[1] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月23日 18時06分19秒 ) | パスワード |
『玉堂雑記』によると、浦上玉堂は、厳島神社に赴いて、そこに伝わる七絃琴を見たそうです。
厳島神社に重平の琴蔵まる。予上卿市正といふ神家にて観たり。六、七百年の物、断紋古りて、実に雷家などの製なるべし。平家の時、琴行はる。
岸辺成雄先生は、まずこの文章を紹介なさっています。
[2] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月23日 18時28分35秒 ) | パスワード |
この次が重要。
『玉堂雑記』の一文の後、『厳島宝物図会』というものの文を紹介していらっしゃいます。
琴
社伝ニ平重衡ノ愛翫シタマへル琴ナルヨシイヒツタフ。棚守房顕記ニ、法化トイフ名物ノ琴ノコト見エタルハ、コレナルべシ。
つまり、平重衡の琴といわれている琴は、「法化」という名(正しくは「法華」のようです)でした。四天王寺の楽人たちと厳島神社の関係から、四天王寺の仲介によって都一といわれる琴を買って(室町時代以降)、厳島神社の宝物としたそうで、それが「法華」であり、つまりは伝平重衡愛用琴である、ということだそうです。
[3] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月23日 19時02分19秒 ) | パスワード |
『厳島宝物図会』は、さらに[1]の『玉堂雑記』の一文について、色々と感想を述べており。
例えば、「雷家などの製」ということについては、唐代の作琴の一族・雷氏の製作でなくとも、断紋現れ、古いものは「雷琴」などと称してしまうものだから、玉堂もそう言ったのであろう、この琴が雷氏製かどうかなど、分かるわけはない、と記しています。
断紋からは、「蛇腹」「牛毛」「梅花」もあるから、玉堂の言うように、六、七百年の古い物であり、千年以上の物と言ってもよい、と言っています。岸辺先生は、千年というのはいささか誇張だとは仰っていますが。
岸辺先生もこれをご覧になった時、確かに「蛇腹紋」、「牛毛紋」、「裂冰紋」、「梅花紋」があったと仰っています。それは稀にみる素晴らしい断紋で
、岸辺先生がそれまでに日本国内でご覧になった65張の琴の中で、唯一確認できた「梅花紋」だったそうです。
『厳島宝物図会』では、これは「仲尼式」の琴だ、と述べて、その琴の図を載せているそうですが、岸辺先生によると、確かに仲尼式だそうです。
[4] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月23日 19時15分49秒 ) | パスワード |
岸辺先生の仰ることはこれくらいですね。
つまり。
厳島神社の平重衡愛用と伝えられる七絃琴は、梅花紋が浮かんでいる程の古いもので、仲尼式、唐琴である、ということはわかりました。そして、重衡が奉納したものではありませんでした。しかし、重衡が愛用していたものが都でもてはやされ、それを厳島神社が手に入れた、という可能性もあるかもしれません。
何れにせよ、平家時代、琴が行われていたか否か、結論は出せませんね。
[5] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月24日 07時23分50秒 ) | パスワード |
補足です。
[2],[3]の『厳島宝物図会』の文章は、天保13(1842)年の項だそうです。
現在はそれから100年以上経っていますから、重衡の琴も、1000年以上の品となったかもしれませんね。
唐琴である以上、1000年は軽く過ぎているように思いますが。
[6] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月24日 22時21分32秒 ) | パスワード |
江戸時代の公卿の琴士で、平松琴仙という方がいらっしゃいました。平松家は西洞院家の分家ですから、琴仙は内蔵頭信基の実甥で猶子の親輔の子孫ですね。平松家というと、『兵範記』等の日記ばかりでなく、『平家物語』も蔵していましたから・・・・・・琴仙は遠いご先祖さまがご活躍なさっていた頃の平家時代に思いを馳せて、清盛の子たちが琴を弾いたらしい、と、自分も弾く気になったのでしょうか。
重衡愛用琴が厳島神社に買われるまでは、西洞院家が旧蔵してた、なーんてことでもあったら、ロマンなんですけどね。
西洞院家とは大分前から血統が分かれてしまってますけど、確か、重衡と関係があった女房って、堂上平氏一族の親範の娘か何かじゃありませんでしたっけ。んん、違うか、忠度だったか。いやいや、教盛・・・・・・あああ、違うーーーーーー。
[7] | takahiroさんからのコメント(2003年09月25日 11時21分06秒 ) | パスワード |
烏夜啼さん、変わらずの詳細な重衡愛用琴に関する紹介をありがとうございます。
ここ最近きっちりとした返信ができていませんが、烏夜啼さんのコメント楽しみにしていますので、引続きお願いします。
http://www.jtas.com/jt-music/jt-data_html/ko_jp05.html
重複しますがこちらにも、『厳島神社蔵 重要文化財 七絃琴(伝・平重衛所蔵)』の画像を紹介しておきます。
[8] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月25日 13時20分29秒 ) | パスワード |
takahiro様
『厳島神社蔵重要文化財七絃琴(伝・平重衛所蔵)』の画像、有難うございます。
改めて、いい琴ですねーーー。是非一度生で見てみたい。国内にある他のどの琴よりも美しいそうです。
岸辺先生によりますと、これって、もとは国宝だったそうです。国宝から重要文化財に格下げされたということなのでしょうか。そういうこともあるんですね。昔聞いた話では、「国宝」なるものは正式名称ではなく、あくまで重要文化財なのであって、その中でも特に重要そうな物を「国宝」と呼んで珍重しているのだ、とかいうのですが、その人が言ってたことって、正しいのですか。
でも、どうして今は重要文化財になっちゃったのでしょう。唐琴で、国内唯一梅花紋を有する貴重なものなのに。
やはり、重衡が奉納したわけではないから、という理由かも。
[9] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月25日 13時27分19秒 ) | パスワード |
[6]のことです。
平親範の子・基親が、平教盛の娘を室にしていたのでした。
[10] | takahiroさんからのコメント(2003年09月27日 00時01分19秒 ) | パスワード |
烏夜啼さんの[2]のコメント
>平重衡の琴といわれている琴は、「法化」という名(正しくは「法華」の
>ようです)でした。四天王寺の楽人たちと厳島神社の関係から、四天王寺
>の仲介によって都一といわれる琴を買って(室町時代以降)、厳島神社の
>宝物としたそうで、それが「法華」であり、つまりは伝平重衡愛用琴である、
>ということだそうです。
以下は角田文衛著『平家後抄』からの引用です。
「元暦元年(1184)二月、重衡と悲痛な訣れを惜しんだ内裏女房の左衛門佐は、重衡が処刑されたと聴くと、ひそかに内裏より退下して出家した。城一本『平家物語』(巻第十)によると、出家の後、しばらく彼女は東山の長楽寺のほとりに住んでいたが、悲哀に堪えず、ついに難波の天王寺の沖に身を投じてしまった。年はまだ二十三歳であったという。」
上記の、難波の「天王寺」とは、「四天王寺」と同意であり、つまり、仮にかの七絃琴が重衡愛用の物であったとするなら、左衛門佐はこの重衡遺品の琴を手に四天王寺へ向かい、遺品の琴を四天王寺(の楽人)へ預け、自身は海中にその身を投じたとの推測も可能になってくると思われます。
厳島神社は四天王寺の楽人を通し、伝重衡愛用の琴を入手したとの事ですが、ここで重衡の情人・左衛門佐を通し、四天王寺と重衡の間の関係が繋がりますので、厳島神社所蔵七絃琴は、真実に重衡愛用品であった可能性もあり得ると思えます。
>平親範の子・基親が、平教盛の娘を室にしていたのでした。
また同じく角田文衛著『平家後抄』によると、重衡の情人・左衛門佐とは、平親範の娘であったとの説もあるとの事です。ここから平松家(西洞院家)との関係も生まれているのかも知れません。
[11] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月27日 02時42分06秒 ) | パスワード |
そうなのですかっっ。
とてもとても目からウロコなお話で、興味深く拝読しました。
重衡のお相手の女性が四天王寺に重衡の琴を預けた、それが後世厳島神社のものとなった・・・・・・とてもロマンなお話ですね。私、それ事実であって欲しいです。
厳島神社が「法華」の琴を四天王寺を通して入手したのは、当時、四天王寺の楽人達がしょっちゅう厳島神社にやって来ていたからだそうです。厳島神社の雅楽は、四天王寺の楽人によって指導されているらしいです。今でも、そうなのだそうです。
これで、四天王寺、厳島神社、平重衡の三者の繋がりが見えてきました。
それにしても、もし本当にその左衛門佐が平親範の娘であったとするならば、重衡までもが堂上平氏と結んでいた、ということになりますね。親範は二位殿とはかなり血は遠いですが、でもやはり堂上平氏なわけだし。
清盛は当然ながら、重盛、宗盛、維盛、総領をねらおうという人は皆、二位殿の一族を室にしたとは、二位殿の力はよほど強かったのでしょうね。
そういえば、維盛の姫君は堂上平氏に縁付きましたしね。あ、でもこれは鎌倉時代に入ってからのことでしたか。
でも、堂上平氏と武家平氏は本当に深く繋がっていたようですね。
[12] | takahiroさんからのコメント(2003年09月27日 06時24分03秒 ) | パスワード |
左衛門佐という女性は、琵琶、琴の名手であったとの事ですので、この七絃琴の価値を、単に重衡の遺品としてだけでなく、理解していた人物であったのかも知れないですね。
また重衡も、左衛門佐がそのような女性だからこそ、彼女に大切な七絃琴を預けたのかも知れません。
(推測ばかりで記し過ぎている気もしますが。)
*なお重衡の正室は藤原輔子という女性であったそうです。
この伝・重衡愛用七絃琴は、写真画像で見ても素晴らしいですが、是非実物を見てみたいですね。
[13] | 烏夜啼さんからのコメント(2003年09月27日 07時24分32秒 ) | パスワード |
そうなのですか、彼女は楽に詳しい人でしたか。
いろいろ考えると、本当に面白いですよね。
昔はこの琴を見られるチャンスは稀有で、琴を巡る旅をした琴人も多かったようですが、見た人は浦上玉堂くらいだったようです。法隆寺の開元琴を見た人より少なかったのではないか、と岸辺先生も仰っています。
今は、いつどこで見られるのか、まだ確認しておりませんが、昔ほど厳しくもないでしょう。どなたかが演奏していらっしゃる時にでも見られたら、一番の幸運というものかと思います。本当に、実物を見て、梅花紋を拝みたいですね。
[14] | 烏夜啼さんからのコメント(2006年07月06日 23時41分41秒 ) | パスワード |
七絃琴は平安後期までに滅んだとされていますが、
浦上玉堂は文永年間まで行われていたという説を述べました。
しかし、これはどうも嘘のようです。
平安末期、まさに平家の時代を生きた音楽家・藤原孝道は、
七絃琴はとうに絶えたと述べています。
しかし、同時代を生きた平重衡やその姉(隆房室)が、
七絃琴を弾いた可能性があります。
厳島神社に重衡愛用と伝わる法華という七絃琴が現存し、
隆房室は『源平盛衰記』で、とてつもない七絃琴の名手として登場します。
はたして、平家の時代に七絃琴は行われていたのでしょうか。
長年考えても、ちっともわからなかったことでしたが、
最近とても興味深い情報を得ましたので、
書き込んでおきます。
七絃琴は、琵琶桂流の始祖でもある源経信を最後に滅んでしまいました。
そのことを嘆いた円憲(円賢)が、鎮西に下向して、
漢人より七絃琴を学んで帰ってきました。
円憲は笛の名手で、楽譜の編纂もした人です。
大変優れた人でしたので、貴人に招かれ、その演奏を批評したり、
専門の楽人にさえ指導する程でした。
円憲の弟子に明暹という人がいました。
藤原明衡の子です。
明暹も笛をよくし、円憲とともに楽譜編纂をしました。
その琵琶の譜は、後に琵琶西流の本譜となります。
明暹は円憲から笛を学ぶとともに、
七絃琴も学びました。
2人は堀河朝の人で、よく宮中などに召し出されて活躍していたようです。
明暹の七絃琴の弟子というのは確認できません。
明暹で絶えてしまったかもしれません。
ただ、明暹が亡くなったのは、1123年のことで、
もし弟子がいたなら、平家の人々がその人に学ぶことは
年代的に可能です。
重衡、隆房室の姉弟が、七絃琴を弾いた可能性が出てきました。
[15] | 烏夜啼さんからのコメント(2006年07月07日 00時32分37秒 ) | パスワード |
すみません。
上の[14]の
「文永年間」は、
多分弘安年間です。
[16] | ますおさんからのコメント(2006年07月07日 12時28分34秒 ) | パスワード |
七絃琴といえば、こんなイベントが、近所でありました。
http://www.newyorkqin.org/events/2006/event06_2.html
が、僕はすっかり見のがしてしまいました。。。。〔涙。。。)
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