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 投稿番号:100606 投稿日:2004年01月27日 01時57分00秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
相模国を歩く:海老名源八季定

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

友人から
相模の国は坂東平氏や頼朝ゆかりの地で
埋もれた史跡発見が面白い
と言って来ます。

教えて頂いた貴重なお話をこちらに書き留めておきます。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月27日 01時58分55秒 ) パスワード
  

海老名という地名がありますが
友人によると「村上源氏の末裔で北条早雲によって滅びた」そうです。

細々と長きに渡って続いたのは
その地が豊かな土地ではなかったから争奪の的にならなかったのだろう、
と。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月27日 01時59分34秒 ) パスワード
  

頂いたメール:


今日は、飯山温泉に行ってきました。
温泉に入りに行ったわけではなく、そこにある長谷寺です。

頼朝がその寺を造営し、江戸時代に再建された寺です。
飯山観音が奉られ、寺よりも観音像の方が有名です。

平日のせいか、とても静かで厳粛な気持でお参りしてきました。
この丹沢近辺は、鎌倉と同じ相模の国。

まだまだ、未知の頼朝関連が有りそうな土地です。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月27日 02時01分19秒 ) パスワード
  

飯上山だそうです。
[4]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月28日 00時04分01秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

私の現在の地元に近い相模の話に感激しました。
相模は、平家物語に関係深い一族発祥の地であったり、その流れが居付いたり、本当に興味が持たれます。もちろん三浦氏などは別格ですが。

海老名氏は武蔵が本貫地の横山党の流れとか。後には播磨に下った海老名氏や、佐渡の本間家も海老名氏だそうです。私の知り合いにも相模の本間さんがいます。
また、海老名氏の一族に大串氏がいて、これまた佐賀に多い名前。多分鎮西御家人ではないでしょうか。

海老名氏館跡といわれるのが厚木の北・宗珪寺のあたりですが、相模川に近く、水運に便利ではないかと思われます。現在の相模線を下れば、寒川神社に行き着き、そこには馬術で有名なやはり武蔵七党の金子一族が。

時代は下りますが、寒川神社近くで、北朝年号の古い石塔を見た事もあります。

何もないように見えて実は色々なものがある、関東は滋味深いところです。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月28日 02時55分18秒 ) パスワード
  

嘉村孝さま

>佐渡の本間家も海老名氏だそうです。

どこやらの本間家は殿様よりもお金持ちだったと言われてますね。大豪農だった本間家。
このお家も海老名家の流れなのでしょうかねえ。


鎌倉時代に地頭になって日本全国に散らばった海老名氏がそれぞれ地元でお大尽になって存続というのは
なかなか面白いですね。


今年のNHK大河の「新選組!」の土方家や井上家というのは当時はお大尽だったそうですが
今でも立派な家屋敷なのでよくぞ歴史の荒波に呑まれず存続したと感心しますが
呑まれて消えるようなちゃちな家じゃなかったという事なんでしょうね。
[6]嘉村孝さんからのコメント(2004年01月28日 23時49分25秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様

そう。兵農非分離の武士こそ本物。

と、私はいつも言っています。兵商非分離とも。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月03日 09時58分50秒 ) パスワード
  

海老名季貞
治承4年ごろ(1180年頃)源氏方に呼応した武士として載ってました。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月03日 11時40分06秒 ) パスワード
  

(7)に対するレス:


この辺は、
平家方の澁谷重國(にも関わらず源氏の佐々木氏を保護した。後に源氏に属する)、
海老名近辺の海老名季貞、
隣の厚木辺りの愛甲三郎、波多野(秦野)氏と、
居(城)を構えています。

波多野氏は頼朝を馬鹿にして滅ぼされています。
が、その子は源氏に属し、実朝の首塚は波多野氏領地にあります。

相模國だったこの辺は、まだまだ頼朝関連史跡は数多くありますね。
探し出す楽しみは、まだまだ続きそうです。
[9]海老名氏の末裔さんからのコメント(2004年02月03日 20時39分55秒 ) パスワード
  

小田急小田原線の伊勢原、秦野近辺を乗車していると、
よく「弓」を持った学生をよく目にします。
この地域は他の地域に比べて弓道が根付いていると思われますが
やはり愛甲三郎ゆかりの地だからでしょうか?
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月22日 01時50分58秒 ) パスワード
  

ただいま東慶寺の紅梅・白梅・黄梅が最高潮だそうです。
[11]田中愛造さんからのコメント(2004年02月22日 02時37分45秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん
縁切り寺でっか?わてとこは大阪城にもおまんね、ご先祖の地は紀州でんので、南部の梅林もええとこだっせ。まー一度来ておくんなはれ、無理だんなぁー遠ぉーおますし。何時お世話になりおおきに。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月22日 15時04分56秒 ) パスワード
  

いえいえ愛造さん
私も大坂や紀州は非常に縁がありまして
若い頃は南部のオトコをあやうく騙すところでした。

藤代とか行きたい所です。
でも紀州に行く時はいつも御坊とか金屋とか湯浅とかをうろついてます。


そうそう友人に田辺藩の林大学頭子孫という人がいて
彼は剣道が何段とやらで御前試合の栄誉にも浴しています。
おかげで千葉道場の人達と日光東照宮の宝物の刀にお目にかかりましたよ。
[13]服部 明子さんからのコメント(2004年02月22日 16時27分16秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:


日本はいいですね。
四季の美しさは、世界でも有数の国です。

今度の鎌倉は、桃の花巡りでしょうか。
その時、「大根の懐石料理」を頂こうかと思います。

前菜から最後のデザートまで、全て大根なんです。
鎌倉では知る人ぞ知る、隠れた店なんですよ。
[14]田中愛造さんからのコメント(2004年02月22日 22時41分55秒 ) パスワード
  

  私も、若い頃剣道やってました一応段あり。御坊・湯浅・金屋??如何して?子供の時分は大阪から疎開して同地で育ち・・・余り何も無い田舎町ですね。
 1000年前大宰府で逝去した従二位中納言太宰帥平惟仲が、若い時の領地でした。湯浅の近くに興国寺を開山した法燈国師が、中国(宋)経山寺で修行し味噌の製法を持ち帰り、名産金山寺味噌を伝えました。其の後、偶然桶の底に溜まる液を煮物に適し工夫したのが湯浅醤油の起こりでした。那智の浦底まで匂う紫の浪打ちつづく藤の花・・と歌われてます。また秘境龍神より下りて来ると、南部の梅林が、百花の王に相応しく(君ならで誰にみせむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る・紀友則)咲き誇っており、和歌山の県花でもあります。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月23日 01時21分41秒 ) パスワード
  

ふふふ

>御坊・湯浅・金屋??如何して?

でございましょう?
不思議でしょ?

<金屋>
母方の家系書によれば20代ほど前の先祖が「軍功之れ有り秀吉公より2郡拝領す」という記載がありまして
金屋の奥のXXだったんじゃないかと考えているのですが裏づけが取れなくてウロウロしてるんです。

<湯浅>
ここは明恵上人ゆかりですから。
それでなくとも何か懐かしい地名であり心引かれるんです。(母方で?と思ってましたけど)
平惟仲と拝見して平氏には御縁が深かったんだなと。
もしかすると父方母方で遠い御縁のある場所かも知れません。

<御坊>
我が家は父方母方バリバリの浄土真宗ですから。
でも本当は土産物を買うのに便利だからなんです。
父が那智黒が好きなんですよ。
それで東京から日帰りでわざわざ御坊まで那智黒を買いに行かされてるんです。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月23日 01時49分21秒 ) パスワード
  

金屋の近くに吉備津大明神神社とか吉備町なんてあるんですねえ。
不思議ですねえ。

妹尾家ゆかりの人や陶山家ゆかりの人が落ちて来てたのでしょうか?
平家時代だけじゃなくて南北朝のあたりでも御縁があったんでしょうかねえ。
[17]田中愛造さんからのコメント(2004年02月24日 03時08分29秒 ) パスワード
  

昭和30年(藤並・田殿・御霊三ヶ村)合併。町名起源は古代郷名「吉備郷」
奈良平城宮跡出土木簡に「養老4年720紀伊国安諦郡吉備郷」とあり、又、日本霊異記に「宝亀6年775、暴風雨に遭って海に流されし、紀の馬養などの事を記し、其の者紀伊国安諦の郡吉備の郷の人なり」とある。昔の郷名が復活し吉備町となりました。因みに、御霊神社の祭神は吉備真備・崇道天皇・伊予親王・火雷大神・13の神々をも祭る。寛治4年1090堀川院天皇熊野御幸の時、有田郡(在田)に吉備大臣(真備)の旧跡を訪ねられたので、藤並の吉備野・石垣の吉備芝など、吉備大臣の所領の地名が残っている由を奏上した。堀河院は旧臣吉備真備の勲功のため、八所霊をあがめ寄進鎮座したとある。後、建武3年1336楠木正成が、これを再興し吉野皇居の御願所とし数ヶ所の田園を寄付したとも云われる。  南朝ですね。然し、藤代は源氏の血が濃い所ですが・・如何してですか?
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月24日 05時03分34秒 ) パスワード
  

ありがとうございました。
なかなか歴史を重んじた命名だったんですね。


>伊予親王

我が家の家系書にも伊予の皇子というのは出て来るのでまたまたビックリ・


>藤代は源氏の血が濃い所ですが・・如何してですか?

あ〜
やっぱり!

南部のオトコと知り合った時、母方の血からの引っ張り合いを感じてました。
その時の私は「藤代の松を見に行きたい」なんて答えてました。
ここから急激にお近づきになった記憶です。


笑ってしまうのですよ。
この南部のオトコが「君ってどこの田舎出身なの?」って。

ところがこのスレッドから驚いた!
彼は自分よりずっと田舎の印象を私に感じたようで
確かに金屋のその奥に私の先祖が土地を頂いてたならヤツの嗅覚もたいしたもんです。


林大学頭の子孫は「うちは源氏」なんて言ってました。
たとえ源氏じゃなくても徳川家の教授の家だったら源氏を称した方がいいでしょうね。
碑が建ってるって聞きました。
[19]田中愛造さんからのコメント(2004年02月27日 03時20分35秒 ) パスワード
  

 暇潰しのギャンブラーさん
相模の話から、紀州に引き込み済みませんでした。いい天気が続きボケてます。
>南部の話は、田舎出身とは又違った意味からでは無いでしょうか?南部も然りですよ、金屋より奥ですし、感覚で云うと「出身は何処」で在地の感じ方で、遠くを見る目が無かったかも、精神構造的には深い意味が無かったのでは。男って単純ですよ!
 秀吉から二群拝領とは、大きいですね。金谷の奥では神保か清水、私の親族玉置や田口では小さいし、余り喋ると里が知れるので、止めときます。秀吉に加担した在郷武士は殆ど大坂で討ち死にして、余り少ないです。
林大学頭子孫、同窓にも居ますが(碑)は存じません。藤原氏斎藤氏族らしいが松平から養子が入り、源氏を名乗っても不思議は有りませんが、紀州には伴姓・紀姓・藤姓・源姓・の林氏が乱出し、混ざり合ってるのも事実です。やはり紀州は懐かしい。 色々有難うご座居ました。次から相模に戻してください。  何時もご苦労様です
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月27日 03時43分33秒 ) パスワード
  

>秀吉に加担した在郷武士は殆ど大坂で討ち死にして、余り少ないです。

我が母方も大坂方で大変なことになり住吉で暫く隠れ棲んでました。


>林大学頭子孫、同窓にも居ますが(碑)は存じません。

田辺の林家です。
場所を聞いておけば良かったですね。
屋敷跡だったと記憶しています。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月11日 02時52分06秒 ) パスワード
  

保元物語上巻「官軍勢沙へ」せいぞろえに

相模国には大庭平太・同じく三郎・山口刑部丞・古息滝口・海老名源八・波多野二郎

に出てました。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月11日 03時12分57秒 ) パスワード
  

海老名源八季定〔季貞〕だそうです。
[23]田中愛造さんからのコメント(2004年03月11日 21時20分14秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様   だいぶんギャンブラーさんに鍛えられて巧く書ける様に成りました。海老名季定は源氏でもないのに源八です。此れは、父季兼は村上源氏源有兼の養子であり、武蔵の横山新太夫小野盛兼の子、有兼子無く外孫季兼を養い家を継ぎ、村上源氏の海老名土着地にあり、源八季定6人の子(上海老名太郎季久・本間右馬允義忠・荻野五郎季時・国府有季・下海老名義季・僧忍長)とあり、相模川(馬入川)近くらしい。
[24]田中愛造さんからのコメント(2004年03月11日 21時52分00秒 ) パスワード
  

忘れてました。    海老名氏の末裔さん。
 愛甲三郎季隆は本来乗馬の名手で、鎌倉武士随一の畠山重忠を一矢で討ち取ったのは、剛に剛・勇に勇、凄い人ですね。之によって畠山一族は滅亡したのだから。
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月12日 02時02分20秒 ) パスワード
  

田中愛造さま


スゴイ情報が出て来ましたね。(嬉しうございます)

やっぱり色々書いておくとどこかでどなたかがフォローして下さいますね。

ではタイトルもちょっと変更致します。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月12日 23時58分49秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:


海老名氏は、ずっと昔は分かりませんが基本的には源氏でしょう。
先祖は頼義に従ったし、子孫は頼朝に従っている。

今の海老名市は相模川に沿っていますから、ここに子孫は土着したんでしょうね。
相模川は別名、馬入川と呼ばれていますが、これも何かありそうです。
[27]田中愛造さんからのコメント(2004年03月13日 03時29分37秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様  ギャンブラーさん得意のsurf rollerして見ました。
 安藤広重で有名な相模川は、承和2年(835)には相模国鮎川と言われ。建久9年(1198)稲毛三郎重成の妻(北条政子の妹)の追善供養に橋を架け、源頼朝が相模川の橋を渡っていると、義経や伯父行家の怨霊が現れ、頼朝の馬が驚き川に落下、馬は溺れ死に、尚又、先を急ぐと十歳位の男の子が現れ、幼くして壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の亡霊が立ち、帰途に着いた頼朝は、この落馬が原因で17日後死去した。其の為この川を馬入川と云われた。とあります。この怨霊話しは意識的に北条氏の流した策謀と云われている。奢る源氏ひさしからず・・・
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月13日 09時41分41秒 ) パスワード
  

田中愛造さま

おおっ
この川が例の川だったのですか。
土地鑑が無いので点が線になりませんでした。
ありがとうございます。
[29]児島さんからのコメント(2007年07月31日 08時27分13秒 ) パスワード
URL=http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

海老名季兼 「小野姓横山党系図」
相模国海老名郷が本領。海老名季久は源平合戦に功をたて、幕府御家人
季兼が源有兼の養子となったところから村上源氏ともいう。

横山義兼ー盛兼ー海老名季兼ー
海老名季兼ー海老名源八季定(佐々木祖)ー有季(国府)ー平山祖成任へ
横山義孝ー横山資孝ー経兼ー孝兼ー平山時重ー
横山義孝ー横山資孝ー平山祖成任ー佐々木成綱ー佐々木・児島盛綱へー
成尋ー八田・中条家長ー八田知家養子中条へ和田氏と連系
           成尋ー義季和田義盛養子へ

後鳥羽上皇は相撲の司として、海老名源八季定(佐々木)にあたらせた。
これより武士の相撲がはじまる。
海老名源八季定は筑紫国へ移り、佐賀に着任し竹崎氏でる蒙古戦の季長
祖海老名季兼が流されて居た薩摩地方や長崎には源為朝の地名平山がのこる。

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