【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:100754 投稿日:2005年02月23日 09時04分53秒  パスワード
 お名前:きよたすすむ
吉川英治の新平家:為朝と九州源氏方の関係

コメントの種類 :質問  パスワード

吉川英治・新平家物語 巻十三 筑紫の紅白に
『その胚子は、遠いむかし、都で保元の乱があったときに発祥していた。あばれん坊のためこの地に流されて来た源為義の八男、鎮西八郎為朝が、召されて都の乱に馳せ上るさい、筑紫の鶴賀原八幡を中心に、屈強な部下五人を、残してたった。
それが、九州源氏の、後の緒方惟義などだった。』
                          と記述があります。

 この記述について、出典ど御存じの方がおられれば、御教示くださいませ。

                  はかた小太郎こときよたすすむ

(全0項目)[投票総数:0票]
順位 票数 グラフ  
投票項目
項目追加 項目を追加するだけで投票しない
項目追加できないようにする(投稿時のパスワード)
[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 11時22分35秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100708_10.html
「保元物語」
これが良いと思います。

[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 11時26分47秒 ) パスワード

無断転載ごめんなさい:今井どの(ぺこり)


  @『新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事』 S0111

 新院は、斉院の御所より北殿へうつらせ給ふ。左府は車にて参給。白河殿より北、川原より東、春日の末に有ければ、北殿とぞ申ける。南の大炊御門面に、東西に門二あり。東の門をば平馬助忠政承(っ)て、父子五人、并に多田蔵人太夫頼憲、都合二百余騎にてかためたり。西の門をば六条判官為義承(っ)て、父子六人してかためたり。其勢百騎計には過ざりけり。是こそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に付て、多分は内裏へ参けり。爰に鎮西の八郎為朝は、「我は親にもつれまじ。兄にも具すまじ。高名不覚もまぎれぬやうに、只一人いかにも強からん方へさしむけ給へ。たとひ千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射はらはんずる也。」とぞ申ける。よ(っ)て西川原面の門をぞかためける。北の春日面の門をば、左衛門太夫家弘承(っ)て、子共具してかためたり。其勢百五十騎とぞきこえし。
 抑、為朝一人として、殊更大事の門をかためたる事、武勇天下にゆるされし故なり。件の男、器量人にこえ、心飽まで剛にして、大力の強弓、失続早の手聞なり。弓手のかひな、馬手に四寸のびて、矢づかを引事世に越たり。幼少より不敵にして、兄にも所ををかず、傍若無人なりしかば、身にそへて都にをきなばあしかりなんとて、父不孝して、十三のとしより鎮西の方へ追下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を乳母とし、肥後の阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠国が聟に成て、君よりも給らぬ九国の惣追補使と号して、筑紫をしたがへんとしければ、菊地・原田を始として、所々に城をかまへてたてこもれば、「其儀ならば、いでおといて見せん」とて、未勢もつかざるに、忠国計を案内者として、十三の年の三月の末より、十五の年の十月まで、大事の軍をする事廿余度、城をおとす事数十ヶ処也。城をせむるはかりこと、敵をうつ手だて人にすぐれて、三年が間に九国を皆せめおとして、をのづから惣追補使に推成(っ)て、悪行おほかりけるにや、香椎の宮の神人等、都に上りう(っ)たへ申間、去じ久寿元年十一月廿六日、徳大寺中納言公能卿を上卿として、外記に仰て宣旨を下さる。
 源為朝久住二宰府一、忽二緒朝憲一、咸背二綸言一、梟悪頻聞、狼籍尤甚。早可レ令レ禁二進其身一。依二宣旨一執達如レ件云々。
 然れ共、為朝猶参洛せざりければ、同二年四月三日、父為義を解官せられて、前検非違使になされにけり。為朝是をきいて、「親の咎にあたり給ふらむこそあさましけれ。其義ならば、我こそいかなる罪科にもおこなはれんず。」とて、いそぎ上りければ、国人共も上洛すべきよし申けれ共、「大勢にて罷上らん事、上聞穏便ならず。」とて、かたのごとくに付したがふ兵ばかりめしぐしけり。乳母子の箭前払の須藤九郎家季・其兄あきまかぞへの悪七別当・手取の与次・同与三郎・三町礫の紀平次太夫・大の矢新三郎・越矢の源太・松浦の次郎・左中次・吉田の兵衛太郎・打手の紀八・高間の三郎・同四郎をはじめとして、廿八騎ぞ具したりける。よ(っ)て去年より在京したりしを、父不孝をゆるして、此御大事にめし具しけるなり。
 為朝は七尺計なる男の、目角二つ切たるが、かちに色々の糸をも(っ)て、師子の丸をぬふたる直垂に、八龍といふ鎧をにせて、しろき唐綾をも(っ)てをどしたる大荒目の鎧、同獅子の金物打(っ)たるをきるまゝに、三尺五寸の太刀に、熊の皮の尻ざや入、五人張の弓、長さ八尺五寸にて、つく打(っ)たるに、卅六さしたる黒羽の矢負、甲をば郎等にもたせてあゆみ出たる体、■会もかくやとおぼえてゆゝしかりき。謀は張良にもおとらず。されば堅陣をやぶる事、呉子・孫子がかたしとする所を得、弓は養由をも恥ざれば、天をかける島、地をはしる獣の、おそれずと云事なし。上皇を始まいらせて、あらゆる人々、音にきこゆる為朝見んとてこぞり給ふ。左府則、「合戦の趣はからひ申せ。」との給ひければ、畏而、「為朝久しく鎮西に居住仕(っ)て、九国の者どもしたがへ候に付て、大小の合戦数をしらず。中にも折角の合戦廿余ヶ度なり。或は敵にかこまれて強陣を破り、あるひは城を責て敵をほろぼすにも、みな利をうる事夜討にしく事侍らず。然れば只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてさゝへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず、矢をおそれむ者は、火をのがるべからず。主上の御方心にくゝも覚候はず。但兄にて候義朝などこそ懸いでんずらめ。それも真中さして射おとし候なん。まして清盛などがへろ<矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。行幸他所へならば、御ゆるされを蒙(っ)て、御供の者、少々射ふする程ならば、定而駕輿丁も御輿をすてて逃去候はんずらん。其時、為朝参向ひ、行幸を此御所へなし奉り、君を御位につけまいらせん事、掌を返すがごとくに候べし。主上を向へまいらせん事、為朝矢二三をはなたんずる計にて、未天の明ざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑か候べき。」と憚る所もなく申たりければ、左府、「為朝が申様、以外の荒義なり。年のわかきが致す所歟。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎廿騎の私事也。さすが主上・上皇の御国あらそひに、源平数をつくして、両方に有(っ)て勝負を決せんに、むげに然るべからず。其上、南都の衆徒をめさるゝ事あり。興福寺の信実・玄実等、吉野・十津川の指矢三町・遠矢八町と云者どもを召具して、千余騎にてまいるが、今夜は宇治につき、富家殿の見参に入、暁是へまいるべし。かれらを待調て合戦をばいたすべし。又明日、院司の公卿・殿上人を催さんに、参ぜざらん者共をば死罪におこなふべし。首をはぬる事両三人に及ばゞ、残りはなどか参らざるべき。」と仰られければ、為朝、上には承伏申て、御前を罷立てつぶやきけるは、「和漢の先蹤、朝庭の礼節には似もにぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかゞあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定て今夜よせんとぞ仕候覧。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。只今押よせて、風上に火を懸た覧には、戦とも争利あらんや。敵勝にのる程ならば、誰か一人安穏なるべき。口おしき事かな。」とぞ申ける。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 11時38分42秒 ) パスワード

真ん中の辺りの
為朝が九州で悪さを続けるので
都から戻って来いと命令が来ても無視を続け、
とうとう父親が職務を首になってしまい
それで仕方無く為朝は都に戻る決心をした
という箇所ですね。


為朝猶参洛せざりければ、同(久寿)二年四月三日、父為義を解官せられて、
前検非違使になされにけり。

為朝是をきいて、「親の咎にあたり給ふらむこそあさましけれ。
其義ならば、我こそいかなる罪科にもおこなはれんず。」
とて、いそぎ上りければ、国人共も上洛すべきよし申けれ共、

「大勢にて罷上らん事、上聞穏便ならず。」とて、
かたのごとくに付したがふ兵ばかりめしぐしけり。

乳母子の箭前払の須藤九郎家季・其兄あきまかぞへの悪七別当・手取の与次・同与三郎・三町礫の紀平次太夫・大の矢新三郎・越矢の源太・松浦の次郎・左中次・吉田の兵衛太郎・打手の紀八・高間の三郎・同四郎をはじめとして、廿八騎ぞ具したりける。

よ(っ)て去年より在京したりしを、父不孝をゆるして、此御大事にめし具しけるなり。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 11時40分24秒 ) パスワード

手取の与次
礫の紀平次太夫
左中次
打手の紀八

このあたりの名前はちょくちょくお目にかかります。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 11時46分20秒 ) パスワード

保元物語がベースで
滝沢馬琴の「椿説弓張月」が書かれ
現代の作家も為朝の話を書いています。

為朝は父の為に急いで都に行かなくてはならなかったので側近の28人を伴ったのみ。
九州の家来は残してきた。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 12時08分55秒 ) パスワード

ではここで九州の源氏方 VS 平家方を並べてみます。


治承4(1180)年当時の平家方:
原田種直
松浦党
山峨透遠
菊池隆直


治承4年当時の源氏方と鎌倉幕府初期の守護
河内義長(対馬)
島津忠久(薩摩)
少弐資頼
大友能直
草野永平
臼杵惟隆
緒方惟能
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 12時21分41秒 ) パスワード

ついでにこれも書いてしまいます。


>九州源氏の、後の緒方惟義

あの〜
緒方の姓は源氏じゃないのでハッキリしておきますね。
源氏方です。

緒方三郎惟義の御先祖さまは高知尾の明神の神体なんだそうですよ。
つまり蛇。この蛇の5世の孫なんだそうですよ。
あはは
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 12時27分03秒 ) パスワード

>山峨透遠

山賀兵藤次秀遠は姓は藤原氏ということになりますね。
元は藤原氏で平家について平家方となった。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 12時39分21秒 ) パスワード

他の方も続きを書いて下さいますよ。
楽しみに待ちましょう。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 14時25分17秒 ) パスワード

追加です:


上記緒方三郎惟義は「小松殿の御家人なり」というのが「平家物語:大宰府落ちの事」に書かれています。

つまり
平家全盛時には平家方
平家の形勢が悪くなると源氏方。

ま、家柄の無い、土地の豪族で、風見鶏という事なんでしょうね。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 14時38分22秒 ) パスワード

追加です:「大宰府落ちの事」より


原田種直と山峨透遠(山賀秀遠)は仲が悪かったそうです。


原田は京より2000余騎でお供してきた。
山賀は数千騎で平家のお迎えに出た。


種直・秀遠、以っての外に不和なりければ種直は「悪しかりなん」とて路より引っ返す。


種直という人物は秀遠が嫌いだから「ワシがいては都合が悪いだろう」と踵を返してしまった。
きっと頑固者だったんでしょうね。愚直?年とって頑固爺?
[12]はかた小太郎・きよたすすむさんからのコメント(2005年02月23日 15時57分09秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、ありがとうございます。


 吉川英治『新平家物語では壇ノ浦合戦直前に御身隠しの事と云う章段で
博多の櫛田宮からの主上逃亡計画を知盛に漏らした原田種直が宗盛から謀反の嫌疑を受け陣を払い九州へ戻ります。

  ・・・・この件、暇潰しのギャンブラーさんのアドバイスを受け早速、
      地元櫛田宮へ問い合わせました。
      この件に関する種直と櫛田宮神官が交わした文書が現存している
      そうです。驚きました。


吉川英治・新平家物語 巻十三 筑紫の紅白に
『その胚子は、遠いむかし、都で保元の乱があったときに発祥していた。あばれん坊のためこの地に流されて来た源為義の八男、鎮西八郎為朝が、召されて都の乱に馳せ上るさい、筑紫の鶴賀原八幡を中心に、屈強な部下五人を、残してたった。
それが、九州源氏の、後の緒方惟義などだった。』

・・・・こちらに出て来る筑紫の鶴賀原八幡が何処なのか比定しいのですが、 
    当地の筥崎八満宮の神官の方は御存じありませんでした。   

[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 23時06分24秒 ) パスワード

はかたの小太郎どの


>当地の筥崎八満宮の神官の方は御存じありませんでした。 

そりゃそうでしょ。
だって敵方ですよ〜
敵の情報を訊こうなんて方向が間違ってる〜


源氏方についたお宮さんを捜さなきゃ、ですよ。  
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 23時13分21秒 ) パスワード

>この件に関する種直と櫛田宮神官が交わした文書が現存しているそうです。

でしょうね。


日本って凄い国なんですよ。

それにお宮さんって今の人には分からないでしょうけど
(不幸にも戦後の神道否定のせいで)
もの凄いパワーの所なんですよ。


私には原田って律儀な良い爺さんだったという印象です。
平家方で言うと、伊東祐親と大庭景親を足したような頑固で真面目な人、かな。


なんかね、原田のじいさんがハラッと涙をこぼした、そんな思いがしました。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 23時23分28秒 ) パスワード

>地元櫛田宮へ問い合わせました。
>この件に関する種直と櫛田宮神官が交わした文書が現存しているそうです。
>驚きました。


今、気づきましたが
はかた小太郎・きよたすすむさん
スレッド違いなので向こうにレスを転載しますね。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 23時42分38秒 ) パスワード

>筑紫の鶴賀原八幡を中心に、屈強な部下五人を、残してたった。

場所が限定されているので捜し易いかもですよ。
筑紫国の八幡さまですね。
鶴賀原というのは名前が変わっているかも。



>屈強な部下五人

屈強な5人とは
少弐資頼
大友能直
草野永平
臼杵惟隆
緒方惟能
このあたりと思います。


肥後の阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠国の一族も入るのかどうか分かりませんが。

でも肥後の阿曽の皆さんは名前からすると「本姓平氏」ですから
いくらなんでも「源氏」とは書かないんじゃないかしら?
私が昔読んだ本では肥後の阿曽の家にむりやり婿に入り込んだという印象でした。


大友は後に大友宗鱗なんて偉大な人物が出ますが
「戸次」さんでしたか?べつぎさん?
源平時代からの名のある家のようです。
どこかで戸次さんのお名前を見掛けました。
確か宗鱗の奥さんの実家でしたっけ?
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月23日 23時47分14秒 ) パスワード

ちょっと調べて来ました。


http://kamnavi.jp/toyo/kawara.htm

香春神社かもです。
福岡県田川郡香春町大字香春733


問い合わせてみてはいかがでしょう。
鶴賀氏ゆかりみたいですから。

[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月24日 04時12分34秒 ) パスワード

はかたの小太郎どの

タイトルが弱かったのでちょっと変更しておきました。
この方が参考レスが付き易いと思いますから。

事後承諾でごめんなさい。ぺこり
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月24日 06時25分13秒 ) パスワード

香春神社の神職さんの1つ鶴賀氏について下記URLを見つけました。
(無断転載ごめんなさい。御不都合がございましたら削除させて頂きますのでお叱り下さいませ)


http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html

「鶴賀氏は仁平三(1153)年春、鎮西八郎為朝が、豊前田川に源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとき、鎌倉の鶴岡から豊前に西下した者ゆえに鶴賀氏を名乗ったとあって、さきの都怒我阿羅斯等の子孫がこの鶴賀氏だとも述べている(「応永戦乱記」)」

こちらにお問い合わせをなさってはいかがでしょう。


源平当時、源氏方だったのか平家方だったか、お尋ねになってはいかがでしょう。

この土地は戦国時代には大友宗鱗と原田五郎種実が戦って大友宗鱗が勝っていますねえ。
諍いは源平時代から続いてたのかもですね。

ロマンがありますねえ。
[20]はかた小太郎さんからのコメント(2005年02月24日 09時27分35秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさま

ありがとうございます百万緒の味方を得たような気がします。

今から、仕事です。夕方、改めてレス致します。
[21]はかた小太郎・きよたすすむさんからのコメント(2005年02月25日 21時12分36秒 ) パスワード

鶴賀原八幡宮は暇潰しのギャンブラーさま御指摘の
香春八幡宮に間違いなさそうです。
ありがとうございます。
小生は、暇潰しのギャンブラーさまさまの示唆を受けるまで思い付もしませんでした。

その後、原田種直が彦島の平家陣所を離れる段が平家物語や、源平盛衰記、吾妻鏡にないものかみているのですが、今の所見つかりません。
原田氏が壇の浦の合戦直前、筑紫に引き返したと云う事は、なにか資料があるのでしょうか。柳浦の合戦で源氏方と闘い原田種直は戦死ともなにかで読んだ気がします。であれば原田種直は死亡するまで平家をみくびらなかったということでしょうし。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月26日 04時19分06秒 ) パスワード

わたくしも平家物語と盛衰記は見てみましたが
(なんせ膨大なお話の中から捜すのですから)
なかなか見つかりません。


こういうお話は土地がらみの記述書を見ると出てると思うのですが。
特に原田家関係の本があると良いと思います。
そういうのが見つかると良いのですけど。

やっぱり天満宮とか宇佐神宮とか、そういう記録にあるかも。
それから土地の歴史家を紹介していただけると良いのですけどね。
県あたりの教育委員会の方からお名前だけでも。

原田家を研究してるとか遠賀川あたりを研究してるとか(山賀さんはこの地区の豪族だったみたいですね)
そういう研究者またはそういう書。


原田生存説死亡説:
生存説には息子が父親に成り代わって生存説になったのかも知れませんし
上記の「応永戦乱記」など(中央の記録ではない)地方の記録が手にはいると良いですね。

上記の方に御連絡なさって教えて頂いてはいかがでしょう?
ネットって凄い力がありますよ。
思わぬ方より思わぬ情報を頂けて目から鱗ですよ。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月26日 10時55分17秒 ) パスワード

本日の「おはよう日本」の番組で
300年続く大分県日田の商家の草野家?
幅4mの雛段(御殿飾り)を公開してたそうです。


草野家って上記の草野家ゆかりかもですね。
昔の豪族が今に至るもそれなりの家格を保っている。
800年も続くというのは凄い努力をなさってきたのでしょうね。
また代々賢い人が続いているんでしょうね。

幅4mというのはちょっとビックリしました。
総勢40人のお飾りだったかしら?
世間は3人官女なのに草野家のは7人官女でした。
[24]平常心さんからのコメント(2005年03月14日 17時51分43秒 ) パスワード

寛政系譜などでは三河の原田氏は種直が鎌倉から筑紫に帰らずに住んでその末裔だといいますが果たしてそうなのかわかりません。

他には源氏に味方して家を保っていた弟種成を頼って早良郡へ行き、のちに頼朝より怡土庄の地を与えられてささやかながら復活をとげたとあるところも。

吾妻鑑には

『吾妻鏡』の元暦二年二月一日
「参州、豊後国に渡る。北条小四郎、下河辺庄司、渋谷庄司、品川三郎等、先登せしむ。しかるに今日、葦屋の浦において、太宰少弐種直、子息賀摩兵衛尉等、随兵を引きてこれに相添ひ、挑み戦ふ。行平、重国等、廻り懸けてこれを射る。かの輩、攻め戦ふといへども、重国が為に射られ了んぬ。行平、美気三郎敦種を誅すと云々」

『吾妻鏡』の元暦二年三月二日
「去夜の飛脚は、渋谷庄司重国が使なり。去ぬる正月、参州、周防国より豊後国に渡らるるの時、最前に渡海し、種直を討つの由これを申す。」
[25]工藤さんからのコメント(2005年06月29日 16時52分56秒 ) パスワード

 緒方三郎惟義の祖については、あまり変な風に言われないほうのが賢明ですぞよ。
 確かに祖は「蛇」となっているが、元々、緒方氏の祖は九州でも有名な「大神氏」であって、この大神氏の祖が高知尾・祖母山の蛇となるようです。緒方氏以外にも臼杵氏やら阿南氏やらが大神氏から出てくるのですが、例えば阿南氏からは後の終戦時・御前会議で東郷外相と対立した阿南惟幾・陸相や、現・中国大使のご子息が出てくる。また、緒方氏からは幕末時の緒方洪庵が出てきて、近代日本へ向けて福沢諭吉らを指導。これ皆「大神系」です。
 大神氏の存在が古代日本の歴史上重要なのは、奈良・平安といった宮廷文化にいたる以前、古墳文化や大和政権の成立時にあると思われるのですが、これは「大神氏」を「大神(おおみわ)」と読んで、大和政権の当時の首長「大王(おおきみ:天皇家)」との関係にあるかと思われます。
 日本蛇信仰の究極の形を伝えるものが大神・三輪山(みわやま)神話であると考える説で、この詳細について詳細サイトのアドレスを入れときます。
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai05.htm
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai06.htm#top
おそらく、これを読めば、恐れ多くも「蛇もの」をじゃけにできないかと。^^

次のサイトは正偽についてはちょっと疑問も無くもですが、入れときます。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-28.htm
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapha.