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 投稿番号:100700 投稿日:2004年10月11日 07時25分24秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
遣唐使 「井 真成」 遥か西安に没す

コメントの種類 :人物  パスワード

http://www.asahi.com/culture/update/1010/006.html

「井」という姓は現存しているそうですが
「井伊さん」「伊井さん」は派生なのかもですね。

記念にスレッドを立てさせて頂きました。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月11日 07時28分14秒 ) パスワード
  

http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20041010it14.htm

こちらも参考まで。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月11日 07時31分42秒 ) パスワード
  

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/afro-ocea/news/20041011k0000m030087000c.html

こちらの記事からでは「井上さん」と同じ出身なのかもですね。
[3]アカコッコさんからのコメント(2004年10月11日 09時03分28秒 ) パスワード
  

東京新聞より。遣唐留学生の墓誌全文(□は不明字、句読点は西北大による。)

 公姓井、字眞成、国号日本。才称天縦、故能□命遠邦、馳騁上国。
 踏礼楽、襲衣冠、束帯□朝、難与儔矣。豈図強学不倦、聞道未終、□遇移舟、隙逢奔駟。以開元廿ニ年正月□日、乃終于官弟。春秋卅六。皇上□傷、追崇有典。詔贈尚衣奉御、葬命官□。即以其年二月四日窆于万年県産水□原、礼也。嗚呼、素車暁引、丹旐行哀。嗟遠□兮頽暮日、指窮郊兮悲夜台、其辞曰、□乃天常、哀慈遠方。形既理于異士、魂庶帰于故郷。

 新聞を見ながらタイプしたもので、間違いがあるかもしれませんが、ご勘弁を。
[4]アカコッコさんからのコメント(2004年10月11日 10時02分49秒 ) パスワード
  

 [3]の日本語の読み下し(東野治之奈良大教授による墓誌の読み下し文は次の通り。)(□は不明字): 東京新聞より



 
 公は姓は井、字(あざな)は眞成。国は日本と号す。才、天の縦(ゆるせ)るにかなう。ゆえによく命を遠邦に□し、騁(てい=馬)を上国に馳す。礼樂を踏みて衣冠を襲い。束帯して朝に□す。ともに儔(たぐ=比較)こと難し。あに図らんや、学につとめてうまず道を聞くことまだ終わらざるに、□に移舟にあい、隙(げき)、奔駟(ほんし)にあわんとは(=急死を表す定形文)。開元二十二年正月□日、官弟(政府の与えた宿舎)に終わる。

 春秋三十六。皇上、□く傷みて、追崇する典(=決まり)あり、詔して尚衣奉御を贈り、葬は官をして□せしむ。すなわちその年二月四日をもって、万年県の産水の□原にほうむる。礼なり。ああ、素車(白い車)暁に引き、丹旐(ちょう=旗)、哀を行う。遠□をなげきて暮日にたおれ、窮郊におもむきて夜台に悲しむ。その辞にいわく、□はそれ天の常、この遠方になるを哀しむ。形は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)う、と。

 新聞を見ながらタイプしたもので、間違いがあるかもしれませんが、ご勘弁を。






[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月11日 11時12分10秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。

見たことない漢字や
読み方?意味?使い方?の分からない漢字ばっかりで5%ぐらいしか・・・・
(英語に訳して意味を考えるか〜)
と作戦を練ってました。


再度感謝です。しぇーしぇーにー
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月19日 03時19分58秒 ) パスワード

717年19歳の時に唐へ渡った井真成は36歳で突然死。
彼の墓誌が西安市(昔の長安)で今秋発見されたということで俄然古代史が面白くなりました。


下記の記事を教えていただきました:
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20041218i416.htm

中国姓が「井」であることから、
「葛井(ふじい)氏」か、「井上(いのへ)氏」の一族ではないかと。

葛井で「ふじい」と読むのですか?へえ〜


「葛井氏の井上氏も藤井寺市一帯を拠点とした渡来系の氏族で、
特に葛井氏については「広成」「大成」という名の人物がいたことも知られており、
和田萃・京都教育大教授(日本古代史)は「真成が藤井寺出身であることは間違いないだろう」と断言する」

へえ〜


一説に藤井さんは百済系だとか。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月24日 17時10分47秒 ) パスワード

今、NHKの番組で故・水上勉さんの晩年を紹介していますが
水上氏の主治医のお名前は「井 益男さん」と仰るんですって。


「井」1文字の方が現存するんですねえ。

で調べてみたら
保元物語の「官軍勢沙へ」に
遠江国には
横地
勝田
井八郎
なんて書かれているんですよね〜


今井四郎どの
またもや無断転載お許しください。


十一日の寅刻に、官軍既に御所へをしよす。折節東国より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。先鎌田の次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国には佐々木の源三・八嶋冠者、美濃国には平野大夫・吉野太郎、尾張国には舅熱田大宮司が奉る家子郎等、三河の国には志多良・中条、遠江国には横地・勝俣・井の八郎、駿河国には入江の右馬允・高階十郎・息津四郎・神原五郎、伊豆には狩野宮藤四郎親光・同五郎親成、相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名の源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には安西・金余・沼の平太・丸の太郎、武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斉藤別当実盛・同三郎実員、横山に悪次・悪五、平山に相原、児玉に庄の太郎・同次郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者、上総には介の八郎弘経、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎・物射五郎・岡本の介・名波太郎、下野には八田四郎・足利太郎、常陸には中宮三郎・関次郎、甲斐には塩見五郎・同六郎、信濃には海野・望月・諏方・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井の大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎を始として、三百余騎とぞしるしたる。
[8]田中愛造さんからのコメント(2005年02月27日 02時49分46秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様  ご無沙汰致して居ります。  

 昨年10月mass communicationで発表され。西北大学教授王建新氏は、「玄宗皇帝の信頼度が相当なものでかなり親しい人物だったのではないか」と推測された。
 平熱に於いても、いち早くギャンブラー様が取り上げられ、皆さんが飛付くと見ておりましたが一向に其の兆しも無く・・其れも其の筈日本古代史の学者さんも余り口にしない。追求するより周りを埋める程度にしている、御身大切で後の見解が分かれるのを黙しているかに見えますね。私などは恥して捨てる物無く、少し調べて見ましたが得る処も無く矢張り外堀を埋める工事です。
 新撰姓氏録や其の他の古書を紐解くも井氏に関しては時代の新しいものばかり、然し余程の人物の子弟で無ければ人選されず、時代的にも河内の国の勢力的にも遣唐使同行の留学生として選抜が難しかったと思います。安倍仲麻呂とは同年代で、さらに『天賦の才能をもって唐に渡り勉学を勤しんだ。学問を修め官吏として朝廷に仕え礼儀正しさは比類ないほどだった』とされ、名家・名族でなくしてははかりがたいと考えます。
 井上忌寸は、応神朝来帰と伝わる東漢(倭漢)阿知使主を祖とした渡来系で、その子都加使主に三子あり、此の後裔20氏(後、62氏)の枝族が存在する、(後漢霊帝の曾孫阿知使主とされるが、実際は漢の氏に基き自出中国王家に改変したもので)本来は、朝鮮系渡来人(百済安羅〔安邪〕)と説かれる。井上直の後、新撰姓氏(右京諸蕃上・下)にも記され、志努直の子志多直は井上忌寸十姓の祖と云われる。河内国志紀郡井於(イノエ)郷《大阪府藤井寺市道明寺町付近》。
 葛井連姓は、貴須王(百済王)−長斯王ー辰孫王(智宗王、応神朝来朝と伝わる)ー太阿郎王(仁徳天皇近侍)ー玄陽君ー午定君(塩君)−味沙(味散君)−白猪膽津(胆津史、欽明30年賜)−己都ー宝然ー道麻呂(葛井連、養老4年720賜)とあり、この時期遣唐使の出入り多く、道麻呂の子に大成(筑後守)広成(中務少輔)とよく似た名が見られる。一族の中からは対外交渉の任に就いた人物が多く輩出されたとあるのも窺える。河内国志紀郡藤井《大阪府藤井寺市》葛井連の氏寺は志紀郡長野郷にある葛井寺(別名、剛琳寺)と見る。
 よく似た名前として。
 広井氏は百済の渡来系氏族(造姓)で広井造真成がいる、この者は少し遅い時期の人物だが延暦10年791連を賜っている。
 秦氏にも同じ時代に近い人物が、秦忌寸石勝の曾孫秦真成がいる。

 井氏に関して、姓氏家系や他を見ると。
 藤原北家、遠江国引佐郡渭伊郷より起きる。保元物語に井の八郎あり(ギャンブラー様解説済み)引佐郡井伊氏は、諸文献では藤原冬嗣の子良門の後とされるが、先の井の八郎もそれで、もとは井氏、三国真人(三国氏)の裔とする。又、藤姓・遠江の井氏の後裔に関白兼通の子顕光の裔にして、井政光(下野守)−井国房(源太左衛門尉)−井国勝(上總守、下野に従来る)−井国兼ー井信国(新介)−井国弘(源太左衛門尉、氏に下の字を加え井下とす)がある。後、井上氏となる。
 但馬の日下部親安(井権守)と。
 佐々木行定の子行実(井上三郎)ー盛実(井権守)−家実(井源太。子孫から、井・平井・一井・井上・他多く輩出す)、一方行実の三男行方(井ノ五郎)−行忠(井ノ三郎)その弟行久(井ノ八郎)と見られる。又、同じ佐々木義清の子泰清、出雲・隠岐に栄え井氏は其の裔とある。
 太平記に井弾正忠なる人物も記される。
 この様に探索すると実に井を名乗り名字とした流れも多く、切の無い謎かも知れませんが何かが浮かんで来るので深みに嵌りそうです、井上の井か、葛井の井であるかは別としても、ロマンの程は限り無いものです。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月27日 03時21分32秒 ) パスワード

田中愛造さま

詳しい書き込みをありがとうございました。


>名家・名族でなくしてははかりがたいと考えます。

多分当時の名家・大家だったんでしょうね。

「井」からいろいろ派生して現代に至るなんでしょうね。
姓だの苗字だの本当にキリがないですけどロマンがどんどん育っていきますね。
[10]アカコッコさんからのコメント(2005年03月24日 17時07分04秒 ) パスワード

 明日(3月25日)より開催の「愛・地球博」の中国館に『井』姓の墓誌が展示されるそうです。

 一見したいものですが。一辺三十九センチの正方形ですので、文字までよみとれるかな?。

 古代の日中交流史を解明する一級史料と期待されている。その他唐代の壁画や、甲骨文字が刻まれた骨片など約十点も展示されるそうです。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年03月24日 17時44分01秒 ) パスワード

いいですねえ〜
私も一見したいものですが無理なので残念です。
[12]さちこさんからのコメント(2005年05月15日 23時43分13秒 ) パスワード

このスレッドに大変興味あったのですがコメント遅くなりました。

14日から井真成の墓誌の公開が愛知万博中国館で始まりました。
中国館では5月20日まで。

5月21日からはグローバル館に場所を移し7月3日まで展示されてるそうです。

その後大阪、東京でも日程は決まってないそうですが展示される予定とか。

特に近鉄のホームグランドだった藤井寺では、
近鉄なき今、
今度は、井真成イメージキャラクターを早速つくり町おこしだそうです(笑)
さすが関西人!
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月15日 11時44分08秒 ) パスワード

さっき「シルクロード10編目 西安」を見たんですが。
堺雅人が井真成を演じている番組です。

天下のNHKさまにたてつく気は無いので遠慮しておきますが
何なの?あの番組
とだけ記しておきます。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年05月30日 06時03分01秒 ) パスワード

久し振りに上げます。
アカコッコさんには大変お世話になりました。

新たな説なども出ているようなのでウイキより全文コピペします。


その理由は
当時遠慮して新聞社の記事はURLのみ載せましたが
各社ともみごとに行方不明になっています。
やはりコピペをしておかないとURLだけでは意味が無かったですから。


ウイキより

井真成


井 真成(せい しんせい/ い の まなり)

文武天皇3年(699年) - 天平6年/開元22年(734年))
唐代の日本人の留学生または官吏。
日本名は不明。
中国の古都・西安で墓誌が発見された。


概説

井真成は、中華人民共和国で発見された墓誌に、日本人留学生として記されていた姓名である。

墓誌は、同国陝西省西安市内の工事現場から発見されたと、同国の西北大学が、2004年10月12日に発表した。

墓誌は発見された後、一度個人の所蔵となったが、西北大学付属博物館が収集したものである[1]。

墓誌には、日本人留学生の井真成が、
開元22年(西暦734年)正月■(朔〜十,廿のいずれか)日に死去したので、
「尚衣奉御」の官職を遺贈されたなどと記されている。

これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、
現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である。



墓誌

原文
墓誌原文は以下の通り。■は、判読できない文字。



贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故・



訓読文
墓誌の訓読文は以下の通り。


贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。
公、姓は井、字は眞成、國號は日本。
才は天縱に稱ひ、故に能く命を遠邦に■、騁を上國に馳せり。
禮樂を蹈み、衣冠を襲ひ、束帶して朝に■、與に儔び難し。
豈に圖らんや、學に強めて倦まず、道を聞くこと未だ終へずして、■移舟に遇ひ、隙奔駟に逢へり。
開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終へり。
春秋卅六。
皇上■傷して、追崇するに典有り。
詔して、尚衣奉御を贈り、葬むるに官をして■せしめ、卽ち其の年の二月四日を以て、萬年縣滻水■原に窆るは禮なり。
嗚呼、素車は曉に引きて丹旐哀を行ふ。
遠■を嗟きて暮日に頹れ、窮郊に指びて夜臺に悲しむ。
:其の辭に曰く「乃の天の常を■、茲の遠方なるを哀しむ。
形は旣に異土に埋むるとも、魂は故・に歸らんことを庶ふ。」と。



抄訳
墓誌の抄訳は以下の通り。


姓は井、字(あざな)は真成。国は日本と号す。
生まれつき優秀で、国命で遠くにやってきて、一生懸命努力した。
学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。
ところが思わぬことに、急に病気になり、開元22年(734年)の1月に官舎で亡くなった。
36歳だった。
皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。
体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない。
— 氣賀澤保規、中国史



墓誌の謎


墓誌は石面一面に書かれているのが普通だが、この墓誌では左1/4が空白になっている。
表記形式が一般のものと若干異なる。
官歴が記されていないのに、死後高位を賜っている。
発見が科学的調査によるものではなく、建設工事現場で地下から掘り出され人から人の手に渡ったため、いつ、どこで掘り出されたものか不明である。



その研究

研究によれば、井真成は717年(養老元年)、多治比真人県守を大使とする遣唐使とともに渡唐したとされる。

これは、阿倍仲麻呂や吉備真備と同時期の渡唐である。

井真成の死去の前年である733年(日本:天平5年、唐:開元21年)には、
多治比真人広成を大使とする遣唐使が渡唐し、翌年には留学生吉備真備らを連れて帰朝している。
したがって、この遣唐使がまだ唐に滞在中に病死したものと考えられる。

また、墓誌に日本という国名があることが興味深い。

2005年(平成17年)12月には、NHKスペシャル『新シルクロード』で、井真成のイメージドラマが放送された[2]。



井の姓は中国風に一字に省略したもので、古代の帰化系氏族「井上(いのへ)氏」
あるいは同様の帰化系氏族「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと推定する研究者もいる。

この説を元に葛井氏ゆかりの葛井寺がある大阪府藤井寺市では、
同時期の葛井氏に「○成」という名が多く見られることを論拠として、
井真成を「葛井真成」と呼び「せめて墓誌の形ででも”里帰り”を」と求める運動まで起き、
実際にその”里帰り”が2005年(平成17年)に実現され、
アイセルシュラホールで一般公開された[3]。

更に藤井寺市の公式キャラクターとして「まなりくん」というご当地キャラクターが作られている。



出自に関する諸説


井上氏説
鈴木靖民(國學院大學教授)
古代豪族で帰化人の末裔である井上氏の一族ではないかと主張し、葛井氏なら一字にする際に中国にも多い「葛」姓にするのではないかと主張。また、葛井氏は720年(養老4年)に下賜された姓(『続日本紀』)ことから、井真成がその3年間に唐に派遣された事実との年代的矛盾が生じること、井上忌寸と葛井連は同じ河内国志紀郡を拠点とする渡来系氏族であることも指摘する[4]。


葛井氏説
東野治之(奈良大学教授)・佐伯有清(元北海道大学教授)
古代豪族で帰化人の末裔で外交官などを輩出している葛井氏の一族ではないかと主張。


井氏説
九州王朝説を唱えた古田武彦は、
「井真成は、九州倭国の皇族であると考えられる。」と主張[5]。死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではない。当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族だけだった。
井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したと記されているが、これは三等官以上の外国使節に対する扱いである。
現在、「井」とういう姓は、九州熊本県の産山村・南小国町・一の宮町などに多く存在する
井は倭(ゐ)に通じる



情真誠説
張雲方(中日関係史学会副会長)
中国の言葉でまじめでまっすぐな人柄を指すときに使う言葉の音に似た姓名を皇帝より下賜されたのではないかと主張し、日本名に関しては不明と主張。



中国姓説
王維坤(西北大学教授)
「井」姓は唐の時代から長安周辺に多い姓であり、それを採用したと主張し、日本名に関しては不明と主張。



高級官吏説
韓昇(復旦大学教授)
下記のことから「717年の留学生ではなく、733年の遣唐使の随員(高級官吏)だったと」と主張している。

・唐の制度では、官立学校の在学期間は最長9年まで「17年間留学した」とは考えがたい。
・死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではない。
当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族だけだった。
・井真成が死んだ場所が、短期滞在外国使節用の宿泊所である官第(かんてい)である。
・井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したと記されているが、これは三等官以上の外国使節に対する扱いである。



脚注

1.^ “填补历史空白 日本遣唐留学生墓志首次在西安发现”. 中国新聞網報道. (2004年10月12日) 2011年9月1日閲覧。 (中国語)
2.^ NHKスペシャル-新シルクロード 第10集 西安 永遠の都
3.^ 中浜宏章 (2005年2月7日). “西安の墓誌”. 読売新聞. オリジナルの2005年11月29日時点によるアーカイブ。 2011年9月1日閲覧。
4.^ 鈴木靖民「中国西安の日本遣唐使墓誌と墓主井真成」(初出:『東アジアの古代文化』123号(2005年)/所収:鈴木『日本の古代国家の形成と東アジア』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-02484-6
5.^ 古田史学の会 (2005年6月11日). “井真成異見”. 新・古代学の扉. 2011年9月1日閲覧。

参考文献[編集]
専修大学・西北大学共同プロジェクト 編『遣唐使の見た中国と日本 新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』(朝日選書、2005年) ISBN 4-02-259880-8
藤田友治 編著『遣唐使・井真成の墓誌 いのまなり市民シンポジウムの記録』(ミネルヴァ書房、2006年) ISBN 4-623-04619-2

関連項目[編集]
遣唐使

葛井寺
アイセルシュラホール - 墓誌の里帰り展示後はレプリカを展示中。
藤井寺市 - 市の公式キャラクターが井真成をモデルとした「まなりくん」。[1]

外部リンク[編集]
井真成の謎を読み解く - 駐日中国大使館 (日本語)
遣唐使と唐の美術 - 奈良国立博物館
井真成市民研究会
「井真成」墓誌レプリカ展示解説 - 藤井寺市商工会
まなりくんホームページ
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