[1] | 皇竹さんからのコメント(2003年09月11日 09時23分37秒 ) | パスワード |
さて熊谷貞直が多田氏の娘を娶り、田辺氏の助力を得て佐閑辺(サカンベ)郷(長野県天龍村坂部)を開郷したのは正平7年のことであった。熊谷家を遡れば、平貞盛―維将―維時―直方―阿多見四郎聖範―北条四郎時方―次郎盛方―熊谷次郎直貞と。盛方の弟は四郎時家で頼朝の舅北条時政の父である。さて直貞は自らは熊谷次郎直貞と名乗り、熊谷武蔵党の棟梁となったが、熊野権現のお告げにより、姉婿の俊則を養子としこれに家督を譲った。俊則の嫡子直正は早世したため、次郎直実が名跡を継いだ。
次郎直実は石橋山での功により、頼朝より蔦に鳩の紋付たる幕を拝領し、これを代々の家紋とした。此れにより熊谷家では「鳩を取らず、食せず」を末代に至るまで守った。
また直実は一の谷で平敦盛の首を討とうとして、兜を払いのけたらば、我が息子小次郎直家とほぼ同じくらいの若武者、不憫と思い逃がそうとしたが、いずれ源氏の兵に討たれるならば自分でと敦盛の首をはねた。これを機に熊谷次郎直実は世の無常を感じ出家したと云う。
さて直実の子直家は父の本領武州、芸州を領し熊谷に住した。長男直道は安芸の国を分領した。次男直教幼少の時、祖父俊則の遺言により岡部民部忠澄の長子(平内左衛門盛国と云う)を以って名跡としたが、後鳥羽院に従軍し討死してしまった。よって長男直道を呼び戻し、平内左衛門盛国の名跡を継ぎ平内次郎直道と名乗り、武州の旧知を相続した。次男直教は芸州を分知されここに移った。直道長子左衛門尉直度、武州を領したが直度に子無く、舎弟直朝が大里郡を継いだ。直道の三男左衛門尉直重、三州に移り薮に住した。その子弥太郎、後備中守直方は新田義貞に属したため、建武2年(1335)手越河原合戦において討死にす。7歳より10歳まで直方の養子となっていた貞直はその後2年、直方の弟直之(後直永)に後見せらたという。
さて当地へ落ち延びた熊谷貞直であったが、貞直の母は産み落としたあと程なく世を去り、又父はその名も知らぬという天涯の孤児であったという。よって新田義貞嫡子義顕公の乳母に育てられ、義貞公の烏帽子子となり貞の一字を賜る。
南北朝の争いで新田義貞敗れ、止む無く貞直も戦場を逃れ、京近辺に潜伏するも、足利尊氏の兵に見つかり捕われる。尊氏仁心深き大将にて、熊谷と言えば頼朝公以来源氏に勲功ある家柄と死罪を赦され、以後13年尊氏公に仕える。然し心なき者の讒言により、信を失い舟田小六郎、大杉五郎に伴われ再び漂涛の身となる。
ある時貞直、遠江の住人井伊政道なる人物に出会う。貞直、この人物に頼まれ、一人の皇子を同国周智郡奥の山に至る処、新田家に由緒ある桃井刑部太夫の館まで供奉し奉った。観応2年(1351)のことである。この皇子は後醍醐天皇の第六皇子、宗良親王とのことである。貞直主従はここに2年間蟄居することになる。更に井伊政道が在所井伊谷まで皇子をお送りし、貞直主従らは三州河内に至る。またここに源姓多田の末流の者を頼る。明けて文和元年(1352)秋より左閑辺(サカンベ) 現在長野県天龍村字坂部に移り、次々と山を開いていった。 貞直の子は4人あり。小弥太直宗(伊那郡南条)、次郎兵衛直秋(三州、漆嶋)、次郎右衛門(北境和知野川端)、桃井太郎直重(母桃井氏女並江、角谷と号す)。
[2] | 川口 信さんからのコメント(2003年09月11日 18時06分36秒 ) | パスワード |
皇竹様 「国境(三、遠、信)の隠れ里」のご紹介有難う御座ます。
興味深く読まさせていただきました。
「信濃宮伝」にも熊谷弥三郎直近が浪合の近く大河原で討死しておりますし、三河に入ってから熊谷小三郎直郷(高力祖)となどの名前が記述されており、以前から興味があったのですが、皇竹様のご紹介で謎が解けました。とかく「信濃宮伝」については色々と言われておりますが、これの解明に繋がりますね。
これからの展開がまたれます。有難うございます。
[3] | 皇竹さんからのコメント(2003年09月12日 09時06分33秒 ) | パスワード |
川口様
有難うございます。
他に熊谷家の情報ありましたら、教えてください。
私に熊谷を名乗る奥三河出の友人がおりますので。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年09月12日 19時58分24秒 ) | パスワード |
皇竹さま
奥三河+長野県天龍村ですぐに「南朝方」とピンと来ました。
思わぬところでお仲間が見つかります。
何百年も経っていても血が騒ぎます。
それに川口さまが時々お書きになる某氏の嫁ぎ先がここに出ていまして
やっぱり「縁」とはあるんだな、と。
[5] | ななしさんからのコメント(2003年09月17日 17時38分11秒 ) | パスワード |
皇竹さま
国境(三、遠、信)の隠れ里を
興味深く読ませて頂きました。
上記の書き込みとは少々話がずれますが、
私の祖父の出身の村も「隠れ里」と
言われている所です。
その場所へ行くには
山を幾つも越えなくてはいけません。
ですが、昭和30年代まで村に
通ずる道路はなく、船で行き来していたとの事。
但し、海から村の場所が見えないようになっています。
また、村の前の海は岩が多く大きな船では近づけません。
外からの攻撃に備えて
この場所を選んだようです。
言い伝えによれば平家らしいのですが、
明治の初め頃、蔵が消失し
家系図も燃えてしまったとの事。
しかし、他の方々のお話を
読んでいると祖父から聞いた話と
大分、違うようなので平家ではないかもしれません。
戦国時代の頃、なんでも暇なときは海賊をして
雇われた時は瀬戸内水軍のような事をしていたとの事ですから。
おまけに、どこにも落人の村として登録されている節が
ございませんし。
では、失礼します。
[6] | 当分忙しいギャンブラーさんからのコメント(2003年09月18日 00時00分27秒 ) | パスワード |
どこかで読んだのですけど
戦国時代だったか?
信州から瀬戸に水軍に来て活躍した(暴れ回った)
というお話を思い出してしまいました。
>しかし、他の方々のお話を
>読んでいると祖父から聞いた話と
>大分、違うようなので平家ではないかもしれません。
平家の落人もいろいろありますから
がっかりなさらないでください。
登録してなくても「言い伝え」は御先祖さまからのアイデンティティとして大切に後世に伝えていってください。
[7] | 皇竹さんからのコメント(2003年09月18日 07時37分47秒 ) | パスワード |
ななしさん
>私の祖父の出身の村も「隠れ里」と
>言われている所です。
何か興味湧いてきますね。
差しさわり無ければ聞かせてください。
[8] | ななしさんからのコメント(2003年09月18日 15時55分54秒 ) | パスワード |
皇竹さま
>何か興味湧いてきますね。
>差しさわり無ければ聞かせてください。
私が聞いているのは、平家の落人が
隠れ住んだと言う事です。
隠れ住むようになった理由については
詳しく聞いていません。
ただ、その後、戦国時代には
暇な時は、海賊を雇われた時は水軍をしていたと
聞いています。
また、江戸時代頃から船を操る技術を生かして
廻船問屋(兼 金融業関連)を
その地方の城下町で始めたとの事です。
(弘法大師の家紋にちなんで
屋号は柏屋ORかしやといいます。)
その頃のではありませんが、
城下町に100年以上前の町屋作りの
建物が残っていて、現在は公に
管理をお願いしているそうです。
隠れ住んでいたのに、城下町で
商売が出来たのが不思議です…。
苗字が分からないので、
由来もよくわからないのです…。
あまり、詳しくお教え出来なくて
すみません。
ななし
[9] | 皇竹さんからのコメント(2003年09月23日 17時26分14秒 ) | パスワード |
ななしさん
書き込み有難うございました。
しばらく名古屋を離れており、レス遅れました。
関心をもっていると、少しずつ判ってくるかもしれません。
気長にやりましょう。
[10] | ななしさんからのコメント(2003年09月26日 11時28分23秒 ) | パスワード |
皇竹さん
レスありがとうございます。
そうですね。
気長にやる事にします。
確か、祖父がその辺を調べていたはずです。
叔父の誰かがもっているとは思います。
それに、祖父に言わせると祖父の孫子の中では
私が一番、血脈を受け継いでいるとの事ですので、
もしかしたら血脈の中の記憶が私を呼ぶ事もあるでしょう…。
(すみません、ぼかした言い方で…。)
では
[11] | 田辺&熊谷さんからのコメント(2007年10月23日 21時27分51秒 ) | パスワード |
たまたまこのページを見つけました。レスではないですが…。
私、田辺と申しますが、家内の旧姓は熊谷です。私の祖父と祖母は豊根村の出身で、家内は阿南町北条、元は和知野川流域だったそうです。家内の実家は話に登場する熊谷家の子孫のようです。結婚直後、家内の実家で、たまたま現代語訳された熊谷家の伝記を読み、そこに田辺家が登場しているのに驚きました。もしかしたら古の縁で紡がれているのだろうかと…。もともと、わたしたちは偶然に知り合いました。ですので、縁の不思議さを覚えます。
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年10月23日 22時52分25秒 ) | パスワード |
田辺&熊谷さん
はじめまして。
>もしかしたら古の縁で紡がれているのだろうかと…。
でしょうね。
「この世の中に偶然なんてないのですよ。」笑
「必然だったのです。」笑
国分太一でなくても
日本人って深い深いところで結ばれているというのが
ある時、分る、というのがスゴイですよね。
奥様と出会ったのは運命。
でもそうなる宿命だったのです、お2人は。
ですから仲良くお幸せにお過ごしくださいね。
にっこり
[13] | 田辺&熊谷さんからのコメント(2007年10月25日 22時32分20秒 ) | パスワード |
お返事ありがとうございます。
家内に限らず、人との出会いも、いくつもの偶然が連鎖して驚くことばかりなのですが、
いつのまにか、これを当然(必然)のように思っている自分がいます。
日々、出会う人々、起こることの意味を吟味しつつ、
今、何をなすべきか、考えております。
本当に世のなか有り難いことばかりです。
ほっこりです。
[14] | としさんからのコメント(2009年02月09日 07時46分35秒 ) | パスワード |
昨日、天竜川の坂部の600年続いている祭りがテレビで放映されてました。
平清盛の子孫という方が移ってました。
[16] | もみじさんからのコメント(2011年09月14日 21時22分07秒 ) | パスワード |
熊谷次郎直実といえば京都長岡京の光明寺もあります。
こちらではたいていの人が「ああー」と言いますが、離れた地域の人は余りご存じないかと・・・
以下
洛西光明寺 を検索ください。
長岡京は桓武天皇が京都に平安京を開かれる前の京です。
[17] | もみじさんからのコメント(2011年09月15日 13時43分03秒 ) | パスワード |
吉川元春の嫁選びの話
熊谷信直の女子が余りにも醜女なので結婚してくれる相手もなかろうと父は嘆いていたがなんとしたことか、毛利元春(吉川元春)が熊谷直実の血を引いているなら、さぞ立派な男を産んでくれるだろうと 嫁にもらった。
熊谷信直の系を遡ると熊谷直実の長男・直家の子孫・・・安芸熊谷家
三河の熊谷貞直は直実の子・直勝の子孫らしい。
熊谷直重の娘常盤と新田義貞との子である熊谷貞直は、伯父熊谷直方の養子
二代直常、三代直吉、四代直勝。
ともあれ 直実の子孫があっちにこっちに残ったということで、昔の人は結構広範囲に動いている。
[18] | もみじさんからのコメント(2011年09月15日 21時08分25秒 ) | パスワード |
英賀郡中津井村の室家は将軍吉宗の侍講を勤めた室鳩巣という学者を出した家。
直実――直秀はひ孫の代にいる――+――直一
| 室氏(室)
|
+――直廉
| 津々氏(津々)
|
+――直玄
| 平田氏(水田)
|
+――直峯
植木氏(砦部
[19] | ゆうびさんからのコメント(2015年11月23日 02時53分14秒 ) | パスワード |
皇竹さま
たまたまこのスレをみました
先日母方の祖父が亡くなり、祖父の本棚にあった
熊谷家伝記という本に目が留まり
手に取りましたが、、、一巻がありませんでした 笑
二巻から七巻まではあったので、私と同じく読もうと思った
孫の誰かが持っているのだとは思うのですが。
私の母は旧姓 熊谷で実家は山奥の下伊那郡阿南町に
あります
生前祖父は地域の伝統芸能の事や、自分の家の先祖の事を調べるのが
好きなようで、そういった類の本が色々とありました。
大好きな祖父が読んでいたものを
これから私も読んでいきたいなと思っています。
また熊谷家の事でご存知の事があれば
教えて頂ければと思います。
[20] | ここもこさんからのコメント(2017年09月07日 20時52分40秒 ) | パスワード |
皇竹様
偶然にもここへたどりつきました。
たいへん興味深く拝見させていただきました。
実は私のルーツを探ろうとしていて見つけました。まだ平家を熱く語られているのでしょうか?
こちらに記載されている文面と熊谷家伝記を見る限り、私の祖母の実家の話だと思います。(三河熊谷家)
いま長野の在所(親族がそう呼ぶので)は屋敷が残るのみで、全員が豊橋市に移り住んでいます。
しばらくは訪れていませんがお風呂はいまだに五右衛門風呂が残っていると聞いております。
今は亡き祖母の口癖で 世が世ならお姫様だった が思い出されました。
ご興味を持って頂き深く感謝いたします。
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