[1] | 当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月23日 08時11分17秒 ) | パスワード |
矢沢慶子さん
はじめまして。
信濃の「矢沢さん」でしたら
確か真田昌幸(こんな字だったか?)の家老の家の1つ?が矢沢さんだったと思います。
そこからお調べになったら何かわかるかもです。
[2] | さちこさんからのコメント(2003年07月23日 22時05分01秒 ) | パスワード |
矢沢さんはじめまして。
家紋の事に関しての答えにはならないかも知れませんが、
滋賀県の永源寺町に木地師の祖と言われる惟喬親王の話があります。
http://www.y-morimoto.com/kanko/kimihata.html
「第55代文徳天皇の第一皇子である惟喬親王は次の皇位を継ぐ筈であったが、
時の摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、
惟仁親王が第56代清和天皇に即位した。
皇位継承に敗れた惟喬親王は失意の内、わずかの家臣をつれ、
貞観元年(859年)15才の時、
都を逃れ小松畑と呼ばれていたこの山中に幽棲したといわれている。
惟喬親王は日本木地師の元祖とされ、
この地から多くの木地師が日本全国に散らばっていったという。
全国各地の木地師縁の家の多くは、今も君ヶ畑を本籍地としている。」
惟喬親王の母は紀氏で秦氏に近い関係だったそうです。
本来は天皇になるはずであったので、
その子孫とする木地師は菊の紋を使ったのでしょうか?
国家の君が代ですが実は、惟喬親王に仕えていた者が作ったものだそうです。
他にこれといった説がないので多分事実だと。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind04.htm
「その村に伝わる伝承によると、時は平安時代の初め。
文徳(もんとく)天皇の第一皇子、
惟喬親王(これたかしんのう)は
第四皇子(後の清和天皇)に皇太子の座を先んじられ、
一時期、近江の小椋郷(永源寺町)に隠れ住みました。
当初、天皇は親王を推すつもりでいたらしいのですが、
第四皇子の生母が摂政を務める藤原氏の出だったことから、
これをはばかったと言われています。
その非運の新王が後にお椀や鉢などを作る木地師(きじし)の祖神とされ、
小椋郷は彼らのふるさととして聖地のようになっていきました。
さて、その新王に仕えていた木地師の一人が、
小椋郷の君ヶ畑から良材に恵まれた春日の地へやってきました。
あるとき君ヶ畑に向かう途中、
今ある公園付近の地でめずらしい石を目にし、
それを見たまま感じたまま歌に託しました。」
わが君は 千代に八千代に さざれ石の
いわおとなりて 苔の生すまで
昔は君が代ではなく、
我が君だったそうです。
つまり元は天皇家の繁栄を詠んだのではなく。
藤原氏の陰謀で天皇になれなかった親王様のへの思いだったのです。
そう思うといい和歌だと思いませんか?
あまり家紋に関しては参考になりませんが、
木地師にまつわる話として。
またこれは秦熱で機会があれば書こうと思います。
この件はかなり秦氏が絡んでそうですので。
[3] | 矢沢慶子さんからのコメント(2003年07月24日 21時51分39秒 ) | パスワード |
家紋についての情報有難うございます。
信州松代真田家の家臣矢沢一族の家紋は「矢ばね」紋であると聞きます。
「矢ばね紋」は矢沢家を代表する家紋で、「丸に違い矢」「丸に並び矢」
「丸に右重ね違い矢」紋などがあります。
我が家の家紋は「抱き菊」紋で、矢沢の系統でも他に例がありません。
木地師の情報に、大変興味を持っています。木地師が「抱き菊」の紋
を本当に用いているのか、確認する積りでいます。
信州上伊那郡大鹿村に木地師の村落があるとも聞いています。
また平家が内紋に「抱き菊」の紋を用いていたと言う話は本当なので
しょうか。
木地師以外に「抱き菊」の紋を用いている例があればどなたかお知らせ
下さい。 以上
[4] | さちこさんからのコメント(2003年07月25日 22時25分23秒 ) | パスワード |
木地師が菊の紋を使用してるのは本当のようです。
調べましたが菊の紋は色々あって難しい!
菊の紋は南朝系とも関係しているようです。
楠木正成の菊水は有名ですが。
木地師に関してです。
参考になれば。
http://www8.plala.or.jp/fagus/banum_03_06_05.html#kijishi
彼ら木地師は山岳信仰や山の神の崇拝等において、
里人(平地民)とは異なる風習や自然への畏敬の念をもつ山人でした。
親王の流れをくむものとして全国どこでも行き来し、
自由に山に入り樹木を伐採してもよいというお墨付きを持ち、
先祖代々伝わる惟喬親王遺訓を遵守する誇り高き民でした。
一般庶民が名字を使うようになったのは明治時代からですが、
そのはるか昔から名字(小椋、小倉、大蔵姓など)を名乗り、
その家紋には皇室と同じ十六弁菊紋、
あるいは五七の桐紋を用いた一族もあったとのこと。
今もその菊紋や桐紋が刻まれた苔むした墓石を、
かつての木地師集落やその近くに見ることができます。
写真は長野県上伊那郡辰野町横川渓谷にある七基の墓石と一基の供養塔。
文化7年(1810年)〜天保2年(1831年)の年号が読みとれます。
このうち五基の墓石には十六弁の菊紋が刻まれています。
抱き菊に関しては判らないのですが、
服部家に、
揚げ羽蝶、向い蝶、十六菊、
なかには、向い蝶の内十六菊、というものがありました。
信州味噌、
矢崎家製造というのに丸に並び矢の紋が書いてあります。
(近所のスーパーのあるのですけどもの凄く高い!)
一味違うタケヤ味噌のマークにも変形ですが二本の矢羽がありますね。
矢と言う字には何かの意味があるのだろうと思ってました。
矢沢さんはおそらく、(迷惑かもしれないけど)
秦氏系です。
惟喬親王の伝説が残る永源寺町とは、
近江から伊勢へ向う八風街道、
鈴鹿山脈を越える手前の山里です。
この峠を越えれば、
平田家や服部家が多い伊勢側の八風街道です。
[5] | 当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月26日 02時37分31秒 ) | パスワード |
我が母方も南朝方だった時代は菊紋使用で
「菊水だった」と聞いてはいますが
私自身はこの紋は見てないです。
女紋は16弁の菊紋の変形という形になります。
母に言わせるとその数に意味があると。
着物が出来上がってきた時
母は1弁1弁数えてました。
1弁足りなかったらなんとかかんとか許せない事態でした。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月28日 08時48分50秒 ) | パスワード |
<矢沢氏>はいくつか出自があって
・光孝天皇の皇子で源姓を賜った源国紀の子孫
・清和天皇の曾孫善淵王の子孫
・紀氏が滋野姓を賜った一族
・神(みわ)の一族
その他
菊紋のバリエーションの本に「抱き菊紋」が載ってると良いですね。
宮家ごとに紋が違いますから。
[7] | さちこさんからのコメント(2003年07月28日 12時53分29秒 ) | パスワード |
西郷隆盛が抱き菊の葉に菊を明治天皇から下賜されたようですが、
使用したのは一代だけとか。
下のHPに抱き菊がありますが、矢沢さんのところと同じ?
http://www.matie.jp/kiku02.html
十六葉菊の家紋の家結構見かけます。
天皇家の御紋なのに庶民が使用してるのは何故?
と思ったいたら天皇家のは微妙に違って、
菊の葉の淵が埋めてあるというか下のようなものです。
http://www2.mahoroba.ne.jp/~adsys/kamon/kiku.html
畏れ多いのか家紋のページにもあまり載ってません(笑)
神社には使用してるところがあるみたいですが、
一般家庭ではどうなのでしょう?
南朝は普通の十六葉菊を使用していたみたいで、
南朝紋とか、南朝菊とか言うそうですが。
この紋、パスポートにも使用されてますよね。
海外に行く時は日本国民として庶民でも天皇家の家紋を使わせてもらえる、
ありがたい話しと喜んでいたのですが。
南朝紋なら一般庶民にも使用させてやってもいいということか?
北朝の連中こざかしいまねを(笑)
でも元は天皇家は十六葉菊だったのでしょうけど、
いつ変えたのでしょうか?
明治になってから庶民の紋と差別化するため?
それとも南北朝の頃なのでしょうか?
[8] | 川口 信さんからのコメント(2003年07月28日 18時08分43秒 ) | パスワード |
皆様今晩は さちこさん 投稿タイムを見てビックリ!!デス。
紋章学の権威沼田頼輔氏によれば、皇室においては鎌倉初期の頃から菊の御紋章を用いられたようであるが、当時はまだ私紋としてわずかに衣服・器財のみに限られたものであって、公の場合には日月の御紋を使用された。吉野朝の頃になって菊花紋が始めて皇室の御紋章として使用され、有効の将士に下賜されるに至ったということである。
明治維新王政復興を迎えるや、政府は先ず明治元年三月二十八日太政官布告を発して、菊花紋の私用を厳重に禁止し、次いで翌二年八月二十五日、同じく太政官布告をもって親王家菊章の制を定め、親王家に対しては十六弁を禁じ、十五弁以下とす
るか又は裏菊に改めさせ、神社では伊勢神宮、石清水八幡、上下加茂の四社、寺院では御歴代の霊牌を預かる泉涌寺と般舟院の二寺、すなわち皇室と特別の関係にある四社二寺の殿舎の装飾のほかは、一切その使用を厳重に禁止した。とあります。その後特例として、官幣国社など権威をつけるため、使用が緩和されたということです。
南朝関係武士は十六葉菊や菊水紋を多く使用している家々がありますが、抱き菊使用家は勉強不足でわかりません。
幕臣の服部家では、矢筈車紋以外にも十六葉菊・むかい蝶・平蝶・揚羽蝶・十六八重菊・揚羽むかい蝶の内十六葉菊などを使用しております。
矢沢氏については。
信濃小県郡矢沢村発祥の氏は滋野姓で真田氏の同族。甲斐の氏もこの末。会津の豪族は利仁流藤原氏で、越後蒲原郡矢沢村発祥。武蔵、磐城・陸中・下野にも。とあります。
ちなみに真田郷に隣接する矢沢郷を拠とする地侍。
元は諏訪神氏系の一族という。
真田幸隆の次男・頼綱が養子に入り家督を継いで以来、真田家の重臣となる
家紋は真田家とおなじ六文銭です。
また、同じ甲斐の名族馬場美濃守信房家においては、多数の末裔と称する家々がありますが、なかには十六葉菊・丸に割菊・丸に裏菊菱・三蝶の内十六葉菊や丸に揚羽蝶などを使用していたとあります。(『馬場美濃守信房公とその子孫』という本より引用しました)
以上ちょっと調べたことだけですが。お役にたつでしょうか。
[9] | さちこさんからのコメント(2003年07月28日 22時21分00秒 ) | パスワード |
>十六葉菊の家紋の家結構見かけます
正しくは一六弁菊です。ごめんなさい。
服部家の一六菊、一六葉菊というのは葉っぱのほうで、
弁(花びら)と葉は違いますね。
服部家が使用してたのは葉っぱが十六枚で中に菊?
一六菊と、一六葉菊と両方書いてありました。
パスポートにあるのは一六弁菊。
南朝紋も一六弁菊です。
木地師のものも一六弁菊です。
でも一六葉菊としていても、
例の菊の紋がかいてあったり。。
一六弁菊と一六葉菊、
正しくは違いますよね。
弁と葉が混乱。
家紋は難しい。。
川口さん。
ありがとうございました。
去年の今頃は猛暑で、
秦バテ、してましたが。
今年はのんびりシェスタの時間をとろうと言う事で。
要するに冷夏で不景気だということです(笑)
[10] | 家紋研究家さんからのコメント(2004年10月03日 13時04分26秒 ) | パスワード |
菊紋は明治以前は禁止されていましたが、以後は前伝来していた家紋
をお使いになっていると考えられます。
菊紋は花弁の数が十六葉は天子系の家紋とされて、以外の紋は皇室より
昔下賜されたものと考えられます。
又皇室の縁者の場合も御座います、それから揚羽蝶の外紋との事、
外紋の云われは女の本家の家紋とか、系統内に其の紋の家から嫁いで
こられて其の紋を使用している場合も御座います。
[11] | 家紋研究家さんからのコメント(2004年10月04日 08時36分09秒 ) | パスワード |
菊紋は同じものはないとされているが、いままでの歴史でも見当たらなく、
皇室と同じ紋章は下賜されたものと考える。
現皇室も家紋は二重になっていて、皇室から他家へ嫁がれた方は
変化した菊紋を使用してあります。
菊紋は日本の歴史では邪馬台国王ウガヤフキアエズ尊を遡る事中国古代
前3000年よりまだ遡りイラクのメソポタミアの王の十六葉菊紋に行き着け
現皇室の高松宮殿下が研究されていたのは、それが古代の朝廷天皇の
紋章の歴史であった。
[12] | 従六位源朝臣さんからのコメント(2005年02月19日 01時35分32秒 ) | パスワード |
何故貴方の家紋がそのようなものであるのかを調べるには、まず貴方の家のルーツを辿る必要があると思います。
家のルーツを辿り、それが判明したならば、なぜその家が菊紋を使用するようになったのかを考慮すると良いのでは?
また木地師は、自らの由緒書を時の権力者に提出する際、自身を権威付けるために惟喬親王伝説をその由緒書に記載したというのが一般的な学術的見解で、そういった理由から菊紋を使用するようになったと考えられています。
ちなみに、家紋と出自には深い相関関係が有るとも言えるし無いとも言えるので、家紋のみで判断することは難しいでしょう。私の家は代々朝廷の官僚でしたが、紋は菊ではありません。
[13] | 小椋さんからのコメント(2011年04月02日 11時02分19秒 ) | パスワード |
時がたっていますが…
私は下伊那 大鹿出身の者です
祖祖父が木曽出身で木地師でした。その関係でしょうか墓標には菊16と
57桐の家紋が両方彫ってありましたが現在ではその墓も取り壊されています
しかし、家宝として木地師特有のおわん、お膳漆器道具が残されており
その物には菊紋と57桐が入っています
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