[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月14日 05時06分15秒 ) | パスワード |
平家滅亡後も頑張った平信兼ほどの人物。
どこの家老でどなたの乳母の夫だったのか?
長い間非常に疑問でした。
上記の書き込みから池の大納言家の家老または重臣の1人であったのでは?と思いました。
田中愛造さま
ありがとうございました。
ぺこり
[2] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月14日 12時06分59秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
川合一族というキーワードが出てきたので一言。
三国地志によれば、
「天文年中、江州佐々木の家臣安房守実之といふ者、河合へ来往し、河合氏を称す」とありますから、平信兼が川合郷に居住して末裔が川合を称するという記述とは異なる。川と河の漢字表記の異なりもある。
近江国蒲生郡に河合邑があり、甲賀郡を挟み伊賀に近接している点もある。
更に伊勢国奄芸郡河合御園も近接している。
地形類似による偶然性かも知れないが、ことによると古代の河合君や川合宿禰の後裔の同族で地名遷移の可能性も考えられる。
平信兼については同名人物に貞季流の左衛門尉信兼があり、山木兼隆の父にあたる。
通称関信兼で子の兼隆とは対立関係にあり、源氏方についたとの話がある。
また清盛裔とされている後世の伊勢関氏は、信兼の後裔ではないかの説が存在する。
[3] | マックの母さんからのコメント(2005年05月14日 23時46分06秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん みなさん こんばんは。
田中さんの書込みを見て疑問に思うこと。
「阿拝郡河合荘に平頼盛の従士平信兼」部分。
平頼盛の家人で阿拝郡河合荘を本拠地とするのは平宗清。
平信兼は、頼盛の家人じゃないです。
平信兼については研究が進んでいます。
[4] | takahiroさんからのコメント(2005年05月15日 08時37分10秒 ) | パスワード |
興味深い情報をありがとうございます。
>近藤安太郎氏の系図研究
これは、『系図研究の基礎知識』(全4巻) のことでしょうか、近くの図書館に所蔵されていたと思いますので、一度当たってみたいとおもいます。
>平信兼については同名人物に貞季流の左衛門尉信兼があり、山木兼隆の父にあたる。
これは、「平信兼」とは同姓同名の人物が同時代に2人存在したということでしょうか。
基本的な所を私は未だ把握できていないのですが、私が知っていたのは、平兼隆(山木判官)の父にあたる「平信兼」ですが、彼の地盤は鈴鹿郡のみならず、壱岐郡にも所在したとのこと(この辺りは地理の感覚があまり判らないのですが)、この「壱岐郡」に、頼盛関係から現在興味を惹かれており、少し調べてみたいと思いっていました。
[5] | アカコッコさんからのコメント(2005年05月15日 09時07分05秒 ) | パスワード |
>平信兼は、頼盛の家人じゃないです。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/tosho/shiryo/yoritomo.html
上記URLは東京大學資料編纂所のHPです。これには左衛門尉信兼とあります。
これには参考までに。
[6] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月15日 11時44分49秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
takahiroさんへ
>これは、「平信兼」とは同姓同名の人物が同時代に2人存在したということでしょうか。
川合郷に居住した信兼が左衛門尉信兼と同一人物かはわかりませんが平氏一門には同名別人の事例も良くあり、近藤安太郎氏の記述が正しいならば2人存在した可能性もある。
参考までに左衛門尉信兼の受領歴
仁安2年(1167)12月30日 河内守
承安2年(1172) 和泉守
治承4年(1180) 1月28日 出羽守
寿永2年(1183) 和泉守
元暦元年(1184) 7月19日 (被伐)
これ以降の行方はどうなったのかな? そこが分れば疑問は解消するのだが。
川合郷、柘植郷は玉滝庄に含まれ、柘植郷の方は宗清、家清の後裔柘植氏。
信兼が同一人物とすれば、川合郷へは仁安2年以前に居住した可能性が大きい。
[7] | マックの母さんからのコメント(2005年05月15日 12時55分00秒 ) | パスワード |
takahiroさんさん みなさん こんにちは。
最初の暇潰しのギャンブラーさんのコメントを読んで、誰のこと話しているんだろう?と思い、過去ログをざっとみました。
暇潰しのギャンブラーさんが言っている信兼は過去に幾度も話題にのぼった信兼のことだと思うので、日本の苗字七千傑さんが同名人物としてあげている左衛門尉信兼と同一人物です。
アカコッコさんがあげてくださった左衛門尉信兼も、もちろん山木兼隆の父の信兼。
近藤安太郎『系図研究の基礎知識』第1巻には、
「阿拝郡河合荘に平頼盛の従士平信兼の子孫が土着して川合氏を称し」
と確かに記されています。
2番に書き込みされている日本の苗字七千傑さんのコメントを読み、『姓氏家系大辞典』を見ると、一説として信兼が阿拝郡河合郷に居住していたことを読みました。『姓氏家系大辞典』には、頼盛との関係は載っていません。
わたしが言いたかったのは、平頼盛と平信兼の関係について。
平信兼が頼盛の家人であった資料的根拠があるならば、もっと早くから知られているはずということ。
近藤安太郎氏の単純な間違ではと思いました。
信兼が頼盛の家人でないというのは、川合康『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書店)をお読みくださいませ。
この本には、平氏家人についての先行研究などが注にたくさん載っていますし参考になりますよ。
高橋昌明『清盛以前』も増補改訂されてパワーアップしています。
では出かけますので取り急ぎ。。
[8] | takahiroさんからのコメント(2005年05月15日 16時46分50秒 ) | パスワード |
皆様へ
御教示有難うございます。
また、川合康氏著『鎌倉幕府成立史の研究』および、高橋昌明氏著『清盛以前』の御紹介有難うございます。(『清盛以前』は入手していますが、内容が濃く未だ精読し切れておりません。)
平家家人の考察につきましては、西村隆氏著「平氏家人表─平氏家人研究への基礎作業─」『日本史論叢第10輯』(1985年)をいつも重宝しています。今、出先で手元にないですので、戻りましたら平信兼について見てみたいと思います。
余談ですが、最近読んだ中では、元木泰雄氏著『平清盛の闘い・幻の中世国家』(角川書店・2001年)の清新な論考、非常に勉強になりました。
[9] | マックの母さんからのコメント(2005年05月15日 23時21分41秒 ) | パスワード |
takahiroさん みなさん こんばんは♪
義経を見終わってパソコンに向かっています。
西村隆「平氏家人表─平氏家人研究への基礎作業─」
これを持っていらっしゃるなら話が早い。
わたしは『平家物語』が大好きで、『平家物語』の勉強を続けています。
わたしにとっても、この論文は、その時代の史料を読む時の必需品。
西村氏も「家人表内」で
「信兼も、「平氏一族」「平氏家人」とはいいながら、家貞や盛国などとは違って、清盛の勢力伸張によりの傘下には入ったものの清盛からはある程度独立した存在だったのではないかだろうか」
と推測されています。
『平清盛の闘い』、本当におもしろかったですね。
元木先生の清盛観にはびっくりしました。
最近NHKブックスから出た『保元・平治の乱を読みなおす』、わたしの中でヒット中です。
信頼と義朝の見方が変わりました。
[10] | takahiroさんからのコメント(2005年05月16日 17時22分20秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2005年05月16日 17時24分38秒
[11] | takahiroさんからのコメント(2005年05月16日 17時24分21秒 ) | パスワード |
マックの母さん
西村隆氏著「平氏家人表─平氏家人研究への基礎作業─」における『平信兼』に関する考察の紹介、有難うございます。
元木泰雄氏著『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス)は私も先日、入手しましたが、未だ表面を浅く読んだという段階ですが、それでもやはりその論考の清新さに感銘を受けました。
これまでの平氏研究により形作られている様々な像(イメージ)を一度白紙に戻し、再びゼロの視点から原史料・歴史的事象に当たられているというか、しかしその元木氏も「平清盛皇胤説」については、(元木氏独自の視点からではありますが)ほぼ完全に肯定されているのですね。
[14] | 玉瀧秀男さんからのコメント(2014年11月19日 14時47分45秒 ) | パスワード |
平信兼を検索中このサイトに出会いました、最近玉瀧姓を、姓氏家系大辞典(太田亮)で見ると、玉瀧姓は伊賀国玉瀧荘から起こり、平信兼の裔と有り、大変驚いています。玉瀧姓は今まで聞いたことが在りません、どこかにあるかも?教えて下さい、玉瀧姓に関する資料があれば、コメントください。
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