[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月03日 03時03分43秒 ) | パスワード |
メールで頂きましたのでアップしますね:
朝長の墓に行きたいという人。
「偉い!」
行った感じを言いますが、女性1人では昼間でもかなりの冒険です。
殆ど人がいませんし、汗をかきかき登る山の中です。
私でさえ作業の男の人などがいると、ドキッとしました。
男の人と行くことをお勧めします。
女性だけなら、せめて2人以上で行ったら如何でしょう。
逆に言えば、とても静かで青墓の宿で命を絶った朝長を偲ぶにはいい所です。
源氏の後ろ盾となった大炊一族の墓もあり、昔に戻るには絶好でしょう。
五輪塔3基は、左が朝長の墓・中央が義平・右が義朝の供養塔。
同じ大垣から行ける場所として、頼朝の弟・義円の墓もあります。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月03日 03時06分49秒 ) | パスワード |
画像も頂きましたが「コワイ」感じです。
赤間神宮の7盛塚よりもっとおどろおどろしい感じです。
石がもっと原始的?で簡略な作りだからかしら。
7盛塚の方は新しいし(お金がかかってる)立派なものですから。
[3] | マックの母さんからのコメント(2004年12月03日 12時01分30秒 ) | パスワード |
情報、ありがとうございます。
ますます行ってみたくなりましたが、同好の士をを集めてからにします。
早くお参りしたいよ〜!
赤間神宮の七盛塚で、デジカメで撮影しようとしたらカメラが壊れて撮れなかった経験ありです(落とすはずないのにカメラを落とした)。
実は、義朝の墓でもデジカメ不調で、写真を撮れませんでした(SDカードが認識しなかった)。
「コワイ」の全然気にしないし、霊的なものも信じませんが、真摯にお参りしなければダメというこだと理解しています。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月03日 12時56分55秒 ) | パスワード |
第2弾を頂きました。
朝長の墓に行くには、知らないで行くべきでしょうね。
山の中のこの墓は、一人で行くには相当の度胸が要るかも知れません。
「怖い」と感じるより、「怨念」のようなものを感じました。
少しでも早く、ここを立ち去りたいような。
山の頂上の日当たりのいい場所に出た時は、何かホッとした心地になりましたもの。
墓のある場所は昔、円興寺の境内だった。
境内を遠ざかるにつれて、呪縛から解き放たれる感じ。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月04日 03時09分48秒 ) | パスワード |
第3弾です:
朝長のお墓に行きたい人って、源氏贔屓の人ですか。
それとも義朝か頼朝のファンでしょうか。
とても珍しいですね。
朝長の墓に行きたい人って、まずもって聞いたことがありませんもの。
或いは、「平家物語」を忠実に辿る旅でもしているのかな。
行く段になったら教えて下さい。
行き方を詳しくお教えできると思いますから。
あの墓は、本当に独特の雰囲気が漂っているでしょう。
朝長の遺骸は、円興寺の檀家でもあった大炊氏が葬ったとされています。
義平と義朝の供養塔もその時たてられたのではないでしょうか。
定かではありませんが、あの五輪塔は当時のままと記憶しています。
[6] | マックの母さんからのコメント(2004年12月04日 12時41分48秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん 伝言ありがとうございます。
朝長の墓に行きたいって、そんなに珍しいのでしょうかねえ。
年内か年明けには、実現させたいと思っています。
その時は、よろしくお願いします。
今考えているのは、駅前に無料の貸し自転車があるようなのでそれを借り、登り口の駐車場まで行こうと計画しています。
わたしは誰かのファンというわけはありません。
源氏より断然平氏だし、しいていうならば清盛大好き♪
>「平家物語」を忠実に辿る旅
うん、うん、まさにそんな感じです!
『保元物語』『平治物語』を原文で読み終えたので、その舞台を訪ねているところ。
みなさんも、平家物語の舞台に実際に立ってみたいと思われませんか?
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月05日 12時18分08秒 ) | パスワード |
第4弾です:
行くのは、年内か年明けですか。
山は登山道(参拝道)、霜でぬかっていないでしょうか?
ぬかってないと良いですが。
駅前から青墓町は、ざっとで7〜8km距離だと思います。
普通は大垣からバスで、「赤坂事務所」まで行き、そこで自転車を借ります。
但し、赤坂事務所は自転車の数が少ないので、電話でも入れておいた方がいいかも。
山は表口と裏口のどちらかから上がります。
私は、現円興寺→裏参道→大炊一族墓→朝長墓→元円興寺跡(頂上)→表参道のコースを選択しました。
勿論、逆のコースでもいいでしょう。
回遊コースでは、自転車をどちらかに置いてしまうので、そこに戻らなければなりません。
多少、無駄が出てしまいます。
青墓町も大垣のベッドタウンになりつつあります。
ですから誰かに聞いても、「知らない」という返事が多いです。
で、地元のお百姓さんあたりに聞きながら行った方が、間違いありません。
以上
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月05日 15時07分04秒 ) | パスワード |
第5弾:つづき
以上「青墓の情報」と云うようなものではありませんが、気がついたことを書きました。
青墓は今回で3回目になりますが、どんどん町が変わっています。
1回目にあった、「歴史の町 青墓町」などという看板はもうありません。
ましてや賑わったであろう昔の宿場町の様相など、全くありません。
それとも、じっくり探せば何処かに面影は残っているのでしょうか。
[9] | 皇竹さんからのコメント(2005年04月05日 09時01分00秒 ) | パスワード |
先日、大垣市青墓源朝長の墓を見てきました。
表参道から登り、帰りは裏参道を経て戻りましたが、
約1時間のコースでした。
現在の円興寺はこの山の西麓にありますが、
昔はこの山中にあって壮麗な伽藍を擁していた。
源朝長の墓は表参道から行くと20分くらいで道は二手に分かれる。
まっすぐ行けば展望台へ、
(我々は展望台で弁当を食べる.花見の予定でしたが早すぎた)
右折れすればすぐ朝長の墓でした。
平治の乱に破れ一行七騎とともに青墓までおちてきたが、
手傷を負った朝長は父義朝の手にかかり、
16歳を一期に相果てた。
案内板によると、家来の平野八十郎、平野藤十郎、僕八助らが
同時に切腹をしたとある。
そこからしばらく行くと、今は何もないが、
円興寺の跡地へ・・
分岐点のところに朝長の死を悼み詠んだ芭蕉の句碑
「苔埋む蔦のうつつの念仏かな」
がありました。
[10] | 皇竹さんからのコメント(2005年04月05日 09時06分56秒 ) | パスワード |
訂正とお詫び
「右折れすればすぐ朝長の墓でした。」
は
「左折れ・・・」
でした。すみません。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年04月05日 09時17分14秒 ) | パスワード |
皇竹さま
そうなんですか。
簡単みたいですね。
>平野八十郎、平野藤十郎、僕八助ら
平野姓って三重県や岐阜県・愛知県に多いような気がします。
義朝の家来で道案内をしてたのかしら?と思いました。(勘だけです。ごめんなさい)
あ、
死出の途のお共をしたのでしたら朝長の乳母系の人々かも知れませんね。(これも勘だけ)
[12] | 皇竹さんからのコメント(2005年04月05日 09時34分08秒 ) | パスワード |
その後、義朝は水路で知多の方へ逃れたと思われる。
揖斐川?を船で下った義朝は枯れ木を小船に乗せて身を隠し、
現愛知県弥富町あたりへ来て、休憩した。
柴が森といって現在神社になってお祭りしている。
さらに下り、ある小島に上陸した。
そこが現在、蟹江町に「源氏」と「源氏島」という地名として残されている。
そこから知多野間へ逃れたが、長田忠到に暗殺される。
もともとこの長田忠到の先祖は平維衡との所領争いに敗れ
伊勢を追い出された伊勢平氏であった。
[13] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年04月06日 03時21分07秒 ) | パスワード |
>もともとこの長田忠致の先祖は平維衡との所領争いに敗れ
>伊勢を追い出された伊勢平氏であった。
そういう関係だったんですか。
それで義朝の首を持って行って「尾張」(たしか)が欲しいとおねだりに行ったのですか。
>平維衡
伊勢平氏の祖ですね。
平貞盛の子・維衡
孫・正度
曾孫・正衡
やしゃご・正盛
その子・忠盛
その孫・清盛
長田氏は高望王の子孫常陸のジョウ関係の平氏で伊勢にきてたんですねえ。
平氏平氏と言ったって複雑怪奇の関係だったんですねえ。
ありがとうございました。ぺこり
ちょっとタイトルをいじってしまいますね>マックさん
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年04月06日 07時40分19秒 ) | パスワード |
>平野八十郎、平野藤十郎、僕八助ら
知り合いの三重県の平野さんは刀鍛冶だったそうです。
そんなことを思い出していたら
昨夜テレビで「プロジェクトX・たたら製鉄復活の炎」という番組が放送されました。
スゴイ!恐るべし平熱!
[16] | ちょっと参加さんからのコメント(2012年01月11日 03時21分12秒 ) | パスワード |
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悪源太義平の子孫って居るのですね。しかも福井県に。この時の逃避行の影響でしょうか。知りませんでした。
自分も1987~91年は大垣市切石町で大学の下宿生活をしていましたが、朝長の墓なんて気が付きませんでした。赤坂の金生山に化石か鉱物の博物館があって行きましたが。墨俣の秀吉の一夜城の近くに義円の墓があるのは知っていましたが、一夜城跡しか足を運びませんでした。
近鉄の養老駅に杭瀬川を義朝一行が下って行ったという写真の説明パネルがあったように思います。今もあるのかな?
自分の高知市の家には葬式や引越しのたびに源希義(頼朝の弟)の子の希望の三男の系統の太夫さん(祈祷師)がよく来てくれていました。この時の逃避行の影響で静岡県の沼津から島流しになったのかもしれません。
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