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 投稿番号:100598 投稿日:2003年12月18日 00時03分12秒  パスワード
 お名前:箱柳永田
三河平氏
キーワード:長田+永田+@
コメントの種類 :その他  パスワード

 初めまして、箱柳永田です
大浜長田家は保元の乱以後急速に歴史から消え永井直勝が出るまで、世間より忘れられていました、その間の謎解きを手に入る資料と伝聞から構築していきます。坂東平氏平公雅までは、よく知られているので省略します。
先ずは、伊勢平氏(約150年)の時代、平致頼より長田を名乗り始めます。名乗りの由来は、自ら額に汗した、田作りの長、此れを続けて長田と呼称す、良兼の言葉より長田にしたと伝えられています。所領は伊賀上野の長田庄、鈴鹿、飯野の長田庄、であります。今も地名が残っている所もありますが、多くは丁田、朝田、押田と変わっている場合が多いと思います。この頃の出来事は、平維衡親子との2代に亘る争いで、調停で平家は西を、長田は東の海上交易、新田開発を主とする事になり、調停の礼として紺瑠璃壺を東大寺に寄贈しています。
上皇の命で12代親致が保元の乱に参加し、敗れて伊勢より大浜に本拠をうつしました。  

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月18日 00時40分24秒 ) パスワード
  

箱柳永田さん

貴重なお話をありがとうございます。

大浜って現在のどこに当たるのですか?
知多半島の野間とか内海あたりですか?
でもこれだと尾張になりますから

三河だったら「高浜」あたりなのですか?


土地鑑無いのでよろしくお教え下さい。
[2]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月18日 02時19分26秒 ) パスワード
  

前回の 続きです。箱柳永田
 この頃の荘官としての所領は大浜中心に11代の弟?致俊(門真)が開発中の津嶋、矢作川、豊川上流等、天竜川西(弟忠致)と広がっています。13代仙千代政俊の時、大浜熊野神社を建立し明治まで私立神社でした。
 義朝が敗走し、熱田神宮(頼朝の母実家)より野間の弟忠致の居に着いたのは12月31日で1月4日に死んでいます、こんな長い間、国家反逆罪で手配中の男が何を考えていただろうか?。どうせ死ぬなら、名も無き人の手に掛かりたくないと考えていたと思っていますが。伝承では、平家の軍船がおしよせるのを、景致が報告し、親致忠致が逃がす、討つべしと口論中に、最早これまでと自決したと伝えています。弟忠致は壱岐の守になったが、不満ありと伝えられているが、海運を尊重している清盛の何よりも高い評価を得たと十二分に満足したと思われます。
  頼朝挙兵の報は駿河の忠致から送られ、直ちに出陣、転戦し1180年若彦路の戦いで、忠致景致甲斐源氏に捕らえられ死亡、次男は下田、三男は山梨に落行、娘が嫁いだ平野家は以後長田に直し今も続いています。
 大浜の親致は三浦、千葉の誘いにより源氏方につき義経の指揮下で抜群の働きをしたと伝えられています。海軍の無い源氏で海の長田が目立つのは当然と思われます。平家滅亡の後野間で処刑され、以後長田の当主は神官名のみの記入が250年続きます。この間色々な偽名を使っていたと思われます。 次回は偽名編の推理を予定しています。
[3]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月18日 02時27分13秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー様 

 現在は碧南市大浜町です、高浜の南、衣浦海底トンネルの東側です。
碧南、永田徳本で検索すると・すぐに出ます
[4]田中愛造さんからのコメント(2003年12月18日 02時34分40秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん   失礼致します。
  三河国碧海郡大浜村(現・愛知県碧南郡大浜本町)ですね。
 桓武平氏長田氏族『大江姓長田流』良兼流長田親致十代の孫広正の孫、直勝。とあり、(家康に仕えしが、長田を嫌いて大江氏族永井を称す)と姓氏家系に出ています                                  詫 非礼 
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月18日 03時06分46秒 ) パスワード
  

箱柳永田さん
田中愛造さん

ありがとうございます。
碧南だったとは・・・・日本で1番ゴミの分別収集の厳しい市ですね〜

このあたり結構「揚げ羽蝶紋」のお家が多いようです。
[6]皇竹さんからのコメント(2003年12月18日 09時57分57秒 ) パスワード
  

箱柳永田さん
三河平氏、是非知りたいと思っていました。
続けて下さい。
勉強させてもらいます。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月18日 12時11分35秒 ) パスワード
  

地図見て来ました。

対岸の尾張亀崎の殿様は伊東氏ですからなるほどなあ〜と感心してしまいました。
[8]川口 信さんからのコメント(2003年12月18日 13時11分21秒 ) パスワード
  

箱柳永田さん ご登場をお待ちしておりました。
碧南 永田徳本のURL拝見してきました。今迄全然知らなかったことを恥じました。私だけでしょうか。また同時期、江戸城の御書院番頭でもあった永井直勝の叔父に当たる方でもある。とありました。
 
大橋系図(大橋源三右衛門家)によれば、大橋定省の子供信吉(後、中根姓を名乗る)の弟:貞元の子正治のところに長田平左衛門尉参州大濱に住まするとあり、

川口家系図には宗定の兄弟のところに、廣正 長田喜八郎:参州大濱社人一族長田平大夫政度成養子大濱上宮社主仕、家康公名字改於永井とあり、その時には既に一族であった事と推察されます。
 うちあたり(川口)の系図ではあまり信がおけませんが、参考までに。間違いがありましたらご指摘ください。
 
 今後の展開を楽しみにしております。
[9]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月18日 22時52分35秒 ) パスワード
  

川口様  
  箱柳永田です
 ほぼ記述に間違いが無いと思われます、ホボ等と、おかしな書き方をしましたが、下の宮本家と上の宮の系図また、私共永田も微妙に 故意に変えてあり。部品の多いジグソーパズルみたいで、足りないのか難しいところです。
頼朝が天下を取り、家康が源氏を名乗り、その上 南北朝融和政策をとった関係で用心深く、簡単にばれないように故意に間違って記述しています。
家康が三河を統一した頃まで書いていきますので、お待ちください。
[10]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月19日 01時17分33秒 ) パスワード
  

 箱柳永田  続編です
 大橋と長田の関係を書き上げてみます。南朝に味方し大橋家、足助氏と共に戦ったと伝えられていますが 長田の名は波合記にはありません。
後、酒井は大浜に蟄居しています。酒井家の娘の婿養子に廣政を迎えるまで神官の名前だけの系図続いている、弟の家冶(後に家次)が永田の祖となる。津嶋神社に貞和三年(1347)長田 女 一条生年八十三才の銘がはいった宝(?)印塔()の中は竹冠の下にはこがまえ,その中に夾の字が入る。
県内では刻印入りの最古の物、何故か、現在千種区 伊東邸内に個人所有になってます。長田致俊(門真)が桑名郡益田庄開発していた。津嶋門真庄は長田致俊(号門真)が開発し頼朝から大橋氏への隠退料としていること。羽城の長田平右衛門尉重元の妻が大橋修理太夫の娘。次回酒井との関係を予定しています。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月19日 01時56分43秒 ) パスワード
  

>長田の名は波合記にはありません。
>娘が嫁いだ平野家は以後長田に直し今も続いています。

私はこの2文に注目しているのです。
長田家の名ではなく平野の名じゃないのか?と。


1997年だったと思うのですけど
不思議なことがあったのです。

吉野の忠臣の家の名に
我が家の入る「7名字」やその他「5名家」そして「11?名なんとか」というページがあったのです。

ここに「平野」姓が書かれていました。
他に赤堀や長野そして藤原。伊勢系の名です。


ところがこのページが消えてしまってどんなに捜しても見つからないのです。


>県内では刻印入りの最古の物、何故か、現在千種区 伊東邸内に個人所有になってます。

この伊東さんって尾張の大素封家の伊東さん系なんでしょうかね?
それとも弁護士の大資産家の伊東さん系かしら?
思わず「お〜」っと叫んでしまいました。


南朝方のお仲間の名前が続々出て来るようで嬉しいです。
浪合記に出てこない昔のお仲間の事を拝見出来るようで楽しみにしています。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月19日 02時00分38秒 ) パスワード
  

私個人のイメージとして知ってる長田さん達から「今でも裕福な家庭でいらっしゃる」と思ってます。
昔の豪族出身というのです。
[13]皇竹さんからのコメント(2003年12月19日 08時42分21秒 ) パスワード
  

私の義兄は「伊東」です。
大そうな系図といって冷やかしていますが、
藤原鎌足の流を名乗っています。
義兄の祖父の時代に三重から刈谷へ移住しています。

本題からずれて、失礼しました。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月19日 11時15分34秒 ) パスワード
  

皇竹さま

という事は
藤原郷里系平家一門バリバリの伊東氏の御子孫かしら?
[15]箱柳永田さんからのコメント(2003年12月23日 02時21分23秒 ) パスワード
  

 暇潰しのギャンブラーさん 
大変、ありがたい想像に感謝いたします、明治から没落し始め、昭和で致命的打撃を受け、今は完全な庶民です。今でも世間の人から、そしられないよう、目立たないよう暮らしています。今でも、何処かのお寺で聞いてきて悪口をいう人がいますので、、、、。
 
 なかなか上手くまとまりません、少し時間を下さい。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月23日 06時03分43秒 ) パスワード
  

箱柳永田さん


長田氏・平野氏・伊東氏
平家方だったのでしょうね。
そして南朝方。

長田氏が浪合記に出て来ないのは「平野」氏の名に隠れているからでしょうね。
源平時代の経緯で。

そこの所を裏書してくれる資料や情報が出て来ると良いですね。
私は納得しましたけど。



>何処かのお寺で聞いてきて悪口をいう人がいますので、、、、。

日本史にハッキリ出て来るお家ですから開き直れるじゃないですか。
「ウチは日本史で日本人だって証明されてるんだよな」ってね「じゃ、お宅は?」と逆に話題を振ったら良いのですよ。


人の家の悪口言えるのは自分の先祖がどこの馬の骨か分からないからなんですよ。
私が某大藩の子孫の華族の御婦人から聞いた話では「よそのお宅の悪口は言えない」って。
というのは「ヨソの家の悪口」を言うと回り回って結局は「自分の悪口」だものの、と。
「ヨソの家の悪口は天に唾する行為」とおっしゃってました。


私も佐々木は嫌いだったのですけど
でも大坂の役の後、佐々木から嫁に来た御先祖さまの御蔭で助かってるのですから
佐々木の悪口は言えないのですよ。

日本人なんて本当に同胞の悪口はとても言えないんですよ。
[17]takahiroさんからのコメント(2003年12月23日 13時49分09秒 ) パスワード
  

箱柳永田様

 はじめまして、takahiroと申します。

 当スレッドにおける箱柳永田の御考察、箱柳永田様の御先祖様への熱い想いのようなものが伝わり、興味深く拝読しております。

 御考察のますますの進展、お祈りしております。

 引続き拝読させて頂きます。


服部明子様

 御無沙汰しておりました。

 先日メールにてお伝え致しましたような事情で、最近はずっと一ロム者として「平家物語を熱く語る」に参加させて頂いています。

 服部様のいくつもの金言にいつも新たな気付きを与えて頂いています。

 有難うございます。

 
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月24日 02時38分06秒 ) パスワード
  

takahiroさま

お忙しい御様子
御家御発展ゆえ、心たのしく拝察いたしております。

お身体を壊したりなさらず公私ともに頑張ってくださいね。
[19]箱柳永田さんからのコメント(2004年01月15日 03時08分48秒 ) パスワード
  

 箱柳永田  続編です 
 三河幡豆郡酒井村 後 西尾城主 酒井家との関係を関係を今回は書きます
 家康の重臣酒井は松平の兄弟で長男の方です、松平と行動を共にしていますが家次までの4代は、墓地も嫁の実家も不明(酒井廣親から家次まで4代長田家廣から廣政までの4代が該当します)で足利 武田の勢力が衰えてきた頃から詳細になってきます。長田の家を再興(それまで神官が代行)するのに酒井清秀(1551卒)の娘を養女にし(この時実家から持参したのは地蔵佛で 今でも長田家秘仏としている)、そこに大橋廣政を養子に迎えている。この時清秀の弟正家を長田支流永田として分家した。
 1980延宝8年、1697年元禄十年等数度に亘り大浜熊野大権現の寄進に酒井一統姫路酒井雅楽頭、小浜酒井若狭守、房州勝山酒井大和守等の名が見られる、長にはあまり縁のないように見える膳所本多(酒井左衛門督忠次の次男康俊が継ぐ)もあり、単に清秀の娘が嫁いできたとか、雅楽頭の家老に永田の者がいるからではない、何か大きな物が隠されているようです。
 酒井河内守重忠に1592年家康より家臣24名附属せられる項に、大橋海老介重庫、大橋角左衛門某、永田藤蔵兵衛某とあり 
加茂郡永太郎城で長田中将出雲守を名乗り武名を高めようとしたが武田に知れ雪が深いのに急遽に侵攻された(甲斐源氏は若彦路の戦いで長田忠致を討ち取っている)又武田の武名を上げる好機と無理に出兵したのだろう。長田中将は隠居、成瀬重元が長田名で後見をしたことにより 1代限りで家長になっている。
 浪合記によれば成瀬、酒井は大館兄弟として登場するので、長田、酒井は同根と見ても良いと思いますが、如何でしょうか。 次回は松平との関係について

 
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月15日 05時39分41秒 ) パスワード
  

>成瀬重元

尾張家の家老の1人
ここで出て来ますか。
(感無量!)


>浪合記によれば成瀬、酒井は大館兄弟として登場する

成瀬さんは「もともとは大館家御出身」でしたか。

我が家では成瀬さんとこは「成瀬んとこ」とお呼びしてるのですが(呼び捨て御免なさい)
南朝時代には血と涙と汗を共有してた運命共同体だったんですねえ。


いやあ〜
思わぬところで思わぬお家と繋がってたのですねえ。


どうして父が「成瀬んとこ」なんて呼び捨てにするのか非常に不思議だったのです。
[21]箱柳永田さんからのコメント(2004年01月16日 02時57分03秒 ) パスワード
  

箱柳永田  続編です 
松平との関係について
徳川の祖は世良田を名乗る、藤沢の遊行寺(大塔宮の次男尊明が他阿上人として13代上人をしていた)の僧で(浪合記によれば世良田は津嶋に送り届けた後 藤沢の遊行寺で修行をしている)そこから信州を通り三河大浜 称名寺にきて後三河幡豆の酒井、松平(豊田市東方地区)で入り婿になっている。高月院には親氏自作の襟掛した地蔵菩薩が本尊としてある(3-400年前の作!?)  藤沢の地は平公雅ゆかりの垂木御所と皇子神社があり、同宗派の称名寺に修行と称し長阿弥、徳阿弥 親子は帰ってきたと思われる、又大浜熊野神社に寄進している。松平由緒書によれば信重に二女あり姉を海女 末を水女と名付け姉を酒井(幡豆郡吉良町)と申す田舎に縁あってこれに縁ずきました。末に親氏を迎えて松平を継がせたり。とあり、私の考えでは松平は立派な平氏であり、親氏自作の襟掛した地蔵菩薩は年代を考えれば、酒井の娘が持参した方が本物で、高月院には偽物が安置してあると推測します。
 長田10代賀茂次郎左衛門尉 致房1000−1050位以降 豊田中心に開発をしており15代の弟忠致まで続いたと思います。11代は三郎行致
 身内のひいきかも知れませんが、松平の当主が次郎三郎を名乗る例が多いのはこの為だと思っています。
 長田の伝承では松平信光は多くの子供を分家しているが、実際には他所(愛知以外)で圧迫された平氏がヤクザみたいに親分子分の形で俗に言われる18松平になったとしています。又知立永田では刈谷水野氏(家康の母の実家)は長田平(たいら)三郎行致の弟 景貞(大平太)を祖とするあり。
 東三河 牧野も三柏紋を使用していますので良兼流の平氏と思いますが、確証となる物が見つかっていません。

  書き忘れていました、長田は剣柏 丸に剣柏 枝付抱き柏 三柏が主で
       永田は丸に木瓜 です                         永田の有名人は江戸初期の徳本と南極観測の武(豊田)です                 

[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月16日 06時47分23秒 ) パスワード
  

であろう、とは思ってましたが
箱柳永田さまも「松平」のエリアは平氏系とお考えですか。
南朝方というのは考えてましたが。


土地柄的には痩せた貧しい所のようで開墾するのに苦労したようですが
どうして松平と平らがついてるのかちょっと不思議でした。
平氏系だと思えばなるほど。


>知立永田では刈谷水野氏(家康の母の実家)は長田平(たいら)三郎行致の弟 景貞(大平太)を祖とするあり

貴重な書き込みをありがとうございます。
水野家とも繋がりますか。

人質に出すとか政略結婚とか
全くの知らない人間とか家とかにというワケじゃなくて
どこかでなんらかの繋がりがあっての上だったのだな、と。


18松平のお話も面白いですね。
[23]箱柳永田さんからのコメント(2004年01月17日 02時10分53秒 ) パスワード
  

 暇潰しのギャンブラーさんへ
>「松平」のエリアは平氏系とお考えですか
 私は尾張 三河の武士団は7-8割は平氏または平家だと思っています。
 東国の平氏は基本的に農民ですが、駿河以西の平氏は商業(運送業)と農業を一族で分業している、西は貨幣経済が発達しているからだと思っています。
 伊勢湾、三河湾とそれに注ぐ川は西国平氏の独壇場ではないか、運送業により
孤立している様で、連携ができている。
 鎌倉政権は農民の味方、南朝はそれ以外とすると、負け組み平氏と商業的武士集団は皆、後醍醐天皇の本に集まると思います。
今の地域で見ると愛知、三重、岐阜南部は、たとへ源氏の流れという家でも平氏の助力無しには自立がやっとではないかと思っています。例へば、松平清康が守山で死んだ時、息子広忠(家康の親)は吉良の案内で幡豆まで来て、長田の船で伊勢に逃げています。
 ついでに、吉良の塩田は長田の仕事ですので、松の廊下の原因は塩ではないし、女では断じてないと本家が言っていました。 長田本家の推測では 上杉をめぐる、政治上の源平の戦いらしいと いっていました。
 >水野家とも繋がりますか
 知立永田は江戸初期に水野と姻戚であったので、水野の正統の家系図をみているらしい。私の所には源氏を騙る就職用の 家系図がありますし、長田本家も世間に嘘を言いふらしたのか、屋敷の近くに源氏橋や源氏町があります。
 
 >18松平のお話も面白いですね
 その当時の松平は岡崎北部の貧しいところが基盤ですので、やたら子供ばかり作ってたら、家がつぶれる、又は家来が逃げていく。でも分家してる。
  子供の頃からの疑問が解けました。(図書館では調べられなかった)
   本家は有難いものだと思った瞬間でした。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月17日 03時37分29秒 ) パスワード
  

箱柳永田さま

面白いですね。


>松平清康が守山で死んだ時、息子広忠は吉良の案内で幡豆まで来て、長田の船で伊勢に逃げています。

知多はもともと長田の本貫地ですから対岸の伊勢に送るのは面目躍如ですね。
家康が伊賀越えした逆のルートが既にあったのですね。

伊賀越えをとっても突然出て来たワケじゃなくてそういうルートがもともと存在してたんでしょうね。
勉強になります。


>本家は有難いものだと思った瞬間でした。

わたくしもそう思っております。
[25]箱柳永田さんからのコメント(2004年02月13日 01時51分35秒 ) パスワード
  

 前回21より
 >東三河 牧野も三柏紋を使用していますので良兼流の平氏と思いますが、確証となる物が見つかっていません。

 1 牧野家は阿波民部重能の子孫が三河に来て、牧野を称す 
 2 忠致の次男(実父平忠常)の子孫が薩摩に渡り、三河に戻ってきたものか
 3 平康頼の子孫の可能性もあり

 以上3つ位考えられますが、寛政重修譜の家紋より2が一番面白いか

 奥平家は軍配の家紋から武蔵7党の児玉党の1つと考えられる

 系図の上では、源氏、藤原と言っても、三河地区の武士団は7割以上は平氏で
 あると、考えてよいと思う。 

 三河古地図(復刻版)を見ていて、幡豆郡吉良庄に大橋、中根の地名があり、碧南大浜とは目と鼻の距離にあり、長田、大橋の地縁(血縁を含む)は尋常ではないと、再確認しました。 
 
  疑問がわいてきました、大橋家は清盛の頃より平家を名乗っていたのは皆の 知るところですが、それ以前は何だったのでしょうか、
 平氏に繋がる系図は何代か略されていて何流の平氏か判らない。公式に出ている物では津嶋近辺に(私の地図が悪いのか)大橋の地名(名乗りの根拠)見つからない
 何方か判りましたら教えてください。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月13日 02時45分30秒 ) パスワード
  

私の本では幕臣の牧野さんは(1)田口の子孫になってますね。
平家方から源氏方に鞍替えしたわけですね。
南朝方で徳川さんも南朝方ですから御先祖のよしみで幕臣として活躍なさったんでしょうね。


>疑問がわいてきました、大橋家は清盛の頃より平家を名乗っていたのは皆の 知るところですが、それ以前は何だったのでしょうか

大橋さんは平貞能の子孫ですから平姓で兄弟の俗姓は平田(家継)だったり服部(家長)ですね。
貞能は嫡男扱いで代々平家の嫡男の家の家老をしてますから平姓しか見たことがないです。


大橋の名は貞能が九州に行ってた時の肥後国山本郡大橋村からだそうです。


名古屋の駅の南南西だかに「二女子」(ににょし)という地名がありますが
これは貞能の娘の事だと聞いた記憶があります。女が2人という意味だったと思います。
娘2人だったか娘と妻の事かハッキリしません。


貞能の子に貞経というのがいて頼朝に下り、その後、罪を得て牢に入れられ
妻は薩摩に逃れ子を産んで
この子が父の冤罪を晴らし親子ともに許された
というお話があるそうです。
[27]箱柳永田さんからのコメント(2004年04月02日 03時27分27秒 ) パスワード
  

  将門の叛乱の原因は土地争いと言うことは皆様ご存知と思います。
 良兼 公雅の視点で書いて見ます。他のスレッドの方が相応しいかもしれませんが。

 平の兄弟順に 国香(良望) 良将 良兼 良文で5人説 8人説等ありますが、私どもは4人説です。 長男良望は良持 良茂とも書かれ晩年は 国香で全て同一人物です、昔は文字も誤用が多く、2−3の名乗りがあるのは普通です。ちなみに 公雅は忠望(ただもち)を名乗ってます。
 将門と初めに衝突するのは国香の次男繁盛が領地が近いので、可能性が高い
 次に源護とその子、国香、良文の順になります。常識では将門不在時に繁盛、源護、国香(管理をしていた)が蚕食し、次第に騒乱になっていくのですが、源護の娘が国香の長男貞盛、良兼、良正(私は良将だと思っています)に嫁いでますのでまさに皆身内状態で、国香の死後 族長になった良兼は仲裁の立場が対立の当事者の一人になり、娘が将門の所に行くのに許可が出せなくなり、結果本妻ではなく妾になっている(女論の出典か)。争いの後の論功で国香の次男繁盛が何も得ていないのは、国家も当事者達も、原因が国香の次男繁盛にあると認識していたと思われる。
 騒動から遠くに領地を経営していた、良兼の許に農業土木技術者が集まり、
 この時より開拓農民集団 長田党が始まったと思います。

 公雅の娘が平忠常の嫁ぎ、藤原維幾に高望王の娘(平四兄弟の妹)が嫁ぐ等。
 昔は家柄、地位など、釣合を考えると、結婚できる相手は選択の余地はなく
 名の有る家は皆血族で(源平藤橘ごった煮状態)小さな争いが、あっという間 に大騒動に発展したと思われる。その後武蔵の守公雅は伊賀上野に移り、開拓 と伊勢湾から川船で運ばれる物資(年貢、税金)の運送(武装運輸業)が主な 仕事になって行く。伊勢平氏の祖 維衡も同様に移ってくるが、理由がいま   いち、判らない。
 信頼できる武装集団で税を守ろうとしたのか、高望王の所領を分け合ったの  か。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年04月02日 10時55分22秒 ) パスワード
  

>伊勢平氏の祖 維衡も同様に移ってくるが、理由がいまいち、判らない。

これ、分かったらいいですよね。楽しみです。


保険金殺人事件が起きる度に(今は保険金目当てなのか。私の先祖もあんまり変わらないな)と思います。
[29](大江?)永田さんからのコメント(2004年04月17日 23時47分07秒 ) パスワード
  

おじゃまします。
キーワードおよび[2]大変興味を持ちました。
先祖十代ほどの永田です

天竜川東西の地、長田郡について
和銅2年(709年)長田郡を割り長上、長下の郡を分置する?。
敷智郡、石田郡、豊田郡、周智郡、山名郡、磐田郡等、変遷知りたくなりました。

山名郡鎌田御厨(旧長下?)源義朝の郎等次郎兵衛政清の一族鎌田小太夫高伝の居?
ほかに、朝長の首塚があり建久9年(1198年)源頼朝が墓詣で、其の時、岩井の池にて鶴30羽に黄金を付け放った。後、鶴ヶ池と呼ぶ、民話などあります。

永田姓も多くあります。平家から源氏に変わり身が速かったのかな??.
先輩、諸先生、解る事ありましたらお教え下さい。

他地区。永田で、お邪魔とは思いますが宜しくお願い致します。





[30]箱柳永田さんからのコメント(2004年08月28日 03時33分29秒 ) パスワード
  

長いこと休みました、少し調べた結果を書きます。
 (2)で義朝の敗走の到着が12月31日と書きましたが、
 長田の伝承では、大晦日と12月27日の2つが伝わっています、私は大晦日は当然31日と考えましたが、引っかかるので調べたところ、この年は、うるう年で12月は27日が大晦日でした。(逆説の日本史 井沢元彦より)大変失礼しました。
 又(門真)を名乗った致俊は桑名から津嶋(古名に門真庄あり)を開拓したが、門真の読みと何を根拠に名乗ったか不明でしたが、父親の行致の所在地が門真の庄(大阪門真市門真)松下本社の所在地で古くから開拓が行われているところ、であることから ーかどまーであると判明しました。

 尾張徳川と長田の関係は、あまり良くない(某寺に根拠の無い絵を寄進している)と思われる、この件についてはー成瀬の所は困っただろうなーと(暇潰しのギャンブラーさんの家でも成瀬の評価がガックリ落ちたのはこの時点だと思います)本家が言っていました。
 長田白次(寛文7年卒)の室は尾張城内出産中野某(150石で城内に屋敷が持てるか?)の娘、となっており当代、長田白赤さんの調べによると、三の丸は一族成瀬の屋敷があり、中野は成瀬の家来であり、源敬公の落とし胤であれば、長田菩提寺宝珠寺過去帳に尾張源敬公の寄進の理由が判る、寺領は徳川家よりの受領で松平、徳川本家の記入にぽつんと混じって(尾張は無いはず)いる。ちなみに白次の娘は、名古屋京町 伊藤道貞に嫁ぎ(松坂屋と思われる)伊勢の平氏伊藤家の流れと思われる。光春の時に熊野大神社に初穂料と絵馬(松に鶴)の寄進があり、理由が長いこと判りませんでしたが、義直公の隠し子と思われる人が長田に嫁いだのであれば、なっとくのいくところです。 伊藤家の記録ではどうなっているか?興味は尽きません。
  次回は某寺について推察します。 
 
 
[31]箱柳永田さんからのコメント(2005年10月04日 19時52分02秒 ) パスワード

 長らく、書けませんでした、文に感情の乱れが多く(書いていると興奮して)時間をとりました。

  某寺について 
 ここは誰が建てたのでしょう 公式には平康頼とか阿波民武等と言われていますが、その可能性を考えて行きたいと思います。
 寺は、個人が建て、寄進するという、常識で考えて行きます。

 この時期、長田忠致の支配の知多で、寺を建て、寺領を寄進し、それなりの身分の和尚(庵住)を連れてくる。これを密かに進める事は、不可能に近い。

 特に建物は砦と同様であるから、十分な根回しが無ければ、完成しない。
 
   忠致を説得するだけで、できるか?
 この時点で忠致は、首の主は国家への反逆だけでなく、親殺しの忌わしき男であると仮定します。
 保元の乱、(兄の親致が清盛の敵方で、あることから)、全面的な信頼は、
  首一つでは得られないだろう、と考えれば、
 簡単に同意できない忠致を、どのように、説得するか。
 少なくとも
 忠致の手で、清盛が納得できるだけの、理由を考えねばならない。
  誰かが考えたとしても、その理由書を忠致が信じなければ、寺の維持は、
   不可能になる。  

 寺の建立は忠致も共同正犯であると考えますが、如何でしょうか。

              次回  建立の理由について
[32]私もおさだと申します。さんからのコメント(2005年12月22日 13時45分58秒 ) パスワード

拝啓
私も長田を苗字にしております。
歴史が好きなので長田忠致のことは知っておりましたが、私は山梨県出身なので、ただ苗字が同じだけだろうと思っておりました。
ところが、箱柳永田さんのコメントに、「忠致景致甲斐源氏に捕らえられ死亡、次男は下田、三男は山梨に落行」とありました。と、すると、もしかして私の家系はあの忠致さんの三男が山梨へ来たところから始まるのかなと考えてしまいます。
でも、家紋が「丸に鷹の羽」なので、やっぱ違いますよね。
失礼しました…。
                        敬具
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月23日 02時51分52秒 ) パスワード

>でも、家紋が「丸に鷹の羽」なので、やっぱ違いますよね。

違わないかもですよ。


家紋は名字よりもっと変更の率が高いと思いますよ。


それに名字と家紋が主人の格より高いと
遠慮して名字を変えたり漢字を変えたり紋を替えたり
そういうことをしたんですよ、昔は。


どうして家紋が「○に鷹の羽」になったのか、分かると良いですね。
本家の家書にその経緯が書かれているかも。
理由が分かると良いですね。
[34]長田さんからのコメント(2005年12月23日 08時48分14秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん。
ありがとうございます。
とりあえず、私なりに調べたところ、大江支族の永井氏が、私の家紋と同じだったようです。
永井と長田は、このトピにもあるように同族なので、やっぱり忠致さんはご先祖さまなのかと思っております。
私が調べたところでは、6代前のご先祖さんまでしか分からなかったのですが、もしかすると、あの長田徳本さんも甲斐で生活していたとのことなので、ご先祖さまかもしれません。
勝手に有名人を先祖にしてしまいましたが、歴史に夢を感じている今日このごろです。
[35]長田さんからのコメント(2005年12月23日 09時15分17秒 ) パスワード

上記、永井氏と同じ家紋だと書きましたが、どうやら間違いだったようです。
家紋のHPに丸に鷹の羽は大名永井氏の家紋だと書いてあったのですが、別のHPでは永井氏はまったく違う家紋だと書いてあったので、もう何が何だかわかりません。
また、このトピでは「永田徳本」となっていますが、私の地元では「長田徳本」とされています。
何だか、ややこしいなあ…。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月23日 11時03分29秒 ) パスワード

長田さん


小林氏が家紋のプロでいらっしゃるので私などが僭越なんですが・・・


>別のHPでは永井氏はまったく違う家紋だと書いてあったので、もう何が何だかわかりません。

「別のHPでは永井氏はまったく違う家紋だと書いてあった」
こういうのは100%とは言い切れないのでテキトーに聞いとけば良いのですよ。
1つの家に1つの家紋とは限らないのですから。
そのHPの人はその人なりにそうおっしゃっていらっしゃるので、その人の御意見なんです。

御自分の御家のことは名字にしても家紋にしても他人の話には耳を傾けず
御自分のホンヤになる御家を捜してお話を聞くことです。


私の母方の紋は「基本紋」が最低でも3つあります。全く違う紋です。事情で紋を替えたのです。
変化形も入れたらいったい幾つになるやら。
でもその使用紋の背後に「時代」が見えます。どうしてその紋を使用することになったか。
そういうのが家書に書かれてます。


御自分のアイデンティティについては「ホンヤさん」にあたる家に系図とともに残っていると思うので
教えて頂けるといいですね。


6代前まで分かるということは明治の初めの御先祖さまですよね。
ということはその戸籍に載ってる場所が江戸時代に住んでた場所の可能性が高いので
その場所の人の尋ねたらいろいろ分かるかも。

人間は移動するし事情も変わるし
この800年の間に名字も読み方も漢字も家紋も変わってるので
ホンヤの家が残っているといいですね。

お正月に親戚の人達が集まったら御先祖さまのことを訊いて
系図を持ってる人を教えて貰ったら良いのですよ。

早くしないと知ってる人はどんどん鬼籍に入りますから
恥ずかしがってないで行動なさるのが良いですよ。
[37]長田さんからのコメント(2005年12月23日 12時08分11秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん。
早速のお返事、ありがとうございます。
私の6代前のご先祖さんは、1800年初頭に生まれておりました。ただし、詳細な生没年は不詳です。その次の方が、1838年の生まれでした。
もっとも、除籍謄本には元号で書かれていたので、私が西暦に換算しました。
近所周辺は長田が多く、どれが本家かわかりません。親戚つきあいもないですし…。
私が独自に調べた結果、なんと6代前のご先祖さんは、私の購入した住宅のすぐ近くに本籍があったみたいです(直線で200mくらい)。現在そこは空き地になっていますが、近所にはやはり長田が多いです。私は、以前は別の町に住んでいましたし、まさか先祖の出身地とは知らずに購入しました。
私は知らないうちに、ご先祖さんの近くに家を建てていました。しかも、私の土地は不動産屋から購入したものですが、以前の持ち主は、やはり「長田」さんとのことでした。

なんか、ご先祖さんから呼ばれているような気が…。
ちなみに、ひいおじいさんより前のご先祖さんのお墓は知りません(ひいおじいさんの顔は知らない)。
ご先祖さんの本拠地周辺の寺院に聞いてみましたが、手がかりなし。いくつかの寺院では怪しいと思われたのか、過去帳も調べてくれませんでした。
こうなったら最後の手段。地元の郷土史家を訪ねてみようかと考えています。
[41]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月24日 02時06分06秒 ) パスワード

書き直し


>過去帳も調べてくれませんでした。

これは金一封包まないとね

だって膨大な資料(笑)の中から調べるので大変な作業になるんですよ。
お願いする時期としては正月後春のお彼岸の前など。
そういう暇な時にお願いしないと彼岸とか師走だったらお寺さんはメチャクチャ忙しいですからね。

檀家でもない、縁もゆかりもない、そういう疎遠だった人から突然頼まれても向うも困ると思う。
まず顔繋ぎを最初にやってお布施も出してお寺の檀家らしい行動しておかないと。


私は江戸政権以来藩主と一緒に入府したという16代続くお寺に調べて貰うのに
まず手紙を書き
実際に足を運び
そして1万円包みました。

そしたら気持ち良く?やってくれましたよ。(ホントのところは謎ですが)
この間数年要しました。


人間関係だからね。


私の従兄も夫婦で聖徳太子の時代よりちょっと下がった創建のお寺に夫婦で派遣されてるんですが
地元の檀家さんとの関係が、まず、大変みたいですよ。
古い古いお寺だから歴史はあっても途中でいろいろ変遷してるし従兄夫婦は最近派遣されたわけだし

その前に従兄夫婦は「ヨソ者」だし。

話をよく聞いてみると従兄夫婦の前も派遣されたオッ様御夫婦がお寺を継いでたそうで
そうやってお寺の中も地元と関係ない人が来てるから、
いろいろ質問されても答えられないし、
期待にも応えられない。

どんどんそういう世の中になって行くと思います。


お寺さんも親切な人が多かったけど
中には【いくつかの寺院では怪しいと思われたのか、過去帳も調べてくれませんでした】というお寺
確かに私もいくつか経験してます。

京都では意地悪度が(こんな人が坊主やってるの?)と人間性を疑うようなお寺さんも複数あったし。
でもホントは私の作戦がまずかったんですけどね。恥


やっぱり日本という国は「根回し」が最初にあるんだと思いますよ。
それから「コネ」ですね。「顔繋ぎ」ですね。檀家さんの有力者から話を通して貰うとかね。


向うが喜んで「そりゃ、調べさせて貰いますわ」と動いてくれるようにこちらも行動しなきゃね。
めげないでやり直してみてください。
お寺さんは基本的には気の良い親切な人達ですから。
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月24日 02時11分12秒 ) パスワード

書き直し


>なんか、ご先祖さんから呼ばれているような気が…。

ですね。
御先祖さまが「ちゃんと纏めてくれ。でないとドンドン薄れていくから」と呼び掛けてるのかもですね。


この際、御近所の皆さんに協力して貰ったら良いのですよ。
名字・家紋・エピソード・ホンヤその他
今は個人情報がなんとかなので難しい面もあるでしょうね。


最初に「御挨拶」から始めないとね。
日本人社会は「挨拶」って物凄く大切なんですよね。
挨拶も交わしてない人には話しかけられないですね。
なにかキッカケを見つけて挨拶できるように持っていき、世間話が出来るようになれると良いですね。


それで「うちも長田なんですよ」と会話を持っていって「先祖の話が知りたい」と進んだら
中には話したくてたまらない人もいらっしゃいますよ。
そういう人が捕まるといいですね。


第二弾としてアンケートを送るようになれると良いですね。
ちゃんと返信用切手を貼った封筒を同封して。


第三弾としてアンケート結果を纏めて郵送しないとね。
でも誰と誰とが親戚という暴露はこれまた個人情報に触れるんでしょうね。


私の場合は明治の初めの先祖を調べて昭和の親戚まで調べられましたから
該当の家には私の持ってる情報は全て送りました。
喜んでくれたのは片手でしたけどね。(むなしい〜)

いろいろありましたよ。
苦情も。
知らない事を教えてくれた人もいらっしゃいましたし。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月24日 02時12分58秒 ) パスワード

書き直し


>最後の手段。地元の郷土史家を訪ねてみようかと考えています。

これ、いいですね。
この人からいろいろな所や人を紹介して頂けると良いですね。


私は教育委員会の歴史編纂課に手紙を出しまくりましたよ。
返信切手を貼った封筒を同封して。

そしたら歴史関係の本を扱ってる本屋さんを教えてくださり
この本屋さんが有名歴史学者を紹介してくださって
そこからまたいろいろ紹介してくださって。


思わぬ所に思わぬ人がいて
そしてその人と同じ流れというのが分かり
従妹に知らせたら従妹の仲の良い知り合いが実は!だったと分かったとかね。


誰かがやらなきゃ。
それがあなたなのですよ。
御先祖さまに期待されているという自信で進めたら良いのです。


でも焦らないで。
私だって何十年もかかったのですよ。

20年ぐらいかかると思ってる方が良いと思いますよ。


このお正月
行動開始の良い機会ですね。
[44]長田さんからのコメント(2005年12月24日 17時23分23秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん。
いつもすばやい対応、ありがとうございます。
私のひいおじいさんが長田家を出奔してしまったことから、先祖がどこに住んでいたかもわからなくなっていたのです。まあ、ひいおじいさんにも、家を出なければならない理由があったとは思いますが…。その後、ひいおじいさんは、実家と連絡をとることなく人生を終えています。
そのせいで、叔父、叔母にきいても、ひいおじいさんのことがわずかにわかる程度で、その先のことは誰も知らなかったのです。だから逆に、私が教えてあげました。
ちなみに、父は若くして亡くなっていますので、何もきけません。

今年中にわかったことは、ごくわずかです。ですが、来年からも引き続き調べていきたいと思います。
このサイトを知って、なんだか勇気がでました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

ところで、暇潰しのギャンブラーさんも「長田」さんなのですか?
[45]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月25日 00時49分20秒 ) パスワード

いえ、私は「長田さん」じゃないです。


でも御近所に「長田さん」という地元のお金持ち一族がお住まいで
立派な御家だったんですよ
子供達は皆さん学業優秀できれいでしたよ。

で、事情は後で知った、そういう具合です。

そして長田さんの親戚がTさんと言って、そのまた親戚がIさんで、Iさんとウチの関係は?
と調べて行ったら
結局は私達って知らないだけで親戚になっていくんですよ。親戚でなくても繋がりがある。


今の時代は「兄弟は他人の始まり」ということで親戚付き合いしないから分からないけど

私の小学校時代の同じ名字だった男の子が実は父親の世代は従兄弟だったのです。
それどころかバスから降りて自宅に辿り着くまで親戚の家の前を毎日通ってたということを知りました。


昔って兄弟姉妹の数が多いから、その婚家も含めて、スゴイ数の親戚になるんですよね。
ところが戦後その繋がりが切れた。
だって今は大家族の人数の接待なんて出来ませんものね。金銭的に!あはは
嫁は姑や小姑なんかと顔を合わせたくないし? あははの∞


こうしてドンドン先祖の事が分からなくなって行きますね。


でも先祖の事を良く知ってる人というのが必ずいるもんなんですよ。
そういう人は語り部となって次世代に伝えたいのです。


私も知ってはいけないような家庭の秘密を知ってしまったり
その秘密を悪く言う人もいたり
へえ〜っと思いました。

でも事実の部分は知っておくべきで、
どう解釈するかは個人の問題!と割り切っています。


ですから長田さんチも、ひい御祖父さまの出奔の理由、知りたいけど知らない方がいいのかな?って
ちょっと思いませんか?ふふふ

立身出世のためだったのか?
好きな女性と結婚したかったからなのか?
親と喧嘩したのか?

何か分かりませんが御先祖さまが「謎々を解いてごらん」と出題してるのかも。
[46]箱柳永田さんからのコメント(2005年12月25日 17時12分22秒 ) パスワード

長田さんへ

 投稿有り難う御座います 山梨在住のこと 正確な答えにならないかもしれません 長田ゆかりの家は2軒あります。一つは次男の家 甲府猪狩、貢川で
 忠致(ただまさ)ー 忠久(帯刀)ー忠常(平治兵衛)ー師常と続く
 丸に蔓柏の家紋 もう一つは、都留郡平野の家 忠致の娘を娶り長田を名乗る元平野(名字)の長田家 此処の紋は不明です。   平野(長田)但馬ー対馬ー源次郎ー
       (長田一 著 長田氏族の足跡) より


 余談 忍野村にも長田が多く、山梨から開拓のために移ってきたと聞きました(四軒が本家です)、家紋は丸に蔓柏(長田荘という民宿に平氏長田家の本が寄贈してあります)でした。
 
 雑談 忠致の居城(豊田古城跡)は一族の永田六兵衛家の墓地になって今に至ります(開発も出来ない保存形式) 忠致の後墓地になるまで400年の空白がたっています、記憶のなせる業と言えます。

  徳本について
 本名長田(おさだ)通称で(永田)徳本はどちらでも良いと思います
 長田の四男であり、将軍の治療にさいして永井が気を利かせて、長田の読み替えで  ながたとくほん(書く時は永田長田とっちでも良い)と紹介したと思われます。この時代はまだ源氏に仇なす苗字と認識されていた。改名を迫られ退去(浪人)した旗本長田家もある。
       お役に立てましたでしょうか   箱柳永田
 
 
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月26日 01時34分07秒 ) パスワード

>改名を迫られ退去(浪人)した旗本長田家もある。


すごいプライドだったんですねえ。
「武士の本懐」。


普通は 生活=現実=から 妥協すると思いますが。
家書に主人から改名させられたと書き残せば良いですものね。
[48]長田さんからのコメント(2005年12月26日 16時50分14秒 ) パスワード

いろいろ調べていくと、ほんとに「家庭の秘密」みたいなことに当たりますね。
わずかな手がかりを得て、そこから推理を働かせていくと、確証はないですが、ひいおじいさんの出奔の理由もわかります。さすがに、ここには書けませんが…。
あと、私がいまのところいちばん知りたいのが、何といっても「家紋」です。箱柳永田さんのお話ですと、甲府貢川、忍野の両長田家とも「丸に蔓柏」なので、もしかしたら私の家系と忠致さんの家系とは縁がないのかもしれませんし、暇潰しのギャンブラーさんのおっしゃるとおり、私の先祖が何かの事情で家紋を変えたのかもしれません。
それが知りたいです。

道はまだまだ遠いです。ハァ…。

[49]長田さんからのコメント(2005年12月26日 17時37分15秒 ) パスワード

書き足し

現在は「個人情報」が厳しい時代ですので、すぐ近くにご先祖さんの出身地があって、その周辺に長田と名乗る旧家があることを知っていても、なかなか訪ねるきっかけがみつかりません。
いきなり「先祖調査云々」といっても疑われるだけでしょう。その旧家に、話の好きなご老人がいてくれたらありがたいのですが、そうでなかった場合、なまじ近所に居を構えているため、生活に影響しそうです。完全な田舎なら、おおらかに過ごせることでも、中途半端な都市化のせいで、近所つきあいもたいへんです。

ひいおじいさんが出奔したあと、長田家は弟が継いだそうです。ですから、あの旧家はたぶん弟さんの系統ではないかと考えています。
私はひいおじいさんの弟の系統まで調べて、弟さんの孫の代(私の父の世代)まで「私家家系図」に掲載していますが、うかつに弟さんの系統の方に見せた場合、喜ばれることよりも「何の目的か?」「ほんとうに先祖調査だけが目的か?」など、疑われる確率のほうが高そうです。
ちなみに、父と同じ世代の方も代替わりしたせいか、電話帳には記載されていません。おそらく息子さん(私と同じ世代)らしい方の名前が記載されていました。

やはり、地元の郷土史家を通じて、「長田さん」を紹介してもらうことにします。幸いなことに、教育委員会に知人がいます。
誰かの紹介があれば、私がほんとうに先祖調査をしていることが理解されるでしょう。その長田家の系統に、私の6代前、もしくは最低でもひいおじいさんとつながれば、あとはその長田家の菩提寺の過去帳から、一気に調べられるような気がします。

長文ですみません。自分で自分を励ますために書きました。お許しください。
[50]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月26日 22時46分55秒 ) パスワード

本当に真意を疑われると困りますよね
お金目的じゃないかとか(今の時代は特に!)
屋敷目的じゃないかとか

向うを怖がらせては逆効果なので時間をかけて気長にですね。
人間関係はじっくり時間をかけてください。


家紋は本当に1つじゃないし
何かあった時に縁を切るためにも替えたりもしますから
家紋はかなり難しいです。

また家紋で逆に特定ということも出来ますしね



さっきも東慶寺の寺法の書付を入れてる箱をテープを巻き戻して見たのですが
上に菊の紋と下に桐の紋が描いてありました。

このお寺は北条時宗の奥さんのお寺だそうですから(なんで三つ鱗じゃないんだ)と突っ込んでましたが
紋って難しいですよ〜

プロの小林先生でも今でもいろんなお家の家紋を調べていらっしゃいますからね
奥が深いです。


戸籍の本籍地なり住所が証拠になりますから、有力だと思いますよ。


時間をかけて、焦らないように、ね。人間のことは。
[51]小牧長田さんからのコメント(2006年05月09日 17時38分07秒 ) パスワード

大変興味深く読ませていただいております。愛知県小牧市が本籍の
おさだと申します。親戚の間では「長田忠致の子孫かも」
などと言っていますが信憑性については???なので興味を持って少し調べ
始めて、この素晴らしいスレッドにたどり着きました。
うちの家紋も「丸に違い鷹の羽」で、祖父の眠るお寺の墓地は
「長田姓」が半分以上を占めています。但し同じ長田でもそれらの
墓石には色々な家紋が彫られていますね。。

先日小牧に帰省した際に図書館で郷土史の資料に少しだけ当たって
みましたが気になっていた「小牧市南外山字長田」の読みは
「チョウダ」で、由来は様々な形の田があったのだろう、という
旨の内容が簡単に述べられていただけでした。ただ同資料で本家の
近くの字(=上記のお寺がある所)は長田姓が多いとの記述もありました。

ただ小牧はなんと言っても信長が居城を短期間ながら構えたことと、
小牧長久手の戦いがあったので「小牧市史」を調べても戦国期は
ここに記述が割かれてしまい、また鎌倉・室町時代は逆に
史料が少ないのだとは思いますが非常に断片的で長田氏との関係も
見つかりませんでした。

長田氏は知多から碧南のほうに移ったのが本流とのことですが
尾張春日井郡あたりに流れた一族っているのでしょうかね?

それはさておき戦国時代の永井直勝、江戸時代の永田徳本、幕末の
永井尚志(養子ですが)など忠致親子だけだと思っていた長田氏
ゆかりの人物が他にも沢山いることも知ることが出来て
調べてみるものだなぁと嬉しく思いました。

そういえば山梨県は長田姓が多い県でしたよね?
(唯一長田姓が二十傑に入っていたような)
長田さんのご調査にも進展があることを祈っております^^

とりとめないですが私も親戚に機会があればご先祖様の
ことを聞いてみようかと思った次第です。

箱柳永田さまのお話も大変興味深く続きを楽しみにしております。
(もちろん気が進めばということで、無理を言うわけではありませんので〜)
[52]e-officeNAKAIさんからのコメント(2006年05月09日 22時29分53秒 ) パスワード
URL=http://edu-project.com

>26[山本郡大橋家]
お話しのところ,横に通り過ぎてごめんなさい。
大橋一族のことが書いてあったので,嬉しくなってひとこと。

5年くらい前に,行ってきました。
肥後国大橋城の跡地。
基本資料は,『肥後国史』。
で,現代語訳を付しました。
http://edu-project.com/ohashi.htm
*****
車で通れば,ただの集落。
でも,奥のおうちの向こうに,
昭和28年の大雨で埋もれた堀があって,
そこを越えた藪の中に,
薩摩のマークの入った祠があったのです!
それを見つけたとき,一同,感動の余りしばらく立ちつくしました!
*****
肥後大橋家の物語は,生きていました!
*****
*****
一応,ご報告まで。
おじゃましました。
[53]箱柳永田さんからのコメント(2006年05月11日 23時30分58秒 ) パスワード

小牧長田さん
ようこそ 歓迎いたします 
 >尾張春日井郡あたりに流れた一族っているのでしょうかね?

 私が三河平氏を表題にしているのは、尾張平氏は濡れ衣を着せられた忠致を
連想される事を避ける為で、伊勢平氏としての長田は公雅、致頼、経致は今の桑名益田庄の開拓で、以後は川、海を越して尾張三河と東進します、経房 致房 行致 致俊(長男親致 次男忠致)迄本拠は伊勢国で親致が保元の乱に破れ大浜に来る迄、開拓は恐らく尾張中心であろうと思います。特に門真致俊は津嶋(古名 門真庄)を開拓したことは確実で、この4-5代の間に水野、志談、那古屋、門真、岡田、大田、師桑、立木田などを支流として、三河には宮地、賀茂などが派生しているらしい。勿論 長田のままもあるはずです。
 門真、水野は確信してますが、他は手掛りを探している最中です。
平治の乱の後、忠致は壱岐(今、長田を名乗る人が市長をしてます)に次男を派遣し、自身は豊田市司町(上挙母駅近く)に館を構え高橋庄、猿投等の開拓をしていました。猿投の陶工が知多に移住し常滑焼を始めた時期と一致します。 
 当家が長男親致を主張する理由は上皇に召集された事を根拠にしています。
 
  >「小牧市南外山字長田」の読みは
       「チョウダ」で、由来は様々な形の田があったのだろう
 田原の故永田一夫氏の調べでは、吉良町に長田(ちょうだ)という
 おさだの土地があり、古塚要氏によれば、今の丁田(ちょうだ)と一致するそうです。  地名は変わります、特に合併等があれば、消滅の危機もあります。
       時間が掛かるがゆっくり行きましょう(間違うよりも良い)
   参考になれば幸いです   
[54]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月11日 23時46分58秒 ) パスワード

先日地図を見てましたら「箱柳」を見つけましたよ。
[55]箱柳永田さんからのコメント(2006年05月12日 01時30分21秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん

ありがとうございます 
  箱柳について  
 昔は 白楊とか 筥柳 と書いたようですが今はこれです。
 延喜式で 税金(調)を柳行李(やなぎごうり)で収めていましたので、
 箱柳に成ったということです。 
  約三百石の地で伊賀川の源流、山間の典型的な街村 約70軒です。
 
  家祖の領地ですので、ここに四百年墓守をしてます。
 家業 武士を継いだ姫路が本家なのか、
 家業 開拓で活躍した知立が本家なのか、確実なことは長田が本家です。
 一向一揆で信濃大町に四男が落ち延び一緒についていった郎党が明治に
 箱柳(日本で一軒しかないらしい)を名乗っています。 
  中根の本拠もここで、明治から中根を名字とした家は7軒(傍系子孫含む) 
 千石で約25人が普通ですから三百石で7人ぴったりです。
 (今は分家で倍以上になってます)
 希望者はもっと多かったらしいが、うちが許さなかったらしい。
     
 追伸 元会津藩 野辺地(斗南藩)砲術永田流の子孫の方を探しています
  連絡をお願いします  私信 失礼しました 
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月12日 02時32分45秒 ) パスワード

>一向一揆で信濃大町に四男が落ち延び一緒についていった郎党が明治に
>箱柳(日本で一軒しかないらしい)を名乗っています。 

そうしますと「箱柳家」が子孫繁栄に勤め
いつの間にか「うちは箱柳の豪族だった」と言い出して主家を食っても正当化できますね。
だって名字が「箱柳」ですもの。

名乗っちゃったもの勝ち・・・


>元会津藩 野辺地(斗南藩)砲術永田流の子孫の方

会津に戻ってるかも知れませんね。

ロマンが広がりますね。
[57]小牧長田さんからのコメント(2006年05月19日 14時36分22秒 ) パスワード

箱柳永田さま>
お返事遅くなって申し訳ありません。
またいろいろとありがとうございます。
仰るとおりゆっくりと調べたりしていきたいと思います。
親戚との会話のネタにもなりますし。

そのうち何か分かればまた来ます〜
[58]箱柳永田さんからのコメント(2006年05月22日 23時58分06秒 ) パスワード

 小牧長田さんへ

 私共は正真正銘 俗に言う 尾張平氏です 
 忠致の兄 親致を祖としておりますので あえて 三河平氏を唱えています
 
 小牧には 間々新田(まましんでん) という 門真を連想させる地があり 

 余裕ができたら調べてみたい所の一つです。
[59]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年05月23日 21時23分43秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

箱柳永田さんへ
 
河内国茨田郡門真庄の現地名として門真市が存在するが、
尾張には庄園が5ケ所も存在する。
中島郡門真庄
葉栗郡上門真庄(長講堂領)
海部郡下門真庄(新熊野社領)
葉栗郡東門真庄
葉栗郡西門真庄……地頭は二階堂氏

桓武平氏良兼流の門真致俊は葉栗郡門真庄発祥。
室町幕臣の門真氏も後裔と思われ、三河守を称することから三河移住を裏付ける。
上古まで遡れば大和・河内を本拠とする尾張氏の移住により尾張の地名遷移があった如く河内・尾張の門真庄は同族居住地を暗示する。
 
信濃の箱柳氏は、三河国額田郡箱柳邑発祥と思われる。
[60]箱柳永田さんからのコメント(2006年06月17日 21時53分05秒 ) パスワード

   寺院建立の理由について
 前回は 平康頼とか阿波民武等による建立を半分否定しましたが、
 なぜ彼らを表に出さなければならなかったかを考えて見ます。
 
 平治の乱の後、清盛に対し不平不満はより大きくなり、この時期彼ら若しくは使者が野間に尋ねてきていた事は、本当であったと思われる。
 勿論、反清盛連合作りの根回しで、対象は隠棲している親致で、
忠致は板ばさみの苦しい立場であったろうと思われる。
 清盛側についていて、彼らの訪問(謀反の打ち合わせ)による嫌疑を避けるために、寺院の建立の為と体裁を整え、建てたと思います。

 寺院は会合の目的を偽装する為に建てられ、施主の名は忠致ではなくなる。
  
 さて、なぜ神社でないのか疑問に思った事はないですか?。
 この当時の常識では、恨み、未練を残す人には、祟る事を恐れて、神社に祭る    のが普通です。
 私は(長田白赤も)寺院であるのは、謀略による殺害を否定する証拠と
 考えています。(義朝は祟る事を考慮に入れなくてよい死に方をした)
 
 逆に忠致は(実際は親致)後太平記で後醍醐、楠木等と化け物として
 登場します所を見ると、彼らには恨みがあった。
 
 東鑑では戦死している忠致を某日記(大分後で書かれている)では、青墓で親の敵として忠致(親致)を処刑している(この様な非常に名誉な事が載っていない東鑑は信用度が落ちるのか)源氏による、一部を偽った日記を利用した、事実の歪曲と見られます。
  
[61]長田 廣久さんからのコメント(2006年10月19日 00時19分45秒 ) パスワード

興味深く読ませていただきました。
[62]箱柳永田さんからのコメント(2006年10月19日 19時10分40秒 ) パスワード

 
 長田 廣久さん 
  ありがとうございます つたない知識で 間違っていそうなところは
 指摘してください 
 元ネタは 碧南市図書館にあります 

  
 こちらはお役に立つと思います  (身内に勧めているホームページです)

  ホームページ   トボトボ歩く碧南市 

  で検索をかけてください 
 碧南の ヘボトさんが書いています
 膨大な量と質をかねた 碧南の紹介 です
    これだけで碧南の達人?になれそうなほど詳しいです

 長田に直接関係するのは
 おばば様 熊野大神社 宝珠寺 八柱神社 小さな橋
  大浜上の熊野神社です  の項目です
 
作者の語り口が良いので 祭り等を(出来たら全部)お読み下さい

 私どもは おばば様の弟(こぶ付きで嫁に入った)から始まる家で  
酒井家治が長田家次になり 後に永田家次になり分家します

 相手は大橋家より 養子の  広正です (両貰い)

 余談 先日埼玉の土屋を訪ねました、
  家紋と 厚かましくも 系図を確かめる目的で、
  事前に知りえた事は
  三河鴛鴨の出身で 伊奈の配下  開拓の専門家  
 これで 8割がた身内と思い出掛けました 
  
 結果 家紋の一致 親の名が私らの3代目と同じ 母の出身鈴木氏の一致
  世代の矛盾 無し 
 酒井将監忠尚(忠次の兄弟)が一揆の時まで鴛鴨一帯で農地開発をしていた      等 間違いない事を確認しました

   残念ながら捜している 家次の武功記は伝わってなかった 

      私事が多くすみません   箱柳永田
 
    
[63]箱柳永田さんからのコメント(2007年01月15日 17時37分54秒 ) パスワード

長田の家には、南北朝の頃、長田刑部介と長田権太夫が足助町の香嵐渓の上流約10キロ東の山の中で(金蔵連)、金を掘っていたと言う伝承があります、 近くには墓らしい石塔があり長田塚(ミソ塚)といわれ、たたると噂があります。(豊田市図書館 )
ホボ中間にある綾渡集落。ここには、後醍醐天皇の第3子?が隠棲したと伝えられている平勝寺があります。
 東海自然歩道の道中記 22.寧比曽岳から金蔵連峠・綾渡を経て香嵐渓まで
 http://www.02.246.ne.jp/~susumu/toukai/nebiso.htm
  松澤進氏を参照

この峠は、この近くで金が産出されたことから名付けられたものです。武田信玄の三河進攻のおりに、この峠の下にある金蔵連という集落で金山を発見し、石臼ですりつぶして製錬したとのことです。

私は、こんな地名のところに 金など出るわけが無い(高価に売れる薬草でも採取していた)と認識していました、皆が隠しておきたい金山を誰でも、有るかも知れないと想像できる、金蔵連は不自然な地名と思っていました。
 それに、行軍に鉱山用の石臼は重くて無用の長物ですので、先人の使用した臼が放置されていたと考えるのが、納得のいく解答で、金は本当に有って、
伝承は正しかった事になります。
 浪合記に松平(足助から約10キロ南西)の長者が金を持ってくる場面の金の出所が、金蔵連である可能性が非常に高いと思われます。
 松平は山間の集落で長者が存在できるほどの耕作地は無く、不思議に思っていた一つが、解けたような気がします。
    
[64]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月15日 23時21分54秒 ) パスワード

そうしますと尾張の長田氏は南朝方だったのですか。
重ね重ね御縁があるんですねえ。


服部家も猿投だか、あっちの方に(笑 土地鑑無し)伊賀の服部家の流れの有力者がいた
と読んだ記憶なので
やっぱり昔の仲間というのは血でもしっかり繋がって共存してたんでしょうね。

さらに松平ですから酒井家とか徳川家とか繋がりますね。
酒井家はかなりの有力者だったようですし。
[65]長田(平野村系)さんからのコメント(2007年01月29日 00時02分52秒 ) パスワード

はじめまして私も長田と申します。山中湖平野村の長田氏の流れです。平野の長田家は山中湖畔という土地柄、戦国時代には駿河と相模の監視役を信玄から任され、賦役も免除されていたそうです。

祖先から代々語り継がれていることに、長田家はどこからか追われて逃亡してきた一族、というのがあります。何か関係があるのでしょうか?

ちなみに家紋は柏でなく丸に竹雀です。といっても伊達家のような格好良いものではなく、太い竹が真ん中にあって、その枝にかわいらしい雀が左右対称に向き合っているものです。近所(郡内)の長田家の方々はみなこの家紋を使っていました。

江戸時代には、やはり長田ではなく安田と名乗っていたそうです。徳川御三卿の田安家から(勝手に?)頂いていたみたいです。祖先の一人が田安家に奉公していたということから来ているようです。

といっても、私の祖父は養子で長田家に入ってきたので、私自身は長田家とは血(遺伝子)はつながっていません。血が絶えそうになって、小林家(裏切り者小山田家の親戚)から引っ張られたようです。祖父もやっぱり神主やって(やらされて?)ました。

因みに曾祖母は、「祖先は武田24将の一人だ」といってましたが、誰かは一切教えてくれませんでした。小山田を口にするのは、やはり憚れたのでしょうか?





[66]箱柳永田さんからのコメント(2007年02月05日 18時41分16秒 ) パスワード

 長田(平野村系)さんへ 
 レスが遅く なりました (すみません)

 山中湖平野村の長田氏は 長田忠致の娘を娶り 
      改名した平野但馬の子孫で間違いないと思います  
  若彦路の戦い(1180治承四年十月十四日)の敗戦より
 落ち延びたと考える事が妥当だと思います 平野長田の紋は確認できません
  
 長田一 著  長田氏の足跡  ( 私も捜してます)
   (多分静岡山梨方面の人 現物は図書館で探すしかない)
 長田白赤 著 平氏長田大河のごとく  
  (忍野村のお○だ荘(家紋蔦柏)に寄贈してあります、碧南図書館にも)
     もし 興味が有りましたら お尋ね下さい 
[67]小牧長田さんからのコメント(2007年02月06日 17時15分06秒 ) パスワード

以前書き込ませていただいた小牧長田です。ご無沙汰しております。

> 長田一 著  長田氏の足跡
静岡市の中央図書館にあるようですね。
http://tosho.city.shizuoka.jp/
の蔵書検索で「長田氏」で検索したところ以下のように出ました。
著者は御殿場の方なのでしょうか。

---
【資料詳細】1 / 1 件目を表示中

書名   :長田氏族の足跡(第1集)
著者名  :長田 一/編
出版者  :御殿場 長田一
出版年  :1986
ページ数等:405P
大きさ  :19CM
予約数 0 所蔵数 1

【所蔵情報】
資料コード 請求記号 本籍 場所 状態 資料区分 禁
101598998 /S288.1 / / 中央 参考 一般 禁

【内容細目】
内容細目はありません

静岡市立図書館トップへ
---

余談ですが以前東名高速を走っていてカーナビに「長田」という地名が
写ってあれっと思ったことがあります。長田図書館とか長田街道とかも
あるみたいですね。
[68]箱柳永田さんからのコメント(2007年02月14日 17時49分16秒 ) パスワード

  小牧長田さん
  貴重な情報をありがとうございます
静岡市の中央図書館に有りましたか 近日中に行きます

 >カーナビに「長田」 
  静岡市西部(川向こう)の地区の事ですね  安部川の西地区は
 長田党により開発が行われています 
  もちろん 長田(ながた)連とか長田造(みやつこ)を名乗る一族が
  古代から開発をしていた地区に 後から参入したのですが、
 (中央政権にパイプがあり 海運を得意とする 標記上区別しにくい両者は   自然に一体化したと思われる)。 

 旧東海道 鞠子(丸子)宿から南へ海岸までの地区で中学校が
  2校在りますから かなりの人が住んでいると思います 

    蛇足 天竜川の西海岸あたりも 長田の開発地です 
   戦乱に巻き込まれると、天竜、安部川へ家財道具を船にのせて避難した    と本屋さんから聞いてます
 
 
[69]長田(平野村系)さんからのコメント(2007年02月15日 20時09分16秒 ) パスワード

箱柳永田さんへ

貴重な情報をありがとうございます。
こうして長田家のルーツを明らかにすることで、虐げられながらも生命を繋いできた、祖先の健気さというか、力強さを感じることができました。

ここ最近、お墓参りには行っていなかったのですが、暖かくなったら早速行ってみたいと思います。


[70]箱柳永田さんからのコメント(2007年04月25日 18時15分40秒 ) パスワード

 
 岡崎 中根に 興味のある方へ

「中根家文書」の下巻が完成し、刊行されました。

上巻は初代忠実から十一代忠易までの家系図や書状、日記などを収録。
 
下巻では八代忠容(ただかた、一七五二−一八三〇)に焦点を当て、
 忠容の藩政改革の史料や日記などを掲載している
下巻はB5判九百七十五ページで、定価は五千円。市美術博物館と市役所文化国際課で販売しているほか、配送の注文も受け付ける。問い合わせは、同館=電0564(28)5000=へ
   以上 中日新聞より 抜粋しました

上巻から10年くらい経ちますでしょうか 図書館 市役所には到着していると思われます 経済史の立場でも十分興味有る内容と聞いております
 是非 お読み下さい    

  追伸 浜松で長田忠致の開拓していた所が浜松市和田町とわかりました
 又 四男の後裔を称する家が 永田を名乗り、袋井市にいた事が判りました
 (その家は 今は大阪在住らしい) 菩提寺を捜して確認してみます
    
[71]永田(豊田)さんからのコメント(2007年06月25日 11時29分45秒 ) パスワード


箱柳永田さま


はじめまして。長田氏について調べてみたらここに辿りつきました。
大変興味深く読ませていただきました。


自分の姓も永田でして、先祖は長田と名乗っていたとは聞いてはいた
のですが、このサイトを読んでから改めて家にあった古い系図を見て
みると、系図の中に「箱柳永田さん」があったのでなんらかの関係が
あるのかなと思いまして書きました。
 その系図は、碧南市役所が市史を編纂するときに、当家の系図を送付
したようで、碧南市役所の礼状とともに追記されていたものに載って
いました。


現在の地(豊田)には、1400年代に当地の領主から八王子神社を建てたときに
社主となったと地域の歴史書にも書いてありました。
大正時代までは社主を続けており、古い修理明細書も家にあります。
祖父の話では、豊田にある長田庄司から来たのだ、と言っていました。


ただ、その明細書の署名や、系図をみると「長田藤右衛門藤原宗継」
とあり、藤原を名乗っていました。家紋も下がり藤です。


突然で質問して失礼しますが、
豊田にある永田家も箱柳永田さんと同系統なんでしょうか?


[72]箱柳永田さんからのコメント(2007年07月02日 18時17分09秒 ) パスワード


私信  永田(豊田)さん

 返事が遅れました すみません

 恐らく 9分9厘 親致系(私と同根)と思われます
  我が家も 多くの文書(系図紹介文)には藤原になってます
 豊田(六兵衛家)は 豊田市司町(6丁目に忠致の屋敷跡と屋敷跡の一部を 永田の墓に使っている) 
      周りの水田は(屋敷の構造を反映した形で残っている)
  長興寺町、宮口町 宮上町等へ開拓が終了すると転居してます
  勿論 残って耕作する家もあるはずですし、分家も増えます  
  江戸時代に一揆の首謀者の一人に祭り上げられた事と、
  一族が多くなった事とで家紋を変える可能性が高いと思っています。 
 
 長田系図では嫁の実家はかなりの家ばかりですので、母系と父系のどちらで
  名乗っても差し支えないと思います(橘は除く)
 差し支え無ければ 直接メールを下さい  nagata@ims.ac.jp
 (貴殿にメールしましたが、配送出来なかった)
  
  皆様 私信で長々済みません 箱柳 永田
[73]永田(豊田)さんからのコメント(2007年07月02日 22時53分38秒 ) パスワード

箱柳永田さま

ご回答ありがとうございました。
私信で申し訳ございませんでした。
[74]長田さんからのコメント(2007年08月04日 01時09分30秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年08月04日 10時26分12秒
[75]箱柳永田さんからのコメント(2007年10月11日 17時40分29秒 ) パスワード

 74長田さん 確認する前に消えていました 差し支えなければ
 再投稿をお願いします 
   
 袋井(忠致4男を名乗る家)に出掛け帰りに浜松の図書館で調べた所、
長田忠致の開発は浜松市和田町、昔の遠州国府(長上郡)一帯である事が判明しました 
 又(長田一 著 長田氏族の足跡) によれば 忠致の孫が鞠子宿から海にかけて開拓し現在の静岡市長田地区になったと有りました。
 開発に携わった多くの長田さん子孫の住所も沢山わかりました。
   歓迎されないかも知れませんが、尋ねてみます。
 
 上記 長田氏族の足跡 を頂きました(長田白赤さん所有の注釈付きです
 私には何よりの贈り物です)
     興味の有る方は連絡下さい 
 
 袋井の永田(茗荷紋)は一族に間違いはないと思いますが、野間(最新でも1180年)以来の持念仏と云うには(袋井 重文 室町代作)新しすぎる
疑問があり 資料館か教育委員会に再調査で一度訪れる予定です
  
[77]長田(豊田)さんからのコメント(2007年10月28日 00時10分30秒 ) パスワード

〈再掲〉

はじめまして
私も長田と言います。
流れ流れて
現在豊田市に住んでおります。

いままで自分の苗字についてあまり興味がなかったのですが
長田と言う苗字はすごいものなのだと
みなさんの書き込みを見て知りました。
また豊田市と長田の関係にも大変興味を持ちました
有名な先生がいらっしゃるみたいで
母親が「関係のかたですか?」と聞かれたこともあったらしく
なるほどそういうことかと思いました。

私のご先祖様は富山県高岡市で商売をしていたそうです。
家紋は一応「丸に三つ柏」です。

詳しく調べたことがないのですが、父親は高岡市には長田姓が多いと
言っていました。

箱柳永田様へ

忠致の居城(豊田古城跡)って長田川という小川のそばですか?
また私のご先祖様は三河の長田氏と関係あるのでしょうか。
ぶしつけで申し訳ありませんが
ご教授願えないでしょうか。宜しくお願い申し上げます。
[78]箱柳永田さんからのコメント(2007年10月29日 18時37分52秒 ) パスワード

 豊田 長田様
 連絡 有難うございます 
家紋が丸に三柏であれば、おおむね、長田党です 又
各家により意匠は変わりますが、平(長田)公雅(忠望)には子息が5人いて
長男 出羽の守 致利─子息国利 この系統は関東に再進出(伊賀伊勢に来なかったかもしれません 平良文の養子と間違われている)しています                  
次男 致成も後で 出羽の守 になってます。 恐らく関東及び東北へ移動したと思われます (この系統も平良文の養子と間違われている)
 
 両家の 勤務先?は出羽の国ですので、秋田から山形あたり(次の叙任地は聞いてません)
国衙や近くの川で開拓していたと思っています。(字 小字が残っていれば幸いです) 
 越後長尾家は 元は桓武平氏ですので、関東から着いていく可能性は非常に高いです(上杉になった後でも採用されます)
長男致利の系統は丸に三柏(柏が細い)と聞いてます。
 山之内の家紋とよく似ている と考えて下さい
(白赤談)山之内は絶対に、長男 出羽の守 致利の系統だよ、出自の詐称は許しても(源氏の迫害を避けるため)
 あの家紋は東海地区(特に尾張美濃)では絶対に使えない代物です。
  と断言してました。
(私の補足) アレで戦場にいたら 後ろの方が怖いが、、、
NHK放送の話が聞きながせるのは 歴史の知識不足以外に何がある、、。
 アノ時代 苗字と家紋に命をかける事が理解できないのか!!、、。
 
公雅三男 致頼(左衛門ですので在近畿)の我が家からはこの辺までしか
確証のある話はできません (あまりお役にたてませんですみません)

>(豊田古城跡)って長田川という小川のそばですか
はい、そのとうりです、豊田市司町6丁目の永田六兵衛さん達のお墓あたりが中心です
名鉄上挙母駅の南 ダイ徳工業?の西の駐車場の 南端で接してます。
 
もう一つ 長田川が矢作川下流(安城あたり)にもあります (念のため)

 長田一族は 親致 忠致兄弟の三代位前から高橋庄の開拓に携わっておりますので、屋敷の所有者は保元の乱までは親致(上皇方で敗退)以後は忠致の管理と見るのが実態かと思います
[79]長田憲二さんからのコメント(2007年11月02日 22時47分36秒 ) パスワード

私の調べた「長田姓」に関しまして (1)
4年前、仕事で中国に行ったとき、いろいろと思いがけない(妙な体験)ことに出会い、そのことがきっかけで自分の名前「長田姓」について調べることになりました。
日本書紀に現れる「狭名田の長田」と云う名前が「長田」の最初のようです。
ニニギノミコトが日本で最初に「水田技術」を伝えた所といわれています。
鹿児島県と宮崎県の県境で、現在、鹿児島県の重要文化財に指定されている所です。狭名田とは「とても珍しく良い田んぼ」という意味です。

神戸の長田神社は神宮皇后が1870年前頃に「この地に長田の神を祀れ」という事で作られた神社です。また、長田神社の神幸祭りの時に唄われる歌に「長田の神、長田の神」と何度も歌われております。
このことからでも「長田」の名前の古さが理解できます。
長田という名前は2000年前に遡る名前のようです。

私は九州人ですが、大分県の宇佐神宮(菅原道真が神託を受けに来た神社)の歴史資料(図書館持ち出し禁止本)のなかに「長田姓」は秦氏の一族であることが記載されていました。昔から国東半島から宇佐周辺はユダヤ大国とも云われています。
私の祖父は大分県国東の真玉町の井ノ口家から北九州の長田家に養子に出た人です。(兵役逃れが目的であったと聞いております。昔の養子縁組は遠戚関係でされるもののようです。)
この井ノ口姓も古い家系のようで、代々名字帯刀を許された庄屋です。
しかも、この地より、遺跡が発掘され、井ノ口遺跡と命名され、遺物の年代測定から2000年前後のものであることが発表(大分県教育委員会)されております。全国の地名(字名)に長田や井ノ口が多数有ります。
因みに井ノ口の地名で最大の所は現在の岐阜県です。岐阜県の県章(マーク)は井ノ口の井をデフォルメしたものです。
井は井戸の井であり、川の井関の井であり、井ノ口というの「は田んぼに水を流す時の口先」の意味です。

鹿島昇というユダヤの歴史書を多数書いている作家がいます。
彼の書の中にごくわずかですが、長田姓のことが書かれていました。
長田姓は「インドのチョーダナプル高原に住んでいた一族である。」とも書かれていました。チョーダが中国語ではチャング ディエン(長田)、日本語では
ながた(長田)とも考えられます。

長田姓を考える時、ユダヤ、秦、天孫降臨、弥生人、徐福、猿田彦、神武東征、水田技術の全国的展開等がキーワードのようです。
[80]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年11月03日 09時28分34秒 ) パスワード

面白いですね。


[81]箱柳永田さんからのコメント(2007年11月06日 18時01分19秒 ) パスワード

 長田憲二さん
  情報有難うございます
http://www.hiruzen.info/know/551.html
蒜山高原 真庭市のHPより   ここに神話の世界が語られています
 
 山越えして日本海に出る方向にももう一つの長田があります
名和氏の先の本拠(伊勢から流されて来た)長田庄があり
後に海の近い 名和庄に移ったとの記述を見た覚えがあります。
 名和一族が使っている帆卦船の家紋は伊勢の時代を偲ぶ物であれば 
長田と関係あるのではないかと調べた事があります。 
それらしい文献は見つかっていません。  
 まだ関係がありそうと疑ってますが、、。

又、長田王の旧所領とかゆかりの地には、長田一族の足跡が見つかったりして興味が拡散し、手に負えなくなっています。
是非にも、続きをお願いします    
[82]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年11月07日 06時34分39秒 ) パスワード

>名和一族が使っている帆卦船の家紋は伊勢の時代を偲ぶ物であれば

名和氏の帆掛船紋は後醍醐天皇からの拝領紋というのがありますが
元があるんですね。
なるほどねえ。 
[83]ときおさんからのコメント(2007年11月07日 21時21分51秒 ) パスワード

箱柳永田様へ

蒜山は遠いですが一応生活圏域で、つい反応しました。県外ですが、名和氏ゆかりの長田も一度車で通過したことがあります。両方とも山深い所ですが開けていますね。、古い時代から続く集落独特の景観を感じています。私どもの地にも名和氏の子孫が居られますよ。
箱柳永田氏のお話と繋がるのかどうか分かりませんが、蒜山と同じく古代から続く郡の大庭郡内ですが、「長田」が着く土地があります。地図を見ていただけたら分かると思います。蒜山の長田と同じ高速道の「米子道」沿い東側に存在します。一つは「長田山」(北緯35 度7分13.97秒・東経 133度47分44.94秒)です。この山の南南東の狭い谷の出口に小字で「長田」(北緯 35度6分14.62秒東経 133度47分43.1秒)が存在します。5〜6軒の集落です。ほとんどが「永田」姓ですね。
今はロム専の「ときお」より
[84]福岡の長田さんからのコメント(2007年11月12日 03時46分01秒 ) パスワード


私の調べた「長田姓」に関しまして (2)

中国には7回ほど行ったのですが、初回の時に色々と妙な事を体験しました。
その一つは、路上の壁に赤で大きく書かれた「九州」という文字を数回見たことです。

九州人の私としてはなぜ中国に九州という文字があるのか通訳者の中国人(友人)に尋ねたところ、「古代の中国全土を九州という」といっておりました。帰国後、気になり日本における中国の語源をネットで調べてところ、明確な根拠が見当たりませんでした。(どうも相当古くから九州という単語はあったようです。)

この事がきっかけで自分(長田)探しをする事になったのですが・・・。

するとまた、妙なことが次々と判ってきました。
猿田楽という言葉がありますが、これは「水田の稲作」つくりをする時にその労を慰めるために行われる歌踊りですが、何故、サル(猿)田楽というのでしょうか?田んぼ作りをする時の歌踊りであれば、サク(作)田楽の方が相応しい名称と思うのですが・・。
そして猿田彦も本当は作田彦ではないかと。
武力だけで各地を制圧して、九州から和歌山まで上ったのではなく、食料作り、(稲作)を教えながら、北上したのではないかと。そして多くの土民に慕われ神として崇められたと。

この事に気が付いたのは、ユダヤ関係書を多数出した鹿島昇氏の(望郷の書)に記載されていた一文のホツマツタエ(古文書)の中に「我は伊勢の祖、長田作田彦である。」というが書かれているということからです。

伊勢の第一宮として椿神社(椿は古くは津波伎が正当のようです。)が祀られており、その主神は猿田彦となっており、伊勢神宮よりも位の高い神社となっております。津波伎とは中国ではお茶の木のことであるとか。(椿の木が沢山あるから椿神社の名称になっているのは後付けのようです。)

九州ではお茶の名産地は八女茶ですが、和歌山の静岡茶も全国的に有名です。
日本へのお茶の伝播は中国からです。

決して中国かぶれをしてこのような方向に考えを偏向しているわけではないのですが・・・。
そもそも、「天孫降臨と弥生人の移入」を考えるとあまりに不自然すぎる事が多数有りすぎます。
世界の歴史と日本史を並べ、年代における建造物、社会状況、思想などを比較するとおのずと大陸の影響がいかほどであったかと思わずにおられません。

福永光司(東大名誉教授、京都大学学長 歴任、故人)という方の書に「天皇と道教」があります。この方は第二次世界大戦の後処理のため中国沿岸地域を回っている時に、あまりに生活習慣などがご自分の地域(大分県中津)と似ている事が多いため、何かおかしいと感じて帰国後、調査をしているうちにその原因が「道教」にある事に気づき、研究し、日本の道教の第一人者になられた方です。

そして、天皇の各種儀式は道教であると。そしてその下に神道があると。
本には書いてありませんが、私は以下のように感じました。
ユダヤ教の下にキリスト教があるようなものであると。
旧約聖書のもとに新約聖書ありと。

中国では徐福が実在の人物である事が数年前、確認されております。
この事が古代日本に極めて重大な意味を持っていると思います。
なぜならば、徐福は当時中国における道教の第一人者でもあったからです。

大陸から渡ってきた一団はその地を、故国にになぞらえ、九州と言ったのではないでしょうか。






[85]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年11月12日 13時31分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

福岡の長田さんへ
 
猿田彦神の猿はセミチック・バビロニア語のサル(Sar)で王の意味。
同系のヘブライ語のサルは貴族、ダは助辞で、サルダは王の意味。
琉球古語のサダル(先に行くことで天孫降臨の先導?)が措置法でサルダになったとも言われている。猿田彦神は先導する神の意味と解釈されている。
《典拠:バビロニア学会・スメル学会共著「天孫民族六千年史の研究」》
 
徐福渡来について、台湾に伝わる伝承では「天照大神は徐福に連れられて琉球に渡った秦の始皇帝の三女である」というにわかには信じられない話もある。
 
上古史濃霧状態の解明ご関心があれば、下記頁もご参照下さい。
「日本の苗字七千傑」Q&AのQ42.闕史八代の天皇は架空か?
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#042
[86]福岡の長田さんからのコメント(2007年11月14日 04時45分44秒 ) パスワード

私の調べた「長田姓」に関しまして (2)−続

中国では徐福の実在を確認し、徐福=神武 と考えているそうです。
私は 徐福=猿田彦 ではと考えるのですが・・。

徐福が「五穀百工」と共に九州に渡り、九州を制圧し、東上。(富士山目指し)
漢に滅ぼされた秦の一族が大陸経由(朝鮮半島経由)で北九州に渡ってくるときに元臣下であった徐福が猿田彦として登場し、高千穂まで案内し、自らはまた、伊勢に戻った。(相当、大まかですが、私の身辺にある妙な事柄や、直感的でこのように思えるのですが・・。)

あまりこのような突拍子もない事をネットでカキコすると反論者が多数現れそうですが・・・。



[87]箱柳永田さんからのコメント(2007年11月16日 17時45分32秒 ) パスワード

 福岡の長田さんへ

>あまりこのような突拍子もない事をネットでカキコすると反論者が多数現れそうですが・・・。
 此処に来ている人の多くは、学校教育(大学院も含む)での歴史に
違和感を持ち色々試行錯誤の後、たどり着いたと思っています。
(思い込みかも知れませんが) 
勝者がそのつど都合よく書き換えた話と、民話、伝承との違いの間に事実の
手がかりがあると思っています。 
 平家の落ち武者であると言えば、百人が百人、壇ノ浦と思ってしまいます
事実は如何でしょう、大浜長田は保元の乱の落ち武者で、壇ノ浦では勝ち組
(義経の軍で活躍)に入っても、策謀でその名さえ、名乗れなくなります。
大浜を名乗り、後は南朝方で、長田、大浜以外の偽名で参入しています。
 同じく、平野長田系は富士北麓の戦いで負け(忠致親子敗死)
 次に富士川の戦いに参戦(忠致の孫が参加)した可能性がありますが、
いずれにしても山中湖畔に落ち延び、今日に続きます。
忠致の孫は鞠子宿の南方に落ち延び旧長田村に相当する安部川西岸の
 開拓を続け現在は川の東側に在住しています。
他の戦いでも平氏!の落ち武者は存在すると思います。
  何処の戦いで負けたのか考えてないのが、盲点だと思います。
 与太話に近いものでも(重大な糸口になる可能性が大きい)、
私個人としては大歓迎します
[88]箱柳永田さんからのコメント(2007年11月27日 19時20分05秒 ) パスワード

暇さんへ mino阿弥さんへ

 名和氏以外で帆掛け船の紋の使用が見つかりました
『羽継原合戦記』は、別名『長倉追罰記』ともよばれ、永亨七年足利幕府が長倉遠江守を追罰した戦記物だが、そこに全国諸豪が勢ぞろいした、そのときの陣幕の紋が列挙されている。 
その中に 熱田大宮司が<帆掛け舟> がありました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/buke_km/bk_hatug.html より

又  他にも
 永楽の銭は三河国水野か紋   
<私の記憶では水野の戦旗が永楽銭です
この時期はオモダカ紋でなくこの紋を使用しているのか 
この時代戦旗と家紋が区別してないのか
 私に知識が無いので   もう少し本を読もうと思います 
   

>一次史料であっても誤りがあり、全体的な背景を考えなければ
正確な史料として使えないと思います。
 誠にそのとうりです。
が 発見者は理由も無く正しい(無知、思い込みを含む)のであって
功名心の為、興奮の為、周りが見えないのです(浮世の義理を含む)

 例として、楠木さんが何故00党と呼ばれたか、を採り上げます。
  大体のあらすじ
後醍醐さんの莫大な寄付で運営していた寺が、後醍醐さんが危機になり助けを求めた時、つれない返事をしたのです。危機を脱出した後 
家来の楠木さん達に、
 一寸懲らしめて来いと命令したのです。
命令された人は、寺の日記に00党と記録されました。 
責められるのは坊主ですか、後醍醐さんですか、他に誰かいますか?
  
見つけた学者は 日記に書いてあるからこの人は00党だと発表しました。
 いまだに、新発見や、新たな見解がでても、
日記にあるから、、、正しい!世間の多数の人が(その様に学校で教えられて)たぶん見方してくれるから、、 正しい!  
 で  いまだに訂正されてない。 
 責められるのは坊主ですか、後醍醐さんですか、それとも学者さんですか?
[90]福岡の長田さんからのコメント(2007年12月03日 04時39分30秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん
箱柳永田さんへ

>大陸から渡ってきた一団はその地を、故国にになぞらえ、九州と言ったのでは ないでしょうか。

私の特に根拠の無い推論でしたが、検索で「九州 語源」クリックすると古田学説というものがありました。語源の経緯はほぼ同じような物でした。

さて、地名(大字、小字、字などの次に来る地名)というものは2000年来、変わるものではないという事が言われております。
日本最古の水田跡地といわれている「狭名田の長田(おさだ)」がありますが、
ほぼ同じような地域には長田峡(ながた)という水流があります。(鹿児島市駅前にも長田町があります。)このことを考えるとどちらも同じ一族の系流なのでしょう。
しかし、九州を出発した神功皇后は神戸(港)に立ち寄った時には「ここに長田(ながた)を祀れ」といい「長田をながた」と言葉に発して長田(ながた)神社が造られたことは特筆すべきことと思います。

自分の姓、長田探しをするきっかけになったのは、5年ほど前、中国をはじめて訪れた時の妙な体験等をしてからですが・・・・。

滞在期間10日ほどですが、帰国便待ちで丸2日あいたため、現地の通訳女性から青島の観光案内をされました。
そして、昼食の時に、労山登りが提案され他のですが、すでに彼女の方は登山シューズで軽装。彼女28歳、私は50歳ビジネスシューズ。)

中腹までは車。そこから徒歩で山頂までの途中、連れの友人(男性、34歳)は、「足に魚の目があるのでこれ以上は無理と断念」私もそれなら一緒に止めようとしたのですが、彼女が「この山の山頂には池があり、そこには世界に一種類しかいない魚がいるのでぜひ見せたい・・・。」仕方なく登りました。しかも休むことなく一気に登ったので大変にしんどかったです。(若い頃、槍から西穂経由、軽井沢を一度だけ経験したことがあります。4人のメンバーで休み休み登るので楽なものでしたが・・・。)

山頂には池は無く、周囲360度が岩だらけの変わった地形の山頂でした。
彼女、「アレー池の水が無い。」魚はいませんよの意?「ハアーハアー、ハアーハアー」言っている私に「長田さん、この景色を見て何を感じますか。」

突き出ている岩が男根に見えたのですが、まさかそのようなことは言えないので「何も感じない」と答えると、彼女は遠くを指差し、「あれが見えまか?」
遠くの岩山の山頂(突端)に黒い人工的な建築物が見えました。
彼女がそれに手を合わせるので私も真似て手を合わせると、何故か神妙になり背中にゾクゾク感。彼女いわく「これを本当は見せたかった」のだと。
そして、「今日は良い夢が見える」「帰りましょう」といい下山しました。

車からの下山途中、小太りだが、白くて長いあごひげの老人と若い連れ人の二人連れが車を使わずに下山しているのが車中より(後方に)見えました。
まるで仙人と従者ように・・・・。

翌日、目覚める前、夢を見ました。夢を見ていることが自覚できる夢でした。
今、眼を開けるともう少しで見えかけている夢の中の文字が見えなくなるのでそれが見えるまで眼を開けず、我慢しようとしたのですが、どうしても明確には見えなかったので仕方なく眼を開きました。(それでも文字が何であるかは判りました。)
目覚めて夢の内容に愕然とし、ショックを受けたので、とりあえず、覚えていることをホテルのメモ用紙に記録しました。

帰国4日後、母親の家で中国の四方山話をしている時に、足腰の筋肉痛のないことに初めて気がついたのです。その後、数日たちましたが全く足腰に筋肉痛が発生しませんでした。
50歳の人間があれほどしんどい山登りをして全くの痛みが発生しないということは信じられません。
(後で知ったことですが、労山は道教の神仙思想の発祥の地であるとか。)

地球世界にはパワースポットという所が有って、労山はそのような所では・・?
ということを最近知りました。

帰国後の生活では正夢を見ることがありました(初めて)。妙なこと、不思議なことを体験したので、パソコン等で調べているうちに自分探しにつながったという次第です。

秦を語らずして日本の歴史はありえず、しかしながら秦を歴史上で語ることは「日本のアイデンティティー」からして時の為政者としては取り上げるわけにはいかず。ということで徐福関連も歴史上では出てこない。ということでしょう。

徐福と神武に関して下記に面白い内容が乗っております。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/kamikura.htm


[91]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年12月03日 09時43分14秒 ) パスワード

徐福=神武天皇説

面白いですね。

[92]Guess_whoさんからのコメント(2007年12月13日 21時14分11秒 ) パスワード

私が口はさむと、よく怒られる事があるが怒らないでくださいよ。

九州は向こうの国の「九州」の支配が来たわけでなく、「九」つまり「永久の国」の「久」にちなんで向こうの国で「九州」という言葉が積極的に使われていた。

言葉の慣習?制度やらをそのまま日本へもってきたものだから、日本の「九州」もそれを受け継いだものと考える。日本でも「永久の国」への願望?があった。これは、言葉・文字から社会制度から何から向こうの国から輸入したものだからでは。古田学説も、そのような理解の仕方だったのでは?
[93]中村さんからのコメント(2007年12月21日 22時28分02秒 ) パスワード

はじめまして。
中村と申します。
うちの先祖も長田を名乗っております。
祖父母が離婚したので庄屋だった祖母の中村を名乗ることになったみたいです。
父の話によると、ご先祖様は旗本だったようで、江戸にいたらしいのですが、幕末に山流しで甲府勤番、明治維新の後、商人になったようです。
うちはどの長田なんでしょうか?
[94]箱柳永田さんからのコメント(2007年12月25日 12時57分03秒 ) パスワード

 はじめまして 中村さん 
  
江戸期の旗本 長田家は十数家存在し、その中で甲府勤番は2軒が相当します
 藤十郎正善4百石 十郎左衛門吉澄2百石 の2軒です
 両家とも三河大浜の支流で家紋は柏(並び柏 違い柏 三柏)のはずです
柏紋の種類までは特定できませんでした。
 文政8年 大浜下の宮 熊野大神社への寄進帳が出典です、
明治維新は、約50年後ですので、転勤?している可能性はあります。

 

[95]福岡さんからのコメント(2007年12月28日 09時51分10秒 ) パスワード

Guess_whoさんへ
<「永久の国」の「久」にちなんで向こうの国で「九州」・・・・

「常世の国」という言葉であれば、記紀などでも見かけるのですが・・。

「常世の国」と「永久の国」は同じ意味と思いますが、「永久の国」のキーワード検索してもあまり出てきません。(パレスチナ国歌にあるようですが・・。)

九州の語源としては、何故かもう少し説得力が無いように見受けられます。


 
[96]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年12月28日 18時27分31秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

福岡さん、Guess_whoさんへ
 
中国大陸における呼称が流用されたのは事実だが、久州などとは古田学説と同じヨタ話です。
九州とは、中国、禹の時の九つの地域。(書経禹貢)
本邦では、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九国。
 
常世国とは決して架空の国でもなく燕国の別称で、新撰姓氏録記載の常世連は燕国王公孫淵の末裔。
常世氏の旧姓は赤染氏で天平勝宝2年に常世連賜姓、のちに常世広足の系は赤染に復姓、平兼盛の娘は赤染時用の養女となり赤染衛門を称して大江匡衡に嫁いだことは有名である。
古事記などで燕、新羅でなく常世、海原などのぼやけた表現を使うのは、神武即位を紀元前660年にした矛盾を覆い隠す為である。
[97]Guess_whoさんからのコメント(2007年12月29日 14時01分19秒 ) パスワード

いやはや、私論の与太話、失礼しました。さすが、七千傑さん。これからもよろしくお願いします。いろいろ読ませてもらってます。福岡さんにも失礼。

やはり私論だが、神武さんは、もし実在されるなら平家の御先祖さん?もちろんこちらも。
[98]Guess_whoさんからのコメント(2007年12月31日 14時15分29秒 ) パスワード

再度失礼。

九州は筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九国から「九」が来るのは把握しているのだが、古来から算法十進法での「奇数」が、いわゆるサムライ達に好まれるよう?なのだが、そのあたり詳しいかたおられたらコメントお願いしてもいいですかね。

例えば五七五調だとか、七五三だとか、更に古くは、邪馬台国卑弥呼の時代、卑弥呼が亡くなり男王がたつも、国は乱れ、治まらず、数え年13の壱与?の女王で混乱が収まったという『魏志倭人伝』(略記)の記述。13は関係ある?

『九州」という名前自体は邪馬台国の時代よりも、ずっと後の事だと思うのだが、、、、、、。

もちろん邪馬台国といっても関西説が存在する事も十分考慮に入ります。
[99]Guess_whoさんからのコメント(2007年12月31日 14時31分00秒 ) パスワード

いわゆる「聖数」というものなんだが、例えば、この
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309224596
本とか。
[100]Guess_whoさんからのコメント(2007年12月31日 19時47分47秒 ) パスワード

説明が足りないと読んでるかたに迷惑かけるので、もう少し説明させてください。

例えば、最近、発掘され話題となった694年(持統8)飛鳥から遷都された藤原京の大極殿跡。

大極殿跡に九枚の古銭が何かの祭祀用に置かれてたものが見つかったと話題になったのだが、そこでもやはり、ひとケタ最大奇数「九」(聖数?)の意味は、日本では「九」は苦労の「苦」の意味合いが強いが、古代の大陸思想由来からの意味合いでは九は「久」だと説明されてられる研究者のかたがおられた。ただし、藤原京の時代と「九州」という語の成立時期、引用過程もさしあたり違いはあるとは考えられるのだが、、。

例えば私論だが、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九国にした?のは、意図的か?という疑問。

だから本来『魏志倭人伝』にもある様に何らかの氏族中心の共同体、例えば末ラ国(松浦国、肥前)といった国々があり、大小相違群雄割拠して九州を形成していたものが、大陸思想由来の「聖数」に基ずく「九(久)」に意図的にまとめられたもの?とヨタった?訳。
[101]Guess_whoさんからのコメント(2007年12月31日 20時12分56秒 ) パスワード

「九」はアラビックではもちろん「9」。

当然「聖数」というからには関係するのは易学や西洋占星術とも関係する「数秘術」。

「数秘術」の創始者は「ピタゴラスの定理」でも有名な「ピタゴラス」。後に続くのは「プラトン」。

理数系関係のかたならよく御存知だと思うが、「ピタゴラスの定理」は、理論的に、かなり奥深い。つきつめると「一般相対性論」まで繋がる。
[102]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年12月31日 22時45分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

Guess_whoさんへ
 
ヨタ学者のヨタ本の読み過ぎですよ。
「准南子」では、九天のもと、九九九九隅の中に九野、九州、九山、九塞、九薮がある九地が拡がっている。
中国で最高の数は九で、魔法陣が根源でやがて九星気学に発展している。
中国歴代王朝における帝都設計も九星気学応用で、帝王の居所が五黄土星であり、北西が六白金星、北が一白水星、北東が八白土星、西が七赤金星、東が三碧木星、南西が二黒土星、南が九紫火星、南東が四緑木星で、北東(鬼門)と南西(裏鬼門)を呪術的措置を施しており、帝王の座の黄色が好まれる。
北側は全て白であり、北方の蛮族にやられることが多く漢土に敗北(白旗)はあっても敗南という言葉な無く、万里長城に見る防衛本能が身にしみついている。
麻雀もやはりこれを応用したゲームなのである。
日本にもこの思想が伝わり、皇都や幕府所在地の都城設計に生かされている。
しかし日本では坂東八平氏などむしろ八が縁起が良く使われる。
九では、九清華、鎮西九党などが知られる。
鎮西は漢土帰化族が多い地域なので九が好まれただけなのである。
決して久などの語呂合わせを狙ったものではない。
[103]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年01月01日 10時02分49秒 ) パスワード

レスが100を超えました。
重くなってバランスが悪くなり管理人さんが大変でしょうから
キリの良いところで「三河平氏  その2」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101021.html
を御用意致しました。


続きはあちらで。
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