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 投稿番号:100636 投稿日:2004年04月08日 20時59分23秒  パスワード
 お名前:御村
平家清について教えてください
キーワード:平家の武士
コメントの種類 :人物  パスワード

平家清について調べて欲しいと、末裔かもしれない知人に頼まれました。
平家清は、伊賀の戦いで、討死ありますが、知人いわく不明と言う説もあると
聞いた事が有ると言っていました。 不明なら自分が、末裔になるが?過去帳
では、建久に亡くなっているそうです。 過去帳は、代々続いています。
家清の親は、宗清らしですが、宗清については、インターネットでも調べることができますが、家清については、載っていません、どうかいろいろ、教えてください、 私は、よく分かりません

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[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月08日 22時36分12秒 ) パスワード
  

http://www2.ttcn.ne.jp/~heike/izumi/jiten/heikejin-2.html

平家清(たいらのいえきよ)
[父、左衛門少尉平宗清。母、桑名維綱娘]出家。元暦元年(1184)7/19、近江合戦で討死。
[2]御村さんからのコメント(2004年04月08日 23時29分31秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、どうもありがとうございます。
自分もそのぺージは、見ました 何か裏の話がありませんか?
これでは、知人の家の過去帳が違ってきます、無理やりでも何かつなぐ材料が、無いでしょうか?
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月09日 02時28分31秒 ) パスワード
  

で、その方の家紋は何なんでしょう?
これでかなりの秘密が分かると思いますが。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月09日 09時06分38秒 ) パスワード
  

書き直しです:


1番合理的なお話は
(1184年7月に亡くなった家清の息子または弟または甥が)建久年間に亡くなった
というのでしょうね。

例えば家清が亡くなってその息子または弟または甥が家清の跡と名を継いだという場合。

特に宗清の一族の家清が上記のように1184年7月に討ち死になさっていらっしゃるという事は
宗清の一族も
壇ノ浦で平家が滅びた後に恭順したグループと
頑張って蜂起したグループがあって

蜂起した家清が死んだ後
家清の恭順した弟か息子か甥が宗清の後継者になった。

そういう事だと思います。


つまり昔は「家」が大切なので
替わりに入った人が後継者になって自分はアイデンティティを主張せず名前も自分のを使わず
宗清の家を続けていったのでは?と。

こういうのはよくある事だと思いますよ。

どっちにしろ血は、平家の一族なんだから、宗清の一族なんだから、いいんだ、というのだと思います。
今時は平和で平等の時代だから「うちが本家だ宗家だ」と主張するのが出て来ますが
系図が伝わっているなら
伝わった系図がそれはそれで良いと思います。


宗清が許されて伊賀に戻って頼朝から土地を安堵され
そこで一族の者を改めて自分の後継者を家清という名で継がせたのかも知れない。


家の中の相続のことはその家の中のことであって
家清が本当に討ち死にしたのか
頼朝に許されて生きながらえていたのか
または代わりの者が身代わりで死んだのか
そういうのもヒックルメテの系図だと思いますよ。

だから系図は他人には勿論、身内であっても1子相伝でしか見せない、という事になるんだと思います。
「この系図ではこう伝わっている」で充分だと思いますよ。

辻褄が合わなくてもそれで良いのです。
下手に合理的にしようと訂正しない方が良いです。
他人にどうこう言われることじゃないのです。
「ウチはこれです」と堂々と伝わる系図を誇りにしたら良いと思います。
[6]御村さんからのコメント(2004年04月09日 21時35分19秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャラリーさん、有り難うございます。 早速プリントして知人に見せます、ちなみに、家紋は、電話で聞いた話では、矢の羽違い(漢字が違うかも)らしいです。 話を聞けば武士を辞めて農民になったらしですよ(家清?
)ただ自分の疑問は、信兼と一緒に戦かったのに(伊賀で)信兼は、三重県
飯南町で死亡して、知人の家はその近くです。信家と、共に行動せず百姓になれるだろうか、ただし現在の名字は有り触れた名前です 又ご意見を宜しくお願いします。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月10日 01時11分14秒 ) パスワード
  

>矢の羽違い

というのは私には想像が出来ませんが
ぶっ違いのことか?
それとも矢筈のことか?
私には分からないです。

平家ですね。嬉しく思います。平家の武門系のお家ですね。

(矢は武士のシンボルですから
平家だけじゃなくて
源氏や藤原氏だって「武家」なら矢を家紋にしてる家があって当たり前です)



>話を聞けば武士を辞めて農民になったらしですよ

江戸時代の日本人の8割は百姓ですから普通の日本人は農民じゃないですか?日本は米経済の国ですから。
問題はいつ辞めたのか?ですね。
源平戦の終わったあとか?
信長の伊勢侵攻のあとか?
江戸時代か?


宗清は伊賀でおとなしく晩年を全うしたという印象ですから
宗清一族は米を作りながら(やったのは小作でしょうけど)うちは武士をやめて農民です
と世間に言ったというのは理解出来ます。


それに忍者も平時は農民で片手間に忍者だったんでしょ。
商人と工人以外の経済基盤は米だからほとんどの日本人は農民か農民の親玉なんじゃないですか?
農民の1番の親玉は徳川将軍家でしょ。特に8代目は「米将軍」とハッキリ言われてるし。
天皇家も米作りの1番の守護者なんじゃないですか?今上天皇でも田植えや稲刈りしてる姿を時々見ます。


武士の始まりというのは元は武装した農民集団でしょ。
帰農したということは本来の姿に戻ったといういうだけと思いますよ。
つまり政治には関わらなくなった(戦さで負けたから)という意味でしょ?


>話を聞けば武士を辞めて農民になったらしですよ<
家紋からも武士だったというのよく分かります。


>信兼と一緒に戦かったのに(伊賀で)信兼は、三重県飯南町で死亡して、知人の家はその近くです。

宗清の一族がどこに所領地を持ってたか知りませんが
宗清は池家の家老でしたから京都にお住まいでしたでしょうけど
伊賀では北部に土地を持ってたのじゃないでしょうか?
頼朝から柘植を頂いてるのですから元々は柘植あたり?つつじの与野あたりとか?あの近く?

人間は移動しますから飯南町にも動いたと思います。
ただどういう力で飯南町に動いたのか?

家清が伊賀の乱で平信兼や平田家継と一緒に戦った時以来家清一族が飯南町に定着したのか?
それで北部の宗清ー家清と袂を分かったのか?(私は三重県は土地鑑が無いので飯南町がどこか知りません)

繰り返しになりますが南北朝時代に定着したのか?
信長の伊勢侵攻で定着したのか?
江戸時代に定着したのか?

明治維新後に日本人は移動の自由を与えられて引っ越したのかも知れないですし。
御友人は最近引っ越したのかも知れませんし。

人間は「移動」するということです。


>信家と、共に行動せず百姓になれるだろうか

信兼のことですよね。
昔の力のあった人は男子をたくさん儲けているので
家清が亡くなったあとにその一族が帰農したという事でしょう。


源平戦の後、宗清は頼朝に許されて北伊賀に住居を定め、
家清の子の1部は伊勢国に定住して宗清〜家清の家を続けて行った。
・両者は江戸時代には全く別の家として発展した?
・南北朝時代手に手をとって南朝方として戦った?
・江戸時代でも交流があった?

時代が動けば人も動く。
これは基本です。


平成16年の春から800年前を遡るのは難しいです。
ただ弓矢をとって活躍した過去があった
定住して農家となった
先祖は頼朝を助けた宗清とする


>ただし現在の名字は有り触れた名前です

いろいろ事情があって名字は変化します。
平から、服部・伊賀・平田・柘植に変えたならかなり基本のラインに収まってるけど
その他ならいろいろ事情があっての上で名乗っているのでしょう。

そう言えば松尾とか百地とかにも変わってますね。他にも藤林とか。
三重県なら伊藤や藤原を名乗ってるかも知れないですね。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月10日 01時21分27秒 ) パスワード
  

私の持ってる情報では

家貞ー家長ー家清ー宗清となっています。
この情報がおかしい(変だ)と思います。


でも昔の家のあり方を考えると「私の情報が間違っている」とは断定できないです。
昔の名家はとにかく家(名と血)を続けたいというのが背景にありますから
現在の私達からすれば何だ?こりゃ!という記録にぶち当ります。
21世紀の頭で12世紀の人のアイデンティティ(心の問題)を捉えようというのが無理だと思います。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月10日 01時34分12秒 ) パスワード
  

>ただし現在の名字は有り触れた名前です

三重県って神代の時代から続く土地ですから世間の力って凄かったのかもです。

飯南町の家清の御子孫は北伊賀の御一党にたいして一目「御遠慮して」違う名字を明治政府に申請したのかも
という想像も働きます。


結局はお上に対して申請したもん勝ちだったと思います。
明治政府になって戸籍を作ることになった時
「平」
でやってれば今でも伊勢伊賀の名門の平家の子孫というのを堂々名乗れた。

三重県で「北」姓だったら平知盛さまの御次男の末裔なんだろうと知ってる人は思うし。


うちは徳川将軍家にかかわりがあるから「徳川」で登録してたら
(明治時代は肩身が狭かったでしょうけど)
平成の今は世間は(お〜、家康の子孫か)と思うでしょ。関係なくても戸籍の名字から。
名乗ったもん勝ちだったのよね。(楠なんてのも名乗り得だったと思いますね)


お友達の家が今ではありふれた名字になっているというのは800年の間にいろいろあったからの結果だと思います。

それが御友達の家のアイデンティティなんだという事です。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月10日 01時41分44秒 ) パスワード
  

ついでに馬鹿話を書きます:


日本人女性を妻にしたアメリカ男が葵の御紋をお印にしてるんですよ。
理由はカッコいいから。

この夫婦の間に生まれたハーフの子供の子孫が数百年後
「うちは徳川ショーグネット(将軍家)の子孫」
と名乗ることもありうるでしょうね。
で、日本人も信じてしまいますよね。嘘800なのに。


徳川将軍家の御子孫はアメリカにもちゃんと存在していらっしゃいます。
こっちは本物。
でも彼は全然「うちはショーグン家」なんて旗を立ててないです。


世の中とはこんなもんなんでしょうね。
名前を名乗ってる方が胡散臭くて名前を名乗ってない方が血統的には純粋だったり。
[11]御村さんからのコメント(2004年04月10日 20時55分22秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、本当にいろいろ有り難うございます。
質問に答えます 
1番 家清が、農民になったのは、伊賀の戦いの後と思います。

2番定着は、三重県飯高町、飯南町の隣の町です、建久に家清が、亡くなってから代々過去帳に数十代に居たってます。 つまりその土地に約800年住んでいることに成ります。

疑問点 家清は、宗清の子供では? 宗清が家清の子供という情報が、あれば
良ければ、教えてくれませんか? 
知人に連絡を取り、過去帳に家清の次の人の名前を又聞いてきます。

いろいろ有り難う御座います              御村 


  
[12]御村さんからのコメント(2004年04月10日 21時05分19秒 ) パスワード
  

追伸 知人は、平家の末裔だと自慢は、していません ただ自分の子供が、無関心なので、自分代で分かることが、あれば調べたいのです。
調べ方が限られるので、依頼を受けました
 
宜しくご指導お願いします。         御村
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月11日 01時13分11秒 ) パスワード
  

伊勢・伊賀は伊勢平氏=平家=の本貫地なので
普通三重県人だったら堂々「うちは平家」と称して良いのですよ。

言わなくても三重県人だったら平家でしょう。みんな回りは平家なんですから。暗黙の了解というのです。

勿論中には平家にくっつけず良い思いを出来なかった人は源氏に付きましたけど。
(例:伊勢三郎義盛でしたっけ?)

古くから三重県に住んでたら「あそこの家は○○、あっちの家はXX」というのは分かっているのに
最近は分からなくなってるからお友達も心配なさっていらっしゃるのでしょうね。


私が思うに「家貞ー家長ー家清ー宗清」となっているのは
(合理的に考えると)
北伊賀の主人である服部家が壇ノ浦の戦いで家長が敗れたので
北伊賀の国を継いだのが家清で(だから近江の戦いで頑張った)
ところが家清も敗れたので
頼朝のバックアップのある一族が北伊賀の主人になった
という事じゃないのか?と思います。

     (または単純に同名という偶然かも)

宗清という人は池の大納言一家の家老ですから京都住まいというのは確かだったと思います。
所領地は伊賀で。
宗清というおじいさんは鎌倉時代頼朝によって正式な北伊賀の主人になった。
その後、北伊賀の国に於ける鎌倉時代は宗清の睨みである程度平穏だったのでは?と。


そして南北朝の戦いがあり
北伊賀の服部家は後醍醐天皇の皇子さんを戴いて各地を転戦しそちらで定着したりして
主人の消えた北伊賀は服部家の跡目をめぐってグチャグチャあったのだと思います。
(この最終的な戦いが藤林vs半蔵vs百地の三つ巴の戦いと思いますね)


結局は徳川家康のバックを受けた服部半蔵が北伊賀で睨みを効かせた。
しかしこの家も3代も続かず没落。
その後藤堂の支配で落ち着いた、かな?
この藤堂家も半蔵一族が関わっている。ですね。



私もビックリしましたが
ウチのホンヤの他にも
北伊賀の名門の服部家として尾張の猿投に名門服部家というのが戦国時代にあったそうです。

こうやって宗清の子の家清の子孫の家も<あちこち>にひっそり?続いているのだと思いますよ。
ひっそりなんて表現しましたが
「ホンヤ」をしているような家というのは今でも凄いお屋敷を維持しているのが凄いなあと思います。

こういう家は江戸時代武士を捨て帰農して大庄屋(土地の豪族)として一目置かれて名字帯刀を許されていたのです。


御村さんの御友達という方の今の名字は知りませんが
平家が滅んだ後も日本で戦いがあった時に
例えば後醍醐天皇から(又は敵方の幕府から)命令を戴いて旗を挙げるんですが
行かなかったのか
ちゃんと戻って来たのか?



昔の人の名前は今のように制限が無いので系図の名前が錯綜してて当たり前と思いますよ。
ですからいじらない事であり
「ウチはこういう家」で良いのです。


戦国時代に北伊賀で3つ巴の戦いがあったのは
そもそも家長が壇ノ浦で敗れたからその子供達や一族や
(鎌倉幕府のバックアップを得た)宗清の一族がからんで
みんなで「自分こそが北伊賀の後継者」と跡目相続の争いをしたということで
私は誰にでもその資格はあったと思います。


お友達のお家はこういう争いには関わらず
伊勢国?の飯南町で平家清の子孫を続けて来たということでしょうかねえ。


昔は子供が沢山いたんですよ。
普通系図に名が残るのは1人ですから
現在の戸籍謄本の感覚で考えない方が良いと思いますよ。
昔の人はしょっちゅう名前を替えますし。
[14]御村さんからのコメント(2004年04月12日 19時21分25秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん遅くなって済みません、昨日は、遊びにいって留守でしたおでメール見ませんでした。
知人にコピーして見せます、ちなみに百姓になりきったみたいですよ
二代目の名前は、弥之助 弥この一文字、宗清(弥平兵衛)の一文字?こじ付け????
いろいろ有り難う御座いました。 時間が、あれば今度は、御村について乗せます。        
                              御村
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月12日 23時04分51秒 ) パスワード
  

>二代目の名前は、弥之助 弥この一文字、宗清(弥平兵衛)の一文字?こじ付け????

こじつけでなく「宗清家の子供達の幼名のための通字」だと思いますよ。
弥太郎とか弥次郎兵衛とか弥之助とか。

それから成人して元服の時に「家」なり「宗」なり「清」なりの通字を使って名乗る。

弥之助さんは正式な宗清家の男子だと分かりますね。
(わたくし個人としては弥之助という名前は「新しい」という違和感がありますが当時使われてたのかも)


是非御村家のこともお知らせください。
三村姓と関係があるんでしょうか?
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月13日 02時47分27秒 ) パスワード
  

さっき、あれ?、と思ったのですが
>家紋は、電話で聞いた話では、矢の羽違い

よく分かりませんが服部半蔵の紋の1つがそんな形だったかしら?と思い出しました。(名称は記憶に無し)
半蔵さんの家もいろいろ使ってるようですよ。基本は「矢」なんですが。


家紋って時代や経済力で洗練されていくんです。
特に徳川将軍家なんて家康やオヤジさんの時代は野暮ったいのでしたでしょ。
さらに各将軍によって葵のデザインが微妙に異なる。


ですから「矢」というのは伊賀国の北伊賀の出身者ということで
宗清の子孫というのは充分に分かりますよ。
[17]御村さんからのコメント(2004年04月14日 21時51分30秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャラリーさん、遅く成りました。今週にでもコピーを取り知人に持って行きます、他のページにも参考のがありましたので、それもコピーします
とくに2001年平宗清・・・など服部明子さん、川口信さんなどのページも参考になりました。 
ここに書いてあるメールは、ウイルスの関係?直接つながりませんね?
いろいろ有り難う御座いました。

御村は、三村とはぜんぜん関係ありません後日また出しますが、この御村は、全国で三重県度会郡渡会町南中村にしか有りません、東京に在ってもこの土地の出身です、 元武士、伊勢神宮関係、後醍醐天皇のなにがしら???。
               御村      
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月15日 00時32分00秒 ) パスワード
  

御村さま

その通りウイルス対策なんです。

実は今でも私の昔の名前と住所でアチコチ御迷惑をお掛けしてるようなんですよ。
「私にはファイル付を送る技術はない」と皆さんも分かってるぐらいの機械音痴なんですが。


クレズが流行った頃には身に覚えはなくても謝り倒してましたが
引っ越してメール住所が変わったのをきっかけに一切メール住所を公開しなくしました。

ですから現在の本物のメール住所で御迷惑をお掛けすることは無いのですが
現在の贋メール住所ではアチコチお邪魔しに行ってると思います。

御村さまの所にも贋メールが行ってるかと思いますが本当に申し訳ないです。(ぺこり)


ウイルスとかワームとかは掲示板からアドレスを拾うそうで
どうしようもないそうで
友人の掲示板では「アドレス禁止」にしています。
アドレス交換は他でやってくれ、なんて。

と申しますのはクレズで勝手に使われた人が「自分は知らん」とつっぱねたので送られた人達が怒って
ホントに罪ですよね。

サーバーにお金を払ってウイルス・チェックをして貰ってる人も「うちは来ない」なんてエバってましたが
やっぱりそれでもやられてました。


というわけでここ半年間メールアドレスと本名を公開してないのです。
もしワタクシから行きましたら全てウイルス系という事で御了解の上速攻で削除なさってください。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月15日 00時34分26秒 ) パスワード
  

<御村>姓というのは御牧とか御厨と同系で天皇家関係の御苗字かと推察しております。
[20]川口 信さんからのコメント(2004年04月15日 08時09分48秒 ) パスワード
  

 御村さま、いつも目は通しております。

[17」はメール不通で失礼しております。
この部屋はアドレスが丸出しなので、気を使っております。

[18」のお暇さんと同じです。ご迷惑をおかけしております。


 他スレ『柘植氏研究HPのURLご紹介:平姓・源姓他』はお読みになっておられると思いますが、目を通してないのでしたら、是非見てください。
 私の意見より、もっと参考になると思います。
[21]御村さんからのコメント(2004年04月16日 21時16分30秒 ) パスワード
  

川口さん、はじめまして
暇潰しのギャンブラーさんには、いろいろご指導してもらいました。
初めは、簡単なつもりで知人からの依頼を受け、気安く家清について調べるつもりが、ちょっとはまってしまいました。
柘植氏HP今日見ましたが、自分は、頭の方が、いまいちなのであまり理解できませんでした? 家清=日置太郎家清=伊賀地方住む=伊賀の戦いで討死=
正解ですか? 又振り出しに戻りますが、知人は行方不明説を聞いた記憶があるといいますが、100%伊賀の戦いで討死ですか?
自分は、平家物語を読んだことが無いため無知です。
家清について、川口さんの考えは、どうですか?良ければご指導お願いします。
今までの資料は、コピーしたので明日にも知人に持って行きたいと思います

                         御村

[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 01時01分58秒 ) パスワード
  

まず記録=書き物であるということ=というものの性格を知ることが肝要かと思います。
書き手が右顧左眄しながらお手盛りで書いたということ。


平家物語:   文学          (文学性を高めるため脚色演出大いにあり)
源平盛衰記:  ルポルタージュ     (現代の週刊誌のようなもので世間の興味本位に訴える)
東鑑:     官邸記録        (勝者の記録・幕府の威信を高めるための脚色あり)
系図:     その家のアイデンティティ(故意and/or過失and/or記憶違いand/or写し間違いその他あり)
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 01時14分18秒 ) パスワード
  

平家物語での書き方は
「肥後守定能が伯父、平田入道定次を先として
(略)
伊賀伊勢両国の官兵等、しばしもたまらず攻め落とさる」


これだけの記述です。

平田入道定次は平田家継の養父で平定能(川口さまの御先祖さま)の弟を養子に迎え平田を継がせた。
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 01時26分38秒 ) パスワード
  

東鑑と玉葉より寿永3年7月分(管理人さん、不都合があれば削除なさって下さい)


7月3日 己丑
  武衛前の内府已下平氏等を追討せんが為、源九郎主を以て西海に遣わすべき事、仙洞に申さると。


7月5日 辛卯
  大内の冠者惟義の飛脚参着す。申して云く、去る七日伊賀の国に於いて、平家の一族等の為襲わるるの間、相恃む所の家人、多く以て誅戮せらると。茲に因って諸人馳参し、鎌倉中騒動すと。


7月8日 甲午 晴 [玉葉]
  伝聞、伊賀・伊勢の国人等謀叛しをはんぬ。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行すと。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻、家継法師(平家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りをはんぬ。また伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛しをはんぬと。この事に因って院中物騒す。喩えを取るに物無し。


7月10日 丙申
  今日、井上の太郎光盛、駿河の国蒲原の駅に於いて誅せらる。これ忠頼に同意するの聞こえ有るに依ってなり。光盛日来在京するの間、吉香船越の輩、兼日の厳命を含み、下向の期を相待ちこれを討ち取ると。


7月16日 壬寅
  渋谷の次郎高重は、勇敢の器、頗る父祖に恥じざるの由、度々御感に預かる。凡そ事に於いて快然の余り、彼の領掌の所、上野の国黒河郷に於いては国衙使の入部を止め、別納たるべきの由、御下文を賜う。仍って今日、その由を国の奉行人籐九郎盛長に仰せ含めらると。


7月18日 甲辰
  伊賀の国合戦の間の事、その沙汰を経らる。平家隠逃の郎従等を討ち亡ぼすべきの由、大内の冠者並びに加藤五景員入道父子、及び瀧口の三郎経俊等に仰せらると。雑色友行・宗重両人、彼の御書等を帯し進発すと。


7月20日 丙午
  この間鶴岡若宮の傍らに於いて、社壇を新造せられ、今日熱田大明神を勧請し奉らる所なり。仍って武衛参り給う。武蔵の守義信・駿河の守廣綱已下の門客等、殊に行粧を刷い供奉に列す。結城の七郎朝光御劔を持つ。河匂の三郎實政御調度を懸く。この實政は、去年の冬上洛の時、渡船の論に依って、一條の次郎忠頼と合戦するの間、御気色を蒙ると雖も、武勇の誉れ上古の聞こえに恥じず。幾旬月を経ず免許有り。剰えこの役に従い、昵近し奉る。観る者不思議の念を成すと。御遷宮の事終わるの後、貢税料所として、相模国内の一村を奉寄せらる。筑後権の守俊兼宝前に召され、御寄附状を書くと。


[玉葉]
  伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退散す。宗たる者を伐ち取りをはんぬと。


7月21日 丁未 [玉葉]
  伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首せられをはんぬ。その外両三人大将軍たる者伐たれをはんぬと。忠清法師・家資等山に籠もりをはんぬと。また官軍の内、大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれをはんぬ。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。


7月25日 辛亥
  故井上の太郎光盛の侍保科の太郎・小河原雲籐の三郎等降人として参上す。仍って御家人たるべきの由仰せ下さる。籐内朝宗奉行すと。


7月28日 甲寅 晴 [玉葉]
  この日即位の事有り。治暦四年の例に依って、太政官正廰に於いて、これを行わる。抑も劔璽帰り来たるを相待ち、即位を遂行せらるべきや否や、予め人々に問わる。(中略)然れども叡慮並びに識者等、議奏、天意を知らず、神慮を測らざるに依って、行わるる所なり。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 01時30分04秒 ) パスワード
  

上記より家清が討たれたのか逃れたのかは分かりませんが
この部分を補うのが家清の家に伝わる系図ということになりますか。

ですから家系図とか言い伝えというのが重要になります。
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 01時42分57秒 ) パスワード
  

関連分源平盛衰記より


三日平氏の事:


伊賀国山田郡住人平田四郎貞継法師と云者あり。
是は平家の侍肥後守貞能が弟也。
平家西国に落下て安堵し給はずと聞えければ、日比の重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、伊賀伊勢両国の勇士催し、平田城に衆会して謀叛を起し、近江国を打従へて、都へ責入べしと聞えければ、佐々木源三秀義驚騒ぎけり。我身は老体なれば、東国西国の軍には、子息共を指遣不下向、近き程に敵の籠たるを聞ながら、非可黙止とて、国中(こくぢゆう)の兵を催集て、伊賀国へ発向ければ、甲賀上下郡の輩、馳集て相従けり。秀義は法勝寺領大原庄に入、平家は伊賀壬生野平田にあり、行程三里には不過けり。源平互に、勝に乗べきか、敵の寄るを待べき歟と評定しけり。平家の方に伊賀国住人壬生野新源次能盛と云ふ者の計ひ申けるは、当国は分限せばし、大勢乱入なば国の煩人歎也、近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当て軍せんに、敵弱らば蒐てんず、敵健ならば山に引籠、などか一戦せざるべきと云ければ、然べしとて、源次能盛、貞継法師、三百余騎の兵を引率して、柘殖郷、与野、道芝打分て、近江国甲賀郡、上野村、■窪(ふしくぼ)、篠鼻田、堵野に陣を取て、北に向て引へたり。佐々木は、大原庄油日明神の列、下野に南へむけて陣を取。源平小河を隔て扣へたり。両陣七八段には過ざりけり。互に名対面して、散々に射殺ぬる者もあり、手負者も多し。平家は思切たりければ、命も惜ず戦ふ。源氏の軍緩なりければ、源三秀義一陣に進んで、平氏は宿運既に尽て西海に落給ひぬ、残党争源家を傾くべき、蒐よ若党、組や者共と下知しける処に、壬生野の新源次能盛、十三束三伏を、よ引竪めて放つ矢に、透間を射させて馬より落。秀義が郎等、敵をもらさじと目に懸て、暫竪めて放つ矢に、能盛馬より下へ射落さる。敵に頸を取れじと、乗替の童馬より飛下、主の頸を掻落して、壬生野の館に馳帰る。源氏郎等共(らうどうども)も、今日の大将軍源三秀義を誅して、五百余騎轡を並て、河をさと渡して、揉に揉てぞ蒐たりける。西国の住人等散々に蒐立られて、自先立者は遁けれ共、後陣は多討れにけり。今は返合するに及ずとて鈴鹿山に引籠。夫よりちり/゛\にこそ成にけれ。平家重代之家人也、相伝恩顧の好難忘して、思立ける志は哀なれ共、大気なしとぞ覚えたる。三日平氏と笑けるは此事也。

同十七日平氏軍兵等舟に乗り、摂津国福原の故郷に襲来る由、梶原平三景時、備前国より飛脚を以て申上たりければ、都のさわぎ不斜。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 02時04分35秒 ) パスワード
  

舞台になった平田城の跡は「明昌寺」というお寺になっていて、
大山田村平田にありますが、

もし行かれるのでしたら
名阪中瀬IC→R163→7km・・・コスモGSとアニーズの信号交差点から150mです。
コスモGSで道が聞けるでしょう。

ちなみにTelは 0595-46-1528 だそうです。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 04時30分23秒 ) パスワード
  

ここで日置姓についてちょっと書きます:
3流あるそうです。


1.百済国武寧王の末で和(やまと)氏と同族
2.高麗国の王家ではなく高麗国の人民の末
3.応神天皇の末


要するに「日置姓」を名乗る人々が伊賀にいて、土地があって、
そこへ伊賀伊勢平氏(平家)が入ったという事でしょう。

日置というのが分かったら謎がちょっとは解明されるかもです。
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 04時37分09秒 ) パスワード
  

日置神社は日本全国にあるんですねえ。ビックリしました。

三重県上野市伊賀の日置神社は
平宗清の長男、日置太郎家清により創建されたと伝えられる。
霊山の山麓にあり、
近くには日置城跡があり。

だそうです。
[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 04時38分13秒 ) パスワード
  

古代の占いに「石を置いて占う」というのがあったそうです。
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 04時51分10秒 ) パスワード
  

余計ではありますが

>平宗清の長男日置太郎家清

本姓平氏・俗姓日置
平氏の家に生まれ、宗清の長男で、元服して家清と名乗る
という意味です。


宗清はのちに柘植姓を名乗ってますが
つまり同じ宗清の子供であっても「柘植」姓を名乗った一党とは異なるという意味かも。
家清がいつから日置姓を名乗り始めたのか?ここがポイントかと思います。


多分、家清は頼朝の庇護を受けた宗清の子供達とは違う、かしら?
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 05時00分03秒 ) パスワード
  

私は「家資」という人物を
家継系(平田系または服部系)だと思ってましたが
もしかすると家清系(つまり日置系)かも知れませんね。



もう1つの可能性として
家資という名は家清と混乱してるかも。

昔は活字じゃなく手書きなので漢字をテキトウに使用したり続け文字で書くので受け取り手によっては同一人物が違う名前になったりする可能性があります。


例として
母方で恐縮ですが「河野姓」が平家物語では「川野」で書かれています。

母方の系図で先祖の関わりのあった上人の名が「顕如」なのか「教如」なのか私には判別つかないのです。


なんで楷書で書いてくれなかったの〜?です。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 12時56分59秒 ) パスワード
  

全くの想像ですが
平の日置の太郎・家清という人物は太郎=第1男子ではあったが
実は宗清の長子だったのでは?という想像。(嫡男ではないということ)

宗清は池家の家老ですから京都にいた。(これは確実でしょう)
であれば宗清の嫡男も京都にいたのではないか?
そして嫡男も平家の西国落ち時に父と行動を共にしたのではないか?
(池家は結局は西国落ちを取り止め京都に戻ったが宗清は西国落ちに同行した)

更に家清が俗姓の日置姓を名乗っているということで
長子(最初に生まれた男子ではあるが母が正妻ではないという事)であったのでは?


上記に記したように<母、桑名維綱娘>とあり
川口さまの御紹介スレッドにあるように<妾>と書かれていること。
妾という表現はわたくしは好みません。

つまり宗清の非常に身近な人物の娘で非常に若い頃に愛し合った2人だったのではと思います。
(ワタクシの鎌倉時代の先祖は17歳でパパになっています。
昔の17才ですから今風に言いますと満16歳の年に長子が生まれているのです)


宗清は池家の家老ですから
池家は母が藤原氏の出身でいらっしゃいますから
宗清の正妻もしかるべき家の出身と思われます。
そうしますと宗清の正妻の産んだ男子(嫡男)は当然京都住まいでしょう。
(または男子は生まれていないかも知れません)


桑名の娘が生んだ太郎=長子は父の本貫地あたりにいた可能性が出て来ます。
そこが日置という所であれば完璧。
[38]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 13時18分47秒 ) パスワード
  

教えてくれる人があり「日置」という場所が分かりました。
三重県一志郡一志町日置。
ここまではふぅ〜ん?そうなの?でした。


それで場所が「久居の南」だそうで、ビックリ!ここから私のオカルト話になります。


私は先祖が平田家継だったのでは?という感触があるのです。
そして800年前の自分の姿は久居の辺りで幼少時代を過ごしたのではないか?という感触。温泉のある所。

幼い頃に藤原忠清かその弟の景家の子供と知り合ってたのでは?という感触。
その後に平田村に引き取られた感触。


日置とは久居の南と知って(それでこんなに家清の事をあれやこれやと調べる気になったのか?)と。


それに北勢なんて藤原一族の本貫地ですものね。
桑名の娘ということは案外藤原忠清か景家の一族だったかも。

ああ、やっぱり血が呼び合ったのか?と。
[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月17日 13時28分30秒 ) パスワード
  

御存知とは思いますが伊賀の乱(近江合戦)の首謀者は

藤原忠清・平信兼・平田家継の3人と思ってましたが
この御3人に日置家清も加えなくてはね。


平信兼は伊豆代官の山木兼隆の父で
山木兼隆は婚約者が北条政子だったのですが彼女は頼朝のもとに逃げました。
[40]御村さんからのコメント(2004年04月18日 00時56分32秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、いろいろ有り難うございます。
又、追加のコピーをさせてもらいます。
凄い情報もうですね、これで知人も喜ぶでしょう 資料を置いてきて新たな話が聞き出せば、又、メールします。

近い時期に御村について調べてからのせますので事前に分かることがあれば、調べて置いて下さい

有り難うございました。       御村
[41]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月18日 04時33分53秒 ) パスワード
  

ざっと読み返してみました。

日置太郎家清の「日置」姓はどこの日置のことか?
伊勢の一志郡一志町日置なのか
伊賀の上野市の日置か霊山の日置か?(こちらは同じ系統の日置で良いのでしょうね)


伊勢の日置なら母方の桑名一族関係?
ここで育った可能性は大きいですね。
家清の乳母の家かも知れない。


伊賀の日置なら宗清関係?
父方の本貫地に引き取られていた?
ここを継いでいた?
成人した後に日置荘を継いでいたというのは当たり前でしょうし。


う〜む・・・・
長子として平家の人間として京都の池の大納言家に対して含む所があったのかしら?
それで自分は伊賀の乱で蜂起。

かなり本質に迫りつつあると思います。
日置の謎が解けると嬉しいです。
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月18日 04時42分27秒 ) パスワード
  

「御村」姓については天皇関係ということしか想像がつかないですね。または伊勢神宮関係。

お伊勢さんの氏子は天皇家だけだそうですからやっぱり天皇関係でしょうか?
[43]AYAさんからのコメント(2004年04月29日 22時17分27秒 ) パスワード
  

> 平家物語:文学(文学性を高めるため脚色演出大いにあり)
> 源平盛衰記:ルポルタージュ(現代の週刊誌のようなもので世間の興味本位に訴える)

…ちょっと違うと思います。
源平盛衰記は、平家物語の一異本と考える方が妥当では。
でないと、延慶本や長門本もルポになってしまいます。
そして、敢えて簡潔にお書きになったものだとは拝察しますが、
平家の「脚色演出」が「文学性を高めるため」とのみ断じられるのは
誤解を招くとも思います。
同様に、盛衰記の記事が「世間の興味本位に訴える」というのも
少し違うと思います。

(メルアドを公開していませんので、
書き込んだアドレスはダミーです)
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月17日 04時16分12秒 ) パスワード

自己レス

>平田入道定次は平田家継の養父で平定能(川口さまの御先祖さま)の弟を養子に迎え平田を継がせた。

平田入道定次は平田家継の養父で平定能(川口さまの御先祖さま  平貞能)の弟を養子に迎え平田を継がせた。


すっかり忘れてた。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月17日 04時25分19秒 ) パスワード

日置が久居の近くにあったという話。

やっぱり800年前のわたしは伊勢の鈴鹿や津あたりの子だった、のかな?
平知盛さまのお子さんを伊賀で養育した時に、やぱり関わっていたのかな?

15年も前に書いたものなのに、読み直して、また、泣ける。


      ここにレスしいてたの、スッカリ忘れてたよ。
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