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 投稿番号:100678 投稿日:2004年09月08日 00時29分57秒  パスワード
 お名前:ニョロ
野呂
キーワード:野呂
コメントの種類 :人物  パスワード

備中の野呂という者ですが
我が家が桓武平家の末裔と聞いた事があります。
どなたか野呂の事を詳しく知ってる方がいらしたら、
どうぞ教えて下さい。お願いします。<(。。)>

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月08日 13時54分01秒 ) パスワード
  

全然分かりませんが

A)
野呂さんというお名前は
・甲斐国八代郡野呂(甲斐国造の子孫の三枝氏の1つに野呂氏というのがあるそうです)
・それから呉市に野呂山というのがあるようですね。

B)
「日本の苗字7000傑」
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02104.htm
【三枝部氏】
 天津彦根命の裔孫、多祁許呂命の裔と伝える。顕宗天皇の時に三枝部連を賜う。
 後裔の守国は仁明天皇時の軍功ありて播磨国に領地を得るが、故ありて甲斐国山梨郡能呂に配流される。
 守国の子は、能呂、立河、林部、辻、石原、隠曽の祖なり、これに三枝を加えて三枝の七名と言われる。
 三枝部氏の出自は開化天皇裔の丹波氏族の一支族が甲斐国造族となり、後世に三枝姓を称したと見る説も有力かと思われる。
 

と出てますから元々は甲斐国の御出身なんでしょうか?


1番良いのはいつから備中または岡山に御住まいかという事ですね。
状況証拠的には平家+南朝方でしょうね。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100311_56.html
平熱の隈さんのスレッドにも南朝方の野呂さんが出てますね。

「平野家、伊藤家、 何故ここが抱き茗荷を?という不思議です。 でも平家系というか、
南朝系、そして秦氏系に繋がるような ... +鷹の羽が本紋+平家方武士=目から鱗です ...
大橋、真野、平野、柘植、野呂、古市、服部、伊藤 ... 」



奥州でも南朝方の野呂彦八は北畠顕信に合流しようとしてたそうです。
http://maoda.hp.infoseek.co.jp/soga.html

1339年、延元4年、
曾我太郎貞光軍忠次第事
一去六月、安藤四郎以下御敵等、尻八楯打入、
依令致合戦、御奉行発向之時、同心致軍忠之間、
若党中間等、或打死、或手負、
分取不及注文御披見候了、

同九月廿三日、又御敵等、貞光楯寄来之時、
若党矢木弥次郎、同太郎、中野弥八、野呂彦八、
恵藤三郎、中間二郎太郎打死仕候了、


つまり青年武士の野呂彦八は1339年9月23日に討ち死にした。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月08日 14時02分04秒 ) パスワード
  

http://www.urban.ne.jp/home/tamatama/0d/0d03.html

の水島合戦と鬼の小便岩は参考になりますでしょうか?



「鬼の小便岩は新倉敷駅の北西、天神山の近く、野呂の部落へ行く途中の道端にあります」

倉敷の歴史を調べたら野呂という場所について詳しく分かるでしょうか?
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月08日 14時05分19秒 ) パスワード
  

やっぱり状況証拠的には平家+南朝方でいらっしゃいますね。
家紋は如何でしょう?
抱き茗荷紋とか鷹の羽でしょうか?それとも?

家紋ですと小林先生が御専門でいらっしゃいます。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月08日 14時28分36秒 ) パスワード
  

全然関係無いところで
「落城記」の野呂邦暢。
もうお亡くなりになってますが。
舞台は諫早の西郷家のお話なのですが竜造家に呑み込まれていく物語です。

ここの武士の1人に服部某というのが出てきます。
やっぱり平家で南朝方で諫早に定住した家なのかなと。

その作家が野呂さんということで(なるほどなあ)と。
いろいろ偶然かと思ってましたがやっぱり運命の糸で繋がってたのでしょうか。
しみじみ
[5]アカコッコさんからのコメント(2004年09月08日 18時02分49秒 ) パスワード
  

 尾張群書系図部集(下)に野呂家の系図が記載されております。(野呂助左衛門宗長裔孫)とあります。

 参考のところに野呂雄久以前の系図は。近代に至り甲州野呂党に附会した恐れがある(寛永六年(1629)春の「野呂幸右衛門略記」の略系図には雄久以前は記されていない)。
 野呂雄久(忠久)は梶原景時の裔孫。父梶原平左衛門は織田信長、次いで
梶川高盛の家臣となる(「楽田村史」)尾張野呂氏の系図類にはこのことに触れたものは無いので真偽は不詳である。

「勢州軍記」巻上に、弘冶元年(1555)十二月、南伊勢の溢者が起こした徳政一揆の一味同心者に、伊勢多気斎宮の住人野呂三郎の名が見えており、尾州野呂氏との関係が注目される。

○「兼山記」に見える野呂氏。
 ●野呂助左衛門(忠吉・宗長)森勝蔵(武蔵守長可)家来。天正十二年(1584)二月、尾州羽黒合戦に討死する。
 ●同人子(直忠・宗政)父と共に討死。

 などとあります。これは余談になりますが、音楽の先生が野呂姓で、息子の幼稚園の先生もこれまた野呂氏でした。
[6]小林雅成さんからのコメント(2004年09月08日 22時37分50秒 ) パスワード
  

野呂様

家紋は檜葉ですね?三枚の葉っぱです。
岡山の野呂さんも、大阪の野呂さんも、和歌山の野呂さんも、三重の野呂さんも家紋は同じです。

伊勢発祥の桓武平氏というのでしょうが、秦熱の勢いでいうと秦の一族が一番ちかいかな?例の桓武帝の奥様は実は百済系でなくて秦系でないの?という話のバリエーションであります。
秦の一族は、源平の戦いのころ既に大族となっていて、その一部ですが、後に平家といったり、藤原氏といったりしたというのが、真実にちかいかなとも思います。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月09日 06時26分04秒 ) パスワード
  

>野呂雄久(忠久)は梶原景時の裔孫。
>父梶原平左衛門は織田信長、次いで梶川高盛の家臣となる(「楽田村史」)尾張野呂氏の系図類にはこのことに触れたものは無いので真偽は不詳である。


愛知県春日井は梶原景時の所領地だったので
そこに定住した梶原氏が野呂姓を名乗ったのでしょうか?

梶原景時は頼朝の挙兵時には平家方だった
(頼朝が洞穴に潜んでいた時に命を助けた
その後梶原は源氏方についた)


梶原と野呂氏の関係
どこからなのか解ると良いですね。
[8]小林雅成さんからのコメント(2004年09月09日 07時57分21秒 ) パスワード
  

野呂様

抱き茗荷のスレッドで、以前に同じ事を書いておりました。昨夜かいててなんかおなじような気が、、。

ところで、私は岡山なんですが、野呂さんは、倉敷ですか?電車でいけるところならこんどいってみますけど、百聞は一見にしかずといいますので。
当方、貧乏な文人ですので、車はございません。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月09日 10時52分55秒 ) パスワード
  

プロの小林先生にお墓の家紋を見て頂けたら感激でしょうね。
[10]田中愛造さんからのコメント(2004年09月16日 22時11分56秒 ) パスワード
  

伊勢平氏《野呂氏》
 桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)−良望王(平国香)−貞盛ー維衡−正度ー季衡(右京亮・伊勢元祖)−盛光(右京亮?少進・左兵衛尉)−盛行(右兵衛尉)−盛長(頼宗、帯刀長・兵庫頭・伊勢守)−盛経(八郎)−教経(肥前守)−経久(因幡守)とあり、其の子に盛景(弥八郎、左衛門佐・備中?前守)と盛経(孫九郎、左衛門尉・備中守)ある。此処で因幡野呂氏や備中野呂氏の痕跡を残したかと考えたが、この系の野呂を名乗ったのは、盛景から八代目の為景(兵庫頭・左衛門尉)で其の子友景(兵衛尉)−正景(猪之丞)−守景(北畠具教のち徳川家康仕う)−守景(彦兵衛)ー眞景(又太郎)と続く。然るに大永年間に野呂房隆の弟實忠は波多瀬城築城とし、其の子實高は二見の役討死、又隣の五箇篠山城に野呂源實がいる。且つ又、籐姓を名乗る野呂三省の養子實夫(元丈、連山)−實和(八三郎、元順)−實光(源次郎、元正)−實信、等が波多瀬出としている。古くは文永10年野呂氏隆が上野国より当地多紀郡に来て五箇篠山に築城したとある。
 更に有名な三枝部の野呂氏で甲斐国造三枝直系、この氏に至っては、暇潰しのギャンブラー様、アカコッコ様、小林先生に依って語られ、又、【姓氏家系・日本姓氏・日本名字家系・尾張群書系図・姓氏苗字・他】に詳しく、割愛ご遠慮致します。唯、【寛政譜】には三枝・藤原・平氏と疑問を残し、家紋も又多いが代表するのが同化使用され、平家を代表する(丸に揚羽蝶・向かい揚羽)も三氏で使われていて、野呂氏が三枝一本化している。  とりあえず、
 桓武平氏伊勢系野呂氏
 三枝姓甲斐野呂党野呂氏
 武蔵小机四人衆野呂氏
 相模高座郡二宝郷野呂氏
 濃尾森氏属野呂氏
 文徳源氏野呂氏
 宇多源氏佐々木野呂氏
 藤原姓野呂氏
 紀伊藩野呂氏
 津軽藩野呂氏
 因幡国野呂氏
 何れも三枝に関係し、(旗本八萬旗)に丹波氏族三枝一族・家譜に伊勢平氏とある。正景のとき浜松に来て徳川家康に仕え忠戦、駿河の三枝橋の戦で討死、父の功にて守景三百石、彦兵衛守景(徳川忠長の失脚)で禄を失うも、後に復帰す。寛政10年の旗本知行は。藤原/野呂実信・二百俵、三枝部/野呂景房・二百五十石、野呂徳行・二百俵、野呂景忠・百俵五人扶持、他・野呂正秀。
[11]さちこさんからのコメント(2004年09月16日 22時54分24秒 ) パスワード
  

野呂さんはじめまして。

少しコメント遅いですが、
私は三重県の北部に住んでます。
にょろさんに関係ないかもしれませんが、
私は野呂さんは親戚ではないけど何かとご縁があるのです。

三重県は野呂さんの多い所です。
何しろ知事さんが野呂さんですから(笑)

私の住んでるのは四日市市なのですが、
四日市では野呂さんと平田家の分布が似ているのです。

四日市に富田という昔の漁港町があるのですが、
ここから朝明川沿いへ西に向う辺りに集中してます。

土地鑑がなければイメージとして浮かばないかもしれませんが。
この辺りの野呂家は私の知ってる限り丸に抱き茗荷紋です。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月12日 12時42分42秒 ) パスワード
  

南朝方の野呂さん、みっ〜け! 

>布施孫三郎重政
>小笠原の郎党である。信州から良王を供奉し、三州に赴き、野呂に居住。

ですって!
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年10月12日 12時48分46秒 ) パスワード
  

良王君関係なんて我が家とモロお仲間ですね。
川口氏や大橋一族とも。
[14]ニョロさんからのコメント(2005年01月02日 23時59分53秒 ) パスワード

皆様、こんなにも沢山答えて頂きながらも
一身上の都合により、大変レスが遅れてしまい申し訳ございません。


>>暇潰しのギャンブラー様
即レス有難う御座います。
家紋は檜葉です。もし平家&南朝でしたら、平家と南朝ファンの当方としては嬉しい限りです^^


>>アカコッコ様
>「勢州軍記」巻上に、弘冶元年(1555)十二月、南伊勢の溢者が起こした徳>政一揆の一味同心者に、伊勢多気斎宮の住人野呂三郎の名が見えており、尾>州野呂氏との関係が注目される。

一族の人が津に行ったりしているので、どうやら伊勢と繋がりがあるかも?
情報有難う御座います^^


>>小林雅成様
仰る通り檜葉です。
住所は御津ですが、元々津山の方にいたと聞きます。

お墓をプロの方に見て貰えるとは・・・凄い感激です!!
・・・でもスミマセン。
自分の一家は今、関東に居まして姓も西村となってしまっております(><)
本当に申し訳ありません。


>>田中愛造様
沢山の情報有難う御座います。
なんだか、野呂氏は討死の記述が多いですね^^;
資料を読むと、やはり伊勢平氏出身なのでしょうか?
もしそうだとすると、母の実家も屋号?に神戸姓をもっており
地元では、かなり有名な家だったそうです。(周りの地名も何故か伊勢がつく地名が多いです。)
神戸といえば、伊勢平氏・・・と都合よすぎですね^^;


>>さちこ様
はじめまして^^
丸に抱き茗荷紋、今度本家の方と会う機会がありましたら聞いてみますね。
もしかしたら、なにかしらの繋がりで三重に在住の一族の方が居るかもしれません。
さちこ様有難う御座いました。


皆様、沢山の情報有難う御座す。
もしまだ何かありましたら御協力下さると幸いです。
それでは失礼します。
本当に有難う御座いました<(。。)>
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月03日 04時39分56秒 ) パスワード

ニョロさん

元が津山でしたら状況証拠からやっぱり「平家&南朝方」という印象を受けますね〜
(笑)

それから武士の家が畳の上で亡くなったというよりは討ち死にでも「記録に名が残る方が名誉倍増」と思いますね〜
(笑)

家紋は檜葉でやっぱり「平家&南朝方」という印象がマスマス強くなります。


滅びた平家の子孫という言い伝えは政権側だった源氏子孫という自称よりずっと確かだと思います。
桓武天皇流平家という貴家の伝承は正しいようですよ。
自信を持ってください。
田中愛造さまの家系書の元になったお家と連絡が取れると良いですね。


明治の初め頃の御先祖さまの戸籍謄本が手に入ると良いですね。
そちらにまだ御一族が住んでいらっしゃるかも。
早目に連絡をとっておかれますように。
どんどん疎遠になりますし引越ししちゃいますし。

ニョロさんがここで今の時代にお家のまとめ役になって家系を伝えていって欲しいという御先祖さまからの願いかもですよ。
でないとマスマス忘れられていってしまうから。


御先祖さまが討ち死にして今の自分が存在しているって不思議ですけどありがたいことですよね。
記録に名を留めたことで「存在してた御先祖さま」のお姿がクッキリ姿を現しますよね。
本当にありがたいことです。
[16]木村知広さんからのコメント(2006年12月01日 01時53分35秒 ) パスワード

私の母親も旧姓が野呂です。
母親の父(私の祖父)は三重県松坂市から山手に入った飯南の出身とのことです。
家紋は『鷹の羽』
それ以上のことはよくわかりません・・・
[17]estrellaさんからのコメント(2007年07月09日 04時30分36秒 ) パスワード

うちは飯南で、祖先を調べたら系図がたまたまあり、
15代遡ったら家紋は梅鉢でした。

ここには梅鉢の方いないですかね?
もっと野呂家を知りたいので、詳しい方一度お話してみたいので、
お暇でしたらアドレスにメール頂けますと助かります。

ここの掲示板はたまたま見つけただけなので、二度と戻って来れないかも。

[18]秦 なにがしさんからのコメント(2007年08月31日 20時14分27秒 ) パスワード

初めまして、秦姓の者です。

野呂姓ではないですが、うちの家紋は丸に梅鉢です。
関係無くてすみません。
秦氏で梅鉢っていうのはあまり一般的ではないですよね(笑)

祖父方の実家は泰阜村という南信州の山奥の小さな村で
父の話だと先祖は平家の落人だったらしいです。

祖父方の家の葬儀の帰りに聞かされた話だったんですが
何分その時、自分は小学生だったので詳しくはわかりません…。

父はまだ健在なので実家に帰った折に聞いてみます。
[19]あああさんからのコメント(2007年12月11日 18時54分20秒 ) パスワード

愛知県在住ですが
森長可(森蘭丸の兄)の家臣で野呂助左エ門という
人物の話なら地元に史跡とともに残ってます
[20]プーさんからのコメント(2008年12月03日 16時04分38秒 ) パスワード

三重県飯高町の野呂家を祖に持つものですが、先日親が約20年ぶりに本家に帰省した時に判明したことですが、うちの本家は野呂昭彦三重県知事と親戚だったようです。

そんなお偉い方と親戚だなんて、今更ながら変な感じです。
[21]estrellaさんからのコメント(2008年12月26日 01時41分04秒 ) パスワード

以前にここでコメントしたestrellaと申します。

15代遡った御祖先のお名前は、野呂 與右衛門でした。家紋は梅鉢。
どなたかつながりませんかね?

あああさん
>森長可(森蘭丸の兄)の家臣で野呂助左エ門という
>人物の話なら地元に史跡とともに残ってます
このお話気になります。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月26日 08時33分28秒 ) パスワード

estrellaさん


http://sakuraoffice.com/norotuka.html

犬山の野呂塚のURLです。
[24]crimson_cyclopsさんからのコメント(2009年05月27日 18時35分47秒 ) パスワード

初めまして 青森県代表です。
たまたまめっけました。
現在つがる市となっている元木造町は野呂姓が100人程住んでます。
父がそこの出身です。
私が有る歴史好きの方から聞いた所では、南北朝以前から中央で祈祷系の
仕事をしていたらしいのですが、何かの事件で都を追われ、中央を呪って大厄
を巻き起こし、”呪”の字に”のろう”と当てられたそうです。 本当かな?
又、広島に野呂山と言う所が有りますが、どうやら鍛冶山らしく鉄砲なんかも作っていたらしです。 因みに我が家系は代々農家で庄屋だったようです。
しかし新しい物好きで電気、電話、ラジオ、蓄音機、テレビを地区1番に買い入れるほどだったと聞きます。 家紋は丸に四つ目石ですが、こちらは平家の落ち武者が沢山集まる場所らしいので繋がり有るのかな・・・
又覗いてみます。|Д´)/~~
[25]野呂 正義さんからのコメント(2009年11月25日 20時24分57秒 ) パスワード

京都の野呂と申します。
父が三重県多気郡五ケ谷村(勢和村から現在は松阪市)古江の出身で、
父の実家は現在姉が継いでいます。
旧勢和村役場の後ろに五箇篠山城跡がありそこの中学校に昔姪が通学していました。
先祖は城代家老だったと昔亡き父に聞いたことがあり、野呂性三重南部は多いようですが、姪が小学生の時通知簿の村長、校長、担任、校医、本人と全部
野呂だと姉に見せて貰ったことがありました程野呂姓の多いところで父の従兄弟の野呂が飯高にいます。

家紋は檜葉3枚です。

今日たまたま家紋のことを見ていてここにたどり着き非常に興味を持った次第です。

姉に貰った、旧勢和村発行の本にも五箇篠山城は南朝方の北畠氏が南勢各地に築いた城のひとつだが後の戦国時代に再度北畠氏により築かれた出城だろうとのことですがほとんど資料が残っていないとの記述がありました。
皆さんの投稿非常に参考になり先祖のことを知りたくなりました。
この本には蘭学の始祖として野呂元丈のこともこの地出身と。
[26]ゆきさんからのコメント(2010年03月11日 21時34分31秒 ) パスワード

私の実家も旧勢和村の野呂です。
周辺は半分近くが野呂姓なので実家をでるまでは
メジャーな名前だと思ってました。
北畠系に遣えた伊勢平氏の出だと聞いたことがあります。
屋号は殿出なので名家なのか?と勝手に思い込むことにしてます。
我が家には篠山城から逃げた武将が残したとされる刀が祭ってあります。

という我が家も母の実家は斎宮に住む源氏です。
こちらは代々源の姓を使わず派と書いてミナマタと読む
隠れ源氏です。

[29]ふんふんさんからのコメント(2014年01月11日 17時42分56秒 ) パスワード

 青森県西津軽郡の野呂です。
私は、青森県西津軽郡深浦町の大本家から5代前に分家になった家系です。
本家から聞いた話しだと、元は三重県の明和のあたりからの出身で、江戸期
で言うなれば、家老職だったそうです、その時、クーデターを起こし、殿様の
首を跳ね、家来を連れて福井の敦賀から船に乗り、深浦町にたどり着いたと聞いて
おります。
家紋は丸に三つ柏です。
家系図も本家に残っており、お盆とお正月には、その時持ってきた掛軸等を掛けて
お遊ばせと言って出しています。
[32]平さんさんからのコメント(2020年01月30日 01時56分22秒 ) パスワード

鹿児島の野呂です。
家紋は丸に揚羽です。本当かどうかは解りませんが父からは平家が壇ノ浦の戦いで滅亡され、各地に散らばった家臣の末裔(家臣?)と言われてます。青森の方でも野呂という姓が多いようですが、そちらの血筋?とは別と言っていました。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2020年01月30日 08時35分30秒 ) パスワード

平さんさんさん(笑)

初めまして。


>家紋は丸に揚羽です。
>本当かどうかは解りませんが       ← 状況証拠的には限りなく平家系みたいですね  本当だと思います
>父からは平家が壇ノ浦の戦いで滅亡され、各地に散らばった家臣の末裔(家臣?)と言われてます。



「青森」の野呂氏のことは  平家系+南朝方系でもおかしくないだろう  と思いますが


「鹿児島」という地理的条件と家紋および言い伝えから
ひょっとすると 限り無く 平家の小松家=清盛の嫡男の重盛の家=に関わる野呂氏かな  と思いました。


つまり
島津家の家老だった小松帯刀の家と関係があったのでは?
と思います。


NHK大河の「篤姫」の終わりに紀行部分があって
そこで「鬼丸神社」が紹介されて「小松家の守り神」と紹介されていた記憶です。


家紋に揚羽蝶を用いるということは平家の中でもかなりの地位にあったお家じゃないかと推察します。



なので大きな図書館で小松家を調べたら野呂家のお名前も出て来るかもです。
また県や市の教育委員会がやってる歴史編纂所で鹿児島と平家がらみの史料を頂けると良いですね。


島津家や小松家の家臣あたりに野呂氏のお名前があると良いですね。
頑張って調べてください。
[34]山添 剛さんからのコメント(2021年05月03日 09時21分59秒 ) パスワード

初めまして、山添姓の者で、ルーツを探して野呂氏と繋がりがありそうだと調べているうちに、こちらにたどり着きました。

父方が三重県大紀町崎の出身で、代々地域の名家だったそうです(ものすごい山奥の田舎ですが)。本家の親戚いわく、元は平家の落武者で、後に北畠家の家臣になった家の末裔だとか。

で、そこを手がかりに調べたところ、織田氏の侵攻時に北畠家側として戦い、三瀬の変で戦死した中に「山副彦右衛門尉金時」、その後の霧館の戦いでの処刑者に「山副十六兵衛実有」を見つけました(「山副」は「山添」とも記す)。後者は城主・波多瀬氏の叔父で、どちらも野呂の支流のようです。

ちなみに、現松阪市内のかつて飯南郡だったあたりに、やはり北畠家の家臣だという山添氏の居館があったようで、今も「山添町」として地名が残っています。この地域も、野呂氏の勢力圏ですよね。

これだけ、北畠家と野呂氏に関係がありそうでありながら、家紋はなぜか丸に橘でして、野呂氏とは関係がありそうではなく……野呂氏の流れで「丸に橘」は、ありなのでしょうか。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2021年05月03日 15時51分32秒 ) パスワード

山添 剛さま

全く分かっていませんが


>野呂氏の流れで「丸に橘」は、ありなのでしょうか。

勿論「あり」ですよ。


名字が  音を守って字を変えるのは  
やまぞえ氏が山添だったり山副だったりするということでご存じの通りです。

のろ氏は野呂だったり能呂だったりしますし。



家紋はもっと自由に変化します。

   まず家紋が1つだけというのが  アリエナイ  です。
       最近は1つに絞っている家が多いようですが。だって維持できないからね。

   嫡子・次男・三男までは親の家紋を使用しても四男以下そして庶子の場合は家紋を替えますし
   わたくしの父は5男ですが親と同じ家紋を使用しています。


   主君から  朝廷から  の拝領の家紋もありますし

   何かの縁で家紋を替えることもあります。例えば弓矢の道に優れていて矢を模した家紋にしたりもします。


   趣味でデザインに凝ったりもありますしね。

   徳川家でも葵のご紋は  将軍によっていろいろですよ。


野呂氏:
https://www.myouji.org/MFDocuments2/noro.htm
5番と6番が該当すると思います。


1,三枝姓− − 甲斐国山梨東郡能呂(後、野呂)郷より起こる。甲斐三枝直の後裔なり。

       三枝系図などに「守国−守将(野呂介)−守久(野呂介)」と載せ、以下代々野呂介と註す。一族 野呂党と云い、後世栄える。

       又、?政系譜に
       野呂介守将−守明−守氏−?海−長俊−守長−守泰−盛忠−盛迹−盛秀−景盛┐
        ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
        └景氏−盛政−盛親−守家−守春−守繁−行久−定久−守綱−虎吉、と。

       岩崎の金剛寺に野呂行久の牌子あり。その子を定久と云う、?正中の人なりと。


2,武蔵の野呂氏 − − 橘樹郡小机四人衆の一にこの氏あり。


3,相模の野呂氏 − − 地理志料、高座郡二宝郷條に「若柳に石老山寺あり、小田原の時、野呂中納言これを領す。分限帳に見ゆ」と。


4,濃尾の野呂氏 − − 森武蔵守長一の家臣に野呂助左衛門あり、天正十二年、徳川勢と戦い討ち死す。
その子を助三郎と云う。


5,桓武平氏 − − 伊勢の名族にして、家譜に「伊勢平氏にして、左衛門佐盛景八代の後胤 兵庫頭為景を祖とす」と云い、
又一説に「伊勢平氏 季衡の九代 因幡守経久(盛景の父)の裔」とあり。北畠家臣なり。系図は

「兵庫頭為景−兵衛尉友景−猪之丞正景−守景(北畠具教、後に徳川家康に仕う)−彦兵衛守景−又太郎真景、家紋、庵の内勝一の文字、向い蝶」とあり。


             この家は2つ出てますね。
             「蝶」は伊勢平氏で平家の末裔という意味でしょうね

             「庵の内に勝一の文字」の家紋は下記の「家紋屋本舗」の最初の段に出てますね。
             https://www.rifnet.or.jp/kamon/cate_list.php?k_cate=k06_mo


6,藤原姓 − − 野呂三省の養子 実夫(号 連山)は、波多瀬村の人、高橋善太郎の子なり。幕府に仕う。

?政系譜に「実夫−八三郎実和−源次郎実光−実信、家紋、丸に桧葉、庵に勝一の文字」と。


           たぶん  この藤原姓の野呂氏は伊藤系かもです。
           伊藤氏は伊勢の藤原さんということで  平家とは平将門を討った時以来の盟友で
           平家の武門を担当していました。当然平家の公達の乳母の家です。

           超有名どころは藤原(古市)景綱とか藤原(伊藤)忠清とか平景清の3代ですね。
              詳しくは「藤原忠清」で検索なさってください。


                    つまり皆さん お仲間・親戚・一族 ですよ。


7,文徳源氏 − − 下野国志に「下野国司 行房は、野呂上野介義高の曾孫にて、惟喬親王の末葉なり」とあり。

8,他

__________________________________

>元は平家の落武者で、後に北畠家の家臣になった家の末裔だとか。

はい
その通りです。


桓武天皇の子孫が平姓を賜って上総国に下向して坂東平氏となり
平家の祖である平貞盛が従兄弟の平将門を親戚の藤原秀郷と組んで討って
1006年に上総国から伊勢に来て伊勢伊賀は平家の本貫地でした。

平家の落武者ということは壇の浦などで負けて地元に戻ったということだと思います。

後に北畠家の家臣になったのは  南朝方がらみ  ということです。

平家の子孫は後醍醐天皇のお召しで南朝方に加わりました。
伊勢の国守だった北畠氏は後醍醐天皇の右腕だった北畠親房の子孫ですから
当然お仲間です。

そして織田信長の侵略に遭い  北畠家は信長の次男の信雄に乗っ取られました。


>霧館の戦い

三重県の大きな図書館に行けば、参考文献が読めると思います。



おまけ:

野呂氏についてのサイト
https://folklore2017.com/527.htm


http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_nu.html
ここには「剣梅鉢紋」の野呂氏が出てます。

丹波氏族三枝の一族。伊勢平氏ともいう。野呂正景のとき浜松に来て家康に仕え、忠戦して、駿河の三枝橋で討死した。父の功をもって子の守景は三百石を与えられた。


       たぶん  この野呂氏は5番と6番の野呂氏と一族でしょう。


野呂氏館跡
https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/mieken/ye-lue-shi-guan



野呂氏館跡発掘調査報告 (1984年) (芸濃町埋蔵文化財発掘調査報告〈第1集〉)
by 芸濃町教育委員会 (編集)


頑張っていろいろ調査なさってくださいね。
そしてご先祖さまの慰霊をなさってください。
きっと守ってくださいますよ。
[36]山添 剛さんからのコメント(2021年05月17日 23時44分59秒 ) パスワード

御礼が遅れまして、大変失礼しました。
これほど早く、詳細に御返事いただけまして、
驚いています。
誠にありがとうございます!

我が家の先祖が波多瀬で破れた山副氏であれば、
やはり野呂の一族なのですね。
野呂氏自体、謎の多い感じがありますので、
その末族(かもしれない)の一員として、
こちらの皆様の情報をたのしみにしつつ、
私の調べで野呂氏に関わる情報が出てきましたら、
提供させていただこうと思います。

ちなみに、父方祖母の実家(野村)は、
三重県南島町の
やはり平家落人・南朝北畠家筋だそうでして、
野呂氏とも何か関係があるかもしれません。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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