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 投稿番号:100762 投稿日:2005年03月19日 23時53分39秒  パスワード
 お名前:源太平太
源氏と平氏の嫡流の子孫

コメントの種類 :質問  パスワード

壇の浦で平氏が滅んだ後、源氏もまた三代で滅んでしまいました。
しかし清盛や頼朝の兄弟の嫡流の子孫はいると思うのですが、現在ではどのようになっているのでしょうか?

また頼朝は河内源氏で清和源氏の嫡流は摂津源氏と聞いたのですが、摂津源氏の嫡流はどこになるのでしょう。

同様に清盛も平氏のなかでは傍流だったそうですが平氏嫡流はどこになるのでしょうか?

質問が多くなってしまいましたが教えてください。

[1]多田さんからのコメント(2005年03月20日 01時55分01秒 ) パスワード

戦国時代の系図になりますが
摂津源氏の嫡流としては太田氏、大河内氏があります。

太田氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ota_k.html

大河内氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_kouti.html

河内源氏は頼朝の弟・範頼から出た吉見氏、吉良氏が存在。

吉見氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yosimi_k.html

吉良氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tos_kira.html

清盛の子孫として関氏、長崎氏、色川氏などがあります。

関氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/seki_k.html

長崎氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_naga.html

色川氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/irokawa.html

しかしながら信憑性はどうなんでしょうか。
[3]多田さんからのコメント(2005年03月20日 02時17分01秒 ) パスワード

源満仲の長男・頼光が摂津源氏の流れとなり、次男・頼信が河内源氏になりした。
義家や義朝、頼朝、義経などは河内源氏であり清和源氏の嫡流ではありませんが源氏の主流ではありました。

一方の摂津源氏は嫡流であり源頼政が有名です。

桓武平氏には高棟流と高望流があり、前者は公家に後者は武家として成長していきます。
嫡流は高棟流のようです。また高望の子孫は関東を本拠地として将門や貞盛を輩出しています。

しかし摂津源氏と河内源氏、高棟流と高望流は別々の家系と考えた方がよさそうなので、何処が嫡流なんでしょう?
[4]源太平太さんからのコメント(2005年03月20日 13時01分28秒 ) パスワード

摂津源氏が嫡流といわれていますが、源三位頼政以降はどこが嫡流となったのでしょうか。源平合戦の時には摂津源氏に源(多田)行綱と源(馬場)頼政がいたわけですし。

源氏嫡流
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%AB%A1%E6%B5%81
摂津源氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%BA%90%E6%B0%8F
源頼政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
多田源氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%BA%90%E6%B0%8F
多田行綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1

また摂津源氏と河内源氏を別物と考えると嫡流の子孫はそれぞれどこになるのでしょうか。
河内源氏の嫡流は足利に移ったとも言われていますがどうなのでしょうか。
[5]さんからのコメント(2005年03月20日 19時41分14秒 ) パスワード
URL=http://www.urban.ne.jp/home/sochan/

源太平太さん、こんばんわ

わたしはときどきこのHPを参考にしています。

http://page.freett.com/keizusoko/index.html

一応、『参考』までに(微笑)
[6]源太平太さんからのコメント(2005年03月20日 19時57分39秒 ) パスワード

創さんコメントありがとうございます。


摂津源氏の源頼政に仲政、広綱の兄弟があり仲政には子供が何人がいたのになぜ広綱を養子にする必要があったのでしょうか。広綱の子孫が後に太田氏になった訳ですが。

ちなみに源頼政は現在大河ドラマで丹波哲郎さんが演じていますよね。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004a.htm
[7]ねこさんからのコメント(2005年04月05日 17時23分32秒 ) パスワード

将軍が三代で滅んだ後、河内源氏の嫡流は範頼の子孫の吉見氏になるのでしょうか?
それとも足利氏ですか
[8]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月06日 01時30分54秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ねこさんへ
 
為義流の嫡流は源実朝で途絶えたので清和源氏嫡流は断絶している。
厳密には源頼家の娘竹御所が九条頼経に嫁いで、九条頼経は鎌倉4代将軍となり藤原摂関家が清和源氏嫡流の名跡を継いだ形になっているが、4代および5代の摂家将軍の源氏改姓は見送られている。
以降は源氏長者に就任する家が、広義には清和源氏嫡流と認識されている。
すなわち源義家流の流れを汲む義康流足利氏、義重流徳川氏である。
[9]ねこさんからのコメント(2005年04月06日 16時25分15秒 ) パスワード

では、義朝の子孫の嫡流ということでいえば吉見氏になるんですか?

それとも土佐吉良氏でしょうか。

吉良一族http://www.yoshimi-rekishi.or.tv/index.htm
[10]ねこさんからのコメント(2005年04月06日 16時26分33秒 ) パスワード

↑失礼。
吉見一族です。
[11]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月06日 23時37分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ねこさんへ
 
原則的に嫡流とは嫡妻の長男の流れで、長男の家系が絶えれば嫡妻の次男以下に嫡流が移ります。
源義朝には多くの子が存在しますが、嫡妻である熱田大宮司季範娘の男子は頼朝、義門、希義の三人、女子は一条能保室の一人に限られます。
範頼や義経などは庶子ですから、原則的には嫡流を嗣ぐ資格はありません。
ここに義経の悲劇の遠因があったわけです。
頼朝の落胤といわれる島津氏も正妻の子ではありませんから嫡流にはなりません。
希義の子隆盛は気良氏を称して、後裔は土佐吉良氏となりましたから嫡流と言えないこともないですね。
[12]アマチュア無線さんからのコメント(2005年04月08日 12時08分51秒 ) パスワード

はじめましてこんにちは。
平家の子孫について調べていたら、ここに来ました。

平清盛の信用できる子孫の方々っておられるのでしょうか。

織田信長は捏造説が有名ですよね。

先月、バリバリバリューを見ていたら、清盛の孫の子孫と称する方々がでていましたが、重盛の六男忠実が祖と系図にのっていました。

しかしいくら系図を調べても忠実なる人物は確認できず、六男は忠房という人物になっていました。

本当に信用できる清盛の子孫はいるのでしょうか。教えてください。
[13]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月08日 23時11分29秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

アマチュア無線さんへ

公式には寿永4(1185)年3月24日に壇ノ浦で平家一門は入水して清盛の子孫は断絶したことになっている。
しかし鎌倉に護送されたのは宗盛と六代などで、他の平家一門の多くが死去した物理的証拠を欠き平家落人伝説を生んでいる。
逃避するためには海路を行くか峻険な山岳地帯を行くことになるが、逃避ルートに強力な支援集団の存在が不可欠で、広域な氏族集団のネットワークを持つ伴氏、斎部氏、惟宗氏(秦氏)などが考えられる。
バリバリバリューの事例は、現当主が栗山の地名性ではなく伴姓を名乗っていることから何とも言えないが、忠実は公刊系図に記載が無い。
信長の平姓を否定するのが史学界の定説だが、織田氏は斎部姓であると同時に平姓であると考えるのが柔軟な思考法である。
例えば信濃の仁科氏は元来は大伴姓だが、養子を迎える毎に清和源氏頼季流、桓武平氏繁盛流、桓武平氏清盛流、清和源氏義光流と変遷している。

この考え方は http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#030 を参照。

姓氏学の泰斗である太田亮博士も片っ端から旧説を否定されていたが、晩年は旧説も許容する柔軟な思考法に変化されている。
従って清盛の子孫は多く、織田氏、長崎氏、関氏、宗氏、禰寝氏、種子島氏など。
[14]アマチュア無線さんからのコメント(2005年04月09日 11時34分58秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんへ

お返事ありがとうございます。
日本の苗字七千傑さんはHPを運営されている方だったんですね。
私も度々使用させていただいてます。

しかし、信用性という観点からいくと織田氏や宗氏はちょっと欠けますよね。
「公式」にはすべて断絶したことになった訳ですか。
清盛の弟の頼盛は頼朝に助命されてますが子孫はどうなったのでしょう?

あと1999年に平氏と源氏の和睦会なるものがありましたが、
それぞれの参加者の詳細をご存知ありませんか?
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月09日 19時01分51秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

アマチュア無線さんへ
 
異母弟の頼盛は清盛系とはそりが合わず、平家西奔には従っていないし頼朝に助命するどころか厚遇されている。
従って忠盛の後裔で、公式に断絶していない数少ない家系である。
詳細は「日本の苗字七千傑」姓氏類別大観 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm  平氏頼盛流を参照下さい。
[16]布袋竹さんからのコメント(2005年04月09日 21時30分56秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

アマチュア無線さんへ

日本の苗字七千傑さんのページにあるように
鹿児島には、この頼盛の末裔がたくさん現存しています。
上記13のスレッドの種子島家・禰寝家のほか、私が手に入れた系図、友人の系図
それらに、桓武天皇が一番に書かれ、平家物語で名の知れた色んな人のあと、頼盛からの
現在近くまで・あるいは江戸末までの流れが書かれています。
頼盛の孫の代で、兄弟が南九州に平家相伝の守刀や法華経を所持し下向して、
その一部が最近まで伝わった家もあるようです。

この頼盛流れは、この平熱の色んなスレッドにも、書かれて
takahiroさんの研究分野です。takahiroさん、おいでにならないかしら・・
検索すれば、いくつか出てくるはずです。

平頼盛次男・平為盛覚書き+頼盛流末裔
頼盛の子孫は如何に行き抜いたか?

他にも
たくさん出ています。
[17]源太平太さんからのコメント(2005年04月10日 11時58分07秒 ) パスワード

摂津源氏の源頼政の嫡流は仲綱、有綱の死後、広綱が継ぎ、太田氏を称しましたがこの太田氏が頼綱流の嫡流と考えられていますよね。

太田氏といえば太田道灌がでてきますが、戦国時代の太田氏と頼綱流の太田氏とはつながるのでしょうか?

広綱は摂津国太田保に拠って太田氏を称したわけですが、関東にも太田という地名があるのでそこに拠って太田氏を称したとも言われます。
こうしてみると2つの太田氏は全く別の系統と見た方が自然な気がするのですがどうなんでしょう?

しかし多くの系図がつながるように書いてあります。

太田氏http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ota_k.html
[18]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月11日 21時59分29秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

源太平太さんへ
 
太田の地名や異流太田氏が多いことから文献が混乱錯綜しているのも事実である。
また多田氏は摂津国川辺郡多田院発祥で、多と太の音訓が似ていることから混同されている。
摂津国島下郡太田邑発祥の太田氏は清和源氏頼親流である。
 
初代広綱は播磨国揖保郡太田邑発祥との説もあるが、多田系図に丹州太田元祖とあり丹後国桑田郡太田邑に住したことは明らかである。
2代隆綱(丹後国桑田郡太田邑、丹後国船井郡五箇庄を賜う)。
3代国綱(丹後国桑田郡太田邑、丹後国船井郡五箇庄を賜う)。
4代資国(丹後国桑田郡太田邑→相模国) ※文永年中に移住。
5代資治(相模国)。
6代資兼(相模国)。
7代資房(相模国)。
8代資清(相模国。武蔵国足立郡与野郷、笹目郷を賜う)。
9代資長〔道灌〕(相模国。武蔵国足立郡与野郷、笹目郷)。
 
上杉氏の鎌倉幕府執事就任により丹波から相模への移住に太田氏が行動を共にしたことはごく自然な流れである。
扇谷上杉家の政務を補佐したことから相模国大住郡に住したと思われる。
 
「永享記」に武蔵国都筑郡太田郷地頭であるとの記載があるが、太田郷の所在が明らかでは無い。
また武蔵国幡羅郡太田に小野姓猪俣党太田氏、武蔵国埼玉郡太田庄に私市党太田氏が存在する。
おそらくこの辺が仮冒説のネタと思われる。
[19]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月11日 22時01分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

↑上記の丹後は丹波の誤り
[20]ねこさんからのコメント(2005年04月12日 17時11分44秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん回答ありがとうございました。

たびたびの質問ですが、

頼朝の弟希義についてです。

希義の子希望が吉良を名乗って戦国時代まで続きましたよね。
しかし断絶してしまいました。

そこで、1、土佐吉良氏には分流などはあって子孫はいるのでしょうか?
    2、希義の長男、隆盛の系統はどうなったか
    3、そもそも希望は存在したか

の3点について詳しく知りたいのでよろしくお願いします。
[21]アマチュア無線さんからのコメント(2005年04月12日 17時44分14秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん、布袋竹さんありがとうございます。

参考になりました。

>>頼盛の孫の代で、兄弟が南九州に平家相伝の守刀や法華経を所持し下向して、
その一部が最近まで伝わった家もあるようです。

この守刀とは頼盛が忠盛から相続した「抜丸」のことですか?
[22]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月12日 23時56分17秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ねこさんへ
 
希義の系については「日本の苗字七千傑」姓氏類別大観 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm 源氏為義流を参照下さい。
 
系図は諸本により異なり、土佐吉良系図では希望(吉良八郎)を隆盛の弟とするが、宣直までの代数がやや多いので疑問が残る。
恐らく隆盛−貞良−貞能(吉良八郎)……(系不詳)………宣経−宣直が正しいと思われるが、いずれにしても吉良八郎の後裔である。
土佐吉良氏は長宗我部元親に敗れ、永禄六年(1564)讃岐に落去、さらに伊予に移るとあり、必ずしも土佐吉良氏の末裔とは限らないが吉良姓は現在も高知県、愛媛県に多く、香川県にも少し分布する。
讃岐への落去後、吉良宣直の娘が長宗我部元親の弟親貞に嫁ぎ名跡を嗣ぎ吉良を称する。子の親実の代で断絶したが、この後裔と称する家も存在する様である。
文献には現れないが吉良姓が多いのはむしろ豊後地域で、海路により落去した一族の存在も考えられる。
支流の吉松氏は土佐藩士として系を伝えた様である。
 
土佐吉良氏の詳細は http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tos_kira.html を参照下さい。
[23]布袋竹さんからのコメント(2005年04月13日 01時21分43秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

アマチュア無線さんへ
三軒の家に伝わる系図には、平家相伝の守刀並法華経などと、
一部は言いまわしが違いますが、銘や詳細は書かれていませんので
抜丸かどうかは分かりません。また、刀は所持し下向した盛為から
3代までは、嫡男より次男三男に受け継がれていたようです。以後は嫡男に・
その刀は、800年近くも伝えられてきたのですが、太平洋戦争で、残念なことに・・本当に残念です。
[24]ねこさんからのコメント(2005年04月14日 00時04分03秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんありがとうございました。

調べてみると親貞の子孫で家串浦吉良家というのがあったみたいですね。

家串浦吉良家http://e-ainan.net/sonshi/shiseki/iekushi/kira/kira.htm

しかし土佐の吉松氏を調べると秦泉寺一族とありましたよ。

いづれにしても系図のはっきりしない一族ではありますね。

[25]源太平太さんからのコメント(2005年04月16日 17時26分35秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんありがとうございました。今回も質問があります。

木曾義仲についてなんですけど、

戦国時代、信濃に義仲の子孫と称する木曽氏がいましたがこれはかなり疑問視されていますよね。

そこで義仲には義高以外にも子供はいたのでしょうか。そしてはっきりと証拠のある子孫はいるのでしょうか?
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月16日 22時20分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

源太平太さんへ
 
木曽義仲の後裔については、「日本の苗字七千傑」氏族類別大観 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm 源氏為義流木曽氏を参照下さい。
義仲については尊卑分脈、東鑑、木曽系図など資料にはことかかないが、学者の妄説が出る背景には源義仲の生い立ちがある。
義仲が信濃の中原(木曽)兼遠に養われ木曽冠者を称したので、源姓は仮冒で中原姓あるいは金刺姓あるいは諏訪神家族なのではないかとの仮説を掲げている。
しかし、仮冒の根拠となる文書や系図も存在しないので仮説自身も疑わしい。
駄洒落的には義仲の仲が中に通じるところから信じるむきもあるのだろう。
しかし出自などというものは養子などにより変遷するのが世の常で、例えば信濃仁科氏は元来は大伴姓だが、養子を迎える毎に清和源氏頼季流、桓武平氏繁盛流、桓武平氏清盛流、清和源氏義光流と変遷している。
現代の仁科氏の末裔の多くは桓武平氏あるいは清和源氏を称するのが現実である。
この考え方は http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#030  を参照。
[27]アマチュア無線さんからのコメント(2005年04月30日 15時11分24秒 ) パスワード

布袋竹さん大変遅れましたがありがとうございました。

戦争の悲劇の一面ですね・・・。
[28]アマチュア無線さんからのコメント(2005年04月30日 15時27分44秒 ) パスワード

質問なのですが江戸時代に桓武平氏の嫡流と言えばどこの家を指したのでしょうか?また平氏にも氏長者なるものはあるのでしょうか?

私は源氏の嫡流というものが頼朝の子孫が絶えたあと足利氏に移ったと思うのですが、平氏でも清盛一門が滅びた後、嫡流なるものの移動はあったのでしょうか。

たぶん北条氏がこれに当たるのではないかと考えますが、北条氏もまた新田義貞らに滅ぼされています。

しかし足利氏は室町幕府が滅びたあとも、江戸時代を通じて源氏嫡流として存続しており家康も一目置く家柄であったと思いますが、北条氏の子孫は各地に散らばってはいるもののもはや平氏の嫡流とは見なされていなかったのだと思います。
変な質問かも知れませんが回答をよろしくお願いします。
[30]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月03日 12時02分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

元来は平氏支流に過ぎなかった清盛の家系が嫡流の様に認識されるのは、後白河天皇、時忠、清盛が義兄弟の関係にあり、清盛が高棟王流時信の実質的養子の位置に置かれ安徳天皇の外祖父になったからである。
詳細は「日本の苗字七千傑」姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
平氏高棟王流堂上平氏を参照。
平家壇ノ浦滅亡後は頼盛のみが平氏公卿となるが、ほどなく辞退して時忠の弟親宗が公卿に還任して名実ともに高棟王流が嫡流に復する。
北条氏は極官が正四位下左京権大夫であり、官位が平氏嫡流としては見劣りする。
室町期以降の氏長者は藤原氏、源氏に限られる。
江戸期の平氏嫡流は極官が正二位権大納言の西洞院家である。
[31]アマチュア無線さんからのコメント(2005年05月03日 16時24分13秒 ) パスワード

お返事ありがとうございます。

桓武平氏全体の嫡流という事になると西洞院家のようですね。
しかし同じ桓武平氏といえども高棟と高望は別々に平の姓を賜ったことから別の一族と見れるのではないでしょうか。高棟流の嫡流は西洞院だとして高望流の嫡流はどこになるのでしょうか?これ官位だけではないものがあると思います。
足利でも無官の阿波公方が嫡流であったと見る人も多くいますしね。

また北条氏は祖を平維将とし、血筋の上では伊勢平氏の祖である維衝の兄であったため嫡流であったと見なされる事もあります。しかし、北条時政以前の動向や系図ははっきりしない部分が多く、伊豆の豪族が系図を詐称したのではないかという説もあります。信憑性はどうなんでしょう?
 
以下は私の考えです。
維衝の孫である平直方の娘は源頼義の妻となり、義家を生んでいるのだから三浦氏のように源氏譜代の家臣になったり、もっと両家には密接な関係があっても良いはずです。
しかし当初、頼朝が伊豆に流されたとき北条氏は監視役とされているし、政子が頼朝の妻となるまでは両家の関係はほとんど無かったと思います。
それに北条は同じ伊豆の伊東氏と比べるとかなり小さな勢力でした。
それを考えると小豪族の北条氏が偶然、頼朝と縁談を結び幕府での権威を付ける為、平氏としたのではないかと考えます。

これに関しては日本の苗字七千傑さんの考えもお聞かせください。

1、高望流の嫡流はどこか
2、北条氏が平維衝の子孫とする信憑性

と今回もまた2つの質問をよろしくお願いします。
[32]アマチュア無線さんからのコメント(2005年05月03日 16時29分56秒 ) パスワード

↑失礼しました。
途中から維将と維衝を間違えて書き込んでいるようです。
[33]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月03日 18時26分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

残念ながら高望王の嫡流は平家壇ノ浦滅亡で公式には消滅。
蘇我氏や物部氏の嫡流が存在しないことと同じである。
無理矢理探せば、平姓を称した織田信長になるが?
また官位は政治上軽視出来ないので、家康も名目だけの三河守任官と源氏改姓奏請にこだわり、征夷大将軍に就任して源氏長者の地位を獲得している。

北条時政以前の系譜が尊卑分脈、桓武平氏系図、北条系図、熊谷系図などによりそれぞれ相違があることから学者の妄説が発生している。
しかし、各系図とも貞盛の子維将から出ていることは共通している。
単に養子、猶子の捉え方が系図により異なるだけなのである。
東鑑治承4年4月27日条に「爰上野介平直方朝臣五代孫、北条四郎時政」で明白。
時政の父時方が伊豆介で、母が伊豆掾伴為房の女、鶴岡八幡宮社家が伴善男末流であることから、伴氏一族を介して伊豆時代から頼朝と北条家を結びつけている。
結果論的には伊東氏が平家方につき、北条氏が源氏方についたことが勢力逆転の理由である。
[34]アマチュア無線さんからのコメント(2005年05月11日 17時59分32秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんお返事ありがとうございました。毎回ご丁寧に回答して頂き感謝しております。

しかし現在足利の嫡流といえば明治時代に華族となっていた喜連川氏ではなく華族になれなかった平島氏ですよね。まあ現代では嫡流という言葉が通じるかどうかわかりませんが。それでいくと足利義久さんが当主となるそうです。
また日本の苗字七千傑さんがおっしゃる、
東鑑治承4年4月27日条に「爰上野介平直方朝臣五代孫、北条四郎時政」というのは後世に楠木正成が橘朝臣とされたのと同じでやはり信憑性には欠けると私は思います。そもそも東鑑自体が鎌倉幕府の編纂したものですし。


今回も質問があるのですが、ちょっと源氏平氏からは離れてしまって申し訳ありませんが「橘氏」についてです。2つほど質問があります。
この橘氏は源平藤橘と呼ばれているように四姓の一つです。しかし源氏や藤原氏と比べるとさほど有名な人物も挙がってきません。なぜこの橘氏が四姓の一つとされたのですか?
2つ目はこの橘氏の嫡流とか当主と言われるような人は現在いるのですか?華族の一覧を調べても橘姓の人は見つかりませんでした。

あと追加の質問になってしまいますが、嵯峨源氏、宇多源氏の嫡流はどこの家なのかというのもご存知でしたらよろしくお願いします。
[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月11日 21時47分13秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

アマチュア無線さんへ

東鑑にも少なからず誤謬はあるが、多くの人は学者の妄説の方を盲信している。
邪馬台国珍論や陽成源氏幻想説と同様に学者の針小棒大な珍説が多いのである。
また出自や家系について勘違いをされている様なので「日本の苗字七千傑」Q&AのQ30をご参照のこと、四姓についてはQ19を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm

喜連川家は関東管領古河公方家で嫡流でないのは当然であるが、平島家も阿波公方を称し京都へ復帰はしたが、足利義昭の養子に成った形跡は無く嫡流は消滅。
橘氏の嫡流は戦国末の橘(薄)諸光で断絶、嵯峨源氏も平安時代に源(北辺)文で断絶、宇多源氏は佐々木野家が断絶したが事実上は旧伯爵庭田家が嫡流。
 
事例だが、九州菊池氏も嫡流は断絶、明治に庶流の米良家が名跡を継いで菊池に復姓。

アマチュア無線さんが嫡流にあまりにもこだわる理由が理解しかねるが、
嫡流は絶家のオンパレード、子孫については庶流を探した方が良いと思われる。
[36]相馬さんからのコメント(2005年05月12日 15時51分58秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年05月12日 15時52分40秒
[37]相馬さんからのコメント(2005年05月12日 15時54分51秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんへ

妄説を妄信しているというのは言いすぎではないでしょうか。
むしろあなたが頼朝らの先祖が陽成天皇につながらなく
北条氏が平直方の子孫とする方が妄信しているのではと思います。
織田信長が清盛の子孫、徳川家康が新田支流と信じるのはまさに妄信というべきでしょう。

私のような素人が言うまでもなくご存知だと思いますが、源氏の祖を清和天皇としたら
清和天皇ー貞純親王ー経基王ー満仲ー・・・となります。

「尊卑分脈」によると貞純親王は916(延喜16)年に64歳で死んでいます。生まれたは852(仁寿2)年ってことになりますが、この時点で貞純親王の父である清和天皇は2歳です。2歳の天皇が子供を作れるとは思いません。「系図簒要」では貞純親王の誕生の時点で清和天皇は24歳となるので誤差だったかもしれません。
しかし経基王の孫にあたる源頼信が1046(永承元)年に石清水八幡宮に納めた願文に「先人は新発(満仲)、その先きは経基、その先きは元平親王、その先きは陽成天皇、その先きは清和天皇…」と書かれているのはどのように説明するのですか?

北条氏についてですが、血筋では平氏の嫡流とも言える北条氏がなぜ平安末期にあれほど小豪族に成り下がっていたのでしょう?それに時政以前の動向は全く分かっていませんよね。たまたま頼朝と縁組したことで勢力拡大できた北条氏が権威を上げるために平氏の系図に繋げたと言うのが妥当でしょう。
そもそも北条氏が牛耳っていた鎌倉幕府の編纂した東鑑の北条氏の出自を信じる時点で無意味でしょう。
これは後年の織田や徳川でも同じことが言えます。尾張の小さな領主が運良く桶狭間で今川を討ち、将軍を京から追い出した。それがなんと清盛の直系の子孫だったとはできすぎた話でしょう。
また徳川家康が本当に源氏であるならばわざわざ藤原朝臣家康をなのる必要がどこにあるのでしょうか。また後年なぜか岩松氏に伝わる古新田系図を欲しがり、拒んだ岩松氏を20石に厳封しています。


日本の苗字七千傑さんが源氏の祖は清和天皇、北条を平氏、織田を清盛の子孫、徳川が新田支流というのは、まさに権力者が捏造した歴史を「妄信」することになるでしょう。

[38]takahiroさんからのコメント(2005年05月12日 16時41分16秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんは、アマチュア無線さんからの名指しの質問に、ひとつひとつ懇切丁寧に回答を寄せられているだけであると私には読めますが、相馬さん、如何でしょう。

上記紹介頂いている、日本の苗字七千傑さんのQ&Aは私にはとても勉強になりました。

当スレッドを概観して、感じる事は、このスレッドの論点はどこへ向かおうとしているのであろう、質問者が各姓の嫡流を知ろうとされる事の目的はどこにあるのか。

その辺りを質問者の方がもう少し明確に説かれねば、回答にまわられる者も、回答の論点をどこにおけばよいのか定めかねるのではないでしょうか。
[39]takahiroさんからのコメント(2005年05月12日 17時07分49秒 ) パスワード

北条氏に関しては、系図の詳細云々は別にしても、広義の「平氏」であると私は捉えています。

そもそも「平氏」とは何か、また機会を見てスレッドを立て考察してみたいと考えています。
[40]アマチュア無線さんからのコメント(2005年05月12日 17時55分52秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんいつも回答ありがとうございます。

私はただ単にこの姓の嫡流はどこなのかと疑問に思って質問しています。
しかし姓氏の嫡流は特定の家の嫡流に比べてはっきりとしませんね。
この「嫡流」というのは調べれば調べるほど意味不明なものになっていきました。辞書通りに、嫡妻の子である嫡子の家系が嫡流とすれば、なぜ源氏の嫡流は摂津源氏から河内源氏に移ったのかという疑問がでてきますし、摂津源氏のなかでも嫡男の家系と言うのはほとんど名前すら出てきません。源惟光だったとおもいますが。一体嫡流とは何なのでしょうか?本流と言う事なのでしょうか?

今回も橘氏について詳しく知りたいのですが、嫡流が断絶した橘氏ですが、系図のはっきりとしている庶流の子孫で最も栄えたのは何処なんでしょうか?いくつか教えて下さい。

また嵯峨源氏の庶流についても同じく栄えたのは何処なのでしょうか?
[41]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月12日 22時16分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

アマチュア無線さんへ
 
嫡流を論ずる前に「日本の苗字七千傑Q&A」のQ7とQ17を熟読することをお勧めする。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm
平安末期から鎌倉初期頃までは女系伝領が一般的で、父子の家号は代々変わるので後世の様な系図が各家に存在しなかったことである。
室町時代の洞院家が「尊卑分脈」を編纂する際、鎌倉初期あたりから存在する諸家の系図を集めて、平安期を補足するにあたり所領伝領記録や公卿補任などの補任類からジグゾーパズルの様に男系系図を復元したことがうかがえる。
藤原道長を中核に縁戚の深い順に編成されており、次いで源氏が多く、平氏他は簡素なものとなっている。
平氏は特に史料が不足していたらしく、三浦氏が良文流と良茂流に錯綜したり、各所に明らかな誤りが散見する。
また当時の有力な守護大名でも史料不足の家は省かれている。
とは言っても「尊卑分脈」は信頼出来る系譜で、ただ一カ所にしか現れないしかも原本でない写しで迷論を流布させている学者の説よりは遙かにましである。
洞院家が「尊卑分脈」を編纂したおかげで、1%未満の家系ではあるが平安初期までさかのぼれるのである。
 
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるが、所領を没収されればお家断絶「栄えれば本家、貧すれば傍流」が現実である。
橘氏は衰亡はなはだしく甲斐庄、楠木、山中、和田など。それにしても戦国期は空白状態。
嵯峨源氏は渡辺、松浦の旧大名家。
[42]アマチュア無線さんからのコメント(2005年05月13日 17時22分38秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんありがとうございます。

私は北条や織田が平氏で、徳川が源氏というのが本当かどうかは分かりません。しかし、称したことに意味があると思います。
源平交代思想で織田が平氏を称し、徳川が幕府を開くため源氏と称するのは戦略的にも重要だったのでしょう。その意味で「広義」の源氏平氏と言っていいのでしょう。

また嫡流といっても養子をあげたり、もらったりしているので血筋を語るのは無意味なのかもしれませんね。血筋より家名の方が大事なのでしょう。
近衛家の現当主は元総理細川護煕氏の弟でしたっけ?血筋で言えば藤原氏嫡流は源氏なのですね。

しかし、橘氏は衰退もはなはだしいですね。また嵯峨源氏といえば一字の名前ですが、あまり見当たりませんね。渡辺氏は「綱」の字を伝えるようですが。
嫡流はやはり大名となった三河の渡辺氏でしょうか。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/watana_k.html
[43]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月13日 20時42分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

アマチュア無線さんへ

理解された様ですね。
家系について三つのレベルがあり、多くの方が誤解している。
1.血系絶対主義(絶対男系でないといけない)
 天皇家に赤信号が点灯中。藤原氏五摂家も二条家以外は既に×。
2.養子容認主義(婿取り、同族による家系継承)
 歴史の長い旧家は、ほとんどこれで救われている。
3.名跡容認主義(猶子、非血縁養子、絶家再興、官職就任改姓など)
 血は繋がらないが同族扱いで家系継承。
 
※現実には2と3のグレーゾンも多い。(織田、徳川などの例)
 
嵯峨源氏の中では渡辺氏が後裔も多く、旧伯太藩主が筆頭と考える。 
[44]アマチュア無線さんからのコメント(2005年05月15日 14時45分14秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんへ

どうもありがとうございまいた。

しかし、織田、徳川の系図の真実が知りたいものです。
[45]源太平太さんからのコメント(2005年05月15日 16時24分48秒 ) パスワード

今回は平氏の子孫の話ではなく既出かもしれませんが、そもそも清盛は平家の子であったかという事について。

本をちょっと読んで身に付けた程度の知識ですが、原因は以下の通りらしいです。

1、忠盛の妻・祇園女御は白河院の愛妾であった。

2、拝領してほどなく妊娠。
  ここで白河天皇は、「生まれた子が女子だったら、私の子とし育てよう。
  男子ならそなたの後を継いで武士として育てよ。」と言ったと平家物語にある。
  この時生まれた子が清盛である。 
 
3、清盛18歳のとき四位兵衛佐に任じられる。これはかなり異例のことであり、ある者が
  「花族(貴族)でも無いくせに」と言ったとき事情を知っている鳥羽院(白河院の子)は
  「清盛はれっきとした花族である」と語った。

4、胡宮神社に伝えられる「仏舎利相承系図」に祇園女御を、「院に召されて懐妊後、忠盛にこれを賜い、
  忠盛に子息となし、清盛という。よって宮と号せず」とあり。 

実際は祇園女御の妹とある部分で混ざってしまっているが、それでも結構信憑性あるとか、ないとか・・・。

確かに異例の出世な気もしないでは無いのですが、実際のところどうなのでしょうか?斎藤道三の息子の話に少し似ていますね。こっちの信憑性もどうなのでしょうか?
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