中で政治を行っていかねばならないという、強い切迫観念が残酷なほうへ向かったものかとも考えられます。
[49]工藤さんからのコメント(2005年07月25日 15時09分42秒 ) パスワード

 北条時政についてなのですが、時政と伊東祐親の娘との間に、北条政子が出てくるという記述を前、申しました。しかし、政子のほかにも姉妹がいて、北条時政と伊東祐親の娘の四女は畠山重忠の室となり、嫡子・畠山重保および、後に薩摩・島津初代の室となり島津家二代を生む娘ができる。つまり、薩摩・島津家にとっては、北条時政は傍系の祖と言う事になるわけでしょうか。
 
 結構、九州の近い所に北条時政の子孫がいたりするわけでしょうか。


畠山重忠の説明サイトがありました。なかなかのサイトです。
http://www3.plala.or.jp/KakuhouARC/69jinnbutsu.htm

系図(うまく載るか、うまく載らなかったら失礼)

 北条時政
    |ーーー北条政子 
伊東祐親娘 |
        ー四女
         |ーーー重保
      畠山重忠 | 
            ー女
             |ーー島津家二代ーー・・・
          島津忠久
[50]工藤さんからのコメント(2005年07月25日 17時57分35秒 ) パスワード

次に、下村家祖の日向下向についてですが、下村系図にあるという

○仲盛の子、若狭守盛為

『平家相傳守刀並法華経所持也・・・

において、相傳守刀ともう一つ、「法華経」を所持することに対して何か疑問に思った事はございませんか。何ゆえに、数ある宗派の中から「法華経」なのかと。

 法華経すなわち、日蓮に関する宗派ですが、私のところの祖、つまり工藤祐経の孫あたりに、鎌倉方で「日昭」という人が出てきて、実はこの人は日蓮上人の数人の弟子の中の一人らしいのです。もちろん、日蓮上人自体、伊豆関係で非常に私のところの祖にあたる人物と関係してくるらしいのですが、その辺の関係にも興味があります。失礼、私自身は今は、その宗派ではありません。また何かありましたら、投稿して、お知らせします。
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年07月25日 20時51分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

工藤さんへ
 
伊知地氏、宮之原氏も畠山重忠の後裔ですから、北条時政はこれらの薩摩平氏祖の外祖父でもある。
また平信基は北条時政の養子となり、種子島に下向して種子島氏の祖になったと伝えられている。
島津氏に従った坂東平氏の薩隅日へ入部は多く、特に秩父氏系(畠山氏、渋谷氏)が目立ち、渋谷氏の後裔では、東郷氏(末裔に東郷平八郎元帥)、入来院氏、祁答院氏などがある。
実は初期鎌倉幕府の最有力者は比企氏で、外戚は北条氏のみならず多くの鎌倉御家人と閨閥を形成しましたが、やがて北条氏と対立して源家三代滅亡の因にも影響している。
比企氏閨閥の詳細は http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231.htm#002 を参照のこと。

厳島神社への平家納経は、法華経28巻並開結、阿弥陀経、般若心経と願文の計33巻で願文には平清盛が署名している。
鎌倉新仏教興隆以前の平家納経に宗派色は薄く、従って旧慣に沿ったものと思われる。
日蓮伊東流罪時に関係のあった工藤左近尉吉隆が貴家の祖かな?
[53]工藤さんからのコメント(2005年07月27日 08時08分57秒 ) パスワード

日向薩摩・伊東氏はその後、十六世紀・戦国時代にイエズス会の耶蘇教に帰依するため、法華経を棄教するようです。実は、私のところもそのようです。伊豆・鎌倉から九州へ渡るのはどうやら、元寇によるものと考えています。
[54]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年07月27日 09時41分44秒 ) パスワード

東条英機


盛岡藩士東条英俊(祖父)ー→陸軍中将東条英教(父)ー→東条英機(子)

盛岡藩の記録を見れば分かるでしょうね。
[55]工藤さんからのコメント(2005年07月31日 08時40分29秒 ) パスワード

ちょっと考えてみましたが、まだ近代において国内外にわたる犠牲者が多かったせいか、その人の出自は調べないほうのが、もしくは、ここには載せないほうのがいいのかもしれませんね。神社問題ですら現在アクティブですしね。遠縁とされるかたが逆に迷惑を被るということも有り得るかもしれません。私が言及し始めたにもかかわらず、すみませんが、彼についてはこのへんでやめておきましょうか。
[56]takahiroさんからのコメント(2005年08月09日 00時50分26秒 ) パスワード

久しぶりに自身の立てた当スレッドを前項[55]まで読み進めました。

>藤原南家にこだわってるのは私のところの系図にあるからです、すいません。

工藤様、私は思うのですが一度工藤様御自身で「藤原南家」に関するスレッドを新たに独立して立てられては如何でしょうか。

私が平頼盛についてまた小松家について衝動として書きたいことがあるのと同じく、工藤様にも「藤原南家」について衝動として書きたいことがおありなのではないでしょうか。

「比企一族」のスレッドへの工藤様の投稿もお読みしましたが、「藤原南家」に関わりの深い北条時政、政子についても工藤様は衝動として書きたいことがおありなのではないでしょうか。

是非御自身で「藤原南家と北条氏」に関するスレッドを新たに独立して立てられては如何でしょう。

(元々は私が、よろしければこのスレッドをお使い下さいとは記しましたが、私もまた復帰しましたら、当スレッドにおいて引続き、小松重盛家と池頼盛家について論考を進めたいと考えていますので。)
[57]工藤さんからのコメント(2005年08月09日 07時57分06秒 ) パスワード

 takahiroさん、新しいスレッドの件、わかりました。すいません、余計な話しだったようで、大変申し訳ありません。
 ただ、落人の件について、どうしても言いたい事があります。他のかたもそうですが、自分のところだけを見ないで多角的にというか、いろんな人とのつながりの中で、自分のところを見ていかねばならない。これは系図だけではなく、たとえば、当時のシチュエーション等です。しかし、なんとか系図だけを調べたいという気持ちもよくわかります。とにかくすみません、こういうことです。

[58]takahiroさんからのコメント(2005年08月09日 08時48分06秒 ) パスワード

工藤様

>落人の件について、どうしても言いたい事があります。他のかたもそうですが、自分のところだけを見ないで多角的にというか、いろんな人とのつながりの中で、自分のところを見ていかねばならない。これは系図だけではなく、たとえば、当時のシチュエーション等です。

工藤様の仰りたいこと判ります。

ただ「平家物語を熱く語る」に参加されている方達は皆、工藤様以上にそのことは判っておられると思います。

判った上で、なお、自身の魂について感じる事を、ここで発表し合っているのだと思います。
[59]takahiroさんからのコメント(2005年08月09日 09時39分20秒 ) パスワード

工藤様2

>余計な話し

工藤様の投稿を余計な話とは感じません。是非とも御自身の主旨に沿ったスレッドを立てられ、「藤原南家と北条氏」についての論考をお聞かせ下さい。


以下、蛇足かもしれませんが、

私がこのスレッドを立てた最も奥底の主旨は、池家、小松家は、善勝寺流藤原氏家、そして中山家(藤原忠親流)と深く繋がっており、それらの関係を見ていく事で、「平家」全体に何らかの新しい光をあてれないかということです。決して800年前の源平の闘争の因縁云々を今にひきずりここで何かを主張しようとしているのではありません。埋もれていて未だ光のあてられていない事柄に光をあてていきたいとの思いのみです。


「古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏」というスレッドがあり、既にNO.5に入っていますが、私が感じるにこの長大なスレッドで語られている事柄とは、秦氏の(もう一つの)正体についての探究です。秦氏の正体を探究することとは、即ち平氏の正体を解き明かす事とも密接に関連してきていると私は感じます。また藤原氏の正体を解き明かす事とも。まさにこのスレッドこそが、「埋もれていて未だ光のあてられていない事柄に光をあてていこうとしている」スレッドだと私は感じます。決して秦氏を礼讃しているスレッドではありません。


それぞれのスレッドには立てられた主旨があり、その主旨を理解し、その主旨に沿って発言参加していくことが、こういった掲示板の基本的なルールではないでしょうか。
[60]工藤さんからのコメント(2005年08月09日 13時52分25秒 ) パスワード

 私は、すみませんが、もうこれで投稿はやめることにしました。新しいスレッドを立てる件についても、これは前、たかひろさんに言われて考えていたんですが、落人関係のがたがたに逆に迷惑になるだろうと思い、立てずにいたわけです。他にもここの小松家関係のことで伝えられる情報があるのですが、そちらの御気持ちを考え、伝えるのをやめています。おまりいい情報ではない訳です。それ故、自身の家のことに限らず、「多角的に」と申した訳です。御自身の家に対する思いを考えると、こちらも直に言えない訳です。

お元気で、さようなら。
[61]takahiroさんからのコメント(2005年08月10日 12時04分21秒 ) パスワード

工藤様

 あまり書くと無理強いしているようにも感じて来ましたので、これで最後にしますが、難しく考えずに、純粋に「藤原南家と北条氏」に関する事柄を書かれればよいのではないでしょうか。

 その中で、このことは○○家に配慮せねばならないと御自身感じられる事は、常識の範囲内で自己規制されて、「藤原南家と北条氏」について純粋に書きたい事を書かれればと思います。
[62]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月10日 12時57分00秒 ) パスワード

takahiroさま

takahiroさまは流石!雅な世界の貴公子でいらっしゃいますのねえ。

takahiroさまのレスを拝見しておりますと
貴族社会とはこういう雰囲気だったのかしらと
憧れてしまいます。

御所を舞台の高貴な方達のオーラの世界にいらっしゃいますと
精神世界の高さがtakahiroさまを通して拝見できるように感じられて
羨ましうございます。


もう15年ぐらい前でしたか
徳川家達公の一族の女性が不躾な質問者の
「敷地は何万坪だったんですか?」
の下品な質問に困っていらっしゃった表情を思い出しました。


某家の姫君が「お言葉の乱れた方との御同席はイヤよ」とおっしゃった時に
某雄藩の姫君が「あら、わたくしのこと?では御遠慮させて頂きますわ」とおっしゃって
その場にいた人達は(わたくしのこと?)と皆さんお思いになったそうで
某雄藩の姫君にとても感謝した事件がございました。
(彼女は千利休400回忌に御招待されて出席なさいました)


彼女達はヨソの御家の悪口は絶対に口になさらない。
それは天に唾する行為ですものとおっしゃいます。
回り回って皆様御親戚でいらっしゃいますものね。


takahiroさまのレスを拝見していますとヨソの御家にも敬意を払っていらっしゃいます。
ヨソの御家もどこでどう御自分の御家と繋がってるか分かりませんものね。

見習いとうございます。
[64]さんからのコメント(2005年08月30日 20時31分01秒 ) パスワード

たかひろさん、できるかぎり学術的な話ができるよう、下のサイトをはじめました。私自分、科学の者で、しかも、海外由来の学位のため、どこまで学術的に日本史を話せるかという問題もあるのですが、よかったらどうぞ。
http://6130.teacup.com/suketsune/bbs
御迷惑をおかけしました。
[65]takahiroさんからのコメント(2005年09月04日 00時03分04秒 ) パスワード

Kさんへ

 お知らせをありがとうございました。
 サイトを拝見しましたが、とても詳細に論考されていますね。
 今後とも楽しみにしております。

 また、Kさんのサイトへお邪魔する時があるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。
[66]takahiroさんからのコメント(2005年12月23日 01時05分06秒 ) パスワード

平経盛一族に関するスレッドより、関連しますので、以下、こちらにも貼付しておきます。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

<延慶本平家物語・三末・為木曽追悼軍兵向北国事>より

「四月十七日、木曾義仲を追討の為に官兵等北国へ発向して、次東国にせめ入て、兵衛佐頼朝を追討すべき由聞えけり、大将軍には権亮三位中将維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、三河守知度朝臣、但馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時朝臣、刑部大夫広盛、侍大将には越中前司盛俊、同子息越中判官盛綱、同次郎兵衛盛次、上総守忠清、同子息五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、飛騨守景家、同子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、受領検非違使、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人、大略数を尽す」

 上記・寿永二年四月十七日の記述において、追悼軍の将として『刑部大夫広盛』の名が見えます。

 次に、<四部合戦状本・平家物語・七・倶利伽羅落>より

「(寿永二年五月十三日)大将参河守知度、讃岐守経時(維時)、刑部大夫度盛(広盛)、以下、侍飛騨判官景高、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、靱負尉、兵衛尉、諸司、検非違使、有官輩百六十人、宗者共二千余人、倶利伽羅谷失」

 ここにおきまして刑部大夫度盛(広盛)は戦死者の一人として挙げられています。

 ここで「度盛」と見えるのは、「広盛・廣盛」の「廣」が「度」に訛伝しているようであり、倶利伽羅谷戦死者・刑部大夫度盛とは、刑部大夫広盛として捉え妥当であると思われます。

 また、源平盛衰記におきまして、倶利伽羅峠の戦死者として、平知度と平為盛の二名に関する記述がありますが、ここにおける本来の戦死者は、元は平知度と平廣盛の二名に関する戦死の記述であったのではないかとも推測されます。

 諸々の資料(当時の貴族の日記)によると、平為盛は倶利伽羅峠の戦の後にもその生存の事績が書き留められています。

○『愚管抄』寿永二年七月二十四日
○『山槐記』元暦元年九月十八日
○『吾妻鏡』建保六年六月二十一日、二十七日、七月五日

 (『山槐記』元暦元年九月十八日における除目においては、為盛は「従四位下」に叙されており、在京の貴族としての姿が記録に残されています。)

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 上記、平為盛の生存の可能性を示唆しましたが、この平頼盛子息・為盛は、平家滅亡後、父頼盛の遺領を用い、一門の残存者、潜伏者、とりわけ小松一族の残存者、潜伏者の救出の動きに関わったのではないか、との推論を持ちますが、今後機会があれば、その辺りを論考したいと考えます。

 しばらくはここで休止しておきます。
[67]takahiroさんからのコメント(2005年12月28日 18時08分46秒 ) パスワード

ギャンブラー様の大河ドラマ・コメント・スレッドにおいて、ドラマの話題から少し横道に逸れるような書込みになってしまっていました。こちらに補述しておきます。

>あの世界のお名前の読み方はまるで謎々なのですが「言仁」で「ときひと」とお読みするのですか。

私も安徳帝の諱のほかでは、「言」を「とき」として訓ずる用法は見たことがありません。

平家全盛期前後の天皇の諱を少し挙げておきます。

第73代 掘河天皇:善仁(たるひと)
第74代 鳥羽天皇:宗仁(むねひと)
第75代 崇徳天皇:顕仁(あきひと)
第76代 近衛天皇:体仁(なりひと)
第77代 後白河天皇:雅仁(まさひと)
第78代 二条天皇:守仁(もりひと)
第79代 六条天皇:順仁(のぶひと)
第80代 高倉天皇:憲仁(のりひと)
第81代 安徳天皇:言仁(ときひと)
第82代 後鳥羽天皇:尊成(たかひら)
[68]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月29日 00時54分31秒 ) パスワード

5勝4敗1引き分けでした(恥)
善が「たる」だの順が「のぶ」だの成が「ひら」だのも見当もつきませんでした。

X 第73代 掘河天皇:善仁(たるひと)   
○ 第74代 鳥羽天皇:宗仁(むねひと)
○ 第75代 崇徳天皇:顕仁(あきひと)
△ 第76代 近衛天皇:体仁(なりひと)
○ 第77代 後白河天皇:雅仁(まさひと)
○ 第78代 二条天皇:守仁(もりひと)
X 第79代 六条天皇:順仁(のぶひと)
○ 第80代 高倉天皇:憲仁(のりひと)
X 第81代 安徳天皇:言仁(ときひと)
X 第82代 後鳥羽天皇:尊成(たかひら)
[69]takahiroさんからのコメント(2005年12月29日 01時12分07秒 ) パスワード

私も初見の時は上記ギャンブラー様とまったく同じ成績でした。

更に補述として、北白河院藤原陳子を通し平頼盛の血を引く2代の天皇の諱も挙げておきます。やはり私は両諱とも初見では読めませんでした。

第86代 後掘河天皇:茂仁(ゆたひと)
第87代 四条天皇 :秀仁(みつひと)
[70]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月29日 03時16分29秒 ) パスワード

第86代 後掘河天皇:茂仁(ゆたひと)
第87代 四条天皇 :秀仁(みつひと)


なるほど・・・

茂=ゆた ←ゆたかに茂るイメージからでしょうね。
秀=みつ ←完璧に満たしているイメージからかしら?思い浮かびません。


天皇家や貴族の世界のお名前は文章博士が万巻の書から捜してきて解釈して付けますから
凝りに凝り、捻りに捻っているのでしょうね。

博識ぶりのお披露目時ですものね。
そう易々と読まれてたまるか、そういうプライドもあるでしょうし。

それだけ名前の漢字に願いや威力や魔法や期待や権威などが込められているのでしょうね。
[71]現代平家さんからのコメント(2011年10月27日 16時07分00秒 ) パスワード

takahiro様

 平家落人伝説の内、平維盛が紀州に潜伏し、その子孫が小松氏・色川氏とし

て、紀州を中心に繁栄したという伝承はかなり有名ですが、維盛子孫一族の内

、一部の者が信州諏訪に移住しているということも一般に言われております。

このことについて研究し、「信州小松氏の物語」という本を出版している方も

いらっしゃいます。

 なぜ、維盛子孫一族が諏訪に移住したのかということについて、以前から疑

問をもっておりました。しかし、takahiro様のコメントを読んで、ある程度、

その疑問が解けてきたような気がいたします。

 takahiro様のコメントを引用させていただきますと、「信州諏訪の地とは、

頼盛個人というより、<広義の平氏>一族と同系統の由縁ある地であると推測

され」「この平頼盛子息・為盛は、平家滅亡後、父頼盛の遺領を用い、一門の

残存者、潜伏者、とりわけ小松一族の残存者、潜伏者の救出の動きに関わった

のではないか、との推論を持ちます」と推理されていらっしゃいますが、この

ような、takahiro様の推論は私にとって大変参考になりました。紀州と諏訪を

結ぶ線が、はっきりと浮かび上がってきた感じがいたします。

 現在、「小松一族」が諏訪地方を中心に信州に広がっている理由が、ある程

度はっきりしてきたという感じがいたします。takahiro様の研究結果に感謝い

たします。今後もまた、紀州から信州への「小松一族」の広がりについて、新

たな研究成果がわかりましたときには、ぜひ、また御教示をお願いしたいと思

います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
[72]takahiroさんからのコメント(2011年11月01日 22時59分40秒 ) パスワード

現代平家様

温かいお言葉を有難うございます。

「信州小松氏の物語」について、私も一度読んでみたいと思います。諏訪地方を中心に信州に広がる「小松一族」について、強い興味を持ちます。

こちらこそ、今後とも御教示をお願い致します。

引き続き池家と小松家について投稿をしていきたいと思います。宜しくお願い致します。
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