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 投稿番号:100674 投稿日:2004年08月23日 21時28分05秒  パスワード
 お名前:ゆき
平将門について...
キーワード:平将門 人物像 平将門の乱 時代背景
コメントの種類 :質問  パスワード

平将門の乱の時代背景や平将門の人物像などの考察があったら投稿してください。
レポート作成の参考にしたいですっ(^^)/
・将門が立ち上がった理由は...?
・将門の新国家像はどのようなものだったか...? etc...

[1]相馬さんからのコメント(2005年03月22日 17時52分21秒 ) パスワード

以前、将門の子孫についての掲示板があったみたいですが、本家の相馬氏は千葉氏から養子を貰ったので将門の血筋は絶えてしまいましたよね。

九州に行った子孫というのもありましたけど、どなたか将門の子孫をご存知ありませんか。
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年03月23日 21時08分05秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

相馬貞元の裔が九州相馬氏で、太平記に見える南北朝時代の鎮西の相馬小太郎などは後裔と思われる。
恐らく筑後国山門郡瀬高庄を中心に九州全域に拡がったものと推測する。
また異説として肥前有馬氏の祖である藤原氏長良流の直純は、実は将門の子相馬次郎平直澄であり養子となり藤原純友の末裔に家系をすり替えたとしている。
相馬姓は東日本に圧倒的に多いが、九州も熊本県をはじめ意外に多く薩摩の島津一族にも相馬を称するものがある。
[3]田中愛造さんからのコメント(2005年03月24日 00時04分35秒 ) パスワード

少し、古くなりますが・・
  川野京輔著(平 将門・純友風雲録)昭和50年。炎の時代を生きた野望の系譜と題した本が有ります。図書館にあると思います、将門の生き様や其の時代の背景など等が浮彫りで、とても面白いですよ。
[4]さんからのコメント(2005年03月24日 01時15分38秒 ) パスワード

九州相馬氏って現在でも健在なんでしょうか。

あと相馬を初めて名乗ったのは千葉からの養子からという説もあるので、九州へ移ったという貞元が相馬なのは不思議な気もしますね。
[5]相馬さんからのコメント(2005年03月30日 17時53分37秒 ) パスワード

将門の娘が平忠頼にとついでその子供が反乱を起こした平忠常というのは信用できるんでしょうか。

だとしたら、反乱の多い血筋ですね。
[6]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年03月31日 00時06分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

相馬さんへ
 
上総介平忠常が乱を起こした関東、特に上総、常陸、上野は親王任国であり、国守は赴任しないで京都に居る。
これら三国に桓武平氏系の受領が多く任命されたのは、初代の親王国守が仲野親王(上総)、賀陽親王(常陸)、葛井親王(上野)といずれも桓武天皇皇子だったことによる。
忠常の祖である高望王も上総介として赴任、子孫が関東各地に土着して国府の官僚(介、掾など)に任命されている。
上総介とはいっても実質的には上総の最高権力者なので、
代を経る毎に在地土豪勢力との閨閥関係が深まり強力な武力集団が出来上がった。
しかし、職務と待遇の乖離による不満が溜まって中央に造反したものと考える。
[7]湖水の疾風さんからのコメント(2005年06月16日 15時21分44秒 ) パスワード

将門の子孫とされる相馬氏ですが、七代師国の時に家督争いのため千葉氏から養子・師常を迎えています。

師国の後妻が千葉氏出身だからとの事ですが、この師常は将門と血の繋がりというのはあるのでしょうか?

たとえば師国以前の相馬家から千葉家に輿入れしたような事があったのかという事です。
[8]湖水の疾風さんからのコメント(2005年06月16日 15時37分55秒 ) パスワード

聞いた事があるのは、将門の娘が良文の子忠頼に嫁いだというのものですが、
説はいろいろとあるようです。

それ以降は、相馬家と千葉家との婚姻関係はなかったのでしょうか?(師常を相馬初代とする説もありますが、ここでいう相馬は将門の血を引く師国までと考えます)
[9]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年06月18日 23時25分52秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

師国には男子が無く(女子は居たが)、千葉氏から師常を養子として迎えている。
将門には十二人の実子が居たと伝えられるが、女子は二人(如蔵尼ともう一人)。
無名の方の女子が忠頼に嫁ぎ、千葉氏初代忠常の母となったので師常は後裔。
師国までは史料乏しく、相馬氏と千葉氏との婚姻関係は不明。
[10]湖水の疾風さんからのコメント(2005年06月19日 09時50分21秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんへ

どうもご返事ありがとうございました。
しかし忠常の母は左京大夫藤原教宗の娘ともいわれているようです。

また将門の子孫が相馬氏の祖となったという伝承については、信頼できる書物が無く、将門と良文の密接な関係を解く書も残念ながら無いみたいです。
[11]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年06月19日 11時43分42秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

湖水の疾風さんへ
 
御説の通り将門の子息は尊卑分脈には皆無で、異説が多くあります。
正確には、将門の女子に忠頼を婿に迎えた(いわゆる招婿婚)ということです。
当時は女系伝領から男系伝領への過渡期で、高望王の子孫で良文流、良兼流、良茂流の子孫が系図諸本間で錯綜や重複していることに如実に現れています。
例えば尊卑分脈でも三浦氏が良文流、良茂流の双方に現れています。
後世、相続が男系伝領へ移行と併せて系図を無理矢理変更したことが考えられます。
あまり男系に固執して血系絶対主義に陥ると、相馬氏に限らず平氏の多くの家系が怪しくなるものです。
[12]Guess_whoさんからのコメント(2008年01月17日 19時08分58秒 ) パスワード

当方、伝わる系図というものを基に他家等のものを比較して調べると、上に有る西日本の相馬も入るようなので、上に書いてある事を仮定すると、高望王の良文流、藤原為憲流の他に、良将流も入るかもしれず。高望王が三系統でたどれることになります。
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/familytree.htm

また大友系でもあるようなので、将門と激しく争った、俵藤太・藤原秀郷流もたどれます。

まぁ、錯綜、重複ってなところかもね。
[17]相馬興門さんからのコメント(2016年05月05日 01時03分20秒 ) パスワード

越後国相馬氏は将門の子孫だと伝わっています。将門の乱後、相馬興門が越後国蒲原郡築地(胎内市築地)に籠城、子孫が倉持城を建てたようです。先祖代々我が家には、先祖は将門だと伝わっています。越後野志、温故の栞、歴史書にも記録があります。
[18]ケビンさんからのコメント(2017年01月12日 11時13分20秒 ) パスワード

私の姓も相馬で、ルーツ探しで曾祖父の戸籍を頼りに、蒲原群の荒井浜という場所まで行きました。森の中に、凄い数の江戸時代からあるみたいな相馬の墓があり、大変驚きました。何か、興門と関係あるのでしょうか?
[19]相馬興門さんからのコメント(2017年02月02日 00時38分05秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/32565037.html?__ysp=6KyO44Gu55u46aas5rCP5aKz5aKT
謎の相馬氏墳墓  でも検索できます。
荒井浜は我が故郷とすぐ近くです。私達は、間違い無く
相馬興門の子孫ですね!興門の墓も近くです。将門の乱の直後に来ています。私達は親戚ですね!よろしくお願いします!(^o^)!FBでのご交流もお願いします。
[20]相馬興門さんからのコメント(2017年02月02日 00時50分40秒 ) パスワード

江戸末期、越後国荒井浜から北海道函館に行き、相馬財閥を築き貴族院議員にもなった相馬哲平氏がいます。

荒井浜から数キロ離れた地に、私の生まれ故郷があります。
[21]ケビンさんからのコメント(2017年07月31日 04時11分46秒 ) パスワード

実は、私の家系も函館に渡った相馬なんです。相馬哲平も名前は知っています。ただ、うちの家系との関係は分かりません。昔、聞いたんですが、うちの先祖は、新井浜にいた蘭学医だったって言うんですが、これも定かでは無いです。
[22]ケビンさんからのコメント(2017年07月31日 04時21分31秒 ) パスワード

前々から、疑問に思ってたんですが、興門と言う名前です、将門の弟達は全て将が付いてます。少なくとも、弟では無いのではと思ってます。どう言う関係なんでしょうね。
[23]相馬興門さんからのコメント(2017年09月23日 15時26分04秒 ) パスワード

ケビンさん、相馬哲平氏の直径子孫ではなくても、同じ荒井浜の出身の相馬氏なら、血縁です。江戸時代早期から中期に分家していると、同じ地区でご近所でも、親戚付き合いはなくなりますから、、、。哲平の先祖は、江戸時代 医者、綿打、回船、農業だと言われていますので、、先祖が蘭学医、、も事実かと思います。おそらく江戸時代に分岐したのだと推察します。

幕末に北海道に行き、事業に成功すると、出身地越後の縁者を多数呼び寄せて、事業を拡大したそうです。おそらくその時代に移住したのだと推測します。

興門とは?将門の兄弟とする郷土史家もいますが、、門、が付いているので息子ではないかと、、??あくまでも推測の域を出ませんが 、、、?

FBで、相馬 章 で検索してください。ご交流お願いいたします。


[24]越後 相馬氏さんからのコメント(2022年01月13日 03時38分33秒 ) パスワード

米沢相馬氏は、会津、さらに米沢への移封となった越後上杉氏文書の中にある。「相馬氏は越後御譜代の家柄」とあり、もともとは越後国の相馬氏である。越後国蒲原庄に関する『後藤文書』(柏市史所収)によれば、「前守護代相馬五郎之時」とある。相馬師常の子、相馬五郎義胤が蒲原庄周辺一帯の長年にわたり守護代であったと認識できる。940年(将門、純友の乱)、相馬興門は蒲原郡築地に籠城。越後相馬氏は平安時代後半から鎌倉時代戦国時代まで、深い関わり合いがあった事が推測される。
[25]中村 光成さんからのコメント(2022年02月10日 04時15分11秒 ) パスワード

以前、相馬さんから次の投稿がありました。


[5] 相馬さんからのコメント(2005年03月30日 17時53分37秒 ) パスワード

将門の娘が平忠頼にとついでその子供が反乱を起こした平忠常というのは信用できるんでしょうか。

だとしたら、反乱の多い血筋ですね。

※横スレで失礼します。

 母の実家は號を原田(本姓は平)と申します原田は平忠常の直糸子孫です。

以下は系図の読解文です。
     
      家之紋梅鉢折枝九曜亀甲

       忠高(?〜1059)

 桓武天皇五代後。正五位上ノ官職、上総(カズサノ)助(スケ)平忠常ノ五男

ハ初メテ原田次郎忠高号ㇲ、天喜五年(1057)二月肥後ノ国原田ヲ出テ京ニ上り同三

月下旬勅(ミコトノリ)ヲ請ケ京ニ上ㇼ同三月下旬勅(ミコトノリ)ヲ受ヶ従五位

下ノ官職肥後守ニ任ス同十月平ヲ進メテ奥州ニ下ㇽ源義家ニ加ハッテ阿部貞任ト戦ゥ(前九

年ノ役)以下原田氏が秀吉ノ朝鮮出兵の時原田の家来の不首尾によって原田十七代

で帰農します。「国会図書館アーカイブス」作陽誌。の原田系図の最後の記述は

〇忠佐(原田氏十七代)ノ子父ノ隠名ニ依り出家願誉ト称シ誕生寺ニ住持ㇲ以下-略-

(注)誕生寺は浄土宗の開祖法然誕生の地二に建立された浄土宗寺院。

尚、原田氏から出た加賀の前田氏は良く知られています。









      




[27]そうまさんからのコメント(2022年02月13日 00時59分01秒 ) パスワード

九州の熊本に住んでいて相馬の苗字で古くから平将門、平氏の祖先と伝えられています。
九州相馬氏についてどなたか知っている方いましたら知りたいです。
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