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 投稿番号:100581 投稿日:2003年11月03日 10時02分13秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
富山県となみ郡上平村菅沼

コメントの種類 :落人伝説  パスワード

富山からバスで1時間。
庄川の流れにそって平家の落人が隠れ住んだと言われる平村。

人口1000人。
五箇山の山間にまだ9戸茅葺き屋根の建物が残っているそうです。
屋根は片側直すのに12人で4日もかかるそうです。

古い茅は畠に鋤きこむのだそうです。
4階は夏は養蚕冬はマキの貯蔵場所。

住人の名字は「北」さんや「中島なかしま」さんや「羽馬はば」さん。
北さんや中島さんはいかにも平家らしい。
羽馬さんは平家独特の名字でしょうか?


世界遺産に登録されてから年間60万人の観光客が訪れるそうです。

[1]嘉村孝さんからのコメント(2003年11月03日 10時26分25秒 ) パスワード
  

 私が只今おります佐賀県の1600人余りの村にも平家の伝説があり、私の本家の隣の家は豆田さん。その隣は園田さん。いずれも農耕にかかわる名で、これからは歯向かいません、と、恭順の意を表したとか。
 豆田家は大分にありますが、やはり平家。
 佐賀には中島(なかしま)さんも多いです。
 ちなみに嘉村は近江の国神崎郡常富荘嘉村から千葉一族に従ってきたと書かれており、その近くには近江商人発祥の地・五箇荘ありで、その他、上記常富、ユズリハ、江頭(えがしら)など佐賀県に関係深い地名や名前が多くて、非常に興味がもたれます。
 羽馬さんはちょっとわかりません。すみません。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月03日 11時04分26秒 ) パスワード
  

そうなんですか・・・
武士を棄てたという名字だったんですか。

>ちなみに嘉村は近江の国神崎郡常富荘嘉村から千葉一族に従ってきたと書かれており、
>その近くには近江商人発祥の地・五箇荘ありで、その他、
>上記常富、ユズリハ、江頭(えがしら)など佐賀県に関係深い地名や名前が多くて、非常に興味がもたれます。

そうですよね。

日本って海に囲まれていて独立が長い間保たれていて
日本人がどう移動して変わっていったか
面白いですね。
[3]嘉村孝さんからのコメント(2003年11月03日 11時29分27秒 ) パスワード
  

 そうそう。嘉村は、その豆田さんたち平家を監視する役だったとか。しかし、敵対していたのではなく、もうこれからは仲良くやろうよ、ということでいっしょに住んだそうです。今でも、村で一番仲のよい地区です。
 ただし、嘉村家が部落の入り口をしっかり固めています。
 また、近くには日向き(ひむき)というような南面を意味する地名や、四神相応に関係する中世的痕跡がたくさんあります。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月03日 12時17分02秒 ) パスワード
  

興味深いお話ですね。
何百年もずっと続いて来たというのが。

つくづく中世があったということ
意味が深いです。

[5]川口 信さんからのコメント(2003年11月03日 12時26分20秒 ) パスワード
  

皆様 ごぶさたです。

 姓氏家系大辞典(富山県)を丁度借りて読んでいるところです。

 同書によれば「鉢蝋・鉢呂」姓は氷見仏生寺の城主平の左衛門(清盛五代の孫)は出所を疑われて追われ、二塚に移り住んだが、そこでも郷士に追われて五箇山へ入り鉢蝋と号したとあり、平村下出の鉢蝋は平家の血を引く道入者であるという。

 下出村(平村)の生まれ鉢蝋清香(明治35〜昭和17年)は大正14年に農業試験場に勤務し、同所並河氏とともに「農林一号」を発見したとあります。戦後の食糧難時代にも大きく役立った。とあります。

 
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月03日 23時58分53秒 ) パスワード
  

「鉢蝋・鉢呂」姓

非常に珍しい名字ですね。
でもこうして出自がちゃんと分かってるというのはいいですね。
御子孫が栄えていますように。
[7]田中愛造さんからのコメント(2003年11月04日 23時12分01秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん。  何時もご苦労さんです。皆さんご存知の事です。
 東砺波郡平村の成立  下梨村外二十四ヵ村戸長役場が平村役場と改称したのは、町村制施行の明治22年(1889)です。村名は平家落人伝説にちなんで、平村とした。加賀藩に依存していた塩硝・養蚕・和紙産業は、1871年から自立を迫られ、このとき、旧藩時代からの旧家を継ぐ(水上・藤井・池田・鉢蝋・中川・高田・前崎・丘村・図書)各氏らは尽力した。隣の、利賀村の平家落武者伝説 源平の合戦で敗れた平家の
武者、山下南兵衛藤原賀房なる人が発見したと伝えられる。大豆谷の地名は、信州伊奈谷の「まみ」から来住した斉藤弥左衛門とその弟八郎左衛門、従者滝の市(堀尾氏)らが命名したという。このほか平家の落武者としては、大野権兵衛、城岸左馬頭(平行盛)、谷内掃部頭(平有光)、野原権守、光田五郎左衛門、大戸の院などの名が伝えられる。  「市町村の歴史と人物」
 数年まえ、高桑氏と中島氏の事で調べた際に、(白山宮・村上・羽馬・岩瀬各家)の調査をされた)高桑敬親氏の一族に出会い、五箇山の良い勉強させて戴きました。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月05日 02時03分52秒 ) パスワード
  

田中愛造さま

いいですねえ。
羨ましくなります。

15年ぐらい前、綿々と砺波あたりの峠を守ってきた平某という御老人をテレビの番組で拝見しました。
玄関の表札に「士族」って書いてありました。
その当時で80代後半でしたから、もう亡くなってると思いますけど

当時の私は平家には興味が無かった時代です。
惜しいことをしました。
[9]えびすやさんからのコメント(2003年11月05日 21時35分26秒 ) パスワード
  

今日、日テレのズームインで白川郷荻町の民宿が放送されていました。
皆さんご覧になりましたでしょうか。

わたしは結婚前に今の夫と泊まったことがあります。
あの辺り(菅沼も)宿の名前がみんな苗字ではなく下の名前なのですよね。
と言う事は、同じような苗字が多かったのか、と当時思いました。

当時、私が泊まった宿はやはり合掌造りでして中は広く、
柱の黒光りにうっとり見とれるほどです。
中でも一番驚いたのは、トイレでした。

中に入ると、飛行機や列車のトイレのように便器の中に丸い銀色の蓋があります。
用を足すと反転する仕組みだとすぐに解りました。
でもレバーが無いのです。代わりに、水鉄砲がありました。
それで丹念に水を噴射して流すのです。
水鉄砲には細いホースが繋がっており、その先にはタンクがありました。

今まで一番驚いたトイレです。
ちなみにこの集落から金太郎のモデルとなったお相撲さんがいます。
日本で一番最初のお相撲さんだと説明がありました。
でも名前が思い出せません。

たしか、ペルリー来航の時、米俵何表か担がせてペルーの方々を驚かせた
との逸話(?)があるそうですね。うろ覚えで、すみません。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月10日 00時27分23秒 ) パスワード
  

北海道4区の当選者に「鉢呂」さんとおっしゃる方のお名前を耳にしました。

ハチロ?
どこかで聞いたな〜
と思ってたら平熱で話題になってたのですねえ。
[11]田中愛造さんからのコメント(2003年11月10日 21時30分06秒 ) パスワード
  

えびすやさん   >宿の名前ですが、
白川郷も平村も、屋号はみんな人の名前です。平家の落人や南朝の落武者が、帰農して、名前のみになり、先祖の名を残して屋号にしたものです。
平村では
吉右衛門・・・きっちょもん
仁右衛門・・・にょもん
伝右衛門・・・でんにょもん
北原仁八・・・にはち
中谷与助・・・よすけ
安田忠兵衛・・ちゅうべえ
  以下略、と云った風に、子孫は誰の跡か直に解るように、なつています。


[12]えびすやさんからのコメント(2003年11月10日 22時59分03秒 ) パスワード
  

>田中愛造さん、
ありがとうございます。
当時、(多分5,6年前)は全然知識が無く
今、こうやってこのサイトに通うようになって誤解に気が付きました。
あそこはとてもいい所ですよね。

あそこは、あの屋根の吹き替えを100年に一度やるのですよね。
それには近所の協力無しではできなくて
地域ぐるみでやるとか。
それを「結」というそうですが、
私はマンションで育ち近所付き合いを嫌う両親でしたので
そういう絆がとても羨ましいです。
良い事ばかりではないかも知れませんが、それでも
安心感が違うと思います。

でも、この時代にふらっと訪れたから良さが引き立つのでしょうか。
平家の落人が流れ着いた村といえば、当初はさぞ大変でしたでしょう。
住み慣れた故郷とは全く違う環境で、今や世界遺産に登録された
時間はとても私たちには想像もつかない
苦労があったはずです。それを思うと涙が出るのです。
みんなで知恵を出し合い、励まし合いながらあの合掌集落が出来たのです。
あそこだけではなく、つい先日訪れた湯西川も同じです。

いつ源氏の追っ手がやってくるかもわからない。
その恐怖におびえながら今日にまで至って代々繋いだ
平家の「絆」を私はとても感動してしまうのです。
感動、以上です。
それ以上の言葉も見つからないほどです。
[13]田中愛造さんからのコメント(2003年11月11日 01時46分51秒 ) パスワード
  

村落誌の中には、色々と変わった伝説が多く、
来栖村の伝説には  (岩野のヤグラ場とマセン、口)
岩野のヤグラ場は、昔ここに見張りのヤグラが立っていて、敵が見えたらのろしをあげて知らせる場所だったという。そのすぐ下にマセを結うて(木をしばり合わせて〉垣がしてあった。そこをマセン口といっている。
当時の、常に戦戦恐恐とした状況が、雪深い山村で、いかに何ごとにも力を合わせなければ、現代の子孫を残せなかったことと、考え知る思いです。
          (安田の起こり) 
昔、和田寛鍋という武士がきて、今の西谷家(屋号ニシ)の屋敷に落着いた。息子に後を継がせて、寛鍋は今の安田家(屋号アンタ)の屋敷に居座った。村の人は「あなた様、あなた様」と呼んだのがあんたに転化し、さらに安田になったにだといわれている。今、寛鍋の八代目の屋号はアンタのままです。単なる屋号だが、御先祖の存在を知るに大切な証拠に違いありませんね。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月11日 06時49分27秒 ) パスワード
  

>村落誌

いいですね。
村でこういうのを公開してくれるといいですね。
[15]川口 信さんからのコメント(2003年11月11日 14時45分11秒 ) パスワード
  


上平村・菅沼の集落の合掌造りは岐阜県とものと一緒に世界文化遺産のリストに登録されているみたいです。風景が素晴らしいですね。ぜひとも残しておきたいものです。

 http://www3.zero.ad.jp/tabi-tabi/sanson/taira.html
 『世界文化遺産の村・富山県・平村相倉・上平村菅沼』
 
 http://yosimura.vis.ne.jp/sekai/index/thumb03.html
 「ユネスコ世界遺産(白川郷・五箇山の合掌造り)」

 東京と富山県のハーフの私にとっても、何か懐かしく思えます。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月11日 15時02分02秒 ) パスワード
  

川口さま

ありがとうございました。
高岡からバスで行けるのですか。
安心しました。

どうやって行くのか分からなかったのです。
[17]えびすやさんからのコメント(2003年11月11日 22時16分17秒 ) パスワード
  

川口差mが紹介されたサイトを拝見しました。
またまた行きたくなりました。
でも観光客が多くなればなるほど、あの自然が破壊されていきそうで
躊躇してしまいます。
出来ればあの集落はあのままひっそりと何時までも伝承していって欲しいですね。

ところで、白川郷はいくつかの集落に別れていますがどの集落も
平家のつながりがあるのでしょうか。
ちょっと疑問に感じました。

[18]えびすやさんからのコメント(2003年11月11日 23時25分11秒 ) パスワード
  

すみません、「川口さま」と書きたかったのですが
焦ってしまい、ミスをしてしまいました。
申し訳ありません。

[19]田中愛造さんからのコメント(2003年11月14日 01時37分03秒 ) パスワード
  

えびすやさん  白川郷は平家の繋がりは少ないです、むしろ、南朝の落武者が逃げ込んだ方でしょう。八方谷に囲まれた小さい盆地に合掌造りの集合体で、肩寄せ合っています。最近は、維持するのが難しく、200−300人の人手が必要で、莫大な費用が掛かるのと、生活面で不便なので姿が消えつつあります。私たちは、外からの・・・云わば見物人、中の人達は涙を呑んで断念する方も・・・。
さて、この間の力士、身長204cm・前頭筆頭・白真弓肥太右衛門ですね、米俵八表担いだとか。チョッと眉唾??八表は無理です。

五箇山。赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷、山にあらず、谷間のことを(やま
)という。人里離れた谷に住み着いたのが、平家の落人だったと言われています、まさに、陸の孤島で、加賀藩は流刑地にしたほどとのことです。(山と渓谷)
毎年、9月23日は平村下梨では、(平家まつり麦屋踊)が催されているそうです。私は
この地域は『平家の聖地』の一つと思っております。と、云うのも、服部先生が語られた、平家の宝物「小烏丸」が飛騨国分寺に重文として、安置されてると言う事の意味の深さににあります。

[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月14日 03時31分49秒 ) パスワード
  

>白川郷は平家の繋がりは少ないです、むしろ、南朝の落武者が逃げ込んだ方でしょう。

田中愛造さま

私は南朝方の正体は元平家と不満源氏プラスその他と思っているので
南朝方の武士が逃げ込み易かったのだなと確信になりました。
[21]えびすやさんからのコメント(2003年11月14日 22時46分36秒 ) パスワード
  

>小林様。
確か、最近見たテレビの番組で、あの合掌村の合掌造りが出来たのは
明治時代といっていました。
結構最近のものなんですね。私はてっきりもっと以前から考案された
造りだと思っていました。

でも五箇山内では交流があったのですよね。
でなければあのような似たような家の造りは出来ませんものね。

源氏にも不満があったのですか…。
ちょっと調べてきます。

でも、陸の孤島といわれるほど環境は厳しかったのですね。
私が訪れたのは秋でしたが稲穂が穂を垂れている時期でしたが
冬は大変でしょうね…。
どれほど大変だったかなんて、今の私たちには想像もつきませんね。
今、私たちはとても環境が良い状態に暮らしていて
これもみんなご先祖様たちのお陰ですよね。
「みんなが暮らしやすいように、子供が幸せでいられるように」っていう
思いから生まれた現代のような気がします。

>さて、この間の力士、身長204cm・前頭筆頭・白真弓肥太右衛門ですね、米俵八表担いだとか。チョッと眉唾??八表は無理です。

はい、その方です!調べてくださってありがとうございます。
204cmですか、高いですねえ!私は小さいので対話したら首が凝りそう…。
故ジャイアント馬場さんとどちらが高いのかしら。
でも八表はちょっと、ですね(笑)
一気に担いでもバランスが難しそう。
ピラミッド状にしなきゃ(笑)
[22]hacさんからのコメント(2004年02月04日 22時24分02秒 ) パスワード
  

はじめまして
自分の名前検索してたら(たまにするでしょ?)、偶然にヒットしたので覗いて見ました。
どの姓かは「名前欄」である程度想像つかれるかと思います。
大体の由来は知っていましたが、詳しく知ることができてうれしく思いました。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月05日 02時14分26秒 ) パスワード
  

hacさん

是非是非、落人伝説などお教えください。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月06日 08時15分56秒 ) パスワード

現在は8戸40人がお住まいだそうです。
合掌造りは9棟現存で江戸〜明治のものだそうです。
[25]鉢呂さんからのコメント(2005年07月29日 18時32分28秒 ) パスワード

こんにちは。鉢呂(はちろ)です。

5番のコメントを拝見して、書き込みたくなりました。
自分の名字の由来を知りたくていろいろ検索しているうちに、
こちらの掲示板にたどり着きました。
まだ閲覧される方がいらっしゃるのでしょうか?
私の祖父の出身は、確かに平村(たいらむら)です。
そんないきさつがあったんですね〜。
私は平家の子孫なんですね。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年07月30日 00時40分39秒 ) パスワード

鉢呂さん

はじめまして。
御名字の由来がハッキリしてるというのはいいですね。
御子孫にも伝えていってくださいね。
[27]如月さんからのコメント(2005年08月11日 00時20分53秒 ) パスワード

はじめまして。如月(HN)と申します。

5番のコメントを拝見して疑問に思うことがあります。
コメントに出てくる『平の左衛門(清盛五代の孫)』とは誰の事で
しょうか?
自分でも調べてみましたが『平の左衛門』で検索すると『平頼綱』と出てきます。しかし、彼は『鎌倉経師ヶ谷の自邸で自害』という資料が見つかりました。なので、今度は『清盛五代の孫』というキーワードで調べていくと、どうやら幼少の頃の平維盛が『五代』と呼ばれていたという資料を見つけました。ということは、『清盛五代の孫』=『平維盛の孫』=『妙覚(六代)もしくは夜叉御前(女子)の子供』ということなのでしょうか…?
私は、後者の方がそうなのではないか…と思うのですが、どうしても確信が持てません。
もし、知ってる方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
初歩的な質問でご迷惑かもしれませんがご回答頂けると嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いします。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月11日 04時35分36秒 ) パスワード

如月さん

初めまして。
わたくしも全くわかっていないのでどなたか御存知の方がいらっしゃるといいですね。


>氷見仏生寺の城主平の左衛門(清盛五代の孫)
>『清盛五代の孫』=『平維盛の孫』=『妙覚もしくは夜叉御前の子供』…?


確かに6代が6代と呼ばれるのは平家貞がお仕えして6代目だから六代さまということですから
平正盛ーー忠盛ーー清盛ーー重盛ーー維盛ーー妙覚の6代。

清盛から5代目ということは小松家関係だけじゃないと思います。
清盛ーー2代目(重)盛ーー3代目(維)盛ーー4代目(妙覚)ーー5代目○○と思いますから
清盛ーー2代目(基)盛系では?
清盛ーー2代目(宗)盛系では?
清盛ーー2代目(知)盛系では?
清盛ーー2代目(重衡)系では?
清盛ーー2代目(知度)系では?
その他

○○の世代でしょうけど
清盛の5代目=妙覚もしくは夜叉御前の子供とは限らないと思います。
これがポイントと思います。



つまり清盛には物凄い数の男子がいたでしょう。
正式に名前の分かっている男子だけで主なところが6人か?
養子や融子もいたでしょうし卑しい身分の女に産ませた男子になると分かってないでしょう。

昔の人の子供の数ってワケ分からないですよ。

清盛には娘もいたのですし
娘が生んだ本物の子に加え
養子や融子をとっていれば?

さらに平家が滅んでから入って来た人の子孫というのもあるでしょうし。

北条時政でも正式に分かっている有力者に嫁いだ女子は12人になってますから
時の権力者の清盛が生ませた女子の数など?です。
認められなかった男子の数も?だと思います。


日本史の有名天皇や将軍の作りに作った子供の数は50数人なんてありますよ。
清盛が日本史上の大人物ならそれなりの数の子孫がいたと思います。
そして扇のように末広がりに子孫がいたと思います。


昔の人の家族体系を今の戸籍感覚や直系のみで考えたら全然当て嵌まらないと思います。


ということで
清盛5代の孫を称した人物というのは日本全国にキラ星の数いたと思います。


>氷見仏生寺の城主平の左衛門(清盛五代の孫)

>>>姓氏家系大辞典(富山県)を丁度借りて読んでいるところです。
>>>同書によれば「鉢蝋・鉢呂」姓は氷見仏生寺の城主平の左衛門(清盛五代の孫)は
>>>出所を疑われて追われ、二塚に移り住んだが、そこでも郷士に追われて
>>>五箇山へ入り鉢蝋と号したとあり、
>>>平村下出の鉢蝋は平家の血を引く道入者であるという。


<<<出所を疑われて追われ>>>
とありますからそういうことと思います。

清盛に星の数いた子孫のそのまた子孫ということと思います。
残念ながら世間からは正規の清盛の子孫とは認知されなかった(涙)


これは今でも存在する大問題ですからDNA鑑定で証明するよりないのでは?
中国の遺児問題だってほんの60年前の親子関係がワケ分からないで涙の物語になってますものね。


いろいろな事情で世間から認められなくて追われ追われて鉢蝋氏を名乗った。

今は世間から平家の落人と呼ばれ世界遺産にまで登録されたのですから
ワタクシが平家ゆかりの者であると言うよりは ←石投げられそう(いてっ!)
スゴイと思っています。


富山県となみ郡上平村菅沼の方達は「うちは平家落人じゃないです」とおっしゃっても
世間が今やそう信じている。
皮肉ですけどね。


『平の左衛門(清盛五代の孫)』とはどなただったのか
つきつめなくても今や壮大な世界的なロマンに収まったではありませんか。

これで「平家物語」も永遠のロマンを語る世界的な古典に昇格しましたね。


『平の左衛門(清盛五代の孫)』さんもやっと草葉の蔭でお喜びでしょう。
800年の涙がやっと報われて「以って瞑すべし」という表現ここに極まれり。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月11日 04時53分32秒 ) パスワード

吉川「新平家」の巻末より

清盛の子供

重盛
基盛
宗盛
知盛
重衡
知度
清房
清貞

某女子
徳子
盛子
某女子
某女子
某女子
某女子
某女子

計16人載ってます。
実際はもっといたでしょう。
この16人が歴史的に重要な子供達なんでしょうね。


重盛の男子は7人載ってます。女子は書かれていません。
[32]如月さんからのコメント(2005年08月21日 23時04分54秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、色々と参考になるお考えや資料を
提供して頂いてありがとうございました。
また、機会がありましたらこちらの掲示板にお邪魔致します。
それでは失礼致します。
[37]大阪の鉢呂さんからのコメント(2016年04月27日 21時52分09秒 ) パスワード

鉢蝋と鉢呂は同じ一族です
倶利伽羅峠の合戦で負けた平家が落ち延びて
住み着いた所が平村下出と聞き及んでいます
その落ち延びた中に鉢蝋彦左衛門なる人物が居て
その末裔が鉢蝋、鉢呂だと教えてもらいました!

鉢蝋が本家筋で
本家を出て分家した者が鉢呂を名乗ったと聞いて居ます

北海道に居てる鉢呂は
明治時代に北海道開拓移民で平村から移住した一族らしいです
その一族の中から議員として出て
民主党が政権取ってた時の経済産業大臣に鉢呂吉雄
放射能付けたろか!
で一週間でクビになった大臣です
[38]じょうがんさんからのコメント(2017年12月29日 22時07分32秒 ) パスワード

こんばんは。はじめまして。
私は城岸といいます。平家物語に出てくるか詳しくは知らないのですが、
自分苗字のルーツを知りたくて検索していたらこちらに辿り着きました。

昔、16年前くらいかと思いますが、ダーツの旅で富山県百瀬が紹介され、
その時に城岸さんが取り上げられたのを今でも覚えています。ネット検索では
この事は出てきませんでしたが。
私が小さい時から平清盛の血を引いていると言われ続けています。富山の百瀬には
家系図がある、とも聞いた事がありますが、実際に百瀬には行った事がないのでわかりません。
話では私の祖父の名前も家系図になっているとかいないとか。

後、元々城岸って、ジョウガンサマノカミタイラノ○○○と呼ばれていたんですかね?
谷内さんて苗字の方も実は「やち」と読む人もいて、谷内さんは
ヤチカモンノカミタイラノ○○○と呼ばれていたとかいないとか。
全て父親からの情報なので、わからないですがやはり色々興味深いです。
平家物語にのっていないこともあるかと思いますが、自分のこの苗字、誇りに思っているので詳しく色々知りたくて投稿させていただきました。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2017年12月29日 23時03分03秒 ) パスワード

じょうがんさん

初めまして。
全くのヨソモノですが谷内さんのお名前が書かれていたので出て来ました。


谷内正太郎さんは2000年の頃、ロサンゼルスの領事として赴任していらっしゃいました。
子供さんも東大に行ったとか。


で、谷内さんは、今では首相も頭の上がらないポストについていらっしゃいます。


なるほどね〜
平家の末裔は今も頑張っているんですね〜
[40]胃の中の蛙さんからのコメント(2020年07月24日 18時14分00秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2020年07月24日 18時14分44秒
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