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 投稿番号:100668 投稿日:2004年08月07日 16時48分46秒  パスワード
 お名前:悩める服部
三河国服部家紋:伊賀国岩田氏・川合氏

コメントの種類 :質問  パスワード

詳しい方達がたくさんいらっしゃるようなので誰か教えてください。

今まで服部家について考えた事がありませんでしたが、子供のお宮参りの時の着物を作るに際しまして家紋を調べましたところますます悩んでしまいました。
と言うのも、墓石に付いていた紋が色々調べたものと若干違いまして。
その紋は「源氏車に並び矢」のようなんですが、その紋から「並び矢」を取ると源氏車のようなんです。
源氏輪ではなく。
そこでこれは本当は「源氏車に並び矢」なのかご先祖様が間違えて「源氏車」にそのまま「並び矢」を乗せた紋で墓石を作ってしまったのか・・・
このような紋は本当にあるのでしょうか?

私が住んでいるのは、西三河の幡豆郡一色町という町です。

このサイトを拝見していたら家紋の真偽だけでなく、とても服部家や自分のルーツが気になり始めました。
もし詳しくお知りの方がいらしたら教えてください。
お願いします。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月08日 01時10分07秒 ) パスワード
  

悩める服部さんへ

モトモトは桓武天皇の子孫で上総平氏の1006年に伊勢伊賀に下向した平家の一族で良いと思いますが。

平家は平貞盛がいとこの平将門を藤原秀郷と共に協力して討って
朝廷お約束の貴族?公家?に列せられ
朝廷から?天皇から?御褒美を頂いた時のなんとかに蝶がついてた事から「蝶」を紋にしたと聞いています。
それで平家の紋は揚げ羽蝶。

で、ご質問の「車と並び矢紋」の核心については
伊賀の服部家長が六条院の弓のコンペで優勝して車一杯の矢を褒美に頂いたことからこれを紋とした
と聞いています。
この家長は壇ノ浦の戦いで平知盛さまと手に手をとって入水したとされる人物です。


紋は変化しますからなんとも言えません。
そのお墓を彫った御先祖さまに訊くより他に謂れは分かりません。

大筋で上記のような説明で良いと思いますが。


微妙に違うことなどはその家の問題ですから他人に訊いても仕方ないことです。
お盆が近いのでお年寄りにお伺いするのが1番と思います。
お盆寸前にこういう書き込みをなさった事こそ御先祖さまに対する思いが出てて
悩める服部さん御一家に御加護(あ、仏教は御利益か?)がございますように!
(はあと)


以上書きました事は流布してるお話ですが
いろいろ枝葉があって家長は生きていた等の伝説等あります。

それはそれで良いと思います。

悩める服部さん宅に伝わるお話が肝要と思いますので
他人の話に惑わされることなく
「うちはこういう話だ」
と自信を持つことをお薦め致します。

違いについてはいつか埋める理由や事情が分かるかも知れません。
そこに御先祖さまの生きてきた過去や経緯があるのですからそれが悩める服部さん宅の歴史というものです。


お盆にいろいろ分かると良いですね。
分かりましたら書き込んでくださいね。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月08日 01時47分24秒 ) パスワード
  

お盆に一族の長老方やお年寄りからいろいろ悩める服部さんの御先祖さまのお話が聞けると良いと思ってます。
質問のポイントをまとめてみました(他人が主導権握ってごめんなさい)


まずいつの時代から三河に住んでるのか?いつの時代から服部氏を名乗っているのか?


1.一般的に服部氏で車に矢の紋だったら大筋では伊勢伊賀出身の平家系と思うのですが。

2.それより前から住んでる帰化人の服部姓の御子孫なのか?

3.一色って足利尊氏のお守り役だった一色なんとかさんの領地でしょ?違うのかな?
  そして幡豆だったら吉良家との関係もある。
  つまり足利幕府系なのか?

4.戦国時代に伊賀の服部半蔵の兄の一族が岡崎に住んでた。
  宮内庁御用達のお味噌のお店の近くだったかに<伊賀神社>があったと思いますが。
  この服部家から出て一色に土地を頂いて代々住んできたのか?

  それか服部半蔵自身の関係なのか?

5.南北朝の戦いの時に三河に定着した南朝方子孫なのか?
  三河の鈴木さんとか大河内さんとか中根さんとかと御親戚が多いのか?


図々しく、かなり強気な書き込みでごめんなさいね。
引いちゃってたらごめんなさい。ぺこり
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月08日 01時57分00秒 ) パスワード
  

ついでにプライバシーにまで首をつっこんでしまいます。(ついでなのだからごめんなさいね)


例えば服部家というのは1970年代頃まで尾張や三河ではかなりの資産家というか大地主が多いのですが
やはり服部氏は碧海郡とか幡豆郡じゃ地主が多いですか?


私が知ってる数例の服部氏の家は凄い大地主なんですよ。
私は三河は土地鑑が無いので具体的な場所を特定して書けないのが残念ですが
家屋敷の構えのみごとさは
凄かった〜
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月08日 02時50分39秒 ) パスワード
  

追加です。

本姓=平 俗姓=服部 となります。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月08日 05時59分03秒 ) パスワード
  

それから1970年代前半ぐらい前迄の古い戸籍謄本があったら
そこには「華族」とか「士族」とか「平民」とか書かれています または 読めないように隠してあります。
どなたか古い戸籍謄本をお持ちだと良いですね。

1990年代頃からは全く予想も出来ないようにきれいになってしまっています。

長老衆にお尋ねしてみては?
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月08日 06時07分17秒 ) パスワード
  

紋は

元は「車に矢」だったと思いますが

これが「車に矢」「車のみ」「矢のみ」のバリエーションもありますし
「矢」が「矢筈」という形の紋もあります。服部さんの紋で。

紋はいろいろな事情で各家それぞれ変えたりするので物凄いバリエーションになります。


一般的に商業的に売られてるようなグッズは代表紋だと思います。
紋を入れて貰うにも一般的なのだったら安く出来るし
特殊な場合はお値段が張るそうですよ。


悩める服部さんのお墓の、なかなか凝ったお墓に彫られた紋の背後には
その御先祖さまの思いがあると思いますし
その思いとは
デザイン的にセンスの良い人だったとか
凄いお大尽で力を誇示する意味があったのか
そういうものがあると思います。


徳川家でも初めの頃はヤボったい貧相な紋でしたが
時代と共に垢抜けて豪華に変化しています。
さらに各将軍の葵の御紋は微妙に違うのですよ。


1つの家にいろいろ全く違う紋があったり
同じ紋でもバリエーションがあったり

その背景の意味はいろいろです。
[7]脱悩める服部さんからのコメント(2004年08月10日 10時04分21秒 ) パスワード
  

詳しい説明、本当にありがとうございます。

かなり高齢の生き字引みたいな親戚はもう存命ではないのですが、お盆に親戚と会ったらいろいろと聞いてみたいと思います。
ただ、お墓の紋について少しわかったのですが、どうやら今のお墓を作る時に身内が建てたのではなく、職人の親方であった事からそのお弟子さん達が建ててくれたそうです。
だからきっと紋も凝った作りにしたんでしょうね(謎)

ギャンブラーさんのご指摘の通り、一色町は足利氏とゆかりがあるようです。
近所の公園に記念碑のような謂れが書いた物があり記憶にあります(また詳しく見ておきます:汗)
お隣はあの忠臣蔵の吉良上野介の所領だった吉良町です。
その流れから見ると源氏系な気もしますが紋からすると伊賀からの平氏のようですよね。
時代が変わって戦国では、神君家康公の出生の岡崎が近くな事から伊賀忍者として徳川家家臣になってからの家のような気もしますし・・・
ただ、鈴木、大河内、中根は一色町内には数件あり鈴木家はかなり多いですが、親戚ではありません。又、熱く語る常連さんの服部さん達のように大地主でも無いです(涙)もしかしたらご先祖様はそうだったのかもしれませんが2代前に仕事の都合で船荷を卸す関係で川沿いに引っ越して今に至っていますので昔の家がどの規模だったかは・・・

本題に反れましたが、我が家の家紋は確かに歴史で少しずつ微妙な変化があったのかもしれませんし真実を知りたければ確かにイタコさんにでも先祖の霊と交信してもらうより他は無いと思いますので、その当時の師匠を想い建ててくれた墓石の紋を大切にしようかと思い始めています。

今週の親族集合の機会に色々な伝承が聞けたら楽しいなと思います。
何か情報を得ましたら書き込みさせていただきます。
ギャンブラーさんに色々と教えていただき「悩める服部」から抜け出せました。
本当にありがとうございました。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月10日 11時17分03秒 ) パスワード
  

>だからきっと紋も凝った作りにしたんでしょうね(謎)

この(謎)というのが解けた気がします。
「こった作りにした」というのはそれだけの財力・勢力があったという事だと思いますよ。
ムカシは勝手に紋をいじれないのですよ。
だって勝手に立派な紋にしたら許されないのですよ。お上からも回りからも一族からも。
その(謎)のお話が聞けたら良いですね。



>その流れから見ると源氏系な気もしますが紋からすると伊賀からの平氏のようですよね。

三河は平家の勢力下でしたから
足利時代に許されたとか
足利時代に源氏系の家が「お前が継げ」と継いだとかの可能性もあります。
ムカシは名家はこうやって継がせたり江戸時代にも名家を再興させたりしてるんですよ。
伊賀の服部家でしたら江戸時代に重宝されたでしょうし。


一色右馬助だったかが一色を頂いたのは足利家が力を持ってからだと想像します。(あくまで想像です)


>2代前に仕事の都合で船荷を卸す関係で川沿いに引っ越して今に至っていますので昔の家がどの規模だったかは・・・

でしたら古い戸籍謄本をお取りになって明治の初めにどこにいらっしゃったのか調べたら良いですね。
先祖の供養に必要という理由で。100回忌とか。


私は三河は土地鑑が無いのですが
結構人の移動はあんまり無いのかもですね。

そうしますと悩める服部さんの御一族というのは特定できそうですね。
でしたら一色の服部家のホンヤさんというのが分かると良いですね。
これをお年寄りから聞き出せると良いですね。(^。^)
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月10日 12時41分19秒 ) パスワード
  

土地鑑の無い私なのでこんがらがってますが
一色氏というのはモトモト全国にあって良い結構多い荘園の名だそうです。

一色氏の主なところでは
足利流
吉良流
土岐流(あ〜、それで一色と明智は姉妹都市関係にあるんですか、へえ〜)
斎藤流

これは
足利・吉良
土岐・斎藤
に分けても良いのかも。

本来は足利・吉良・土岐は同じ足利さんの御出身でしょうし斎藤も加えてこの4つは結局は同族なんじゃないかな?
斎藤は本姓藤原だけど土岐の一族というか閨閥だろうし。


で吉良一色は切っても切れない地名ですねえ。
今は幡豆郡一色町として吉良町から独立?
ムカシは吉良荘一色村で一色が吉良の中に入ってた?


足利義氏が三河守になって下って以来吉良と一色は足利さんの土地だった、と。


で、足利義氏の子の泰氏の5男が一色に住んで一色氏を名乗って戦国時代に佐々木氏と仲良く戦った、という
そういうイメージがあります。

       (この辺りで私の母方が3度絡まってきます。一色じゃなくて佐々木の方ですが)


一色氏は歴史に翻弄され幡豆郡一色から長門へ行って若狭へ行って丹後へ行ってと・・・・
なるほどなるほど、それで関西?近畿?の武田氏=源氏とも一族なのかな?、としみじみしたものを感じます。


そうするとやっぱり一色はバリバリの足利=源氏ですね。
一色右馬助が足利尊氏の守り役だったのは一族だったからか。
という事は平家が滅んでから源氏の勢力地になったってことのようですねえ。


そうすると平家らしき紋使用の服部家はなぜ一色に?という疑問に戻りますね。
もともと一色にいたのか?
はたまた<徳川幕府>がらみの江戸時代からでしょうか?
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月10日 12時52分43秒 ) パスワード
  

足利義氏の子の泰氏の5男公深の子・一色範氏が足利尊氏の守役というか代官というか家老じゃないかな?

今から買い物です。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月10日 15時48分04秒 ) パスワード
  

こうして考えると
鎌倉幕府以来「一色家」というのがあったのですね。

そうすると
平家で南朝方の伊賀の服部家は一色家には不倶戴天の敵であります。

一色の服部家は平家が滅びた後も細々と続いていたのか?
足利幕府が伊賀の服部家を再興させたのか?
一色教親の時代に丹後・尾張・伊勢半国を貰ってるのでその時代に服部家が一色と関係が出来たのか?
一色義貫が伊勢の北畠家を攻めてるので(北畠は南朝系の大将で服部家の主人でもある)服部の名を継がせたのか?


      (織田信長も伊勢を押さえた後に一族に伊勢の名家を継がせてます)


それから徳川家康ですね。服部半蔵は命の恩人ですから。
他に考えられるのは帰化人の服部姓で服部氏が平家の服部氏の紋をカッコ良いからと使ったのか?
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月10日 16時12分50秒 ) パスワード
  

帰化人の服部姓服部氏というのは東は静岡にかけて住んでたようですよ。(もっと先にも流れたはずですが)

伊勢に平姓の一族が上総国から1006年にやって来て伊勢伊賀両国に住み着き
その一族の一派は伊賀の服部姓を名乗ってます。
これは帰化人の服部姓服部氏の名前を乗っ取ってます。ま、血も混じったということですから御安心を。

ですから服部半蔵は本姓平氏俗姓服部氏となります。
(系統が違うということです。本姓が違うというのは物凄い違い)


日本の場合は
古代の氏・姓制度がどんどん崩れて
天皇家から臣下に降った時に姓を頂いたこともあって
帰化人の服部さんの方が伊勢伊賀の服部さんよりずっと古い名家となります。


本姓があるということは日本人にとっては凄いことなんだそうですよ。
(だから本姓のなかった秀吉は大変だったんです)
今は更に姓も氏もごちゃごちゃになってますからイヨイヨ分からないことになってますが。


特に源平藤橘の4姓は特別なんだそうです。

氏の長者は朝臣が名乗れるからど〜たらこ〜たら聞いたけど
私の時代には既に身分制度が崩壊してたので母がいろいろ教えてくれても ワカンナ〜イ 理解不可能。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月10日 16時21分33秒 ) パスワード
  

ムカシ昔の戸籍謄本を明治初期までお取りになれば
どんな家と縁組してたのか全部載ってます。

1つの「家」の戸主のもとに子供達(兄弟)とそのまた子供達である孫(従兄弟従妹)まで全部載ってるんですよ。
それを見ればどんな家と関係を持ってたか分かるので
    昔は馬の骨とは勝手に結婚しないから
なんらかの関係ある家というのが分かると思います。

外に出せないような家庭の秘密まで載ってるし。

是非とも明治8年あたりまで遡って取ってみてください。



最近の戸籍謄本は活字化をしててかなり打ち間違いもありますけどね。
私の祖父も名前が間違ってるってのを発見しましたよ。
でも大筋が分かりますから全部取ってください。
お金も時間もかかりますけど。

凄い家と親戚だったりしますよ。
もしかすると高須さんと親戚だったり。(あ〜ヤバ〜)
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月11日 00時56分47秒 ) パスワード
  

もし機会があったら伊賀に行ってみてください。
思いが通じればなんらかの兆しを受けるかも知れません。
歓迎されるか拒絶されるか。
こういうのを知るのも面白いですよ。


伊賀は上記に書きましたように
代々朝廷との関係が深かったし平家の本貫地でもありましたし帰化人の里でもあったし

平家が滅びてからは鎌倉幕府に徹底的に抵抗し続け南北朝の長い長い戦さを戦い戦国時代を経て
大きく3つに分かれました。

・甲賀近くの東湯舟の藤林家
・奈良との境の千賀地の服部半蔵家
・大山田村の百地家

こつ3つが伊賀の頭領の座を争って三つ巴の戦いをやってました。


3つとも平家の伊賀の服部家長の子孫を標榜して良いと思います。
千賀地の服部家は俗姓を保ってきただけラッキーでしょう。名字ゆえに頭1つ分世間から認められていたのですから。
でも当時の御当地の人にとっては千賀地の服部家はそれほど格が上の家じゃなかったようですよ。
御当地の人には世間から千賀地の服部家が正統な後継者のように思われているのが腹立たしかったようです。

     (だから名字=家=姓=家紋って大切なんですよ)


伊賀の服部家長の子孫を称する家は伊賀中、伊勢中、尾張中、三河中、遠江中、さらに駿府あたりにもあったと思います。


でも最終的には服部半蔵の家が 公式=オフィシアル になった。
それは前々から松平家に仕え家康の命まで助けたから。
他の家は悔しかったと思いますよ〜。

江戸時代、三河の服部家はそれこそ肩身が広く肩で風を切ってたと思います。


例えば徳川氏出身の地とされる「得川村」の百姓は江戸時代には他藩でも非常に優遇されたと聞いています。
徳川家の御一族扱いでした。
笠には葵の御紋の使用が許されていたと聞いています。



ですから御先祖さまのお墓の紋を「車に矢」と彫るのに「豪華絢爛な車」でわざわざ彫ったという
そういう当時の気概?というのなんとなく分かりますよ。
またそういうのが許されたという雰囲気とか。


伊賀の服部半蔵の家紋でもいくつか見掛けます。
微妙な差だったり非常に凝ったものだったり。
その背景が見えてきます。
家紋が凝ってるというのはそれだけの力を持ってたという事です。


わたくしには悩める服部さんの御先祖さまの誇らしげな様が目に浮かびます。



わたくしの父は後妻の末っ子でそれも父親が幼くして死んでしまったので自分の家のことを何も知らない人です。
伊賀には何度も行ったそうですが何も感じなかったそうで
家紋も商品化されて手に入り易いので充分満足している人です。
わざわざ豪華絢爛な家紋に目を向ける人じゃないです。
全くこだわらない人です。
商品化して売られてるのを見て「うちの紋だ」と喜んでます。
(なんでもいいみたいでワタクシとしましてはふがいない父であります)しょうがないけど



わたくしの母の家はわたくしで84代目ですから物凄くこだわります。
紋だけでも古代の御先祖さまの落書きのような単純な紋から華麗なデザインの洗練されたものまでいろいろです。
でも江戸時代初期に事情があって替えた紋を今でも使ってます。
江戸時代とうとう正式に戻す事を許されませんでしたから。
これも我が家の歴史なのです。


今は自由なのだから権勢時代の分かる1番派手な紋に戻したいけれど
江戸時代に登録した紋がうちのアイデンティティなのかなと思うと先祖の思いに涙して使い続けるべきなのかなとも思います。


悩める服部さんがあのお墓の紋を気に入って下さったら余分にお金がかかることですが是非お使いになって欲しいです。
先祖を敬う大切になさるという事は子孫に顕われる(報われる?)と思います。
多分悩める服部さんのお家は末広がりで栄えると思いますよ。


世の中には2種類の人がいます:家を大切にする人しない人。
家を大切にしない人の家が滅びるのは構わないでしょう。
家を大切にするからこそ家長=戸主は一族の者を馬の骨となんか結婚させるわけにはいかなかった。

家が続いてきた背景には血も涙も一杯流れたのです。
そしてワタクシ達が存在している。

お盆の前に御先祖さまのことを考えてくださって本当に嬉しいことでございます。
きっと親を大切にし家を守って土地を誇りにして子孫を増やして栄えていく子に育つでしょう。
派手な紋のお墓の御先祖さまが「オレ、オレ、俺が守ってやるよ」とにっこりなさっていらっしゃいます。


私自身は特定すると大山田の人間かなと思います。
でもちゃんと3箇所を同等に扱ってますから藤林さんも千賀地さんも大山田の爺さんも私を守ってくれてると思います。
悩める服部さんのお子さんは生まれた時の紋から御先祖さまに関わって本当にラッキーなスタートですね。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月11日 03時10分26秒 ) パスワード
  

ルーツは以下4つあたりのどれかか複合でしょうねえ。

・(大元は秦一族の)服部姓服部氏の帰化人が平家の伊賀の服部家長一族の紋を借用した?
・伊賀の平姓服部氏の家長ゆかりの者が三河に定住し今に至る?
・源姓?某氏が伊賀の服部氏の名と紋を将軍または主君または親より拝領した?名門だった服部家に婿入りした?
・伊賀の服部半蔵一族が一色に所領地を拝領し今に至る?


時代では

・帰化人だった古代から?
・平安末期の平家時代から?
・承久の変以降鎌倉から派遣された足利一族の一色家と関わりがある?
・南北朝時代の転戦中に定住した?
・戦国時代から松平家と関わりがある?


一色あたりの服部家のホンヤさんの家というのが分かると良いですね。
それから菩提寺が分かると良いですね。まさか華蔵寺ということはないと思うけど


普通わたくしは一色または幡豆郡の役場の歴史編纂係に問い合わせてみたら?と書くのですが
HPには載ってなかったですね。
吉良町役場なら何かあるかな?

大きな図書館で幡豆郡の歴史を纏めた本が借りられると良いですね。


今週の一族の皆さん集合の会合で良いお話が聞けますように。
[18]さちこさんからのコメント(2004年08月11日 23時39分40秒 ) パスワード
  

服部さん、明子さん。

少しお邪魔しますね。

三河ですか。
三河の服部家が矢羽系の家紋を使用していたこと、
しかも源氏車に並び矢とのことで嬉しいです。

三河には服部家も多いですが、
柘植家も多いのです。
柘植というのは、
平宗清が源平の乱の後伊賀の柘植に定着し柘植氏となったそうです。


服部家は数多く全国に分布してますが、
柘植家といううのは少数で限られた地域に多いです。

以前柘植さん、
つげとしさんが西三河の服部家と柘植家の人口を調べて下さいました。
(電話帳等で)

三河には服部家と柘植家がともに多い所と、
服部家、柘植家のみに多い地区があるそうです。

一色町は服部家のみが多い所だそうです。
電話帳記載では服部家66軒、柘植家1軒。

つげとしさんが調べた中では三河では柘植家が少ない地域です。

明子さんがおっしゃるように、
地域の歴史の本を探してみるのがいいと思います。

最近はすぐ近くの公民館でも町史などが簡単に借りることができると思います。
一色町町史というのがあると思います。
長島か弥富の図書館で見かけたよううな。。。? 
記憶不確実。

町史には町内の寺や神社の由緒などが書いてあります。
必ずしも町史が正しいわけではありませんが、参考にするといいです。

一色町はそんなに人口が多いと思いませんので、
電話帳で服部家の多い所を調べ、
その辺りにある寺近辺の墓や家の屋根のの家紋をみれば、
大まかですがそれぞれの服部家のルーツが判るのではないかと。

66軒だと大体同じ系統かな?
三河に関しては興味があるのでぜひ調査してください。

一色町は愛知県有数の漁港ですよね。
水運や船舶に関係し並び矢羽の家紋の服部家なら、
半蔵系の服部家ではないと思うのですが。

桶狭間の戦いの時、
信長公記によると今川方の服部家が千艘の武者船を大高に待機させていたそうです。

大高は三河にも近いので、
信長退治のため結集していた中にもしかしたら悩める服部さんのご先祖も?

またぜひわかった事がありましたら教えて下さい。



[19]服部探索さんからのコメント(2004年08月14日 01時37分30秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさん・さちこさん、ありがとうございます。
盆初日の今日は収穫がありませんでした。
が、一色氏の由来について見かけたと思った場所に行って確認してきましたのでご報告させていただきます。
詳細をメモしてないのですが、足利義氏の子の泰氏の7男が吉良庄の拝領し一色に住み一色氏となったそうです。その発祥の地が徒歩3分の所にありました。
これが直結に繋がるかどうかはわかりませんが。
ちなみに以前にお話に出た「高須家」ですが、一色には高須家は多いです。
その本家筋の子孫に知り合いが居まして由来を聞いたことがあります。
徳川家康が一色に来た時にもてなした家が家康公に大変気に入られ「高須」をいただいたそうです。
又、さちこさんのお話の柘植家ですが、一色に一軒あるのを初めて知りました。身内に居るとは聞いたことないですけど。又、仕事上で水運等の関係があったのはほんの一時的なもので職人から商人に家業が変わってからの事と聞いていますので信長退治説に当てはまらないような気もしますが、もしかしたらその作戦に派遣された職人だったかもしれないので何とも言えませんね。

しかし、こうして色々と教えていただいていると色んな可能性やルーツが有り驚くとともに歴史って面白いなぁと思います。
一度、図書館で調べ物をしてみたいと思います。
「脱」から「探索」に変更ですね。

[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月23日 00時46分20秒 ) パスワード
  

昨日ビデオを見てたら
一色式部少輔(足利将軍の側近)と書かれてました。
思ってた以上に足利幕府の重役だった印象です。


*このビデオの主人公は秀吉で
秀吉が京都を管理してた時の訴訟の1人に一色式部少輔の名が出てました。
[21]尾張の服さんからのコメント(2005年04月16日 20時48分40秒 ) パスワード

google検索でここに辿り着きました。
服部姓でもいろいろと家紋が違うようで、家は↓これです。
http://www.osugi.co.jp/kamon/syabari/marunitigaiya.jpg
確か私の親の代が建てた墓にもこれと同じ紋が刻まれていたと思います。
代々尾張に住んでいるようですが、我家の家系図では3代前までしか遡れません。

この紋には一体どんな由来があるのでしょう?
この紋を持つ服部家系はどんなルーツなんでしょうか?
またインターネットで探ってみたら桓武天皇が祖先とか秦の始皇帝が祖先とか
観阿弥世阿弥やら安倍晴明やら空海、親鸞が関係あるとか、ホントですか!?
[22]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月16日 23時28分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

服部姓にも様々な家紋がありますが、矢、矢車、矢筈系は代表的なものです。
服部姓は熯速日命(ひのはやひのみこと)の十二世孫麻羅宿禰の後裔で、允恭天皇時代に織部司に就き服部連(はとりのむらじ)と号したことが由来とされています。
中古以降は、源平藤橘を始め多くの諸流服部氏が存在します。
伊賀の服部氏が有名で多くは平姓や秦姓を称していますが、後世に服部姓の多い地域は尾張地域です。
家紋は約2万種、苗字は遙かに多く異流異姓が同一家紋を多用しますので、参考にはなりますが家紋のみで出自を遡及するのは困難と考えます。
[23]尾張の服さんからのコメント(2005年04月17日 00時38分02秒 ) パスワード

ご回答ありがとうございます。
「ひはやのみこと」とは日本書紀に出てくる神の事でしょうか?
「十二世孫麻羅宿禰」とは「ひはやのみこと」の12代目「まらのすくね」なる人物、という意味でしょうか?
つまり、
神「ひはやのみこと」の12代目子孫「まらのすくね」の子孫が允恭天皇の時代(5世紀頃?)に
織部司(現在で言う省庁長官or大臣)に就き服部という姓を名乗った。。。
という意味でしょうか?神が先祖?
平姓、秦姓を称するとはつまり、服部家系でありながら姓名は「服部 半蔵」などではなく
「平 太郎」「秦 次郎」などと名乗っていた、という事でしょうか?
“後世”とは江戸時代以降の事でしょうか?
尾張に服部姓が多いのは何故でしょう?
尾張に多いと言う服部姓はやはり平氏秦氏が多いのでしょうか?
また、明治時代に苗字を与えられる時に家系になんら関わりなく服部や源平藤橘を名乗る事もあったのでしょうか?

質問ばかりですみません
[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月17日 10時30分54秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

尾張の服さんへ
 
服部連のことは「新撰姓氏録」摂津国神別服部連が典拠。
また苗字の発生については「日本の苗字七千傑」Q&AのQ7、Q8を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a1.htm#007
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a1.htm#008
後世とは概ね戦国時代以降のことと判断して下さい。
尾張に多い理由は分かりませんが、戦乱などの事情で尾張に移動したのでしょう。
服部姓に限らず源平藤橘などを称するのは養子や姻戚などを通じて日本ではごく普通のことです。
この辺りの事情については「日本の苗字七千傑」姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )
平氏季衡流服部氏の頁を参照のこと。
[25]さちこさんからのコメント(2005年04月20日 09時56分30秒 ) パスワード

尾張の服さんはじめまして。

何故尾張に服部家が多いのか?
色々考えられますがその一つに昔は尾張平野は伊勢湾だったからではないかと。

下記を参考にして下さい。


http://www.waiwai-nanyo.com/area2.htm

二つの図がありますが拡大できますので見てください。
左は約1300年まえの尾張です。
猿投神社の古図を江戸時代に写したもので実際の猿投神社の古図はもっと単純です。
一宮と津島はあったように思いますが、
この時代に長島はまだなかっただろうと思うのですが。

木曽川、長良川が伊勢湾に山の砂を運んできてこれが時間をかけて砂州になり、
やがて島になりその島も繋がって平野となっていったのです。
自然もありますが高い干拓技術もこの地方にあったのでしょうね。

右は鎌倉時代の今の名古屋市中川区辺りのものです。
服織里、服織というのがありますが、
これは現在でも服部町、富田町服部として中川区に残ってます。

この古図ではわかりにくいのですが、
伊勢も尾張ほど極端ではないですが海岸線が今より山に近かった。
おそらく多度山(養老山脈が)半島のようになっていて、
桑名あたりが半島の先、
海岸線は今の三重県の員弁近くまでくい込んでいたのだろと思います。

員弁(いなべ)という地名は今の兵庫県と大阪の隣接する辺りに、
(伊賀服部氏に伝承されるクレハトリ、アヤハトリのゆかりの地でもあります)
新羅系の高い造船技術をもった猪名部氏がいて、
その一族がこの地に移り住んだことに由来するのだそうです。

時間がないのでまた書きます。

丸に違い矢の家紋は木曽岬、長島にも多いです。
私の曽祖父は養子で親戚の服部家から嫁をもらったのですが、
その服部家が丸に違い矢です。

飛島村あたりは調べた範囲ですがこの家紋ばかりでした。
中川区になると並び矢が多いように思うのですが。。
木曽岬、長島などの田舎と違うのでなかなか把握は出来ません。

服さんも何か情報があれば教えて下さい。
では。





右は鎌倉時代の現在の名古屋市
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年04月21日 01時49分53秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

追加情報:服部氏の矢筈紋使用について
ある時、清涼殿の弓場殿にて弓箭の勝劣を顕わす。
服部平内左衛門家長、名誉ありて六条天皇より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり。
是より矢筈車の紋を平姓服部氏の惣紋(長男の紋)とする。
三男までは○に二つ矢、四男以下は○に三つ矢を用いる。
[27]尾張の服さんからのコメント(2005年04月21日 18時23分47秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん、さちこさん、回答有り難うございます。

たかが1000年前で海岸線がそこまで引いていたとは正直驚きました。
服部は卑弥呼の時代に秦から九州へ渡り、その後聖徳太子に仕えたりとかルーツを遡ればキリがないですね。
時が立つにつれ大阪から伊勢、尾張へ流れて行ったのは、政治的動乱の中心から逃れるためでしょうか?

日本の苗字七千傑さん
そのURLは私のPC環境(MacOS9)ではうまく閲覧出来ませんでした。
[28]トヨラ73さんからのコメント(2005年05月01日 00時05分11秒 ) パスワード

はじめまして
伊賀の服部に興味を持つ者ですが
日本の苗字七千傑さんにお伺いします
服部平内左衛門家長の「平内」はなんと読むのでしょうか
また「平内」の名前の由来などをご存知ですか
さらに「六条天皇より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり」
の出典をご存知であればお教えいただきたいのですが
よろしくお願いいたします
[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月01日 02時15分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

トヨラ73さんへ
源内、平内、藤内、橘(吉)内などは通称といわれるもので、出自+官職名(この場合は内舎人)から構成されます。
ゲンナイ、ヘイナイ、トウナイ、キツナイと読みます。
平賀源内などでお馴染みのことと思います。
詳細は http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a2.htm#014 を参照下さい。
 
「六条天皇より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり」などについては
太田亮著「姓氏家系大辞典」に記載されていますので図書館で閲覧下さい。
苗字、姓氏などの調査の出発点です。
[30]トヨラ73さんからのコメント(2005年05月04日 21時50分40秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんへ
近くの図書館で太田亮著「姓氏家系大辞典」を探し
調べたところ伊賀服部氏の項に
「六条天皇より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり」
の引用文はありましたが出典は明記されていませんでした。
雰囲気的に『源平盛衰記』のような感じがしますので
また時間に余裕があるときに調べてみようと思っています。
とりあえずお礼かたがたご報告申し上げます。
[31]平御幸さんからのコメント(2005年05月11日 06時12分33秒 ) パスワード
URL=http://www.geocities.jp/sera_apis/

悩める服部さんへ

はじめまして、エフライム工房主催の平御幸です。
家紋とは違いますが、服部の語源について説明します。

服部は秦氏から出ていますが、ハタの意味は獅子です。
古代エジプトに住んだイスラエル12部族のユダ族は
ヤコブの祝福から獅子をシンボルとしていました。
獅子のヒエログリフの読み方がハタだったので、
それがユダ族の子孫の部族名となったのです。
さらに、部族はラテン語でトリブですが、ハタノトリブが縮まって
ハットリとなったのです。

次に平家の家紋の蝶ですが、こちらはヨセフの子孫を意味します。
エジプトの宰相だったヨセフは、イスラエル王朝の古王国を築きました。
それで、古王国の彫像は日本人に酷似しているのです。
ヨセフの子孫の中でも、平をシンボルとするエフライムの子孫は、
アテフ冠を被っていたエジプト時代から、テフ(=蝶)が
シンボルカラーの赤と同様に別のシンボルだったのです。
それで、蝶の字はヨセフ(世)の系統(木)で成り立っているのです。
虫偏なのは、ムシがエジプト語で産(ムスの語源)を意味するからです。

古代日本の遺跡は、聖書の神聖キュビトで造られているものが多く、
尺度でイスラエルの直系子孫を暗示していたのです。
伊勢の語源はヨセフの妻アセナテで、明日香の語源ともなっています。
アセナテはイシスのモデルだったので、イシスのヒエログリフの二つの読み方、
アスとアシタで明日の字が読まれるのです。
中国発祥と思われている陰陽五行も、実はエジプト時代のイスラエルにあり、
エジプトの神々は五行のシンボルで創られているのです。

奈良時代以降は、葉隠としてイスラエルの姿が消えてしまいますが、
これはエジプトからイスラエルの姿が消えたのと同じ構図です。
ですから、それ以降の歴史に対する認識は文献によるもので構いません。
しかし、神聖キュビトを用いていた奈良時代までは、
イスラエルの陰を克明に捉えることができるのです。
服部さんは、ヤコブの祝福を二分したユダとヨセフの系統なのです。
ヨセフの子エフライムがイエスの雛形とされたことから、
その直系子孫である平家の末裔は、末の世に復活する宿命にあります。
それが、平成という年号の奥義です。
秦と服部に関しては、エフライム工房の
『私だけの古代史第二部・エジプト編』11章を参照して下さい。

エフライム工房主催 平御幸

[32]名も無き忍者さんからのコメント(2005年05月11日 15時29分11秒 ) パスワード

最近我家の家紋について色々調べており、ここに辿り着きました
皆様の知識の多さには非常に驚いております。
当家の家紋についてご存知の方がおられましたらご教授ください。

当家は三重県の伊賀地方の湯舟にあり姓は岩田と申します。
現在使用している家紋は 源氏車(輪)に横並び矢で、一般的には竪並び矢の家紋の話を聞くのですが我家は何故は横並び矢を使用しています。

恐らく服部姓でもないので単なる農民かと思っておりましたが十数年前に母屋から手裏剣、短刀、甲冑が見つかりましてひょっとすると忍者の影響もあったのかと、、しかし今その遺品はどこに行ったのか祖父母亡き後は誰も行方がわからなくなっております。

先祖代々の墓は湯舟の平泉寺にありますが 周りを見渡すと名門の藤林家様の墓があり我家は藤林家の影響を受けてるのかとも?

どなたか伊賀地方阿山郡湯舟の岩田姓についてご存知でしたらお教えくださいません。
それと平泉寺にあります服部昌信碑とはどのようなお方なのですか?インターネットで検索を掛けても引っかかりませんが碑があるからには著名な方とは思うのですが 何卒よろしくお願いします。

家紋の写真です 
http://www.ztv.ne.jp/web/tiger999/kamon/kamon.jpg
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月12日 04時24分53秒 ) パスワード

名も無き忍者さん

横と縦の両方を使用しているお家があるのを知っています。
受けた印象では「縦」の方が時代的に新しいと思いました。
(時代が下るにつれて洗練されて縦になったんじゃないかと思ってます)
それから


みたいに互い違いになってるのも。

微妙な違いでアイデンティティを示しているのでしょうから
東湯舟の藤林さんとこがどういう紋だったか分かるといいですね。


>平泉寺にあります服部昌信碑

まず平泉寺さんにお訊きになったら良いのに。
その次に郷土の有名な人なら郷土史家や市や県の教育委員会に問い合わせたら良いのですよ。
[34]名も無き忍者さんからのコメント(2005年05月13日 08時23分41秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様

早速のご返事ありがとうございます。
矢の向きだけでも色々とあるのですね、と言うことは「源氏車に矢」と言うだけで
服部家と関係があると言うわけではないのでしょうか?
わが祖先が有名な服部家の家紋を似せて家紋にしただけということも考えられるのですよね?
または服部家から分家した際に家紋を少し変更した可能性もあるんですよね
こればかりは何とも当時のご先祖様にしかわからないことですよね

服部昌信碑 早速問い合わせてみました。
最初からお寺に聞くべきですよね、失礼いたしました
まだ回答はいただいてないのですがわかりましたら折角ですのでまたここへ明記させていただきます。
お忙しい中ありがとうございます。
[35]さちこさんからのコメント(2005年05月13日 13時09分00秒 ) パスワード

名も無き忍者さん。
はじめまして。

岩田家の家紋ですがやはりこれは服部家一族のものでしょうね。
矢紋は服部家以外も使用していますが、
源氏輪に矢というのは服部家特有のものだと思うのですが。

平泉寺なら以前、服部誠さんという方がこの寺の檀家だとおっしゃってました。
家紋は源氏車(輪)に並び矢でうちと同じものでした。
寺の規模にもよると思いますが阿山町ほどの町なら、
菩提寺が同じなら昔は親戚という可能性は高いのではないでしょうか。

もしかしたらもうご覧になってらっしゃるかも知れませんが、
下記の34番から誠さんのコメントがあるので参考にしてください。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100354.html

我家の事で恐縮ですが、
父の弟の一族も桑名で就職していた娘以外伊勢湾台風で全滅でした。
その娘が当然服部家を相続することになったのですが、
結婚相手がどうしても服部姓に変わることいやがり夫の姓を使用してます。
でも実質的には服部家の養子というかマスオさんです。
子供たちも本当は服部家だと思ってるし、
家紋も夫の家のものでなく服部家の家紋にしてます。

家紋に興味がない頃は気にしてなかったのですが、
服部姓でないのにこのまま源氏車に並び矢の家紋を使用してて良いのかなぁ。。
と言う気もします。
現在は家紋に関して厳しくはないですから仕方ないですが、
昔なら服部家と見分けがつくように少し変化させたかもしれません。

岩田家ももしかしたらそんな事情があったかも。
平泉寺のように服部家とゆかりがある所で、
勝手に服部家の紋を使用したことはおそらくないだろうと思います。

また何か判りましたらお知らせください。
[36]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月13日 21時13分21秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

名も無き忍者さんへ
 
源氏輪に並び横矢筈は、伊賀国阿拝郡服部郷発祥の服部氏の代表家紋。
ほかに福守氏(伊賀)、蓑氏(伊賀)、佐野氏(伊勢)、谷口氏が用いる。
岩田家は何らかの理由で伊勢から伊賀に移住したものと推定する。
発祥地としては伊勢国朝明郡岩田御園、伊勢国安濃郡岩田御厨が推定されるが、
恐らく後者であり御厨という点から伊勢神宮に関係ありと見る。
伊勢大宮司家大中臣一族に岩田姓があり、ことによると同族の可能性あり。
「日本の苗字七千傑」旧国名別苗字大観を参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/map/mapf.htm
[37]さちこさんからのコメント(2005年05月13日 23時19分02秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん。

名も無き忍者さんの家紋は矢筈ではありませんよ。
矢羽の印の三本の線が二ヶ所はっきりとしてます。

矢羽と矢筈の違いご存知ならば教えて下さい。
伊勢には(関や亀山等の山手を除く)矢筈は確認してません。
伊賀は判りませんが。

ウンチクこねてないで歩いてみてはいかがですか?(笑)
[38]名も無き忍者さんからのコメント(2005年05月13日 23時37分41秒 ) パスワード

さちこさん
日本の苗字七千傑さん

皆様ご丁寧にご回答いただき誠にありがとうございます。
今回家系を調べるといろいろな面白い事や話を聞く事ができ非常に良い機会がもてたと思っております。自分が今あることへの感謝と先祖の営みへの敬意と言いますか、、、粘り強く調査したいと思います。

さちこさん
早速、服部誠さんのコメントを拝見させていただきました。非常に興味深い書物をお持ちのようでコメントの一文に[48]ですが

「当家の家格は天正〔西一五七三〕年度以前には湯舟庄五地頭と言い、岩田、服部、三つ矢、田名瀬、杉本の五家で当村一体を分領した。<中略>。ところが天正年度、伊賀国大乱の際、五家は織田信長に降った。」

と言う書き込みがありました。この岩田と言うのが当家でしょうかね?ますます詳しく知りたいと思っております。本当にありがとうございます。

日本の苗字七千傑さん
ご回答ありがとうございます。私が非常に知識不足で誠に申し訳ありませんが
伊勢大宮司家大中臣一族ですと当家の家紋「源氏車に横並び矢」と著しく異なるのですがこれはどのように理解したらよろしいのでしょうか?
ご存知でしたらお教えくださいませ
[39]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月14日 00時11分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

さちこさんへ
 
岩田さんの紋は正式には源氏輪に横並び矢(あるいは矢羽)と呼ばれる。
服部氏のものとは厳密には異なる。また源氏輪が微妙に異なる服部氏も存在する。
但し服部支流や分家で使う可能性はある。伊賀地方に服部姓は多いからね。
国名は発祥当時であり伊勢発祥の佐野氏は江戸幕臣で替紋として使用、定紋は鎧蝶。
[40]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月14日 00時25分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

名も無き忍者さんへ
 
岩田家が大中臣氏かどうかはわかりませんが、家紋は本家分家でも微妙に異なるし、領主や藩主により賜紋や改紋されることがある。
現実に小生の家は、全然違う紋に改紋されている。
[41]田中愛造さんからのコメント(2005年05月14日 02時46分43秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様   何時もご苦労様です。

  私の家も、曽祖父まで丸に剣片喰でしたが、父の代で家紋養子致し、小笠原氏の関係で丸に三階菱に改紋、私も引継ぎを命じられ二代続き三階菱ですが、ご先祖墓のは私の一存で剣片喰に直しました。又、祖父母の墓は、外からの人で橘氏の岡本氏なので丸に橘で願い道理の致して居ります。家業上十二代に渡り受け継ぐ本家当主であり、武田菱を使用致してます、従って紋付羽織は、夏冬で最低六着、日本の国は無駄が多く三つの家紋の使い分け無ければならず、ご先祖も悩んで居る事と思います。

 さて、ネット(三重県城郭一覧)では、阿山郡阿山町西湯舟には岩田氏城が、士豪岩田氏の居城と載せられていますね。又、近藤安太郎氏の系図研究によると、阿拝郡河合荘に平頼盛の従士平信兼の子孫が土着して川合氏を称し、同族から(岩島・木津・磯矢・岩田・伊室)の諸氏を出した。とあります。土地柄各氏が身を寄せているのを見ると、存在の符号が一致いたし相違い無かろうと思われます。ただ、残念なことにこれ等一連の川合一族の家紋は殆どが、丸に立ち梶の葉である事です。
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月14日 04時55分05秒 ) パスワード

田中さま

>丸に立ち梶の葉である事です。

「梶」ですか。
実は実はこれについては布袋竹さまとtakahiroさまがお詳しいです。
平家がらみの凄いお話が期待できると思っています。

ということで川合一族はバリバリの平家一門と思っています。



>阿拝郡河合荘に平頼盛の従士平信兼の子孫が土着して川合氏を称し

思わぬ儲けもののお話が聞けてラッキー!
平信兼はどこのお家の家老だったのか?と長い間疑問でしたが
ちょっとお答えを頂いたように思います。

ありがとうございます。ぺこり
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月14日 05時08分53秒 ) パスワード

ちょっと調べてきました。


確かに伊賀国阿拝郡の川合氏は桓武平氏流となってますね。
やはり平家の一門でいいですね。
[44]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月14日 05時14分48秒 ) パスワード

「悩める服部さん」

タイトルがスレッドの内容の発展と共に少々合わなくなって来ましたので
ちょっと変更させて頂きました。

事後承諾のお願いでごめんなさいね。
[45]福助さんからのコメント(2005年05月14日 06時17分35秒 ) パスワード

神話、言伝え、いろいろ説があり、難解な言葉もありで混乱してしまいますが…

秦氏が秦の始皇帝の子孫と言う事は合ってるでしょうか。
桓武平氏の服部と秦氏の服部はどこで合流?したのでしょう。
自分が桓武平氏か秦氏か、はたまた農民が勝手に名乗っただけか
知る術はもう無いのでしょうか?
[46]小林雅成さんからのコメント(2005年05月14日 12時23分23秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

さちこさんへ

家紋の話題なので久しぶりに書き込みします。横レスですが、

>ウンチクこねてないで歩いてみてはいかがですか?(笑)

日本の苗字七千傑のサイトを主宰されているS氏(ルーツは藤原氏と推定)はうんちく垂れる意図もあると思う。が、本音は自分のHPのアクセス数アップ→広告バナー掲載による広告料増加→ハッピーという図式にあると思うのだが、いかがであろうか(^^)あと、このサイトの平氏関連情報の収集。

人間の行動は経済的利害を通してみるとわかりやすいと思いますよ。なぜこの人は平氏でもないのに熱心に書き込みされるのかというのは、広告料というのがインセンティブになっていると考えれば自然でしょう。その証拠に、自分の苗字ではなく、HPのタイトル名で投稿してはるし、URLもちゃーんと記入してるでしょ(^^)だから、平家フリークとちゃうで!ごくごくふつーの知識人やとおもう。だから、源氏輪の中の図柄の名称で意図的にボケ役してる訳ちゃうから、貴女があんまし突っ込むとこまるんちゃうかな?大阪の人ちゃうさかい、受けへんと思う。

S氏は苗字のサイトだが、例えば家紋のサイトを立ち上げている人で、書いている文を読めば、こりゃ図書館の本の丸写しやんか〜、間違いも丸写し(^^;;;というのは、ローカルな話題を書いている箇所を読めば一目瞭然です。これは貴女が指摘される通り。
無論、小生のように家紋分類屋が読めば、家紋のことわかってかいてはるかどうかはすぐわかりまっせ、ホンマ。

なんやかんや書いたけど、苗字と地名については丁寧に回答されてるから、有り難い思うで、自分で調べろいわれたらえらい手間です。

そうそう、梶紋については、大阪よみうり文化センター高槻校家紋講座で5月28日にうんちくたれてますから、私の知り合いなら見学にきてみてください。

大阪よみうり文化センター 家紋講座 講師
[47]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月14日 12時56分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

秦氏が秦の始皇帝の子孫の裔と言うことは疑問点もある。
 
秦始皇帝の四世孫(或いは六世孫)の功満王が応神朝に来朝帰化、その末裔が秦氏ということだが、始皇帝は紀元前247年即位、応神朝は5世紀初頭と推定され六代650年は非常に疑わしい。
おそらくは滅亡後に流浪した秦国人末裔が朝鮮半島の秦韓(辰韓)を経由して日本に移住帰化したものと思われ、日本書紀編纂に併せて多くの秦氏系図の大変造が行われたものと考える。(「日本の苗字七千傑」苗字調査資料姓氏出自解題より抜粋)
 
熯速日命系と桓武平氏系と秦氏系の服部氏の三系関係は、
「日本の苗字七千傑」姓氏類別大観平氏季衡流の平姓服部氏および柘植氏を参照。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
※ただし保俊が服部平家清の養子になったことは推測である。
 
平氏系と秦系が緊密になってきたのは能の金春、観世、宝生の三家の関係以降と考える。
[48]さちこさんからのコメント(2005年05月15日 21時54分32秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん。

ウンチク云々発言は服部家の家紋に関してだけですのでこれは誤解しないで下さい。
日本全国の苗字を研究されているのと、
私のように服部家中心に調べてる者とでは調査の仕方が異なるのは当然です。
(私の場合調査などという大それたものでは無いですが)
日本苗字さんの場合一つ一つ細かく検証するわけにはいかないので、
図書館などで調べられる資料を元に判断されるのは当然かもしれません。

が。。でもよくあるんです。(笑)
服部家や忍者を研究されてる方でも図書館で調べられる資料のみを正論として押し付けられる場合が。
私としてはそんな事承知のうえなのですけどね。
またか。。。という感じです。

このスレッドにいらしてる方は岩田さんをはじめ全員並び矢の服部家ばかりです。
矢筈が服部家の代表紋で矢羽は分家とお考えのようなので、
無粋ですが矢羽の服部家を代表して反論しておきます。

当然ながら家紋歴史より服部家の歴史の方が古く、
家紋を使用する頃には多くの服部家があったものと推測されます。
ですからこの時点で色々な形の服部家の家紋があったとも考えられます。
どの家紋が嫡流紋だとか古いものだとか今となっては調べるのは難しいし、
無理に決める必要等ないと考えてます。
ですが矢筈の服部のみが嫡流扱いにされてしまうのは心外なので。。。
下記は伊賀の小宮神社についてです。

http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm

この神社は伊賀の服部氏発祥の地にある服部家一族のの惣社です。
神紋に並び矢が使われてます。
矢筈が服部家の惣紋なら何故矢筈紋を使用しなかったのでしょう?
この近辺の家は服部家ではなかったですが矢羽紋が殆どでした。
矢筈はありませんでした。

私が聞いた範囲内ではありますが伊賀の旧上野市に住んでる人の話でも、
忍者関係を調べてる方はそうでも無いみたいですが(忍者グッズは矢筈だらけ)
服部家の矢筈紋というのは抵抗があるようです。
服部家は矢羽でしょ?という感じでした。

 >ある時、清涼殿の弓場殿にて弓箭の勝劣を顕わす。
  服部平内左衛門家長、
  名誉ありて六条天皇より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり。
  是より矢筈車の紋を平姓服部氏の惣紋(長男の紋)とする。
  三男までは○に二つ矢、四男以下は○に三つ矢を用いる。

この服部家家紋の由来ですが出所は一つと思われますが、
色々転用され結構広まってるようです。

三男までは丸に二つや矢、四男以下は丸に三ツ矢。
矢筈とあえて書かれていない場合、
矢とは矢羽と思うのですが何故惣紋だけが矢筈に?
また真羽の矢と羽に真をつけてわざわざ羽を強調しているのに、
家紋は矢筈となってしまうのは文章としても不自然に感じるのです。

恐らく、
「是より○○の紋を平姓服部氏の惣紋とする」
という原文がありそれを○○の部分を矢筈車に入れ替えたものだと思います。

矢筈の家紋の服部家の系図は半蔵家を除き殆ど織田信長の家臣となったものばかりです。

信長に仕えた者は勝者であり後に武士階級となり、
結果として資料として図書館で調べられる家紋や系図を残したわけです。

勝てば官軍といえばそれまでですが服部家の場合、
伊賀、長島での信長の大虐殺という歴史もあります。

矢筈系の服部家の系図は素人の私でさえ継ぎ合わせというのが判ります。
日本の苗字七千傑さんはこの辺りの事情は当然ご存知かと。

この点の事情をを御理解頂き服部家の研究をして頂ければ嬉しく思います。




[49]さちこさんからのコメント(2005年05月15日 23時26分06秒 ) パスワード

小林先生。

いつもありがとうございます!感謝しますだ、、カムサハムにだ。

福助さんや尾張の服さんの答えには急には答えられませんが。

平安時代末、
平家は伊勢の安濃津、桑名、富津この良港を支配したことで経済基盤を築きました。
安濃津は現在の津市で清盛のお父さんが生まれた地とされてます。

桑名は勿論現在の桑名市(町村合併により長島も桑名市になりました)
富津というのは現在の多度です。(こちらも桑名市になりました)
長島一向一揆があった地域は元は平家の経済基盤だったようです。


伊賀と伊勢、平家発祥の地で何故後に信長と服部家が対立したのか?

勿論経済でんがな。。金儲けでんがな、ですけど。。

私が思うに平家繁栄の裏には、
伊勢、伊賀の秦氏の経済的バックアップがあったと思うのです。

多分間違いないと。

また調べてみます。
今後ともよろしく。


名も無き忍者さんへ

少しでもお役にたてて嬉しいです。
誠さんからもまたコメントあればいいですね。
同じ家紋を持つ服部家同士、
三重県の歴史に一石を投じるぐらい服部家の歴史が解明されればと思います。
何か解明したなら教えて下さいね。


[50]小林雅成さんからのコメント(2005年05月16日 00時09分08秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

さちこ様

私見では、秦氏族の1派が、平を称したのではないかとも考えております。しかし、辰韓と百済では違うなぁと。でも、秦は膨大な部族をひきいているから、その中には、山東半島経由で、百済にはいった秦の1派がいてもおかしくないのでは?西日本をあちこちまわって確かめると一層その感を強くします。

さて、源氏輪も並び矢もそれぞれ意味があります。矢筈が果たして現代の矢筈と同じ図柄だったかどうかは調べてみないとなんともいえません。実際現代でさえ、家紋名と図柄が違う紋はざらにあるのですから。
『日本紋章学』で沼田博士は、その昔九曜の図柄を月星といっていたというようなことを著していた記憶があります。


[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月16日 02時10分33秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

さちこさんへ
 
服部氏は約14万7千人の天下の大姓であり、服部郷、服部邑も全国的に分布しており、ほとんどは上古の服部という主として秦氏系伴部の部民の末裔と考えています。
少数ですが、古くは伴部の長である服部連、中古以降は源平藤橘などを称する服部氏の裔があります。
また服部氏の家紋も「日本の苗字七千傑」主要苗字代表家紋に掲載の如く様々なものが存在します。
数万家の服部氏の家系や家紋を悉皆調査することは不可能で、特殊代喩として徳川幕臣になった服部氏を採用したことを御理解下さい。
徳川幕臣服部氏は伊賀発祥の平家長裔を称する家が多く、家紋は矢筈系が多く矢羽系は少ない。
矢羽にこだわる点からは、能の観世家が矢羽車を用い平姓は仮冒で秦姓服部氏の出と言うのも理解できます。
[52]福助さんからのコメント(2005年05月16日 15時12分06秒 ) パスワード

七千傑さん

>その末裔が秦氏ということだが、始皇帝は紀元前247年即位、応神朝は5世紀初頭と推定され六代650年は非常に疑わしい。

秦氏一族が日本へ渡って来たのは3世紀中頃〜後期で、九州に上陸と読んだ記憶が。
650年頃というと、聖徳太子に秦河勝が仕えてますね。
まぁそれでも500年の差は6代では埋りませんな。
機織り、製鉄、造船、建築技術を持ち込み伝えたと言う点から渡来人である事に間違いは無く
また当時の航海技術から類推するに、大人数が海を渡るには、それなりの資金(スポンサー)が必須と考えます。
流浪人風情の為せる事ではありませんね。なんらかの政治的意図が見えます。

ちなみに家も服部性で丸に矢羽です。5代前(明治時代)は
蒟蒻だか豆腐だかの職人だったらしいですが(笑
やっぱり勝手に服部を名乗っただけなんだろうか…。
[53]名も無き忍者さんからのコメント(2005年05月16日 22時42分18秒 ) パスワード

みなさま ありがとうございます。

いろいろな情報をいただき誠にありがとうございます。
想像以上に多くの情報、見解をいただき自分の無知さ故になかなかまとめ切れておりません。
しかしいろんな見解があるからこそ余計に先祖の歩んだ道を知りたくなるものですね

あくまでも素人見解ですがやはり我が家は昔から湯舟に住んでいたと思われますので
純粋に服部家さまの影響を受けた一族だというのが家紋から推測して一番妥当ではないか問い思います
先祖の墓も代々阿山郡の平泉寺にありますし先祖の墓に刻まれた名前(戒名)は20人に及んでいますので単純に考えても数百年はこの地に根付いていたと言えますので
服部誠様や三重県城郭一覧にわが一族の名前もあることですから
やはり一番の関心どころは服部家との関係ですね

こういうのって結局どのように結論を出せばよいのですかね?
一つ一つ消去法で突き詰めていくしかないのでしょうがそのすべがわかりません
難しいですね
[55]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月17日 02時07分41秒 ) パスワード

名も無き忍者さんへ


明治の初めまで遡って戸籍謄本(除籍謄本と言うそうです)をお取りになって
明治の初めの御先祖さまがどこに住んでたか
そしてその土地の有力者と会えると良いですね。

平泉寺さんの檀家をいつ頃からして来たのか分かると良いですね。
平泉寺の歴史はどうなっているのか聞けると良いですね。

それから郷土史家の方と知り合いになる。
または県や町の教育委員会から土地の歴史編纂書を頂く。

お盆やお正月に一族の長老から御先祖さまのお話が聞けると良いですね。


戦国時代に伊賀の服部家の覇権を
東湯舟の藤林vs千賀地の服部半蔵vs大山田の百地で3つ巴の戦いをやったようですが
結局は東湯舟の藤林+千賀地の服部連合軍vs大山田の百地になって
最終的に千賀地の服部家が伊賀の中心の家になったそうですが
伊賀では「自分達より家格の下の半蔵家のくせに」という不満があって
3代目の時にストライキが起きたそうです。(「影の軍団」の千葉真一の父親の代ですね)

*伊賀=服部半蔵家というイメージがありますがこれは戦国時代〜江戸時代に出来たもので
それ以前は北伊賀の藤林・西伊賀の半蔵・東伊賀の百地がそれぞれ勢力を持ってたのですから
藤林系だって百地系だって「平家の家長の嫡流としての服部姓」を使いたかったと思います。
半蔵の家が「服部姓」を名乗れた幸運を妬まれたというのもあったんじゃないかと思います。

(名乗ったもん勝ちだったと思う。藤林や百地は悔しかったろうなと)

戦国時代の歴史物をお読みになったら岩田氏のお名前も出て来るかもですよ。
たくさん読まなくてはね。
例えば戸部新十郎の「服部半蔵」とか。
忍者物とか。
そういう所に岩田氏のお名前が出て来たら教育委員会作成の歴史書で裏をとる。
(順序が逆と思いますけど)


とにかく今年のお盆は長老達のお話を伺いましょう。
必ず誰か御家の歴史に詳しい方がいらっしゃるものです。
その人を聞き出すだけでも今年のお盆は期待しましょう。


藤林の書のなかなどに家紋が見つかると良いですね。
藤林のお墓が見つかると良いですね、家紋が彫ってあると思うので。
[56]さんからのコメント(2005年05月19日 12時01分37秒 ) パスワード

突然ですが横レス失礼します。m(_ _)m

岩田さん、どうも初めまして。平熱常連の皆さん、ご無沙汰しています。
久々にこちらのカキコを読んで思い当たる事がありましたので、参考になればと思いまして。

私の手持ちの本に、湯舟の岩田姓の人物の事がチラッと出ていました。


 「天正伊賀の乱」 横山高治著 新風書房(1995)p.167-169より抜粋

蒲生氏郷の第二方面軍は宿将、脇坂安治と甲賀郡司の山岡主計頭が7,300の江州兵を率いて、
甲賀の水口から伊賀の玉滝口(阿山町)・湯舟方面から突入したが、―中略―
玉滝三郷(玉滝・槙山・内保)の玉滝寺に本陣を置き、伊賀衆の死守する豊田天王山に猛攻を加えた。
こちらは上友田の地頭、山尾善兵衛・中友田の広岡方左衛門・下友田の山内左衛門尉・
小杉村の蔦藤源十郎・内保村の藤島源十郎・東湯舟村の藤山左衛門・西湯舟村の岩田仙七郎・
槙山村の服部源蔵らに指揮された約500の兵が城砦を修理拡充し、先祖伝来の定紋を染め抜いた
旗指し物やノボリを立てて戦った。―中略―
蒲生隊は夜が明けるとまた服部・中瀬・寺田の荘を焼き払い、
ひどい事に荒木村(上野市)の白髭明神にまで放火し、野戦では伊賀忍者を馬で蹴散らして、
伊賀衆の拠点、平楽寺城を奪い取った。
ここは伊賀上野城および白鳳城公園のある小山で、北伊賀を見はらす山上に僧兵、雑兵約500が篭城していた。
蒲生軍はこれを十重二十重にとり巻き、盛んに弓矢や鉄砲を撃ちかけたので、
平清盛が創建いらいの由緒をもつ七堂伽藍が炎上し、伊賀兵はわずか二時間で全員、
壮絶な戦死を遂げた。


ここにあるように、少なくとも岩田さんのご先祖様は天正伊賀の乱で伊賀衆として戦った、
という事が言えるのではないかと思います。

この本には家紋について具体的に書かれていないのが残念ですが、
ついでにこんなものも見つけました。忍者グッズの通販らしいですけど・・・(^^;

http://www.rakuten.co.jp/ninja/644424/628839/

この上忍三家の家紋のうち、私の記憶に間違いがなければ、上が百地家、右下が服部半蔵家の紋だったような。
という事は、左下の源氏車(?)が藤林家。

ちょっと見えづらいですが、参考までに。
[60]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月19日 12時53分10秒 ) パスワード

隈さん
お久し振りでございます。

http://www.rakuten.co.jp/ninja/img10411322844.jpeg

>フロントは伊賀の三大上忍(服部・百地・藤林家)の家紋と三つ巴紋をアレンジしたイラスト!

これ凄い!3家の紋なんて初めてです。
3家が3つ巴で争った過去を思い出して思わず叫んでしまいましたよ(笑)


やっぱり服部半蔵家と百地さんと藤林さんは元は同源なんでしょうね。
藤林さんの源氏車紋を服部姓でも使っている家がありますし。
この3家で戦国時代に伊賀の服部の名跡を争ったという話が実感として湧きました。

(後に確か半蔵と藤林の姪が結婚して百地と対抗したというストーリーを読んだ記憶です)


ウオーウオーと叫んでしまいましたよ。
[61]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年05月19日 12時58分58秒 ) パスワード

http://www.rakuten.co.jp/ninja/img10411322844.jpeg


この3つの紋が戦国時代の伊賀の服部系の代表紋ということになるんでしょうかねえ。

で、もっと前の時代の紋はこの3つから各自想像空想妄想せよ!と?
[62]さちこさんからのコメント(2005年05月20日 00時31分37秒 ) パスワード

隈さん。

お久し振りです。
あの頃の常連さんも今では少なくなってしまいましたね。
皆さんどうなさっているのか。
もしかしたら何処かでご覧になっているかもしれません。
元気ですよと近況をお知らせでも頂ければ嬉しいです。
横スレなんてとんでもないです。

本当にありがとうございました。

私ももっと伊賀の歴史書を読まなくてはいけません。

ご存知ない方のため書いてておくと、
隈さんは広島の向島の服部家一族の方です。
この地と伊賀、及び長島の服部家との関係を調べていらっしゃいます。

隈さん
向島から今治までは因島、大三島等、村上水軍の本拠地でしたね。
四国の今治藩は桑名の松平家(久松松平家)が服部半蔵家とともにこの地に移ったのですが、
この松平家、調べたところ、いったん長島藩主になってます。

長島藩主になった後、今治へ移ったということです。

何かありますな〜。(笑)

ギャンブラーさん。
あくまでも楽天の忍者グッズですよ〜。
でも藤林家が源氏車というのは興味深い。

以前桑名の半蔵家の墓に行きましたが古いもので墓石の家紋はわかりませんでした。
でもその寺にあった服部家の家紋は源氏車でした。
半蔵家の仕える桑名松平家は戊辰戦争の頃会津藩主とは実の兄弟だったのです。
(どちらが養子か忘れました)

勿論半蔵家は会津に加担し敗れたのですが、
桑名の萱町にある寺に墓が残ってます。
これが半蔵家の代々の菩提寺であるか不明ですが。

半蔵家の家紋が六桁の車に矢筈というは記録にありますが、
矢筈がどういう形だったのかは判りません。

矢羽の形はは全国的にある程度統一されているように思いますが、
矢筈はさまざまですね。

北伊勢及び北伊賀に関しては矢羽は平氏系服部家よ!フン!何よ!
という感じですが矢筈は何か主張したい感じもします。

小林先生、調べてたもれ。

まあ、余談ですが。長島で昔から我家と親しくしてた寺、
(今は寺の行事などの時、記念品の注文をもらう位ですが)
何も知らずにお付き合いしてたのですが、
この寺が長島藩主の松平家の菩提寺と知り少しビックリしました。

桑名松平家の菩提寺も代々服部家が住職だったようです。
昔からの親戚やご縁と言うものは侮れないものがありますね。

名も無き忍者さん。
よかったですね。隈さんに感謝!

伊賀では、信長方=裏切り者=肩身狭い。。。
という歴史的価値観もありますから(笑)

でも岩田家に残っていた甲冑や手裏剣等が不明になってしまったのは残念です。
伊賀の財産でしたね。
何処かから見つかればいいのですが。

西湯舟といえばモクモクファームですね。
これ長島温泉グループというか、長島でもお馴染みで売ってます。
伊賀越えの味噌や醤油は例の不祥事で少し減ったものの、
ようかん漬けや固焼き煎餅等伊賀名産が多く売られてます。

何故か不思議と縁が深い地でもあります。
松尾芭蕉が長島に何度か訪れたたという記録もありますし、
西湯舟の服部家と我家とはそして岩田家とは何処かで繋がっているかもしれませんね。
[63]アカコッコさんからのコメント(2005年05月20日 08時25分46秒 ) パスワード

 隈さん、さちこさん、お元気で大変嬉しいです。常連さんの登場で「平熱」も盛り上がりますね(笑い)

 今は名前を変えて(メルアドもダミー)、差障りのない事柄だけに細々とコメントしております。

 伊予松平藩(久松家)の定勝の娘は服部正成の子供正就の妻になっております。
その正就の子供正幸は久松定行がもとに養われ後家臣になっており、その弟正辰は桑名の松平定綱の養われ後、家臣になり、三男正治も長男正幸と同様定行の家臣になっております。

 上記服部家の家紋は『八桁の内竪矢筈二』です。

 色々と江戸時代の武鑑(中には復刻判もあり)を持っておりますが、それには源氏車とは言わず、車輪とか、十六桁内、矢筈車とかになっており、明治になってから紋章学とかいった学者か家紋研究家あたりが源氏車とか勝手に言い出したのではないかと思っております(素人考えですが)。

 ちなみに、源氏車と記載のある家は榊原家(車輪十二輪もあり)と佐藤家(藤原氏本国美濃)ぐらいですね。
[64]名も無き忍者さんからのコメント(2005年05月20日 08時35分11秒 ) パスワード

隅さん さちこさん

貴重な情報ありがとうございます。
みなさまのおかげで少しずついろんな事が繋がり始めて岩田家の素性がわかりつつあります。
恥ずかしながら「天正伊賀の乱」という言葉を今まで知らなかった自分が恥ずかしく思えます、歴史の教科書に載っているんですかね。
やはり温故知新という言葉があるように「古きをたずね新しきを知る」ってことですかね
隅さんのコメントにありましたように”西湯舟村の岩田仙七郎”について調べてみます
我家で発見された甲冑はこれに由来するものかはわかりませんが今一族総出で甲冑探しをしております
見つかれば是非写真にてお見せできればと思っております。

藤林家が源氏車紋で、服部家が源氏車に矢羽ということは何かつながりがあるんですか? って素人のような事をお尋ねしてすいません
もともとは同族だったのですか?

さちこさんの仰るように服部家と岩田家のつながりがわかれば家紋の謎が解けるでしょうね、一族の菩提寺は平泉寺ですのでこちらは藤林家の菩提寺になるんですよね?
ということは藤林家につながりがあるんでしょうか。
まだまだこれからですが必ず突き止めたいと思いますので
今後もみなさまのご教授お願いいたします。 
[65]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月21日 12時17分31秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

アカコッコさんへ
 
沼田頼輔博士が日本紋章学を上梓された以降源氏車に呼称が統一された事は事実ですが、同一家紋でも読み方は様々で寛政重修諸家譜に記載されている服部氏の中には「源氏車の内矢筈」と表記されている家も存在します。
すでに江戸時代に源氏車の呼称が使われていた事例です。
また佐藤、榊原以外に秋元、河村なども源氏車の表記あり。 
[66]アカコッコさんからのコメント(2005年05月21日 13時40分02秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん。そうですね、寛政重修諸家譜で確認しました。

 その服部信成家系統ですね。同家と川口家は縁戚関係があり、信成が次男・信親は川口家の血が流れております。 又、保次家(伊賀守宗純の末裔)がありました。

 ご指摘有難う御座いました。寛永系図でもこんど調べてみます。

 

 
[67]アカコッコさんからのコメント(2005年05月21日 16時42分42秒 ) パスワード

[56補足]ちょっと言葉が足りませんでした。
 
 源氏車と称している家は服部家20数軒のうちたった5家で、それも分家で親の代(本家)ではただ矢筈車となっており、信成家。

 同様に信親家は信成の子供だから源氏車としております。

 保信家も分家で本家保次家は十六桁の車の内横矢筈となっております。

 正吉家も源氏車の内両矢筈二本、寛永系図は鳩酸草を家紋とすとあります。分家の長次家は同じ紋を使用しております。

 先祖代々使っていた訳でわありませんね。だから寛永系図を調べても分かるはずかないでしょうか?。

 子供の代から使用し始めたことは何か訳があるのでしょうが。
[68]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年05月22日 20時17分44秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

源氏車で有名な榊原氏も本流の呼称は「車輪」ですが、榊原源氏車として呼称は世間に定着していることは明白。しかし支流は「源氏車」と呼称。
寛永譜と寛政譜では約百八十年の開きがありますから、使用紋や呼称に変化が見られるのは当然と考えます。
また室町時代の「見聞諸家紋」も伝本により家紋の形に差異が見られ、江戸期の「武鑑」と比較して大きく変化している家紋もある。
また、金子氏が三蜻蛉から三扇へ、長沢松平氏が三浮線蝶から三開扇に改めるなど類例多く、先祖代々必ず同じ紋形を使用したとは考えられないのが現実と考えます。
[69]さんからのコメント(2005年05月23日 13時01分37秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、さちこさん、アカコッコさん、ほんとにご無沙汰してます。m(_ _)m
何かとご心配かけましたけど、こちらは元気です。
ご先祖さまの足跡調べは相変わらず遅々とした歩みのうえ、時に脱線しつつも
少しずついろんな事が分かってきたような気がします。

>ご存知ない方のため書いてておくと、隈さんは広島の向島の服部家一族の方です。
>この地と伊賀、及び長島の服部家との関係を調べていらっしゃいます。

こんな紹介されるとすごい人物に思われそうですが、そんな大層な家じゃないですって、さちこさん(笑)
結局まだ何の証拠もないですから。
でも、隈家と服部家の共通項は何とな〜く浮かび上がってきましたけどね。渡来人繋がりで。
その辺はまた、機会を見つけてお話しようかな。

上忍三家の家紋、見つけたときは私もかなりウケましたよ(笑)。
でも藤林家の家紋、一体何処で調べたんだろ?間違いじゃないとは思いますが。

>桑名の萱町にある寺に墓が残ってます。
>これが半蔵家の代々の菩提寺であるか不明ですが。

桑名の顕本寺ですか?←これも忍者の本に載ってた(爆)
最初に桑名藩家老になった、二代目服部正重以降のお墓がここにあるらしいですよ。
しかもここ、住職が伊藤さんなのね(笑)
伊藤さんとの縁も切れないみたいですね。


名も無き忍者さん

>「天正伊賀の乱」という言葉を今まで知らなかった自分が恥ずかしく思えます

いえいえ、おそらく全国的に有名ではないでしょうから。私も数年前、このサイトで初めて知りましたよ。
ただ地元伊賀の人々にとっては、織田信長によって故郷が壊滅状態に追い込まれたということで、忘れられない出来事らしいです。
適切なたとえかどうか分かりませんが、米国人にとっての「9.11」みたいなものでしょうか。

忍者関係の本を調べたところ、藤林長門守始め一族のお墓は、東湯舟の正覚寺にあるそうです。
もともと藤林氏の本拠地は東湯船ですので。
但し現在は住職不在のお寺になっているそうで、お隣の西湯舟・平泉寺にも藤林家のお墓があるのは、
そのためかも知れませんね。
だからといって藤林家と岩田家が無関係である訳ではなく、隣り合った地区に住んで同じ敵を相手に
戦ったということは、やはり何らかの縁戚関係を結んでいた(お嫁さんをもらうとか、養子に出すとか)可能性が高いでしょう。
つまり「藤林一族」のうちに入るということです。
実際似た家紋を使用している訳ですし。

ただ、決定的な証拠を掴みたいならば、やはり平泉寺のご住職にお話を伺って、
もしできれば過去帳を見せていただくのが一番かと思います。
私自身、菩提寺にお願いしても見せて貰えなかったので偉そうな事は言えないのですが・・・(^^;
まぁ私の場合は直系の子孫ではありませんでしたから。
見せていただけるかどうかは、ご住職の方針によっても違うようですね。

ちなみに、平泉寺という名前、藤林長門守子孫の藤林保武の著書「万川集海」に、これもチラッと出ていました。

http://www.iganinja.jp/japanese/mansen/mansen9.html

>そこで道順は伊賀の者四十四人、甲賀の者四人、合計四十八人を召し連れて承禎の守山へ赴いた。
>ところで、伊賀の湯船という里に平泉寺があった。その近くに宮杉という陰陽師(おんみょうし)が住んでいた。
>道順がそこに立ち寄り、忍びの吉凶を占わせたところ、宮杉は吉と占った。


ここに出てくる「道順」は俗にいう「楯岡ノ道順(姓は伊賀崎)」で、藤林長門守に仕えた有名な忍びです。
「承禎」は「六角承禎」。近江の守護大名で、藤林氏は六角氏との関係が強かったようです。

それから藤林家の由緒書によると、先祖(保豊)は天正伊賀の乱の際、激戦地となった雨請山
(伊賀市下友田=湯舟の南)で奮戦したものの一族は殆ど死に絶え、自らは命からがら遠江浜松へ
落ち延びた後、藤堂氏の命により伊賀に戻ったということです。
[70]京都 服部家さんからのコメント(2005年05月25日 00時07分17秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年05月25日 00時12分03秒
[71]京都 服部家さんからのコメント(2005年05月25日 00時13分02秒 ) パスワード

初めまして! 
京都に住む服部と申します。ふとした事からここに辿り着きました。

我家の家紋は「源氏車に並び矢」紋です。
江戸中期に近江の甲賀から京都に移り住んだと聞いて
おり元々は伊賀の出身のようです。
色々な話楽しく又興味深く拝見させていただきました。

「六条天皇より真羽の矢一千を手車に積みて宣下あり」
については六条天皇は2歳で即位、5歳で譲位、13歳で
崩御されており主催のコンペというのはどうも眉唾っぽい
気はしますが..(笑)

では今後ともどうぞよろしくお願いします。
[72]さちこさんからのコメント(2005年05月25日 13時33分11秒 ) パスワード

アカコッコ殿

遅くなりましたがそうでしたか。。。
いつも服部家に関心をもってくだり感謝してます。

服部信成家の家紋の件ですが、
川口家と縁戚関係が有りしかも信を通字としてる事から織田家とも縁戚関係があったのではないかと思います。
要するに織田方だった服部家のものです。
だから本家が矢筈車なのでしょう。

矢羽の紋で一般に系図が残っているのは少なく、
貞を通字とする服部家のみだと思います。
こちらの家紋は車輪に竪二本矢となってます。

矢筈は源氏車。
矢羽は車輪。
現在はどちらも源氏車として定着してます。
この点榊原家に似てますな(笑)

日本の苗字七千傑さんの言葉をお借りして。

>源氏車で有名な榊原氏も本流の呼称は「車輪」ですが、榊原源氏車として呼称は世>間に定着していることは明白。しかし支流は「源氏車」と呼称。

これをそのまま服部家に当てはめるのは強引かもしれませんが。

世は戦国。
下克上の時代です。

織田方の服部家と反織田信長の服部家。
どちらが本流か支流かとなれば織田方の服部家が不利ですよ。
無駄な抵抗はやめましょう。



京都の服部さん。
おいでやす〜。

隈さん貴重な書き込みありがとうございました。

またコメントします。
屁理屈垂れてたら時間がなくなりました。(笑)



[73]アカコッコさんからのコメント(2005年05月25日 15時29分32秒 ) パスワード

さちこさん、ご無沙汰です。

 >源氏」車で有名な榊原氏も本流の呼称は「車輪」ですが、榊原源氏車として呼称は世間に定着していることは明白。しかし支流は「源氏車」と呼称。

 ここが肝心で、服部家の源氏車と称する家も支流。これは寛政譜を呈するにあたり、源氏と称する徳川幕府に『諂い』源氏車としたかと思われ、支流がそう呼称したということは本家の同意か意向が無ければ、勝手にすることは出来ません。

 我が家は平家の末裔と称しておりますが、宗次の子供から源左衛門とか、源三郎とかの名前を使い初め、宗次の娘の婚家(服部)から車を源氏車と称し始めた訳で奇妙に一致しておりますのですこれも『へつらいか?』(笑い)。
 
 幕臣が使ったことに伴い、全国の武家などに普及したかと思いますが。つまり武家が使用した家紋が紋章学の元になっておりますから。
 
 私の言わんとするのは平家の末裔とする家々(姓と家紋を持っていた家々)が江戸時代から源氏車と称していたかと言うことです。本当はそれが知りたいのです。

 


 明日は四谷の服部半蔵の墓所があると西念寺に墓参に行ってきます。お楽しみに。

 
[74]さちこさんからのコメント(2005年05月25日 23時19分46秒 ) パスワード

アカコッコ殿

>明日は四谷の服部半蔵の墓所があると西念寺に墓参に行ってきます。お楽しみに。

期待しております。でもお岩さんの霊には気をつけて下さい。
四谷といえば番町皿屋敷。。。では無くてお岩さん。四谷怪談ですね。
番町皿屋敷はお菊さん。

「一ま〜い。二ま〜い。」

お気をつけあそばせ。
祟られないように。

この手の怪談話、
実は恐がっていたのは庶民ではなくて幕府かもしれませんね。(笑)

冗談はさておき、

>私の言わんとするのは平家の末裔とする家々が
(姓と家紋を持っていた家々)
 江戸時代から源氏車と称していたかと言うことです。
 本当はそれが知りたいのです。

我服部家の菩提寺(長禅寺)は今は桑名にありますが、
元は長島、
長島一向一揆中心であった願証寺のすぐ近く長島杉江村坂手にありました。

明治になり河川工事でこの地域は長良川の底に沈みました。
だから桑名に移りました。

その長禅寺に寺の由緒というか、
その当時有力者であったかと思える服部家の墓の墓誌がありました。
(私が見た限り個人的な墓所でありこれを史実としているわけではありません)

それには津島四家七苗字の事、
服部友貞と織田信長との長島のでの戦いのことが書いてありました。

漢文でしかも古いので読みにくく、
以前ヘブライ語で書いてある等と冗談を言った覚えがあるのですが(笑)

そこには、
服部伊賀守源宗純と書かれてました。
何で源なの〜?私が叫んでたの覚えてませんか?

普通は服部伊賀守宗純、
なぜあえて源の文字を加えたのか違和感を感じました。

この墓誌は明治20年頃に書かれたものだと記憶してます。
だから墓の主は江戸時代ですね。

この地域の服部家は系図なくともほとんど平氏系、
何か政治的意図があったのかもしれません。

我家に関しては江戸時代の階級は今となっては不明ですが、
苗字、家紋は使用してました。
[75]小林雅成さんからのコメント(2005年05月26日 13時10分43秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

さちこ様

秦の話の続きですが、『日本書記』見てたら百済経由で日本にはいってますわ。
病気療養中なので、ゆるしてたもーれ(^^)思考力が働きません。

服部さんの家紋はね、岡山県だけで29種類(小分類)ありますの。
伊賀以外の意外なところにいてはるなぁ。

28日に高槻のカルチャーセンターで、秦の話をする予定です。脱線ばかりでカリキュラム少しも進まず(^^;;
[76]アカコッコさんからのコメント(2005年05月26日 14時49分14秒 ) パスワード

 小林雅成さん、お体の具合が悪いとの事お見舞い申上げます。御身お大事に。


 伊賀国の岩田姓については分からないのですが、愛知県では岩田姓はあちこちに散見できます。

 城郭全集・愛知県版には長尾城(知多郡武豊町)岩田果貞これに居る。何れの代か不明とあり、「尾張名所図会」派、武雄天神社の祠官岩田氏はその後裔出、岩田塚は果貞の墳墓であるとしている。
 
 URLではhttp://shiroato2.hp.infoseek.co.jp/mikawa/filem/nagaozyou.html がありました。

 また、姓氏歴史人物大辞典(愛知版)によれば、『士林沂・』には大江広元七世岩田三郎政広七代の子孫仁左衛門正時に始まり・・・・・・。明治期に一宮の岩田家は糸商で兄弟揃って、大阪船場へ出かけ成功した・・・・・・。などとあり。似た話をどこかで聞いたような。土地柄似たような家があるのは当然ですが、もしかして、服部家と伊賀時代からお付き合いがあったかも?
『士林沂・』に記載されている岩田家の家紋は「丸に揚羽蝶」と「丸に覗き菊と蝶」でした。

 ちなみに『士林沂・』に服部家の紋も記載ありました。
 服部家だけ使用:源氏車に並矢羽・丸に並切竹矢筈
 服部家・志水家だけが使用:八つ鷹の羽車。
 服部家・飯島家だけ使用:丸に竪て三つ切竹矢筈。

 西念寺へ無事行って来ました(ォィォィ当たり前じゃなか)。
 江戸時代初期の古めかしい立派な寶印塔でした。震災・空襲にも遭わずよく現存していたものです。さすが服部家。
それなので家紋は附してなく梵字が大きく刻まれていました。私みたいな凡人ではとても読むことが出来ません。画像は下記で(新宿観光教会のHP)。

 http://www.shinjukuku-kankou.jp/map_yotsuya_08.html
 
 救われたのは、半蔵殿のお墓からすぐ裏手に『岡崎信康』の供養塔(五輪塔)がありました。これはとても大きくドッシリ構えており、塔の石囲いがあり左右の門扉には葵紋が彫られており、史実(半蔵と信康の関係)のとおりで、歴史が生きておりますね。


[77]さちこさんからのコメント(2005年05月26日 23時55分27秒 ) パスワード

小林先生ご無理を言って申し訳ございません。
ご事情は察して降ります。
お体をどうぞご自愛下さい。

高槻市ですか。
ここは古代服部家の本拠地ですね。
服部連塚、天服神社、
それに闘鶏(ツゲ)古墳。

以前秦熱にも書きましたがこの地に服部とツゲの地名があり、
伊賀とも何らかの関係があったのではないかと推測してます。

こんなんありました〜。
服部煙草。

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/daiou/06.html

確か薩摩の煙草、国分煙草も伊賀の服部家が広めたとか。
煙草か〜。
私、船場のイトはんもやってましたが、
タバコ屋の看板娘もしてましテン。
煙草と秦氏。
お茶と秦氏。
まっ色々でんな(笑)




アカコッコ殿。

お疲れ様でございました。

無事お岩さんの幽霊にとりつかれずご帰還なされたことお慶び申し上げまする。

      ↑
(四谷はお岩さんの幽霊がでると思っている田舎モノ)

忍者あつかいされてた半蔵家も少し報われたと言う事でしょうか?

世田谷に伊賀の呉服明神の神官の家系だった、
服部家の墓もあるみたいです。
本能寺の変に功績があり唯一信長系でなく幕臣となった服部家です。
通字は貞で家紋は車輪に竪二本矢、
または、七本矢、矢の字桔梗となってました。
矢の字桔梗??この紋はどんなものでしょうか?
想像がつかないのですが。
世田谷区赤堤に一族の墓が残っているみたいなので、

アカコッコさま、
すぐにとは申しませんが現地調査お願いできませんか?
源氏車とは称さず車輪としていた服部家です。
あまり有名ではないので下記しかリンク出来ませんでした。


http://www.syouhou.co.jp/profile.htm

一宮は昔から繊維産業が盛んです。
一宮の七夕祭は有名です。

豊武は知多でも三河に近い地です。
三河は服部家だけでなく柘植家も多いのでこの関連も考えられますね。

どちらにしてもアパレル業界は侮れませんな(笑)
イオングループ、ジャスコは元は三重県四日市の呉服屋。
民主党岡田代表はこの創業者ご子息。
現在はイオングループの本社は四日市(伊勢)ではなく千葉になってますが。

四日市で呉服屋といえば川口屋と岡田屋です。
岡田屋は少し斜陽で食品スーパーに転進、
老舗として川口屋が残ってます。
他に老舗もあるのですが川口屋は上手くジャスコと業務提携して生き残ってきた感じです。

何故伊勢のジャスコが本社を千葉に?
合併吸収したスーパーが千葉だったからなのですが、
昔からの伊勢と千葉の経済関係を引き摺っていたからだと思います。

あんまりゆ〜たらあかんけど。(笑)

[78]小林雅成さんからのコメント(2005年05月27日 08時47分43秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

さちこ様

カルチャースクールは、私の急病のため5月28日の予定が6月11日土曜日午後3:00〜5:30に変更になりました。中年オヤジ、歳には勝てませぬ。タバコ屋の看板娘かぁ、見てみたくなるキーワードやなぁ。秋以降兵庫県でもやる予定ですので、機会あれば来てくださいな。

高槻には、タバコとお茶ですか。それなら小生の故郷の岡山県美作市と同じですね(註:小生は農家の子供ではないので栽培はしておらぬ)。そこでは八本矢車があったり、祇園守の家紋があったりとやっぱし秦やなぁ、つくづく感じますなぁ(^^;)
[79]さちこさんからのコメント(2005年05月27日 14時04分24秒 ) パスワード

77で赤提の服部家のことを本能寺の変で功績があったと書きましたが、
本能寺の変の後家康の伊賀越えに功績があったです。
つい口がすべりました(笑)

この服部家の六所神社ですが天正12年に建てられてます。
本能寺の変が天正10年。だから本能寺の変の二年後。
偶然にもうちの服部家の寺も本能寺の変のあと当時の高須城主に土地を寄進され、
天正12年に再建しました。
やっぱり信長死んでめでたし、めでたし。
ですね(笑)

しかしその一年後の天正13年天正の大地震で再建された寺は崩壊。
長島も壊滅状態に。
信長の祟りに違いないと思ってしまってのは何故?

小林先生お体大事になさってください。
明日はお邪魔しようかなと思ってましたが残念です。
六月になると土曜は休みがとりにくくなります。
いつかまた是非お伺いしたいと思っております。

>タバコ屋の看板娘かぁ

元ね。(笑)

高槻のお茶の件では少し言葉が足りませんでした。
昔は煙草の産地でしたがお茶はわかりません。

お茶はこれです。
   ↓
http://www.tateishien.co.jp/mamebunnka.htm

>やがて栄西禅師から茶種を譲り受けた京都の高僧・明恵上人は、全国各地で茶の木 を育て本格的な茶の栽培を根付かせます。
 この時明恵上人が選んだ土地、
 武蔵河越、駿河清美、伊勢河合、伊賀八鳥(服部)、大和室生(室尾)は後に
「銘園五場」と呼ばれ、今日著名な茶産地の源となっています。

隈さん、京都の服部さん話がつい脱線してしまいました。(いつものこっちゃ)
またコメントします。
[80]田中愛造さんからのコメント(2005年05月27日 22時39分06秒 ) パスワード

小林先生
 急病だそうで、お見舞い申し上げます。明日楽しみに致してして居りました、高槻の地図を広げて調べてましたが、拝顔叶わず残念です。
 早々のご回復願って居ります。
[81]さちこさんからのコメント(2005年05月28日 23時16分40秒 ) パスワード

隈さん。

私の話した半蔵家の墓はそうです本顕寺です。
桑名のHPをみて本顕寺を知ったのですが、
いずれ探して行ってみよう位に考えてました。

桑名には時々仕事でも行くのですが、
信号待ちしていてふと見ると本顕寺と案内標識がありました。
交差点の角、車の止まってるちょうど左手の寺が本顕寺でした。
(この辺りは、ずら〜と寺が並んでます)
うちから桑名に行く時は必ずそこを通りいつも信号で待たされる所で。
上に書いた、いとこもこの寺の近くに以前住んでいたし、
長禅寺に行く時も必ずここを通るし、
とにかく何百回は、
いえ、子供の頃から考えると千回以上この寺の横で信号待ちしたかも。

ここだったの〜。と正直驚いたというか。
ここでいつも信号で待たされるのは、
半蔵の霊が呼んでいたのかもと思ったりしましたが、
四日市から桑名へ入る場合(23号線で)誰でもここを通るだろし信号長いし。

その時降りてお参りしてきました。
元は同じ伊賀の服部家で伊賀を出てそれぞれの道を歩んできたのだけど、
結局は偶然の桑名の地で一緒になったのだと思うと感慨深いものがあり、
ジ〜ンとしました。
しかも無縁仏だとのことでした。

「今日は何も準備してこなかったけど今度来る時はお花とお線香持ってくるからね
 お彼岸やお盆の墓参りには近くを通るからこれからはここにもよってくね。」
等と心の中で囁きながら手を合わせました。

あれから何年たったでしょうか。
あれ以来一度も行ってません。(笑)

「ごめん、ごめん今日は忙しいから今度必ず」
と言って車の中で手を合わせてます。

今でも必ず足止めされて、
父も昔からここではいつも信号待ちするそうです。
やっぱり半蔵がひっぱてるのかも?

桑名怪談。

夜になると忍者装束の半蔵が手裏剣を、
「いちま〜い。」「にま〜い」

あまり恐くないですな(笑)

藤林家の菩提寺が正覚寺ですか。
実は楠城主(楠も四日市と合併しました)の楠一族の菩提寺も正覚寺です。
この寺の紋は楠木正成の末裔なら菊水だろうと思ったら、
徳川家の葵紋でした。何でやネン。

桑名松平家から下賜されたとのことでしたが、
桑名松平家は久松家で葵紋ではなく、
梅鉢なのでこの話は説得力ないなと思うのですが。

万川集海に出てくる道順という人物少し気になります。

長島城主の服部友貞ですが、
伊勢名所志によると信長の謀略で自害した後、

道円とおくりなし、妻は尼となり真禅尼とすとありました。

長禅寺はこの長島城主だった服部家一族の菩提寺なのですが、
のちにこの寺の服部家から少し調べただけでも、
道行、道周、道鱗、等の僧がでてます。

曹洞宗だから道元にちなんであたり前と言えばそうですが。

でも道順にゆかりのある西湯舟の服部家が、
長禅寺の服部家と同じ源氏車に並び矢。

単なる偶然ではなさそうですね。

道順は伊賀崎という姓とされてますが元はこの和歌。

 「澤山に百々となる雷もいがさき入れば落ちにけるなり」

道順の名字が伊賀崎というのでそれを掛詞にしたということですが。

でも逆かもしれませんね。
万川集海では楯岡の道順とあるだけで伊賀崎とは書いてないですね。
(あくまでもインターネットでみたかぎりです、原文を読んでません)

道順が澤山に入ったという話があり、
和歌に「いがさき入れば」とあったので、
道順は伊賀崎だったと言うことになったかも。

伊賀崎入ればではなく、いがさき入れば=伊賀先入れば落ちにけるなり。

甲賀より伊賀が先に入れという陰陽師の占いとワシは読んだ。
伊賀崎入れ歯かもしれんがな。

万川集海。

万の川海に集る。

諏訪神社のウンチク垂れは小林先生に先にやられてもうたがな。残念。

何故信州の諏訪氏の信仰が水軍と関係あるのか。

万川集海。

全ての川は海に通ずでんがな。

今一度初心に帰り明日伊賀に行きます。
なんで?
ひまやから(笑)
[82]布袋竹さんからのコメント(2005年05月29日 12時38分42秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

さちこさま、こんにちは
諏訪神社薀蓄ウンヌン・とあったので
薩摩のことだけですが、鹿児島にはこのお諏訪さんと呼ばれる神社が
多くあります。でも、名前を南方神社と変えたところが多いのです。
ここには、神舞「神楽」や「六月灯」と呼ばれる行事も残っています。
私の住んでる地域の氏神様もこの南方神社「おすわさん」です

南方神社「鹿児島では・みなみかたじんしゃ」濁らずじんしゃです。
諏訪神建御名命を祭るこの神社は多く分布して、薩摩平氏一族の分布地と
重なる事が多く、信州にも領地のあった島津氏が12世紀に下向し、地方豪族を
支配してゆく過程で諏訪神社を建立したというのに、少し疑問がわきます。

島津雨と呼ばれる様に、生誕が雨宿りの・・で、稲荷神を島津氏は崇敬したようです。
もちろん、島津忠久が諏訪明神の加護で軍功立てられたと、子孫も諏訪神社を
有名軍神ということで、崇敬してきたとのことも見逃せませんが。
すでに建立してあった神社を、尊重・手厚い保護してきたのではと・

蛇足ながら、鹿児島の神社には沢山のお祭りが付随しています。
神舞をはじめ、棒・鎌・笹踊りなどの神社奉納踊りもあります。
そろそろ神社仏閣の境内では、薩摩の夏の風物詩である「六月堂」が
ほとんど毎日、県内どこかで行われます。

ほかに平家関連では「鬼丸神社」が鹿児島に数社あります。
takahiroさまから、いずれご紹介していただけると思います。
[83]アカコッコさんからのコメント(2005年05月29日 17時22分59秒 ) パスワード

 布袋竹さん ご無沙汰です。愛知県江南市に布袋駅があります。ご存知ですか。
あちらのスレtakahiroさんと最強コンビなので今後の展開を楽しみに拝読しております。

  さちこさんのご要望どおり行って行ってきました。
実費は後で請求がいきますから(笑い)。安心下さい。私は根っからの江戸っ子(芝の生まれ)そんなことは死んでもしません。関西人とはチョット違いまんねん。

 まず、西福寺には寛政譜第千百七十の服部貞富が開基したとあります。

 現在は服部氏貞徳公墓が墓地入り口近くにあり、下部に『車輪竪二本矢』の家紋が附してありました。同氏は寛政八年没とあるので、後世に作られたものでしょう。知行は千四百石とあるのでもっと格式の有るべき墓じゃないかと思っていたので(間違っていたら御免なさい)。側面には何某かの文字が彫られておりましたが、チョット判読できず。

 ご住職にお話をお聞きしたのですが。同服部家とは明治以来音信不通で先代・先々代のご住職も色々と調べたそうですがダメだそうです。

 がっかりしましたが、本堂の棟の中央には服部家の家紋『車輪竪二本矢』が附してあり、服部家の面目躍如。矢筈ではなく矢羽でちゃんと矢の筋までみえます。

 世田谷赤堤 西福寺ホームページ
 http://www.saifukuji.com/

 世田谷 六所神社(赤堤六所神社)
 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/12_setagaya/12026.htm
 
 上記ドレスは服部家が勧進した六所神社は西福寺が別当職をしてたそうです。
 
 以上のように江戸時代からの墓所及び墓石を守り受け継ぐことは大変なことです。特に旗本は明治になり禄を離れ生活の土台を失ったからでこれも因果応報か。土持ちお百さんが一番強い。
 
 それと余談ですが服部家のお墓の前には伊藤家(笑い)、その隣には井戸家がありました。

 また四谷の西念寺には半蔵家の分家が使っていると寛政譜に記載されており、前回の訪問では聞き逃してしまいましたが、再度墓参がてら調査してきます。
[84]さちこさんからのコメント(2005年05月30日 23時59分39秒 ) パスワード

アカコッコ殿。

ありがとうございました。
本当に何とお礼を申し上げていいのか。
赤堤の服部家のことは以前より気になってました。

一度は行ってみたいと思いながら、
私みたいな田舎者は東京はよく知らないし、
住所を調べても全くどの辺りか判らないだろうと思ってました。
ましてや寺を見つける事など出来ないし、
墓の家紋など調べることができることないとあきらめてました。



でも。。。

こんなに早く現地の情報をお知らせいただけたとは。
いや〜何というか情報社会ですね。

ましてや服部家のお墓の前に伊藤家とか。。

貴重な情報をありがとうございました。

川口家は元は、伊賀、尾張がゆかりの地。
この辺りは私の縄張り(?)ですので現地調査はお任せ下さい。
気になることがあれば調べてきます。
遠慮なく申し付け下さい。

 >実費は後で請求がいきますから(笑い)。安心下さい。私は根っからの江戸っ子  (芝の生まれ)そんなことは死んでもしません。
  関西人とはチョット違いまんねん。

私は大阪、船場生まれでっさかい調査費用は水増し請求させていただきますぅ。
御覚悟を。(笑)

冗談はさておき、
服部家のこと、いつも心にかけて頂いてること嬉しく思いまた感謝してます。
本当にありがとうございました。
私も御家にお力になれるよう努めて参ります。
今後もよろしくお願いします。
    
で、昨日の伊賀行きは。。。
急に変更になり愛知万博行ってしまいました。
すんません。
万博は万博で収穫ありましたさかいお許しを。
近いうちにまた行きます。

布袋竹殿。

貴重なお話ありがとうございました。
諏訪氏、諏訪神社に関しては、
織田信長と対立していた長島も諏訪氏との関わりが深いところです。
現在も加路戸(唐戸)に諏訪神社があり、諏訪さんが今でも神主です。

薩摩義士の宝暦の治水工事ゆかりの地でもあり、
薩摩の諏訪信仰との関係が気になります。


[85]さちこさんからのコメント(2005年06月01日 12時21分17秒 ) パスワード

NHKのその時歴史が動いた、
今日は宝暦の治水工事薩摩義士だそうです。
[86]アカコッコさんからのコメント(2005年06月03日 22時13分23秒 ) パスワード

涙無しにご覧になれましたか。

 生憎今週の東京は雨が降ったり止んだりで出かけようにもママならず。

 取敢えず赤堤の西福寺にあった『車輪竪二本矢』紋を暫定的に下記アドレスにアップしました。お気にい召しますかどうか。

 http://www.aa.alpha-net.ne.jp/akokoco/sub3.htm


 本堂の棟の中央に輝いております。

 
[87]さちこさんからのコメント(2005年06月05日 09時00分44秒 ) パスワード

ありがとうございました。


津島雲居寺
   ↓
http://www.tsushima-cci.or.jp/machi/area/d_02.html

この寺は服部伊賀守宗純創建とされる寺です。
ここに丸に抱き茗荷の大橋家、真野家、車輪に並び矢の服部家の墓がありました。
過去にこの三家が親戚でありそして今でもお付き合いが続いているのかもしれません。

永い歴史の中、各家色々あっただろうと思います。
でもこうして津島で三家がこの地に残り歴史を語ってくれてる様で嬉しいです。

では、伊賀に行ってきます。
[88]さちこさんからのコメント(2005年06月05日 23時11分16秒 ) パスワード

無事、伊賀より帰還いたしましたと言っても。
我家から上柘植まで車で30分ほどです。

実は近いんですよね〜。伊賀。
親戚や仕事の関係どうしても名古屋寄りになってしまいがちでした。

今回は西湯船と楯岡を中心に考えてました。

とりあえず伊賀インターで降りて上柘植へ向いました。
目的地ではなかったのですが、引っぱってくれるのなんの(笑)

柘植で時間をつぶしてしまいました。

上柘植辺りでは曹洞宗の寺が多い感じでした。
(あくまでも今日行ってみた感じです)
この辺りの寺の墓と言うのが。。。
さすが忍びの本拠地。

私が住んでる北勢では○○家の墓と墓石の正面に書いてあり、
その下の石に家紋があるのが殆どです。
墓石に南無阿弥陀仏とあるものもありますが、
大抵は苗字と家紋を判断できます。

でも上柘植では新しい墓を除き戒名を墓石に彫り、
○や空、等の字が戒名の上に記されてました。

墓の横に俗姓として苗字が書いてあるあるものもありましたが、
多くは短い時間では判断不可能でした。

判る範囲ではこの地は横木瓜の家紋が多くありました。
他の紋もありますが横木瓜、優勢の土地と思います。
勿論柘植家もこの家紋でした。

三河、小垣江の柘植家も同じ家紋と記憶してます。
繋がればいいですね。

でっありました(笑)川口家のコーナー。

川口家の墓が奥まったところに集中してあったのですが。
家紋は丸に並び矢!そして横木瓜。
わろたがな、嬉して。涙して。

アカッコ殿のルーツまさしく柘植にありと感じました。
(あくまでも今の段階ではです、私は新羅、イスラエルと発想が飛ぶからね)

川口家は元から伊賀の柘植で服部家、柘植家と親しい家ではなかったのか?
家紋からそんな思いがしました。
勿論これで総てを判断してはいけません。
私が行ったのは伊賀のホンの少しです。

某上柘植の曹洞宗の寺です。
必要なら住所教えます。

アカッコ殿が服部家にこだわる原点はここにあったのかもしれません。

湯舟に関しては少し短く。

東湯舟の藤林の菩提寺には現在藤林とする墓はありませんでした。
多くの墓石が残っているのでそれが藤林家?
家紋も判らず桑名の半蔵家とよく似た印象でした。

その寺には富治林家の墓があり源氏車(車輪)に違い鷹の羽。
この寺を代表するような大きな墓でした。
その他横木瓜の藤森、藤澤、が多数で殆どでした。伊東もあったかな。

西湯舟の平泉寺、
立派なお寺でした。
勝手に入ってしまった事お許しを。

以前お書きになった、
服部誠さん。
そして名も無き忍者さんのお宅の御墓判りました。
今度来る時はお花とお線香持ってくるからねと手を合わせました。

服部家の墓は車輪に並び矢、
岩田家の墓は車輪に横並び矢。

藤林家の墓も車輪に並び矢、車輪に横並び矢(岩田家とは左右反対)、
そして丸に並び矢でした。

西湯舟の藤林家は服部家色が強い感じで、
東湯舟の藤林家は藤家関係が強いと言うか。。。

何故なのかこの辺りは私が推測するより地元の方が詳しいかもしれません。

あっ、今回矢筈の服部家は見かけませんでしたが、
切り竹矢筈の服部家はありましたのでご報告しておきます。
[89]さなえさんからのコメント(2009年07月10日 22時49分19秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月21日 12時11分34秒
[90]さなえさんからのコメント(2009年07月10日 23時56分24秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月21日 12時12分14秒
[91]さなえさんからのコメント(2009年07月12日 21時07分56秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月21日 12時13分15秒
[92]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月13日 01時29分05秒 ) パスワード

さなえさん


家紋はいろいろなバージョンがあってビミョウに異なります。
その小さな「差」が「非常に近い同族・一族」ということだと思います。

同じ父親の子でも、嫡子と庶子ではビミョウに変えますし
同じ父親と母親の子でも嫡男に遠慮して3男以下はビミョウに変えます。
次男は嫡男に不幸があった時のスペアなので、これまた、ビミョウな立場です。


だいたい伊勢伊賀美濃尾張三河遠江駿河甲斐あたり+その近辺は平家系の服部さんで良いのでは?

ま、時代が下がって、徳川家康と関係の深い服部さんですと源氏を称しているようですが
しょうがないですね。
徳川家と非常に近い関係ですから、徳川家に引っ張られた、ということで。笑
だから車も「源氏車」なんて称して座りが良いのでは?


徳川さんも一応南朝方ですし。笑
それ以来のお仲間ということで。笑


とにかく服部家というのは徳川時代にとっても良い待遇に預かってますから
それが明治以降も続きましたし
昭和20年8月15日以降もアメリカ軍のせいで財産を没収されたとはいえ
結構裕福なまま現在に至る、ではありませんか。



平家系の服部さんも平家の時代におおいに栄えて日本全国に進出したんでしょ。
平家が敗れて各地にとどまった服部さんは自分の家こそ平家の服部家を担う者として頑張りました。


南北朝の戦いの時にも敗れて、その地に留まって、豪族として頑張りました。
そういう家は<車に並び矢>を使っているんでしょうね。

車もビミョウに差があって当たり前
矢もビミョウに差があって当たり前


豊かになって力を持てば文化的になってデザインに懲ります。
そこで差がどんどんビミョウに出ます。


川越の服部商店さん(民俗資料館をなさっているお菓子屋さん)も車に矢紋ですよ。
武田に仕えてたそうです。
江戸時代に商人になったようですが、江戸時代はかなりの豪商だったようにお見受けしました。


桑名の服部さん
弥富の服部さん   ← 弥富の服部家が1番の名家:ここは格別;超越;雲の上
川越の服部さん
緑区の服部さん

まだ他にもいくらでもありますよ。
残念ながらヨソの土地のことは分らないのでなんとも言えませんが。


わたくしは猿投の名門の服部さんという家について知りたいと思ってますが
今も残っているのかなあ?


でも「車+矢が2本の紋」なら平家の伊賀の服部家のかなりの直系なんじゃないですか?

車が外れて取れちゃってるとか
矢がどこかに飛んでってるとか

そういう服部さんは直系から出た一族なんじゃないかな?
それでもかなりの資産家だったり裕福だったりしますから

日本の中世に名を残すような家というのは、敗れても、かなりの力を保ち続けたんだな、って思います。

ま、江戸時代にかなり勢力を盛り返した、ってことでしょうね。
徳川家康に感謝!
[93]さなえさんからのコメント(2009年07月14日 13時15分36秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

返信コメント、ありがとうございます。(^v^)/yatta-!

服部一族は、数は必ずしも多く無いかもしれないけど、
全国に散りながらも、誇りを持って、たくましく生活してきたことが
うかがえますね。

その精神は、私の父を見ても、確かに受け継いでいるかな?
がんばりやで、タフで、猿顔系ですし・・・(笑)

ただ、末裔すぎて、なんも無いですけど・・・(泣)


また、私事ですが、
小学校のころ、夏休みの宿題で、家紋を調べていったら、
担任の先生に、
「こんな家紋は無いぞ!!」「お前が勝手に作ったのか!!」
って言われたんですよ。(くやしい〜)

それに、一年生に入学したときは、名前がなくて・・・
まちがえて、「ふくべ さなえ」になってたの!!
信じられない、本当の話です。

それぐらい、その地域にむかしからいなっかったって事でしょうけど・・・

あの時の気持ち、今晴らしたぞ〜って感じですね(笑)。

またいつか、お伊勢さんと、熊野古道と、伊賀方面に行ってみたいです。

そういえば前から、修験道みたいな事に、あこがれてたんです。
ただ、女だから一人で行かなかっただけで・・・

      いつか 行きたいな  
                きれいだろうな

また、何か解ったら お知らせ致します。
三河の服部のルーツ判る方あれば、お知らせくださいね。

                  暇潰しのギャンブラーさん
                  ありがとうございました。
        
[94]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月14日 21時16分36秒 ) パスワード

さなえさんへ


別のスレッドに「中国人の考える服部半蔵像:伝説の忍者・服部半蔵は中国人?」というのがあります。
って、自分が立てたのですが。笑


この解答でも服部半蔵は

服部姓は日本の古代の豪族の秦氏からで、その前は中国の呉?から日本に渡った
伊賀の豪族の子孫で
    源平についても書いてあったような記憶
足利家に仕えて
半蔵の数代前に三河に行って松平家に仕えて
と書いてありました。

中国人でも結構良く勉強してるんだと思いました。



ま、服部さんも古代の伊賀の機織部の子孫というのもあって
こちらが本家本元ですね。

平家の服部さんは古代豪族の服部姓の名字を継いだわけですから。

静岡は古代の服部さん系も残っているでしょうね。他の漢字で表記してるし。
でもやっぱり徳川家との関係から伊賀の服部家もたくさん存在してるでしょうし。
秋篠宮紀子さまの母方お祖母さまの御実家はどっちかなと思うけど
川嶋家との関係からすると平家系+南朝系かも?笑


三河だと足利家に仕えた服部家もあるでしょうね。
でも主流はやっぱり徳川家に仕えてた服部家でしょうけど。


今も結構裕福な暮らしをしてるなら家康関係の服部さんでしょうね。
とはいえ
1980年代のバブルで没落したり今回の金融危機でも没落している可能性もありますけど。
笑   いえ、笑っちゃいけないですね。


三河だったら家康系ですよ。
そうでなかったら、半蔵家に対しての悪口が代々伝わってますよ。
「うちは半蔵とは関係ない」って。
ココんとこ重要だと思います。
伝わってないなら、松平家に長く仕えて当たり前になって、伝える必要がなくなって今に至る、
ということでしょう。


もうすぐお盆ですから、御親戚の方達にお尋ねしてはいかがでしょう?


それから「家紋」は物凄い数のバリエーションがありますから
知らない人には「そんなの無いよ」なんて言われますが
それは、その人が知らないだけ。

先生が無知だった、という証拠。笑
傷ついたでしょうね。


今はどこの家でもたいてい1つの家紋しか使いませんが
実は複数ありますよ。

女紋というのもありますしね。


「ふくべさなえさん」にされましたか。
笑っちゃいますね。


それは、その土地には存在しない(珍しい)名字だからでしょうね。
だいたい伊勢伊賀美濃尾張三河遠江駿河甲斐あたり+その近辺の人は読めるでしょうけど。


中国人の友人は「ふーぶゥ〜」って読んでました。

確かに知らない人は「服部」を「はっとり」とは読めないでしょうね。


どなたか三河の服部さんからレスがつくと良いですね。にっこり
[95]尾張一宮さんからのコメント(2009年09月17日 00時24分54秒 ) パスワード

はじめまして。 愛知県の江南市(尾張一宮の隣です。)というとこに住んでいる服部です。皆様の博識ぶりには大変驚かされます。実は先日、営業先のお得意様(三重県の伊賀市上野)で藤林さん(忍者の末裔と言われています。)から名字の話をされて以来、自分のルーツが気になり、ふとしたことから、拝見させていただいていたのですが、私のルーツにどのような考察が考えられるか、教えていただけませんか?

父方が代々服部と名乗っていますが(母方の姓は加藤です、北名古屋市(旧西春町)です。)祖父が後妻の末子ということもあり色々とあった末、本家とは縁を切っているので昔のことは聞けません。本家のことや名古屋の熱田に祖父の兄弟がいたことも、祖父の葬式の時に初めて知りました。

実家は織物加工業で工場を営んでいます。(祖父が起業したそうですが、三度起こしたのですがすべて繊維業です。)
宗派は浄土真宗で、昔は弥富で農家をしていたと言っていました(ずいぶん昔みたいですが…)。

少ない情報の上、肝心な家紋等は知らないので恐縮なんですが、よろしくお願いします。
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月17日 01時03分54秒 ) パスワード

書き直し:



尾張一宮さん

家紋を御存知でないと、全く、お話のしようがないです。


と申しますのは
浄土真宗で弥富、とあるのでアッチ系かな?とも思うし(並び矢系で南朝方で反織田信長)
江南、ということはコッチ系かな?(北朝方)とも思うし、弥富がらみで複雑な話をしますが、
津島の服部さん系(織田信長の家来で今川義元の膝を刺した服部小平太=秀吉に詰め腹を切らされた)かな?とも思うし


でも加藤と親戚とあるので
ウチとも親戚かな?
とも思うし

後妻の。。。+  熱田。。。とあるから
いよいよウチと親戚かな?とも思うし

この2つは偶然の一致ですが(笑)


家紋を御存知でないと本当に何も言えません。


このスレッドの18個位下に「源姓9枚笹紋の服部氏」のスレッドがありますが
こちらかも知れませんしね。
下にURLを書いておきます。


伊賀上野の藤林さんはあなたの「服部姓」に(オッ!伊賀の服部じゃん!うちの一族か?)と思ったのでしょうけど

わたくしが思いますには
源姓9枚笹紋は伊賀にいた古代の服部氏か?
平宗清系で、平家が滅んでから、ココの家から平家長の家を継いだ服部氏か?
その他か?
というあたりで錯綜します。


ここは家紋をハッキリさせないことには何にも始まらないということでございます。


いっぱい可能性がありますね。
取り敢えず家紋を調べてください。


源姓9枚笹紋の服部さん:
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100555_8.html


因みに弥富の服部さんは源姓を名乗っていらっしゃるようですよ。
これは家康との関係でしょう。

もし戦前まで裕福な家の服部さんでしたら
やっぱり弥富系の服部さんかな?と思いますが

三重県でも9枚笹紋の服部さんというスゴイ家がありますから

やっぱり服部さんの家って戦後あたりまでは裕福な家だったんだ〜と思います。
今は知らないわよ。バブルの崩壊があったり、最近の危機があったりするから。
[98]尾張一宮さんからのコメント(2009年09月17日 01時55分48秒 ) パスワード

さっそくご返答いただきありがとうございます。やはり家紋がわからないと話にならないですよねー。 今度実家に帰った時に調べてみます(祖父の代に新居で建てた上、家が三棟あるので探すのも大変な上、本家とは完全に縁を切って出て来ているので、そういうものがあるかどうかもわかりませんが…)。本家の方はなかなか立派な建て構えで蔵もあるような古い屋敷なので、そっちなら確実になんらかありそうなんですが…難しいですね。
とりあえず実家を探して聞いてみることにしますありがとうございました
。それにしても本当に博識ですよね。尊敬します。
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2009年09月17日 07時40分33秒 ) パスワード

>本家の方はなかなか立派な建て構えで蔵もあるような古い屋敷なので、そっちなら確実になんらかありそうなんですが

うちも後妻の末子という身分なので
親戚の中では1番肩身が狭いので
我が家なんかが本家にいろいろ訊けるような立場ではないので
尾張一宮さんのお気持ちが分かります。

先妻さんの方には後妻系はかなり頭を低くしないといけないですしね。
お気持ちは分かります。


お祖父さまの紋付とか
袱紗とか
こういうのに家紋がついてますよ。


古いお葬式や結婚式の写真なんかですと皆さん家紋のついたのを着てますから
そこから何か分かると良いですね。


西春で加藤さんでしたら
服部家とは遠い遠い親戚になると思いますよ。

もともと「鬼頭・加藤は太閤さん以来の名家」って名古屋では言いますから
   鬼頭は福島正則のことね。←だから鬼頭さんも名古屋じゃかなりの家ですね
   加藤は加藤清正ですが。 ←首相だった加藤高明について調べてみてください。服部家との関係が実は・・・ですよ。


お父さまとお母さまは結婚するべくして結婚した
そういう昔からの深い御縁だったということです。


そういうことで
案外お母さまの方が服部家のことを御存知かも。


家紋が分かりましたら、新しくスレッドを立ててください。
長くなったし
新しいスレッドの方が他の人の目にとまり易いですから。
[100]尾張一宮さんからのコメント(2009年09月17日 12時16分15秒 ) パスワード

両親の事や(お見合い結婚ということしか知りません…)実家の経歴の話は伏せられてきた経緯があって、ほとんど知りませんでした(私がまだ若いということもあるとは思いますが…)。しかし今になっていろいろとおっしゃられるように、何かと縁を感じることもあり、気になったものですから(お得意様の藤林さんも親戚が愛知県の一色町におられるそうですが、レスを拝見させていただいていて、何かしらの縁があるだろうなと思いました。)、ド素人の私が聞くのも大変失礼なことかと思いましたが、投稿させていただきました。それに対しての重ね重ね親切な対応、ありがとうございます。
頑張って家紋なんか調べてみます。
見つかりましたら新しいスレッドをたててみたいと思います。
どうもありがとうございました。
[101]さなえさんからのコメント(2010年08月31日 13時14分02秒 ) パスワード

皆様、ありがとうございます。お久しぶりです。

8月29日・30日と、自分の足で伊賀にいってまいりました。なので、すこし日記のようなないようです。楽しんで、読んでください。

まず、伊賀市湯船の平泉寺に、いって参りました。忍者の末裔(岩田さん)のおっしゃるとおり、まったくうちの家紋と同じでした。まず、三河国一色町のご先祖様の服部氏のお墓に手をあわさせていただき、そして岩田氏のお墓をまいらせていただきました。お寺の奥様に、お話を伺いましたところ、ここの服部家さんは、たくさんの土地(主に田んぼだと思う)を持つ、大庄やさんで、以前は、お寺のことも取り仕切るような立派な方だったようです。菩提寺だったのかもしれませんね。しかし、現在、ご子息は、京都などに移り住み、家は絶え、ご位牌をあずかっている・・・とのことでした。わたしは、ここがご先祖さまの土地と確信しましたし、なにより、美しい田んぼと遠くの山々を見渡せる、この土地と平泉寺の美しさに感動しました。岩田さんにも、ありがとうございます。

そして、あえ国神社と小宮神社を、お参りしました。

次の日、伊賀上野のむらい萬香園(お茶とお土産)さんに偶然おじゃましましたら・・・おじいさんが最後の忍者だったと有名?な方で・・・本当の忍者の心のようなお話が聞けましたよ。服部についてお聞きしましたら、親族が服部家の大本家に嫁がれているということで、びっくりされていました。上野の服部氏は、服部川を背に、服部町一帯の土地(主に田んぼと思う)を持つ、これまたすごい大家でしたが、現在はやはりご子息が、東京やらにちりじりで、あととりがいないそうです。ちなみに、こちらの家紋は、源氏車に矢二つではないそうです。どんな家紋か聞きそびれました。どなたか、またおしえてください。

そうそう、弥富の服部家さんにも、28日に伺いました。現在の御当主さんが、丁寧に応対してくださり感激しました。こちらの家紋は、丸によこに矢みたいな紋でしたが、平泉寺の藤林家(ちょっと、はっきり覚えてない)の紋と同じでした。弥富の服部さんは、家は、400年前のもので、御醍醐天皇のご子息をお守りするためこちらに移ってきたとのことです。また、織田信長に攻められたときは、火の海だったらしいと、伝えられていました。伊勢湾台風のときもたいへんでしたでしょうね。現在の御当主は、この服部家を守り継ごうと、心いためているご様子です。お祈りするしかできませんが・・・

以上、報告でした。皆様の参考になれば・・・
[102]さなえさんからのコメント(2010年08月31日 13時56分51秒 ) パスワード

追加です。

弥富の服部家の矢みたいな紋・・・と書きましたが、あれが矢筈かもしれません。

また、三河の服部氏とすべて共通するのは、田んぼの整備や稲作に長けていたらしいことです。

記憶違いかもしれませんが・・・碧南あたりに、三和土(たたき・現在のコンクリートのようなもの)の技術者が服部さんだったような・・・

まとめると、忍者であり、お金持ちだったかもしれませんが・・・未開の地を耕し、子孫を守る、がんばりやさんなご先祖様ですね。
[103]最近負けがこんでるギャンブラーさんからのコメント(2010年09月01日 03時11分20秒 ) パスワード

さなえさん

お久し振りです。
1年ぶりですね。


良かったですね。確信が持てて。
伊賀までいらっしゃったのは御先祖さまに良いことをなさいました。
きっと見守ってくださいますよ。


弥富の服部家ホンヤさんは家紋はいくつかバージョンをお持ちのように記憶しております。
車の中の矢(矢筈)が横になっているのと (なんで寝てるんだ?と思いました  笑)
車の中に並び矢で矢が縦になっているのと。(御先代は「並び矢」とだけおっしゃってました)

愛知県あたりはいわゆる「並び矢」が多いんじゃないかな?
車に寝た矢筈
○に並び矢
車に並び矢
車だけ

いろいろなバージョンがあるのはいろいろな事情でそうなっていったと思います。
だから秘めた家の歴史が家紋から読めるんでしょうね。



家紋は富や権力と共に洗練されてデザインがスッキリしていきますから
今は「車に並び矢」になっているんじゃないかな?

    「影の軍団」もこの洗練された紋でしたっけ。


家紋を、いつの紋を代表家紋とするか、御当主の好みもあるでしょうし、
こういうのは微妙だと思います。

    あの世の御先祖さまは「へえ〜、お前はそういうのが良かったのかい?」ととまどっているかもですね。



徳川家の将軍さま達も微妙に違うんだそうですよ。

確かに家康の初めのころは家紋は素朴な落書きみたいな垢抜けないのでしたけど
時代と共にデザインが優れていきました。


服部家というのは伊勢・伊賀・美濃・尾張・・三河・遠江・駿河あたりに勢力を張っていたから
尾張なら尾張南西部は服部家の力が大きくあの不幸な戦後ちょっとまで「顔」だったと思いますよ。

尾張徳川藩の農地整備に力を尽くして尾張藩を豊かにしましたから
戦後の農地改革まではすごかったんだろうなと思います。


戦後の農地改革で服部家の皆さんは随分土地を失いましたが
バブルの前までは結構裕福な家が多かったです。

たとえば戦後電話のある家というとかなり限定されてましたから
これだけでも服部さんというのが裕福な家というのが分かった、と読んだことがあります。

フツーの家は電話は1960年代の半ば頃まで無かったのですよ。


敢国神社にもいらっしゃいましたか。
ここは綺麗な神社ですね。

服部にある服部神社はすっかりさびれていてちょっと悲しかったです。
忍者の時代は立派だったんでしょうね。


でも今の不況で、また、その前のバブルの崩壊とともに、服部家の末裔もかつての繁栄はどんどん失うんでしょうね。

御先祖さまに恥じないように頑張らないといけないですね。
あたしはもう息切れしてるから、さなえさん、頑張って子孫を増やしてください。
[104]さなえさんからのコメント(2010年09月01日 06時26分45秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月21日 12時15分04秒
[105]最近負けがこんでるギャンブラーさんからのコメント(2010年09月01日 09時06分47秒 ) パスワード

>伊賀上野で伊賀もちを見て、びっくり!!しましたの。
>三河の伊賀饅頭にそっくりだからです。

伊賀餅って知らないです。
三河の伊賀餅も知らないです。

知らずに食べてたのかな?


漬物みたいなのは見ましたが。



そっくり、ということは
服部半蔵の一族の伯父さんやお兄さん達が伊賀からもたらしたのかもですね。

今でも変わっていないということは
たいしたものですね。
普通は長い年月でいろいろ変化すると思いますが。


岡崎の伊賀町が伊賀に関係があるというのはさちこさんが書いてくださるまでは
伊賀の伊賀と、岡崎の伊賀は結びつかなかったです。
[106]さなえさんからのコメント(2010年09月01日 10時03分52秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月21日 12時16分15秒
[107]さなえさんからのコメント(2010年09月01日 10時33分53秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年04月21日 12時16分56秒
[108]最近負けがこんでるギャンブラーさんからのコメント(2010年09月01日 15時00分46秒 ) パスワード

>伊賀から全国に散らばった、服部家含む忍びと、伊賀もち、五色米(暗号に使われた)の関係について・・・新しいスレッドを立ち上げていいかしら?です。

はい是非是非。

新しいスレッドを立ててください。
ここも100を超して管理人さんが大変かも知れないので。


>ほんと、自分の足で調べると、今まで気づかない発見がありますね(にっこり)。

これが基本ですね。
自分の足で見て来ないとね。



>いがまんじゅう

検索して見たら、普通に食べてたような?


日本全国にあるようですね。
蔵王にもあるそうですし。


そういえば、さちこさんがお書きでしたが
服部家ホンヤさんとこは「源氏」らしいですよ。
徳川家との関係で「徳川家=源氏の氏の長者」との関係からかな?と思います。
「名誉源氏」というのかな?と。


戦国時代、猿投(あたり)にも服部家のすごい家があったらしいのですが
今でも存続しているのかどうか知りたいです。

藤林とか百地とか、名前の残った家はラッキーですよね。
でも今は皆さん経済的にヨソに出てしまうから
百地さんも百地砦跡でしか残らなくなるのかもですね。
[109]津の服部さんからのコメント(2010年12月14日 01時58分06秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2010年12月15日 12時59分12秒
[110]さなえさんからのコメント(2011年03月22日 16時23分43秒 ) パスワード

三河国服部家家紋について・・・報告です。

お彼岸に、久しぶりに服部家の先祖様のお墓参りに行くことが出来ました。ありがとうございます、このサイトのおかげですよ。
そして、今までとは違う気持ちで、いろいろなお墓を見ましたら・・・???あれあれ?いろんな家紋に気づきましたよ。

私の見たのは、通称・源氏車のまわりが6こに分かれて縦に矢が二つの服部家さんと、8こに分かれた服部家さんもありました。ほかに、8この源氏車に縦の矢筈が二つの服部家さん、また、○に縦の矢が二つのお宅も・・・、狭い地域でこんなにバリエーションがあるなんて、知りませんでした(発見)!

その近くに・・・、○のなかに矢が三つ縦に並んでるお墓もありまして・・・新発見(?)かと思ったら、なんと三矢家さんのお墓でしたよ。なんだかうれしいさなえでした(笑)。
[111]空の青海のあをさんからのコメント(2011年03月23日 01時53分21秒 ) パスワード

さなえさん

面白い発見をなさいましたね。


ホントに家紋っていろいろなバージョンがあって驚きます。


そのバリエーションを過去に遡って大元を辿っていくことができたら
その辺りの服部家の力関係とか分かって面白いでしょうね。


他にも
車の中の矢が縦じゃなくて横に重なってたり
ホントにいろいろなバリエーションがあって驚かされます。


ま、複雑な家紋ほど、力があった家、だと思いますけどね。


あのバリエーションの1つ1つにその家のアイデンティティが込められているので
どなたかが「家」がどう分かれて栄えたかなど「家紋」の流れなんかでまとめると面白いと思いますが

今時、家紋に価値は無いから、話は伝わっていないでしょうね。


でも、何かの機会にその家のヒトからお話が聞けると良いですね。


お彼岸やお盆は絶好の機会ですね。
[112]さなえさんからのコメント(2011年04月17日 20時51分46秒 ) パスワード

三河国一色の服部家のルーツについて・・・さなえの想像(先祖の声かも?)の話します。

1・一色町は、近郊の碧南市や西尾市と同じく、江戸時代末まで多くの土地が、干潟や沼地だった。

2・室町時代から干拓が始まったらしいが、何度となく水害・塩害に遭い挫折を繰り返しながら、現在の地形になる。(一色資料館調べ)

3・服部家の発祥など一色資料館には何も残ってない。お年寄りの話も(昔は忍者だったとか、服部半蔵と関わりがあるとか)聞いたことがない。

4・一色町の狭い地域に服部家が集中している。

5・家紋に、いろんなバージョンがあった。

以上のことから・・・推測ですが・・・

伊賀・天正の乱の時・・・織田勢に焼き討ちされたことになっている、一部の服部党の人たちが、グループになって海を渡り逃げてきた・・・
が、戦わずして逃げたとの負い目や、織田勢にまた見つかったら殺されるなどの理由から名前を隠して、不毛の土地に農民として住み着いた。

明治になって、苗字を名乗ることになり、昔の言われもよく分からないが・・・爺さんが、「うちは先祖が服部という姓らしいぞ、家紋もあるぞ」と言ったとか言わないとか・・・だったのかなあ? と、思いました。間違ってたら、ごめんなさい。なんとなく、そう思いました。妥当でしょうか?
[113]さなえさんからのコメント(2011年04月17日 22時26分59秒 ) パスワード

上で私の言う服部党とは、もともと土地を持たなかった分家すじ、弟子(子分)などであったかと・・・思います。

話が変わります。
[102]に書いた、三和土(たたき)の名人の名前わかりました。

服部長七(天保11年〜大正8年)(服部組)

人造石(三州土をつかったたたきの技術を改良したもの)で、新田開発や築港(護岸工事)など・・・コンクリートが普及するまでの間、人の手による工事で多くの事業を請け負った。
パリ万国博覧会に出てる。
最近では、コンクリートよりも耐久性があるのでは、と言われる。
人造石のつくりかたは、土の種類などにもより、配合が長七の感によるところが多く、謎が多い(らしい)。      豆知識に興味ある方は、調べてね。
[114]さなえさんからのコメント(2011年04月18日 10時20分22秒 ) パスワード

[38]名も無き忍者さんのコメントから、服部誠さんの書物に出てくる湯舟庄五地頭の姓・・・から

一色町の電話帳をみると、岩田、服部、三ツ矢、杉本・・・この4家がそろってます。また、三ツ矢家は、一色町にのみいて、お隣の碧南市には、服部・岩田・杉本家多くいます。西尾市・吉良町にはほとんどいません。
田名瀬姓に関してのみ、見当たらず。かわりに、田中姓なら多くいます。また、一色町のみ、高須姓多いです(これは、徳川家康の関係なんですよね。高須の前は何姓だったのか気になりますが。)

実は、この平成23年4月から、一色町・吉良町・幡豆町は西尾市と合併して、西尾市になりました。この時期に電話帳見れたのも、お知らせかもしれません。
[115]さなえさんからのコメント(2011年04月18日 11時55分27秒 ) パスワード

電話帳より・・・感じたこと。

長田姓は、碧南のみ多い。永田姓は、西尾のみ多い。

緒田姓がなぜ、一色のみいるのか?(織田×伊賀者では?)
[116]箱柳永田さんからのコメント(2011年04月18日 17時34分07秒 ) パスワード

 さなえさんの113の補足です

服部長七翁については
 トボトボ歩く碧南市(ヘボトさん)に記事がありました。
 私の年代は(郷土の偉人、社会科の副読本)授業で覚えております、
長七翁の 紹介サイトはこちら
http://kamezo.cc/blog/entry/137701
http://kamezo.cc/blog/entry/165457

  
  (長七三和土)作るのに2倍、壊すのに3倍の手間がかかり、
  4倍は長持ちする、と知り合いの左官屋さんが言ってました。
 
 三河地震を経ていますし、伊勢湾台風後の河川改修で
 取り壊しになっている と思っていました が
   <現役の水門がある!ほんとに?> 
   が  正直な感想です。
 115について 我が家の4代目長男が長田さんの新田開発の支援で
 移住してますので、その分家であろうと思います。国森町
 (西尾の直系は途絶えています)
  西尾の分家が 知立と豊田(家紋を変えている)に部落を作ってます。
  知立からの分れが、田原市におります、ここも新田開発が目的の移住。
 @緒田はヤヤコシイです、織田(おだ)と小田(をだ)の違いが
  あって、どちらの読みになるか が不明なのですみません。
    
[117]さなえさんからのコメント(2011年04月19日 16時02分13秒 ) パスワード

三河・一色の服部党と現・岡崎市・松平徳川家康と服部半蔵の関係からの流れとは、違う気がします。これは、弥富の服部家(後醍醐天皇の関関係で来たらしい)が、服部半蔵の流れと違うことといしっしょのこと・・・ととらえていただければ・・・(これも、想像ですが)
[118]さなえさんからのコメント(2011年04月19日 16時04分40秒 ) パスワード

箱柳永田さんへ

コメント・補足、ありがとうございます。
[119]メンテさんからのコメント(2011年04月19日 17時54分41秒 ) パスワード

スレッドが100を超えたので
負荷がかかり過ぎますので続きは新しくスレッドを立ててください。
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