キーワード:源義経 子孫 中澤氏 丹波 コメントの種類 :書籍・文献
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皆さん今日は。
私は先祖の歴史を訪ねる過程で、偶然耳にしたのが丹波足立家の二代目の足立左衛門尉政基に嫁いだ中澤兵衛尉盛綱の娘というのが源義経の子孫である、という話に関心を持ち、この真偽を調査して、ほぼ間違いがない事と、この中澤家が太平洋戦争終結の前後まで旧兵庫県多紀郡大山村徳永(現篠山市大山新)に存在した事実についておはなししたいと思います。
この義経の子の存在は「丹波歴史年表」に書かれた次の一文を発見したところから現実味を帯びてきたものです。
「元暦元(1184)年11月、当時長沢六郎遠種の女源義経の子を妊み、長沢家を継ぎ六郎次郎義種と称す。」
その後、文献を漁っていくと多紀郡大山村年表の中に、
「元仁元(1238)年、中澤十郎兵衛盛綱の後胤戦功により大山庄徳永を賜ふ。」
とあります。
長沢義種と武蔵の勇、畠山次郎重忠の女との間に生まれた中澤源吾左衛門尉重政が京都府桑田郡別院庄地頭になり、その次男の盛綱が多紀郡遊楽庄地頭として篠山市街の西、遊楽に居住(現在この地名はない)したとあります。
詳しくは小生のHP-義経の項をのぞいてみてください。
当時(文治2〜5年)は頼朝による義経追跡が厳しく行われ、そのために守護地頭の設置がなされたりした時期で、義経の子である事を隠すため祖父長澤遠種が長澤氏を唱えさせたとありますが、このほかにもそんな例があったかもしれません。
01年9月にも、久野久美さんからメールをいただき、「私も義経の子孫かもしれない」というお話でした。内容から推察すると義経の娘婿といわれる伊豆蔵人有綱の系統らしいのですが、その中には系図纂要に書かれている乾氏・勧修坊の事なども出て参ります、伊豆蔵人といえば伊豆右衛門尉有り綱の事で、これは源三位頼政の孫に当たる人です。その妻すなわち義経の娘の母は『義経記』に出てくる鬼一法眼の娘の事になります。
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