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 投稿番号:100547 投稿日:2003年07月21日 15時52分54秒  パスワード
 お名前:花月さんの代理
揚羽蝶紋の鈴木家<その2>

コメントの種類 :質問  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100529_99.html
の続きです。

[1]花月さんからのコメント(2003年07月21日 17時27分06秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

花月です。

ありがとうございました。新しいスレッド立ててくださったのですね。
出かけている間に新しくなっちゃって\(^o^)/ワーイ
手取り足取りお世話になります。

初めてこのHPを見た時に<2>とか書かれているところがあり、
随分と長く続いていらっしゃって、すごいな〜と見ていました。

まさか私が7月5日からの、2週間ほどでそうなるなんて思いもよりませんでした。

ギャンブラー様やtakahiro様 皆々様にお教え頂いた事を頭の中でソシャクするのに時間がかかり、同じ事を何度も書いていただいていることに、いつも気がひけております。

どうぞ、これからもよろしくお願い致します。
[2]川口 信さんからのコメント(2003年07月21日 18時03分04秒 ) パスワード
  

花月さん はじめまして。

 皆さんがたいへんに盛り上がっておられるに水を指すようで、入り難く、でも最初から拝読しており、皆様の推理の展開やコメントを興味深く、自分なりに推理しておりますが、なにせ知識が無いので難しいです。
 
 最後のほうのコメントに幕臣の鈴木家が話題になっておりますが、記載の鈴木家には清和源氏・未勘源氏・藤原氏・穂積氏・未勘など多氏族にわたっております。それにより家紋においてもザット見た(寛政重修諸家譜の「家紋」を丁度借りてきておりました)だけでも数十種類が使用されております。同じ家が数種類の紋を使用しておりますので。

 幕臣の家紋の出方についてみますと、結構、婚姻関係のあった家を同じ紋を使用しております、そして同じお寺を使用して一族関係を強めているみたいです。
 
 同じ知行地の武家の名前が上がっておりますが、縁戚関係から同じ場所になったということはあまり無いみたいで、同族が同じ地方をまとめて知行したことは沢山ありますが、ちなみに倉林家は蛇の目紋を使用。

東照宮につかえたてまつりは、徳川家康公の旗本になったということで。土地を差し出したということではありません。
 
 また知行地は幕府から預かっているだけで、土地そのものを拝領したという事ではないのです。明治になり廃藩置県になり元の知行地に帰ったというのは多く見聞きしますが。
 これが唯一の救いで、花月さんの推理に近いと思われます。

 鎌倉時代は本当に幕府から拝領し、一所懸命は侍が『領地(一所)を命を懸けて』守ったのが由来ですが。

 以上ですが、あまりお役に立たないと思いますが、考え方の参考にはなると思いますが。一日も早く貴鈴木家のルーツがおわかりになりますように願っております。

 又何か、わかりましたらコメントいたします。




[3]花月さんからのコメント(2003年07月21日 20時09分13秒 ) パスワード
  

川口信様

早々のコメントいただきましてありがとうございます。

>皆さんがたいへんに盛り上がっておられるに水を指すようで、入り難く、
>でも最初から拝読しており、

とても嬉しく、そしてありがたく思いました。\(^o^)/

>家紋においてもザット見た(寛政重修諸家譜の「家紋」を丁度借りてきており>ました)だけでも数十種類が使用されております。同じ家が数種類の紋を使用>しておりますので。

そうなんですか・・。実は先日、図書館に行き寛政重修緒家譜を申し込んだ時に『家紋の巻は見当たりません。何巻かの別巻かと思われますが、今の所見つかりません。』と言われて見ていないのです。

質問させて頂いてよろしいでしょうか。
同じ家でも、というのは兄弟などの分家でも違う紋を使っていたということでしょうか?


>幕臣の家紋の出方についてみますと、結構、婚姻関係のあった家を同じ紋を>使用しております、そして同じお寺を使用して一族関係を強めているみたい>です。

>同族が同じ地方をまとめて知行したことは沢山ありますが、ちなみに倉林家>は蛇の目紋を使用。


そういえば、寛政重修緒家譜前全般を読んでいてナンデみんな同じ寺なの?と。特に
四谷の龍泉寺 下谷の天龍寺 そして嵐山の天龍寺 が随分目につきました。

お盆に帰った時に、倉林家のお墓が同じ寺にあるか、これもチェック項目になりました。ありがとうございます。

それから、

>婚姻関係のあった家を同じ紋を使用しています。

との事ですが、今の時代は結婚すると夫の家の紋になりますが、
昔は家柄や格の違い、また、お婿さんが今より多く、そのためお嫁さんの方の紋に!というのが多かったということでしょうか?
でも、倉林家とは家紋が違いますよね。(~o~)

 
>同じ知行地の武家の名前が上がっておりますが、縁戚関係から同じ場所にな>ったということはあまり無いみたいで、

そうなんですか。事前に関係はなかったと考えた方が良いですね。
ご指摘ありがとうございました。
間違った方向に仮説が行かずにすみました。


過去の私のコメントを読んでいてくだされば、すでにお分かりと思いますが
非情に知識が浅く皆様からの大切なコメントにトンチンカンな答えになっております。
今回も信様にお教え頂いたことの解釈がトンチンカンなのではと不安です。

でも、どうぞこれからも自分なりに努力して参りますのでご指導のほどよろしくお願い致します。

[4]takahiroさんからのコメント(2003年07月22日 12時16分18秒 ) パスワード
  

川口信様

 江戸時代の知行制度への的確な御教示ありがとうございました。
 江戸時代においては知行と拝領は全く別の意味なのですね。

花月様
 
 「寛政重修諸家譜」の穂積姓鈴木作兵衛信吉氏の記載を私も拝見しました。

 『信吉』の項目に、「寛永十年二月七日二百石を加えられ、のちまた五十石
 の加恩あり。常陸国鹿嶋郡のうちにをいて五百五十石を知行す。」とありま
 すが、この寛永十年に加恩された二百石の内に、花月さまの御本家の近隣地
 「旧相模国都筑郡上川井村・川井村」の一部が含まれているのだと思われま
 す。この上川井村・川井村の旗本鈴木家による知行は、作兵衛信吉から、そ
 の子、甚左衛門勝久に継承されます。そしてこの勝久が天和三年三月十二日
 に八丈嶋遠流に処され、上川井村・川井村の知行も幕府御領に収公されます。
 そしてこのお家は断絶しています。

 花月さんの鈴木家と、上記旗本鈴木家の関連には、次の2通りの可能性があ
 ると思われます。

 1つは、[2]にて川口様が記載されていますように、明治の廃藩置県後、かつ
 ての知行地に、旗本鈴木家関連の者が戻り居住した可能性。

 もう1つは、鈴木勝久は天和三年に改易、お家断絶に処されていますが、こ
 の後、この鈴木勝久関連の者が帰農し、これまでの知行地の一つである上川
 井村・川井村近隣に居住したという可能性です。

 「改易」とは、『 江戸時代、武士に課せられる武士身分およびそれに付随す
 る権利一切を剥奪する刑罰。」と辞書に記載があります。

 花月さまのスレッド<1>に、

 『(上川井村・川井村は)川井宿といいますが、すぐ隣でほんと散歩道の範
  囲です。遠い昔は所有の土地だったと聞いています。』
 『本家のあたりの土地は、元和の頃に鈴木作兵衛さんといういう方がもって
  いたと土地の歴史に記されていました。また、親戚一同の話の中に「ここ
  ら辺の土地はみーんな国に取られちゃったんだよね。」なんて聞いてたこ
  とがあるのですが。』

 との花月さんのコメントがありますが、これは天和三年に旗本鈴木勝久がそ
 の知行地(上川井村・川井村)を幕府御領に召上げられた事の伝承として、
 花月さんの御本家鈴木家に伝えられた可能性もあると思われます。

 家紋についてですが、上記旗本穂積姓鈴木家は「藤の丸」との記載がありま
 すが、これも推測ですが、花月さんの鈴木家は帰農された後、「藤の丸」紋
 から、御生業の一つ養蚕の関係で、「揚羽蝶紋」へ変えられたのではないで
 しょうか。

 http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/furusato/rekishi/rekishi2.html
 (養蚕については以前紹介頂きました上記URLに記載がありました。)
 
 家紋の本を見ると、「揚羽蝶紋」とは、

 『揚羽蝶を型どった紋章とされているが、「源氏物語絵巻」や「秋斎間語」
  の女蝶男鳥に関する解説を見る限りでは、蚕の蛾であるらしい。(蝶は朝 
  に生まれ、夕べに死す不吉なもの、蚕の蛾は、子孫を増し続けるめでたい
  もの、の意から。)』

 との記載があります。

 上記はあくまで推測の一つですので、あるいは花月さん鈴木家は、偶々同姓
 の旗本鈴木家が近隣に知行所を有したのみで、それより更に由緒の古い、室
 町・戦国期に相模に帰農されているお家で、相模国の鈴木氏は仁科氏流であ
 り、その仁科氏の家紋は「揚羽蝶紋」ですので、こちらの可能性も変わらず
 あるとも思われます。

 御盆で一族が集まられて、その中で新たな伝承がいくつも判明してくるので
 はと思われます。

 花月様のスレッドの<1>におき様々コメントしましたが、かえって花月様
 の探究を混乱させていないか心配です。私のコメントは参考程度で、花月様
 のペースで探究を進めてください。(上記についても。)
[5]takahiroさんからのコメント(2003年07月22日 16時57分08秒 ) パスワード
  

>まだ、今一歩この寛政重修諸家譜の見方がわからないのですが、
>●で結ばれているというのは兄弟ということでよいのでしょうか?

●が付いている人物は、その「家」の家督を継いでいる者という意味です。

「鈴木重次」家ならば、家を興した初代が「重次」で、「重次」の子「重勝」、「重勝」の子「信正」、「信正」の子「信吉」、「信吉」の子「勝久」と、●の付いている順に家督を継いでいっています。●が付かず、罫線で横に並列で記載されているのは、その家督者の兄弟です。
[6]川口 信さんからのコメント(2003年07月22日 18時20分09秒 ) パスワード
  

花月さん苦労されているみたいですね。
 コメントを書き込んでいるうちにtakahiro様に先を取られてしまいました。のでダブリますが。
 
 そうです、黒丸が当主で横の線で結ばれているのが兄弟姉妹です。

 その兄弟から分家が出た場合には、第一ならば、その項目の続きに当主として黒丸から始まります。それで第二となった場合はその分家からまた系図が繋がれております。なので初代を見ればいつの時代から始まったかがわかります。
本支あわせて、書いてあります。
 
鈴木家の場合は、鈴木(清和源)(1)203、(19)226
        鈴木(未勘源)(20)97,98
        鈴木(藤原)(15)406、(21)208,222,360〜363、(22)99
        鈴木(穂積)(17)412〜425、(18)1〜40、(22)302〜312
        鈴木(未勘)(22)359,360
      となっており、夫々の氏族はその氏族の定紋を使っており、ちょっとづつ変化(バリエーション)を加えておりますが、どの氏族かわかります。
 ( )の数字は本の巻を表わしているかと思います。
 例えば、穂積系は稲穂関係
      藤原系は下藤や藤輪など
      熊野神社系は烏のバリエーション
      神官系は御幣のモチーフを
    寛政重修諸家譜の鈴木家では揚羽蝶紋系はどの家も使用例がありません。

 なんだかギャンブラーさんが以前述べておられた、南朝系の鈴木家と関係が深いかと思い始めております。こちらの方から知らべてみますね。

 津島のお仲間に鈴木家がありますが、服部家でも揚羽蝶紋を使用している家があり、もしかしたらと。
[7]花月さんからのコメント(2003年07月22日 22時38分26秒 ) パスワード
  

今晩は みなさま。

書き込みありがとうございました。
読んだら仕事の疲れもとれました。(^o^)

>「寛政重修諸家譜」の穂積姓鈴木作兵衛信吉氏の記載を私も拝見しました。
>1つは、[2]にて川口様が記載されていますように、明治の廃藩置県後、かつ
>ての知行地に、旗本鈴木家関連の者が戻り居住した可能性。
>もう1つは、鈴木勝久は天和三年に改易、お家断絶に処されていますが、こ
>の後、この鈴木勝久関連の者が帰農し、これまでの知行地の一つである上川
>井村・川井村近隣に居住したという可能性です。

読んでくださったのですか。お忙しいのにありがとうございます。

分からないのは、知行というのは、預かりですから返したら何も残らない・・
自分の土地がナイ。他の人の土地ということになりますが、何も自分の土地が無い所にどうやって住めたのでしょうか。
これって、もしかしたら歴史初心者の問題?!すみません。教えてください。

今日、昼間仕事の合間に考えていたのですが・・
どうしても、家紋のことだけは推測ができませんでした。
作兵衛さんや恒五郎さんの時には、穂積の稲穂の関係の家紋。それをわざわざ江戸時代に家康が源氏だと言って皆がお追従している時に、なにも平家の紋様に変えるのは、あまりにも不自然と。
ということは変えたのは江戸時代ではナイ!?とここまでで終わってしまったのですが・・・トホホです。

養蚕で蛾 なるほど! 今度のお盆にお墓の家紋を『揚羽蝶』が数種類ある中のどれなのか、よーく見てきます。

寛政重修緒家譜 読み方よくわかりました。ありがとうございました。

また、家紋に関して

>穂積系は稲穂関係
>藤原系は下藤や藤輪など
>熊野神社系は烏のバリエーション
>神官系は御幣のモチーフを

熊野神社と神官系でも違えたのかと、驚きました。
もしも、家紋を変えることなく今に続けば、もっと単純に皆がご自分の祖先をわかったのでしょうが、人の心 というより時代が変えていったのでしょうね。
南朝 仁科氏流 これも気になり、かつ難解なところでございます。

今一つ、気になっている家系があります。

鈴木作兵衛信正や信吉は(18)22〜23に出ていますが

この重成という人は(18)40に出ています。
『武蔵野国都筑郡、相模国愛甲郡のうちにおいてすべて四百石を知行す。』

武蔵野国と言えば今の府中や多摩あたりまで?でしょうが、この都筑郡・・・今まで調べてきた 『川井村や都岡村、都筑郡の内なり。』と書かれていた都筑では?と。それに愛甲郡と言えば反対側で大きく見れば、ちょうど横浜(川井村や都岡村)を挟む地形にもなります。

『寛永十六年・・正保三年云々・・・』と書かれていて 
先の信吉の所にも『寛永十年・・・正保三年・・に云々』と同時代だったようです。

この家が何か関係あるのか、ないのか これもまた調べていこうと思っています。

 貴重なご意見をありがとうございました。
 

              花月











[8]takahiroさんからのコメント(2003年07月23日 00時11分38秒 ) パスワード
  

>分からないのは、知行というのは、預かりですから返したら
>何も残らない・・
>自分の土地がナイ。他の人の土地ということになりますが、
>何も自分の土地が無い所にどうやって住めたのでしょうか。
>これって、もしかしたら歴史初心者の問題?!

花月さま

 知行していた関係より、その土地の有力者との繋がりが生じ…、という推測
 からの記述でした。
[9]takahiroさんからのコメント(2003年07月23日 00時41分37秒 ) パスワード
  

>読んでくださったのですか。お忙しいのにありがとうございます。

たまたま現在の住まいが、公立の歴史総合資料館(特に日本史関連の書籍・史料が豊富に所蔵されている)の近隣にありますので、ここをいつも自分の資料庫のように使っていますので、また何か相模鈴木家について参考にして頂けるようなものを見ましたら、コメントします。
[10]川口 信さんからのコメント(2003年07月23日 13時22分44秒 ) パスワード
  

皆様 連日お疲れさまです。暇なのは私だけ(とは云っても結構することがある)

 津島・四家七苗字党に鈴木家の名前(鈴木右京亮重政)があるが、家紋の記載が無いので、先に行けない。

  これはあくまでも仮説ですが、織田家(家紋・揚羽蝶)から探ると。
 (織田家が嫌いな人が多いのでそっとお教えいたします。)
 
 織田信長の弟、信行―信澄。信澄の子供に昌澄という人物がおります。

 織田昌澄の娘が鈴木重辰に嫁いでいる。
  
 昌澄の葬地は浅草天龍寺。(寛永十八年・享年63歳)
 花月さんの[3]のコメントより下谷天龍寺の名がありましたが。
 鈴木重次家・重成など「重」を通り名と使用している鈴木家がある。津島の鈴木家も重政と「重」を使用している。 
 
 以上の事から、鈴木重辰家が揚羽蝶を織田家から拝領しても、何ら不思議はない、まして織田家は重辰家より、格式が上(二千石)で同族意識から記念に拝領して使用した事も考えられる。
 
 こんな事も推察されますが、皆様は如何と思われますか。
[11]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月23日 15時11分46秒 ) パスワード
  

川口さま

なるほど、なるほど。
この南朝方鈴木家でしたらワタクシのイメージにぴったり合います。

もとは平家系じゃないか。
そして南朝方じゃないか。
そして新田氏あたりに従って伊豆へ。
さらに伊勢北条氏と再び組んで、または、関わって。
落ち着いた先が相模国だったのではないか。

これですとワタクシには非常に座りが良いのですが。


と、勝手な空想を再び書かせていただきました。
[12]花月さんからのコメント(2003年07月24日 10時22分50秒 ) パスワード
  

おはようございます。

>織田昌澄の娘が鈴木重辰に嫁いでいる。
>まして織田家は重辰家より、格式が上(二千石)で同族意識から記念に拝領して使用した事も考えられる。

うーーん(~o~) すごい!うなってしましまいました。
ほんとだ!よく寛政重修緒家譜を目をさらの様にしてみると、
重辰の所に 妻は織田主水昌澄が女 って書いてありますね。
こういう読み方ができるわけですね。

家紋は江戸時代の最初の頃には墓につけるというのは、あまり一般的でなく江戸の終わりから明治の頃につけられるようになった と、書いてあるのをどこかで読みました。

本家のお墓についてある家紋。
それは誰が最初にそのお墓に入ったかで時代がわかりますね。
そこが随分最初の頃の時代でしたら、おお!この織田家との繋がり可能性として見逃せませんね。

織田家に関しては、私個人では胸が熱くなるほど、とても好きなので嬉しく読ませて頂きました。
(お嫌いな方、すみません。)

takahiro様からのコメントに

>あるいは花月さん鈴木家は、偶々同姓
>の旗本鈴木家が近隣に知行所を有したのみで、それより更に由緒の古い、室
>町・戦国期に相模に帰農されているお家で、相模国の鈴木氏は仁科氏流であ
>り、その仁科氏の家紋は「揚羽蝶紋」ですので、こちらの可能性も変わらず
>あるとも思われます。


そうなんですよね。
たまたま近くに鈴木作兵衛さんという方がいらして、(どっちが先かはわかりませんけど)まぁ〜、女の子の中には婚姻関係なども一つ、二つはあったかもしれませんが、元々まったく別の系列の家ですから、当然本家は元あった家紋を使用してきた。

そうなると、先の織田家がらみや、仁科家 後はたまに婚姻関係の所に朝比奈というのも出てきますが、これは三浦氏の関係ですよね?
こうなると、相模ですから仁科氏流というのは強いかな〜なんて思っていました。

いろんな可能性が考えられて、これって楽しいですね。
ご先祖さまが見てて 『うっ、そうきたか。』と腕組みしてるような気がしました(笑)

                  花月
[13]takahiroさんからのコメント(2003年07月25日 13時37分38秒 ) パスワード
  

スレッド<1>からの転載ですが、

『神奈川県姓氏家系大辞典』に記載されている「鈴木家」のうち、横浜市内の
 鈴木家を記載すると以下の通りです。

○橘樹郡小机村(横浜市)の氏の先祖は、ほかの三家と小机四人衆と称し、小
 田原北条氏の支配下、同地に土着した侍と伝えている(武蔵風土記稿)。

○同郡下菅田村(横浜市)長道寺の開基は鈴木与兵衛で、同村の名主役を務め
 る鈴木家の先祖と伝え(武蔵風土記稿)、同家は現在江戸初期からの文書を
 所蔵している(横浜市史料所在目録第6集)。

○また、現横浜市保土ヶ谷区岩間下町にも、江戸期以来の氏がある(横浜市誌)。

○享和三年刊『東海道人物誌』に橘樹郡保土ヶ谷宿(横浜市)の医師鈴木清玄
 の名が載せられており、同人は俳人としても知られたという。

○また、同郡神奈川宿(横浜市)青木町の鈴木利貞は江戸期最後の本陣を務め 
 たという。<後略>

○都筑郡では、東方村(横浜市)に氏がある。同家は同村相給名主の一家で、
 その祖は北条氏直に仕えた鈴木但馬守という(武蔵風土記稿)。

○同郡榎下郷(横浜市)には、天正十二年の小机城主北条氏尭朱印状写によれ
 ば、郷内遠藤氏の借銭・借米返済の催促が命じられている知行人鈴木氏がい
 た(神奈川県地名大辞典)。

○また、同郡別所村(横浜市)の鈴木清香は和算家として知られ、文政四年に
 は『孩堤算方』を刊行しているという(県史別編1)。

私は横浜市内の土地勘がないので、上記の詳細な分析はできませんが、少なく
とも室町・戦国期に、後北条氏家臣系の鈴木氏が、現横浜市内の地に居住して
いたことは確実であると思います。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hojo_k.html
(後北条氏)

上記記載の鈴木家末裔の方と連絡がつくなら、各鈴木家の由緒や家紋について
もう少し詳細を問い合わされれば、花月さんの鈴木家との繋がりが判明する可
能性もあるかと思います。

*揚羽蝶紋と養蚕との関係については、これはあくまで、旗本鈴木家(藤の丸
 紋)と今宿鈴木家(揚羽蝶紋)との関連を成立させるにはと考察した際、そ
 の家紋変更の経緯の一可能性として推測したものです。

なお、相模国鈴木氏が仁科氏の流れを汲むとは、太田亮著「姓氏家系辞書」に
記載がありました。
[14]川口 信さんからのコメント(2003年07月25日 20時14分03秒 ) パスワード
  

皆様 こんばんわ。

 私も『神奈川県姓氏家系大辞典』を図書館で借りてきて、読んでいるところですが、なにせ鈴木家は県内に多すぎて、難しい。

 また県内に「揚羽蝶紋」を使用して知行地をもっている旗本に大河内、中根家がありました。いずれも尾張出身です。

 また神奈川県の家紋を載せたページがありますが、鈴木家で揚羽蝶紋を使用している家は載せておりません。(20ページにわたり全部あたりました)

 戸籍謄本を入手したそうですが、前戸主の隣に族稱という項目があり、江戸時代のより引きずっている悪しき習慣が記載されてると思いますが、(昭和3年時点)でも記載されております(川口家の場合)。これは書き込まなくても鈴木様ご自身がおわかりになっておれば、それで進め方も違ってくるとおもいますが。

 士族と書かれていない場合は結構早い時代において、武士から離れて離農もしくは名主関係になられた可能性が高いと言われております。士族と書かれておるならば、武士関係をもう一度あたられるのも良いかとおもいます。

 お寺関係ばかりでなく、分家でも過去帳の写しを所有していることがたいへん多ございます。そちらもあたってみてはいかがでしょうか。

 もうすぐお盆で
[15]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月26日 02時51分39秒 ) パスワード
  

川口さま

1970年代・・・
1978年だったか
その頃までは士族と確かに記載されてました。

母の戸籍謄本には士族と記載されてました。
華族の分家もそのように特殊な文字の記載がございました。


でも80年代に取り寄せた戸籍は紙が貼られて見えなくなってました。
現在のは見たことがないので知りませんが今のは既に分からなくなってるようでございますよ。


元和3年の遠流の刑というのは綱吉の時代
お犬さま関係だったのかしら?
はたまた?
と思いました。

稲葉家が元和3年閏x月、小田原に転封になった
というのを合わせて考えますと
これに関わってるのかしら?

主人が何かの咎を受けそれに連座して遠流の刑だったのかしら?
元和2年頃なにか大事件があったのかしら?
[16]川口 信さんからのコメント(2003年07月26日 07時36分45秒 ) パスワード
  

ギャンブラさんのおっしゃるとおり、「族稱」なんて差別に繋がる事柄を現在において記述するはずがありませんね。明治初年の戸籍謄本だから載っていると思った私がバカでした。惑わすような事を書き込みまして、スミマセン(ペコリ)


 それと上記本の家紋のところを見まして、尾張関係の苗字の家と鈴木家の使用家紋が重なる紋がいくつかありましたので。全てではないですがいくつかを。

 丸に抱き沢潟:鈴木・池田・水野・大橋
 丸に剣片喰 :鈴木・大橋・平田・伊藤・池田
 丸に桔梗  :鈴木・大橋・菅沼・加藤
 丸に根笹  :鈴木・川口・浅井
 丸に抱茗荷 :池田・鈴木・中根・真野・川口

 あとの鈴木家は定番の稲関係の紋など他県とおなじようです。

 以上のことから察すると鈴木家でも流れが違う鈴木家が多数、神奈川県に所在することがうかがえます。
[17]takahiroさんからのコメント(2003年07月27日 08時52分22秒 ) パスワード
  

長野県の旧「大町高等女学校」がの校章が、仁科氏に因み揚羽蝶であるとの紹介がありました。

http://www.nagano-c.ed.jp/omk-hs/kousyou.htm

『大町は「仁科の郷」とも呼ばれています。それはかつて仁科氏がこの地を治めていたことが起因しています。昭和13年に仁科氏の家紋である揚羽蝶を校章に定めました。』

相模国鈴木氏が仁科氏の流れを汲むとは、太田亮著「姓氏家系辞書」に依りますが、太田氏が何を原典にこれを記されているのかは不明です。相模国鈴木氏と仁科氏の関係の詳細がもう少し判れば、様々考察できると思うのですが。


また、川口様御紹介、

>津島・四家七苗字党に鈴木家の名前(鈴木右京亮重政)があるが、
>家紋の記載が無いので、先に行けない。

の津島鈴木家の家紋、何とか判明すればいいですね。


また、織田家の揚羽蝶紋との関連、あるいは伊勢氏(後北条氏の祖)の揚羽蝶紋との関連等、やはり「揚羽蝶紋」が花月さんの今宿鈴木家のルーツ解明に大きな役割を果たしそうに思います。
[18]花月さんからのコメント(2003年07月27日 18時47分00秒 ) パスワード
  

皆様、こんにちは 花月です。

昨日、図書館から『神奈川県姓氏家系大辞典』が届きました。
やれ、うれしや!と読み進み、併せて横浜市の土地、皆様から頂いたコメントなどから
榛谷氏・飯田氏・三浦氏・平子氏・小机衆・蒔田・吉良氏・三崎十人衆・里見水軍・・・・と、どんどん広がって調べていき、
結果はナント!
私の頭では、ますます分からなくなってしまったのでした。(@_@;)

それにしても、この本欲しい〜。手元に置いておきたい。
takahiro様は、羨ましいです。大きな図書館が側にあって。

推測できたのは、

熊野系の鈴木じゃないの?
南朝方についた鈴木じゃないか?
新田源氏系かも?
いやいや、藤原秀郷系かもしれないわ?
坂東平氏か?
伊勢平氏か?
伊豆の鈴木さん?
織田家?
北条氏と組んで、または、関わった?
清和源氏の池田さん?
宇多源氏の間宮さんかも?
京都から来た貴族の末裔かもね?
とにかく戸籍から天保の頃には相模国だった。
これだけが確かです。

これって皆様から頂いたレスと同じです。結局皆さまのレベルに少ーし私の頭が近づいた?(えっホント?かも?しれない。)という見解に達しました。
ううっ(-_-;) 進歩してないじゃん。

帰農したのはいつか?と考えると

@天正18年(1590)に秀吉の軍に小田原北条が降りた後、市域の侍の多くが帰農し江戸期に村の有力者になってる。との、記載あり。


A1684年〜88年に私の本家のあたり(今宿、川井、白根)は開墾が進められていると本に書かれているので、この時期から帰農した。
この時期は鈴木信吉が改易された2年後。

B承久の乱の後、鎌倉幕府の頃に 『工業が盛んになる・・』ということは、
蚕も関係あったよね?


帰農したとしたら、このうちのどれかじゃないかなと思いました。
結局は、土地の歴史を書いてある本と、自分の頭の中で親戚や親が何気なく言った言葉とを思い出して、堂々めぐりしてました。

家紋と姓を一緒に考えないと 私のご先祖さまは

@ 武門系とは全く関係なくて、本当に姓は『鈴木』だった。
これが熊野系かは定かではありませんが、
(これ以上前を考えると、また、つじつまが合わなくなるので)
とにかく鈴木さんは農業なり何なりで、古から今宿、川井あたりにに土着していた。
  ↓
手広く土地を持っていたので、時代が時代なので『ハク』つける為に公家平氏から家紋を買った。あるいは武家平氏に土地を寄進して下賜、恩賞としてもらった。(こんなことあるのかもわかりませんが? )

A 本当に『鈴木』で、熊野の関係だったんだけど、今の本家は実はどこかで分家として分かれた家だった!
そこでその後、縁有りて、りっぱな家柄のお婿さんやお嫁さんをもらって揚羽蝶の家紋も記念に頂戴したのかもしれない。


Bあるいは逆で、家紋が元々あって、その後、りっぱな家柄のお婿さんやお嫁さんをもらって姓を頂いたのかもしれない。だから、戸籍や土地の歴史の有力者から調べても姓が変わっているので分からない。繋がらない。

C 本家か分家かは定かではないが、祖先は改易にあった。
ところが、何かの折に元の『鈴木』を名乗れる事になり『鈴木』姓に戻した。


だから、それがいつか?誰に伴って?と考えて調べていたんですが結句分からずじまいです。
今、気になっているのは間宮氏でこれが揚羽蝶を使っていたというのは分かりました。
佐々木さんが関係してきますね。(=_=)

もうすぐお盆ですね。

本家には蔵があります。神奈川県だか横浜市指定の蔵らしく、めちゃくちゃ大事にしています。というより絶対に開けません。少なくてもここ30年開けたのを見たことありません。

これさえ、開けてもらえれば随分と分かることがあろうと思います。
が、・・・本家さんがお嫁さんになって以来 開かずの蔵 になっております。

ああ、今回もとりとめのない事を書いてしまいました
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月28日 07時14分49秒 ) パスワード
  

花月さん

味の素の鈴木さんのお墓にいらっしゃってはいかがでございましょう?
ここと関係があるのかないのか家紋で随分進展があると思いますが。
[20]花月さんからのコメント(2003年07月28日 21時32分20秒 ) パスワード
  

はい。

味の素の鈴木さんのお墓、歴史博物館、図書館、などなど、気になっている所をいろいろと尋ねてこようと思っています・・・

と、言うことで
今度のお盆休みは会社に、多めに日にちを申請しております。

いろいろ、まわってこれそうです。まるで旅行に行くようなワクワクした気分です。
早く分かる様に・・と思いながら
もしかしたら、あっさり分かってしまうと、有難味が無いような^_^;

呼ばれる所に自然に呼ばれて 聞いてこようと思っています。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月29日 00時27分48秒 ) パスワード
  

花月さん

今年のお盆休み
花月さんには大切なお盆になりますね。

良い徳をお積みになられます。

鈴木家ご一族がますます栄えるよう
御先祖さまにお守り頂きましょう。

なんせ日本一の大族ですものね。
すごいことですよね。
[22]花月さんからのコメント(2003年07月30日 19時38分47秒 ) パスワード
  


今晩は 皆様。本日もお疲様でした。
花月です。

私、改めていろんな本見たり、読み直したりして気づいたのですが
横浜市旭区=旧・都筑郡 は、相模国では無く武蔵国だったんですね。今更ですが・・。
そう気づいたら、ネットでも本でも今一度読み返しました。

なんで、今気づいたのか不思議です。
だって初めから本にも武蔵国の一部と記載されていますものね。
私が相模と思っていただけで。
今の時代の感覚で相模と思ってただけ。
確かに古から」『都筑郡』は相模です。しかし、『橘樹郡』にも『鎌倉郡』にもまたがっています。ほんの隣が橘樹郡だったり。


ほんの・・と言っても今の感覚とは違いますよね。

昔は、かなり遠くまで『隣』だったのでは。と最近感じ、考えております。
電車で何駅離れてる。とか、車で何分、とかではなく
隣っていうのは、領地の境目であったりしたのかもしれない。あるいは、血族
とは違う一族がいる所、なんて素人は変幻自在に考えてしまうのでした。(^.^)
知識があられる皆様から見れば恐るべし、とんでもない考えかた!かもしれませんが・・・


都筑郡を検索していましたら
下記のHPを見つけました。
http://hazuki-pj.kir.jp/bukken_data/kanagawa/yokohama/sekike-jyutaku640.htm

『関家』だそうです。
私の本家とは、昔の感覚からしたら距離は近いと思います。
関さんちは、かなり格がある家柄です。ので
もしかしたら、私の本家が昔々に、関さんちから お嫁さんとして来て頂いた方があるのかもしれない。
または、お婿さんに来て頂いたのかもしれない。と。

格は違えど、多少の土地を持っていたらしい本家と なんらかの知り合いで縁あり、婚姻関係が生じ、その縁で『揚羽蝶』の家紋を頂いた?と。

やはり、無理があり過ぎでしょうか。

お盆の時に関さんちの近くまでお尋ねしようと思っております。
が!!あまりに突拍子もないでしょうか?!
家系図でもあれば何とか行けますが、もしもそれが出て来なかったら、関さんちから見れば
『は〜っ?!何なんだ、こいつ?!こういう人よくいるんだよね〜。』と思われても仕方ない。
見識あるみなさまから・・この繋がりありと思われますか?
お暇な時にでも、コメント頂ければ嬉しいのですが。
どうぞよろしくお願い致します。

しかし、不思議なのは、考えてて行き詰ると 必ず新しい考えや文献が手に入り目に入ること。

ご先祖様が、間違った方に行くのから『違うよ。』と
導いて下さっているのかもしれませんネ。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月31日 02時59分32秒 ) パスワード
  

花月さん


県境とか旧国境というのは
行政上いくらでも変更になりますし事実変更になってきましたし
今後は変更する方が良いという場合もあります。

例えば
どなたも小学校の教科書で習ったであろう「最後の授業」のアルザス・ロレーヌ地方。独仏の争いで。
それから我が家に関する「尾張・伊勢」の境。
その他
門司と下関も行政的には違う県ではあるけれど経済的には統一する方が都合が良い場合ですね。


ですから都筑郡は武蔵と相模の境にあって、あっちに入ったりこっちに入ったり。
わたくし達はどうしても今の行政区分で考えてしまいますよね。



さて「関家について」ですが
関って伊勢の関家の御出身でしたら
平家の資盛が殿下の乗り合い事件を起こして伊勢に追放になって
その土地の娘と出来て子が生まれ
立った家が関家とか。

信長も平氏に姓を変更して「関氏」の子孫を名乗ってますね。
それで蝶紋を使用して当然、と。


さらに関家は後北条=伊勢国の北条=北条早雲に仕えた、となりますか。
北条早雲の亡霊が出て来ましたか。
ふふふ

やっぱり江梨でしたっけ?沼津の鈴木家が分かると良いですね。
[24]takahiroさんからのコメント(2003年07月31日 07時21分24秒 ) パスワード
  

花月さま

 その後も花月さまのコメント拝見しております。

 横浜関氏とのつながりが判明すれば、今宿鈴木家のルーツ探究も大きく進展しそうですね。

>お盆の時に関さんちの近くまでお尋ねしようと思っております。
>が!!あまりに突拍子もないでしょうか?!

 御先祖のルーツ探究をしている人がよく用いる方法ですが、まずは簡単でいいと思いますので、返信用切手同封で、お手紙を出されてはいかがでしょうか。

 上記関家に限らず、『神奈川県姓氏家系大辞典』に記載されている横浜市内の鈴木家に対して、あるいは県下の鈴木氏に対して、現在今宿鈴木家のルーツ探究をしている旨を伝え、貴関家、貴鈴木家の簡単な由緒、家紋をよろしければ御教示下さいと文面でお伝えすれば、おそらく御返信頂けるお家も多いと思います。

 その中で、今は音信が途絶えているが、かつては同族であった鈴木家が判明したり、揚羽蝶紋の鈴木家が判明したり、何らかの手掛かりが得られるのではと思います。
 
[25]takahiroさんからのコメント(2003年07月31日 18時14分37秒 ) パスワード
  

追記

>私、改めていろんな本見たり、読み直したりして気づいたのですが
>横浜市旭区=旧・都筑郡 は、相模国では無く武蔵国だったんですね。

 もしお手紙の方法を取られるなら、旧相模国だけでなく、旧武蔵野国の鈴木家にも連絡をとられた方が有効かも知れないですね。(あるいは、沼津江梨の鈴木家も。)

 私も自分の姓でこの方法を行ったことがあるのですが、ほとんどの方が返信を下さいました。そして、図書館等の資料で調べていたものとは比較にならないくらいの新情報を得ることができました。
[26]花月さんからのコメント(2003年07月31日 19時29分10秒 ) パスワード
  

今晩は〜

花月です。

>御先祖のルーツ探究をしている人がよく用いる方法ですが、まずは簡単でい>いと思いますので、返信用切手同封で、お手紙を出されてはいかがでしょう>か。

takahiro様、コメント有難うございます。
やはり、ルーツを研究なさっている他の皆様も。
毎度、皆様の”頭”お借りして申し訳ありません。

神奈川県姓氏家系大辞典に載っている鈴木さん、以前にもtakahiro様に書き込んで頂きました。その節はありがとうございました。

@ この方たちの今のご住所、当主のお名前などは、どうやったら調べられると思いますか?

以前にどこかのHPで片っ端から電話したとういうのを読みましたが、
これは、あんまりですよね。(-_-;) メチャクチャ怪しまれます。
泥棒の下見かと思われてしまうかも・・。
まして、日本一多い鈴木姓です。

A 川口信様から頂いたコメントに『士族』の記載と書かれていたので早速、戸籍を見ましたが、やはり記載はなかったです。

その後に調べてみると『壬申戸籍』というのには記載されているらしいですね。差別表現から閲覧禁止なようですが、これは例え親族であっても閲覧はできないのでしょうか?
それとも、もうすでに、一般の人々のは破棄されているのでしょうか?



私は、最近まで江戸時代は人々は移住禁止と思っていたのですが
新田開発に伴い、周囲の村からお百姓さんが合法的に移住したことが多いとのこと。
また、享保以降に移住したお百姓さんの墓石に記載されているのは、これは
名前ではなく、出身村名らしいと。
昔、戸籍が無かった時代に自分を残すのは○○村出身、ということだったのかもしれませんね。特に女性は。
○○村で聞いてもらえば『私』というのは、誰か分かる。と。
なんか、チョッピリ悲しいですね。


上記は、とても意外な事でした。お墓に彫られている名前は当人のものと思っていました。三浦一族以外でも、土地名で表すことが多かったのですね。
土地名=苗字だったんですね。
また、夫婦別姓が可能だったというのも意外でした。

話が変わりまして、本家が今も土地名で呼ばれていること。
今となっては昔を知らない方からみれば屋号かな?って感じですが
少々『訛って』いますが、知っているものが聞けば、ああ、都筑から来ているんだな と分かります。
これが、何から来た事かが解決すれば、かなり私の調べも進むかもと思っております。


蚕は都筑党が地元に伝えたとの記録を見つけました。

都筑に元から居た地侍(都筑党の一派または関係者)=私の本家。
由緒ある近くの土地の『関家』と何かの縁を結んだ。
これは『箔』付けかしれません。

この『関家』とは、今では車で15分以内です。
これは、絶対調べねば!と、近いうちに関家にお手紙を差しあげてみようと思っております。

今宿鈴木の本家に記録がなくても、長く続く『関家』なら、多数の記録の中に我、本家の記録が少しでもあるかも・・・。
無くても有っても、一度はあたってみたい家です。

少々気が焦っていて、いろいろ飛びますが、お許しくださいませ。


朝起きた時、仕事から戻った時、辛い時、楽しい時、ここのHP読むのが一番の癒しになります。
ギャンブラー様、これからも末永く、お続け下さる様お願い致します。

今年は冷夏ということで関東はセミの声も未だ聞かない夏が続いておりますが、蒸します事は例年と同じようです。

ギャンブラー様の居られる土地柄は存じませんが、どうぞお身体ご自愛くださいませ。
     
               花月








[27]takahiroさんからのコメント(2003年07月31日 20時38分45秒 ) パスワード
  

>この方たちの今のご住所、当主のお名前などは、どうやったら
>調べられると思いますか?

 いくつかの調べ方があると思うのですが、まず電話帳で鈴木姓の該当ページを複写し、そして「神奈川県姓氏家系大辞典」にはその家の紹介に現在の市町村、区まで記載されていますので、そこである程度絞り込めると思います。
 
 また、通字(神奈川鈴木家の場合、重・政・清・貞が多かったように感じました)で絞り込むことも可能だと思います。「神奈川県姓氏家系大辞典」にて例えば「貞」の通字をもつ鈴木家が記載されていましたら、その記載されている地域の鈴木姓の方で、「鈴木貞○」「鈴木○貞」という名が記載されていれば、その方は「貞」の通字の(家系辞典記載の)鈴木家の子孫である可能性は高いと思います。

 また、旧名主家でしたら、今宿鈴木家や、横浜関家のように、URL上に所在地が記載されていたり、あるいは地域発行の郷土史誌等に旧所名跡として記載されているお家もあると思います。

 確かに鈴木姓は大姓ですので、絞り込が大変かも知れないですね。

 ただ、100%当主に当らなくても、その当主へ繋がりがある方でしたら、そちらへ手紙を廻して頂けるとも思います。

 花月さんはお忙しそうですので、無理為さらない範囲でお進め下さい。

 まずは横浜関家へのアプローチから始められればと思います。そして更にお盆に何か新情報を得られれば、その情報の地域の鈴木家に絞り、お手紙を出されるのもいいかも知れないですね。
[28]takahiroさんからのコメント(2003年07月31日 20時51分53秒 ) パスワード
  

「壬申戸籍」については、公的機関の戸籍係からは、たとえ親族であろうと閲覧は一切禁止されていると思います。

ただ「士族」等の族称は、少なくとも昭和20年までは(実体は形骸化されていたにしろ)使用されていましたので、花月さんの一族の方でお年を召された方がおられましたら、例えば学校の通信簿や卒業証書等、ある程度公的なものには記載されていたようですので、自身のお家の族称を覚えてられる事もあると思います。
[29]takahiroさんからのコメント(2003年07月31日 21時19分15秒 ) パスワード
  

[28]については、
http://www8.cao.go.jp/jyouhou/tousin/001-h13/008.pdf
に詳細な記載がありました。

やはり閲覧は無理のようです。
[30]花月さんからのコメント(2003年08月03日 12時15分01秒 ) パスワード
  

takahiro様
いろいろお教え頂きありがとうございます。
お忙しいのは、私ではなくtakahiro様の方なのに。

壬申戸籍の件、大変よく分かりました。
これには、エタとか非人とかだけでく犯罪記録も残っているのですね。
きっと、同和問題(この字でよかったかしら)そういうことも関わってくるのでしょうね。

族称が通信簿や卒業証書に記載されているなら、大正生まれの親戚では、確実に載っていますよね。是非、お盆の時に聞いてみます。

また、神奈川県の鈴木家で関係あるか、何かご存知かもしれない家に出す手紙のアプローチ法まで教えて頂き感激です。大変参考になりました。
今度、お盆で実家に帰った時、電話帳もらってこよう!と思います。

また、祖母の家の姓を『神奈川県姓氏家系大辞典』で何気なく見たら、こちらは、ナント!バッチリ載っていました。

私の父は、母方の従兄弟として、つきあいがあったようですが、
私たちの代になると、まるでつきあいはありません。
父の従兄弟にあたる人達も、もう70を超えていますから、今どうしているのか・・・。

近くお盆で帰った時、もう一つ調べてみたいことがあります。
宗門人別帳 というのを探してみたいと思っております。

お忙しい中、いろいろありがとうございました。

             花月
[31]takahiroさんからのコメント(2003年08月04日 00時40分01秒 ) パスワード
  

>族称が通信簿や卒業証書に記載されているなら、大正生まれの親戚では、
>確実に載っていますよね。是非、お盆の時に聞いてみます。

http://www.houryou.org/m2-case.html

一例ですが、上記に戦前(昭和14年)の通知簿が紹介されています。


前の方で記載されていましたが、花月さまの御本家の蔵は横浜市から保存
指定され、開かずの蔵になっているとのこと、もし市に申請し蔵の中の文
書の閲覧が可能となれば、様々な事が判明するのでしょうね。

もしかすると家系図もこの中に納められたままになっているかも知れない
ですね。(江戸期、あるいはそれ以前の古い文書が納められている可能性
も高いと思います。)
[32]花月さんからのコメント(2003年08月22日 20時52分15秒 ) パスワード
  

みなさま今晩は ご無沙汰しておりました花月です。

今回お盆で実家に行ってきました。
少々分かったことがありましたので、ご報告及び、どうぞご教授お願い致します。

まず、待望の家系図は、今は大叔父が持っているとのことでした。
地形的に距離が離れているもので今回は見ることはできませんでしたが、
なにはともあれ、家系図が存在した!ということが嬉しい発見でした。

菩提寺に行ってきました。たくさんのご先祖様にお会いできました。
私は初めて知ったけど、向こうは私の事をご存知のご先祖様。
お線香を上げさせて頂きました。
吉宗公の頃からのお墓がありました。

そして、とても意外だったのは、鈴木家の本家と言われていましたが、 
『○○にある〜〜さんのところの鈴木さんから分かれたと聞いておりますが』とのお寺さんの言葉。へぇ〜〜。
〜〜さんの家は今もとても広い土地をお持ちの御家です。

『いや、うちが本家だ』と言う親戚には
むこうが宗家で、うちが(袂を分けた)本家と言えば皆納得するかな(苦笑)と思いました。
そして意外に、自分の家のルーツに興味ないんですよね、皆様。(-_-;)

それから、一番ビックリしたのは家紋を代々の墓石でマジマジと見た時です。今まで揚羽蝶としか聞いてなかったのですが、見なかった私がアホでしたが
揚羽蝶の上を五環で巻き、更にその上を五瓜で飾った揚羽蝶でした。
これは・・・見たことナイ!

親戚のお話では『珍しいんだよね、本とかに載ってないし」

確かに今まで見たことない。早速図書館に行き、日本家紋総鑑という本で似たものを目にすることができました。

そこで234種類にも及ぶ蝶紋のバリエーションを見て、
またまたハッ(゜o゜)と気づいたのは、同じ蝶でも、顔も羽の上げ方、例えば前傾や真っ直ぐ、後傾などや交差してる羽の見え方や模様などが違うんですね!

これは以外や意外。
今まで、蝶の周りの輪くらいしか見ていませんでしたから。

『姓氏家系大辞典・神奈川県版』では、対い揚羽蝶などの明らかに違う蝶以外は
揚羽蝶と丸に揚羽蝶の二つで、
例えば丸に揚羽蝶の中に『織田』と書かれていますが
家紋総鑑の中の織田家の揚羽蝶は触覚の形から足の形、数、羽の模様などが、違います。う〜ん(@_@;)

家紋総鑑の中で

我が家のご先祖さまのお墓の家紋に蝶自体がそっくりなのは、

○石持ち地抜き揚羽蝶・・・美濃国土岐郡池田より起こる清和源氏土岐士族と紀士臣族がある・・・)

周りに五環がある唯一は
○細五つ環に揚羽蝶・・・ 森氏 藤原氏秀郷流 

周りに五瓜がある唯一は
○五瓜に揚羽蝶・・・ 池田氏 因幡国鹿野藩大名家の紋

他なんとな〜く全体的に蝶の形が似ているのは
○揚羽蝶・・・ 関氏

でした。

うう〜ん。皆様ならどう推測なされますでしょうか。

全く同じものが無いということは、区別させるためにバリエーションをつけたと思いますが、それがどこの家なのか。

今回、歴史博物館などいろいろまわりましたが、家に戻り皆様から頂いたレスを今一度読み返し、その推測の鋭さにあらためて驚きました。

お時間ある時にでも、またお教え下さいませ。
よろしくお願い致します。 <m(__)m>
[33]花月さんからのコメント(2003年08月22日 21時11分30秒 ) パスワード
  

またまた花月です。

今回、もう一つ分かった事は、うちは
『平家』ということでした。それは叔母が『うちは平家ですよ。』
と教えてくれました。

私の知らない代に今の神奈川県藤沢市の大庭や鎌倉にも親戚はたくさんありました。

また、味の素の鈴木家の方とは、父の大学の時の学友ということでした。
が今となっては父も亡くなり、親戚にも確認できなかったので、母の「たぶんそうなんじゃないかしら?」という話でしたので、真実は今一つナゾのベールの中です。(^.^)
今回お寺には訪ねることができませんでした。次回は彼岸を狙っております。

でも、平家で良かった。
[34]takahiroさんからのコメント(2003年08月23日 06時59分43秒 ) パスワード
  

花月さま

 コメント興味深く拝見致しました。

 お盆で一族が集まられた事によりとても多くの情報を得られているのですね。今後ひとつひとつの情報を吟味していかれれば、より多くの今宿鈴木家の由緒が明きらかになっていく事と思います。また私なりに解釈ができればコメントさせて頂きます。

 何より家系図の所在が明らかになられた事が大きいと思います。

 そしてやはり平家の流れを汲まれているとの事、より詳細が判明なされましたなら、是非お教え頂きたく、楽しみにしております。

 またゆっくりとコメント致します。
[35]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年08月23日 09時40分35秒 ) パスワード
  

花月さま

<33>の書き込み
味の素の前までの書き込み
全身
鳥肌が立ちました。

もう言葉も無い・・・ありさま・・・


蝶の紋に「平家時代の想い」が刻まれているのでしょうね。
大庭や伊東家との係わりやその後の伊勢の北条氏の歴史とアイデンティティ
そうしますとまたまた伊豆時代の鈴木家というのが出てきそう。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年10月11日 07時11分52秒 ) パスワード
  

不謹慎で申し訳ないのですが伊豆のスズキ家のホンヤさんかもです:


http://www.mainichi.co.jp/news/journal/photojournal/archive/200310/11/101030-1.jpg

静岡県韮山町中の鈴木治良さん宅だそうです。
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