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 投稿番号:100594 投稿日:2003年12月09日 10時29分12秒  パスワード
 お名前:皇竹
資盛の謎
キーワード:平資盛
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

三重県には平資盛に関する伝承が残されている。
関町史によれば、摂政基房とトラブルを起こしたカドで
関・九我荘へ流された(平家物語・殿下乗合)。
後に罪を許され都へ戻ったが、
その間に一子盛国を儲けた。
そしてその子実忠が関氏の祖とされ、
代々子孫を継いでいる。
果たしてそうなのであろうか。
摂政基房とトラブルを起こしたのは、
平家物語(殿下乗合)によれば嘉応二年(1170)10月16日、
「玉葉」「百練抄」は嘉応二年7月3日、
「保暦間記」は嘉応元年10月12日である。
私は「玉葉」の嘉応二年7月3日が妥当だと思うが、
伊勢国への流刑については「玉葉」には触れられていない。
平家物語(高野本、長門本、竜谷大本、流布本)
は「しばらく伊勢国へ追い下さる」とある。
延慶本は未だ未確認。
「源平盛衰記」もお供の侍に対して「勘当」といっているのであって、
資盛の流刑については触れられていない。

仮に、伊勢国へ流されたとして、
町史のいうように安元元年(1175)に罪を許され都へ戻ったとすれば、
乗合事件の時13歳であれば18歳、
その間に子は出来た可能性は大である。

いや罪を許されたのは嘉応3年(1171)だいう説もある。
理由は「公卿補任」に嘉応3年4月7日に重任、年15、とあるからで、
重任とは越前守に再任されたのであろうか。
「公卿補任」に出ていれば信憑性はある。信じたい。
(しかし残念ながら私はまだ「公卿補任」をこの目で確認はしていない。)
でも年15では年齢が合わない。
合わせようとすると、殿下乗合を1年前の「保暦間記」にある
嘉応元年10月12日としなければならない。
平家物語・殿下乗合の記事の中に、
高倉天皇の元服式をやる話や、その効で摂政基房が太政大臣に
昇格する話が出てくるが、それらを勘案すると
殿下乗合は嘉応二年の出来事に間違いないと思われる。

大体、資盛の生年月日も1158年だ、
いや1161年だとニ説ありはっきりしない。
1158年だと維盛と同年になってしまう。
ま、それも同腹でないから1日資盛が遅ければ大勢に影響はないが。
1161年とすれば殿下乗合は10歳、
1171年、罪を許され都へ帰ったとすれば関に在住したのは1年。
日本男子の子を成す最年少記録は何歳か知らぬが、
資盛と言えどもこの年齢ではチョット無理だろう。

そうすると関に伝わる資盛の伝承は眉唾なのか。
それとも他の伊勢平氏に繋がる系党から資盛伝説に結びつけられたのか。

ああ〜、だんだん頭が混乱してきた。
諸兄姉のお知恵をお借りしたい。






[1]布袋竹さんからのコメント(2003年12月09日 11時39分40秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさんだと、「昔の人はあちこちに子供をこしらえたものだから・・」
なんて返答がありそうですね。
15歳くらいなら、今でも充分、子をなしえます。70歳でも・・
でも、10歳ではどうでしょうね。事細かに調べていけば
どこかが違っているのでしょうが・・活字がない時代は読みづらい文字数字も
あっただろうし、勘違い・書き写しソコねもあったろうし、虫食いなど、
古い年代の調査は難しいものがあるのでしょうね。

私は「資盛」の文字を見ると・南島に落ちていったと伝承されて、すごく
気になる存在の人で、ついドシロートがカキコしてしまいました。
屋島合戦後、薩摩硫黄島やトカラ列島、奄美大島にまでいろんな伝説が
残されているものですので・

資盛は若い頃・平家奢れる頃も、伊勢などに出向いていたのですね。
疑問に答える納得の解答が寄せられることを期待・願います。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月09日 13時07分30秒 ) パスワード
  

昔の人の生年月日は分かりませんね。

私の持ってる資料では維盛が保元2年1157年生まれ、資盛が保元3年1158年生まれとなっています。

でも母の名は資盛の方は出てるのですが維盛の母は書かれていないのです。

謎が謎を呼びます。
[3]皇竹さんからのコメント(2003年12月11日 09時07分43秒 ) パスワード
  

布袋竹さん暇潰しのギャンブラーさん、お手を煩わせました。
資盛は1158年生まれ、で維盛は1157年生まれですと、
一応兄弟の上下関係は保たれているわけですね。
その資料に出ている資盛の母の名を出来れば教えて下さい。

伝承というものはあいまいなもので、
つじつまを合わせようとするのは無理かもしれませんね。

しかしもう一度折を見て、「公卿補任」を確認してきます。
何歳の時、関へ来て何歳まで関にいたか,気になりますので。
越前守が手がかりです。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月11日 09時35分51秒 ) パスワード
  

別のスレッドで書きました平家一族の名簿より:


平資盛(佐盛)

[平重盛次男or長男。母、千田親正姉妹二条院内侍]

保元3年(1158or61)誕生。
嘉応2年(1170)7月、殿下乗合事件。
承安元年(1171)4月、越前守重任。
安元元年(1175)12/8、正五位下。
寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で没
琵琶(妙音院師長に師事)・箏をよくする


清盛のお姉さんが上総の千田親正に嫁いでいるそうなので
重盛の従姉妹あたりが資盛の母なのでしょうね。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月11日 09時48分21秒 ) パスワード
  

皇竹さま
いよいよ謎が謎を呼びます!

上記の別スレッドの平家の人名簿
よくよく見ましたら維盛と資盛がどっちが長男か次男か謎になっていました!


平維盛(たいらのこれもり,惟盛,小松,浄円)
[平重盛長男or次男]乳母子、与三兵衛重景
保元2年(1157or58or59)誕生。仁安2年(1167)2月、従五位下・美濃権守。嘉応2年(1170)12/30、右近衛権少将。承安2年(1172)2/10、兼中宮権亮。承安3年(1173)3月、従四位下。承安4年(1174)11/13、南都大衆が騒動起こし春日祭使を途中で帰洛。安元2年(1176)従四位上。厳島参詣。1月、伊予権介。3/4、後白河法皇の宝算五十の御賀の宴で青海波を舞う(桜梅少将と呼ばれる)。治承2年(1178)12/15、右近衛権少将兼東宮権亮。治承4年(1180)2/21、東宮権亮辞職。10/20、富士川の合戦に敗走。治承5年(1181)3/10墨俣川の合戦で源行家軍に勝利。6/10、右近衛権中将兼蔵人頭。12月、従三位・非参議。養和2年(1182)3月、伊予権守。寿永2年(1183)4/27、燧ヶ城の合戦に勝が、5/11、倶利加羅峠の合戦で敗走。7/25、都落ちの時、妻子を京に残す。寿永3年(1184)3/15、屋島から抜け出す(乳母子与三兵衛重景と他2名のみ?)。熊野詣後、3/28、那智沖で小舟から入水自殺



平資盛(たいらのすけもり,佐盛)
[平重盛次男or長男。母、千田親正姉妹二条院内侍]
保元3年(1158or61)誕生。仁安元年(1166)11/21、従五位下。12月、越前守。仁安4年(1169)1月、従五位上。嘉応2年(1170)7月、殿下乗合事件。承安元年(1171)4月、越前守重任。安元元年(1175)12/8、正五位下。治承2年(1178)12/24、右近衛権少将。治承3年(1179)従四位下。養和元年(1181)10/12、右近衛中将。寿永2年(1183)1/22、蔵人頭・正四位下(頭中将と呼ばれる)。7/3、従三位・非参議(新三位の中将と呼ばれる)。7/25、都落ち。寿永4年(1185)3月、壇ノ浦で没
琵琶(妙音院師長に師事)・箏をよくする
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月11日 10時04分39秒 ) パスワード
  

http://www.aa.alpha-net.ne.jp/space7/history_zinbutu/heian_zinbutu.htm
こういうのもございました:


維盛 1158?〜1184? 小松内大臣平重盛の長男。母は官女。

資盛 1158?〜1185 小松内大臣平重盛の次男。母は下総守藤原親盛の女、二条院内侍。維盛の異母弟。


いよいよ謎に。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月11日 10時12分53秒 ) パスワード
  

維盛の母の懐妊劇も謎になりますね。
ひょっとすると本当の父親は平家より身分の高い人だったのかも。


最近の事件で小学生が大人の女性に次々乱暴して、というのがございましたから
12才や13才というのはパパになる資格充分なのかも。
[9]烏夜啼さんからのコメント(2003年12月11日 15時30分29秒 ) パスワード
  

私は、資盛の母は藤原親方女・少輔掌侍という人だとずっと思っておりました・・・
[10]皇竹さんからのコメント(2003年12月12日 09時07分48秒 ) パスワード
  

え、えっ、どっちが兄?

当方の資料、
資盛の母は下総守藤原親盛女、子に盛綱あり。
また、藤原親方の女、というのもある。

承安元年(1171)4月、越前守重任は
「公卿補任」に確認できず。
これに出るのは従三位以上なのですね。

しかし
(1171)4月、越前守重任は間違いなさそうだし、
辞令を受けてすぐ京へ戻ったか。
彼女が出来、関に引き止められたか。

訂正。
最初の文、「関・九我荘へ流され」の九我は「久我」でした。

[11]皇竹さんからのコメント(2003年12月12日 09時42分45秒 ) パスワード
  

「平家物語」新潮日本古典集成(校注水原一)によれば、
「殿下乗合」の項の校注に
資盛がこの年越前守であったのは事実だが、
年齢はまだ10歳であった(「公卿補任」による)。
と。
これで、1年しか関に滞在していないとなると、
子を成すのは無理ですね。

関の伝承は資盛の流ではなく、
他の伊勢平氏の系統、
例えば、平信兼の流が入り込んできた?
のかも知れない。

[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月12日 10時54分56秒 ) パスワード
  

昔の記録というのは説明が欠けてる部分が多いですからよく分からないですよね。

資盛の母にしても身分を高めるために養女にしてたりしてるのかも。
どっちにしろ一応親戚関係の娘なんでしょうけど。

関の子供にしても
関で知り合った娘を後に呼んで、子をなしたのかも知れませんしね。

それか
関の親戚の男子を養子という事にしたのかも知れませんしね。

結局は遠縁というか平家一族なんでしょうね。平信兼関係というのも可能性として出て来ますね。
「資盛の恋」ということでお話が出来そうでございますね。


織田家が「関の子孫」を名乗ったというのは一体どういう理由があったのでしょうね?
関の孫が越前に逃れたことから、この家を借りて平家を名乗ったのかしら?
織田が神職の家だったら藤原氏を名乗る方が日本的には「得」だと思うのですけどね。
[13]川口 信さんからのコメント(2003年12月12日 11時36分27秒 ) パスワード
  

>承安元年(1171)4月、越前守重任は

 >「公卿補任」に確認できず。

 下記urlは福井県史年表(1151〜1200)のものですが、それによれば、

 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn11.html

 仁安1(1166)年従五位下、平資盛に越前守を任じるとあり。
 承安1年(1171)従五位上平資本に越前守を重任させる[公卿補任]とあります。

 そうなると、五年ほど越前守であったことになりますね。
 
 仁安3(1168)平資盛、昇殿を許さる(兵範記)などとあります。

 また、「尊卑分脈脱漏 平氏」には平資盛:大學少充・母藤以親女とあります。
 大學少充と言えば従七位下から正七位上の間ですが。年代が記載ないのでわかりませんが。
 以上参考までに。
[14]皇竹さんからのコメント(2003年12月14日 12時02分02秒 ) パスワード
  

一日人間ドッグへ入ってきました。
年とともに身体が痛んできます。

暇潰しのギャンブラーさん、川口 信さん。
平家一族の名簿、福井県史年表など有益なURL紹介、
有難うございました。
非常に参考になりました。

「寛政重脩諸家譜」によれば、織田氏の先祖は平資盛とあり、
孫に親真がでてきます。
この親真の母は富田進士三郎基度の子女であることから、
基度は桓武平氏の出であるので、母方の平氏を称した。
と、思われます。

また織田氏系図を見ますと、
忌部宿禰季長−()−()−()−()−()−()−()−親澄−親真
親真は父親澄の織田明神神主を継ぎ、正嘉2(1258)出家、覚性と称した。
()内は省略しています。

織田氏が関氏を称しているのは私の素人考えでは疑問に思います


[15]皇竹さんからのコメント(2003年12月14日 13時08分14秒 ) パスワード
  

佐野本系図(東大資料編纂室)、
尾張国諸家系図(峰松吉氏系図)、
豪埃33(関一族系図)など
を見ると、資盛はいずれも西海入水を28歳としているので、
1158年生まれで、維盛と同年ということになる。

尾張国諸家系図(峰松吉氏系図)は、
資盛の子盛国の母は平信兼女で久我生れ、その子に
実忠、盛綱。で実忠が、関谷を称す。

豪埃33(関一族系図)は
資盛−盛国−実忠(関谷を称す)

佐野本系図(東大資料編纂室)は
平信兼の弟信忠が関出羽守を名乗っている。

いろいろ系図を見比べていると、益々頭が混乱してくる。

関氏はどこかで系図が創作されている。
平信兼の影がチラチラする。
少し頭を冷やして整理してみよう。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月14日 13時24分10秒 ) パスワード
  

皇竹さま
お身体お大事になさってくださいませね。


>織田親真(おだ)
>[父、平資盛]平家敗戦後、近江津田庄に逃れた後、越前丹生郡織田荘の神官織田氏に養われる→織田氏の祖

これも面白いですね。


>資盛の子盛国の母は平信兼女
>平信兼の弟信忠が関出羽守を名乗っている。

こちらの関係の平家一族の娘と恋仲だったのかしら?
[17]さんからのコメント(2003年12月16日 21時17分55秒 ) パスワード
  

初めまして 
こんな話もあるようですが、奄美大島の喜界島では、昔話にも出てくるし、色々残っているみたいですね。
どなたか詳しい方いらっしゃいますか?

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長嶺村は早町村の「クチャバンタ」の上にあり、上島・下島等七里あったが・今では上島の下島家一軒だけになってしまった。泉を中心とした田んぼは平家の落人が隠れ里として開いた上地だといわれており、近くに平家森があって瀬玉港からの敵の来襲に備えた地である。そばには平家落人たちの練兵場跡もある。
壇の浦の合戦に敗れた平資盛以下二百余名の平家残党は建仁二年 (二一〇二)志戸桶村沖名泊に漂着したと伝えられている。絶えず源氏の幻影におびえる資盛主徒は七城や平家森等を構築して防備を固め、さらに、神の加護をも祈願して菅原神社や厳島神社の両社を奉祀し、三年間滞在のあと主力は大島本島へ侵攻したと伝承されている。菅原神社境内に東間切与人「玄知の碑」が建っている。
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[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月17日 01時01分04秒 ) パスワード
  

>菅原神社

なんで菅原神社?と思いましたが
いろいろ謎々風に考えてみると分かって来るような気がします。

西海落ちしてた件や
都から追われた苦しみ・怨みなど天神さまに共通するな、と。

なるほどな〜っと感心してしまいました。
[19]布袋竹さんからのコメント(2003年12月17日 08時44分55秒 ) パスワード
  

紫さま、こんにちは
昔の人は色んな場所にあしあとを残し、子供を作っている様です。
特に、資盛は伝説が多いようです。
このスレッドは戦に負けて落人となる以前の話のようで

奄美大島には、後年建てられた平資盛神社・これは喜界島からやってきた」と。
カケロマの諸鈍シバヤは資盛のはじめたものという、言い伝えも・・
それ以前は、トカラ・その前は三島の硫黄島
この硫黄島からの流れは、壇ノ浦闘いの前に、安徳帝を擁護して
日向灘を南下したと記述しているものもあります。
途中で宇佐あたりにも上陸していて、資盛だけ硫黄島から抜けだし
また、宇佐「大分」あたりに少し潜んでいたこともあったようです。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月17日 09時17分42秒 ) パスワード
  

丹生川

今日NHKを見てたら丹生川沿いの雪景色が写されてました。
今でも緑多い所です。
[21]さんからのコメント(2003年12月18日 13時43分57秒 ) パスワード
  

皆様、色々とありがとうございます。
実は私の祖父は喜界島出身の者でして、民族学者でもありましたので、
興味を持ち、色々と調べておりました。

平清盛との血筋の関係が言い伝えられておりましたので、
平資盛に行き着いた訳です。これはもちろん定かではありませんが…。

安徳帝は宮内庁管轄外の天皇陵が山の上にひっそりあるような…、
話も別筋からお聞きしました。
場所は随分前に聞いた為、忘れてしまいました。今度調べておきます。
[22]皇竹さんからのコメント(2003年12月19日 08時29分45秒 ) パスワード
  

紫さん。始めまして、よろしくお願いします。
祖父さまが民族学者でしたら、
色々と話を聞いておられることでしょう。
書き込みを期待しています。
[23]皇竹さんからのコメント(2004年12月15日 17時03分30秒 ) パスワード

先日、鈴鹿市小岐須町にある資盛創建の寺、桃林寺へ精進料理を食べに行き、
住職さんから、資盛と建礼門院門院右京太夫の話を聞いて参りました。
概略以下の通り。
結論を先に言えば、
勢観房源智は建礼門院右京太夫が生んだ子で、
父親は勿論平資盛だというのである。
(定説は平師盛といわれているが、・・・)

右京太夫は詳しくは分からぬが、久寿元(1154)の生まれで、
貞永元以降80歳になるまで長生きしたらしい。

承安3年(1173)、右京太夫20歳の時、建礼門院中宮徳子に出仕、
安元2年(1176)、資盛との恋に陥る。資盛が指一本触れずに、
        清い交際をしていたとはとても信じられない。
治承元年(1177)、資盛と契りを交わす。
治承2年(1178)、東山山麓に里居する。
定説は資盛との仲が表沙汰になった。母の看病ということになっているが、
実は懐妊していたからだ(長女秘妙と思われる),
次いで次女静妙を産む。
寿永2年(1183)、 平家都落ち、この時資盛は
後述の別れの言葉を残して西海へ去るが、
この時も右京太夫のお腹の中には子供がいた。勢観房源智である。

世間では
@わずか1年で何故、里居したか
Aどうして都落ちに加わらなかったか。
B資盛の死を聞いて死にたいと云いながら、何故死ななかったか(通盛夫人のことも聞いていた)
C何故出家しなかったか(仕えた県礼門院も、母夕霧も出家した)
など云われているが、
@の時は長女を身ごもっていた。Aの時も勢観房源智を懐妊していた。
BCは産んだ子を源氏の探索から隠し、
子供の命を守るため出家することも死ぬことも出来なかったのだ。
こうして世間の疑問には答えることができる。

では都落ちの時、資盛が右京太夫に残した最後の言葉の解釈について
「そのゆゑは 物をあはれとも なにのなごり その人のことなど 
 思ひたち なば 思ふかぎりも およぶまじ」
(前後の文章を省略しているので、分かりづらいかも知れないが)
大方の解釈は抽象的な解釈に終わっているが、

ここでは、
文中の用語について辞書で確認した結果、
次のような意味にとることも可能だとして、
先ず文中の「物」を具体的な人、「なごり」を子孫のこと、「人」をあなた、最愛の人、と読み以下のように訳した。
「そのわけは、子供がいとしいとか、貴女との愛の結晶(お腹の子)や、その貴女のことなどを考え始めたなら、きりがないからです」
これで、資盛との別れのとき、右京太夫はすでに懐妊していたことになる。
以上のことは
平成九年1/7付「中外日報」(仏教関係の新聞)に、
浄土宗西山深草派 吉良潤、稲田順学、稲吉満了、小島英裕、稲田廣演ら五氏の「秘められた勢観房源智の出自」を参照して話をされた。
定説の源智の父は師盛説にたいしての反論です。

7年も前の古い話であるので、その後どのように論争が展開されたのか分かりませんが、一つの問題提起をされていたので紹介したい。

ご意見などなどカキコ期待してます。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月16日 02時38分10秒 ) パスワード

皇竹さま

凄い情報ですねえ。ありがとうございました。
背筋が震えました!


資盛との間に3人も子をなしていた?
ありえますよね。
彼女が健康なら子供は出来たでしょうし生まれたでしょうし。
大恋愛だったんですものね。


>(定説は平師盛といわれているが、・・・)

資盛の名を隠すために、というのはあったでしょうし。
[25]皇竹さんからのコメント(2004年12月17日 09時16分32秒 ) パスワード

小生手元の小学館発行建礼門院右京太夫集、久保田淳氏校注は
「そのわけは、物事をあわれだと感じたり、何の名残が惜しいとか、
誰それのことなどと思いはじめたら、とても際限もないことだろう」
岩波文庫・建礼門院右京太夫集本位田重美氏は
「物事を同情的にみたり、あるいはまた何の名残が惜しいだとかなど
思い始めたなら、とても思うだけでもやりきれないでしょう」
など訳しておられます。

素人が訳者に失礼なことをいってはいけないと思うが、
恋人と最後の別れになるかも知れないとき、
こんな回りくどい抽象的な言い方をするだろうか。



[26]マックの母さんからのコメント(2004年12月17日 10時38分18秒 ) パスワード

皇竹さん、みなさん、こんにちは。

勢観房源智の母が建礼門院右京太夫という根拠は何なのか教えていただけませんか?
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月17日 15時36分47秒 ) パスワード

>素人が訳者に失礼なことをいってはいけないと思うが、

全く同じでございます。
石川啄木ならどんな美しい言葉に訳してくれたのだろう?と期待してしまいます。


久保田淳氏校注や本位田重美氏の現代語訳ではド素人のわたくしには何のことやらさっぱり分からないです。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月17日 16時52分48秒 ) パスワード

「そのゆゑは 物をあはれとも なにのなごり その人のことなど 思ひたちなば 思ふかぎりも およぶまじ」


I can't begin to express our situation.
そのゆえは  →  およぶまじ

わがままを言わないでください、そなた達を残して去る理由を訊きたいだなんて(絶句!) 
人の世は無常であるとは分かってはいるが この身の運命のあまりの激変ぶりに どうしてこのような事が起きたのやら考えもつかないのだ
残してゆくそなた達の事を思いやると 
拙者はあまりの悲しみに とてもとても言葉ではうまく説明したりなど出来やしないのです
分かってくだされ。


などとこのシーンを「想定」しました・・・・お笑いください。
[31]皇竹さんからのコメント(2004年12月17日 18時25分52秒 ) パスワード

マックの母さん様
前述の五氏による研究の中で、勢観房源智の母は右京太夫としている説について、確証はないようです。頂いた資料により以下概略を記述します。

昭和52年、滋賀県甲賀町にある真言宗玉桂寺の阿弥陀如来立像の胎内から46000名に及ぶ
「結縁交名帖」と勢観房源智の願文が発見された。(建暦2年に仏像内に収められた貴重な第一級の資料である)
この源智筆による交名帖から、彼が石清水八幡宮の代々別当であった紀氏や専修念仏の法然と、深い関係にあることが分かった。更にその名簿の中に「秘妙」「静妙」「秘妙房母太夫」の名があり、これらについて種々の研究論文が発表された。
伊藤唯真氏は「浄土宗の成立と展開」の中で、おそらく源智と秘妙は兄妹 (あるいは姉弟)なのであろう。次に書かれた静妙は秘妙と姉妹関係にあると。従って、秘妙房母太夫は源智にとっても母ということになる。(太夫という候名は宮中や公家に仕えた女性だろう)
野村恒道氏は「勢観房源智の親類紀氏について」で、秘妙房母太夫を石清水八幡宮弟30代権別当である成清の娘の一人とされ、葉室光親の側室と推定された。
その他諸説はここでは省略します。
上記研究グループは、紀氏と深い関係のあることからその血族やその周辺より
総合勘案して次のような結論を出した。
これら条件を満たす人物を探した結果、『石清水八幡宮の楽人・大神基政の娘の夕霧と、能書家で「夜鶴庭訓抄」「源氏物語釈」も著者である藤原伊行の間に生まれた娘、建礼門院右京太夫が浮上してきた』と。
国文学会では、右京太夫に子供はなかったとされている。あると分かれば殺されているから右京太夫が男子を持っていても隠していたに違いないからである。
源智父・資盛説は平師盛説よりも、遥かに豊かで説得力のある情報を提供する。我々はこの説を多方面から論証する予定である。
以上。

結論に至る所が分かりづらいところですが、それ以上のことはそれぞれ発表された論文を検証する必要があると思います。
先にも書きましたが、7年も前に出された説です。その後の展開については小生、知る由もありません。どこかでこのことに関係したレポ−ト等あれば発表して欲しいと思ってます。
[32]皇竹さんからのコメント(2004年12月17日 18時31分31秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん
見事な翻訳。
感動致しました。
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年12月18日 01時37分18秒 ) パスワード

皇竹さま

ありがとうございます。
「そのゆゑは 物をあはれとも なにのなごり その人のことなど 思ひたちなば 思ふかぎりも およぶまじ」
この別れのシーン、涙が出ます。


>紀氏

平知盛さまの2男の養い親の家が紀さんですから(乳母の夫が紀さん;つまり有力な家来)
なるほどなあと思いました。
[34]マックの母さんからのコメント(2004年12月18日 14時45分42秒 ) パスワード

皇竹さん、詳細なご説明、ありがとうございます。
手元に資料がないので、なんとも申せません。
週明けにでもまたレスさせててくださいませ。
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