[1] | 田中愛造さんからのコメント(2004年01月06日 00時20分06秒 ) | パスワード |
yoctoさん
源義平を捕らえた、難波三郎経房のことですか?
父は(四郎大夫・備前目代)経信。三子あり・太郎経友・次郎経遠・三郎経房ですが本姓は、田使首姓で備前に小島屯倉の田令に任じられたにはじまります。
>これはこちらの間違いでしょうか
とは、どの部分を指しているのでしょうか・・・
経信の兄は(光信・難波神主・二郎左衛門尉)
経遠の子は(三郎経家、清盛・重盛に仕える)
経房の子は(六郎経俊)
難波氏と清水氏を使い別けて、後、清水氏からも難波を名乗る。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月06日 00時55分39秒 ) | パスワード |
yoctoさん
初めまして。
難波さんの御登場ですか。
妹尾さんといい、平家の侍大将家の御出現、嬉しく思ってます。
私には全く見当もつかないのですが
山口県でしたら「難波大助」の一生を調べたら何か出てきそうですね。
清水家というのは明治時代男爵家だったそうで
難波家というのはこの清水家とも関わりが深いそうですね。
もともと難波家というのは姓はどちらになるんですか?
神武東征以来の豪族ということでしょうか?
公家の藤原氏ご出身なのかしら?
もともとは岡山の豪族?
南北朝の時は当然南朝方で、新田さん側にもお名前がありますよね。
※我が家に伝わる話などいくつかありますので、時間があるときにまとめてみます。
楽しみしております。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月02日 04時12分17秒 ) | パスワード |
yoctoさん
別スレッドの「安徳帝縁の『八咫鏡』 妹尾家 難波家」の<コメント48>を是非お読みになってくださいね。
[4] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月15日 14時01分27秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年01月20日 15時57分36秒
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月15日 14時27分51秒 ) | パスワード |
谷山さん
初めまして。
「教えてください」のスレッドで布袋竹どのが地名の「谷山」についてお書きです。
西郷輝彦は谷山の出身。
護良親王の御在所のあった所。
など
元が難波氏でしたらやっぱり「南朝方」ということで九州に下行なさったのでしょうか?
そうすると「備前」関係者でしょうか?
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月15日 14時31分30秒 ) | パスワード |
谷山さん
100852にコピー&ペイストしておきました。(今日はURLが消えてるのでスレ番号のみ記入です)
布袋竹どのよりレスがあると良いですね。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月15日 14時46分59秒 ) | パスワード |
わたくしの想像:
1.
難波家から谷山家に養子に入ったということは南朝方ゆかりだから?
そうするとその前は「平家」方?
つまり備前の難波さん?
2.
島津忠久に従った?
もとは比企の尼関係?
新田義貞の新田16騎に「難波備前守」という人物がいるそうですが
この人の100年前の御先祖がもともと東国の人だったら比企の尼ともお知り合いだったかも。
島津忠久に従った可能性がありますね。
布袋竹どの、田中氏の書き込みに期待しましょう。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月15日 15時00分27秒 ) | パスワード |
URLが今日は見られないので写せないのですが今井四郎どのの「太平記」より該当箇所をコピペです:
○箱根竹下合戦事 S1404
去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。
ここ↓
義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御
陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。
[9] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月15日 20時53分58秒 ) | パスワード |
鹿児島知覧難波家に関するご回答を寄せてくれた皆様へのお礼
主題につきましての多数のご親切なご解答・ご意見有難うございました。
[10] | 布袋竹さんからのコメント(2006年01月15日 22時20分26秒 ) | パスワード |
URL=http://www.minc.ne.jp/~hotei/heike.html |
谷山正夫さん、はじめまして・
申し訳ありません。お役に立てる様な記事はありません。
谷山氏は、おっしゃる通り、薩摩平氏の一族で、平安末から鎌倉初期の
村岡良文−伊作良道流れの同属ですね。
川辺・多祢・頴娃・指宿・知覧・阿多・別府・谷山・鹿児島ほか各氏を輩出。
その薩摩平氏郡司の中で有名なのが、阿多忠景で、源為朝を婿にして謀反
貴海島「硫黄島」に逐電。
南北朝期には、南薩摩のこれらの豪族「郡司」や地頭系の鮫島氏・島津庶流
伊集院氏も南朝方についた。
1347年には、武家方所属の島津軍は懐良親王の御座所であった谷山城を攻撃
城主谷山隆信や知覧・給黎・川辺・別府・渋谷氏の防戦で敗北。
懐良親王が谷山城を出て肥後に向かった以後は、勢力は島津方に・
島津忠久の奉行として下向、時代下がって縁組ということですね。
島津家の内紛や郡司、地頭入り乱れての戦乱の激しかった土地柄です。
薩摩平氏は滅ぼされた家も多い。
知覧難波家は資料がないので、何か目にしたら書き込みさせていただきます。
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月16日 01時58分36秒 ) | パスワード |
布袋竹どの
懐良親王!
そうでした。
友人と護良親王の話をしてた所だったのでウッカリ間違えてしまいました。
ありがとうございました。
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月16日 02時34分06秒 ) | パスワード |
島津家臣の難波氏(大坂難波出身?東国以来の家臣?藤原姓?)
平姓伊作氏族の谷山氏
もう絡み方が複雑怪奇に絡んでますね。
鹿児島の難波氏は岡山の難波氏とは関係が無いのか?
または
かなり前に分かれたのか?
難波氏・谷山氏の両氏ともに島津家の家臣団にお名前があるんですから
本家になる御家が分かったら詳しいことが分かりそうですけどね。
明治の初めの戸籍謄本が手に入るといいですね。
島津家分限録に家系が載ってそうな気がしますけど。
[13] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月17日 13時27分21秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年01月20日 15時56分57秒
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月18日 01時19分27秒 ) | パスワード |
・高麗王の末に難波(なにわ)
・公家の藤原姓から別れた第4級グループで
近衛の少・中将から昇進して参議・中・大納言に昇ることの出来るグループの中に難波(なんば)
>祖は摂津国難波浦を領した難波左中将経光朝臣を祖
この人物を調べたらどの人か分かるかもですね。
上記の高麗王の末の難波(なにわ)氏なのでしょうか?
難波左中将経光朝臣を調べるのでしたら大阪の教育委員会に情報を求められたら良いかも。
御先祖は古代豪族の難波氏なんでしょうかねえ?
[15] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月18日 01時29分11秒 ) | パスワード |
播磨屋さんのHPの「難波氏」によると難波大助さんの方になっちゃいますね。笑
難波大助は山本権兵衛さんには迷惑な存在ですからカタキですね。友人がゴンベイさんの親戚でした。
詳しくは下記をお読みください。
http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_03.html
>難波氏はのちに「なんば」と訓むようになった。
>難波氏は、本姓は田使首で、その系図は『古代氏族系譜集成』に「田使首」として掲げられている。
[16] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月18日 01時33分52秒 ) | パスワード |
その外
孝元天皇ーー大彦命ーー波多武日子命が難波・三宅の祖なんて出てますね。
[17] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月19日 02時24分51秒 ) | パスワード |
鹿児島県教育委員会の歴史編纂課に問い合わせたらたくさんの資料を送って貰えると思いますよ。
返信用切手を同封なさったら良いと思います。
実に詳しい情報を持っていると思います。
またこれらの資料は県の図書館にも置いてるようですよ。
[19] | 田中愛造さんからのコメント(2006年01月25日 16時23分40秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
お呼び出し頂き参上注せてもらいます。お久し振りです、狡休深謝。
既に、難波氏はギャンブラー様が語られて居られる、高麗王の末、高麗人で難波薬師の流れで、摂津国難波浦発祥の難波朝臣の出です。経の通字が基で備前の難波(田使首)氏や河野(越智)氏に、関連すると思い違いがよく有ります。長門守経久裔・経茂・満経・経明・経道・友経・経秀・経俊・経時・経友・経秀・若狭?・経貞の名が其の流れを代表します。鹿児島には『難波文書』為る物も在るそうで1710頃難波権右衛門も有名だそうです。又、知覧の谷山氏に関しては既に布袋竹様のご解説済みで、薩摩の島津氏との戦いで、何度も抗戦し、南朝方として懐良親王を迎え谷山御所を谿山郡谷山城に置き、其の名も又有名です。谷山氏の累系は省かせて頂きます。
[20] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月25日 19時40分34秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 10時43分26秒
[21] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月25日 22時37分45秒 ) | パスワード |
田中愛造さま
>高麗王の末、高麗人で難波薬師の流れで、摂津国難波浦発祥の難波朝臣の出です。
それで「姓」が無かったのですか。
これで疑問が解けました。
難波氏ほどの名族がどうして源平藤橘で整理出来ないのか不思議でした。
yoctoさま 谷山さま
ではスレッドのタイトルを変更しますね。
[22] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月27日 17時05分53秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 10時00分55秒
[23] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月28日 14時45分35秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 10時03分21秒
[24] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月28日 16時36分03秒 ) | パスワード |
>以前私は『摂津国難波浦』を大阪難波あたりとお伝えしましたが、正しくは現在の兵庫県周辺を難波浦と言っていたそうです。
確か「摂津」と「播磨」の境は今の神戸市垂水区あたりだったようですよ。
ですから「大阪」でも当らず遠からずだったのかも。
我が家でも神戸の親戚や東大阪の親戚もひっくるめて「大阪の親戚」と呼んでいますから
難波浦を大阪難波と混乱なさっても、よくあることと思います。
それに昔はしょっちゅう国境が変更になりましたから混乱があって当たり前です。
でもハッキリ知ってる人がいらっしゃると良いですね。
[25] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月28日 16時37分48秒 ) | パスワード |
ちなみに私は上記「JR垂水駅構内」で迷子になったクチです。
[26] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年01月29日 01時27分38秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
暇潰しのギャンブラーさんへ
摂津国の難波の地名は西成郡と川辺郡に存在する。
難波浦は地形的に考えれば川辺郡の難波(現・尼崎市東難波町、西難波町)である。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十六の
「鷲尾東に指て申けるは、あれにほの見え候は河尻、大物浜、難波浦、昆陽野、打出浜、西宮、葦屋里と申、・・・・・」の記述から明白である。
難波の地名は、他に近江、淡路、備前、伊予にも存在するが、高麗帰化族の難波氏の後裔が移住することにより難波の地名が遷移したものと思われる。
後世の難波氏はいずれも難波地名に住したり領有して称したもので、難波氏の全てが好太王裔の難波連(難波薬師系)の後裔と考えるのはナンセンスである。
[27] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年01月29日 10時12分40秒 ) | パスワード |
日本の苗字七千傑さん
ありがとうございました。
「川辺」って知覧の方にもあるんですよね。確か。
そうすると摂津川辺難波がそっくり鹿児島にも出来たのか?と思い
そうするとやっぱり平家方の難波氏とは違うんだなあ、と。
勘違いかしら?
[28] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月29日 12時53分53秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 10時05分05秒
[29] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年01月29日 17時21分15秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
谷山正夫さんへ
川辺の地名に着目されましたね。
川辺は河辺、川部、河部と通じ、允恭皇后の妹田中之中比売(応神帝皇孫)の御名代部の一つで河部と定めたのが起源と思われる。
我が国の国郡制は大化2年(646)に施行されている。
従ってこの地名は部民制により名付けられたものと推定される。
部民制については http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#048 を参照されたし。
河部(川部)の部民の統率者が川辺臣、川部臣、川辺首、川辺連、川辺朝臣などを名乗ったわけである。
地名遷移も大化以前に生じたものが多いものと思われ、同一地名には同族が居た可能性がある。
中古以降の氏族集団移動の実態も、全くよそものの地ではなく同族地域間に限定されたことが多いものと考える。
本州各地から薩隅日への武家集団移住も何となく理解できるのではないかと考える。
地名と苗字の関係については http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#022 を参照されたし。
[30] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月29日 19時28分06秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年02月06日 12時42分54秒
[31] | 田中愛造さんからのコメント(2006年01月31日 00時27分59秒 ) | パスワード |
谷山様
ご存知と思われますが、摂津国は大阪府西北部と兵庫県東南部に位置し、外港難波津を擁しております。難波の浦は(難波江・浪速江)とも云われ、上町台地西側のふもとに面していた海域で、上代には入り江にして浪速古地図は入り江ばかりで今の大阪には考え難き土地柄です。因みに、小生の住まいは難波宮や難波地域には15分で行ける猪飼野で有名な生野です。
日本の苗字様のお出ましで、無学の小生の出る幕が無くなりましたが、似て非なるものの追求は必要と考えます。
『世界帝王系図集』高句麗kokuri高氏に、広開土王談徳(好太王)の系統が見られ又、『新撰姓氏録考證』巻之19右京諸蕃上、難波連高麗国好太王之後也とあり、更に一般的に『姓氏家系大辞典』には、薬師・難波連・難波薬師・奈良薬師・蜂田薬師等々も載っております。日本の苗字様のご指摘通り、薬師や難波薬師は其の分流が多く解釈理解に難もあるが、一見の価値あり。又、談徳の子孫雄略紀の徳來や五世の孫舒明紀推古紀の遣唐使薬師惠日は薬師改め難波を許され改名。其の後,貞観5年8月(863)難波連蘰麻呂・難波連実得・難波連法宗等朝臣姓賜る。
疑問の藤原氏に於いては、何度も名の出る公家の羽林家は藤原道長ー頼通ー師実ー難波忠教ー頼輔(親忠)ー頼経ー宗長(弟、経長・経豪あり)・・・之より21代通名は宗となる。又、藤原南家流豊成後胤難波氏は難波周防守良国ー時常ー常弘ー定冬・・・之より14代通名は定となる。葛城直系田使首流田使難波千世ー兼理ー茂明ー茂信ー惟信ー親信ー経信ー経遠ー経家ー経宗ー経弘ー経兼ー経興ー経隆ー直恒ー光経ー行経・・・之より行の通名、後、清水氏に至る。備前・備中・美作や赤松家臣系等。越智系河野氏流浅海能長ー頼季ー難波頼信。他、大彦命系安倍氏流難波氏等などが見られるものの、島津氏の家臣難波姓に出てくる名前には一人として先に書いた名前とは符合しない。更に官位に於いても、高い位で地方武士には無理がある。
小林先生の都道府県別姓氏家紋大辞典で全国の出自と家紋を照らし合わせるのも一考かと思われます。
[32] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月31日 13時25分34秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 10時11分01秒
[33] | 田中愛造さんからのコメント(2006年01月31日 14時34分01秒 ) | パスワード |
谷山様
小生の云った言葉に、ご無礼な文が見られたならお詫び致します。
地方武士を誹謗致す事など有り得ませんし、日本の殆どが高位高官からの分流と見て何の不思議も有りません。知覧難波氏が位階が低いのではと、ご立腹様にも取れますが、皇室の流れや古代豪族の冠位の高い先祖が殆どです。
遺跡発掘も先祖調査も、先ずは確かな根拠証明が必要です。
小生は田圃の田中です、人様から見れば、多分百姓の出だと理解するのが一般的な観方でしょう。先祖は第56代清和天皇ですと云えば(あほか)と馬鹿にされるかも知れません。谷山様のご先祖探しに、ギャンブラー様の熱意に賛同致した次第です他意はご座居ません、ご理解下さい。
[34] | 谷山正夫さんからのコメント(2006年01月31日 18時34分05秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2006年06月13日 10時06分40秒
[39] | 舟橋真弓さんからのコメント(2016年07月26日 14時38分19秒 ) | パスワード |
谷山 様
はじめまして、舟橋と申します。
新田16騎の中の山上六郎左衛門について詳しい資料はないでしょうか?
わたくしは旧姓 山上 と申しまして、新田義貞の家来で太平記に出ている人物と父から聞かされておりました。
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