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 投稿番号:100617 投稿日:2004年02月23日 10時54分10秒  パスワード
 お名前:平家蛍の蛹
はじめまして

コメントの種類 :その他  パスワード

皆さん初めまして。自分のルーツに興味があり、投稿させて頂きました。僕は四国の香川県在住ですが、父方が平家の落人の家系です。姓は香川といいます。調べてみたら、平良文流のようでした。祖父母から聞いた話(言い伝え)では、僕の先祖は戦(屋島の合戦?)で生き残り、行動を共にしていた4人の武士の一人だそうで、何でも、山の中に潜んでいたところ(現在の尼切山という山か?)、その山にあったお寺の尼さんに目撃されてしまい、自分たちが隠れている場所がばれては危険なので、その尼さんを殺害し、すぐその山から離れてどんどん移動を続けて、4人とも互いにそう離れていない場所に落ち着いて隠れ住んでいたそうです。(今もうちの一家はその場所に住んでいます。)ちなみに、僕の住んでいる町にある竹やぶに石垣や畑の跡があって、平家の落人伝説が残っています。

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[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月23日 13時14分18秒 ) パスワード
  

平家蛍の蛹さん

初めまして。
香川県の「香川姓」でしたら讃岐の豪族かと思いましたが貴家には平家の落人伝説があるのですか。

「尼切山」の名のもとになった事件があったのですか。
ここは今のどの山になるか御存知でしたらお知らせ下さい。
[2]平家蛍の蛹さんからのコメント(2004年02月24日 12時00分31秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん、コメント有難うございます。

「尼切山」ですが(実は漢字がこれで合っているかどうか知らないのですが)、丸亀市にある山で、現在は立ち入り禁止になっている(?)そうです。この情報は祖父母から得たもので、僕自身は行った事がないので、本当のことを言うと、よく分からないのです。;;
[4]川口 信さんからのコメント(2004年02月24日 13時37分36秒 ) パスワード
  


ふるさとの史蹟 善通寺市 urlに香川氏についての記述がありました。

  http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/9180/hamagi00.htm

天霧城主の香川氏は、相模国香川庄を本貫地とし、鎌倉権五郎景政の子孫と伝える。南北朝期に細川氏とともに讃岐に至った。天正7年(1579)長宗我部氏に降り、同13年羽柴秀吉の四国攻めで降伏し、元親とともに土佐へ退いた。

また武家伝 香川氏をご覧になればもっと詳しいことが書いてあります。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kagawa_k.html  武家家伝 香川氏
 
讃岐の香川氏は前述の流れと香川郡の古族綾氏の末裔との二流がある。ほかに豊前・丹波・越後などに諸流がある。

地名があって後から同じ氏族がその地に住み着いたこはままあります。興味深いですね。
[5]平家蛍の蛹さんからのコメント(2004年02月24日 13時47分17秒 ) パスワード
  

>祖父の最初の妻が丸亀出身です。同じ名字です。

という事は、その方の旧姓も香川さんというのですね?

ところで、調べてみたところ、鎌倉方の平景秀という方の後、「鎌倉氏」と「香川氏」という2つの姓が出てきているようです。だとすると、僕の先祖はそこから出兵したのかも知れません。
[6]平家蛍の蛹さんからのコメント(2004年02月24日 14時08分06秒 ) パスワード
  

川口 信さん、大変参考になるコメント有難うございます。そうでしたか。そういえば、祖父から、「・・・それで、長宗我部氏がどうのこうの・・・」という話を聞いたような気がします。とすると、屋島の合戦で讃岐に来たのではなく、南北朝時代に来たのですね?
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月25日 03時35分07秒 ) パスワード
  

平家蛍の蛹さん

ごめんなさい。
「祖父と祖母は」同じ名字です、というのが反映されてなかったです。
期待を持たせてホント失礼いたしました。
後でお読みになる方に誤解を与えますから<3>は消してしまいますね。



川口さま
さすが!

そうしますと確かに香川氏は平氏ですね。
鎌倉景政の子孫でしたら大庭と梶原が有名。
確かに大庭も初期の梶原も平家方でしたね。

この景政という人物は義家に従って戦争に行った時
目に矢が当たって同僚が抜こうと顔に足をかけたところ
「武士の顔に足をかけるとは何事ぞ!」と怒ったという武勇の人ですね。


>天霧城の名前の由来として、
>この山城が包囲されたとき、白米を馬にかけて馬を洗うほど水が豊富にあるということを敵に見せつけて
>山城の弱点を見破られないようにした。
>ところがその内実を尼さんが敵にもらしたため落城、その尼は切られたので尼斬り城という名がついたといわれる

このお話って有名ですよね。
私も聞いたことがあります。
[8]平家蛍の蛹さんからのコメント(2004年02月25日 09時56分35秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん

いえいえ、こちらこそ間違えてしまって大変失礼しました。;;(汗)

あと、こんな話も聞きました。
祖父の祖父が毎晩お地蔵さんの夢を見るので、不思議に思って夢に出てきた場所を掘ってみたそうです。するとうちの先祖が今の場所に住み着いたときに持って来た六地蔵が出てきて、その六地蔵は今はあるお寺の中に安置されているようです。

カキコしたよりもう少し前の時代の言い伝えも聞いたのですが、ストーリーがあまりに長くて忘れてしまいました。;;
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月25日 11時41分50秒 ) パスワード
  

平家蛍の蛹さん

>祖父の祖父が毎晩お地蔵さんの夢を見るので、不思議に思って夢に出てきた場所を掘ってみたそうです。
>するとうちの先祖が今の場所に住み着いたときに持って来た六地蔵が出てきて

いいお話ですね。

我が家も明治維新の時のお祖父さまが明如上人に是非にと会って頂き
(雪の中を何日も待ってやっと会っていただいたそうです)
6文字(南無阿弥陀仏のことだと思います)を揮毫頂いて
家に戻って箪笥にしまっていたところ光を発するようになって
菩提寺に納めたと聞いています。

この後日談があるのですが誹謗中傷になる事なので書けませんが

早く御親戚のお年寄りの方とそのお寺さんにいらっしゃって
和尚さんや大黒さんと顔を繋いでおいた方がいいですよ。(経験から)

今時はお寺も破産する時代なので代が替わった時に行方不明になりますから。
[10]平家蛍の蛹さんからのコメント(2004年02月25日 16時34分51秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん

何かその時大変な事が起こったらしいと存じますが、おっしゃる通りだと思います。それにその六地蔵を自分で見た事がないので(あったとしてもその記憶がないので)是非一度お目に掛かっておきたいと思います。;;
[11]香川重善さんからのコメント(2004年06月16日 18時40分54秒 ) パスワード
  

「尼切山」は天霧山(天霧城)で、多度津町、善通寺市、三野町の境界に位置します。丸亀市の近くですが丸亀市ではありません。日本の伝説、武田明他、5.讃岐の伝説(1976)角川書店p.62〜「天霧落城」に水、白米、尼切山そしてp.170〜「白米流し」にそれぞれ興味ある伝説が載っています。ご参考まで。
[12]平家蛍の蛹さんからのコメント(2004年06月20日 00時46分32秒 ) パスワード
  

香川重善さん、コメント有難うございます。

天霧山、丸亀ではなかったんですね。祖父に再び聞いてみたところ、やはりうちの先祖は天霧城が落城して今の住所まで落ち延びたようです。それから、馬に米をかける話も聞いたので、間違いないみたいです。(この米の話は、広く知られているものと内容は同じですが、先祖の直接体験として独自に我が家に伝わっているものです。)

あと、紹介して頂いた本も見てみようと思います。^^
[13]香川重善さんからのコメント(2005年08月20日 16時16分00秒 ) パスワード

川口 信さん、(2004年02月24日)コメントありがとうございます。香川は平氏で、鎌倉の香川庄に在住した。現在茅ヶ崎、寒川神社の北に香川(駅名として残っている)ところが香川庄。南北朝期に細川氏に従って讃岐に至った香川と中国広島地方に至った香川に分かれる。

西讃岐の香川は、天霧城主の香川氏の関連で、四国統一の長宗我部氏に降り、長宗我部元親次男が香川氏の養子となり天霧城城主となる。秀吉の2回目の四国攻めで降伏し、城主と一族は土佐(長宗我部)へ退いたが、一部香川は西讃岐(善通寺市、高瀬町ほか)に離散した。江戸時代、丸亀藩多度津藩の時代には香川は土着であるが西讃岐において、開墾にはかなり土地の自由が認められていた形跡がある。?秀吉から江戸時代の京極氏の丸亀藩・多度津藩の西讃岐の支配についてどなたかコメントいただけませんか。

香川氏の情報は、善通寺市市史(1977第一巻)、高瀬町史(2003-2005)、香川県の歴史(山川出版1975ほか近刊)詳しい。香川県は明治4年の廃藩置県から愛媛県への合併、分離など複雑な変遷を経て、明治21年に設置となっており、ドサクサに命名された?。香川氏が先で地名が後と思います。香川郡の香川氏、綾氏の関係は不明ですが、県名の命名は香東川の由来とあります。やや不自然と思います。

香川重善


[14]香川重善さんからのコメント(2005年10月05日 11時32分59秒 ) パスワード

平家蛍の蛹さま

面白く拝見しています。平家蛍の蛹さんは、姓はもちろん香川さんでしょうが、どちらにお住まいでしょうか。

源平合戦の屋島での落人ですと、現在NHK大河ドラマ、源義経に従って鎌倉から参戦していたことになります。香川は平氏ですが、源平合戦では鎌倉勢(源氏方)で参戦しています。このため本流ではなく、主従のいない義経勢に加わっていた可能性も微かにありますが・・・・・。
[15]平家蛍の蛹さんからのコメント(2005年10月14日 20時01分30秒 ) パスワード

香川重善さま、コメント有難うございます。

僕は中讃南部出身で、今は大学進学のため東京に住んでいます。

当初源平合戦の時の落人かと思っていましたが、実家に代々伝わっている話によれば平氏の系列で天霧城の城主であったとの事なので、屋島の合戦とは関係ないようです。系譜もあるようですが僕自身は見たことがありません。落城した後、僕の先祖の他に3人の武士が一緒に落ち延びたようで、尼さんを切り殺したのもこの一行のようです。その後今の実家のある場所に落ち着いたようです。
[16]平家蛍の蛹さんからのコメント(2005年10月14日 20時20分38秒 ) パスワード

因みに、家紋は三つ巴です。
[17]香川重善さんからのコメント(2005年10月22日 15時16分43秒 ) パスワード

文献によると香川直系の家紋は、巴九曜(桓武平氏良茂流)=鎌倉での源義経との関連も・・・・、墓は天霧城に近い、空海が修行される、四国88ヶ所の1つ、いやだに寺(漢字が書けずに失礼!)にもあり、下記の理由(文献)で、土佐の長宗我部元親をたよって移動しています

 天正六年(1578)、四国平定をめざす長宗我部元親の軍に攻められ、その支城を相次いで落され、翌年には元親に屈服。之景は娘に元親の二男親和を婿として迎えて香川氏の家名を譲り、その後は元親に従って讃岐制圧を助けた。天正十三年、豊臣秀吉の四国征伐に際し改易。親和は土佐に逃れ、やがて病死した。ここに、讃岐香川氏は滅亡した。

私は香川県出身ですが、東京在住で、滞在中のマダガスカルから書いています。家紋は織田瓜です。文献の、香川之景(元景ともいう)は織田信長に近づいて、その偏諱を与えられて信景と称した。を見つけて、もしや旗指物の関連で・・・・と勝手に解釈しています。
[18]平家蛍の蛹さんからのコメント(2005年10月28日 20時55分38秒 ) パスワード

実際のところ、言い伝えられている話だけでは何とも言えません。伝わっていくうちに内容が変わる可能性もあり、そうでなくても、僕が聞き違えた可能性もあります。城主だったのか、それとも家臣だったのかはよく分かりませんが、とりあえず平氏の系列ということは確かなようです(なんだそれ)。うちには系譜が残っているそうなのですが、いろいろ問題もあって僕自身はそれを目にする機会がないのが困ったところです。
[19]tokyoblogさんからのコメント(2005年11月06日 10時52分35秒 ) パスワード
URL=http://tokyo.atso-net.jp/index.php?display=list&mode=category&aim=CEF2BBCBBFEFC1DB

讃岐の香川氏の系譜について、ご参考まで
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kagawa.htm
西讃岐の歴史調べています
http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1124286113
地域の本棚に、雨霧山城主のことが詳しいです。
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2055-48.html
[20]さんからのコメント(2005年12月13日 11時19分58秒 ) パスワード

はじめまして。
私は、高瀬町出身の者ですが、西讃岐の歴史をお調べしているなら、
「高瀬町史」全3巻と、高瀬文化史シリーズ「中世の高瀬を読む 秋山家文書@〜B」の購読をお勧めいたします。
高瀬町教育委員会では、町史編さん室という部署で、専門的な編集員の皆様のご協力のもと、高瀬町史、文化史等、歴史文献を編集、保存、保管等しています。ホームページでも詳しく説明していますので、参考になさってください。

 問合先 高瀬町教育委員会町史編さん室
     (高瀬町は来年1月1日に合併し、三豊市となります。)
[21]ゆーさんからのコメント(2005年12月25日 13時57分05秒 ) パスワード

平家の蛍様
私の家にも天霧城の城主の末裔…と言われていますが、香川県の何市ですか?
[22]平家蛍の蛹さんからのコメント(2006年01月09日 23時48分58秒 ) パスワード

ご無沙汰しています。明けましておめでとうございます。

tokyoblog様、K様
有難うございます。参考にさせて頂きたいと思います。

ゆー様
僕は仲多度郡の現まんのう町です。

正月に「先祖の何かの記念碑が高瀬町の朝日山にある」という話を聞いたのですが、いろいろと情報が錯綜して訳が分からなくなっています。
[23]香川重善さんからのコメント(2006年02月10日 01時09分38秒 ) パスワード

平家蛍の蛹さん

「高瀬町の朝日山」は高瀬町立朝日山森林公園として整備され、山頂は模擬城が作られ夜もライトアップされています。私の実家から真南1.5kmに朝日山は位置します。いくつかの記念碑も造られていたと思います。どんな内容のものでしょうか。大変興味があります。

また、Kさんからのコメント(2005年12月13日 )「高瀬町史」全3巻には同地域での香川関係のいくつかの記念碑のことも書かれていたと思います。

現在、マダガスカルでODAのプロジェクト中で、皆様の投稿面白く拝見しています。
[24]玄庵さんからのコメント(2006年03月29日 09時24分19秒 ) パスワード

始めまして。うちの家系図にも香川之景が出てきます。
思うにこの人物は最後が不明なのと名家の出身ということで後世に家系図に取り込みやすかったのではないでしょうか。
丸亀図書館で香川氏直系の人の本とやらも読んだのですが、それによると之景には男子がいたことになっています。あと川田氏という系図にもつながっているのも見たことがあります。また、香川県下には大勢香川氏の子孫という人がいます。なもんで僕はあまり信じていませんが、しかしそうなるとそれ以前の系図が分らなくなるので一応ご先祖様として鎌倉の御霊神社(現在東京在住なもんで)にお参りにはいきます。

それと香川家の出自に関しては鎌倉氏だと思います。香川家家臣の朝比奈弥太郎の城跡のそばにも鎌倉権五郎を祀っているところがありますし、「景」という通字や巴九曜のこともあるので。(うちは左三つ巴ですが)むしろ鎌倉党が平氏かどうかのほうが疑わしいと思ってます(汗

白米伝説…に関しては創作ではないかと考えております。長宗我部氏に攻められたとき…というのはありえないので、まだ、羽柴勢によって落城の際…というほうが自然です。(弥谷寺もそのとき消失している)しかしその土地の人が香川氏を惜しんで創作したと考えればが温かみがありますね。

[25]ゆうさんからのコメント(2006年04月12日 21時23分30秒 ) パスワード

こんにちは。平家の落人のかたに聞きたいことがあってコメントします。
母の祖先も平家の落人という言い伝えだそうです。…すみかさんのページにも書きましたが、母の家族が天皇家の方によく似ているので、やはりそうなのかなぁと思っていますが、証拠などほとんどありません…。
そこでお聞きしたいのですが、やはり天皇家の方に似たご親族はいらっしゃいますでしょうか。
[26]布袋竹・さんからのコメント(2006年04月12日 22時47分02秒 ) パスワード
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html

私の父は、昭和天皇に似てると、自分でよく言っていました。
そう言われば、似てないことも無いかな・ぐらい・かな・
でも、私が父に良く似ていると、叔母や妹に、他の人にも言われるようになりました。
私自身は、昭和天皇に似ているとは、ぜんぜん思いません。

鹿児島の平家落人子孫と言われる人々をたずねましたが、
凛々しく、女性は美人が多いというのは、納得です。
天皇家の人に・・・は感じていません。
[27]ゆうさんからのコメント(2006年04月15日 10時57分02秒 ) パスワード

布袋竹さんありがとうございます^^
…かなり似ている…なんて書いてしまいましたが訂正で、似た人もいて雰囲気がまた似ていると思うのです。
凛々しい人もいるし美人もいます。
母は、家紋が梅紋なので平家の落人ではなく、前田家の関係ではないかとも言うのですが(石川県なので)浄土宗、梅紋であることから、前田家だけれども織田信長から逃げて隠れていたのかもしれないとも言っています。
でも雰囲気が天皇家の人に似ているので、もし前田家と関係があるとすれば前田家も平家あるいは天皇家と関係があるのか、それとも平家の落人なので前田家にかくまわれていたのか…などいろいろ漠然と思っているのですが、証拠も記録も有名な言い伝えもないので…^^;
[28]景行さんからのコメント(2006年05月31日 00時39分25秒 ) パスワード

皆さんはじめまして。直系当主の景行(本名)です。
高瀬町史にあるのは我が祖父のものです。
香川家には没落したがうえにいろいろな家系図屋によって作りかえられているものが多いといわざるを得ません。
しかし、末裔である私たちが正しい認識と、先祖の供養、そしてコミュニケーションをとらなければならないと思います。
[29]景行さんからのコメント(2006年05月31日 00時49分07秒 ) パスワード

少し付け足します。
なかなか投稿するのに手こずりまして・・・。

歴史認識の部分について、後ほど詳しく書き込まなければならないと思っております。

ちなみに落人っではありませんよ(笑)
一言で書けないので、順を追っていきたいと思います。

[30]景次さんからのコメント(2006年06月14日 14時42分36秒 ) パスワード

>>景行様
はじめまして。
直系の方なんですか!?
ではさっそく長年疑問に思っていたことを伺いたいのですが…
結構いっぱいあるので箇条書きします。

・信景の墓は現存するのでしょうか?
・その系図は平家から流れているのでしょうか?
・もし平家だとすると何流からの流れでしょうか?
・讃岐へ入国したのは香川景房?景則?
・通字が五郎から五郎次郎へと直系が移ったというのは本当でしょうか?
・遺品などは残っているのでしょうか?
・現在の家紋も巴九曜なのでしょうか?
・景明(元明?)から親和までの直系の系図が知りたいです。(複数の類似した名前の人物を分類したいので)
・実際に信景の子は何人いたのでしょうか?
・信景の宗派と戒名についてもお教え願えますでしょうか?

…などなどキリがないのでとりあえずこのくらいです(汗
しかしこれは
>末裔である私たちが正しい認識と、先祖の供養、そしてコミュニケーション
において必要不可欠な要素ですのでよろしくお願いいたします。
[31]景行さんからのコメント(2006年06月19日 00時42分56秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月19日 01時07分42秒
[32]景行さんからのコメント(2006年06月19日 01時06分22秒 ) パスワード

景次さん質問ありがとうございます。
書き込み遅くなりましてすみません。
沢山の質問にどれから・・・というとこではありますが、
確実にいえることは、家紋は景正(政)の使っていた二つ矢と頼朝から頂いた九曜巴の二つがあります。
どちらも使いますが、通常九曜を使っています。
遺品についてはセキュリティの関係上あまり細かく言えませんが、古くからの系図、領地図、武具等あります。
信景は真言です。せいげん寺を建て、幽閉された・・・
ここについてはより細かく後ほど伝えなければなりません

信景の墓はわかりません。
ただ、善通寺に我が祖景正神社があるというのは、知らない方が多いのではないでしょうか。

沢山の質問のため、今回はここまででいいですか?

私たちの祖が正しく認識されることは大切なことです。
ただできれば友好的にお願いしますね。
[33]景行さんからのコメント(2006年06月19日 01時31分38秒 ) パスワード

少し付け足します。

現在仕事の関係上、東京に住んでいます。
もちろん田舎には帰らなければならないのですが。

本家だから知っていることもあります。
その一つは鎌倉期からの毘沙門天が残っているということです。
ほかにもありますが・・・

城が落ちても残された毘沙門天・・・
わかる方にはたまらない話ですね。
[34]香川某さんからのコメント(2006年08月01日 22時05分33秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年08月03日 10時36分42秒
[35]香川某さんからのコメント(2006年08月01日 22時10分13秒 ) パスワード

あ、ちなみにたいていの香川家の人は元の家紋ではありません。
なんでも信景の直系以外は家紋を変えたとあります。(家系図に)
たいていが変形型の菊紋だそうですので、菊紋と直系家紋の人はチェックですね。
[36]香川某さんからのコメント(2006年08月03日 10時37分18秒 ) パスワード

信景の支流の家系の者です。私の家の家系図は、信景の子である女子と長宗我部親和が結婚して、女子が生まれたとなっています。親和の死後、信景の三子と親和の女子を結婚させ、信親という男子が生まれたそうです。(長宗我部のエピソードに酷似していますが。長子は戸次川で戦死。次子も島津か毛利か豊臣との戦いで戦死とのこと)信親は長宗我部家へ仕え、武将として関ヶ原の戦いに参戦したとか。彼は撤退の最中に戦死。遺児である親景は若年で大阪夏の陣に長宗我部隊の浪人として参加。夏の陣末期に彼もまた戦死したそうです。親景の落胤は綿商人として讃岐国で活躍。江戸中期に私の先祖は次子として生まれ、綿商人の家を出て医師として分家。播磨国に移住。その当時の医書が残っております。ちなみに私も父も祖父もご先祖の影響か、医者です。

香川姓は明治期に人気があってに改姓する人が多かったとか。家系図がなければ改姓した家と思ったほうが良いと思います。菩提寺や墓地でも証明は出来るはずですので。
[37]子規さんからのコメント(2006年12月25日 01時31分07秒 ) パスワード

はじめまして。
香川氏より派生した家系のものです。
紋は左三つ巴で、真言宗です。

それにしても直系の方がいるとは…感激です。
武具など見てみたいです…。
画像など見ることはできないのでしょうか?
そして、
>信景は真言です。せいげん寺を建て、幽閉された・・

とても知りたいのですが…。
[38]平家蛍の蛹さんからのコメント(2006年12月27日 04時05分01秒 ) パスワード

皆様、有難うございます。現在は実家を離れて県外に住んでおり、また多忙な毎日を送っているため、この件に関しては情報の整理が全くついていません。今の時点で分かっていることだけをいくつか挙げておきます。

・落城のときに4つの家からなるグループで落ち延び、現在の場所に移り住んだ(下山の際に天霧城の内情を漏らした尼さんを殺害したらしい)

・実家は一向宗(子供の頃はなぜ正月のしめ縄を飾らないのか疑問でした)

・家紋は三つ巴(左右どちらだったかは帰省したときに確認しておきます。また、九曜巴だったかどうかももし機会があれば調べてみます)

・今の実家の場所に移り住んだ当時(およそ800年前)には既に姓が「香川」だった

・実家とその近くの寺に伝わる史料あり(家庭内の事情により僕は殆ど見せてもらったことがありません)

とりあえずここまでにします。それでは良いお歳を。
[39]香川重善さんからのコメント(2007年02月18日 20時11分00秒 ) パスワード

東京在住の香川です。昨年、香川に行く用事があり、三野町文化史(平成17年発行2005)を入手しました。三野町は天霧山、弥谷寺の位置する自治体。その口承文芸に、幾つかの「天霧の伝説」があります。2006年5月善通寺市善通寺町の善寿寺住職・香川定信尼が亡くなりました。

1.白米伝説:尼斬り伝説は土佐の長宗我部に攻められた時とあります。天霧城主香川信景は長宗我部と和睦し、長宗我部の次男との縁組で香川は存続します。(尼斬り伝説の尼寺はどこにあったのでしょうか?)
2.豊臣秀吉の四国征伐で第1回目は香川・長宗我部の四国連合が撃退しますが、2度目の征伐で敗退、香川信景の本流は長宗我部を頼って土佐に移動。香川の一部は離散。
3.長宗我部は秀吉と和睦し、九州征伐に兵を出し、薩摩で多くを失っています。土佐の長宗我部も関が原で豊臣方についたため、山内一豊の土佐入りで離散。香川信景は死に場所を求めて、関が原に参戦?和歌山で討ち死に?墓ありと何かで読んだ記憶があります。
[40]旅の人さんからのコメント(2008年02月15日 11時33分01秒 ) パスワード

皆さんはじめまして香川家の皆さんに質問したいことがあります。
88箇所を回ってるときに三野町の弥谷寺がある付近から天霧場城跡に入れますが
その付近に香川家の本家があると聞きました。
現在は袋屋(?)をやってるらしいですがあそこも宗家ではなく分家ですか?
善通寺にあると聞いたり、ここでは高瀬が本家だと聞いたり本家がやたら出てきて単純に実際のところどうなのかなと疑問に思いました。
分かる人がいたら教えて欲しいです。
[41]香川重善さんからのコメント(2009年02月07日 12時04分29秒 ) パスワード

旅の人さんコメントありがとうございます。香川家の本家からのコメントが1年も出ていないのは大変失礼と思い分家が書きます。

香川家の本家はあくまでも、秀吉の四国征伐で降伏した長宗我部元親のもとに退いた、香川親和(元親の二男)と香川信景の土佐在住の一族です。
三野町の香川、善通寺の香川、高瀬の香川、そして満濃町の香川は,本家の土佐移住で離散した香川一族です。多度津町の公民館長から土佐(高知)図書館に香川家に詳しい研究者在住と聞いています。また、丸亀藩京極家に仕えた香川もあり、丸亀市図書館にも香川関係資料・書物があります。善通寺・善寿寺近く、大日峠の香川関係の墓が耕地整理された時、土佐の香川も来ています。家紋は下り藤です。  香川関係者のコメントをお願いします。
[42]香川 耕一さんからのコメント(2009年09月22日 13時10分48秒 ) パスワード

始めまして、
現在 千葉県に在住の香川です。
私の、祖父は、香川県の多度津出身で、現在も私共の本家が、米屋を営んでいます。お寺は 天霧山・覚善寺 宗旨は一向宗(お東さん)で、家紋は、
どの ご家紋帖にも出て無いのですが、丸に三ッ菊(16枚)が伝わっております。 ご先祖を(信景公?)をお祭りして有る神社(今は合社されている)が有るとの事です。本家(米屋さん)の おじいさんと昔 お会いした時に、
ご先祖は 雨霧山 城主と聞かされております。
丸に三ッ菊の家紋なぞ見た事も無く、又 系図も無く ???
ただ仏壇の中に有る めくりはかなりの枚数が有ります。
どなたか、教えてください、一族でしょうか?
[43]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年09月23日 15時57分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

讃岐香川氏は鎌倉権五郎景政の子孫。
相模国高座郡香川庄(現:神奈川県茅ヶ崎市香川)発祥。
南北朝時代、細川頼之に従い讃岐に移り、香川景則は天霧城を本拠として西讃岐一円を領有して細川四天王の一つ。
景則の後は景明、元景、之景(信景)、親政(長宗我部元親二男)の約二百年が天霧城主。
天正13年(1585)、秀吉の四国征伐で天霧城は廃城、親政は土佐に帰り病没。
恐らく貴家は讃岐天霧城主香川氏の末裔なのでしょう。
香川親政までの系譜は下記URLを参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm
 
また地名的考察からは、相模寒川郷、香川庄と讃岐寒川郡、香川郡が地名遷移による何かを暗示している。
その他、各地に寒川(寒河)の地名は多く、何らかの地縁が有るように思われる。
[44]香川 耕一さんからのコメント(2009年09月25日 11時33分23秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
有難うございました。
又次のような合紀願いが、出て来ました。
祭神  香川信景霊
由緒  香川信景は天霧城の城主なり長曽我部元親の
    為落城子孫諸国を牢浪し元禄三年
    本村に来り居住し吉ヱ門と申す者祖先の霊を祭
    り若宮神社と称え子孫今猶存せり
勧請元禄五年六月一五日
社殿 石祠  壱尺
       五寸
石燈篭   壱
境内坪敷 四拾六坪   宮有地
信徒人員 百五壱七人
例祭日  厚秋両度   六月十五日
            九月十五日
と有りました。又どなたか、お教えください
[45]香川 盛寿さんからのコメント(2012年03月10日 02時25分31秒 ) パスワード

初めまして。
横浜在住の香川です。
先日、親父が亡くなり墓を造るのに家紋を調べ初めてこのページにたどり着きました。
親父は三豊の高瀬の出です。
ただ、祖父母が離縁している為詳しい家系図が分かりませんでした。
この度戸籍を調べ分かる範囲内でお墓を辿りましたところ家紋は下り藤でした。更に遡るとどの筋なのかが知りたくコメントさせて頂きました。

[47]桜並木さんからのコメント(2014年07月21日 13時11分52秒 ) パスワード

讃岐香川氏系図は難解であり戦国期に滅亡したこともあってかなり家系改ざんに利用されまくっているので、どこの系図もちょっと信憑性がないんですよね。

信景が最後に存在が確認されているのは長宗我部地検帳に土佐に居住していた形跡があるということくらいでその後の事績についてはすべて各子孫(と自称している家)に伝わる伝承以外の確実な歴史的証拠がない。自分の家に繋げるために架空の人物を作り出したり架空の武具を設定してみたり。。(まあよくあることです)

しかしあれだけ権勢を誇った一族なんで分家の末裔などは結構いるんじゃないでしょうか。その人たちの後裔が本家を名乗ってる、ということはあるかも知れません(というか実際そういう系図を見たことがあります)今後もさらなる研究が期待される一族ではあります。
[48]香川重善さんからのコメント(2017年04月02日 11時42分03秒 ) パスワード

2017年3月21日(火)「なんでも鑑定団」に三豊市の香川貢造(Kagawa Kenzou)さんが

天霧城主香川信景の子孫で、信景が織田信長から拝領した「正宗の短刀」を鑑定に出しました。結果は「無銘正宗」の本物ではありませんでしたが、評価額は¥40万でした。香川貢造さん(68歳)は、長年の東京警視庁捜査課長を退職され、郷里の三豊市高瀬町二ノ宮佐俣に帰り、築城の石垣を独自に積んでおられる様子が放映されていました。まもなく日曜日の午後、テレビ東京の再放送があると思います。

天霧城香川信景は天正4年(1576)信長に従い、天正7年に長曽我部元親と和睦、元親の二男、親和を養子とし四国が統一されます。しかし信長はこれを良しとせず、信長の二男を四国、長曽我部元親征伐に向ける途中、天正10年京都、本能寺の変で没します。

秀吉が急きょ高松城攻めから「大返し」で明智光秀を倒し、次いで柴田勝家を倒し、家康と和睦し天下をほぼ手中にし、天正13年の秀吉の四国征伐となり天霧城が落城、香川信景直系らは養子の親和(元親二男)と共に、土佐の長曽我部元親を頼っています。この直近の香川や離散組の香川に「下り藤」を見ます。

安芸香川氏に較べ讃岐香川の系図が難解と思われるのは香川系列の兄弟血縁が多いためです。観音寺城主香川氏は信景の弟で「菊紋」だったと思います。信景直系、傍系男子のその後の系図が「高瀬町史」や茅ヶ崎市香川自治会「香川の歩み」にあります。
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