[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年03月11日 05時48分01秒 ) | パスワード |
1.
紀州だから南朝方じゃないか?
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年03月11日 05時59分28秒 ) | パスワード |
2.
華岡家のお屋敷の屏風:「南朝天子御霊残(魂?)香」
これからオ〜オ〜と思ったのです。
その前は「春入櫻花満山(台?)」って吉野山じゃないのか?と。
櫻といったら吉野でしょ、と。
どこかの旧家から借りてきた屏風だったら自滅。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年03月11日 06時10分41秒 ) | パスワード |
華岡青洲は1760年(宝暦10年)10月23日
南紀の那賀郡平山に生まれました。
母は豪族の松本於継さんなので華岡というのは父方の名字でしょう。
43歳で紀州侯より帯刀を許されたということで
この時の家紋は「桐」だったから拝領紋か、と。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年03月11日 06時15分29秒 ) | パスワード |
名手の駅の南東にある飯盛山
山頂に飯盛城跡が残されており、
建武新政時と織田信長の高野攻めの古戦場でもある。
ということはやっぱり南朝方で反信長。
その前は平家方か?
[5] | 田中愛造さんからのコメント(2005年03月17日 02時04分28秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
華岡家は、藤原忠教の子忠延が元永元年(1118)庄公文職となり、其の子忠村が保安年中(1120-23)隅田八幡宮別当職兼隅田荘地頭職『高野山領』にはじまり、隅田を称し隅田党を形成。鎌倉時代六波羅に出仕す。南北朝時代楠木正成隅田庄に押寄す、之により隅田党南朝方となる。河内国錦部郡川西村津津山城に隅田氏拠る、河内花岡村(陣屋)花岡称す、華岡氏は其の庶流とされる。
隅田党、正平15年(1360)足利義詮の先陣、当城に拠りし事あり北朝方に属す。室町時代畠山氏に属す、天文23年(1554)利生護国寺誓約31人、永禄・天正の頃に25人名有り、松永弾正の為邑を失う。畠山滅亡の後織田信長に属す、其の後秀吉に従う。紀伊に於いて25人中15人、紀州公の地士となり隅田組を形成し、残りは帰農した。
この様に隅田一族は、南朝方・或いは北朝方と姿を変え、信長にも加担した一面もあり、ギャンブラー様には失礼かとも思いつつクエスチョン(疑問)に追従致しました。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年03月17日 04時17分23秒 ) | パスワード |
田中愛造さま
ありがとうございました。ぺこり
ころころ変わってたんですねえ。
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