[1] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年11月09日 03時24分55秒 ) | パスワード |
そのお寺は、鬼子母神(うう、「、」のない「鬼」の字が出ない・・・)でも有名な法明寺です。(鬼子母神の住所は多分雑司が谷)
楠木正成の娘の墓とか言われているものは、「姫塚」といいます。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 07時59分12秒 ) | パスワード |
>「、」のない「鬼」の字
「、」のない「鬼」の字については takahiroさまが詳しいです。
この法明寺の姫塚については
http://www.city.toshima.tokyo.jp/town/topics/tg192him.html
に出ていますね。
楠正成息女の墓。
雑司が谷法明寺墓地内にあり「姫塚」と呼ばれている。
法明寺縁起には「楠正成の息女、夫婦共立願あり、高祖の尊像を彩色した」とあり、
墓の側面に、天保9(1838)年2月中沢忠顕建立とあるので、
中沢家の武運長久を祈るため楠女の霊をまつってこの墓を建てたと考えられる。
「和漢三才図絵」「三楠実録」に「楠正成この寺に宿り松樹を植えたり」とある。
中沢家と楠家の関係が分かると良いですね。
南朝方の中沢家に嫁いだ楠の息女が池袋まで下ったという事じゃないですか?
新田義貞の子だか孫だか曾孫だかがどこやらの川で騙し討ちに遭って亡くなってるので
その頃の人かしら?と思いますが。
でも天保時代になんで武運長久?と不思議です。
静岡?には同じく法明寺に大きな楠があって御神木になってるそうで
「法明寺」と「楠」の関係が何なのか興味あるところです。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 08時19分58秒 ) | パスワード |
中沢家というのは諏訪氏の一族で
宗良親王を戴いた新田義興・義宗が信濃国の諏訪氏(滋野氏・香坂氏・仁科氏など)を率いて武蔵国に赴いた
という記事が浪合記に出てるそうです。
また中沢家というのは飯田の?商人としてもなかなかの家だったようですよ。
浪合村とは織田信長が武田勝頼の首を実験した所でもあるそうです。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 09時40分06秒 ) | パスワード |
新田義興は義貞の次男で多摩川の矢口の渡しで謀殺されたそうです。
殺したのは畠山国清の部下の竹沢右京亮。
1358年10月20日。
この辺りの義興の部下に中沢氏がいれば良いのですが。
[5] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年11月09日 11時29分11秒 ) | パスワード |
ギャンブラーさま
ご丁寧にありがとうございます。
雑司が谷のお寺は、皆日蓮宗なのですが、法明寺も日蓮宗です。でも、もとは真言宗だったとか・・・・・・静岡の楠伝説のある法明寺がどこの宗派に属しているのかは私、知らないのですが、なんだか、この静岡のお寺と関係ありそうですね。
私、雑司が谷の法明寺はおもいっきり地元で、毎日のようにその参道を歩いているのですが、なにしろボケーーっとして歩いているので、楠木氏と中沢氏の関係など、考えたこともありませんでした。
新田氏と中沢氏との関係ということを調べてみると、正成女のことなんかも分かってくるかもしれませんね。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 12時20分06秒 ) | パスワード |
烏夜啼さん
静岡の法明寺は行基上人と聖武天皇がらみだそうでちょっと違ってました。
>雑司が谷のお寺は、皆日蓮宗なのですが、法明寺も日蓮宗です。でも、もとは真言宗だったとか・・・・・
これで出て来るのは鎌倉時代の法明上人関係のようですよ。
場所は大阪でしょうか。
【法明寺と雁塚】
(深江南3丁目16番28号 市バス高井田停北西約200m)
法明寺は浄土宗のお寺で、創建は南北朝時代の法明上人にさかのぼる。
上人は、平野の大念仏寺を再興した僧。
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 12時32分39秒 ) | パスワード |
仏教は(も)よく知りませんが
融通念仏宗の「お軸」は
●ご本尊
正面 十一尊天得如来
●お脇掛
右側 大通上人
左側 法明上人
なんだそうです。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 12時35分55秒 ) | パスワード |
真言宗関係の法明上人は?
ちょっと調べてきますね。
私は真言宗も浄土宗もごっちゃでした。
すみません。
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 12時43分17秒 ) | パスワード |
やっぱり私には宗教はこんがらがるばかりです:お軸でいよいよこんがらがります。
真言宗
●ご本尊
正面 大日如来
●お脇掛
右側 弘法大師
左側 不動明王
■天台宗
●ご本尊
正面 阿弥陀如来
●お脇掛
右側 天台大師
左側 伝教大師
■法華宗
●ご本尊
正面 一番奥に妙法の字曼陀羅
その前に三宝尊
その前に日蓮聖人像
●お脇掛
右側 大黒天
左側 鬼子母神
■融通念仏宗
●ご本尊
正面 十一尊天得如来
●お脇掛
右側 大通上人
左側 法明上人
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 12時46分57秒 ) | パスワード |
鬼子母神なら法華宗?
宗教って本当に難しいですねえ。
[11] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年11月09日 21時09分52秒 ) | パスワード |
ギャンブラーさま
またまた色々ありがとうございます。
でも、私には難しすぎますーーーーーっ。なんだか、もうわけが分からないのですが・・・・・・すみません、バカで。
日蓮宗って、法華経を大事にしているのでしたっけ。「ナンミョーホーレンゲーキョー」と、何十回も唱えていたような・・・だから、法華宗とかいうのでしょうか。
雑司が谷の鬼子母神は、今、法明寺から、200メートルとまではいかないまでも、少々離れた所にあるのですが、もとは法明寺の境内にあったそうです。
法明寺は広大だったのですね。
そういえば、鬼子母神の近くに弁才天の像がお宝だという本納寺というお寺があるのですが、このお寺、もとは「本能寺」といったのだとかいう噂を聞きました。
全国各地に同じ名前のお寺がいっぱいあるのですね。
それらを同じ系列のものだと考えてはいけなかったのですね。
浄土宗の法明寺やら日蓮宗の法明寺やら・・・
でも、雑司が谷の法明寺がもとは真言宗だったということは、途中で改宗しているお寺も多いのでしょう。もともとは関係があったお寺同士なんてことも、あるかもしれませんよね。
でも、静岡の法明寺とは無関係だったのですかああああ。なんか、残念です。同じ名前の寺院で、楠という共通のキーワードがあるのに。
ああ、楠木正成の息女って何者なんでしょう。
法明寺の周辺を、よく、俗っぽいナリしてそこの修行僧が歩いているのを目撃するのですが、今度直撃してみようかしら。「ちょっと、お兄さん。大楠公の姫塚って、アレは何かしら。」って。
[12] | 小次郎さんからのコメント(2004年11月23日 20時39分04秒 ) | パスワード |
こんにちは 始めまして・・・・小次郎@中澤姓です。
何気なくネットサーフィンしておりましたら、思いもかけない話題がでており
ましたので、これは中澤一族としてなんとかコメントをしなければ・・・と
でてまいりました。
>投稿番号:100584 投稿日:2003年11月09日 02時02分21秒
> お名前:烏夜啼
> 楠木正成と雑司が谷
>キーワード:正成の娘
>楠木正成って、池袋なんぞと関係あったりなんてするんでしょうか。
はて? しりませんでした。
>[2] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 07時59分12秒 )
>この法明寺の姫塚については
>http://www.city.toshima.tokyo.jp/town/topics/tg192him.html
>法明寺縁起には「楠正成の息女、夫婦共立願あり、高祖の尊像を彩色した」とあり、
>墓の側面に、天保9(1838)年2月中沢忠顕建立とあるので、
>中沢家の武運長久を祈るため楠女の霊をまつってこの墓を建てたと考えられる。
うむむ・・・こんなのがあるのですか〜初耳です。
>中沢家と楠家の関係が分かると良いですね。
>でも天保時代になんで武運長久?と不思議です。
いかにも こんな時代にホントに不思議です。訳がわからんのですが、徳川の旗本に
中澤氏がありますので、その辺ではないかとおもいます。
で、楠氏との関係を探ってみますと、何も史料はございませんが、可能性は否定で
きませんので、あとですこし考察いたします。
>[3] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月09日 08時19分58秒 )
>中沢家というのは諏訪氏の一族で
>宗良親王を戴いた新田義興・義宗が信濃国の諏訪氏(滋野氏・香坂氏・仁科氏など)
>を率いて武蔵国に赴いたという記事が浪合記に出てるそうです。
鎌倉時代に中澤氏は2つの系統があったことが確認されています。
武蔵国那珂郡中澤郷を本拠とするものは源氏を称します。私はこの後裔です。
もう一つは信濃国伊那郡中澤郷を本拠とするもので、神氏(みわし)を称します。
上記旗本の中澤氏はこの系統ですね。
>また中沢家というのは飯田の?商人としてもなかなかの家だったようですよ。
そうなんですか、存じませんでした。多分信濃系でしょうね。
[5] 烏夜啼さんからのコメント(2003年11月09日 11時29分11秒 ) パスワード
>新田氏と中沢氏との関係ということを調べてみると、正成女のことなんかも分か
>ってくるかもしれませんね。
さて、ここからが本題に入ります。
足利尊氏が丹波篠村で反幕の旗色を明らかにした時に、丹波国住人 久下・中澤の一族が一番に駆けつけたことは太平記の語るところです。刊本によっては長澤と書かれておりますが、これは nakasawa と澄んで発音すべきものが、講釈師が語りやすいように濁音で発音するようになったものが、また活字化されてしまったものです。
中澤氏は丹波国多紀郡大山庄の地頭でして、中世史を研究なさっている方でしたら恐らく聞いたことはあるはずです。全集ものでしたら、下地中分の典型的な例として引用されていることが多いです。
南北朝の頃の人物として、中澤三郎入道性忍・中澤掃部大夫(備前守とも)入道信綱(定阿)・中澤左衛門尉佐綱などが史料に見えます。三郎入道性忍・掃部大夫入道信綱は武家奉行人として焼失した石清水八幡宮造営を担当しており、社殿再建の責任者でした。また、遷宮の際には武家奉行人として直垂姿で参列していますし、摂社である稲荷の造営もしております。
丁度楠正成と時代的に合います。石清水の史料によりますと、武衛の「佐」として朝廷にも伺候したようですから、叙爵(5位以上に叙されること)されていたことは間違いありません。
中澤氏の本貫は武蔵国那珂郡中澤郷、現在の埼玉県美里町にあたります。
この中澤氏を武蔵系として、信濃伊那の中澤氏と区別する必要があります。
室町期になりますと、信濃の中澤氏はその居住している地域(高見・菅沼など)を苗字にするようになります。
これは信濃中澤の総本家である諏訪氏が幕府奉行人として丹波中澤と同僚になりますので、混乱を避けるために信濃中氏に遠慮させたものと思われます。
戦国時代になりますと信濃中澤氏は中澤衆の何がし・・と呼ばれるようになります。
正成女・・建立者は信濃系中澤氏だと思いますが、なにやら面白そうですね。^^:
[13] | 烏夜啼さんからのコメント(2004年11月27日 02時48分12秒 ) | パスワード |
小次郎様
こんにちは。
中澤氏の大変詳しい情報、恐れ入ります。
姫塚の建立者は信濃系中澤氏ですか。
楠木正成の家族のことって、あまりよくわかってないですよね。
どの家と縁組したとかっていうような情報がいまひとつ。
正成の妹は観阿弥の母、とかいわれてますが、娘は宮廷人に嫁がせたのですね。
やっと、東京に正成関係のモノがあることに納得できたような気が致します。
法明寺
ちょうど南池袋と雑司が谷、さらに目白との境界線の辺り(目白までは徒歩で1、2分はかかりますが・・・)にあって、静かな大変いい所ですよ。桜の季節は参道が見事で、秋の御会式や、花塚(花を供養するための塚)なんかもあって、いいお寺です。
最近、すぐそばで工事してるので、しばらくの間は騒々しいですが・・・
もし、お時間と機会があったら、一度お出掛けになってみては如何でしょう。
[14] | 烏夜啼さんからのコメント(2004年11月27日 03時12分59秒 ) | パスワード |
でも、正成女は武蔵中澤氏に嫁ぎ。
姫塚建立者は信濃中澤氏なんですよね??
やや???
ふと思ったのですが、この法明寺は目白のすぐ目の前。
目白は昔から名門の邸があったところですから、殊に明治維新後は近衛家もお住まいだったし・・・
大楠公は尊敬されまくっていたでしょうから、目白の方々なんかが、
姫塚を大事になさっていたんではないでしょうか。
姫塚を無理矢理楠公と結びつけたなんていうことは・・・
[15] | 小次郎さんからのコメント(2004年11月28日 23時44分09秒 ) | パスワード |
こんばんは 烏夜啼さん
>姫塚の建立者は信濃系中澤氏ですか。
丹波大山城は明智光秀によって落とされ、室町幕府官僚兼小領主的大名として
の中澤氏は歴史の表舞台から姿を消します。
江戸期び大山の系統で「中澤」を名乗って武士になったのは、私の家系しかご
ざいません。
<支流から[長澤]を名乗って武士になったのは何軒かあります>
ですから、私の系統でないことは明らかなんです。^^
それと、徳川の幕臣辞典をみますと、旗本の中澤氏は指物として
「白地濃浅黄丸之内梶之葉」とあります。
申し上げるまでも無く、梶之葉は諏訪氏の紋章ですね。
諏訪氏の大きな分系である[諏訪神大祝中澤氏]へ嫁にいったのかな?
江戸期に入りまして、綱吉が将軍継嗣となったときに、甲府城を柳沢
吉保へ引き継ぐのですが、そのとき城の受け取りをした担当者から甲府
の担当者へ渡した受け取りの目録が柳沢家にありまして、そのあて先
に「名倉新兵衛殿 中澤藤左衛門殿 隠岐藤助殿」とあります。
この中澤藤左衛門が綱吉について江戸城へ入ったのでしょうかね。
>楠木正成の家族のことって、あまりよくわかってないですよね。
私もわかりません。
丹波中澤氏の出自については藤氏、源氏、秩父氏等々、いろいろありますが、
系図は大山落城と共に焼けてしまっていますので、今現在地頭方の書類として
残っているのは明徳元年の譲り状と、室町後期の譲り状控えだけです。
大山城主を長澤氏とし、中澤をその支流とする系図が結構あるようですが、
元禄前後にはやりました系図ブームによって作文されたたことは明らかで、
私は検討しようという気にもなれません。
酷いのは源義経妾腹の後胤・・・などというのがありまして、それを引いて
「私は源義経の子孫」と・・・困ったものです。
伝承の中に、「新田の嫡流、里見伊賀守義成三男武蔵国住人中澤三郎重基、
後堀川院御宇貞応年中始めて丹波に入り、本目庄神尾山に城郭を構え・・」
というのがあります。
承久の乱で荒廃した京都六条若宮八幡宮を再建するために、鎌倉武将に勧進
をした名簿が近年みつかり、国立民族博物館から発表されており、武蔵国の
中で<中澤三郎跡、同後家跡>というのがあります。
跡というのは、以前源平合戦のときに荒廃したのを一度再建しており、その
ときの名簿に基づいて寄付を集めに回ったということでしょう。
あと、本貫の武蔵国那珂郡中澤郷の中に、河原神社がありまして、その神紋
は丸之内一つ引きを用いています。
この神社とは、熊谷直実と共に平家物語で有名な河原太郎・次郎兄弟を祀る神社です。
河原氏は中澤の一族であったのでしょう。新田の流れという伝承は無視できないです。
>でも、正成女は武蔵中澤氏に嫁ぎ。
武蔵系へ嫁いだ・・とすれば、中先代の乱のころに、中澤掃部允が文和2年8月
11日の園太暦(22)に尊氏の先陣として鎌倉より京都に向かい、美濃平塚へ
到着し、江州の情勢が不安なので暫く止まる・・と、義詮に飛脚を遣わしています。
尊氏は2年ほど鎌倉にいたようですから、中澤掃部允も一緒だったでしょう。
また、貞治5年8月15日の空華日用工夫略記では、義詮は鎌倉の弟基氏と和睦
したときに、誓書を八幡宮に納めることになったとき、使者として派遣されて
います。
こんな緊迫したときに、嫁をつれてはゆけないでしょう。^^
武蔵の一族が鎌倉へ入り、基氏のもとにいたであろうことは推測できますが、
史料はありません。
なぞですね〜。
[16] | 烏夜啼さんからのコメント(2004年11月29日 02時22分51秒 ) | パスワード |
またまた、とても詳しいお話を、有難うございます。
とても、勉強になります。
凄いです。流石です。
が。。。。。
やっぱりわからーーん!
謎ですね、正成女。
観阿弥は正成妹の子で、伊賀の服部氏だから、
猿楽一座は仮の姿で、実は足利家を探ってた、とかいう話がありますが、
その縁で正成女も身軽だったとか。(あ、いつもの妄想癖が・・・)
[18] | なんじゃらほいさんからのコメント(2009年04月16日 21時02分45秒 ) | パスワード |
なんか、墓地の前にあるお花をおいている所の方に聞いた所、楠一族?が東北に行く時、もしくは逃げる時に、鬼子母神の所で休息をしてから法明寺の所を通って行った。その時の事があり年代がかなり後ではあるがお墓を立てたというような事を教えてくれました。
歴史的に合っているのかどうかはわかりませんが、参考になればと。。。
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