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 投稿番号:100757 投稿日:2005年03月03日 12時58分18秒  パスワード
 お名前:わん URL=http://kisanuki.cocolog-nifty.com/tashiro/
建部氏について!
キーワード:平家の落ち武者伝説
コメントの種類 :落人伝説  パスワード

 下記ホムページで、田代町の平家の落ち武者伝説を調べている者です。
http://kisanuki.cocolog-nifty.com/tashiro/
http://www.100-cgi.com/bbs1/wan2005/bbsp.shtml
 事の発端は、下記ホームページの掲示板の[660]「分かるのでしたら教えてください」から始まりました。
http://www.town.tashiro.kagoshima.jp/bbs/default.asp
ーーーーー[660]の内容ーーーーーーーーー
私は、稲尾と申しまして岐阜県の飛騨高山の隣の丹生川村(2/1の合併で高山市になりますが)出身です。
学生時代に地図で偶然稲尾岳の存在を知りずうっと気になっていました。
そのことを知ってからは、飛騨では(合掌造りで有名な)白川郷が平家の落人部落と言われていることもあり、稲尾とは、壇ノ浦を落ち延びた平家の落人が稲尾岳に身を隠した後、巡りめぐって丹生川村にたどり着き稲尾姓を名乗ったのではないかと勝手に推測しております。
ちなみに、中部地域では稲尾姓はうちの家系のみで、何年か前に450回忌を行いました。
ついては、稲尾岳の由来がわかれば教えていただきたく、よろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 でいろいろ調べて行って、ここ
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231.htm
とここの
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm#001
建部氏とは、何者なのかご存知ならば、お教え願えればと思い投稿いたしました。私は歴史に興味はありますが、苦手です。当然興味はこの中の田代氏なのですが。

[1]布袋竹さんからのコメント(2005年03月04日 22時06分34秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

わん様、ここらはこれから私が訪れ様としているところです。
鹿児島大隅半島です。この中の「ほむぺ」にかかれているように
安特帝が1300人で硫黄島に辿り着き、300人に減っていた。
途中で離散・逃亡もあったのでは・と。
ここには、稲尾岳もあるし、田代町の田代家も平家の落人と言われております。
以前からの平氏も鹿児島には沢山いたようで、禰寝氏もその顕著な豪族です。
それらを頼って・・とか、お目潰しをもらってとか・
系図の中の人物は、ほとんど鹿児島の有力豪族で、島津方についたほうは
その家系が生きて現在も続いているのが多いようです。
建部氏については、何も判りませんが、なにか発見でもあればカキコします。
上京していて、インフルエンザか、風邪をもらってまだ高熱が続いているので
ボーッとしているので、何を書いているのか・・
[2]わんさんからのコメント(2005年03月04日 22時39分23秒 ) パスワード
URL=http://kisanuki.cocolog-nifty.com/tashiro/

ご返事ありがとうございます。お行きになるときには、ご一報ください。田代のおやじさんか、木佐貫さんが協力してくれるはずです。

田代には、落ち武者伝説が色々ありまして、その一つ
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大原の平家の落人と言われる、中野・大浦地・大原の三戸が落人の末裔で宗家である。その中でも中野家がもっとも古い旧家である。氏神に奉納してある「あけずの箱」があり歴代これを見たものはなかった戦時中これを開けたところ刀三振りと一文銭十数枚があった。刀は二尺八寸、無銘の太刀一振りでこれは戦時中に供出されたが一尺二寸の脇差しと六寸五分の刀は保存されている。大原の西に山神山という林叢があり早馬神社の境内になっているが、ここは氏神の四社が並んでいる。大原家、大浦地家、中野家のもので祭りの時は大根占の半ケ石、毛下、田代、池田、段などからその子孫が必ず参拝することになっている。正月には餅をつかず大根を輪切りにしてそなえることは小牧家と同じである。
わんさんが以前大原集落の上にここら辺に何かあると言われて木佐貫さんが捜索されましたが、あの林道に入る所に中野家大浦地家大原家が有るんですよねこれ何かありますよ確かに。最近は仕事が超忙しくてでれませんでした。
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それと
京都大原と
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=135/49/36.476&scl=25000&size=954 ,768&uc=1&grp=MapionBB&nl=35/07/05.090
田代大原
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=130/52/59.315&scl=25000&size=954 ,768&uc=1&grp=MapionBB&nl=31/10/03.678
が非常によく似ていることから、田代にも寂光院があるのではと思いその痕跡も探しています。それと、こちらで出た田代の記事も当方のホムページでも紹介させてください。もちろん出典は、明記致します。
[3]佐田さんからのコメント(2011年09月23日 22時48分15秒 ) パスワード

はじめまして 佐田と申します。
表題のページでは2011 8月の書き込みがありましたので、書いてみましたが・・・
もう 田代氏 建部について おわかりになりましたでしょうか?
[4]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時04分55秒 ) パスワード

ひとり相撲の感がありますが、私の方で相良氏に関与する田代氏があり私も田代氏とは?と思っていました。

この頃荒木さんと田代さんはつながっていると聞き込んで、荒木さん←荒木田家←先祖・津速魂神(藤原遠祖) ⇔ 相良氏遠祖・藤原氏

相良氏は私の方の藩主です。

それで 改めて 「田代氏」について ネット検索してみました。
もう おわかりでしたら 結果を教えていただけないでしょうか?

私の調べとあっているのだろうか?私の隣の集落にある田代につき はっきりとしりたいと思います。
[5]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時07分56秒 ) パスワード

ネットで簡単検索
筏問屋田代家
家伝によると、同家の先祖は、椎ヶ脇大明神(椎ヶ脇神社)の神主田代冠者助綱なる 人物といい、後代が絶えたので、室町時代末の ... 母屋は安政6年(1859年)の再建で 、武家の家を思わせる冠木門や庭園・式台を備えるなど田代家の栄えた往時を偲ぶこと が

椎ヶ脇神社
【祭神】闇淤加美命 豊玉比売神
[6]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時09分22秒 ) パスワード

河越重房
•相従輩, 安田三郎義定, 大内太郎維義,「田代冠者信綱」. 相従侍, 佐々木四郎高綱, 畠山 次郎重忠, 河越太郎重頼, 河越小太郎重房, 師岡兵衛重経, 梶原平三景時. 梶原源太景 季, 梶原平次景高, 梶原三郎景家, 曽我太郎祐信, 土屋三郎宗遠, 土肥次郎実平 ...

河越氏
武蔵国秩父党総領家
川越太郎重頼の嫡男 母は比丘尼の女子。
[7]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時10分42秒 ) パスワード

大河ドラマ 源義経 キャスト表で検索
2001年7月9日... 岸田森一条大蔵卿/4坂東秀調駿河次郎(清重)/6尾上菊蔵四条正門坊→鎌田三郎正 近/土方弘丹後の局/
☆原泉田代(冠者)信綱☆/
2中村吉十郎一条能保/林成年佐々木盛綱/7 市川門之助(平)悪七兵衛景清/加藤武(熊野)喜三太/常田富士男( ...

原泉田代(冠者)信綱で検索
田代信綱の墓及び砦跡. 田代冠者信綱は狩野 茂光 ( もちみつ ) の孫
[8]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時15分00秒 ) パスワード

安養院へ御来山歓迎で検索
(第三番祇園山安養院田代寺(田代観音) 浄土宗
開基●田代信綱 
増上寺所蔵の古文書で、享保年間(一七一六〜三六)に僧常元が採訪した「浄土門末 寺院」の記録の中に「相模・大町村・田代寺普門院」の項に「田代冠者信綱公室中示現 之千手観音精舎建立。 又、実朝公坂東三十三番札所建立之時、第三番目ノ札所卜 決定」 ...

寺伝によれば源頼朝の家臣田代信綱

二寺合併の由来
 一方、嘉禄元年(一二二五)北條政子が夫、頼朝の菩提を弔うため、笹目ヵ谷に願行上人を閉山として祇園山長楽寺を建立した。だがその年の七月に政子が死去し、この寺に祀られることになった。しかるに長楽寺は元弘三年(一三三三)鎌倉幕府滅亡の際、兵火によって焼け、同じく焼失した名越の善導寺跡に移り、二寺は合併されて安養院となった。安養院はさらに延宝八年(一六八〇)に火災にあったが、その際に田代寺をここに移して復興されたのである。
 ともあれ
☆北條政子との深いかかわり☆
によって・・・・・

武家家伝_狩野氏
狩野氏は藤原南家工藤氏流で、狩野茂光の子行光

相良氏も藤原南家で、工藤氏の族とある。(大田亮氏姓系辞典より)
日本の苗字7000傑様にも相良氏がのっている。
[9]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時26分03秒 ) パスワード

私の地域の田代氏(ここがそうだとはわかりませんが、虎踊りというのがあり丸目新八郎・・・丸目蔵人の父)に関与し、新八郎の上司が相良藩家老犬童九衛門(相良清兵衛)。

ぐう爺の独り言より
虎踊りの主役は相良氏「丸目新八郎」である。
新八郎の上司の相良藩家老犬童九衛門(相良清兵衛)という実在した家老であった。

あの丸目蔵人の大捨流は昔「中村錦之助」が演じたシトシトピッチャンの子ずれ狼の「拝み一刀」が使った流儀だそうだ。

新八郎の子供が蔵人。
丸目蔵人は「菊池家」家臣に見える。
丸目蔵人佐徹斎. 大捨流兵法の祖 上泉伊勢守秀綱の高弟。天文九年(1540)肥後国 八代郡人吉(熊本県人吉市)、丸目与三右衛門尉の長男として生れる。通称蔵人佐。のち 石見守、石見入道、雲山春竜居士、鉄斎、徹斎と称した。

上泉伊勢守秀綱は「鹿島神流」の二代目。

 
 翌年、二十二才になった蔵人は剣術指南役として人吉に帰ってきた。久し振りに父新八郎に会い、その変貌に驚いた。父は剣術を忘れたかの様に畑仕事に精を出し、百太郎溝の改修に懸命であった。その姿は、他の百姓衆と少しも変わりはなく、近く新たに計画された高橋政重殿の幸野溝建設の協力に百姓の先頭に立って一所懸命であった。

蔵人はその後、願い出て再び江戸に出てあの但馬の守に大捨流を会得した事を告げ試合を申し込むのだが、将軍の指南役は立会いは出来ないと断ってきた。断りの書状には、〔我は東の日本一、貴殿は西の日本一〕とそんな事が書かれてあったという。

その後全国を行脚して数々の試合をするも、一度も負けることはなく晩年は父の新八郎と同じく一武村で畑仕事に精を出して生涯を閉じたとの事だ。それは新八郎の夢を追うような生涯だったと云う。

[10]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 22時42分24秒 ) パスワード

那須氏は 
「虎踊り」の話が川辺川筋にあり、関与する丸目新八郎の上役は相良清兵衛。 
相良清兵衛(犬童清兵衛頼兄)は相良家家老。
父は犬童頼安。子は相良頼安

犬童頼兄のお嫁さん
ひとり目は、椎葉山(しいばやま)の権力者、那須弾正の娘・露袈裟(今朝・つゆけさ)
ふたり目のお嫁さんの名前は分かりませんが、夫の名前は蓑田甚兵衛と言いました。すでに息子がおり田代半兵衛頼昌と言い、母の再嫁後は犬童家の養子になりました。
☆これらがからんで 椎葉に「なば山騒動」がおき、椎葉の土豪支配がくずれる。一揆は20000人位といい、結構な人が住んでいた。
 
私の地域に田代という集落はあるのに 田代という家がない と 思っていたけど
同級生からの暑中見舞いに 田代さんの長男が と 書いてありました。
どうやら 荒木さんのつながりのようです。
→川辺→伊勢神宮宮司家→荒木田家→伊勢神宮宮司家→荒木

[11]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 23時07分39秒 ) パスワード

私の父の出所の家の寺があるところの近く
あさぎり町深田東、内山地区にある内山観音堂にまつわる「千手の局(つぼね)の伝説

室町時代に下相良氏に滅ぼされた上相良氏(多良木)の分家の肥知岡(ひぢおか)氏の出といわれます。
その氏の娘が島津家家老本田丹波守親泰(たんばのかみちかやす)という人に嫁いで娘を産んだらしいのです。これが「千手の局」というわけです。

「千手の局」(島津家久の母)は、薩摩の当地では「橘姫」「少納言」の尊称でよばれていて、没年はわかりませんが、鹿児島県伊集院町の破鞋庵(はけあん)跡というところに「貴久後室花室清忻大姉(たかひさのこうしつのかしつせいきんだいし)」という人の墓が残っており、これが地元では肥知岡氏女(うじめ)の墓といわれています。

戦国大名の島津貴久公の四男家久を産んだとされる「千手の局」。
家久公の娘は、相良家の重臣相良清兵衛頼兄の息子の相良頼安(よりやす)と再婚し相良頼章(よりあき)を産んだといいます。その頼章は薩摩の加治木に移り住み、島津義弘により元服し、相良長毎の次女・於(お)萬(まん)と結婚しています。
[12]佐田さんからのコメント(2011年09月26日 23時08分52秒 ) パスワード

島津家久女(島津久信室 後 相良頼安室)

誕生。父・島津家久、母・樺山善久女

長女は禰寝重張にとつぐ。
次女は次女(佐多久慶室)に嫁ぐ。
三女は(島津久信 後 相良頼安室)。

「千手の局」は「御家譜」(16代義久公)の張紙注記によると、彼女は実は本田丹後守親安なる武将の娘だったが、父が戦死し、母の実家で育ったために「肥知岡氏」を称するようになったという。

[13]佐田さんからのコメント(2011年09月27日 00時07分40秒 ) パスワード

島津氏系図をみているうちに
摂津 池田氏系図】家紋 揚羽蝶
池田輝政の子孫
(1811-1842)池田齊敏養子實島津斉興二男ー池田慶政養子實奥平昌高十男ー池田茂政養子實徳川斉昭九男ー池田侯爵 麝香間祗候 章政養子實相良頼之二男 というのを見つけました。

余り建部 田代とはかんけいありませんが、私の父・高岡の苗字に関与しています。うちが直接つながっているわけではありませんが、田代という苗字の家と同じ地域にある ということから たどり たどれば どこかで つながるかも・・・

 
[14]佐田さんからのコメント(2011年09月27日 00時25分53秒 ) パスワード

姓系辞典に「宮道」というのがあり、第1条 ヤマトタケルの子孫 となっております。宮道に注目

古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王で検索
2010年3月7日 ... 宮道氏(みやじし)は、日本武尊の子である武卵王(たけかいこのみこ)の子孫と伝える 宮道別の後裔氏族と推察される。山城国宇治郡(京都府京都市及び宇治市)を本拠と した宿禰姓の宮道氏が最も知られた。 ..... 墨江に港津が定められたが(仁徳記)、その ときに今の住吉大社の地(大阪市住吉区住吉町)に住吉神社が遷座し、津守氏が住吉 神主となって代々奉斎したことが知られている(『姓氏家系大辞典』など)。 ...

この 宇治 住吉(津守氏は後男爵。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫としている。宮道氏は系をうしなえり としているが 物部にも濃く関与しているように辞典では書いてある。)
このことは 以上のことからも伺える。

本文にヤマトタケルの系がかいてあります。
[15]佐田さんからのコメント(2011年09月27日 00時33分15秒 ) パスワード

池田氏遠祖も天照国照彦天火明櫛玉饒速日命なので、枝分かれした同士なのであろう。

この人を遠祖とするのは尾張熱田神宮で、先頃遠祖を海神の子供に変えられたが、神宮の宮司の女子が源頼朝を生んでいる。

又 安養寺から 北条も関与するように 田代氏は 平氏にも近く、落人伝説のある地域の中にいるのだろう。
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